鬼和尚に聞いてみるスレ part8 (1001レス)
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1(1): 2016/12/05(月)22:15 ID:5WAaNl9c0(1) AAS
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。
鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが
あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。
ルールを守って使用しましょう。
前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part7
したらばスレ:study_8276
2(1): としぼっくり 2016/12/06(火)00:11 ID:DAY232aw0(1/115) AAS
自分を追求するのと、自分とは何かを追求して観察するのでは僕の中で違いがあります。自分を追求したらいいのか、自分とは何かと追求したらいいのかわかりません。自分とは何かだと、観念をみている感じがして、自分を追求すると、観念かもしれないですが自分をみている気がします。自分を追求する方がいいのか、自分を追求して観察する方がいいのか、どちらの方がいいのでしょうか?
3(1): 2016/12/06(火)12:54 ID:Hasf7zeM0(1/34) AAS
回答ありがとうございます。 認識する作用が見えるようになるまで精進します。
それから、以前、鬼和尚は観念があればそこに又主体と客体という観念も起こる
とおっしゃっていましたが、一つの観念につきいちいち主体と客体という観念が生起するなら
鬼和尚のようにすべての観念がない状態だと観念による主体と客体の生起も起こらず、
したがって自我も生じない、ということですか?
4(1): 修行人 2016/12/06(火)13:35 ID:Jg0hNPyA0(1/13) AAS
鬼和尚さん、はじめまして。お聞きしたい事があります。
アメリカのトランプ氏が次期国防長官に、
狂犬マティスの異名をとるジェームズ・マティス氏を
任命する予定らしいのですが、
自分はこのような人物に憧れをもっています。
他にも、ソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗し、
パンジシールの獅子の異名を持つアフマド・シャー・マスード
省8
5(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/06(火)21:20 ID:wTZcXC0U0(1/16) AAS
>>1 ご苦労さんじゃ。
まさに菩薩の行ないじゃ。
>>2 それはおぬしが最もやり易い方を選ぶのじゃ。
方法を選択していくのも修業の一つなのじゃ。
おぬしは自分を追求する方がよい感じがするというのであればその方を選んでよいのじゃ。
それで行き詰れば又別の方を選んでよいのじゃ。
そのようにしてどこまでも追求して行くのじゃ。
省7
6(1): としぼっくり 2016/12/06(火)21:30 ID:DAY232aw0(2/115) AAS
ありがとうございます。自分を追求して行こうと思います。
7(1): 2016/12/06(火)21:45 ID:Hasf7zeM0(2/34) AAS
>>5
ということは無我ではまだ観念が残っているから主客の観念も残り続けるのでしょうか?
8(1): 修行人 [undefined] 2016/12/07(水)00:18 ID:Jg0hNPyA0(2/13) AAS
ありがとうございます。
ありのままの自分を尊重していき、
進歩に従って、変化していったなら、それはそれで受け入れようと思います。
9(1): 2016/12/07(水)02:35 ID:Hasf7zeM0(3/34) AAS
連投すいません、自我の観照を起こすには恐怖があるままだと起こりませんか?
全ての恐れがなくならないと観照は起こらないんでしょうか?
