[過去ログ] 戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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764(1): 2018/05/17(木) 13:17:34 ID:vJ5I+qQ+(1)調 AAS
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい
765(1): 2018/05/17(木) 13:22:47 ID:C9wJF8gd(1)調 AAS
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど
766: 2018/05/17(木) 13:52:18 ID:Hj+5d5xo(2/2)調 AAS
>>763-764
ありがと〜、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。
767: 2018/05/17(木) 14:20:48 ID:h59oOBe5(1)調 AAS
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ
768: 2018/05/17(木) 18:54:48 ID:+2o5eVMZ(1)調 AAS
モブ武将は鳥葬だったんだろうな
769: 2018/05/17(木) 19:01:03 ID:5UwhWejb(1)調 AAS
土民による落ち武者刈りで死体漁るわけだけど、火葬して埋葬して塚作るぐらいのことはするんじゃない?
770(1): 2018/05/17(木) 21:20:02 ID:UpvLuhWb(1)調 AAS
そういえば、平安時代の京都は、庶民の遺体は放置して、犬に喰われたりしていたんだよなあ。庶民がまともに埋葬されるようになったのって、いつごろからなんだろ。
771: 2018/05/17(木) 22:12:06 ID:kF9DI9BX(1)調 AAS
>>770
庶民といっても京都と農村部で違いそうだな。
都市部だと土葬場所の確保も穴掘り人も確保しずらいだろうが、農村部なら普段の農作業の延長にあるから比較的墓場や穴掘り人の確保がしやすい印象がある。
772: 2018/05/17(木) 23:00:06 ID:QSNvN+n7(1)調 AAS
昭和の頃は墓掘り人夫って脅し文句になってたな
773: 2018/05/18(金) 00:10:03 ID:tk8eyJAB(1)調 AAS
地獄の墓堀人
774(1): 2018/05/18(金) 05:20:15 ID:XgdJGW5s(1/2)調 AAS
平安時代の庶民って鳥辺山で鳥葬じゃないの?
775: 2018/05/18(金) 06:46:18 ID:sHzbvCKD(1/2)調 AAS
>>774
他に紫野や化野など、三大風葬地がある。
僧や貴族、皇族は平安時代から火葬してた。
776(1): 2018/05/18(金) 09:29:14 ID:yTxT8aCv(1)調 AAS
病気になった使用人を屋敷外にたたき出すとか、やってたらしい。疫病のときは街路に死体が溢れるとか。
777: 2018/05/18(金) 09:48:02 ID:sHzbvCKD(2/2)調 AAS
>>776
きちんと埋葬していれば、疫病が蔓延するのをある程度抑えられただろうに…。
778: 2018/05/18(金) 15:05:41 ID:XgdJGW5s(2/2)調 AAS
それやるな、と指示が出るのは徳川綱吉の時代のことなので
779: 2018/05/18(金) 19:23:13 ID:nrppEGCY(1)調 AAS
羅生門にあるように肉はご馳走なのだ
780: 2018/05/20(日) 17:45:33 ID:YeJdzbDA(1)調 AAS
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。
そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男、香月隆光は自分の旅館に戻った。
このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男、香月隆光は大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。
宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い
「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」
そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。
(宗像軍記)
宗像大宮司より見た大寧寺の変
781: 2018/05/21(月) 10:14:49 ID:14KKaOvu(1)調 AAS
宗像大宮司氏男が長門国にて大寧寺の変に巻き込まれ自害したことが告げられると、
筑前国白山の城に残っていた家臣の石松加賀守、吉田飛騨守、占部貞安、許斐氏鏡といった
重臣たちは、氏男の先々代の大宮司である宗像氏続入道良喜(氏男の叔父、もしくは大叔父)を
呼び相談した。
「氏男様には七歳の女子、そして今年三歳になる男子がおられます。宗像の家督はまだ、
どちらも継げる状況ではありません。二人の君達が御成長されるまで、良喜様が再び白山に
入られ、大内の御下知を承って宗像の家督に付いていただけないでしょうか。」
しかし良喜は
「私はもう齢70であり、そんな明日をも知れぬ身で大勢の人を扶持しこの乱世に幼い子供の
後見をするなど無理である。その上神宮の祭事なども誰が勤めるべきか。
ここは陶入道全羨(晴賢)の元に使いを出し、大内殿の末葉の人を申し請け、女子に娶らせ
宗像の家督と定めるべきであろう。」
そう申され、家臣団もこれに同意して、占部越後守賢安、大和治部丞秀政を両使として山口に
派遣し、全羨に訴えた所
「その事なら宗像の家に縁のあるものを差し遣わす。ここに黒川形部少輔隆像の子に、鍋寿丸という
十五歳の男子が有る。彼は宗像氏男の妻の、腹違いの弟である。また私にとっては姪の産んだ
子でも有れば、いよいよ鍋寿丸に過ぎたる者はない。彼を元服させ、左衛門尉氏貞と名乗らせ
これを宗像の家督とし大宮司職に任じよう」
と有り、これに良喜入道も家臣団も同意し、「ならば迎えを遣わすべし」と決定した。
ところが、この左衛門尉氏貞がまさに筑前に向かおうとした時、いかなる野心の者がいたのか、
陶全羨にこのように告げた
「宗像の家臣の中には、氏貞を主君とするのは不道であり、幼いながらも氏男の男児があり
これを守り立てようという者たちが多く、この方針に決定し、氏貞を呼び寄せ鴆毒を薦め
殺そうと、相謀っているのだと取り沙汰されています。」
これを聞いて全羨は激怒し、宗像家中に対して使いを出して命じた
『急ぎ、氏男の後室、および女子は藍島に流すべし。三歳の男子は刺し殺すべし。
この義に背くならば白山の城を攻め破り家臣残らず討ち殺す。』
これを再三に渡り伝えられたため、宗像の家臣たちは全羨の威を恐れこの義に従い、
しかし後室、女子を藍島に流すまではないと、山田の邑に隠し置くべきとして、城を追い出し
侍女3,4人を付けて、小さな草庵を結いここに入れ置いた。
三歳の男子は吉田飛騨守が預かって養育するという事になったが、飛騨守は彼の領地である
鞍手郡吉川にこの男子を置き奉ると欺き、乳母に抱かせてそこに向かう途中の山口という場所で
これを刺殺した。
乳母はこの時、慌てふためいて刀に取り付き抵抗したため、彼女も共に刺殺した。
この飛騨守の不道を憎まぬものは居なかった。その後、この男子、乳母の怨霊が祟をなしたため、
一宇の社を建て山口の今宮と号して祭り奉った。
(宗像軍記)
782: 2018/05/21(月) 14:09:08 ID:YPbJw9WL(1)調 AAS
陶さんは、そうやって周囲のうらみを買っていったんですな・・・
