鬼和尚に聞いてみるスレ part8 (1001レス)
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295
(5): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/11(土)21:13 ID:1d4drIFg0(1/150) AAS
やっと引越しが終わったのじゃ。
プロバイダーも変えてみたのじゃ。
いろいろ聞くとよいのじゃ。
307: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/12(日)22:05 ID:1d4drIFg0(2/150) AAS
>>296>>297>>298>>299>>300 ただいまなのじゃ。

>>301 本来の自分などないのじゃ。
 それも今の自分を手放す恐れを無くすための方便なのじゃ。
 自他の観念が無ければ他人の苦は自分の苦であり、他人の喜びは自分の喜びであるのじゃ。
 それが慈悲と呼ばれるのじゃ。

 ハイアーセルフなどもないのじゃ。
 それは大抵他人と共有する意識なのじゃ。
省6
308
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/12(日)22:18 ID:1d4drIFg0(3/150) AAS
AA省
317
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/13(月)21:27 ID:1d4drIFg0(4/150) AAS
>>309 そうじゃ、その方が近道なのじゃ。
 全ての本心を観察していればきりがないからのう。
 自分を追及すれば観られるのじゃ。

>>310 どういたしまして、またおいでなさい。

>>311 そうじゃ、そのような理解で゜よいのじゃ。
 自我は名称とイメージによる観念なのじゃ。

 わしは動かないのじゃ。
省4
319: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/13(月)21:43 ID:1d4drIFg0(5/150) AAS
>>313  善い観察なのじゃ。
 かなり進んでいるのじゃ。
 観察を続ければ更に多くの気付きがあるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>314 どういたしまして、またおいでなさい。

>>315 例えば服を着ているならば背中に接触する感覚がわかるじゃろう。
 それを感じていることを観察するのじゃ。
省7
329: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/14(火)21:53 ID:1d4drIFg0(6/150) AAS
>>318>>320 自我が観られるのじゃ。
 そしてそれは観念でしかなかったと気付くのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>321 それも可能じゃろう。
 催眠術や暗示やアファメーションとかでもできるのじゃ。
 
 その方法でもよいのじゃ。
省9
330
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/14(火)22:03 ID:1d4drIFg0(7/150) AAS
>>324 違うのじゃ。
 解体しなくても自我が観られたならば厭離はされるのじゃ。
 
 そうじゃ、集中は悟りではないのじゃ。

 自我は観念であるから完全に観察されればそれは観察対象として自己同一化がなくなるのじゃ。
 しかしそれはまだ無我の小悟なのじゃ。
 そして認識をも厭離すれば大悟徹底なのじゃ。
省2
331: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/14(火)22:08 ID:1d4drIFg0(8/150) AAS
>>326 そのような理解でよいのじゃ。
 厭離が起こるまで実践あるのみなのじゃ。

>>328 枕は使わないのじゃ。
 しかしおぬしが使わないと寝られないというならば使うとよいのじゃ。
 それがおぬしに合っているならば向いているのじゃ。
 全ておぬし自身の最適なやり方にあわせるのじゃ。
 自分がやり易い方法が一番なのじゃ。
省2
343
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/15(水)21:06 ID:1d4drIFg0(9/150) AAS
>>332 そのように自我と思っているものは何か観察してみるのじゃ。
 永続する主体と認識しているものを観察してみるのじゃ。
 いかなる見解にも囚われず常に新しいことを見つけようと注意するのが観察なのじゃ。

>>333 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>334 >>278>>279 観照とは自我を見ることなのじゃ。
 観察によって自我に気付くことを特に観照と呼ぶのじゃ。
省20
345
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/15(水)21:30 ID:1d4drIFg0(10/150) AAS
>>339 とらえどころの無い心を観察するためにお釈迦様は縁起の法を教えられたのじゃ。
 例えば名前を呼ばれたらそれによって起こるのが自己イメージなのじゃ。
 それを名前を聞くことで自己イメージが起こったと観察するのじゃ。
 悪口で怒りが起こるのも傷ついた自己イメージが起こるからなのじゃ。
 ほめられたら喜ぶのもよい自己イメージが起こるからなのじゃ。
 そのように自己イメージは言葉によってさまざまに変化して起こるものじゃ。
 それをありのままに観察するとよいのじゃ。
省14
353: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/16(木)21:28 ID:1d4drIFg0(11/150) AAS
>>346 そうじゃ、自我は認識されている観念に過ぎないのじゃ。
 それを過って自我が認識の主体と思っているのじゃ。
 それに気付くのじゃ。