10(1): 蓮恵 2016/12/07(水)03:24 ID:mt9xxQ6U0(1) AAS
菩薩も人の身、いづれ死にますが
菩薩の為した行いは、それを因として新しい果を生むでしょう
これゆえに菩薩の為した行いは、
消えることなく残り続け、
新しい善を生むのではないでしょうか
11(1): 2016/12/07(水)20:39 ID:JjiX2Cic0(1/2) AAS
鬼和尚さん、前スレの1005です。
回答ありがとうございました。
やっぱり、苦には原因があるのですね。
先入観をなるべくなくして考えてみたところ、原因は親ではなくて小学校にあるようでした。
その頃に理想の姿のようなものが植え付けられていて、それに届いていない今の自分に劣等感を感じているみたいです。
自分が子供の頃の社会の状況と、今の現代の様子を比べると、景気や求められている人材などが大きく変化していて、
それなのに、心のどこかで今も子供の頃に期待された理想の姿を持ち続けていて、それが劣等感を生んでいる感じがしてきました。
省4
12(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/07(水)21:27 ID:wTZcXC0U0(2/16) AAS
>>6 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>7 無我になれば主客の観念は消えているじゃろう。
しかし観念があればやがては主体という観念も起こり、それによって客体という観念も起こってしまうのじゃ。
観念を認識しているならばそれを認識するもの、とかの観念に辿りつくからのう。
そして自我も起こってしまうのじゃ。
観念が完全になくなればそのようなこともなくなるのじゃ。
省6
13(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/07(水)21:32 ID:wTZcXC0U0(3/16) AAS
>>10 そうじゃろう。
どんどん善事を積むとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>11 その理想も子供の頃に考えたものであるから現実に合わない所もあるじゃろう。
そのようなものは捨てて今ここで実現できる理想を持てばよいのじゃ。
目標や理想は持ってよいのじゃ。
新たな理想に向かって進むのじゃ。
14(1): 素人A 2016/12/08(木)09:18 ID:gOqWUDAs0(1/5) AAS
鬼さんあれから思ったけど全体を一望使用としたらまずコツは
百読むは一見にしかずという格言の本当の意味は
百回部分を読むという実践の行為が一見に凡人はたどり着くということ鴨と思う
部分の詰碁嫌がらずコツコツと鍛えれば少しずつ見えていくのか画家もデッサンを
馬鹿にして努力しないと絵は描けないし基礎が大事なのかも。少しずつ少しずつ無理ない
努力で少しずつ少しずつ身得てくるものが道なのかも。本の少しの努力の積み重ねなのかも
15(1): 2016/12/08(木)17:07 ID:Hasf7zeM0(4/34) AAS
>>12
ありがとうございます。逃避しない、ということが肝要ということですね。
あの、相談なんですが、認識を滅さなければいけない、ということが強烈な
執着になって、その執着心が、もしそれを達成できなかったらどうしようという強い恐れを引き起こしている場合、鬼和尚ならどうしますか?
認識を滅したくても観照が起こっていないから今すぐには認識する作用もとらえられないし、
心底から執着を手放せるならばそうしたほうがいいでしょうか?
16(1): としぼっくり 2016/12/08(木)17:18 ID:6PXnZyyc0(1/4) AAS
鬼和尚さん質問ですが、数息観は一日何回ぐらいやった方がよろしいですか?
17(1): 2016/12/08(木)19:29 ID:kV7xIwD.0(1/6) AAS
>>13
鬼和尚さん、ありがとうございます。
新しい理想を持ちたいと思います。
まだどんな新しい理想にすれば良いかを考え中ですが、古い理想を捨てられるように思えてきました。
考えてみると、私は子供の頃に持った古い理想にずっと縛られていた気がします。
それに気づけて良かったです。
そして、新しい理想を持てばいいということも思いつきもしていませんでした。
省3
18(1): そらいろ◆EHlCk/f57s 2016/12/08(木)20:56 ID:zY4MTpcA0(1) AAS
鬼和尚
いつの間にか会社の仕事でストレスを感じることがなくなっていました。
もう半年になるか一年になるか覚えていませんが、ずいぶん経ちます。
期限付きの無理難題が持ち込まれた時に強いストレスを感じていました。
その解決策を作るのが私の仕事ですが、心の中で他人を攻撃したり、
逃避したりしながら仕事をしていました。
策を作りながら自己チェックをするので、それが自己否定のようであり、イライラしていました。
省4
19(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/08(木)22:01 ID:wTZcXC0U0(4/16) AAS
>>14 そうじゃろう。
日々の努力が大きな成果を生むのじゃ。
それが結局は一番の近道なのじゃ。
>>15 どのような執着でも障害になるならば滅したらよいのじゃ。
なぜそのように執着するのか原因を探してみるのじゃ。
それは優秀な自分というイメージを保ちたいからかもしれん。
或いは不安や恐れがあるからかもしれん。
省11
20(1): としぼっくり 2016/12/08(木)22:26 ID:DAY232aw0(3/115) AAS
ありがとうございます。できるだけ二回はやろうと思います。
21(1): 2016/12/09(金)08:36 ID:Hasf7zeM0(5/34) AAS
>>19
わかりました、そうしてみます。ありがとうございました。
それから、凄く今更な疑問なんですが、なぜ自我を観察して厭離することを
ある程度続けると「自我の観照」が起こるんでしょうか?観照は自分では引き起こせない
と言われているのに自我の観察をある程度行うと向こうからやってくる、というのは
何らかの因果関係がある、ということでしょうか?