783: 2018/05/21(月) 14:15:11 ID:/F7cGq/K(1)調 AAS
文治派憎しで公家殺しまくるというわけわかなことやらかしたしなぁ。アホだよ、陶晴賢は。
毛利云々は置いといても、大寧寺の変の直接的な結果として、北九州はまんま大友にくれてやっちゃうことになるし。
784: 2018/05/21(月) 20:18:50 ID:b2R4vdiQ(1)調 AAS
いやいや北九州を捨てて大友と結んだのは良い選択だと思うよ
後顧の憂いを無くすのは常道でしょ
785: 1/2 2018/05/22(火) 00:07:01 ID:yNjh7yJS(1/2)調 AAS
天文23年2月下旬、宗像家の家臣の中に、陶全羨(晴賢)き媚びへつらうものあり、
周防国に使いを立て讒言を行った
『宗像氏男の後室は山田の邑に有り、旧好の臣達に密かに命じて、息女を豊後大友の方へ
遣わし、宗麟の子息のうち何れなりとも婿として宗像の家督を譲り、全羨様より遣わされた
氏貞様を攻め殺そうと議されております。ご油断なきように。』
これに全羨は大いに怒り、
「後室息女は先だって、男子を殺した時藍島に流すべしと申し渡したはずなのに、山田の邑に
召し置いているとは心得がたい!そういう事なら、宗像家の男子を殺したというのも偽りであろう。
この男子成人の上は彼に家を継がせるつもりなのだ。今は天下争乱の時であるから、この入道の
威を借りて暫くは当家に従う色を見せ、氏貞は私が宗像に遣わしたから、已むを得ず仮の主君として
頂いているのだろう。
急ぎ氏男の後室および二人の子供を殺し、その首を持ってくること無ければ、大軍で押し渡り
白山城を攻め破り、一人残らず妻子共に串刺しにすべし!」
そう、江良源左衛門賢盛を使いとして宗像家中に命じた。
これを受けて宗像の群臣は、石松和泉守の宿所に集まり詮議を行った。意見はまちまちであったが、
許斐氏鏡、占部貞安進み出て
「これはおそらく、家中に讒者があり全羨に悪しく申したものと考えます。あのように申せば
全羨が立腹するのも当然でしょう。ですが、後室息女共に何も知らず、明け暮れ山田の草庵にて
氏男様の菩提を弔い、また殺害された男児国丸様が、今も吉田飛騨守の元で養育されていると信じ、
毎日法華経を読誦し、その無事を祈られています。そのような方々を無下に殺すなど出来るでしょうか!?
遠賀の高倉に移し隠し置いて、全羨には事の仔細をありのままに申しましょう。
男子は先だって殺したことは事実です。また後室の陰謀ばるものは跡形もない虚言ですと申せば、
女子の事ですから、何事が有るでしょうか。ただ、後室母娘を高倉に遣わすべきです!」
そう申した所、吉田飛騨守が進み出た
「私は邦丸様を預かりますと後室に嘘を言って殺害しました。しかし陶全羨は私が助け置いていると
疑われ、山口に召喚して殺すとの事です。またこの事が後室のお耳び入れば、私が今まで後室を
騙し奉り、3年前に国丸様を殺した罪は逃れがたいものとなります。
あなた方はいか様にも道を立てられよ。この飛騨においては、全羨の命に従い氏貞様を主君と
奉る上は別の主君など持ちません。後室息女を殺し全羨に首を見せ、3年前に国丸様を手に掛けた
ことも正直に申せば、我が身の科を免れ、また宗像社務七十九代の後栄ともなるでしょう。」
そう、言葉荒く申し、辺りを払うがごとく見えた。
占部日向守が進み出て「この上は誰に憚ることもない。氏貞様は年若いが我らの大将である。
明日、この事を申し上げて、氏貞様のお計らい次第に従うとしよう。」と申すと、各々も
最もであると同意し、この日、三月二十三日の評定はこれにて終了し、それぞれ宿所へと
帰った。
しかし吉田飛騨守は妻の弟である峰玄蕃を呼び
「今日の石松和泉守宿所での詮議では、占部、許斐の一族は道理を立てるような者が多く、老臣である
石松和泉守の言葉も出ぬ前から何かと申し立てたこと心得難い。あれでは明日氏貞様へどのように申す
だろうか。そうなれば我らの身の上にも大事となるだろう。
そこで、今夜の内に山田の邑に行き、後室息女を殺すのだ。お前も来い。」
玄蕃は驚き止めた
「これは大事の思い立ちです。しかしやはり、明日の御詮議次第とすべきではないでしょうか。」
786(1): 2/2 2018/05/22(火) 00:07:35 ID:yNjh7yJS(2/2)調 AAS
ところが彼の姉である飛騨守の妻が説得した
「既に歳五十となる飛騨守の申される事に従わないとは何という若輩者でしょう。私達はあなたの
行く末を思えばこそ、代々の主君の妻子を殺すと申しているのです。飛騨殿のお供をして山田へ行き、
殺してくるよう、偏に頼み申します。」
そして飛騨守は
「ならば、私の存分ばかり聞いた所で納得しないだろう。中山勘解由左衛門は私の知古の友であり、
また石松和泉守は此の家の大老でも有る。この二人に相談いたせ」という。
玄蕃は先ず野中に相談すると、似るを以て友というが、彼もまた大悪人であり飛騨の意見が
尤もであると同意した。その足にて石松和泉守と談じたが、彼は既に七十あまりの年齢で、
老いぼれとなり人の言うことに従うだけで、もはや善悪の判断もできなくなっていたため、
「いかにも飛騨の申されること理り至極」と言うばかりであった。
そうして飛騨守は「今はこれまでぞ、明日まで引き伸ばせば何が起こるか解らない。」と、
玄蕃を同道して山田の邑に参り、後室の侍女に申し上げた
「実は俄に藍島に朝鮮よりの流船が来たため、我らはその見聞に遣わされる事となり、
その御暇乞いのためまかり出ました。」
これに対応した花見の少将と申す女房は
「今夜は二十三夜の御月待のため、今御行水をされております。暫くお待ち下さい。この事を
申し上げてきます。」
と申し、暫く待っていた所、後室は浴室より出て、姫君と共に窓前に座した。
少将が「吉田飛騨守、峰玄蕃が明日藍島への御用にて渡海すると、先刻より御暇乞のためとして
罷り出、お待ちされております。」と報告すると、後室は
「ならば待ちかねているだろう。ここへ」と飛騨を召され、玄蕃もそれに相従った。
飛騨守に向かって後室は言った
「この頃、うち続いて夢見が悪く、気にかかることが多いのです。どうでしょう、国丸殿には
何事も無いでしょうか?久しく見ることもなく、懐かしさだけが募ります。どうか良く良く、
養育をして下さい。」
そう言い終わらぬ内に、飛騨守は後室の御前に駆け寄り懐中より氷の如き短剣を抜き胸のあたりを
刺し貫いた。彼女は「あっ…」との言葉だけを最期に、そのまま空しくなった。
同時に峰玄蕃は姫君を刺殺した。
侍女である小少将、花見の少将、小萩、月白の四人は混乱し、「これはいかなる事か!?」と
両人に取り付いたが、彼らは二刀づつ刺し通し、四人共に斃れた。あはれと言うも愚かである。
(宗像軍記)
宗像家における「山田事件」についての記述である。
787: 2018/05/22(火) 07:48:43 ID:m1d/dBwZ(1)調 AAS
うーむ、えぐい。
788: 2018/05/22(火) 14:54:20 ID:hFRPbsPL(1)調 AAS
>>786
>うち続いて夢見が悪く
カーチャン…
789: 2018/05/22(火) 15:10:48 ID:fU0KShZ6(1)調 AAS
国丸って氏隆のことか?96まで生きてたよな
790: 2018/05/23(水) 01:29:53 ID:p4y9snsD(1/2)調 AAS
>>96
伝承上、自称氏隆が96まで生きてたってだけでしょあれは。
なんで陶方に攻撃されて逃げた先が陶支配下の長門なんだ、って話だし。
791(1): 2018/05/23(水) 02:29:48 ID:r0yXmG3/(1/2)調 AAS
お前は灯台下暗しって言葉を知らないんだな
792: 2018/05/23(水) 11:43:38 ID:p4y9snsD(2/2)調 AAS
>>791
そもそも氏隆の生存説は系図上事実として扱われてないからな
793(1): 2018/05/23(水) 12:33:45 ID:r0yXmG3/(2/2)調 AAS
それはお前の中だけの話だろ
794: 2018/05/24(木) 01:26:53 ID:kmpFCxd/(1)調 AAS
