鬼和尚に聞いてみるスレ part8 (1001レス)
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664(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/13(木)20:47 ID:1d4drIFg0(82/150) AAS
>>658 そうかもしれん。
或いは後に長く座っていた時に大悟したのかもしれん。
本人以外に知りようは無いのじゃ。
>>659>>660 そうじゃ、観察していれば気付きは起こるのじゃ。
例えば朝に鏡で自分の顔を見て今日は血色がよいとか気付く。
それも観察による気付きなのじゃ。
本当に観察していれば気付きは必ず起こるものじゃ。
省16
672: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/14(金)22:02 ID:1d4drIFg0(83/150) AAS
>>665 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>666 どういたしまして、またおいでなさい。
>>667 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
実践すれば多くのことがわかるのじゃ。
またおいでなさい。
>>668 そうじゃ、更に詳しく全体を観察してみるのじゃ。
省3
673(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/14(金)22:10 ID:1d4drIFg0(84/150) AAS
>>669 そうじゃ、それが観照なのじゃ。
それほど難しいものではないのじゃ。
ただひたすらに実践することでそれは起こるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>670 そのような理解でも善いのじゃ。
真我というものはないがのう。
ただひたすらにあるものだけを観るのじゃ。
省2
679(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/15(土)21:28 ID:1d4drIFg0(85/150) AAS
>>674 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>675 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>676 そのまま続けるとよいのじゃ。
過去が本当に自我であるのか、気付くときも来るじゃろう。
それまでただひたすらに観察あるのみなのじゃ。
省13
687(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/16(日)22:10 ID:1d4drIFg0(86/150) AAS
>>680 最初の本の金持ち父さん貧乏とうさんなのじゃ。
これだけで十分なのじゃ。
後は実践して資産を築くのじゃ。
>>681 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>682 今実践しているのじゃ。
少しずつ進んでいるのじゃ。
省7
688(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/16(日)22:23 ID:1d4drIFg0(87/150) AAS
>>685 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>686 他人も自分のものと思っているからなのじゃ。
自分と同じ国とか地域とかに所属し、同じ行動をとるべきと期待しているのじゃ。
それも苦の原因になるものじゃ。
自分とか、自分のものという囚われがあれば常に苦の原因となるのじゃ。
695(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/17(月)21:11 ID:1d4drIFg0(88/150) AAS
>>689 そのような経験が多くなれば゜自我も見えて来るじゃろう。
囚われずに進むのじゃ。
またおいでなさい。
>>690 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>691 そうじゃ、読んでみるのじゃ。
またおいでなさい。
省11
699(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/18(火)21:39 ID:1d4drIFg0(89/150) AAS
>>696 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
何度でも聞いてよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>697 そうじゃ、ありのままを観察すればよいのじゃ。
修行は他人に見せるものではないから怖ければ怖いと認めてよいのじゃ。
怖いものは怖いと認め、その反応を観ればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
省4
705(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/19(水)21:17 ID:1d4drIFg0(90/150) AAS
>>700 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>701 本心とは偽らぬ心なのじゃ。
偽りの心を観察しても何も起こらないのじゃ。
嘘であるからのう。
偽らぬ心を観察して厭離は起こるのじゃ。
そのために本心を観察するのじゃ。
省11
712(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/20(木)21:41 ID:1d4drIFg0(91/150) AAS
>>706 そのようなことも無我になれば何も感じないじゃろう。
しかし有我であっても人付き合いの技を知っていれば対抗できるのじゃ。
集団といっても一人ひとりの人間であるからのう。