>>347 そうじゃ、自我は刹那に起こる観念なのじゃ。
 それが原因によって起こる瞬間が見られれば消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>348 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
省1
354: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/16(木)21:43 ID:1d4drIFg0(12/150) AAS
>>349 どういたしまして、またおいでなさい。

>>350 正しい方法とは本心を観ることなのじゃ。
 本心を観ずに偽りの心や観念を観ていたらそれに囚われてしまうのじゃ。
 そして驕り昂ぶり本人も周りの者も惑わすことになるのじゃ。

 動機が邪ならばもはや修業ともいえないのじゃ。
 金儲けや名声のために悪事をしているのと同じなのじゃ。
 そのように注意するとよいのじゃ。
省3
367: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/17(金)22:13 ID:1d4drIFg0(13/150) AAS
>>355 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>356 観照とは自我を観ることなのじゃ。
 観ているときはあるじゃろう。
 観ることでそれが観念に過ぎなかったと気付いて厭離されるのじゃ。
 
>>357 エネルギーなどないのじゃ。
省7
368
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/17(金)22:19 ID:1d4drIFg0(14/150) AAS
>>359 そうじゃ、そのようなものじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>363 両方やるとよいのじゃ。
 瞑想している時も、日常も自分を追及すれば進歩も早いのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>364 そうじゃ、そのようなものを昔から野狐禅とか言ったりするのじゃ。
  勝負に勝つためとかも悪いことになるのじゃ。
省9
376
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/18(土)22:20 ID:1d4drIFg0(15/150) AAS
>>369 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>377 そうじゃ、いろいろ試して見るのじゃ。
 またおいでなさい。

>>371 それも原因から追求すればなくなるじゃろう。
 お金が無くて苦労したとか、親からお金は大事だと教えられてきたとかの原因が有るじゃろう。
 そのような原因からお金に対する執着があり、それがなければお金に対する執着も無いと心を観るのじゃ。
省4
377
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/18(土)22:25 ID:1d4drIFg0(16/150) AAS
>>373 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>374 そのような理解でよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践によって確めるのじゃ。

>>375 実践するのはよいのじゃ。
 それを以って自分は悟りのための修業をしているとするのはいかんのじゃ。
省5
382
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/19(日)21:41 ID:1d4drIFg0(17/150) AAS
>>378 合っていればお金への執着はなくなるじゃろう。
 なくならなければ違うのじゃ。
 観察が完全になればそれも消えるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>379 そのような理解でよいのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
省7
385: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/20(月)20:43 ID:1d4drIFg0(18/150) AAS
>>383 そうじゃ、数息観は集中の行なのじゃ。
 自分を追及するのは観察の行なのじゃ。
 集中して雑念が無くなった状態で自分を追求するとよいのじゃ。
 それが止観の修行なのじゃ。

>>384 善かったのじゃ。
 またおいでなさい。
390: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/21(火)21:17 ID:1d4drIFg0(19/150) AAS
>>386 そうじゃ、それこそが観察の行そのものなのじゃ。
 常に本心を観察するならば、正しく観察ができたといえるのじゃ。
 偽りの心を観察すれば正しくは無いのじゃ。
 そのように注意して実践するのじゃ。

>>387 そうじゃ、本当は自分に合わない嫌な仕事を無理にすれば心身ともに疲弊するじゃろう。
 結局体を壊したりして辞めて別の仕事を探す遠回りになってしまうのじゃ。
 自分の性質を知り、少しでも興味が持てる仕事をすれば、楽しくやれて心身も快調になるのじゃ。
省8
397
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/22(水)22:22 ID:1d4drIFg0(20/150) AAS
>>391>>392 そうじゃ、何でも聞くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>393 そうじゃ、無心に観察すると善いのじゃ。
 そして新しい何かを発見しようと努めるのじゃ。
 今までわからなかったことにも気付くじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>394 集中すればできるのじゃ。
省5
401
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/23(木)22:06 ID:1d4drIFg0(21/150) AAS
>>398 クンダリニーがあがれば自然にサマーディに入れるのじゃ。
 それによって我を忘れられるのじゃ。
 何度も味わえば無我への恐れも薄らぐかもしれん。
 精進あるのみなのじゃ。