>>793
なんでそんな喧嘩腰なんか知らんが、古代氏族系譜集所収の宗像氏系図ほか、諸系図で氏男男子(塩寿丸)は早世とされてるよ。
長門の氏隆子孫主張は民間伝承の類。
795: 2018/05/24(木) 07:55:28 ID:Qisp8OGb(1/3)調 AAS
塩寿丸は氏貞の子であり、養子じゃないかwしかも養子解消されて実家に戻っている
宗像記追考では殺されたのは氏男弟の千代松な
これだけでもお前の中だけの話ってことなのが分かるな
796: 2018/05/24(木) 07:57:19 ID:Qisp8OGb(2/3)調 AAS
弟じゃなくて甥だったわ
797: 2018/05/24(木) 08:27:55 ID:Qisp8OGb(3/3)調 AAS
すまぬ記憶違い、弟で合ってたか
798: 2018/05/26(土) 00:04:52 ID:JTn93BHt(1)調 AAS
大和国葛上郡片岡という所に、片岡新助という人物が居た。この人はもともと小身であったが、
和州における代表的な武功の人であり、筒井順慶の姪聟となり、徐々に身代も増え、八千石ほどを
得た。
ところが、筒井順慶が松永久秀に敗れ宇陀郡にて牢々した。この時は国侍から筒井一門の
歴々まで久秀に随臣したのであるが、片岡新助ただ一人は久秀に従わず彼の敵と成った。
そこで久秀は2度に渡り片岡に攻め寄せた。
久秀の居城である信貴山城からわずか三里ほどの場所に河合という砂河があり、通常は歩いて
渡れるが、水の出る時には船で越す必要があった。
片岡勢はこの河端まで、山伝いに打ち出た。そして松永勢が半分ほどこの河を渡った所で
横合いの木立より急襲したため、松永勢は持ちこたえることが出来ず敗軍。この時松永勢の
能き者達多く討ち死にしたという。
その後、再び攻め寄せてきた時は、片岡新助は城を出ず、城下まで敵が押し寄せたとき、城の西北
より人数を突撃させたところ、寄せ手は敗軍に及び首級多く片岡に取られたという。
その後は松永勢が片岡を攻めること難しく、龍田方面に抑えの城を造り番勢を入れ置いた。
ところがそんな中、片岡新助が35,6歳という若さで急死した。彼には弥太郎という子があったが、
これは若輩で、しかも病弱であったため、満足な戦働きも出来ず、武勇も新助ほどの才能は無かった。
そのため、程なく松永勢は片倉に攻め寄せ、難なく城を乗っ取った。弥太郎は落ち延び、在々にて
牢々した。
その後、大阪の陣の時に譜代の者たちを召し連れ豊臣方として籠城をし、大阪落城後は
法体となり雲巴と号し大和に居住した。近年に成って亡くなられたという。
(大和軍記)
799: 2018/05/26(土) 11:34:56 ID:J33s2xgX(1)調 AAS
大和の国侍って、大坂の陣で没落した連中が多いなあ。
一族の大黒柱を失って、一気に勢力が解体した話か。最初の二戦の大勝で、おおすごいと思ったら。
800: 2018/05/26(土) 14:12:01 ID:CDR2q/8a(1)調 AAS
大和の国衆はなんだかんだで興福寺が中核だったけど、信長の頃から国主を別に定めた事で
より結束を失ってバラバラになって行った感じ
801: 2018/05/26(土) 16:36:09 ID:w7NzEW19(1)調 AAS
松永が謀反するからダメなんだ
筒井の台頭を許した
802: 2018/05/26(土) 19:39:17 ID:3YltmG36(1)調 AAS
仮に松永が大人しくしていたら、もっとはやく大和周辺の寺社勢力の弱体化ができたのかな
803: 2018/05/26(土) 21:26:35 ID:oCnFOxOh(1)調 AAS
それでも信玄が死んでからになるだろうな
804: 2018/05/27(日) 09:42:07 ID:Y4V4mLfi(1)調 AAS
織田信長が天下を掌握した頃、内裏修理のため伏見に滞在し、またこの普請のため
国々の大名残らず上洛した。ここで信長は、瀬田の橋に関を設け、家中実名を尋ねた上で
通過させるようにと命じた。
このような中、森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋へと指し懸った。
関守の侍たちが出てきて「上意であります。下馬をして家名実名を名乗り通って下さい。」
そう声をかけたが、勝蔵は
「それは許してもらおう。私は濃州住人森勝蔵と申す者である。御帳に書いておけ。」
そういい捨てて通ろうとした。関守の侍たちは驚いて馬の口にすがり
「そんな事で通せるものか!その上乗打など以ての外!」そう叫んで、鑓長刀などを
番所から出してきて色めき、絶対に通さない姿勢を示した。
勝蔵はこの様子を見ると
「なんと心得のない者達だ!乗打だと!?公方の御前ならばともかく、汝らごとき
侍分の為にこの勝蔵に下馬をしろと!?推参である!」
(元来心得ス者共也、乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ汝等如キ侍之為す分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推参ナリ)
そういって太刀を抜き、2,3人の首を落とし諸鐙をかけて橋を走り通った、
関守の侍たちはこれを大勢で追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く閉じるよう
呼びかけた。町人たちは二ヶ所の木戸を閉じようとした。しかしこれを見た森勝蔵が
「ものども!火を懸けよ!」
と叫んだため、町人たちは驚き木戸を開いた。ここから勝蔵は急ぎ伏見の信長のもとへ向かい、
御前に罷り出でると瀬田のことを詳細に申し上げ、「切腹つかまつる覚悟」を伝えた。
これを聞いた信長は笑いだした
「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊だとか。汝も今より武蔵と名を改めよ。」
そう、非常に機嫌よく仰せに成った。
万座の人々は「実に忠ある武士の例かな。」と羨ましく思った。
勝蔵はその年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と名乗った。
(兼山記)
鬼武蔵には自分の命令を違反されても自分が命じた関守を殺されても嬉しそうな信長公
805: 2018/05/27(日) 12:15:38 ID:hpLrEv3C(1/2)調 AAS
史実だと武蔵守を名乗るのは信長死後の話だけど
いかにも鬼武蔵らしい逸話だな
806(1): 2018/05/27(日) 14:15:52 ID:YRLqfHWA(1/2)調 AAS
字が書けなかったからだろ
記帳させたらバレるもんな
807: 2018/05/27(日) 15:44:17 ID:XRtYoX8J(1)調 AAS
あの有名な妻宛の長可の遺言状は自筆だぞ
808(1): 2018/05/27(日) 15:52:11 ID:YRLqfHWA(2/2)調 AAS
お前それ見たのか?見てもないのに自筆とか頭悪そうだね
809: 2018/05/27(日) 16:48:01 ID:wxMWKRkq(1)調 AAS
おや
810(1): 2018/05/27(日) 17:01:15 ID:hpLrEv3C(2/2)調 AAS
いつもの奴だから触るなよ
811: 2018/05/27(日) 17:23:55 ID:Dz+7VB7D(1)調 AAS
下っ端に厳しい信長さん。
812: 2018/05/27(日) 17:36:35 ID:kPARP9ye(1)調 AAS
いつものやつか
813: 2018/05/27(日) 20:27:17 ID:7GyKpPFw(1)調 AAS
>>806
>>808
はいはい、自殺してからモノを言ってね
814(2): 2018/05/27(日) 21:59:32 ID:9ZaQEOAn(1)調 AAS
>>810
と言いつつ触るアホw
涙拭けよ盲従
815: 2018/05/28(月) 10:09:42 ID:RJgCUSrO(1)調 AAS
>>814
きちんと自殺したか?
