[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)6【ダメ工作員】 (335レス)
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114: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:26:05.06 ID:ncJKes9f0(43/190)調 AAS
万葉集で?の海が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかり
がある。写真西湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成
された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡
って修−27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも
多くの富士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの
精進湖畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には
、絵葉書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほと
んどだった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動によ
り形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多
くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度
も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点(view
point)である。富士山は、プロ・アマを問わず多くの写真
家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を
追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道
から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真
は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用され
た千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一
体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮
影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本栖
湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)1
936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定
1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定
2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用
が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)
2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)
信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ
り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在する
。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現在全
国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境内には
登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は
7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神
115: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:26:30.92 ID:ncJKes9f0(44/190)調 AAS
に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し
、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料があ
るが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣の流行
で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピ
ークを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も
見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ下山する
形をとった。また、1831年、須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日
蓮宗の信徒による登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、お
よび1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長い須走口は
敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続けた。1909年より登山道の
周囲に石垣を築き、1916年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八
合目以上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また、192
3年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年、バス道路(現ふ
じあざみライン)の完成により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道
としての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道北
口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である。15世紀には、富士
山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口
は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登るための
設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して
修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的
自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者
が次第に増加した18世紀後半以降は、年間数万人を数える富士講の道者が登拝し
たとされる。1964年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新
五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の道を利
116: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:32:28.27 ID:ncJKes9f0(45/190)調 AAS
現在の地に移転されたとされる。創建当時は富士山の噴火が盛ん
であり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的としていた。朝廷も
浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け
大日如来の垂迹である「浅間大菩薩」と見なされるようになり、
12世紀頃より政治の実権を掌握した武士階級に戦勝の神
117: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:32:53.15 ID:ncJKes9f0(46/190)調 AAS
登山者は激減したが、六合目以上については、現在残る登山道の中で最も多くの道
者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している。し
かも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口
登山道の写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定
1978年「特別名勝富士山保存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)
1996年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備199
9年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006年「特別名勝富士山保存管理
計画」を改訂2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史
跡富士山として指定−26−2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定
)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭神とし
て木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝
所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富
士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる
。当神社は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する3つの社殿は、1561年、1
594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進したものである。富士講とのつ
ながりが強く、1730年には富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内
の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。北口本
宮冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神
社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に登山門があ
り、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田
御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の
写真(本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯1907
118: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:33:10.70 ID:nhLYBjhR0(23/96)調 AAS
された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1
984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千
円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体
の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮
影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。写真本
栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9
)1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園
に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例
」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動
力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定
(予定)(2)信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に
位置する神社であり、この神社とともに発展してきた富士宮市
の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命
を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮
とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用された
湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝
所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。
創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めること
を信仰の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い
神階を与えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには
、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「
浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の
実権を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世
紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社
とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設
された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な
儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧
伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間
大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が
描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築
されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、16
119: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:39:15.18 ID:ncJKes9f0(47/190)調 AAS
信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大
社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿
坊が周辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水
垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し
た登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図に
は、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々
の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が
構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604
年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部
の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、
村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登
山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れた。ま
た、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合目以上
の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社
に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修
理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に特別保護建
造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本殿
は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1
936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定
に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行
われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿
の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査
を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005
年本殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵
文化財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基
づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定2010年
文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定湧
玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの
池である。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き
出す一日平均14万?(2008年)の水を源としている
120: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:39:58.31 ID:nhLYBjhR0(24/96)調 AAS
現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取
得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理
・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂
上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈
以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由
しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が
訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされてい
た八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき
121: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:46:33.03 ID:ncJKes9f0(48/190)調 AAS
のメカニズムは、富士山の標高1000m前後ないしそれ以上の
高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したもの
である。浅間大社の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める
考えや、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富
な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水に
は灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水
徳の神・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている
。池の名前の由来には、地底から玉が湧き出るように湧水してい
るためという説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の
名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名
称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間
大社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用
された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼
羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在
の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設
が見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、
現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また、
湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉池および
周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南端にある
「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作
られた石碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真
B2山宮浅間神社浅間大社の北北東約5kmに位置し、木花之佐
久夜毘売命を主祭神とする神社である。その起源は「富士本宮社
記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英
雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀
ったこととされ、これが802年に再び遷され浅間大社となった
とする。具体的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は155
1年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持
たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分
された遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。
この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定
122: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:46:59.91 ID:ncJKes9f0(49/190)調 AAS
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。
この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年に採用された千円札
の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本
栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残
している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7・A8・A9)
1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988
123: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:53:40.86 ID:ncJKes9f0(50/190)調 AAS
おり、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕され
た土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付
けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で
「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と11
月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社へ行き、神
事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山に
いる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈がある。この
行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神幸」に使
用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約
600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山
宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれ
た距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮浅間
神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士
山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し
、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範
囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な
どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体
のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。な
お、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三
坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって
確認されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧
末代上人による富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代
上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も残さ
れている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺にお
いて修験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる
。1259年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の
銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で修行する人
々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考え
られる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化
し、興法寺を再興したとされる。15世紀に入ると興法寺
124: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:54:04.69 ID:ncJKes9f0(51/190)調 AAS
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の下に名勝に
指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信仰
B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに
発展してきた富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売
命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮とされている。境
内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ
、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとされ
る。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰の目的と
していた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与えることで崇敬の念を示し
た。12世紀後半ごろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹で
ある「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握し
た武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んになるにつれ
て、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周
辺に建設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置
づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹
本著色富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する
人々の姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されてい
く中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在の社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は
山頂部の管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部の
大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退
と1906年の村山浅間神社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には
多くの参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされて
125: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 02:54:22.13 ID:nhLYBjhR0(25/96)調 AAS
る。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離す
る人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は192
0〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変
えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利
用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施
設があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基
点であり、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残さ
れている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大
社の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神と
する神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足
の地に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊
が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ
、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体
的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である
。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持たず、拝
殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分された
遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この
形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定されてお
り、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査では1