>>399 どういたしまして、またおいでなさい。

>>400 それに依存していたからじゃろう。
 執着する者が無くなれば苦が起こるものじゃ。
省7
406: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/24(金)20:55 ID:1d4drIFg0(22/150) AAS
>>402 やろうとおもえばできるじゃろう。
 無意味であるからやらないであろうがのう。

>>403 そのように感じるならばそれでよいのじゃ。
 自分のやり易いようにみるがよいのじゃ。
 それが一番なのじゃ。

>>404 そうじゃ、なんでも実践するとよいのじゃ。
 またおいでなさい。
省4
410: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/25(土)21:51 ID:1d4drIFg0(23/150) AAS
>>407 そうじゃ、それも執着なのじゃ。
 善い気付きなのじゃ。
 既に苦が離れてきたようじゃ。

 そうじゃ、永遠の安楽を目指して精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>408 どういたしまして、またおいでなさい。

>>409 全て正しい訳ではないのじゃ。
省4
412: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/26(日)21:43 ID:1d4drIFg0(24/150) AAS
>>411 それは修業する者の性質とか上達で変るものじゃ。
 最初は朝と夜に五分やる程度でよいのじゃ。
 よく眠れるようになるじゃろう。
 なれてきたら10分ぐらいにふやすのじゃ。
 さらに上達して長く座っているのが苦にならなくなったら20分位にすると善いのじゃ。
 それからは観察もしてみると善いのじゃ。
 たまに長くやるよりは五分でもよいから毎日やるのがよいのじゃ。
省1
418
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/27(月)22:14 ID:1d4drIFg0(25/150) AAS
>>413 わしは観察をしていなかったのじゃ。
 経典を読んでいて観照が起こったのじゃ。
 悟った後にお釈迦様が止観を説いていたと知って観察を勧めたのじゃ。
 
>>414 やってみるとよいのじゃ。
 それが合っているかもしれんのじゃ。
 自分にやり易いように法を実践するとよいのじゃ。
省5
419: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/27(月)22:17 ID:1d4drIFg0(26/150) AAS
>>416 何度でも聞いてよいのじゃ。
 そうじゃ、別にやるとよいのじゃ。
 上達したら一緒にやる方法もできるのじゃ。
 最初は別々にやらないと何をやっているのかわからなくなるのじゃ。

>>417 続けてやったほうがよいのじゃ。
 心が集中しているからのう。
 雑念も少なく観察もはかどるのじゃ。
省1
424
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/02/28(火)22:10 ID:1d4drIFg0(27/150) AAS
>>420 同じなのじゃ。
 観察も五分でよいのじゃ。
 日常でも特に時間を決めずに自らの心を観察すると善いのじゃ。
 そうすれば上達も早いじゃろう。

>>421 どういたしまして、またおいでなさい。

>>422>>423 もはや無いのじゃ。
 自ら実現していくことだけが残っているのじゃ。
省2
430: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/01(水)22:10 ID:1d4drIFg0(28/150) AAS
>>425 おぬしが諦めたりしたらおきるかもしれん。
 おぬしが誰かを教えたらその誰かが又誰かを教え、智慧と慈悲の絆が途絶える事無く繋がっていくのじゃ。
 そして多くの者が賢い選択和するようになり、災いも防げるのじゃ。
 おぬしがもはややっていられないと諦めたら、人々は自らを破壊する道を良いものと思って選択してしまうじゃろう。
 全て今のおぬしの選択にかかっているのじゃ。

 すでに今ここが先頭なのじゃ。
 人々の心に慈悲と智慧の種を植えることによってのみ、世界は変るのじゃ。
省11
438
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/02(木)22:10 ID:1d4drIFg0(29/150) AAS
>>431 どういたしまして、またおいでなさい。

>>432 そうじゃろう。
 忘我でそのような悪事をするとは思えんがのう。
 忘我になれば無意識の動作以外はできないのじゃ。
 恐れずに進むがよいのじゃ。

>>434 そうじゃ、実践するものだけが進んでいくのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
省3
439
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/02(木)22:20 ID:1d4drIFg0(30/150) AAS
>>436 助けてやるのじゃ。
 後にはおむすびでもおいておくのじゃ。