たった一人のものを味方に付けるだけでも全体が味方に出来たじゃろう。
付き合いの技を学べばよいのじゃ。
>>707 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
省13
716: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/21(金)22:08 ID:1d4drIFg0(92/150) AAS
>>713 そうじゃ、永遠の意識に達すれば子を作る必要も無いからのう。
無理に抑える必要も無いのじゃ。
無理な禁欲もまた囚われなのじゃ。
なんぱもしてよいのじゃ。
>>714 それもまた思考が独自に働いているのに自我を投射しているだけなのじゃ。
思考が自我によって制御できるならば今すぐに止める事も出来る筈であるが修業していない人間は、思考をとめることが出来ないじゃろう。
そのように自動的に動く思考が先にあり、自我はそれに投射しているだけなのじゃ。
省3
722(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/22(土)21:25 ID:1d4drIFg0(93/150) AAS
>>717 それは天台の言葉なのじゃ。
最澄が中国に行った時に口伝として告げられたというのう。
実は天台内の和尚の中にも諸説あるというのじゃ。
ある者は止観の修業の結果現れる天の真理を悟り、智慧によって証明した独り明朗の境地というのじゃ。
止観の最終的な境地であり、言語を絶した不可思議の境地であるから口伝にするしかないといわれるのじゃ。
あまり意味は無いがのう。
>>718 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
省13
727(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/23(日)21:02 ID:1d4drIFg0(94/150) AAS
>>723 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>724 そのようなものじゃ。
道教は仙人になるための道なのじゃ。
それで不老不死になれると思っていたのじゃ。
>>725 それは観察ではなく丸暗記していただけだったからなのじゃ。
四諦とか因縁をしりながら知識として知ればよいと思っていたのじゃ。
省5
734(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/24(月)21:44 ID:1d4drIFg0(95/150) AAS
>>728 それもよいじゃろう。
お釈迦様の僧団にもマントラを唱えるものも居たというからのう。
集中の役に立つのじゃ。
実践してみるのじゃ。
>>729 ないじゃろう。
ヴィパッサナーを教えるといいながら、実際は記憶している方法を教えているのじゃ。
四諦も因縁も記憶するのではなく、自らの心の中に観察しないと無意味なのじゃ。
省6
735(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/24(月)21:56 ID:1d4drIFg0(96/150) AAS
>>732 心が動いていないとは雑念が出ない状態なのじゃ。
その境地に至れば雑念に邪魔されること無く観察も出来るのじゃ。
そこまでいかなくとも雑念を流せるぐらいでも観察は出来るじゃろう。
雑念に惑わされること無く観察に励むのじゃ。
>>733 1 初めから何が心に起こるか注意してみるとよいのじゃ。
2 集中してみるとよいのじゃ。
そうすると消えていくのじゃ。
省4
741(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/25(火)20:48 ID:1d4drIFg0(97/150) AAS
>>736 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>737 何度でも訊くとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>738 出来るのじゃ。
マハリシは方法など何も知らずに悟ったのじゃ。
それも死を超えたいという熱意があったからなのじゃ。
省11
744(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/26(水)21:33 ID:1d4drIFg0(98/150) AAS
>>742 どういたしまして、またおいでなさい。
>>743 それは認識が記憶に依存しているからなのじゃ。
何か刺激を受けたりすると記憶から連想が起こり、止められないのじゃ。
外部の刺激が無くとも内部からの刺激でも連想は起こり、止められないのじゃ。
集中すると刺激に無反応になるから記憶の連想を一時的にとめられるのじゃ。
そのようなものじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
749(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/27(木)21:20 ID:1d4drIFg0(99/150) AAS
>>745 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>746 悟っていないのじゃ。
よい歌手であるがのう。
>>747 そのような理解でよいのじゃ。
記憶に依存している認識は刺激に対して記憶を起こしてしまうものじゃ。
雑念が出ることを気にしなくてよいのじゃ。
省9
754(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/28(金)21:09 ID:1d4drIFg0(100/150) AAS
>>750 そうじゃ、特に修行もしていないじゃろう。
歌手の人なのじゃ。
>>751 どういたしまして、またおいでなさい。
>>752 肉体やものに投射される観念が自我なのじゃ。
それ以外に自我はないのじゃ。
観念を投射する働きは心の挙動であり、自我ではないのじゃ。
主体などは無いのじゃ。
省5
