鬼和尚に聞いてみるスレ part8 (1001レス)
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3(1): 2016/12/06(火)12:54 ID:Hasf7zeM0(1/34) AAS
回答ありがとうございます。 認識する作用が見えるようになるまで精進します。
それから、以前、鬼和尚は観念があればそこに又主体と客体という観念も起こる
とおっしゃっていましたが、一つの観念につきいちいち主体と客体という観念が生起するなら
鬼和尚のようにすべての観念がない状態だと観念による主体と客体の生起も起こらず、
したがって自我も生じない、ということですか?
7(1): 2016/12/06(火)21:45 ID:Hasf7zeM0(2/34) AAS
>>5
ということは無我ではまだ観念が残っているから主客の観念も残り続けるのでしょうか?
9(1): 2016/12/07(水)02:35 ID:Hasf7zeM0(3/34) AAS
連投すいません、自我の観照を起こすには恐怖があるままだと起こりませんか?
全ての恐れがなくならないと観照は起こらないんでしょうか?
15(1): 2016/12/08(木)17:07 ID:Hasf7zeM0(4/34) AAS
>>12
ありがとうございます。逃避しない、ということが肝要ということですね。
あの、相談なんですが、認識を滅さなければいけない、ということが強烈な
執着になって、その執着心が、もしそれを達成できなかったらどうしようという強い恐れを引き起こしている場合、鬼和尚ならどうしますか?
認識を滅したくても観照が起こっていないから今すぐには認識する作用もとらえられないし、
心底から執着を手放せるならばそうしたほうがいいでしょうか?
21(1): 2016/12/09(金)08:36 ID:Hasf7zeM0(5/34) AAS
>>19
わかりました、そうしてみます。ありがとうございました。
それから、凄く今更な疑問なんですが、なぜ自我を観察して厭離することを
ある程度続けると「自我の観照」が起こるんでしょうか?観照は自分では引き起こせない
と言われているのに自我の観察をある程度行うと向こうからやってくる、というのは
何らかの因果関係がある、ということでしょうか?
この程度まで自我を厭離すれば観照は起こるとか、これこれこの要件を満たせば起こる、
省1
35(1): 2016/12/10(土)15:53 ID:Hasf7zeM0(6/34) AAS
>>28
なるほど、観照は日々の自我の観察、厭離の積み重ねの結果である、
ということも言えるでしょうか?
そして、どの程度まで行えば必ず観照が起こる、といったことはないが、
自我の観察を行えば行うほど観照が起こる確率もそれに比例し高めることができる、
そのように日々の自我の観察と観照には深い相関関係というか因果関係が
ある、ということも言えますでしょうか?
41(1): 2016/12/11(日)17:34 ID:Hasf7zeM0(7/34) AAS
>>37
ありがとうございました。
47(1): 2016/12/12(月)18:18 ID:Hasf7zeM0(8/34) AAS
鬼和尚は無我になれば認識を滅するのは容易い、とおっしゃっていますが、
それは無我になれば認識する作用が見えやすくなる(=捉えやすくなる)
という理由からそうおっしゃっているんですか?
無我になると認識を観察するのが容易くなる理由はそれ以外でありますか?
50(1): 2016/12/13(火)03:22 ID:Hasf7zeM0(9/34) AAS
>>49
ありがとうございます。
でも、認識する作用を観察するって、実際どんな感じで見えるんですか?
例えば目の前にペンがあるとして、それを見てペンだと認識するのなんて一瞬ですよね、
目を閉じた状態から目を開けてペンを見る、ということをやってみましたけど瞬時に終わりすぎて認識の作用をとらえる間なんてありませんでした、
ペンを見て「これはペンだ」と思えばそれはもはや思考だし、実際認識する作用の全容をとらえる、なんてのはどんな
感じで見えるのでしょうか?
省1
52(1): 2016/12/14(水)00:10 ID:Hasf7zeM0(10/34) AAS
>>51
え?! 無我であればもはや認識作用の早さが関係なく認識の作用を捉えられるんですか?!
それは大げさに表現したわけでも何でもなく、無我になれば本当に「認識の作用の早さが関係なく」認識作用
(=阿頼耶識)を容易に見れる、と?
58(1): 2016/12/14(水)23:11 ID:Hasf7zeM0(11/34) AAS
>>56
なるほど、ということは話をまとめると、
自我の観照が未だ起こっていない状態だと自我が障害となり認識を観察するのは困難であるが、
観照が起こってしまえば(=無我になれば)認識を観察するのは文字通りに「容易になる」
ということでいいでしょうか?
実際に容易になるから、認識を滅するという最終目的を達するにはまだ無我じゃないのに認識を滅しようと
奮闘するのではなく、その前段階として自我の観照を起こすために自我がどこに投影されているかを観察して厭離していき、
省2
64(1): 2016/12/15(木)21:40 ID:Hasf7zeM0(12/34) AAS
>>63
ありがとうございます。しつこいようですが確認として無我になれば本当に
実際問題として認識を観察することは無我になるまえに比べて「容易」になるんですよね?