>>437 腰痛のようなものには指圧とか整体が効くのじゃ。
 自分でも周辺の凝っているところなどをもんだりさすったりしてみるのじゃ。
 やわらかくなれば治るのじゃ。
 人体は大方水でできており、流していけば大抵治るのじゃ。
 争わずに流れていくのじゃ。
省6
445
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/03(金)21:24 ID:1d4drIFg0(31/150) AAS
>>440 一瞥ではないのじゃ。
 無我に至ったのじゃ。
 まずは自我を滅しなければ無認識には至れないのじゃ。
 
 一瞥とは文字通り一瞬で終わるものじゃ。
 観照はもはや自我は滅してその状態が終わらないのじゃ。
 
省6
446
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/03(金)21:27 ID:1d4drIFg0(32/150) AAS
>>443 どうにもしないじゃろう。
 説教してやるのじゃ。
 
>>444 認識の前には感覚の刺激があるのじゃ。
 何も無くてよいのじゃ。
 何かがなくてはならないということもないのじゃ。
 無いのならば無いということををありのままに観るのじゃ。
省1
450
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/04(土)21:34 ID:1d4drIFg0(33/150) AAS
>>447 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>448 観照とは自我を観ることであり、それができたならばもはや自我は永遠になくなるのじゃ。
 時間がたてば戻ってくるものではないのじゃ。
 時間がたって戻ってくるならばそれは忘我であり、自我をひと時忘れていただけなのじゃ。
 それにょって一瞥もできるのじゃ。
 しかし時間がたてば自我は戻ってしまうのじゃ。
省4
456
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/05(日)21:28 ID:1d4drIFg0(34/150) AAS
>>451 善いことじゃ。
 楽しんでやることが一番よいのじゃ。
 どんどん実践するとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>452 あけていてよいのじゃ。
 目に見えるものや、観るという事も観察できるのじゃ。
 実践してみるのじゃ。
省9
463
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/06(月)22:08 ID:1d4drIFg0(35/150) AAS
>>457 心身の全てを観察し尽くせば自然に自分が観察できるじゃろう。
 それらに自我は投射されているのであるからのう。
 心身を観察するのも自分を追求するのも自我を観察して厭離するためなのじゃ。
 それら全ては本心を観察することでできるものじゃ。
 偽りを観察していては永遠に自我は観察できないのじゃ。

>>458 そのような観察でよいのじゃ。
 いずれ更に何か気付くことがあるかもしれん。
省12
472: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/07(火)22:07 ID:1d4drIFg0(36/150) AAS
>>464>>465>>470 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>466 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>467 好悪の判断はさの顔を見分けてから起こるじゃろう。
 心の働きはそのように続いて起こるものじゃ。
 それがお釈迦様の言う縁起なのじゃ。
省3
473
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/07(火)22:12 ID:1d4drIFg0(37/150) AAS
>>469 そのような瞬間は意識せずに起こるものじゃ。
 何かをしようとしていたら自我が投射され、観ることはできないのじゃ。
 常に真実を求めていたとはいえがのう。

 一瞥とは自我を忘れたときに起こるものじゃ。
 観察された瞬間とは明白に違うのじゃ。
 
>>471 自我がみえやすくなるからなのじゃ。
省3
479
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/08(水)22:13 ID:1d4drIFg0(38/150) AAS
>>474 見える可能性は高いのじゃ。
 特に忘我から自我が思い出される瞬間、最も自我を捉えられる可能性が高いのじゃ。

 全ての瞑想はそのためにあるものじゃ。
 集中によって自我を忘れ、自我を捉えるために瞑想をするのじゃ。
 それによって悟りを得ることも可能になるのじゃ。

>>475 違いはあるじゃろう。
 既にサマーディに入っていても、やはり瞑想を続ければ更に進歩していくのじゃ。
省13
485
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/09(木)21:50 ID:1d4drIFg0(39/150) AAS
>>480 ならないのじゃ。
 それは単に深い意識にたどり着いただけなのじゃ。
 それからさらに心身を観察するのじゃ。
 そうすれば自我も観察できるのじゃ。
 