2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破砕さ
れた土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を
裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間大社と
の間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4
月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神社
へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事であ
る。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るとい
う解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという
解釈がある。この行事は1874年まで行われていた。なお、
「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社
湧玉池横より発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲
がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途
中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少なくと
126: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:00:32.21 ID:ncJKes9f0(52/190)調 AAS
を支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認
できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係
を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊
が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属
する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏が
いるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼
荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際
127: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:00:59.20 ID:ncJKes9f0(53/190)調 AAS
合目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(
返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の
補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理
1936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化
財に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修
理等が行われた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育
委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本
殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
り境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理
計画」を策定2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として
指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,500uの池である。
池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均14万?(20
08年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m前後
ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もある溶岩層の間にはさまれ
て充満し、それが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大社
の位置は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源の山と
して崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほとりに置かれたとされる。
この湧水には灌漑用水としての役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神
・農業神としての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には、
地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊たま(神霊)との
説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池
の名称は1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し
、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「絹
128: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:01:17.73 ID:nhLYBjhR0(26/96)調 AAS
所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮
浅間神社の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約50
0mのバルコニー状地形に位置し、木花開花姫命を主祭神とす
る神社である。神社と一体化した範囲には、現在別の宗教法人
となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これ
らは1868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山
興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、周辺には興法寺
の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊(池西坊・大鏡
坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている
。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人によ
る富士山頂への大日寺の建立にあるとされる。末代上人が富士
山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も残されている
。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修
験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1
259年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の銘
で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で修行する人
々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考
えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組
織化し、興法寺を再興したとされる。15世紀に入ると興法寺
とそれを支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(1478
)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である聖
護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒
あった道者坊が村山三坊に統合され、その活動を資料で確認で
きる。坊に所属する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂
で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間に白
装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様
子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は
、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等
を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本の一般
登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図
ると−30−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離
を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富
129: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:07:44.82 ID:ncJKes9f0(54/190)調 AAS
、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、
富士講の隆盛に対抗し西日本の一般登拝者中の有力者に対して「
先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−ともに、登拝が困
難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士
山を航海の目印とする伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大
漁の祈願を行った。興法寺の勢力は地元支配者である今川氏の支
援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ以降衰退し
つつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂
上部の大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川
幕府により修復され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から
19世紀半ばに建立されたと推定される。また、浅間神社は19
13年改築されたものを基本としている。1868年、神仏分離
令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し
、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし
、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は
1970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための
活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間
神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町
等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村山浅間
神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口登山道の
入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。その
起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦
夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有
力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社の存在が確認で
きるのは1524年で修築時の棟札による。また、市天然記念物
である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅くと
もこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測でき
る。現在の社殿は1823年の再建である。1707年の宝永噴
火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山
道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者
があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須
130: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:08:12.68 ID:ncJKes9f0(55/190)調 AAS
富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登山記で確認できる。こ
の絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設が
見られる。登拝者の水垢離は1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの恒
例行事に形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも利用す
る人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設があるが、特に池の南
端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり、現在でも1691年に作られた石
碑がたもとに残されている。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社
の北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である。その
起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた浅間大神を、神話上の
英雄である日本武尊が大神の神威により難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ
、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳
だが、文献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋以外の
建物施設を持たず、拝殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかに区分され
た遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。この形態は古代からの
富士山祭祀の形を止めていると推定されており、遥拝所の主軸は富士山方向を向い
ている。発掘調査では12〜15世紀にかけての神事に使用されたと推定される破
砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗教活動を裏付けている。
また、遅くとも1577年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀
式が開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅
間神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である。行事の意
味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田
の神として里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた
。なお、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横よ
り発し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山
131: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:08:30.23 ID:nhLYBjhR0(27/96)調 AAS
」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印とする伊豆
半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法
寺の勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世
紀前半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を
背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺
を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復
され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913
132: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:14:42.23 ID:ncJKes9f0(56/190)調 AAS
中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に
銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で発
生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間
神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士
峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場
口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場
口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1
912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受け
なかったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観
を保っている部分が多い。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間
神社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を
主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周
辺は古来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火
祈願のために祭事を行い、翌年噴火が収まったことから、807
年に祭事の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造
営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、
1571年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏
の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀
以降、須走浅間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山
道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳
の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部
の権利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間
大社と争いになり、須走村は1703年と1772年の2回、幕
府に裁定を求めている。この結果、これらの権利は幕府によって
認められた。また、冨士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じ
く、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は
、記録の残っている範囲では1662年、地元領主である沼津城
主大久保氏や小田原藩主稲葉氏などの援助によって修造が行われ
た。しかし1707年の宝永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩
壊したため、1718年に再建された。この後もこの際の
133: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:15:08.78 ID:ncJKes9f0(57/190)調 AAS
神社に至る。道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な
くとも四箇所残っている。写真山宮浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社
の南東約4km、富士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位
置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、現在
別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在している。これらは1
868年の神仏分離令までは一体のものであり、富士山興法寺(村山興法寺
134: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:15:23.53 ID:nhLYBjhR0(28/96)調 AAS
されたものを基本としている。1868年、神仏分離令により
浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、19
06年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富
士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は1
970年代より活発になった地域住民による伝統復活のための
活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅
間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊
勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村
山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口
登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社で
ある。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、
日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さ
らに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神
社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。
また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推
定されており、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の
地に存在したと推測できる。現在の社殿は1823年の再建で
ある。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を
受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁
年には約5,400人の登拝者があった。須山浅間神社は12
軒の御師とともに当時の須山村の中心的存在であり、村全体で
須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田家よ
り神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする
等して権威を高めているが、山頂部で発生した問題については
、浅間大社の判断を仰いでいる。須山浅間神社は村山三坊とも
関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一環とし
ての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設
され、1899年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向
上は須山口からの登拝者や登山者を奪い、加えて1912年登
山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山
口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなかっ
たため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景
135: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:21:40.63 ID:ncJKes9f0(58/190)調 AAS
使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。境内には水路があり、水垢離に利用された。18世紀末から
19世紀初頭にかけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東か
らの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年
の御縁年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀
前半まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営
した。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B
6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に
北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられるこ
ととなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の
届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅間神社を中心とし
た河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた
。しかし、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師
の隆盛により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰
退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接
に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富
士山信仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口
浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)
2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士
御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(
もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初と
され、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。
富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室
浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂
が整備されたようである。また、社記によると958年、二合目
は冬季における参詣が難儀であることから河口湖畔の現在地に里
宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にとも
136: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:22:04.60 ID:ncJKes9f0(59/190)調 AAS
ばれていた。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村山三坊
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認されている。そ
の起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上人による富士山頂への大日寺の
建立にあるとされる。末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記
録も残されている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験
道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259年には、現存す
る大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み
富士山で修行する人々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点となったと考
えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再
興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存在が現存する大
日如来の銘(1478)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺である
聖護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村
山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士
峯修行」を山中及び山頂で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間
に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著色
富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村
を年一回巡回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本
の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図ると−30−
ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、祈ることで登拝と同等の
利益があるとする「富士垢離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印と
する伊豆半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢力は
地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最も強かったが、それ
以降衰退しつつも聖護院の力を背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の
大日堂周辺を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復さ
137: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:22:23.06 ID:nhLYBjhR0(29/96)調 AAS
っている部分が多い。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間神
社富士山東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を
主祭神とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社
周辺は古来、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の
鎮火祈願のために祭事を行い、翌年噴火が収まったことから、
807年に祭事の跡地であるとされる現在の地にお礼のために
社殿を造営したとされる。その他の文書で確実に存在が確認で
きるのは、1571年のものである。16世紀には地元支配者
である武田氏の保護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得て
いる。17世紀以降、須走浅間神社は当時の須走村の御師など
と共に須走口登山道を支配し、山頂部薬師嶽(現−31−久須
志岳)の薬師堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得
ていた。これら山頂部の権利については八合目以上の支配権を
主張する富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は1703
年と1772年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、