758: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/29(土)21:00 ID:1d4drIFg0(101/150) AAS
>>755 そうじゃ、心身を観察していけばいずれは自分に行き当たるじゃろう。
自我は心身のどれかに投射されているからのう。
実践あるのみなのじゃ。
>>756 どういたしまして、またおいでなさい。
>>757 悟っていないのじゃ。
サマーディには達していたようであるがのう。
その体験を語っているのじゃ。
省1
762(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/04/30(日)21:28 ID:1d4drIFg0(102/150) AAS
>>759 そうじゃ、悟っていなくともよい歌を創り、歌えるものじゃ。
歌手として尊敬するとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>760 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>761 そうじゃ、否定する心の働きも自分のものとはせずにただ観察するだけにするのじゃ。
そのようにただ雑念を流していれば、いずれ自然に思考が止まる時が来るじゃろう。
省4
766: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/01(月)21:07 ID:1d4drIFg0(103/150) AAS
>>763 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>764 それも観念であるのみなのじゃ。
実際は全て同じものなのじゃ。
物とも別に空間があるわけではないのじゃ。
物がないことを空間と呼ぶだけなのじゃ。
>>765 雑念を流せるようになればすでに観察も出来るじゃろう。
省4
770(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/02(火)21:27 ID:1d4drIFg0(104/150) AAS
>>767 少しはよくなるじゃろう。
少しずつ向上していくのじゃ。
慈悲の行いによって人にもなれるのじゃ。
>>768 そうじゃ、本心を観察するのじゃ。
苦があるならば苦があると観察するのじゃ。
それが本心を観察することなのじゃ。
苦があるのに苦しくは無いと偽ればそれは本心ではなく、苦がなくなることもないのじゃ。
省7
774(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/03(水)20:54 ID:1d4drIFg0(105/150) AAS
>>771 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>772 それはおぬしが何を目的とするかによって違うのじゃ。
観念の世界では客観的な真実は無い故に、おぬし自身の目的によって正しさも変るのじゃ。
空性が真理とはぽったんと名乗るものも言っていたのじゃ。
おぬしが真理を知っているといいながら他人に論破されて反論できず酒に逃避する人間になりたいならば、空性を真理と思うがよいのじゃ。
因縁の観察が最終手引きとか語るのは麻原彰晃なども唱えていたのじゃ。
省13
777: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/04(木)21:01 ID:1d4drIFg0(106/150) AAS
>>775 縁起とはお釈迦様が説いた心の観察法なのじゃ。
人の心は刺激から起こる連想を根本の働きとしているのじゃ。
例えばりんごを見れば、すっぱい味を思い出すというようにのう。
りんごを見るのが縁として、すっぱい味の連想が起こったのじゃ。
さらにその思い出したことを縁として、すきとかきらいという感情も起こるじゃろう。
そのように次々と縁によって起こる心の働きが続くことを観察する方法なのじゃ。
>>776 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
省1
780(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/05(金)21:30 ID:1d4drIFg0(107/150) AAS
>>778 そうかもしれん。
ちがうかもしれん。
いずれにしても主張することはおなじなのじゃ。
同程度の者じゃな。
>>779 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
785: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/06(土)20:20 ID:1d4drIFg0(108/150) AAS
>>781 それは感情を観察するための法なのじゃ。
刺激による縁で図らずも起きてしまう苦に有効なのじゃ。
何か苦があるならばそれをやるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>782 考えは観察しなくてよいのじゃ。
全て雑念として流してよいのじゃ。
思考は過去の記憶によるものであるからのう。
省7
788: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/07(日)20:33 ID:1d4drIFg0(109/150) AAS
>>786 観察とは今ここにあるものごとをありのままに感じ、認識することなのじゃ。
否定することも肯定することもなく解釈することも無くありのままに受け入れるのじゃ。
それによって観察対象が自分ではなく、自分のものではないという気付きが生まれ、厭離が起こるのじゃ。
>>787 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
791: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/08(月)21:13 ID:1d4drIFg0(110/150) AAS
>>789 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>790 そのような者には丹田に集中するのがよいかもしれん。