この程度まで自我を厭離すれば観照は起こるとか、これこれこの要件を満たせば起こる、
省1
22: 2016/12/09(金)11:16 ID:t8PlW.qA0(1/4) AAS
鬼和尚さん、劣等感の問題が解決しそうになってきたら、今度は憎しみの問題が甦ってきました。
過去に、人にされたことや、自分を傷つけようとした人のことを思い出すと憎しみが止まらなくなります。
人のしたことは見ないで自分のしたことだけを見ようと思うんですが、たぶん、その人がしたことが、自分の今の状態に大きな影響を与えていると思ってしまっています。
その人のせいで自分はこうなった、と思っている場合、憎しみを止めるのは難しいです。
憎しみを消すために教えてください。
1.本当に物事を客観的に見れたなら、苦しみは、その人のせいではないのでしょうか?
2.すべての苦しみの原因は自分にあるのですか?
省2
23(1): 2016/12/09(金)16:25 ID:Dp/qMVVc0(1/8) AAS
鬼和尚、
ダンマパダなどでお釈迦様は、「愛する人を作るな」などと繰り返し諌めていますが、
鬼和尚もオショーも、それとは逆のことを説いています。
この違いの理由をお教えください。
24(1): 蓮恵 2016/12/09(金)19:14 ID:gBQKXI6A0(1/13) AAS
寝起きの状態を観察すると面白いですね
平常時ならばイラつくような事象がありますが、
寝起きの状態でもそれがあると、
イラッとは来ますが、イラつく主体がいない感じで、何だか妙な感覚なんですね、イラつきが持続しません
寝起きは、パソコンに例えるとOS(自我)が立ち上がり切れてないような状態です
25(1): 2016/12/09(金)20:25 ID:o53.qpeA0(1/3) AAS
いつもありがとうございます。
他人のしたこととしなかったことを見るな、との教えがありますが、
他人に無関心でいる、可能であればなるべく他人との関わりは避ける、
他人に対し必要以上の反応をしない、という風に行動することは
教えに沿った行動と言えるでしょうか?
26: 蓮恵 2016/12/09(金)20:31 ID:gBQKXI6A0(2/13) AAS
思うに、人の自我は心を軍隊に例えると、
執着の強さに比例した強固な陣を組んでいて防備に不足なく
攻められても堅固であって、
正攻法で攻めてもビクともしないのではないのだろうか
単純に攻めるだけでは駄目で、
自我の弱点を見抜いたり、自我の虚を
つくような智恵が必要ですね
省1
27: 蓮恵 2016/12/09(金)20:37 ID:gBQKXI6A0(3/13) AAS
連レス失礼
人の執着が強いのは、愚かなりにも一生懸命生きようとした結果ですね
そのため、生半可な努力では、執着を根こそぎ借りとるのは難しいかとも思いました
28(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/09(金)21:53 ID:wTZcXC0U0(5/16) AAS
>>20 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>21 自我の観照とは自我に気付くことであるからなのじゃ。
例えば手を観察していればいずれ手のひらにいくつものしわがあると気付くじゃろう。
そのように観察を続けていれば、観察の対象が持っている性質に気付くのじゃ。
自我を観察しようとしていれば自我が自分ではなく、自分のものでもないという性質に気付くのじゃ。
それが観照なのじゃ。
省13
29(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/09(金)22:10 ID:wTZcXC0U0(6/16) AAS
>>23 それは愛着するものを作るなと言うことなのじゃ。
執着しなければ愛するがよいのじゃ。
わしのブログの今月の記事も読むとよいのじゃ。
>>24 そうじゃ寝起きには自我が起こるのを観ることができるのじゃ。
続ければ大いに利益があるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
>>25 教えに沿った行動といえるじゃろう。
省2
30(1): としぼっくり 2016/12/09(金)23:19 ID:DAY232aw0(4/115) AAS
鬼和尚さん質問ですが、一日一回の数息観でも悟りは得れますか?その場合何分くらいやったらいいでしょうか?