これらの権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社
神主や御師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状
を得て権威を高めている。社殿は、記録の残っている範囲では
1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲
葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の
宝永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718
年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年
の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路
があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に
かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が
登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800年の御縁年の
際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半まで
富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営した。
また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による神影
や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社の写真B6
河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社(
山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜8
138: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:28:41.12 ID:ncJKes9f0(60/190)調 AAS
吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに
増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰退す
る。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士
御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が
困難となって、1973年から74年にかけて、−32−
139: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:29:05.04 ID:ncJKes9f0(61/190)調 AAS
在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定される。
また、浅間神社は1913年改築されたものを基本としている。1868年、神仏
分離令により浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、1906年
の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は19
40年代まで継続された。現在は1970年代より活発になった地域住民による伝
統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間神
社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町等では現在でも富士
垢離の行事が継続されている。写真村山浅間神社の写真B−4須山浅間神社富士山
の南東麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦夷征伐の
際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興し
たとある。記録上神社の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。
また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、遅く
ともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿
は1823年の再建である。1707年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害
を受けたが、1780年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,40
0人の登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心
的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田
家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする等して権威を高
めているが、山頂部で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでいる。須
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富士峯修行の一
環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場口登山道が開設され、189
9年の東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山者
を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能とな
140: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:29:22.53 ID:nhLYBjhR0(30/96)調 AAS
に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられ
ることとなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、
溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅間神社を
中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として
発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大流行と、それ
に伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能は
、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、
現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史
的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことができな
い資産である。写真河口浅間神社の写真表法的保護、修理・整
備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史
跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理
計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社
は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と、河口湖畔に建
立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉田口登山道
二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られ
た最初の神社であるとする文献もある。富士修験の信仰拠点は
南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が鎮座する
御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたよう
である。また、社記によると958年、二合目は冬季における
参詣が難儀であることから河口湖畔の現在地に里宮が建立され
たという。江戸時代以降富士講の隆盛にともない、吉田口登山
道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに増すこと
になる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変化や、
富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰退する。
それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士御
室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が
困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿
を里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった様々な
富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の
産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社で
141: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:35:11.46 ID:ncJKes9f0(62/190)調 AAS
里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった様々な富士
信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神
としての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士
御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本
宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)
1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定
1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直し
ほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本
殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士
山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿
や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指
導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北
東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師であ
る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路
を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている
。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。
最古の部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に
建てられ富士講最盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉
田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によ
って成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の
屋敷地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、
塩廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、
下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿
屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が
記されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。ま
た、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認
される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが、19
62年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所有者が取
り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、200
142: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:35:57.06 ID:nhLYBjhR0(31/96)調 AAS
写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1
973年本宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された
(〜74年)1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文
化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995年外部
の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財
冨士御室浅間神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定
)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定
143: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:42:23.94 ID:ncJKes9f0(63/190)調 AAS
ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県
指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文
化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講
によって大きく発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区に
あって、富−33−士山に登拝する人々を宿泊させた宿坊として
、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を
避けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿
って短冊状に町割が行われたと伝えられている。小佐野家住宅は
、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150mほどの長大
な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わ
せて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号
を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野
大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人
に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が
建築されており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している
。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯197
6年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設
備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵
の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画
」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖
で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する
内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりの
ある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。富士
山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士
144: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:42:49.66 ID:ncJKes9f0(64/190)調 AAS
真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅間
神社(山宮浅間神社か?)が執り行っていたが、864年〜866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山
を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる。浅
間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、
富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しかし、
145: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:43:08.21 ID:nhLYBjhR0(32/96)調 AAS
御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世
話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北
口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規
模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊
状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水
路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が
続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧
外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最
盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家
住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・
下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によって成立し
た東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に
建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋
(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、下総
地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿屋
敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が
記されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。
また、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として
確認される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが
、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2
006年から2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上
で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設
として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う200
8年富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を行
う2010年「山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計
画」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財として指
定小佐野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落で
ある富士吉田市上吉田地区にあって、富−33−士山に登拝す
る人々を宿泊させた宿坊として、代表的な御師住宅であ
146: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:49:28.30 ID:ncJKes9f0(65/190)調 AAS
れ、多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士
山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する
。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、こ
の河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地として有
名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかり
のある芸術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中
この河口湖が最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も
、河口湖越しに見える富士山を描いている。写真河口湖の写真表
法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地
が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然
公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−
34−2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)201
1年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八
海富士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つ
の湧水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池
、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に
関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢
れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士
御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ
、1843年に富士講道者によって再興されたとされる。写真忍
野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図表法的保護、修理
・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景
観形成重点区域に指定2010年街なみ環境整備事業により忍野
八海周辺環境の整備を行う(〜14年)2011年「天然記念物
忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎内樹型16
17年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津
胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規
模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀っ
た。1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発
見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。
147: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:49:53.98 ID:ncJKes9f0(66/190)調 AAS
おける富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落とし
ての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富
士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことができない資産である。写真河口浅間神社の写真表法的保
護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7
冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と
、河口湖畔に建立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。また、社記によると958年、二合目は冬季における参詣が難儀であること
から河口湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にと
もない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさらに増すこと
になる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの
開通等もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激
減する。また、富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理
が困難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮地内に移転
することとなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる
二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社であ
る。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本
殿・二合目から里宮境内地に移築、整備された(〜74年)1985年本宮本殿・
文化財保護法の下に重要文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995
年外部の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御
148: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:50:12.64 ID:nhLYBjhR0(33/96)調 AAS
吉田地区は、富士の雪代の被害を避けるため、1572年に旧
地である古吉田地区から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神
社の北西隅から北東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行わ
れたと伝えられている。小佐野家住宅は、南北の間口が16m
、東西方向の奥行きが150mほどの長大な屋敷地に建てられ
ている。小佐野家は、元亀の集落移転に合わせて現在地に移転
してきたと伝えられる。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し
、江戸時代には当主は小佐野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っ
ていた。当家に宿泊する参詣者は年間1,000人に達したと
される。現在、屋敷地の東側には所有者が住む住居が建築され
ており、小佐野家住宅には所有者の親族が居住している。写真
小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯1976年
文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消防設備
設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの
補修を行う1997年主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、
蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用
計画」を策定B9山中湖富士山の火山活動によって形成された
堰止湖で、富士山の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って
修行する内八海巡りが行われたが、この山中湖にも多くの富士
講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、20世紀前半に
は湖畔に洋式ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備さ
れた。ゆかりのある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画
が散見する。富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイ
アモンド富士と呼ばれ、多くの写真家を集める。写真山中湖の
写真B10河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で
、富士山の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内
八海巡りが行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋
式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材
にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾
北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士
山を描いている。写真河口湖の写真表法的保護、修理・
149: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:55:37.67 ID:ncJKes9f0(67/190)調 AAS
神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に
御子を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付け
た。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとと
もに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫な
どが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・
整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物と
して指定2010年「山梨県南都留郡富士河口湖町町内国
150: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:56:04.59 ID:ncJKes9f0(68/190)調 AAS
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定(予定)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予
定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をすると
ともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的なのは
、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に
沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし
、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が
建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の
部類に入る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の
典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅は、富士北麓の信仰登
山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割
によって成立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建て