816: 2018/05/28(月) 12:30:56 ID:5JmQ1huc(1)調 AAS
>>814
大丈夫か?涙拭いて吊ってこい
817: 2018/05/28(月) 15:13:00 ID:f7GHanSh(1)調 AAS
お前らが悪い話になってどうするんだよ……。
818: 2018/05/28(月) 15:28:26 ID:5xjxgH10(1)調 AAS
指摘されて発狂かw分かりやすいなwww
いいから涙拭けよ盲従
819: 2018/05/28(月) 22:19:24 ID:G3/hr0Wa(1)調 AAS
小牧長久手の陣において、羽黒合戦で若干の味方を討たれた森武蔵守(長可)は、
備の編成を変えるため移動し、小牧山の東北、二ノ宮の森の麓に陣を取った。
そこには朱の玉垣の花表(鳥居)があり、武蔵守も「いかなる神の社か」と思っていた所、
神主が現れ、武蔵守の御前に参り、このように申し入れた
「この神は深く穢を忌まれます。精進潔斎無ければ、花表の内に入ってはいけません。
殊に不浄の人馬を入れるなど、誠に勿体無い事です。諸人が木の枝を折ることすら
神慮計り難いのです。御陣場を速やかに改められるべきです。」
武蔵守はこれを聞いて激怒した
「悪しき神主の申しざまかな!意義があるなら鉄砲で討ち殺す!
(悪敷神主ノ申様也、及異議ハ鉄砲ニテ可打殺)
私は大義を思い立ったのだ、全く私の利益のためではない。それは神慮も鑑みるだろう!」
そう言っているところ、社壇の上に、長さ一丈(約3メートル)ばかりの蛇が現れ、
軍勢の方に向かい声高く鳴いた。
神主これを見て叫んだ
「御覧有るべし!あれこそ当社の御神体です!」
軍勢の者たちも驚いた。しかし武蔵守は
「この蛇を飼い置いて、土民共を迷わし金銀を取っておるのか!
井原はおらぬか!?あのような有様であるぞ!」
これを井原小市郎承り、腰刀を抜いて蛇を寸々に斬った。
そして武蔵守は
「そういえばここでは精進しろと言っていたな。」
そう言って切られた蛇を二口三口食い、残りは社壇に捨てた。
神主は身の毛もよだち、立ち退いた。
※この後兼山記の作者がこれだけでは鬼武蔵がやべー奴と思われると考えたのか、鬼武蔵とは
全然関係ない甲斐に現れた巨大鱸を漁師が獲って切り刻で神なんてものは人間が信仰するかどうかの
問題で云々とか書いてるけど割愛
(兼山記)
820: 2018/05/28(月) 22:39:29 ID:DVaPyOBu(1)調 AAS
この後、亡くなったんだよね…
821: 2018/05/28(月) 22:42:30 ID:homQuwcC(1)調 AAS
生蛇はだめなんじゃないか・・・
822: 2018/05/28(月) 23:46:26 ID:T+OMRWOR(1)調 AAS
捕まえたマムシをその場で皮剥いで心臓を食った爺さん見たことあるから大丈夫なんじゃ
823: 2018/05/29(火) 02:10:04 ID:8lE87rYa(1)調 AAS
寄生虫やばいよ
824: 2018/05/29(火) 02:59:40 ID:IFix9tXT(1)調 AAS
蛇やカエルは絶対に火を通さないとだめ。
825: 2018/05/29(火) 05:38:33 ID:nZWjCmsu(1)調 AAS
ヒャッハーすぎるぞ武蔵守
826: 2018/05/29(火) 12:18:31 ID:/SpPBZVC(1)調 AAS
迷信打破って西門豹みたいなつもりなんだろうけどやり方が短絡的過ぎる
827: 2018/05/30(水) 19:08:50 ID:Q6o9fFY/(1)調 AAS
天正12年正月上旬の頃のこと
当時、白井長尾の家中には百人衆と言う、歩行の武士集団があった。
正月に、沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、私曲あって
沼田の真田家から立ち退き、白井に属し、この百人衆の一員となった。
ところが程なく真田家への忠信を立てて故郷に帰りたいと思うようになり、3人は談合して
この事を真田家の高橋右馬允へ申した。右馬允がこれを金子美濃に相談すると、
「その方、上田へ参りこれを注進せよ」という事になり、高橋は丸山土佐守、木村戸右衛門を
通して真田昌幸にこれを申し上げると、昌幸は非常に喜び
「神妙の事である。卒爾無きように計るべし!」
そう仰せになった。そこで高橋はお暇を乞い戸鹿野へと帰った。
かの3人の者たちは、指示に従い百人衆の朋輩たちをたぶらかした
「沼田の鹿野には有徳(裕福)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか。」
そうして130人が申し合わせ、林、吉野、井上が案内して戸鹿野へと忍び入った。
しかし、かねての計画通りであり、彼らが侵入した所で橋を外し、四方より取り巻いて
襲撃した。このためまたたく間に120人余が討たれ、水練の達者であった5,6人のみが
助かり、白井に帰ることが出来た。
この忠節により、高橋右馬允は昌幸より知行を賜った。
(加澤平次左衛門覺書)
828(1): 2018/05/30(水) 19:42:23 ID:m3QtbrAB(1/2)調 AAS
うーん、敵方をほいほい受け入れてはいけないのだな。120人討死って、大損害じゃないの。
829: 2018/05/30(水) 20:10:48 ID:m3QtbrAB(2/2)調 AAS
関白鶴ヶ岡参詣の事
秀吉鎌倉の鶴ヶ岡を詣でて、八幡宮の戸を開かせ頼朝の像を見られしが、背中を打叩き、
微賤より出て、日本を掌に握る事我と御辺と二人なり。然れども頼義父子鎮守府将軍とし
て東国の者共久しく親み多かりき。蛭が小島より兵を起こされしに、関東の靡き従えるも