31(1): 蓮恵 2016/12/10(土)06:22 ID:gBQKXI6A0(4/13) AAS
和尚さま
観念に囚われない行動は以下のようなものでしょうか
例えば普通の人間が苦と認識し、現実逃避したがるような状況があるとします。
しかし、観念に囚われない人間ならば、その苦から逃げたいとか状況を改善しようという意思は起きないが、
智恵によって状況を応じた行動を選択する、というもの感じでしょうか
私は今、逃避したい苦境に直面していますが、観念を滅した人間ならば苦境を逃避したいとも思わないのかな、と思ったのですが
32(1): 2016/12/10(土)09:12 ID:Jw3dzeXk0(1/7) AAS
>>28
鬼和尚さん、ありがとうございます。
相手のことを、誰のせいでもなく心の機能なのだと思うだけだと、まだ納得できない苦しみが残りますが、
自分のこの納得できない苦しい気持ちも、心の機能なのだと思うと楽になります。
ただ反応しているだけのように思えてきました。
どこにいちばん強く反応しているかを観察して滅していきたいと思います。
ありがとうございました。
33(1): 2016/12/10(土)09:18 ID:Dp/qMVVc0(2/8) AAS
>>29
ありがとうございます。
ブログも読ませていただきました。
鬼和尚、オショー、お釈迦様が言わんとしていることは同じであり、ただ「愛」の定義が時代により異なっているということですね。
ということで、ダンマパダやスッタニパータなどを今の日本人が読むときには「愛」を 「愛執・愛着」と読み替えればよいということでしょうか。
自分の心を見てみますと、慈悲と愛執が状況により色々な配合で現れ、それらを総称して愛と名付けていることがわかりました。
今回のブログを読んでもう一つ質問がございます。
省5
34(1): 2016/12/10(土)11:27 ID:o53.qpeA0(2/3) AAS
>>29 ご教授ありがとうございました。
日常においても自分の思考なり感情なりを観察したいのですが、
単にいつもどおり考えているだけなのか、思考を観察できているのかよくわかりません。
自分が思考していることを意識するだけでも、
なにがしかの効果はありますでしょうか。
35(1): 2016/12/10(土)15:53 ID:Hasf7zeM0(6/34) AAS
>>28
なるほど、観照は日々の自我の観察、厭離の積み重ねの結果である、
ということも言えるでしょうか?
そして、どの程度まで行えば必ず観照が起こる、といったことはないが、
自我の観察を行えば行うほど観照が起こる確率もそれに比例し高めることができる、
そのように日々の自我の観察と観照には深い相関関係というか因果関係が
ある、ということも言えますでしょうか?