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しおのや)と号し、富
士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家とした富士山御師である。157
2年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記
されており、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1669年の「
検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸末期
頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所
有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年から200
7年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史
民俗博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田市歴
史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「山梨県指定有形文化財
旧外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化
151: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 03:56:22.17 ID:nhLYBjhR0(34/96)調 AAS
経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の下に(
富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏
の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−34−2011
年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富
士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士山の
北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地
(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲
池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わ
る巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士
御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えら
れ、1843年に富士講道者によって再興されたとされる。写
真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図表法的保護
、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八
海周辺を景観形成重点区域に指定2010年街なみ環境整備事
業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14年)2011
年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12
船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富
士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹型指定
範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を
発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清
により現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅
間明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(
むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣
い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の
際に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空
間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にと
っての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。写
真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2
152: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:02:12.09 ID:ncJKes9f0(69/190)調 AAS
然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉
田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備さ
れた「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。
樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、そ
の下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が天
津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方
まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴につい
ては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内
樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天
然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物
吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花
姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講の人
々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長
さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した
犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立し
た文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所であり、地元では
「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にそ
の存在が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖
とされる長谷川角行が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内
で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角
行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主
に19世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め
、参詣だけでなく修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口
登山道の利用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊と
の関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確で
はないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が
富士講二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により
再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧
153: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:08:39.95 ID:ncJKes9f0(70/190)調 AAS
術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛
飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を描いている。
写真河口湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の
静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域で
の動力船の使用が規制される−34−2011年文化財保護法の下に名勝に
154: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:08:55.45 ID:nhLYBjhR0(35/96)調 AAS
母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕
方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。−35−本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉
田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史
跡名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「
天然記念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士
講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置
する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間
神社と富士講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟で
ある人穴がある。長さ約83mの人穴は約11,000〜8,
000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。
1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊
的な場所であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられて
いたことが記述されている。この内容は遅くとも1603年ま
でに説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講
関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者
のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大
菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り
口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴
は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修
行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と
推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあった
と推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、1
648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世
日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興され
た記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再
興された。1868年の神仏分離令により20世紀までには大
日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年、
付近が軍用地となったため一時移転したが、1954年に現在
地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が
墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰に
よるものである。そのほかに富士山に何回も登ったとい
155: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:14:03.23 ID:ncJKes9f0(71/190)調 AAS
写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀
念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市
により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市によ
り保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき
、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の
南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂
嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外
海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年と
いわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好
まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知られ
ている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形と
なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたと
えたという説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8
世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万
葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松
原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝
地として認識され、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と
足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で
渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半
島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌
等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞
台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した
。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場
面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見ら
れる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山
の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェー
ツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとともに
、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山
を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野探幽により完
156(1): (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:14:30.03 ID:ncJKes9f0(72/190)調 AAS
予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富
士山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧水地(出口池、御
釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八
大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞられ「富士御手洗(み
てらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者に
よって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺図
表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀
念物に指定2010年忍野村景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に
指定2010年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜14
年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予定)B12船津胎
内樹型1617年、富士講の祖とされる長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹
型の南方に焼入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと
考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清によ
り現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅
間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産し
たという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際
に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付け
が行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫など
が祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929
年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡
富士河口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定
B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者により整備された「御
胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士講にとっての富士
157: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:14:47.36 ID:nhLYBjhR0(36/96)調 AAS
記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。
碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢
力を誇るためと推定されている。碑塔で建立年代のわかる89
基の内、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半(17
81から1850年)に建立されたものが半数(44基)、1
9世紀末より20世紀前半(1871から1940年)のもの
が3分の1(29基)を占める。写真B14の写真B15白糸
ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅約12
0〜210mの数百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に
噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万?の水
を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れ
ているように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、
湧玉池と同様であり、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士
泥流の境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及
び溶岩流と泥流層の間より湧き出しているものである。このメ
カニズムが解明される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留
邊」ではその起源を富士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は
富士講関連の文書では、開祖とされる長谷川角行が人穴での立
行と合わせて水行を行った地と記されている。−36−その後
、白糸の滝は富士講を中心とした人々の巡礼の場となった。そ
の様子は1845年と1854年にこの地を訪れた富士講先達
の記録で確認でき、滝つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が
出来る現象を「御来光」としている。また、周辺にある食行身
禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれている。そのほかの19
世紀の登山記でも人穴と共にその存在が長谷川角行との関わり
を通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景勝地としても有
名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。写真B15
の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地が国立
公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年
富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富
士宮市により保存管理計画が改定され、これにともなっ
158: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:19:57.26 ID:ncJKes9f0(73/190)調 AAS
、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士山を描く際の
典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松
」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降
、江戸幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は
内海側の開発が進んだが、外海側の景観は保たれ、1922年、
国内初の名勝として国文化財に指定された。現在、砂礫の
159: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:20:22.11 ID:ncJKes9f0(74/190)調 AAS
神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を
祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右の穴が
天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である
。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に
登山した。−35−本穴については、古くから冨士山北口御師団が管理している。
写真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀
念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天然記念物吉田胎内樹型保存管理
計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿
いに位置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士
講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長さ約83m
の人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したも
のである。1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所
であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。
この内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在が知られて
いた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお告
げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとし
ている。角行は人穴を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19
世紀以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を
行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定される。また、塔頭
の碑文から村山三坊との関係もあったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明
確ではないが、1648年及び1665年、その前身である光?寺が富士講二世日
珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があり、19世
紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1868年の神仏分離令により
20世紀までには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。194
160: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:20:40.53 ID:nhLYBjhR0(37/96)調 AAS
計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した
長さ約7kmの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5
万4千本の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中
でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と
砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことが
できる景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は
約6000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は
内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。か
つては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝
地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その
後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央
の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1
4〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島
と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺め
る行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に富士
見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題材
となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡
曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨し
た天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面では
ヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写が見られる
。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の
噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘さ
れている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェ
ーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響を与えるとと
もに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った
作品である。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右
に富士山を左に配する構図が描かれ、この構図は狩野探幽によ
り完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世絵において富士
山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英
作が「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松
原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地となり松が守られ
161: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:26:48.63 ID:nhLYBjhR0(38/96)調 AAS
。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、外海側の景観は
保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定され
た。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによる
松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体による保
護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静岡市)
写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を
162: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:32:17.65 ID:ncJKes9f0(75/190)調 AAS
村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山
口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5
号建物跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・
須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須
走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A
5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩
A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・
西宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9
本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)
・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・
桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡
(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流
地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉
垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水