腹式呼吸をしながら、下腹へそ下三寸の中にある丹田に集中するのじゃ。
元気が出るじゃろう。
熱が出たり反応があれば手ごたえもあるとわかるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
797(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/09(火)22:00 ID:1d4drIFg0(111/150) AAS
>>792 よいのじゃ。
善いことじゃ。
お釈迦様も欲に囚われるぐらいならば、むしろ瞑想に安楽を見出すようにといっているのじゃ。
どんどん楽しむとよいのじゃ。
>>793 思考をどうにかしなくてよいのじゃ。
ただ流れるままにしておくのじゃ。
そうすれば自然に止まるのじゃ。
省14
803(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/10(水)20:56 ID:1d4drIFg0(112/150) AAS
>>798 仏教における法とは悟りを得るための方法を指しているのじゃ。
止観も四諦も因縁も全て悟りを得るための方法なのじゃ。
方法であるから悟りを得るために最後には捨てられるのじゃ。
そのように理解するとよいのじゃ。
>>799 どういたしまして、またおいでなさい。
>>800 そのような方法でも極めれば自我も見えるじゃろう。
一つの方法を極め尽くせば悟りも向こうからやってくるのじゃ。
省2
804: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/10(水)20:57 ID:1d4drIFg0(113/150) AAS
>>802 よかったのじゃ。
更に実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
811(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/11(木)21:29 ID:1d4drIFg0(114/150) AAS
>>805 1 それもまた観念の創るものであるからなのじゃ。
死ぬ本人の観念が相手に届くのじゃ。
そうであるから服も一緒にでるのじゃ。
2 そのようなことはないのじゃ。
眠る時にそれがないようにのう。
よほど悪い事をしたものならば苦が迫ってくるような気になるかもしれん。
省9
815(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/12(金)20:45 ID:1d4drIFg0(115/150) AAS
>>810 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>812 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>813 臨終が安らかであれば死後もよいところにいくじゃろう。
昔のインドではそのような者は少なかったのじゃ。
悪い事をしなければ食べられなかったものも多かったじゃろう。
省2
820(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/13(土)21:30 ID:1d4drIFg0(116/150) AAS
>>816 よかったのじゃ。
またおいでなさい。
>>817 そうじゃろう。
そのようなものにひっかかるのは自分も攻撃欲があるからなのじゃ。
攻撃欲を発揮する大義名分を与えられて行うのであるから悪い報いは避けられないのじゃ。
>>818 それでよいのじゃ。
言葉やイメージに出来るものは全て観念なのじゃ。
省3
823: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/14(日)21:46 ID:1d4drIFg0(117/150) AAS
>>821>>822 そうじゃ、全ての観察は言葉がなく行われているのじゃ。
観照もまた言葉がない観察によって起こるのじゃ。
言葉にされるのは観察が記憶になった後なのじゃ。
観察による気付きを自分や他人に説明しようとすると言葉にする働きが起こるのじゃ。
その過程も観察してみるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
829(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/15(月)21:20 ID:1d4drIFg0(118/150) AAS
>>824 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>825 それは観念の苦なのじゃ。
自らの行いを悔やんだり、失ったものに執着するために苦が起こるのじゃ。
苦があるから自殺しても観念の苦はやはりあるものじゃ。
肉体の痛みなどの苦も実は痛みがいつまで続くのかとか、なぜ自分がこのように苦しむのかとか、、
想っているために起こる観念による苦が大きいのじゃ。
省3
830(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/15(月)21:31 ID:1d4drIFg0(119/150) AAS
>>827 そのような観察でよいのじゃ。
更に実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>828 それは観察して気付くことによって間違った自己認識がなくなるからなのじゃ。
例えば自分を臆病者と想っている者が居たとして、車の音がするたびに怯えるから自分は臆病だと認識していたりするのじゃ。
しかし、それが過去に車に轢かれそうになった事が原因で今も肉体を守ろうとしていただけであると気付けば、自分は臆病ではなかったとわかるのじゃ。
そして車もそれほど気にしなくてもよいと知るじゃろう。
省8
837(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/16(火)21:29 ID:1d4drIFg0(120/150) AAS
>>831 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>832 死後はもはや意志も弱く修行ができないのじゃ。
