[過去ログ] 天理教社会学研究所 カインを 糾す。 (442レス)
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186: 天理教H 2019/01/03(木)00:12 ID:8udh8Z7a2(2/15) AAS
そして、渡邉秀子氏は、政子甘露台の渡邉よそ氏とは叔母 姪の関係らしいですが、
渡邉よその前生が中山みきの娘であるおまさ、ご主人の前生が秀司と天啓で出てますと言いますが、
おまささんは、教祖の前半のひながたを伝える貴重な存在意義はあり、嫌味を言って正味とかすを分ける「箕の役」でしたが、
酒ぐせが悪くて、その頃の人々から持て余し者で「ほこりの屋形」と言われていた人ですね。

秀司さんの生まれかわりは2代真柱です。2代真柱が生まれた時の本席の言動が証明しています。
それと誰々の生まれかわりで価値を見出そうとするおぞましさ、おふでさきの中に屋敷内の人に前生が道具、雛形であったとは述べてますが、
つとめ人衆は多くの用木の心を見てその中から親神様の思召しに叶う者を役割にすると述べてます。
教祖でさえ40年間、月日が心を見澄まされた上で天降ってます。そして、本席は前生が道具、雛形ではありませんでした。

つまり、それは前生のいんねんはあるが親神様は今生の心の在り方に重きを得ているのではないでしょうか。
天理教の教祖と関係なく人が助かっていく手段の一つ各宗教の教主が教える教義ならいいですが、
省2
187: 天理教H 2019/01/03(木)00:15 ID:8udh8Z7a2(3/15) AAS
>>44-45

元治元年のつとめ場所棟上と115歳定命をかけていますが、教祖は「この普請は、三十年の見込み。」と仰せになり、
史実では其れに関わった本席が元治元年から数えで30年後明治26年に竣工した本席御用場に移っています。
これの意味するところは、「つとめ」と「さづけ」に関する事。だから、つとめ場所棟上と115歳定命の事柄は関係ありません。
188: 天理教H 2019/01/03(木)00:18 ID:8udh8Z7a2(4/15) AAS
>>91
>教祖は「わしはひながたやで」と言われてる様に弥勒菩薩を出すが為のひな
>がたとなられました。本部は信者が道を通るが為のひながたと説きました。
>それは無理があります。教祖は神のやしろで有り天啓通りに通られただけです。

教祖は「わしはひながたやで」と仰られたのも、自ら歩んで助かる道を示され「どんな道も親が通りた道である」と仰っています。
親が子供たちが道を通るのに迷わない様に先に道を通ったのです。それは、山の中で道をつける事と同じであり、
その道がなければ遭難します。教祖は人間の親です。その親が子に解りやすいように自ら通る事によって見せたのです。
それがひながたと言うのです。

「をや一つの道、どういう道を通りたなあ」M22.8.12
「どのような道も皆々五十年の間の道を手本にしてくれねばならんで。」M20.陰5
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(1): 天理教H 2019/01/03(木)00:24 ID:8udh8Z7a2(5/15) AAS
教祖は神の社になってから親神様であり、我が子である人間をたすけたい、成人させたいとばかり思う教祖しか存在しません。

にち/\にをやのしやんとゆうものわ たすけるもよふばかりをもてる (14-35)

その教祖は今も”ぢば”に居て皆が知ろうか信じまいか関係なく日々働いているのです。
だから、教祖は弥勒菩薩のひながたではありません。教祖は多くの人々を救済する仏教で言ったら弥勒菩薩でもあります。

ひながた”かんろだい”も石造りにたいして木製であるからであり、もし人間が”かんろだい”であるなら、
ひながた”かんろだい”も人間の形をしていなければならないでしょう。教祖直々に”かんろだい”の寸法を指導され、
そして、「このよふハりいでせめたるせかいなり」とかんろだい寸法の理もあります。