源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神
社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総
鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道
)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・
手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅
間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野
家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖
・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池、
御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B
12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13
吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14
人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞
163: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:32:45.49 ID:ncJKes9f0(76/190)調 AAS
6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸
ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が改定され、こ
れにともなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保
松原富士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴
をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海岸線4
164: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:33:03.10 ID:nhLYBjhR0(39/96)調 AAS
977年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原
」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指定
及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改
定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境
を構成する諸要素世界文化遺産「富士山」の顕著な普遍的価値
は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価値富
士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)
の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的
美しさと崇高さを基盤として日本人の自然に対する信仰の在り
方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕著
な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸
術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深
い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、
人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型
として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山で
ある。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれる
要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍
的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さ
らに緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、
表に示すとおり整理を行った。A富士山山体及び登山道B信仰
に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富
士山の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士
山本宮奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉
(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間
岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・
西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻
・吉田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経
塚・外浜道・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八
幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・
12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴
)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・
165: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:39:16.25 ID:ncJKes9f0(77/190)調 AAS
叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼
窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・
音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三
保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第
2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・
宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの
噴出物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然
記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然
林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理等保
護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公
開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総
合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用道路、電柱
、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる
諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的
要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内
、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地
、市街地、道路、その他人工物)上表において分類した諸要素に
ついて、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸
要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1
500m以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望
地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面に
おける比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する
境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点
からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している
。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ
」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあっ
た。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と
「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画な
どの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには
、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界
166: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:39:43.08 ID:ncJKes9f0(78/190)調 AAS
中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山
と砂浜の松という日本で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地とし
て知られている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと
考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である
。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた
和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保
松原は後鳥羽上皇など中央の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識さ
れ、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義教が三保半島と対岸(現静
岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川
家康が三保半島内海側に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の
詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした謡曲(能)「
羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れ
を描いたこの話の最終場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく描写
が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で示された富士山の噴煙が天
上と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この作品は、19
世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドといったモダニズムの作家に影響
を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるきっかけを作った作品で
ある。また、絵画でも15〜16世紀には三保松原を右に富士山を左に配する構図
が描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世紀には和田英作が
「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸
幕府の直轄地となり松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが
、外海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財に指定された
。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイムシによる松の枯死が進ん
167: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:39:58.56 ID:nhLYBjhR0(40/96)調 AAS
神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・
現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本宮冨
士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖
水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧
玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀
・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の
馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(
推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・
鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩
流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁
・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩
流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢
・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神
社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)
・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿
・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士
浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エ
ゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参
道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、
鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者
堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本殿B8御師
住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座敷・中門・
屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B1
1忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧
池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹
型・無戸室浅間神社、石造物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型
・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴
浅間神社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・
碑塔群・参道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B1
5白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止
の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の
168: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:46:12.64 ID:ncJKes9f0(79/190)調 AAS
て、富士山体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高
約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布
図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝
世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋
169: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:46:40.61 ID:ncJKes9f0(80/190)調 AAS
ため、静岡市及び地元民間団体による保護活動が行われている。写真三保松原(現
在の写真・静岡市)写真歌川広重の浮世絵−37−写真三保松原の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定197
6年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977年名勝地内の一部が指定解除19
89年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追加指
定及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管理
の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世界文化遺産「富士
山」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価
値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立し
た火山として世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人
の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによ
る顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育んだ「名山」
である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて
一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみ
ならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型として、世
界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山である。本計画では、顕著な普遍
的価値に対し、資産に含まれる要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「
顕著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに緩衝
地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示すとおり整理を行った
。A富士山山体及び登山道B信仰に関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関
わるもの表富士山の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士山本宮
奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志
岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の
背・東安河原・西安河原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒
170: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:46:56.11 ID:nhLYBjhR0(41/96)調 AAS
富士山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特
別規制A地区・特別規制B地区・第1種規制地区・第2種規制
地区・第3種規制地区@自然地形(山林、河川など)・宝永山
(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出
物による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記
念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹
木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自
然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理
又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板な
ど)・総合案内標識、解説板C道路とその他の人工物(生活用
道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素と
密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便
益施設@自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵
文化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構B
人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表にお
いて分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な
普遍的価値を構成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山
富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範
囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山
道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)
の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とりわけ
この「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」
と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体
の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界と
して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象となる
ことが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑
が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山
体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷川
角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を
171: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:52:29.25 ID:ncJKes9f0(81/190)調 AAS
た」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、
明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、
大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[
奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ
18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が
、もう一方には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−3
4)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×
幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」
と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹によ
り建碑された。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1
967)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口
登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳
(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古く
は山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀
釈により破却され、久須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真
・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御
霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組み
や木製の柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水と
おなじく、富士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。
『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはな
い」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)
石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「
大正五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑した
ものと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石碑
B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石
碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳
、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約8
00mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏が住むとさ
れた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉集註釈
』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉
172: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:52:54.02 ID:ncJKes9f0(82/190)調 AAS
田須走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2
大宮・村山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5号建物
跡・8号建物跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)
・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社
・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽
子岩A6北口本宮冨士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大
塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠からの
展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿
・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜
の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)
B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・
石塁・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜
頭ヶ池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)
・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手
水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠
・手水舎・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢
(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥
居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨
士御室浅間神社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・
移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)・主屋・離座
敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八
海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群B13吉田
173: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:53:11.62 ID:nhLYBjhR0(42/96)調 AAS
め富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1
500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図
・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開
山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本
朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士
山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋
納下した」とある。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があ
ったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈により山中の
174: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 04:59:39.77 ID:ncJKes9f0(83/190)調 AAS
期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。
江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記』には「ソノ名一定
ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカニカゾヘバ、十二
バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈
により仏教色を払拭したものに変更された。以下、平成20年度
の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報告書で示された
9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回り方である
時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の
8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(
標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた
。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているためにこの
名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多く
は登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、