36: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/10(土)21:45 ID:wTZcXC0U0(7/16) AAS
>>30 意欲があれば悟れるじゃろう。
人によって違うじゃろう。
長いほうがチャンスは多くあるじゃろう。
恐れを乗り越えていければ悟りも近いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>31 そうじゃ、ただ有効な行いを選択するじゃろう。
苦があれば苦を観察するじゃろう。
省3
37(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/10(土)21:51 ID:wTZcXC0U0(8/16) AAS
>>33 祈る程度ならば慈悲といえるのじゃ。
今ここには無いことを望む気持ちが強いほど、執着となり苦を起こすのじゃ。
慈悲の瞑想も本来のお釈迦様の教えには無いものじゃ。
お釈迦様の本来の教えは止観であり、縁起を観察することなのじゃ。
もし慈悲の瞑想が執着に近くなるならば苦を生むじゃろう。
諸刃の剣なのじゃ。
>>34 効果はあるじゃろう。
省6
38(1): としぼっくり 2016/12/11(日)00:25 ID:DAY232aw0(5/115) AAS
ありがとうございます。できるだけ二回頑張ってみます。
39(1): 2016/12/11(日)15:32 ID:AEHmLzF60(1) AAS
鬼和尚、質問させてください
私は慈悲の瞑想がどうしてもできません
慈悲の瞑想はしなくて呼吸の瞑想だけしてもいいのですか?
40(2): 2016/12/11(日)16:01 ID:Dp/qMVVc0(3/8) AAS
>>37 ありがとうございます。
慈悲の瞑想も本来のお釈迦様の教えには無いということは、知りませんでした。
囚われずに進もうと思います。
ここのところ自我の観察に励んでいるのですが、観察による厭離で自我消失の恐怖は減っているものの、まだ根強く残っています。
そこで自己暗示も取り入れて、自我生成の一部始終を逃げずにしっかりと見られるようにしたいのですが、
この場合、どのような言葉をどのように繰り返したら良いでしょうか。
例えば「自我消失の恐怖が消える」なのか、「自我をしっかり見られる」なのかとか、
省1
41(1): 2016/12/11(日)17:34 ID:Hasf7zeM0(7/34) AAS
>>37
ありがとうございました。
42(2): 2016/12/11(日)20:17 ID:5rhNNt1Y0(1/2) AAS
感情を言葉で表現できず、相手にうまく伝えることができません。そして、物に当たったり、手を出したり、声を出すなど、先に身体が動いてしまいます。
いけないのはわかっていますが、その時は身体の反応を抑えることができません。
どうすればいいでしょうか。
43: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/11(日)21:37 ID:wTZcXC0U0(9/16) AAS
>>38 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>39 それでよいのじゃ。
止観が行えればそれがお釈迦様の教えなのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>40 自我が観られるというほうがよいじゃろう。
自らの理想を言葉にするのじゃ。
省1
44(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/11(日)21:42 ID:wTZcXC0U0(10/16) AAS
>>40 私とかも入れてよいのじゃ。
それによって障害になることは無いじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>41 どういたしまして、またおいでなさい。
>>42 そのような反応もまた心の中の原因によるものじゃ。
原因がわかれば消えるじゃろう。
そのような反応をする親に育てられたからかもしれん。
省3
45(3): 42 2016/12/12(月)05:02 ID:5rhNNt1Y0(2/2) AAS
>>44
お返事ありがとうございます。
おっしゃる通りで、今私がやっていることを父親にされてきました。やめなければと思いながらも、頭で考える前に自然と手や身体が動いてしまいます。
深く心に刻まれているようで、過去にそのようなことがなかったとは思えないのです。
46(2): 2016/12/12(月)12:39 ID:uJqErxRM0(1) AAS
>>44 ありがとうございます。
「私は逃げずに自我生成の一部始終を全て逃すことなく観察している」
という感じにしてみました。
これをまずは1日100回繰り返すことから進めていこうと思います。
もし何かアドバイスなどがありましたら、お願いします。
47(1): 2016/12/12(月)18:18 ID:Hasf7zeM0(8/34) AAS
鬼和尚は無我になれば認識を滅するのは容易い、とおっしゃっていますが、
それは無我になれば認識する作用が見えやすくなる(=捉えやすくなる)
という理由からそうおっしゃっているんですか?
無我になると認識を観察するのが容易くなる理由はそれ以外でありますか?