謂われ無きに非ず。我は土民の中より斯く日本を思いの儘にすれば、功尚高し、と言われ
けり。 (常山紀談)
秀吉の感じが悪い話。この時点で、かなり調子に乗っていたのだな。ラスボス感が。
そういえば、息子の世代で絶えたという点でも、秀吉と頼朝って、いっしょだな。どち
らも、一族や譜代の欠如が、弱点だったのかね。
830: 2018/05/30(水) 21:50:14 ID:8830ayA8(1)調 AAS
>>828
この場合の120人て小者は無しだろうから
いきなり侍大将120はキツすぎると思う
831(1): 2018/05/31(木) 22:25:42 ID:KVDFnVqS(1)調 AAS
大抜越中が歳暮に唐沢山城へ登城したとき、主君・佐野宗綱が私的な話として語った
「私は明元日に、名草より足利へ攻め入ろうと思っている。」
これを聞いて大抜は申し上げた
「正月朔日にかけて合戦をするというのは、古よりおおいに嫌われている行為だと言われています。
ですので味方がしっかりと防御の備を成す事こそ、敵の企みにも勝利するものであり、この方針を
取るべきだと考えます。」
これを聞いて宗綱は立腹し、機嫌を悪くした。
この頃佐野家中の家老衆は不和であり、家中では「大抜も小田原への内通から足利への内通へ
心変わりしたか」などと囁かれ、家中は「大抜方」「御家方」と二つに割れ、そのような中
たって宗綱に諫言する者も無かった。
この日、丑の刻に本城において、出馬する馬の先に、白き帷子を着た若い女が現れ歩いた。
人々が不思議に思う中、それはいずくともなく消え失せた。不思議な事であると諸人肝を消した。
足利の長尾顕長より佐野の抑えとして、彦間置かれた小曽根筑前は、佐野領方面が少々騒がしいと
聞いて、所々方々、山林まで人を出して情報を集めた所、佐野の軍が足利に侵攻する事を知り、
この城に構うことは無いと判断し、妻子以下を山林に密かに隠し、自身は寄騎弓歩の者たちを
召し連れ名草数葉那の寄居場へ馳参り、番の者たちにこの旨を申し入れた。これにより貝鐘立てられ、
まず最初に名草に置かれた芳賀右衛門が半月の指物と馬印にて歩弓を召し連れ馳来た。
2番に柳田隼人、山下播磨、泉新十郎、岩下右近、杉木修理など馳来た所、早くも
佐野の先手である富士源太、山越才吉両人が名草まで打ち出た。
足利では元旦のことでも有りこのような事が起こると思わず、周到狼狽して騒いでいた。
佐野宗綱は強気の大将であったので、旗本後巻ともに勇早めんと考え先を進んだ。
旗本すら追いつけないほど馬を早めたため、御鑓持の一人など、馬の尾に取り憑くほどに
駆けたが、閑間河原で吐血し即死した。旗本勢も早馬にて付いていこうとしたが、大将の御馬は
肝強き故に、4,50町(約4,500メートル)ばかりも離されてしまった。
こうして、数葉那坂まで一人で出てしまった宗綱を、数葉那の足利勢はもとより大将とは
知らなかったが、佐野勢と見て、小曽根筑前が声高に名乗った
「私は小曽根筑前である!私は佐野家が彦間に置いた小野兵部を討ち取り、その後も
御当家に対して度々敵対致しておる!今度の佐野による侵攻ことも、既に長尾顕長公へ申し遣わし
この寄居に名草六郎とそれがしの一家、その他籠もっている。そなたの後に続く同勢へ弓鉄砲を
撃ちかけ申す!」
これを聞いた佐野宗綱は、内々に数葉那の寄居を攻め落とし足利を奪い取り長尾顕長の首を見て、
その帰路に小曽根筑前を討とうと考えていたのだが、慮外の広言でありこれを一攻めにせんと采配を振った。
しかし、旗本たちが続いて来ていると思い振り返ったが、誰も居なかった。
しばらく佇んでいた所、御武運の尽きであったのだろう、一発の銃弾が胸に当たり落馬した。
そこに足利方の豊島七右衛門という軽輩が、大将とも存ぜず走り寄って首を二太刀切りつけたが、
宗綱は
「うろたえ者め!綴を巻いて斬っている。その方の太刀では無理だ、私の首切り(脇差)にて切れ!」
そう言ったため、七右衛門は宗綱の腰に挿した脇差を抜いて首を取った。
七右衛門は、「きっと佐野の先手の物頭が、血気に逸って一騎で参ったのだろう」と思っていたが、
馬具が非常に物の良いことに気が付き、「これは大将ではないか?」と疑い、大勢にこの首を
見せると、その中によく見知ったものがあり「それは大将の宗綱公である!」と申したことで、
足利勢はどっと悦んだ。
ここのようやく佐野の旗本が駆けつけたが、足利勢の「大将宗綱公、只今討ち取ったり!」との
大音声に、「この上は一命を惜しむことは出来ない、必ず足利を攻め落とす!」と喚き叫んで
攻め、足利勢を押す勢いであったが、ここに足利の援軍として、樺崎より新井図書、大沼淡路、
市川右衛門、久米伊勢、その他の足利勢が多数集まったため、大将も不意に討ち取られた以上
是非もなく佐野勢は方々へと退却した。
(唐澤老談記)
832(1): 2018/05/31(木) 22:49:51 ID:xURsX3pY(1)調 AAS
大将が一人だけ前に出すぎて討死って、かなりアレだな。
幽霊がどういう意味を持つかいまいち分からない。宗綱の死を予告したってことかな。
しかし、不運による討死というより、完全に自滅だろう、コレ。
833: 2018/06/01(金) 03:56:38 ID:rOisMAZT(1)調 AAS
信長も一騎駆けしてるじゃん
馬廻が付いて来たから良かったものの
駄馬じゃなかったら敵中孤立してたね
834: 2018/06/01(金) 07:23:13 ID:RpMoj8t5(1)調 AAS
>>832
バンシーみたいなものか
835: 2018/06/01(金) 15:24:54 ID:jZm0wVMN(1)調 AAS
>>831