採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行わ
れていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白
山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。
現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また
二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]か
つては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。
他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か
ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」
の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標
高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥
居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約
3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅
間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻
の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」と
ある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733
m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされ
る。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明
175: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:00:05.46 ID:ncJKes9f0(84/190)調 AAS
型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神
社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆積物・白糸溶岩流・
白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士
山の展望・富士の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制
B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然地形(山
176: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:00:21.04 ID:nhLYBjhR0(43/96)調 AAS
取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真
奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139
×幅64×厚さ18p)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。
一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が彫られている。天保
年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在す
る。碑面に「鎮國之山」と彫られている。明治31年(189
8)に書家の中林梧竹により建碑された。後年、落雷により破
壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北奥
宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名
命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時
代以降、頂上の一つである久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂が
あり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であっ
た。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久
須志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が
湧く泉で、その湧き水は霊験あらたかな「御霊水」として珍重
された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲
われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富
士山頂の霊験あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴
史』によれば、「如何なる旱にも水の涸れることはない」と記
している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@
(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正
五年」の2つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したも
のと考えられる。(b)石碑A(高さ162×下幅76×上幅
63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている。(c)石
碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水
の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、
成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の
直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、それぞれの峰に仏
が住むとされた。文永年中(1264〜1275)の作である
『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることか
ら、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立
177: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:06:06.13 ID:ncJKes9f0(85/190)調 AAS
。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,
722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現
在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をとっ
たという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が
岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m)]−43
−かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳
」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島岳の石仏群とし
て、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺に
あったものが集められたと考えられる。いずれも頭部を欠損して
いる。・大内院山頂の火口中央に存在する穴で、ここより雲が生
じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央にある大きな
火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神
や仏の居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた
拝所あるいは初穂打場から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。
現在、噴火口への立入は禁止されている。写真大内院の写真・小
内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内
院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えら
れる。写真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫
と砂の急斜面である。お鉢巡りの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾斜
しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかっ
たといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀
な広い平坦部である。かつては現世と来世の境である「賽の河原
」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。ま
た「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込まれた場
所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に
下りた付近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行
く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸
に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうずくまる姿に似ている
ことから名付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」と
178: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:06:30.90 ID:ncJKes9f0(86/190)調 AAS
川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型等富士山体・側火山からの噴出物
による地形・富士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、
鳴沢氷穴、本栖風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等の
植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内林・富士山特定地理
等保護林・富士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区B保存管理又は公開活用を目的
とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とそ
の他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸要素
と密接に関わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設@自然的要
素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成す
る諸要素周辺環境を構B人文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表
において分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値を構
成する諸要素@富士山山体及び登山道A富士山富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重
なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山
体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観
点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富
士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり
「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの
対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現在も石碑が一部残
存している。ルートはほぼ森林限界に沿って、富士山体を一周する。15〜16世
紀ごろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ−4
1−を通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約1500
m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富
179: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:06:47.35 ID:nhLYBjhR0(44/96)調 AAS
たと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土記
』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コ
マカニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構
成する峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名
称は、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更
された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に
よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣
ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。
なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」と
している。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]
かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を
立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという。道
者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなかったと
いう。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じられ
たが、麓からの石と取り替えるということが行われていた。写
真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高
約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。現在は一
般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また二等三
角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]かつて
は薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他
の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方
向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首
から上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身
禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就
岳(標高約3,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小
2つの鳥居が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆
岳(標高約3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼
ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感
じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸
気を噴出する」とある。頂上には鳥居は見られない。[朝日岳
(標高約3,733m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸
気を発していたとされる。頂上に鳥居は存在しない。石
180: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:12:15.29 ID:ncJKes9f0(87/190)調 AAS
た溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが
15m程あったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者
の修行場として知られ、食行身禄がここで入定しようとしたが、
大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子
岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にあ
る岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれた
181: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:12:39.19 ID:ncJKes9f0(88/190)調 AAS
登山道頂上に位置し、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売
命である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、富士山に
数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とある。江戸
時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥
宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p
)奥宮の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が
彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱が作ったとされる。(b)鎮
國之山(高さ146×幅61×厚さ31p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之
山」と彫られている。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑された
。後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東北
奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口
登山道、吉田口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須志岳(
旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場で
あった。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称
した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊験あらた
かな「御霊水」として珍重された。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の
柵で囲われ、旗や幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験
あらたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何なる旱にも
水の涸れることはない」と記している。写真銀明水の写真[銀明水の石碑群](a
)石碑@(高さ112×幅62p)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2
つの年代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A
(高さ162×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文字が刻まれている
。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の
182: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:19:21.00 ID:ncJKes9f0(89/190)調 AAS
る。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現
し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が
生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け
水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現
し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−
かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所
として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴
火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場
所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付近
に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで
きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の
火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山
スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立ってい
る鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在
している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は
、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山
明細図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。こ
のしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、
それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも
、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山
・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上
の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それを受けて昭和
5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や
木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、
現在10巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容
を確認できる。経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさ
かのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内
浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ
峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外
183: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:19:48.61 ID:ncJKes9f0(90/190)調 AAS
の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅
間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、それ
ぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275)の作である『万葉
集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉時代中期には山頂
の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『
駿河国新風土記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ
ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する峰も、またその名
称も一定でないことがわかる。峰の名称は、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払
拭したものに変更された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所によ
る発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの回
り方である時計回りの順に、記述する。なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つを
もって「八神峰」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]
かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ
立っているためにこの名があるという。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて
多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じら
れたが、麓からの石と取り替えるということが行われていた。写真剣ヶ峰の写真図
気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳
とも呼ばれた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、また二
等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)]かつては薬師岳とも呼
ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである
。頂上には鳥居が火口の方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存
し、首から上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄」の文字が
確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつ
ては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居が、噴火口の方角を向いて建てられ
184: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:20:07.30 ID:nhLYBjhR0(45/96)調 AAS
子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石
かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷え
て固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現在は
崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、
食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの
許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定したとされ
る。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、この方角
から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。また
185: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:26:31.45 ID:ncJKes9f0(91/190)調 AAS
雷岩、割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院
に沿って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関
わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登
山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約
3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830m)に
、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自分の
院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んで
あった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(
1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写真札
打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口登山道跡と富士
山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一
段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり、上−45
−段には小さな祠が建てられている。また下段には、南東から北
西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼ばれ、駒立
小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登るこ
とを許されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと
考えられる。下段平坦面の南側には溝が東西方向に延び、西側の
森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性
が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡よ
り北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神
の祠が並んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月
日」、八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれてい
る。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843
)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、
安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘
ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸
」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えられている。
井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物跡4号建
物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯とな
186: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:26:55.13 ID:ncJKes9f0(92/190)調 AAS
。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『
浅間神社の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成
就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。頂上には鳥居は見られない
。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発し
ていたとされる。頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他
の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m)]浅