ただ苦しいという観念があるのみなのじゃ。
生きているうちに修業するのが一番なのじゃ。
>>833 回避できるじゃろう。
あるじゃろう。
省9
841(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/17(水)20:58 ID:1d4drIFg0(121/150) AAS
>>838 死んだら病苦はなくなるじゃろう。
善い事をしていれば善い所に生まれるじゃろう。
安心して修業に励めばよいのじゃ。
自分のしたこととしなかったことをらみるのじゃ。
>>839 そのような恐れも自分の心の中に原因があるものじゃ。
原因から観察されればその恐れも消えるのじゃ。
省10
846(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/18(木)20:51 ID:1d4drIFg0(122/150) AAS
>>842 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>843 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>844 その者を信じていたのならば原因になることもあるじゃろう。
苦の根本原因は自分が゛あるという想いなのじゃ。
それを無明というのじゃ。
省6
850(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/19(金)21:08 ID:1d4drIFg0(123/150) AAS
>>847 自分があると想っている仮想の上で自ら望むということもありえるのじゃ。
苦を無くすつもりで自分を殺せばむしろ大きな苦を重ねてしまうのじゃ。
無明の上に無知を重ね、苦の上に苦を重ねてしまうのじゃ。
生きているうちに苦を除く道を行くものこそ賢いものといえるのじゃ。
仮想の自分が生まれかわるという幻想もそれによって起こるのじゃ。
>>848 それもあるじゃろう。
省6
852: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/20(土)20:33 ID:1d4drIFg0(124/150) AAS
>>851 イメージだけでは無理なのじゃ。
正しい姿勢で丹田に圧力がかかるようにしないと、気も発生しないのじゃ。
姿勢が大事なのじゃ。
集中が進めばサマーディに入れるのじゃ。
観察は要らないのじゃ。
姿勢を正すのに役に立つこともあるがのう。
何でも試してよいのじゃ。
省2
864(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/21(日)21:06 ID:1d4drIFg0(125/150) AAS
>>853 呼吸は自然のままでよいのじゃ。
姿勢が真に正しければ上体の重みが自然に丹田にかかるのじゃ。
それによってサマーディも自ずから訪れるのじゃ。
>>854>>858 心の主人となるのじゃ。
心を主人としてはいかんのじゃ。
心をコントロールせよということじゃな。
例えば感情の怒りが起こったならばそれに従えば、人を傷つけたりするじゃろう。
省10
865(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/21(日)21:18 ID:1d4drIFg0(126/150) AAS
>>860 自分の力でどうにもならないことはもはや捨てるがよいのじゃ。
それについて悩むのは無意味なのじゃ。
頭を下げなければならないところは下げるが良いのじゃ。
そしてそれについてもはや悩むことは無くすのじゃ。
もはや自分の手を離れた仕事について悩むことがないようにのう。
それもまた社会で身に付けるべき仕事のための技の一部といえるじゃろう。
自分自身のためのストレスマネジメントが必要なのじゃ。
省14
873(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/22(月)21:00 ID:1d4drIFg0(127/150) AAS
>>866 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>867>>868 実際には無いが自分があると認識しているものには生があり、生まれかわりもあるのじゃ。
おぬしも自分が無いと実際に感じていないじゃろう。
ただわしがいう知識として記憶しているだけじゃ。
そのような者には生があり、生まれかわりも続くのじゃ。
>>869 理由を見ても無くならないのじゃ。
省8
880(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/23(火)21:59 ID:1d4drIFg0(128/150) AAS
>>874 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>875 幼少からの心の病は親の言動とかが原因の場合が多いのじゃ。
或いは命に関わる病や事件があったとかなのじゃ。
肉体をよく観察するのじゃ。
どこが痛むのかとか、そこ以外に痛んだり凝っていたりするところはないかとか、
省6
881(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/23(火)22:04 ID:1d4drIFg0(129/150) AAS
>>877 自我が自分を守るものであるとか、自我が無ければ死ぬとか、他人に操られるとかなのじゃ。
人にょって違うじゃろう。
自らの本心を観察して確めるのじゃ。
>>878 筋肉の下の辺りなのじゃ。
そこに集中すれば気が発生するのじゃ。
熱の気なのじゃ。
>>879 自我は観念でしかないから生まれかわらないのじゃ。
省7
886(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/24(水)21:42 ID:1d4drIFg0(130/150) AAS
>>882 おぬしの心はそれを知っておる。
それ故に今も反応があり続けるのじゃ。
数息観などの集中の瞑想をして、心を観察すれば次第にわかってくるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