それから、認識を観察して厭離できたらその瞬間というかその直後に何が起こるのでしょうか?例えば世界がすごくリアルに見えるとか、
何か色々あれば教えてください。
69(1): 2016/12/17(土)00:19 ID:Hasf7zeM0(13/34) AAS
>>68
そうですか、ということは認識を厭離できたら、その瞬間から以前のような観念だらけのフィルターがかった世界から
何の観念の投影もない、全てが一つの意識である(無理やりにでも言葉で表現してみれば)、ということを体感している状態へシフトする、
そんな感じになる、ってことでしょうか?
そして、そのシフトは瞬間的なものであり、厭離できた瞬間にそうなる、という感じでしょうか?
74(1): 2016/12/17(土)22:36 ID:Hasf7zeM0(14/34) AAS
>>73
ありがとうございました、それならわかりやすそうですね。
それから、また質問なんですが、「観照」というのは
一回起これば充分なんですか?
よく一瞥体験をした人の話を聞く限りでは、自我がいなくなった後、またすぐに自我が戻ってきて一瞥体験以前の
状態に戻ってしまった、と言う話をよく聞くので「観照」が起こってもまた自我が戻ってこないか不安です。
そもそも「観照」と「一瞥体験」、この二つには何か違いのようなものはあるんでしょうか?
79(1): 2016/12/19(月)01:13 ID:Hasf7zeM0(15/34) AAS
>>77
一瞥体験はむしろサマーディ的な体験であって観照とは明確に違う、といったところでしょうか、、
それから、鬼和尚の
「観照は自我に気付いて無我になるのであるからかなり長く続くのじゃ。
観念が残っているから主体が想起されるまで無我であり続けるじゃろう。
そのような違いが有るのじゃ。」
という文章を見る限り、観照が起きても観念が残っている故にその観念がいずれ主体を生起
省6
92(1): 2016/12/20(火)04:30 ID:Hasf7zeM0(16/34) AAS
>>87
なるほど、観照が起これば主体という観念から離れることができるが、たまーに主体という
観念が生起してしまうこともある、しかし、それはまれなことであって基本的には
自我がただの観念だと気づいているから基本的には主客という観念から離れている状態にいる、
ということでしょうか
98(1): 2016/12/21(水)07:11 ID:Hasf7zeM0(17/34) AAS
>>95
ありがとうございました。
それから、観照について質問なんですが、鬼和尚はよくいろんなところで、
「この人は悟っている」、「この人は無我までだ」、とか「この人はサマーディまでじゃな」、
みたいな感じでその人がどの段階にいるかについての判断を述べているレスをよく見るんですが、「この人はサマーディまでだ」
というのはおそらく自我の観照は起こっていない(=無我には至っていない)という意味かと思うんですが、
どうしてそのようなサマーディまでで無我には至っていない人たちってそれほど長く非二元というか
省6
105(1): 2016/12/22(木)07:14 ID:Hasf7zeM0(18/34) AAS
>>102
恐れが止めてしまう、ですか、誰とは名前を出して言うことはできませんが、鬼和尚が「サマーディまで」と
判断した人はその道について大勢の人の前で話すなどだいぶ精通、熟達している印象が
あるので、流石に自我消失の恐怖を未だ超えていない、というのは考えづらいと思いますが…
113(1): 2016/12/23(金)05:15 ID:Hasf7zeM0(19/34) AAS
>>109
わかりました、ありがとうございました。
139(1): 2016/12/27(火)21:19 ID:Hasf7zeM0(20/34) AAS
心身の一切を細分化して可能な限りとことん自我を観察、厭離し、さらに自我消失の恐怖すらも無事に乗り越えることができても
そこからいっこうに観照が起こらない、という状況は起こりえますか?
142(1): 2016/12/27(火)21:31 ID:Hasf7zeM0(21/34) AAS
それから、鬼和尚があの強烈な自我消失の恐れを乗り越えることができたのは観照が起きる以前ですか?
金剛経を読んでいる際に観照が起きたという出来事の前にはもうすでに自我消失の恐怖は乗り越えていたんでしょうか、
それとも観照が起きたと同時に消失の恐怖も消えたのでしょうか?
144(1): 2016/12/27(火)21:41 ID:Hasf7zeM0(22/34) AAS
>>141
そうなんですか?!、心強いです、ありがとうございました。
それから、すいませんがニアミスしてしまいました。ご足労おかけしますが142もお願いします。
150(1): 2016/12/28(水)22:27 ID:Hasf7zeM0(23/34) AAS
>>147
なるほど、整理させてもらうと順番としては
自我消失の恐れを乗り越えた→ある程度の時間の間を挟み→金剛経を読んでいるときに観照が起こった
という順序で合ってますか?