>出馬する馬の先に、白き帷子を着た若い女が現れ歩いた。
死に装束?不吉な…。
836: 2018/06/02(土) 20:01:45 ID:ymnEiec5(1)調 AAS
豊臣秀吉が五畿内の軍勢数万騎にて小田原の北条氏直を攻めると、諸軍勢に軍法を下された頃、
佐野天徳寺はこう申し上げた
「今度の小田原攻め、御先手をそれがしに申し付けください。」
秀吉はこれを聞くも
「貴老は人数も持たないではないか、一人では何も出来まい。」
しかし天徳寺
「今回、御先手を申し付けていただければ、野州佐野へ申し遣わし、故宗綱の家来が
五百騎ばかりが居りますので、彼らを呼び寄せ、御先手を仕ります。」
しかしながら、秀吉は考え深き大将であり
「いやいや、佐野に残った侍と言っても、もはや数年前の事であるから、今は思い思いに散らばり、
そのように働く事が出来るとも思えない。もしそのような状況ならばどうする?」
「宗綱の侍は代々譜代の者たちですから、他国を頼んで出ていくことなどありません!」
そう、達って申し上げたため、秀吉も「そういうことなら貴老の望み通り、先手をせよ」
と仰せになった。
そこで天徳寺は早速佐野に、この旨を伝えたが、天徳寺の考えに相違し、秀吉の考えの如くに、
佐野の侍たちは方々へ散り散りとなり、あるいは小田原に人質として入り、集めることの
出来るのは百人以下という有様であった。
天徳寺はこの現実を見て、さても是非無き次第かなと、面目を失った。
それより少し、秀吉公の御前に思し召される事が無くなったという。
(唐澤老談記)
837: 2018/06/02(土) 20:30:31 ID:f/1CtrpU(1)調 AAS
ほんとに悪い話だ。
関東の国衆って、けっこう小田原に入って、滅亡した家が多い感じ。
838: 2018/06/02(土) 20:37:35 ID:gKbDChEG(1)調 AAS
天徳時さんの目利きの甘さと秀吉の読みの鋭さよ…
せめて人を集めてから申し出るべきだったな
839(1): 2018/06/03(日) 17:55:52 ID:PvhrymRI(1)調 AAS
岐阜四天王(ただし一人)
「常山紀談」178話(巻12)は、関ヶ原の戦いの前哨戦、河田木曽川渡河の戦いにおい
て、池田輝政家臣の森寺長勝が、織田秀信配下の飯沼小勘平を討取ったエピソードである。
互いに傷を負いながら、最後は組打ちで、小勘平は討取られる。まあ、合戦場での戦功と
いう良くあるエピソード。
しかし、本エピソードが印象的にするには、飯沼小勘平の肩書き。「岐阜四天王」の一
人と称されるが、四天王のうち、他の三人が誰か不詳という。現代語訳本の解説には、
「俗に、『岐阜四天王」は小勘平以外にその父勘平長実が入るともいうが、残り二人とと
もに未詳」と書かれている。つまり、確定一人、不確定一人、ほかは名前も伝わらない。
四天王(五人)とかよく冗談にされるが、充足率半分以下というのは、あまり聞いたこ
とないなあ、と。
ちなみに、飯沼小勘平を討ち取ったのは、池田長吉という説の方が有力らしいが…
若武者・飯沼長資
外部リンク[html]:www.m-network.com
840: 2018/06/03(日) 19:26:55 ID:C7getkxy(1)調 AAS
>>839
>岐阜四天王(ただし一人)
雑すぎて草
841: 2018/06/03(日) 20:04:39 ID:bFotNPBF(1)調 AAS
残りは百々綱家と木造長政と斎藤元忠が入りそう
あと加えるなら滝川主膳か
842: 2018/06/03(日) 21:22:55 ID:QZ7pvvdB(1)調 AAS
秀信は身分のわりに石高なんでこんなに低いんだか…
843: 2018/06/04(月) 01:57:22 ID:VAgWHEJe(1)調 AAS
実績がないから
844: 2018/06/04(月) 03:18:46 ID:815y0WmW(1)調 AAS
朝鮮に行った実績はあるお
845: 2018/06/04(月) 09:41:31 ID:+J45hqnd(1)調 AAS
あとは四天王(2人)と四天王(3人)が揃えばコンプリートだ
846: 2018/06/04(月) 16:12:17 ID:U+nzB9tZ(1)調 AAS
憲政四天王、という言葉があるか知らないが
伊藤博文、板垣退助、大隈重信
(国会議事堂の台座は四つあるのに
「憲政に終わりはない」ということで3人の銅像だけ)
わざと一つだけ空席にするというのはあり得るかも
それか武田二十四将みたいに当主が含まれるから実質マイナス一人とか
847: 2018/06/04(月) 19:35:37 ID:pYE9vd5P(1)調 AAS
四天王って5人いるもんだと思ってたわ
848: 2018/06/04(月) 19:47:03 ID:HI+KkJjp(1)調 AAS
南部越後母衣串をぬかざりし事
岐阜の城攻に、池田家の士南部越後門際に押詰めたるに、門の潜戸狭く、懸けたる母衣に
支えて入り得ず、側より、母衣串を抜いて入るべし、と言え共、否々たとえ入り得ずとも
此母衣は脱ぐまじ、と呼はる。其中に門開きて馳入りたり。其武者振甚だ見事なりし、と
其時の人言いしとなん。
(常山紀談)
ちょっと、かっこ悪い話。
くぐり戸に、母衣が引っかかってじたばたしているシーンを想像すると、ちょっとかわ
いい。武士は目立ってなんぼやな。
849: 2018/06/04(月) 19:49:14 ID:Q/kW/O78(1)調 AAS
入ってからあとは見事だったんか
850: 2018/06/05(火) 19:58:17 ID:Sa+/8ixq(1)調 AAS
忍者みたいに、門を上から乗り越えたらいかんのか?