かんろたいすへるところをしいかりと ぢばのところを心づもりを (9-19)
このやしきかんろふだいをすへるのハ にんけんはじめかけたしよこふ (10-79)
にんけんをはじめかけたるしよこふに かんろふたいをすゑてをくぞや (17-9)
省10
190: 天理教H 2019/01/03(木)00:29 ID:8udh8Z7a2(6/15) AAS
>>91
>昭和五十一年三月十五日(教祖九十年祭の年)朝六時頃
>五十代の女の人が目覚めたら白いカーテンの様な物があり一文字十センチ真四角位の
>大きさで金文字がゆっくりと
>「わがみにも うれしきことや ひのあたる  ときがきたぞや いましあわせに」
>コレが最初の天啓で 本人も びっくりして そこに有った紙と鉛筆で 歌を書かれました

教祖に月日が天降った時は、我が嬉しいとか日の当たるとか今幸せになるとか教祖の思いは、何一つ出てこないし、
月日も教祖自身に了承を取ったわけではないのです。そして、教祖の心には我を思う心なく子をたすけたい心しかありません。
191: 天理教H 2019/01/03(木)08:01 ID:8udh8Z7a2(7/15) AAS
>>91 >>93 >>170
>明治二十一年六月二十三日
>甘ろ台一つ人間定めてある何でも一日ある楽しみあると言う事を治めて貰いたい。

人間甘露台を説いている方が良く引用されているおさしづでありますが、伺いのさしづの中に刻限のさしづを混ぜることはありますが、
おさしづ編纂をした桝井孝四郎曰く「おさしづとその時の事情とを切り離した時には、全くさとりの方向もつかないものも出来てくる。
だからおさしづは史実と言うものと切る事に出来ない関係がある。」と述べています。

例えば一例を挙げるなら、
「人が障りがあればあれほこりやと言う。どうも情無い。」(M22.10.9)
では、文言だけを見れば、身上の人をあれは埃が現れていると言う人は情けないと言った意味と捉えやすいですが、
そうでなくその時の事情を考慮に入れれば、本部の人達が刻限を聞き分ける事が出来ない為に現した身上を埃だと
省7
192: 天理教H 2019/01/03(木)08:12 ID:8udh8Z7a2(8/15) AAS
そこで明治二十一年三月九日(陰暦正月二十七日)に伺い「ふしからふしからの芽が出てある。こんな中から芽が出る。
一寸の芽は一寸取れる、すっきり取れる。すっきり掃除。」
 →大神教会の傘下からの脱却。
※明治18年から明治21年まで所属、4月10日の神道直轄天理教会認可で大神教会との関係がなくなる。
追て伺「十分道と言えば、世界から付けに来る。世界からろくぢという道を付き来る。」
 →こっそりかぐらつとめを勤めていたのを公の機関によって堂々と勤められるようになる。
天理教会設立の伺「どんな道も連れて通ろう。一つ理も立てよ/\。十分の理を立つものと、一つの所に日々一つの道を付けようと思う。」
 →ちばから許しだす天理教会の道。
又、教会設立を運ぶに付心得「一つ所本部々々。これまでも伝えてある。あちらも本部々々、どんと十分の所に行かんと、
思案々々。……ぢば一つ理は、独り立ち出来てあるのやで。今一時の所を変えて。」
省15
193: 天理教H 2019/01/03(木)08:16 ID:8udh8Z7a2(9/15) AAS
しかし、高弟達は”ぢば”に本部でなく分教会を設置しようとしたので

「かんろだい一つ」→元なるぢばを教える。
いまゝでハこのよはしめたにんけんの もとなるぢばわたれもしらんで (17-34)
このたびハこのしんちつをせかへちうゑ どふぞしいかりをしゑたいから (17-35)
それゆへにかんろふたいをはじめたわ ほんもとなるのところなるのや (17-36)

「人間(をたすけたいから)定めてある。」
こんな事はじめかけるとゆうのもな せかいぢううをたすけたいから (17-37)