157(1): 2016/12/29(木)23:21 ID:Hasf7zeM0(24/34) AAS
>>156
ありがとうございます。その自我消失の恐れを乗り越えた時点においては
肉体の死に対する恐怖はまだ残存していましたか?
観照が起こらない限り肉体が死ぬことへの恐怖は消えないのでしょうか?
160(2): 2016/12/30(金)22:31 ID:Hasf7zeM0(25/34) AAS
>>159
え?!本当ですか?
ということは自我消失の恐れさえ直視して乗り越えることができればそれと
同時に肉体の死への恐怖も消える、ということですか?
要約すると肉体の死への恐怖は無我にならなくても=観照が起こるのを待たずとも
それ以前の時点において乗り越えられる、ということですか?
172(1): 2017/01/01(日)13:01 ID:Hasf7zeM0(26/34) AAS
>>168
わかりました、ありがとうございました。
それから、鬼和尚さん今年一年ありがとう&ご苦労様でした(__)
175(1): 2017/01/01(日)22:49 ID:Hasf7zeM0(27/34) AAS
>>168
おっしゃられていることをまとめると
観照が起こらなくとも死への恐怖を乗り越えることは可能、ということでよろしいですか?
181(1): 2017/01/03(火)07:06 ID:Hasf7zeM0(28/34) AAS
>>178
わかりました、ありがとうございました。
認識を滅した後って仮にまた手放すべきエゴ的カルマを生成しようと思ってもそれをすることは
不可能になるんでしょうか
わかりやすく言うと認識を滅した後にまたエゴまみれになりたいと思ってもそれはできるのか否か、
ということです。エゴまみれになるための源=阿頼耶識がないから無理でしょうか
185(2): 2017/01/03(火)22:02 ID:Hasf7zeM0(29/34) AAS
>>184
でも流石に自分は肉体である、とか「自分は何々だ」という観念を再度生成することは不可能ですよね、
自分が何者でないかがわかったのなら思い込もうとしても思い込めない気がしますし、
しかも認識を滅した後にまたエゴまみれになっちゃったら輪廻転生だって終わらないでしょうし、、
192(1): 2017/01/05(木)01:25 ID:Hasf7zeM0(30/34) AAS
>>185もお願いします。
199(1): 2017/01/06(金)02:54 ID:Hasf7zeM0(31/34) AAS
>>197
そうなんですね、ありがとうございました。無認識になった後に観念と関わることは
あるのかということに関連して質問があります。
以下、引用です。
「 私の好きなインドの賢者、ニサルガダッタ・マハラジに、彼の中にもまだエゴ的人格がわき起こるのかどうか、と誰かが尋ねたことを私は思い出します。マハラジは『もちろん、それは起こるものだ。しかし、私はすぐにそれが幻想だと見て、捨てる』と非常に気楽に答えました。」
出典 アジャシャンティ 著、髙木 悠鼓 訳、「あなたの世界の終わり―『目覚め』とその“あと"のプロセス」、ナチュラルスピリット、2012年、66ページ
省5
206(1): 2017/01/07(土)03:59 ID:Hasf7zeM0(32/34) AAS
>>204
ということは認識を滅したとしても気を付けていなければエゴに巻き込まれてしまう
危険性も少なからずある、ということでしょうか?
でも無認識になれば輪廻転生も終わるという感じのことを
以前に見た気がしますが、認識を滅した後にエゴに巻き込まれてしまってそれを
手放さずにあえて放置してしまったなら輪廻転生(この世界に何度も生まれ変わってしまうというループ)も続いてしまうんでしょうか?
212(1): 2017/01/08(日)06:09 ID:Hasf7zeM0(33/34) AAS
>>210
それなら、認識を滅した後にエゴがわき起こったらそれにしっかり気づいて手放さないと
まずいですかね、、(解脱するという目的に照らしたら)。
っていってもそんな心配は形而上的な憶測になるであろうから
認識を滅した後にエゴが沸いてそれをそのまま放置して死んでもそれ故に解脱できなくなるかどうか、なんてことは
生きているうちはわからないでしょうが、やはり無認識になったあとにエゴが
わき起こったら手放した方がいいですよね?
省1
226(1): 2017/01/10(火)02:02 ID:Hasf7zeM0(34/34) AAS
>>214
放っておいても消える、ですか、、ということは認識を滅した後にエゴがわき起こってきても
「解脱するためにはこれを手放さなければいけない!!何故ならせっかく認識を滅したのに再度わき起こってきた残存していたエゴを見て見ぬふりなどをしたらまた輪廻転生が続いてしまう!!(認識を滅したらもはやこんなことは思わなくなるでしょうが)」
というように深刻にとらえてそのエゴを手放すためにやっきになる必要はない、むしろ再度残存していたエゴがわき起こっても放っておいたら消えるから放っておいてもいい。ということですか?
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