48(1): 2016/12/12(月)20:20 ID:o53.qpeA0(3/3) AAS
>>37 ご指導ありがとうございました。
49(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/12(月)21:52 ID:wTZcXC0U0(11/16) AAS
>>45 そのような原因がわかれば消すこともできるのじゃ。
親がそのようであったために、おぬしもそれが正しいと思っているのかもしれん。
原因からそのような反応があることを観察できれば消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>46 それでよいじゃろう。
後は実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
省4
50(1): 2016/12/13(火)03:22 ID:Hasf7zeM0(9/34) AAS
>>49
ありがとうございます。
でも、認識する作用を観察するって、実際どんな感じで見えるんですか?
例えば目の前にペンがあるとして、それを見てペンだと認識するのなんて一瞬ですよね、
目を閉じた状態から目を開けてペンを見る、ということをやってみましたけど瞬時に終わりすぎて認識の作用をとらえる間なんてありませんでした、
ペンを見て「これはペンだ」と思えばそれはもはや思考だし、実際認識する作用の全容をとらえる、なんてのはどんな
感じで見えるのでしょうか?
省1
51(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/13(火)21:59 ID:wTZcXC0U0(12/16) AAS
>>50 何かを観たり聞いたりすれば、その特徴から記憶が照合されるのがわかるじゃろう。
それが認識されることとされているのも気付くのじゃ。
無我であればもはや早さも関係なく詳細に観られるのじゃ。
記憶から認識したということもわかり、それを認識としていることもわかるのじゃ。
実際には記憶を観ていると気付くのじゃ。
言葉通りではないがのう。
実践によって確めるのじゃ。
52(1): 2016/12/14(水)00:10 ID:Hasf7zeM0(10/34) AAS
>>51
え?! 無我であればもはや認識作用の早さが関係なく認識の作用を捉えられるんですか?!
それは大げさに表現したわけでも何でもなく、無我になれば本当に「認識の作用の早さが関係なく」認識作用
(=阿頼耶識)を容易に見れる、と?
53(1): としぼっくり 2016/12/14(水)02:24 ID:DAY232aw0(6/115) AAS
鬼和尚さん質問ですが、自己観察していても、本心を観ていなかったら、自我に気付きませんか?
54: 45 2016/12/14(水)21:08 ID:D4OzIXtQ0(1/2) AAS
>>49
55(2): 45 2016/12/14(水)21:09 ID:D4OzIXtQ0(2/2) AAS
>>49
ありがとうございます。
頭で考える前に身体が反応しまうのですが、その場合はどのようにすれば良いでしょうか。
56(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/14(水)21:23 ID:wTZcXC0U0(13/16) AAS
>>52 そうじゃ、わしには出来ないのが不思議な位なのじゃ。
どれほど早くとも阿頼耶識の認識には記憶を蘇らせるという過程があるものじゃ。
本来の認識に比べれば遅いものじゃ。
そのようにわかっていれば気付くのも容易なのじゃ。
>>53 そうじゃ、気付かないじゃろう。
本心とは自らを偽らない心なのじゃ。
省6
57(1): としぼっくり 2016/12/14(水)21:34 ID:DAY232aw0(7/115) AAS
ありがとうございます。本心を観て、自己観察に励みます。
58(1): 2016/12/14(水)23:11 ID:Hasf7zeM0(11/34) AAS
>>56
なるほど、ということは話をまとめると、
自我の観照が未だ起こっていない状態だと自我が障害となり認識を観察するのは困難であるが、
観照が起こってしまえば(=無我になれば)認識を観察するのは文字通りに「容易になる」
ということでいいでしょうか?
実際に容易になるから、認識を滅するという最終目的を達するにはまだ無我じゃないのに認識を滅しようと
奮闘するのではなく、その前段階として自我の観照を起こすために自我がどこに投影されているかを観察して厭離していき、
省2
59(1): 2016/12/15(木)00:39 ID:QoQZrmNc0(1/3) AAS
鬼和尚さん
こういうイメージが自分である、と自分で想定しているらしい自己イメージがわかってきた気がします。
そこで、そのイメージを作った元の記憶がなかったら、そのイメージもないことを観察することにしました。
ただ、どんどん自己イメージを薄めていくと、日常生活に支障をきたすのではないかという心配が生まれてきたのですが、大丈夫でしょうか?