>>481 違うのじゃ。
 それは思考が見えたのじゃ。
省13
494
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/10(金)22:36 ID:1d4drIFg0(40/150) AAS
>>486>>489>>491 そうじゃ、思考とは認識されたものなのじゃ。
 自我は認識されている観念なのじゃ。
 思考すればそこに自我の観念が投射されるのじゃ。
 そして自分が思考していると誤って認識されるのじゃ。

>>487 1 その時自分というものが忘れられているならば忘我なのじゃ。
 まだあるならば忘我ではないのじゃ。

 2 その意識は集中の結果たどり着いたものなのじゃ。
省17
503
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/11(土)22:42 ID:1d4drIFg0(41/150) AAS
>>495 認識と気付きは違うものじゃ。
 認識に依って気づきはあるのじゃ。
 ものごとの真実にたどり着いた時に気付いたと人はいうのじゃ。
 認識は間違っていても認識なのじゃ。
 そのように理解すると善いのじゃ。

>>496 1 そうじゃ、集中した後に観察すると善いのじゃ。

 2 自我を思い出してよいのじゃ。
省14
504: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/11(土)22:48 ID:1d4drIFg0(42/150) AAS
>>499 お釈迦様や目覚めた者たちが説いた方法なのじゃ。
 瞑想とか観察とか観想とかなのじゃ。
 全ての修行法はありのままに本心を観ることが出来無い者のための方法なのじゃ。

>>500 そうじゃ、本心を観なくては何もならないのじゃ。
 本心でなければ偽りの心を観ていることになるからのう。
 偽りの心を観て悟ったとか言っても全て嘘なのであるから何にもならないのじゃ。

>>501 そうじゃ、カルマも自らの心から来る観念による報いを説明するために創られたものであるからのう。
省5
508
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/12(日)20:11 ID:1d4drIFg0(43/150) AAS
>>505 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>506 自分を追及する時にも本心を観察しなければならないのじゃ。
 うその自分を追及しても何の意味もないのじゃ。
 自分とは何か本当に感じていることを追求すれば本心を観察して自分を追及していることになるのじゃ。

>>507 そのような言い回しは気付くことに主体を投射しているのじゃ。
 
省5
515: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/13(月)21:48 ID:1d4drIFg0(44/150) AAS
>>509 善かったのじゃ。
 チャンスを逃さず実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>510 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>511 それでよいのじゃ。
 自我か消えると思えば誰でも恐れを生じるものじゃ。
省4
516: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/13(月)22:00 ID:1d4drIFg0(45/150) AAS
>>513 それは段階ではないのじゃ。
 悟った後に他人と話すためにつくるものなのじゃ。
 悟っても他人に教えを説かない者はつくらないのじゃ。
 無為のまま涅槃に至るのじゃ。

>>514 諸行無常とは修行者に世間の虚しさを教えるために説かれたものじゃ。
 それもまた固定した観念として受け取るべきではないのじゃ。
 いかだの例えにあるように悟りに至るには法をもいずれは捨てるべきなのじゃ。
省1
519
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/14(火)21:32 ID:1d4drIFg0(46/150) AAS
>>517 それでよいのじゃ。
 呼吸に集中するために数えるのじゃ。
 呼吸に集中できるようになったならば数えなくとも善いのじゃ。 
 実践あるのみなのじゃ。

>>518 無我でもつくれるじゃろう。
 意味は無いがのう。
 悟った者が他人に話をするためにつくるものなのじゃ。 
省1
527
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/15(水)21:35 ID:1d4drIFg0(47/150) AAS
>>520 こちらこそよろしくなのじゃ。

>>521 そうじゃ、そのまとめでよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>522 集中の役には立つじゃろう。
 好きなことはどんどんやったらよいのじゃ。
 努力は無駄にならないのじゃ。
省10
528: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/15(水)21:46 ID:1d4drIFg0(48/150) AAS
>>525 それも言葉とイメージによる観念なのじゃ。
 自分の名前とイメージを使っているならば自然に慣れてくるものじゃ。
 特に作り方がある訳ではないのじゃ。む