187: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:27:12.72 ID:nhLYBjhR0(46/96)調 AAS
年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の
石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生け捕りに
したとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解け水が窪地
に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪
解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつ
ては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山頂の難所と
して知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石組みが
ある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあ
ったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭
を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を
拝む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在
は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀
明水の裏手の火口を臨む位置にあったとされる。大正2年(1
913)の登山スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火
口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、2
つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大
宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所
」としている。『富士山明細図』は、このしろが池の裏手の鳥
居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿
って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、
天文12年(1543)、寛永元年(1624)の銘があった
とされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む
位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真・三島
ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏の破片と一
石経を採集して下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもと
を調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの
遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経
巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能
性が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を
周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰
188: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:32:24.70 ID:ncJKes9f0(93/190)調 AAS
の中に5号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5
年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石
像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究
所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地
面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えら
れる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘が
ある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口
南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ
ると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。
廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では
5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物
跡7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平場中央
部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つ
の北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石
組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載って
おり、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた
「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂
は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土
記』にあり、また末代上人が建てた往生寺があったところだとも
いわれている。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山
道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m
)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西
約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。
東側には直径約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建
物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道
跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置
189: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:32:52.36 ID:ncJKes9f0(94/190)調 AAS
奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立入が制限されている。[駒
ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からで
きている。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳とも呼ばれ
た。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三
島岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近に、10体の
石像が安置されている。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集め
られたと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)は中央に
ある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の
居る所であると信じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場か
ら、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されている。
写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、
大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写真小
内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地されている。火
口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らなかった
といわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である
。かつては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を
積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭が投げ込
まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付
近の平坦部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置
する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず
くまる姿に似ていることから名付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」
190: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:33:10.91 ID:nhLYBjhR0(47/96)調 AAS
西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、
割石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿
って回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わ
る工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著し
く、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北
東約3.5q、天照教社の西南西約1qの地点(標高約830
m)に、東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本
の大きなケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打と
は、自分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修
験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った
。昭和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見ら
れたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村
山口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方
向に約500mの地点に位置する。標高は約1,280mであ
る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平
坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸
時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、
ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女
人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の
南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡
をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘される。写真中
宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100m
の地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建て
られている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王
には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大
宮町神田の横関家の主人が、天保14年(1843)から文久
3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安政7年
(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったの
で山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」と
は、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考えられてい
191: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:38:58.07 ID:ncJKes9f0(95/190)調 AAS
のである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面
図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,4
40m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径
は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜けること
ができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしで
あった。かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災によ
り天井部分が崩落し、現在の長さになった。崩落した部分は、長
さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として須山御胎内の
192: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:39:21.93 ID:ncJKes9f0(96/190)調 AAS
れた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あった
が、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄
がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合
五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。また、文化年間の
初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、8合目の石室に走り入った。これを
石室に居合わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の
雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を現し、雪解け
水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻−44−かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、
強い風が吹き付ける富士山頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところにあっ
たとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投
げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場
所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定す
ることはできない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を
臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山スタンプが押された写真
では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在している。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録
』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『富士山明細図』は、
このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道
に沿って3体の大日如来があり、それぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1
543)、寛永元年(1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、
剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真
・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を
193: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:39:36.45 ID:nhLYBjhR0(48/96)調 AAS
戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建物跡4号建
物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯となり、
その中に5号建物跡がある。標高は約1,865mである。平
成5年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に3
体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財
調査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒
れた際に地面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現わ
れたと考えられる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1
810)の銘がある。背面には「瀧本前」と刻まれており、こ
こが「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧
本・笹垢離」跡であると推測できる。4体の石像には破壊され
た痕跡が確認できる。廃仏毀釈によるものと考えられる。なお
、明治末の登山案内では5号建物跡に該当する施設の記載がな
くなっている。・8号建物跡7号建物跡から北西に約220m
(標高約2,170m)の位置にある。中宮八幡堂跡より標高
の高い位置に所在する建物跡の中で最も大規模なものである。
2つの平場により構成され、南西部の平場は東西約25m、南
北約10mである。入口に石段が残存しており、石段の東西に
は石垣が組まれている。また平場中央部よりやや西に護摩壇と
思われる石組も残存している。もう一つの北東部の平場は北西
から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸約6mの三
角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。
昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載っており、「富士山
表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂・
木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂は大日如来
と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』にあ
り、また末代上人が建てた往生寺があったところだともいわれ
ている。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡
に残る遺構のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m)
にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西
約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている
。東側には直径約90pの丸い穴が二つある。(同様の
194: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:46:16.39 ID:ncJKes9f0(97/190)調 AAS
て下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まっ
た経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10
巻分の経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタ
イルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真出土遺物
の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣
ヶ峰を下り西安河原の北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経
て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明水に至る道が内
浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が数多く存在する。外浜道は近
年崩落が著しく、現在は立入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道
に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の
西南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10mの平場があ
る。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、
自分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛んであった頃、
山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打
ちつけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山
口登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約500mの地点
に位置する。標高は約1,280mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面
に所在している。平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返しと呼
ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人は登山道を登ることを許
されず、駒立小屋は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面
の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくなる
。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂
跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が
195: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:46:34.91 ID:nhLYBjhR0(49/96)調 AAS
の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居
登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置さ
れている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が
設置したものである。A3須山口登山道図登山道に要素が点在
している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合
目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴で
ある。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内
部を通り抜けることができる。登山者は、この洞穴を通
196: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:53:00.67 ID:ncJKes9f0(98/190)調 AAS
時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれていた。富
士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ
御子石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之
神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(
登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目
、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されて
いる。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。
この場所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石
碑7合目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっ
と標高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に
転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している
。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山
道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂
を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓か
ら頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する
要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等
信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂となり馬
が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。
富士山有料道路が開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾
配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがいったん休憩
を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋が営業され
、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木
山と焼山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも
言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等がおかれていた。
ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所
である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、江戸
後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に
「中宮之室」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設
けられ−48−ていたことがわかる。最盛期には18軒が
197: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:53:24.43 ID:ncJKes9f0(99/190)調 AAS
建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年
七月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保1
4年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』には、安
政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた
」との記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指
すものと考えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5
198(1): (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:53:41.07 ID:nhLYBjhR0(50/96)調 AAS
山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ
ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな
った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地
形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は
須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜123
0年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に
噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、
須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認
められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されて
いることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内
の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元
在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成1
2年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南東側入口
の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内の南東
側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標
柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記さ
れた標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置されてい
る。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に、石
造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社
の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿は、
昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の規
模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には鳥
居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、
庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之
神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)
に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼
ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理
していた。元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富
士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから
、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考えられる
。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈
199: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:58:56.95 ID:ncJKes9f0(100/190)調 AAS