感情がなくなったりしてしまいませんか?
それから、自己イメージを薄めていくという観察はどこまでやれば良いと思いますか?
60(1): 55 2016/12/15(木)17:42 ID:OO0gal4M0(1) AAS
>>56
ありがとうございます。
観察継続してみます。
61(1): 2016/12/15(木)19:57 ID:cV9mwi860(1) AAS
以下は真実でしょうか?
①アドラー心理学では、人生の幸せや喜びは、人と交わることでしか得られないとされています。
②人間関係を避けている限り、マイナスにはならないけれど、プラスも生まれません。
③“自分だけ”と考えることは、いわば幸せを避けることなのです。
62(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/15(木)21:22 ID:wTZcXC0U0(14/16) AAS
>>57 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>58 そのような理解でよいのじゃ。
言葉通りではないがのう。
実践によって確めるのじゃ。
>>59 感情は常にあるじゃろう。
日常も上手くやれるじゃろう。
省3
63(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/15(木)21:32 ID:wTZcXC0U0(15/16) AAS
>>60 そうじゃ、反応に気付くことができれば変るじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>61 ① 嘘なのじゃ。
真の幸福は他人に関わらずあるものじゃ。
② 独りで進むことで修業も進むのじゃ。
お釈迦様も犀の角のように独り歩めと勧めているのじゃ。
省2
64(1): 2016/12/15(木)21:40 ID:Hasf7zeM0(12/34) AAS
>>63
ありがとうございます。しつこいようですが確認として無我になれば本当に
実際問題として認識を観察することは無我になるまえに比べて「容易」になるんですよね?
それから、認識を観察して厭離できたらその瞬間というかその直後に何が起こるのでしょうか?例えば世界がすごくリアルに見えるとか、
何か色々あれば教えてください。
65(1): としぼっくり 2016/12/15(木)23:45 ID:DAY232aw0(8/115) AAS
鬼和尚さん何度もすいません。本心を観るのと、自己観察は両方やった方がいいですか?
66(1): 2016/12/16(金)18:46 ID:6ZZgOq8Y0(1/10) AAS
鬼和尚様
質問です。
西式健康法はどこで無料で読めますか?
1404円の本を購入する必要はありませんか?
鬼和尚様は床に木枕で寝ていらっしゃるのですか?
講習会は参加なさったことはありますか?
よろしくお願いいたします。
67(1): 2016/12/16(金)20:05 ID:JjiX2Cic0(2/2) AAS
>>62
鬼和尚さん、ありがとうございます。
安心して自己イメージを薄める観察をどんどんしてみます。
またわからないことが出てきたら教えてください。
いつもありがとうございます。
68(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/16(金)21:44 ID:wTZcXC0U0(16/16) AAS
>>64 そうじゃ、容易になるじゃろえ。
実践によって確めるのじゃ。
それができればもはや言葉として語るものは何もないのじゃ。
全ての観念がなくなり言葉もイメージもないのじゃ。
世界とかもないのじゃ。
全てが同じ本質を持つ意識としてのみ認識できるのじゃ。
それが阿頼耶識を滅した後にある本来の認識なのじゃ。
省10
69(1): 2016/12/17(土)00:19 ID:Hasf7zeM0(13/34) AAS
>>68
そうですか、ということは認識を厭離できたら、その瞬間から以前のような観念だらけのフィルターがかった世界から
何の観念の投影もない、全てが一つの意識である(無理やりにでも言葉で表現してみれば)、ということを体感している状態へシフトする、
そんな感じになる、ってことでしょうか?
そして、そのシフトは瞬間的なものであり、厭離できた瞬間にそうなる、という感じでしょうか?
70(1): としぼっくり 2016/12/17(土)01:18 ID:DAY232aw0(9/115) AAS
本心を観れば、自己観察していることになるんですか?
71(1): としぼっくり 2016/12/17(土)11:36 ID:DAY232aw0(10/115) AAS
連投すいません。自分とは何者か、に気付けば自我を観照した事になるんですか?