>>526 執着があるのかもしれん。
 ただ単に姿勢が悪いからかもしれん。
 座っていられる限界近くまで力を抜くと誰でもサマーディに入れるものじゃ。
 そのためには姿勢が正しくなければならんのじゃ。
省2
534
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/16(木)21:58 ID:1d4drIFg0(49/150) AAS
>>529 そうじゃ、まだ自分という観念が残っているのじゃ。
 その投射する所が違うだけなのじゃ。

 クリシュナムルティもその時にはまだ悟っていなかったのじゃ。
 
>>530 例えば自分の名前が呼ばれたらそれを自分が呼ばれたとして返事をするとかなのじゃ。
 自分のイメージも度々思い出したりするのじゃ。
 そうすれば慣れてきて自分の観念を上手く使えるようになるのじゃ。
省7
539: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/17(金)22:40 ID:1d4drIFg0(50/150) AAS
>>535 無常は別に要らないのじゃ。
 それは世間を捨てるための法であるからのう。
 無我になり、無認識に至れば大悟徹底なのじゃ。
 止観もそのための法なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>536 どういたしまして、またおいでなさい。

>>537 そうじゃ、観念を持つだけであるから簡単なのじゃ。
省4
542
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/18(土)21:56 ID:1d4drIFg0(51/150) AAS
>>540 無我でも観念はあるからそのまま死なないのじゃ。
 無認識になった後に教えを説くならばそうなるじゃろう。
 実践によって証明するのじゃ。

>>541 全て忘れたのじゃ。
 懺悔告白すれば全て許されるのじゃ。
 これからは善事を積むとよいのじゃ。
 更に悟りを求めて修業するとよいのじゃ。
省1
544: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/19(日)21:32 ID:1d4drIFg0(52/150) AAS
>>543 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
548: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/20(月)21:46 ID:1d4drIFg0(53/150) AAS
>>545 無我になればむしろものごとはうまくやれるようになるのじゃ。
 自我の邪魔がないからのう。
 実践によって確めるのじゃ。
550: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/21(火)20:36 ID:1d4drIFg0(54/150) AAS
>>549 それは人によって違うじゃろう。
 意欲や才能も違うからのう。
 お釈迦様は七日間座り続けて悟ったのじゃ。
 悟りを得るためならば命も要らないという熱意で座れば七日で十分なのじゃ。
 自らの熱意によって決めるのじゃ。
555
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/22(水)21:47 ID:1d4drIFg0(55/150) AAS
>>551 そうじゃ、自らの意志で決めるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>552 そうじゃ、人は条件付けなどで自由意志がかなり制限されているのじゃ。
 しかしよく考えて道を選ぶことも出来るのじゃ。
 大体2%ぐらいは自由意志はあると考えてよいのじゃ。
 真実を受け入れて学べば環境や条件付けに左右されずに自分の意志を発揮できるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
省5
558: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/23(木)21:34 ID:1d4drIFg0(56/150) AAS
>>556 善かったのじゃ。
 またおいでなさい。

>>557 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
565
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/24(金)23:04 ID:1d4drIFg0(57/150) AAS
>>559 そうじゃ、そうしていれば向こうから悟りはやってくるじゃろう。
 自分に気付くのじゃ。
 観ようとすれば観えるのじゃ。

>>560 悟っていたじゃろう。
 死ぬときは死ぬが善いのじゃとかいっていたのじゃ。
 その通りじゃ。

>>561 悟ってはいないようじゃ。
省10
566
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/24(金)23:10 ID:1d4drIFg0(58/150) AAS
>>563 動中の工夫とは日常生活でも集中することなのじゃ。
 掃除でも洗濯でも常に心がけて集注していれば進歩も早いというのじゃ。
 観察も日常でやれば早いのと同じことなのじゃ。
 日常の一切が修業となるのじゃ。