851: 2018/06/05(火) 20:11:50 ID:Dj4OAh2c(1)調 AAS
織田信長の次男(三男)である三七信孝は、永禄11年の伊勢攻めの際、神戸具盛との和睦に際し
15歳にて具盛の養子となったのだが、実は当初、信長は「同じ一族の内」と言うことで、
神戸氏の親族であり織田方であった関安芸守盛信の子息、関勝蔵を神戸家の養子とするという
約束をしたのだが、それを違え信孝を送り込んだのだった。
それ故か、神戸具盛は信孝を粗略に扱った。
これに対し信長は、元亀四年正月、神戸夫婦が年始の礼に参った際、彼らを取り押さえ、身柄を
蒲生賢秀に預け、近江国日野城に幽閉した。また信長は関死に対しても悪く思われ、彼らの所領を
没収した。
神戸具盛はその後、日野にて相果てたという。
(氏?記)
852: 2018/06/05(火) 20:28:03 ID:nPTUAMjV(1)調 AAS
関氏はのちに蒲生の配下になったから脚色でもされてるのかな
勢州軍記とはまた違う内容だ
853: 2018/06/05(火) 21:30:42 ID:XV5zybWD(1)調 AAS
関死の誤字はちょっと笑った
854: 2018/06/13(水) 16:12:05 ID:jXBncqBZ(1)調 AAS
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。
このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。
しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。
政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。
その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると
「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」
そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。
これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。
(氏?記)
有名な「セキレイの目」の逸話
855: 2018/06/13(水) 17:08:15 ID:NO0axVvC(1)調 AAS
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。
856(1): 2018/06/13(水) 19:37:04 ID:EXL6zAuI(1/2)調 AAS
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw
857: 2018/06/13(水) 19:49:34 ID:9Iw3leKK(1)調 AAS
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね
858(1): 2018/06/13(水) 19:59:59 ID:TpbmBOju(1)調 AAS
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。
関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。
859: 2018/06/13(水) 20:28:35 ID:EXL6zAuI(2/2)調 AAS
東北勢みんなそうやろ。
860: 2018/06/13(水) 20:48:12 ID:xJg+inHT(1)調 AAS
先祖代々の領地は没収、騒動を起こした土地を代わりにあてがうとか罰ゲームだよね
861: 2018/06/14(木) 06:34:30 ID:7+P5pyGv(1)調 AAS
>>858
関ヶ原後も大して変わらんような…
862: 2018/06/14(木) 08:54:49 ID:Y5OXdw8F(1)調 AAS
関ヶ原では上杉討伐で最重要な位置だったのだし、結果的にほとんど意味のなかった
東北の戦いだけど一応の役割は果たしているし。
関ヶ原後も、松平忠輝絡みで中央と絡んだし、大阪の陣もあるし。
863(1): 2018/06/16(土) 00:14:15 ID:K4wdcAWg(1)調 AAS
朝鮮の役にて、秀吉が本営である肥前名護屋城に滞在する間、蒲生氏郷もこれに従っていたため、
本国の会津には留守居を置いていたのだが、その留守居である蒲生四郎兵衛と蒲生左門とが、
私に合戦を行いかけた事があった。
この蒲生左文郷可というのは北近江の住人で、上坂伊賀守の子、上坂兵庫助の養子であり、
氏郷にとっては従兄弟の婿であったのだが、かつて浅井長政に味方して本領を失い、
その後柴田勝家に仕えたが、勝家死去の後、左文は氏郷を頼って秀吉に仕えることを望んだ。
しかし氏郷は彼の武芸を常々見聞きしていたので、「先ず我が家中に迎えたい」と、彼を
召し抱えた。このように望まれての奉公であったため、何事も自由に出来、やがて蒲生家中でも
屈指の存在と成った。
去る年も、蒲生氏郷より。米沢城に3万8千石を副えて、ここに左文を置き「百万石の
仕置をしてもらいたい。」と懇願された。しかし左文はそのような仕置は自分には出来ないと、
固く辞した。「では、誰に仕置を任せるのが良いか」と尋ねられ、「蒲生四郎兵衛尉こそ
然るべきです。」と答えた。これを聞いて氏郷も「私もそう思う」と同意し、米沢城は
蒲生四郎兵衛に任された。
ところが近年になり、この蒲生左文と蒲生四郎兵衛の関係が悪化した。
蒲生四郎兵衛は左文に「あなたは筋目の者だからこそこのように指図をしているのだ」と
語ったが、関係はますます悪化するばかりであった。
また双方の領地である米沢、中山は近接した地域であったため、四郎兵衛の領地より
逃亡してくる者があれば左文はこれを保護し、左文の領地から逃亡する者があれば四郎兵衛が
保護した。
ある時、蒲生左文の領内の者が逃亡したが、左文は侍分の者たちに下知して米沢領分へ押し込み、
これを搦め捕って帰った。
また四郎兵衛の領内の者が逃亡してきた時、侍たちがこれを取り返そうと、文禄元年10月16日に
押しかけたが、左文側によって寄騎の侍5騎、その他大勢が討たれる事態となり、これにより
事が大きくなり、合戦に及ばんとした。
左文方の武士たちは、中山、宮内の両城に立て籠もった。さらに白石の蒲生源左衛門も四郎兵衛と
仲が悪かったため、左文に味方し加勢を送った。また左文の舎弟上坂源之丞も加勢として参った。
しかしながら、蒲生四郎兵衛方の長谷川如水の分別のお陰で、合戦にはならなかった。
この時蒲生四郎兵衛も蒲生左文も会津に居たので、蒲生源左衛門、蒲生忠右衛門、蒲生喜内等が
扱いを入れ、無事に調停されたという。
(氏?記)
氏郷が居ないとバラッバラな量産型蒲生さん達であった。
864: 2018/06/16(土) 09:57:16 ID:A+3bsZ1O(1)調 AAS
長谷川如水の分別って、なんだったんだろう。
しかし、関わっているのが、蒲生さんばっかりで、区別がつかない・・・
865: 2018/06/16(土) 10:24:43 ID:UBwsR3+g(1)調 AAS
蒲生だらけの運動会
866: 2018/06/17(日) 02:18:29 ID:Rpj+2ot/(1)調 AAS
>>863
量産型蒲生わろたw
867: 2018/06/17(日) 02:18:48 ID:w+S8SPVy(1)調 AAS
近江の上坂氏は3系統あるらしいけど、上坂伊賀って浅井が台頭する前に権勢を誇っていた上坂治部大輔と関係あるのかな?
868: 2018/06/17(日) 19:45:36 ID:UyI9nnUz(1/3)調 AAS
毛利孫左衛門、村山越中を詰る
大坂冬の陣の時の話。
池田左衛門督忠継の使番、毛利孫左衛門が先陣に出向いたところ、村山越中が毛利に向
って、「俺、今朝からずっと前線に張りつきっぱなしで疲れたよ。指物も鉄砲に撃たれま
くってボロボロになった」という。
それに対して、毛利は「俺は、500人の侍の中から選ばれて、母衣を許された者だ。お
前になど騙されない。お前は竹束の陰から出ていないだろう。その証拠に、指物の先の方
しか破れていない」と答えた。
村山は返す言葉がなかった。
常山紀談より意訳。
ばつが悪い話。
なんで、毛利孫左衛門、こんなけんもほろろな対応なんだろうと思ったけど、この村山
越中さん、かなり評判の悪い人だった模様。
ウィキペディアの杉原重政の項目によれば、1601年に諫言した杉原重政を上意討ち。同
年、岡山城の金蔵から金を盗み出奔。3年後に池田忠継に仕えるが1606年に私闘で殺人を
犯してまた出奔。加賀前田家に仕える。しかし、周囲と争いが絶えなかったため、翌年暇
を出される。その後、備中で重政の息子、重季に仇として討ち取られる。
かなりのトラブルメイカーで、おそらく池田家中でも、あちこちで衝突していたのだろ
うなあ。
869: 2018/06/17(日) 19:46:29 ID:UyI9nnUz(2/3)調 AAS
訂正。池田家出奔は、1616年。
870: 2018/06/17(日) 19:47:11 ID:UyI9nnUz(3/3)調 AAS
上でやり込められた村山越中。
他の軍記では、同じ大坂冬の陣で、剛勇を見せたという記述があったりもする。国会図
書館のデジタルコレクションに収録されている「武人百話:精神修養」という本では、橋
の上で、敵弾の下、友軍が放置した竹木縄を回収して、掃除して、自陣に戻ってみせたと
いうエピソードが収録されている。
871: 2018/06/20(水) 08:14:50 ID:snSb52k0(1)調 AAS
石田治部少輔三成は、昔の梶原平三景時を越えた讒臣であった。彼はある時、太閤秀吉に密かに申し上げた
「現在は、御世長久に治まり四海の内に旗を立てる(反乱を起こす)者は一人も居りません。
さりながら、会津宰相(蒲生氏郷)は、謀も優れ、良き侍をも数多持っており、先年九戸一乱のみぎり、