72(1): 2016/12/17(土)18:16 ID:6ZZgOq8Y0(2/10) AAS
>>68
鬼和尚様
ありがとうございます。
すごく古い文字の本が読めるサイトを見つけられました。少しずつ読んでみます。
鬼和尚様は木枕も使っていらっしゃいますか?
床には布団を敷かれていないのですか?
冬は寒くありませんか?
省1
73(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/17(土)21:46 ID:zY7LPVuY0(1) AAS
>>69 そのようなものじゃ。
気付きによる厭離は瞬間的に起こるものじゃ。
苦を滅するのと同じように自動的に起こるじゃろう。
自ら実践して確めるのじゃ。
>>70 本心だけならば怒ったとか楽しんだというのも偽らなければ本心なのじゃ。
虚偽のない心を見ることで自分の観念も実際に見ることができるのじゃ。
本心というものがある訳ではないのじゃ。
省7
74(1): 2016/12/17(土)22:36 ID:Hasf7zeM0(14/34) AAS
>>73
ありがとうございました、それならわかりやすそうですね。
それから、また質問なんですが、「観照」というのは
一回起これば充分なんですか?
よく一瞥体験をした人の話を聞く限りでは、自我がいなくなった後、またすぐに自我が戻ってきて一瞥体験以前の
状態に戻ってしまった、と言う話をよく聞くので「観照」が起こってもまた自我が戻ってこないか不安です。
そもそも「観照」と「一瞥体験」、この二つには何か違いのようなものはあるんでしょうか?
75(1): としぼっくり 2016/12/17(土)23:44 ID:DAY232aw0(11/115) AAS
ありがとうございます。偽りのない心を観る事で、自分の観念が見れて自我に気付く事ができるんですか?
76: としぼっくり 2016/12/18(日)00:21 ID:DAY232aw0(12/115) AAS
↑偽らない心です。すいません。何者かの見解ありがとうございます。
77(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2016/12/18(日)21:35 ID:JKddmxgk0(1/3) AAS
>>74 本来は一回で十分なのじゃ。
しかしやはり自我が戻ってしまう者も居るのじゃ。
無我になったら更に認識をも滅しなければいつでも自我が戻る可能性はあり続けるのじゃ。
大悟徹底まで油断なく進むのじゃ。
一瞥とはほぼ忘我に等しい体験じゃな。
深い集中の瞑想によって起こるサマーディの状態が何かの原因で起こったのじゃ。
忘れているだけであるから直ぐに戻るのじゃ。
省6
78(1): 2016/12/18(日)21:39 ID:o7TfOr0I0(1/14) AAS
鬼和尚にリクエストなのですが、1ヶ月位で良いので、今の初老のお爺さんみたいなキャラからルパン三世みたいな軽い兄ちゃんキャラでコメントしてもらえないでしょうか?自我の厭離が自由自在に行われる様を見てみたいのです。
他の人の修業の参考になるとも思うのですがどうでしょう
79(1): 2016/12/19(月)01:13 ID:Hasf7zeM0(15/34) AAS
>>77
一瞥体験はむしろサマーディ的な体験であって観照とは明確に違う、といったところでしょうか、、
それから、鬼和尚の
「観照は自我に気付いて無我になるのであるからかなり長く続くのじゃ。
観念が残っているから主体が想起されるまで無我であり続けるじゃろう。
そのような違いが有るのじゃ。」
という文章を見る限り、観照が起きても観念が残っている故にその観念がいずれ主体を生起
省6
80(1): としぼっくり 2016/12/19(月)05:05 ID:DAY232aw0(13/115) AAS
本心を観るとは、偽らない心を観るという事ですか?偽わらない心で心身を観るという事でしょうか?
81(1): としぼっくり 2016/12/19(月)08:06 ID:DAY232aw0(14/115) AAS
書いてて分かりずらかったんで書き直します。1.本心を観るとは、偽らない心を観るという事でしょうか。
2.偽りのない心で自らの心身を観るという事でしょうか?
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