>>564 法句経、ダンマパダをよむとよいのじゃ。
 わからなくとも読み返せば理解できるようになるのじゃ。
 古本で買うとやすいのじや。
572: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/25(土)20:47 ID:1d4drIFg0(59/150) AAS
>>567>>570 そうじゃ、自分に気付くのじゃ。
 自分とは何か?
 何を自分と認識しているのか観察によって気づくのじゃ。
 それだけで変容は始まるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>568 そうじゃ、読んでみるとよいのじゃ。
 またおいでなさい。
省4
575: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/26(日)21:38 ID:1d4drIFg0(60/150) AAS
>>573 そうじゃ、自分とは何か観察してみるのじゃ。
 そうすれば悟りはやってくるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>574 その私が起こることをよく観察してみるのじゃ。
 それが観察できれば私が滅するじゃろう。
 無我によって認識も観察できるようになるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
579
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/27(月)21:28 ID:1d4drIFg0(61/150) AAS
>>576 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>577 認識は捉えていないのじゃ。
 私が観えるならばそれを更に詳しく観察するのじゃ。
 そうすれば自然に無我になるじゃろう。
 認識は私が消えた時に観えるようになるのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
省5
585: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/28(火)21:18 ID:1d4drIFg0(62/150) AAS
>>580 どういたしまして、またおいでなさい。

>>581 そうじゃ、善いものじゃ。
 どんどん読むと善いのじゃ。
 またおいでなさい。

>>582 それは観察方法の一つに過ぎないのじゃ。
 縁起によって苦を全体的に観察する方法なのじゃ。
 それが困難ならば別の方法で観てよいのじゃ。
省10
588: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/29(水)22:11 ID:1d4drIFg0(63/150) AAS
>>586 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>587 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。
591
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/30(木)21:47 ID:1d4drIFg0(64/150) AAS
>>589 悟っていないのじゃ。
 行者じゃな。

>>590 それは観察をすればわかるのじゃ。
 目や耳や鼻や舌やひふの感覚についてそれぞれ詳細に観察すれば、それが自分ではないと気付くじゃろう。
 仏教ではそれらと心の感覚について六の感覚器官とそれぞれの感覚について観察するようにと教えているのじゃ。
 目と目による視覚について観察する。
 耳と耳による聴覚について観察するというようにのう。
省1
595
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/03/31(金)21:45 ID:1d4drIFg0(65/150) AAS
>>592 者に触ったら物に触ったと観察すればよいのじゃ。
 触らなくなったら触らなくなったとありのままに観察するのじゃ。
 感じることがあればそれもありのままに観察すればよいのじゃ。
 切り離さなくてよいのじゃ。
 触ったときに自分の存在を感じるとありのままに観察するのじゃ。
 そうすれば自分の存在は自然に厭離されるのじゃ。
 切り離そうとか、切り離さなくてはならないとか、そのように思っていると観察は不完全になり、厭離も起こらないのじゃ。
省10
601
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/01(土)21:33 ID:1d4drIFg0(66/150) AAS
>>596 どういたしまして、またおいでなさい。

>>597 そうじゃ、ありのままを観るのじゃ。
 またおいでなさい。

>>598 1自分とは何かを観察していれば自我に気付くじゃろう。
 自我とは自分という観念であるからのう。

 2 なるじゃろう。
  何かと観察することが追求することであるからのう。
省4
606: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/02(日)22:17 ID:1d4drIFg0(67/150) AAS
>>602>>603 そのような目的はないほうがよいのじゃ。
 
 目的を持てば観念を作り出してしまうかもしれんのじゃ。
 自我はただひたすらに観察して気付くものであるからのう。
 何度でも訊くとよいのじゃ。

>>604 自分がやり易い方法でよいのじゃ。
 続けてみて進んでいくところまで行くのじゃ。
省6
609: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/03(月)21:08 ID:1d4drIFg0(68/150) AAS
>>607 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>608 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。
611: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/04(火)20:43 ID:1d4drIFg0(69/150) AAS
>>610 時間は測っていなかったのじゃ。
 好きなだけ瞑想していたのじゃ。
 あとは経を読んでいたのじゃ。
614: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/05(水)21:08 ID:1d4drIFg0(70/150) AAS
>>612>>613 それも特にこの日から修行しようと決めたわけではないからわからんのじゃ。
 大体十年ぐらいじゃろう。
618
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/06(木)21:44 ID:1d4drIFg0(71/150) AAS
>>615 そうじゃ、精進あるのみのじゃ。
 またおいでなさい。