「何でも一日ある、楽しみある、という事を治めて貰いたい。」
かんろたいすへるところをしいかりと ぢばのところを心づもりを (9-19)
これさいかたしかさだめてをいたなら とんな事でもあふなきハない (9-20)
省1
194: 天理教H 2019/01/03(木)08:26 ID:8udh8Z7a2(10/15) AAS
AA省
195: 天理教H 2019/01/03(木)08:28 ID:8udh8Z7a2(11/15) AAS
明治二十一年七月十三日
東京本局へ、奈良県への届を書し、添書頼みに行くに付願
「神一条の道を胸に治めて、世界の理を運ぶよう。まあ暫くの処と思う者もある。なれど神が入り込み守護をする。安心の道運ぶ。
道だけ早く早く運んで了うよう。」
 →暫く本部を東京に置いていればと言う者もあるが、その者に神が入りうまく事が運ぶように守護する。

明治二十一年七月二十三日
東京より届書の添書帰りて願
「さあ/\神一条の理は一夜の間にも入り込むなら、どうしようとままや。朝あちら向いて居るを、こちら向けるは何でもない。」
 →神一条の心で運ぶ事柄は、意に反する者を思い通りにするのは何でもない。

そして、同日(明治二十一年七月二十三日)に奈良県庁に天理教会所移転御届を神道管長の添書、東京府認可の写しなどを出願して、
省3
196: 天理教H 2019/01/03(木)16:29 ID:8udh8Z7a2(12/15) AAS
なにもかもあきをあいづにみへかける よふきづとめにはやくかゝれよ (6-13)
明治八年にぢば定め、つとめが全体にわたって整えられ、それ以降つとめ人衆を揃えられた。
明治十五年に教祖は、「合図立合い、/\。」と仰せられ、一列澄ます為のかんろだい普請がかんろだいの石が没収、
そして、一列澄ましてに変更になり、たすけを急ぐ為に十月十二日から十月二十六日まで、
教祖自ら北の上段の間にお出ましの上、毎日々々つとめが行われた。即ち、善と悪が立合い。
そして、扉を開いて明治二十一年の秋に今までこっそりと(陰気に)勤めていたかぐらつとめが堂々と(陽気に)勤められたのである。

おふでさき第六号の執筆は、明治七年十二月(M7.12.1?陰M7.10.23?〜陽M7.12.31?陰M7.11.23?)より
明治八年一月(M8.1.1?陰M7.11.24?〜陽M8.1.31?陰M7.12.24?)までです。
その第六号十三は、一〜十六で一区切りなので明治七年十二月中に執筆されたと思いますので、それから丁度十四年後、
数えで十五年後の秋、公然とかぐらつとめが勤められた。
省11
197: 天理教H 2019/01/03(木)16:49 ID:8udh8Z7a2(13/15) AAS
AA省
198: 天理教H 2019/01/03(木)17:13 ID:8udh8Z7a2(14/15) AAS
>>95
>神が実の箱に入れて置いた事、みな知っている、聞いている。
>その中のもの外に出して、風を通さな、くさるもの、くさるような事で、なんぼ道やと
>言うていたところが、神が承知出けん。
>どんな山でも大風ふかして、一夜の間にも一列ろくじにならすには、山くり抜くより
>道は無い、

これと明治二十年三月二十二日(陰暦二月二十八日)二時 刻限御話と明治二十年三月十一日(陰暦二月十七日)午後十二時 刻限御話をかけていますが、
明治二十年三月二十二日のおさしづの「風は神や。風がかりもの無うては、箱に物を入れて蓋を閉め切りた如く、
腐ろうより仕様の無いもの。風がそよ/\あるので、半日や一日は送れるで。」は外に出して風を通す事でなく、
少しの風があればこそ腐らないと仰ったのです。それは多少の事情は、それは腐らない為の少しの風と仰るのです。
省6
199: 天理教H 2019/01/03(木)17:21 ID:8udh8Z7a2(15/15) AAS
>>96
>仕事場/\と、言うた処で なにもわからん。
>神の話しを打分ける所 場所と言う。神の仕事場 よごれていては、なにもならぬで、そこであちらにこさし、こちらにこさし、
>やっときれいな仕事場にした。
>神の望む処で話しするのや。