私は現地に下って彼の計略を見たのですが、彼の軍勢の人数、そして実施されている法度の数々には
目を驚かされました。
あのような良将を愛して置いては、虎を養えば必ず踵を返すとも言います。」
秀吉も常々、氏郷を訝しく思っていたため、彼を失わせるための談合評定を行わせた。
その頃、天下一の大名で、殊に武道に優れていたのは江戸大納言(徳川)家康であったが、家康は謀に達していた
故に、秀吉の前では作って凡人を装っていた。
しかし氏郷は錐が袋に収まらぬ風情にて、言葉のはしにも人に指をさされまいと心がけていたため、秀吉が
警戒したのも仕方がないのだが、かといって忠功第一の人であるのでどうにも手出しできなかったため
「人知れず毒飼いをせよ」
という結論に至り、ある時、氏郷に毒を盛った。
この毒が祟ったのだろうか、朝鮮征伐の頃、下血を病み、さらにその頃から気色常ならず、面色は黄色くなり、
頬の肉が痩せ、目の下もすこし浮腫した。
秋頃、法眼正純を召して養生薬を用いたが、その後も腫腫やや甚だしく、名護屋にて宗叔の薬が合うのでは
ないかと言われ、彼を召してその薬を用いいたが、その験無かった。
この年の12月朔日、太閤秀吉は何を思ったか江戸大納言(家康)、加賀中納言(前田利家)に、
「諸医者を集め氏郷の脈を見せよ」と命じた。
両人承って、竹田半井道三以下の名医を集め脈を見せた。彼らは皆「重体です」と答えた。
明けて文禄4年正月まで、宗叔の薬を服用していたが、氏郷の気力は次第に衰え、それより道三の薬を
用いた。しかしながら回復はもはや叶わず、同2月7日、生年40歳で、京都にて朝の露と消えたのである。
この時の辞世の句はこのようなものであった
「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」
未だ勇々しき年歳を一期と見捨てられたこと哀れなる事どもである。近習外様の老若男女、賤男賤女に至るまで
泣き悲しんだが、もはや詮無きことであった。その後葬礼が美々しく取り繕われ、紫野大徳寺の和尚を請して
一時の烟となった。その戒名は『昌林院殿前参議従三位高岩忠公大禅定門神祇』と号された。
(氏?記)
有名な蒲生氏郷毒殺説のお話
872: 2018/06/20(水) 08:58:13 ID:KwLVBxqB(1)調 AAS
氏郷記って、政宗が毒を持ったという話もあるし、毒が大好きなんだな。
873: 2018/06/20(水) 11:09:28 ID:88yyrNxx(1)調 AAS
病気で早世したというよりは、有能さを恐れられて毒殺のほうがカッコイイということか。
874: 2018/06/20(水) 11:10:19 ID:9mDsavLx(1)調 AAS
肝硬変の症状だな
875: 2018/06/20(水) 11:20:23 ID:aKAhGxdn(1)調 AAS
肝硬変、肝臓がん、直腸がんなどの説があるねい。
んで、症状や闘病期間から毒殺はまずありえないというのが定説。
876: 2018/06/20(水) 14:29:44 ID:v/cke0Ys(1)調 AAS
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…
877: 2018/06/22(金) 17:15:43 ID:K53k58Oq(1)調 AAS
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事
一揆の長、四郎が首を細川家の足軽陣佐右衛門取りけり。二の丸にて鉄砲に中り、倒れし
者の首を斬りしに、忠利前髪有る首を選り出させ、鞭にて彼首を指し、四郎が首とも覚し
きに、誰か見知りたる、と問う。須佐見権之允、四年以前に四郎を召使いし事の候。紛い
無き四郎なり。左の耳の下に瘤の候。是其証なり、とて生捕りたる四郎が母に見すれば、
吾子なり、とて泣倒れしかば、忠利使を立てて首を石谷十蔵の方に送られけり。後陣に千
石の禄を与えらる。
(常山紀談)
誰か分かって取ったわけではないのだな。二の丸で銃弾に当たって倒れていたというの
が不審。吉村豊雄『天草四郎の正体」によれば、量産型天草四郎が一杯いたそうだが。
千石の俸禄を得ているにしては、その後、細川家の家臣団に陣氏って見かけないような。
どうなったんだろう。
878: 2018/06/24(日) 00:07:50 ID:AYWzaaZT(1)調 AAS
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。
その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。
(長澤聞書)
冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと
879: 2018/06/24(日) 15:54:28 ID:u7rojT8f(1)調 AAS
結局、遅かれ早かれだったな。
880: [age] 2018/06/24(日) 17:03:51 ID:b0BBvRSj(1)調 AAS
横からわるいけど
こないだ加藤清正公の菩提寺である熊本県の本妙寺にいったんだけど。。。。。。。。。。。
大規模なお寺なんだけど。。。。。
先の震災のあと何も復興されてなくて、荒れ放題になってんの。
国も県も何もしてくれないとかで。。。。
熊本県はお寺に石灯篭を献上するのが風習みたいなんだけど
その何百という灯篭が倒壊したまんま、清正公の墓を守してきた一族の大きな墓所も壊れたまんま。
清正公があまりにもお気の毒。熊本は熊本城をシンボルにして観光やってるのにさ
菩提寺の惨状には知らぬ存ぜぬ。おかしいんじゃないの?
881: 2018/06/24(日) 17:42:10 ID:rHj3jcQH(1)調 AAS
マルチ辞めろ
882: 2018/06/25(月) 07:31:51 ID:HySMom0y(1)調 AAS
乞食すぎだろ…
883: 2018/06/27(水) 13:58:19 ID:Py8YpCep(1)調 AAS
天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、
五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。
これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。
伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。
三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。
宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。
以降、切支丹は厳重に禁止された。
(長澤聞書)
884: 2018/06/27(水) 15:07:23 ID:tCs7j6lY(1)調 AAS
キリシタンって普通に他宗を攻撃する排他的なカルト教団だし
弾圧されるのも残当
885: 2018/06/27(水) 15:22:46 ID:H7tae2x0(1)調 AAS
キリスト教が長崎でどんだけ破壊と殺戮やったか知ると、そりゃ報復も苛烈になるわって思う
松倉勝家がどうであろうと、キリスト教を旗印にして嫌がる村まで道連れに軍事反乱まで起こしてるし
886: 2018/06/27(水) 17:49:50 ID:Ys4oUs31(1)調 AAS
ほんまかいなというエピソードだけど・・・
887: 2018/06/28(木) 00:06:56 ID:wWSPXeF5(1)調 AAS
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる
尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。
仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。
善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院は
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。
善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院は
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。
このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。
和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。
――『池田家履歴略記』
* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。
888: 2018/06/28(木) 14:39:10 ID:7FJJQwwj(1/2)調 AAS
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。
889(1): 2018/06/28(木) 19:52:50 ID:uDHlqSWM(1)調 AAS
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。
その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。
この事件があったため、女能は固く禁止と成った。
(長澤聞書)
アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家
890: 2018/06/28(木) 20:36:11 ID:z4iy15Aq(1)調 AAS
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw
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