>>616 密教は神仏との一体化を修行する体系なのじゃ。
 その素質のあるものには速やかにサマーディに至れるのじゃ。
 空海とかもそうだったのじゃ。
 真摯に悟りを目指せばそれでも悟りを得られるものじゃ。
 チベットのミラレパなどは密教で悟りを得たのじゃ。
省4
622: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/07(金)21:09 ID:1d4drIFg0(72/150) AAS
>>619 そうじゃ、集中とは関係ないのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>620 そうじゃ、道はいろいろあるものじゃ。 
 自分にあった道を探すのじゃ。
 またおいでなさい。

>>621 乖離とか客観視とかいわれるのう。
省2
625: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/08(土)21:49 ID:1d4drIFg0(73/150) AAS
>>623 歩いているのじゃ。
 おぬしも歩くとよいのじゃ。
 散歩をしながら首の運動などもすると健康になるのじゃ。
 走ると死ぬ者も居るから歩くのが一番なのじゃ。
 
>>624 五分でも毎日やったほうがよいのじゃ。
 しかし休みたいときは休んでよいのじゃ。
省2
629: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/09(日)22:07 ID:1d4drIFg0(74/150) AAS
>>626 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>627 アートマンとは悟りを得るための方法なのじゃ。
 アートマンを実践してブラフマンに至るのじゃ。
 月と月をさす指のようなものじゃ。
 最後には全てが一つと知れるのじゃ。
630: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/09(日)22:08 ID:1d4drIFg0(75/150) AAS
>>628 ご苦労さんなのじゃ。
634
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/10(月)21:01 ID:1d4drIFg0(76/150) AAS
>>632 そうじゃ、それがアートマンなのじゃ。

 おぬしとは観念なのじゃ。
 名前とイメージだけのものなのじゃ。
 それに気付けば観念は無くなるのじゃ。
 人間というのも観念なのじゃ。
 あるといえるのは意識だけなのじゃ。

>>633 どちらも効果は無いのじゃ。
省5
644
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/11(火)21:00 ID:1d4drIFg0(77/150) AAS
>>635 どういたしまして、またおいでなさい。

>>636 それは正しい修業をしているかとか、本人の熱意によるのじゃ。
 正しい止観を行い、死んでも悟りを得たいという熱意があれば三年でも悟れるじゃろう。
 しかし、正しい止観を知らず、熱意も無いならば何年修業しても悟りは得られないのじゃ。
 昔は止観の正しい方法も伝わらなかったために何十年と修業しても悟れなかった者も多いのじゃ。
 止観の止である集中の行だけでも熱意があれば十年ぐらいで悟れるものも居たのじゃ。
 既に正しい止観の方法を実践し熱意があれば簡単に悟りは得られるじゃろう。
省6
646
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/11(火)21:13 ID:1d4drIFg0(78/150) AAS
>>640 善事は他人のために行うことなのじゃ。
 家族とか仕事仲間とかに優しいことばをかけたりするのも善事なのじゃ。
 無財の七施とかを実践してみるのじゃ。

>>641 わしは財福を望まないからなのじゃ。
 資産を積み上げて金持ち父さんになる実践中なのじゃ。
 それも衆生の為に試しているのじゃ。

>>642 集中が強くなるほど逆にリラックスしなければならんのじゃ。
省5
647
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/11(火)21:15 ID:1d4drIFg0(79/150) AAS
>>645 そうじゃ、それでも無理ではないがかなり時間がかかるのじゃ。
 才能も必要なのじゃ。
 止観によってこそ悟りも速やかに得られるのじゃ。
656
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/12(水)21:30 ID:1d4drIFg0(80/150) AAS
>>648 今わしがしている善事で金持ちになったら、わしにしか出来ない方法になるのじゃ。
 誰にでも出来る方法でなければ人には教えられないのじゃ。
 実際に善事と報いに関係なく資産を積み上げてこそ、誰でも資産を積めば金持ちになるという証明になるのじゃ。
 そのために金持ち父さんの方法を試しているのじゃ。

>>649>>650 恐れを超えて本当に心身の観察ができれば、速やかに悟りも訪れるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
省3
657
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/12(水)21:35 ID:1d4drIFg0(81/150) AAS
>>652 自我が戻るのは無我の小悟でとまっているからなのじゃ。
 大悟徹底すればもはや戻らないのじゃ。
 むしろ進行していくのじゃ。
 妙観察智があるからのう。
 一切の観念を捨てて涅槃に入っていくのじゃ。

>>653 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
省7
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