仕事場は場所ではありません。

明治二十年三月二十五日 午前五時三十分 刻限御話
「心の働きを見て、心の尽したるを受け取りてあるから、やりたいものが沢山にありながら、今までの仕事場では、渡した処が、
今までの昵懇の中である故に、心安い間柄で渡したように思うであろう。この渡しものというは、天のあたゑで、それに区別がある。
この通りに、受け取りてあるものがある。それを渡すには、どうも今の処の仕事場と言うた事を消して、本席と定めて渡そうと思えども、
省5
200: 天理教H 2019/01/04(金)00:11 ID:RgUl2cWNG(1/12) AAS
AA省
201: 天理教H 2019/01/04(金)00:17 ID:RgUl2cWNG(2/12) AAS
AA省
202: 天理教H 2019/01/04(金)00:18 ID:RgUl2cWNG(3/12) AAS
つまり、「一二三との印」は一日の理の治まり、一つの道の理を聞き分ける事が一つの印となり(一日?一年?の治まり)、
それを二日、三日(二年、三年)と新たに聞き分ける事が二三との印になる。それが神一条の道となるのです。
簡単に言えば刻限を出して一つ一つ組み合わせるように皆が聞き分けることです。

そして、それが一二三の切りの間は世界の道理上の道を通るが一二三との印を打って神一条の道を通り、
その三の切りの間を超せば「三年経てば、偉い事に成るのやで。」と仰るように、
史実でも明治二十二年から数えで三年後の明治二十四年に盛況を極め滞りなく教組五年祭が勤め終えれ、
翌年も教祖墓地改葬で各教会からの協力と多くの人がひのきしんに参加する壮大な光景であった。
これ以後の教勢は目覚ましく躍進を遂げる事になります。
203: 天理教H 2019/01/04(金)00:23 ID:RgUl2cWNG(4/12) AAS
追記 訂正?は、二重括弧です。
204: 天理教H 2019/01/04(金)00:26 ID:RgUl2cWNG(5/12) AAS
基本さんの解釈は、二代真柱は復元の真柱であって、明治22年の刻限の123 123の切りの予言がある。
>>14 の 刻限で諭された内容 123で30年、最初の復元(増野鼓雪の青年会)、次の123で60年。
天理教教義は復元されました。それが天理教教典です。

即ち三十年で復元です。
123の切りが三十年でいくと教祖が扉を開かれて数えで三十年後(1916年)には、
内務省訓令で改められていた朝夕のおつとめが復元(あしきをはらうてが唱えられるようになる)。
それから三十年後(1946年)には、二代真柱が復元の徹底のためにふでさき講義や各地を巡教とそれぞれ復元しています。

どちらも、一、二、三とは百日のさしづで言われて有る三軒三棟の事ではありません。

刻限自体は、決まった理を知らす事情、当時の事の言っているなら、当時の事柄を先でこうしなさいと言う事であり、
何も伏せ込む言葉ではありません。むしろ解るようにしなければ「刻限遅れると皆遅れる。どきはきの道を通らにゃならん。」
省1
205: 天理教H 2019/01/04(金)00:31 ID:RgUl2cWNG(6/12) AAS
>>99
>甘ろとは天啓のことです

違います。
かんろとは、仏教では、スッタニパータでの甘露の原語amataは「不死」という意味もあります。

「本草綱目」という本には、甘露というものは、膏のような露である。また瑞露と言ってめでたい露である。
また、天酒と言って天から下される御酒である。また神様の下さる飲み物、即ち神漿である。
「北史節要」「文徳実録」には、甘露が降ったと書いてあります。大和にも降ったと記録されています。                                            (おかぐらのうた 上田嘉成)

つまり、中華世界古代の伝承で、天から降る甘い液体とサンスクリット語の不死を同一視した漢訳仏典があり、
その後、日本でも空から降ってくる薬と言う認識があったのです。故に教祖は、「かんろ』の意味が解って受け入れられやすい環境で説いたのです。

つとめに天からかんろを降ろすとおっしゃる。肝心要のかんろとおっしゃる。その人によって寿命を違う、
省6
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