筋肉や骨の周辺に凝っている処があれば、そこで血行が悪くなり病の原因ともなるのじゃ。
風邪の時はわしは喉や胸の筋肉に痛みやコリがあると観察したのじゃ。
それをマッサージして治すと風邪も治ったのじゃ。
省15
893(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/25(木)21:30 ID:1d4drIFg0(131/150) AAS
>>887 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>889 思考や感覚に注意を向けなくてよいのじゃ。
ただ一つの対象に集中するのじゃ。
それができたら自然にできるものじゃ。
ただひたすらに集中するがよいのじゃ。
>>890 普段から考えているとよいのじゃ。
省11
899(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/26(金)21:18 ID:1d4drIFg0(132/150) AAS
>>894 集中したほうがよいじゃろう。
呼吸とか胸の真ん中とか眉間などに集中するのじゃ。
眉間に集中するときはあまり目に力をいれないようにするのじゃ。
>>895 よかったのじゃ。
またおいでなさい。
>>896 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
省9
907(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/27(土)21:23 ID:1d4drIFg0(133/150) AAS
>>900 イメージを思い浮かべて集中する方法もあるのじゃ。
例えば太陽とか月とかを体内にイメージするのじゃ。
太陽は下丹田、月は頭頂にイメージするのじゃ。
そのような集中はイメージを思い浮かべるのじゃ。
イメージを使わない方法はただ呼吸とか体の一部に集中するのじゃ。
>>901 集中力が身につけばそれも容易になるじゃろう。
イメージする集中法を実践してみるのじゃ。
省11
908(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/27(土)21:33 ID:1d4drIFg0(134/150) AAS
>>904 おぬしがその分離感覚が自分であり、主体であると認識しているならばそれが自我なのじゃ。
そうでないならばそれは自我ではないのじゃ。
観ているものが自分であり、主体であると認識しているならばそれがおぬしの自我なのじゃ。
何を自分であり、主体であると認識するかは人によって違うのじゃ。
それ故に人は自らの自我を各自で観察しなければいかんのじゃ。
それが自分と想っているものであったとはっきり気付いたならば、観照が起こるじゃろう。
自我と想うものがそれかもしれないとするならば詳しく観察してみるのじゃ。
省9
915: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/28(日)20:41 ID:1d4drIFg0(135/150) AAS
>>909 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>910 自分を身受心法を通して観察する方法なのじゃ。
身とは肉体なのじゃ。
受とは感覚なのじゃ。
心とは心の働きなのじゃ。
法とは四諦とか因縁の法なのじゃ。
省6
916(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/28(日)20:55 ID:1d4drIFg0(136/150) AAS
>>913 正確な原因がわからなければ無意味なのじゃ。
自分で原因を探すしかないのじゃ。
相談のスレで何人も報告しているのじゃ。
何もしなければいつまでもそのままなのじゃ。
>>914 不正に観察しても何も起こらないのじゃ。
手があるのに無いとか観察しても不正であるから何も起こらないのじゃ。
省2
923(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/29(月)20:53 ID:1d4drIFg0(137/150) AAS
>>917 どういたしまして、またおいでなさい。
>>917 それは無我ではないのじゃ。
自我は自分と思っているものなのじゃ。
それが観られるのが観照なのじゃ。
観照が起これば無我になり、日常でも無我の状態でいられるのじゃ。
自分とか私とかそのような観念から考えることすらなくなるのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
省2
925(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/29(月)21:08 ID:1d4drIFg0(138/150) AAS
>>921 観られるじゃろう。
意志によって恐れも克服できるのじゃ。
そのように言えるじゃろう。
全てが断ち切られるようなものでよいのじゃ。
そのような恐れも克服できたならば、もはやこの世で恐れることはないのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
省4
940(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/30(火)21:26 ID:1d4drIFg0(139/150) AAS
>>927 因縁とは原因のことなのじゃ。
直接の原因を因といい、間接的な原因を縁と呼ぶのじゃ。
縁起はものごとが縁によって起こる状態なのじゃ。
因縁によって起こるということもできるのじゃ。
そのような違いがあるのじゃ。
>>929 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
省14
941: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/30(火)21:27 ID:1d4drIFg0(140/150) AAS
>>938 そうじゃ、正しく観察していけばよいのじゃ。
正しく観察できれば変容は訪れるのじゃ。
何も変化が無いのは正しく観察できていないからなのじゃ。
>>939 善いことじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
947: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/05/31(水)21:34 ID:1d4drIFg0(141/150) AAS
>>942 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
何度でも訊くとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>943 そう言えるじゃろう。
阿頼耶識も観念によって総てを認識しているのであるからのう。
実践によって確めるのじゃ。
>>944 それは思い出すと苦が起こるから無意識に逃避しているのじゃ。
省13
958: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/01(木)21:33 ID:1d4drIFg0(142/150) AAS
>>948 嘘なのじゃ。
ストレスが多かったり、生活が荒れていればがんになるものじゃ。
自殺と同じではないのじゃ。
>>949>>950 そこに苦があるならば、苦があると観察するのじゃ。
そして原因を追求するとよいのじゃ。
苦が無ければ苦がないと観察するがよいのじゃ。
今ここにあるものだけをありのままに観察するのじゃ。
省18
959: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/01(木)21:34 ID:1d4drIFg0(143/150) AAS
>>956 どういたしまして、またおいでなさい。
>>957 そうじゃろう。
更に善事を重ねるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
967(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/02(金)21:47 ID:1d4drIFg0(144/150) AAS
>>960>>962 そうじゃ。
原因に気付いた後に原因から苦が起こる事を観察し、原因がなければ苦が起きないことを観察するのじゃ。
観察が完全に出来れば苦は消えるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>961 言葉もあるが、イメージもあるじゃろう。
言葉以前にイメージが自我を構成しているのじゃ。
それ故に言葉によっては自我は観えないのじゃ。
省16
968: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/02(金)21:48 ID:1d4drIFg0(145/150) AAS
>>966 おぬしがそれを真実と知っていれば正しいことじゃろう。
嘘でも慈悲にょって言うならば善事なのじゃ。
想いが善悪を決めるのじゃ。
976: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/03(土)21:16 ID:1d4drIFg0(146/150) AAS
>>969 返さないでよいのじゃ。
ただひたすらに己の本心を観るのじゃ。
それはこれから死ぬまで続ける作業なのじゃ。
一時の感情でやめたりするべきものではないのじゃ。
絶望を超えて進むのじゃ。
>>970 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
省9
977(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/03(土)21:34 ID:1d4drIFg0(147/150) AAS
>>974 それは言わば自分の定義なのじゃ。
例えば肉体が自分と定義する者は肉体があればもう自分はあると認識するじゃろう。
感覚や感情や思考が無くとも肉体があれば自分はあると認識するのじゃ。
肉体が無ければ自分はないと想うのじゃ。
そのような定義から自分というものを追求していけば自我も見やすくなるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>975 気付いたことになるじゃろう。
省5
990(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/04(日)21:09 ID:1d4drIFg0(148/150) AAS
>>978>>985 それが何なのか観察によって明らかにするのじゃ。
自ら気付かなければ他人に話すことも出来ないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>979>>981 どういたしまして、またおいでなさい。
>>982 それもあるのじゃ。
老病死は常に人の壁となり、修行を推進する追い風ともなるものじゃ。
省6
991: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/04(日)21:13 ID:1d4drIFg0(149/150) AAS
>>986 そうじゃ、自我は毎朝毎刹那起こるものじゃ。
朝は自我を思い出すのじゃ。
一日の中でも何度か自我を忘れたりしているものじゃ。
>>987 悟っていないのじゃ。
悟りを目指してもいなかったじゃろう。
浄土を目指していたのじゃ。
>>988 そうじゃろう。
省5
1000: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/06/05(月)21:16 ID:1d4drIFg0(150/150) AAS
>>992>>993 そうじゃ、本心を観察することが基本なのじゃ。
偽りの心を観察しても何も起きないのじゃ。
本心を観察してこそ変容も自ずから起こるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>994 そうじゃ、それは悟りを求める法ではないのじゃ。
サマーディにまではいけるがのう。
省13
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