たと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて
富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の
断食修行を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三
日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レ
ヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身禄の聖地
として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地と
して重要な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間
神社図以下に示す要素が点在している平面図北口本宮冨士浅間神
社は、富士講とのつながりが強く1730年代に富士講の指導者
である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行わ
れ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登
山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が
延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展し
た神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士
信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道
の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥
居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で
、入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆
塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を
展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝を
つける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとよ
り西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿
入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い
建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮
本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替
わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成次の本
200: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:59:24.78 ID:ncJKes9f0(101/190)調 AAS
跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5
号建物跡がある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による調査で
は、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県
埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に
地面が掘り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1体
の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧本前」と刻ま
れており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹
垢離」跡であると推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏
毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建物跡に該当する
施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7号建物跡から北西に約220m(標
高約2,170m)の位置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建
物跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の平場は
東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存しており、石段の東西には
石垣が組まれている。また平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存し
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15
m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。
昭和時代の地図には「一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室
有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる
。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』に
あり、また末代上人が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い
位置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地点に所在する。
東西約8m、南北約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直径
約90pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所
201: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 05:59:42.23 ID:nhLYBjhR0(51/96)調 AAS
て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己
貴命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルー
トであったが、現在は建物の東側を通るようになっている。迎
久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれ
る日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」
という富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平
石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」はないが、
祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居
登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、
9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社
前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・狛
犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所
は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合
目付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標
高の高い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転
がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置した
という。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損してい
る。A5吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・
登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富
士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道
者が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一
徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価
値を構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教
施設や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここ
から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。こ
の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地
ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の
周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、
登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期
間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写真馬
返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地
は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。
202: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:05:39.06 ID:ncJKes9f0(102/190)調 AAS
により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一
間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。
西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞で
きる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿
の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地で
203: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:06:06.15 ID:ncJKes9f0(103/190)調 AAS
えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築された鳥居が
設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置したもの
である。A3須山口登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶
岩洞穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m余の溶
岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を通り抜
けることができる。登山者は、この洞穴を通って登山するのがならわしであった。
かつて洞穴の延長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在
の長さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地形として
須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている
。年代測定では1030〜1230年という結果が出ており、永保3年(1083
)の噴火時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、須山胎
内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められており、須山口登山
道がこの溶岩流に沿って形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・
石像須山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住
の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ
る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居
須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられている。・標柱
鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)」と記された標柱が、富士山須
山口登山道保存会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状
の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4須走口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅間神社の境外末社で、5合
目の登山道登り口にある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には
鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備え
204: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:06:24.63 ID:nhLYBjhR0(52/96)調 AAS
中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮
三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手
改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒があった
が、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という
名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−て
いたことがわかる。最盛期には18軒が所在したと伝えられて
いる。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形
をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて富士講中興
の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の断食修行
を経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三日富士
行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲
者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身禄の聖地と
して信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地と
して重要な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅
間神社図以下に示す要素が点在している平面図北口本宮冨士浅
間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代に富士講の
指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工
事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の
背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで吉
田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持
ちながら発展した神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境
内地、吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、161
5年、都留郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行
一間・梁間二間の規模で、入母屋造の建物を身舎としてその前
面に唐破風造の向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式
が採用されている。各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・
金具を配して豪華絢爛な装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技
法の多様性を示すとともに、すぐれた意匠をみせる顕著な建物
である。写真本殿の写真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1
223年北条義時の創建とも伝えられるが、現社殿は1561
年武田信玄が浅間本社として造営したものである。本殿
205: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:12:27.74 ID:ncJKes9f0(104/190)調 AAS
ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに
、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社
として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は、流山状
の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てられている。
写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際
の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され
、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏
訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西
湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡っ
て修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある。写
真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在している平面図
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に
よって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり
が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(
湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わら
ず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の北
側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山本宮
浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流に分類
される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で
−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内
の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される。また、当該
地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿いの散策
206: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:12:54.54 ID:ncJKes9f0(105/190)調 AAS
という。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合
目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。元禄
16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師之小
屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに祀られていたものと考え
られる。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を
降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前は登
山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側を通るようになって
いる。迎久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を
遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が置かれて
いた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ御子石」
はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の
浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目、本7合目
、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置され
ている。・狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山道脇に富士講
関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所にあったが、雪崩によって流され
て別の場所に転がっていたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したとい
う。日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道は、北口本宮冨士浅間神
社を起点とし、富士山頂を目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者
が吉田口登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで
登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存する吉田口
登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬
207: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:13:10.04 ID:nhLYBjhR0(53/96)調 AAS
梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造の
形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較
してやや小規模であるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻など
に室町時代の手法を示しており、三殿中最も古い建物である。
写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1
594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿
として建立されたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により
現在地に移され西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ
208: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:19:34.15 ID:ncJKes9f0(106/190)調 AAS
は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅間大
社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘
調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧
玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別天然記
念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端
で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に
分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼
んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後山中へ向かう
という、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富士山山開
きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写
真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってス
ダジイ、ケヤキ等の樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指
定されている。また、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥
の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・
楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営され
たという。かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅
間神社の総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜
11年(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写
真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財
である。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上
層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治
40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造
物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。
写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝
殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3
間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれ
ていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるよう
に描かれたと推測される。県指定文化財として保護されている。
[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くな
209: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:19:58.84 ID:ncJKes9f0(107/190)調 AAS
から急坂となり馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山から木
山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもなる。富士山有料道路が
開通する以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり
、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼
山の境界でもあるこの地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所であ
210: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:20:14.47 ID:nhLYBjhR0(54/96)調 AAS
流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西
宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、や
がて豪華な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞
できる貴重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮
本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地で
あり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている
。さらに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山に
は、大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この
地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建
てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火
祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石
上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる祝詞の
一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の
写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平
面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士
講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象と
して数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として
、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図
以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って
修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、い
つの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、
景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがあ
る。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要素が点在して
いる平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多く
の富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の
対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの
芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある。
写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山本宮浅
間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山
211: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:25:23.35 ID:ncJKes9f0(108/190)調 AAS
る。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面に1
間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続し
ている。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲
を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含め
たより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間
に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間一戸
、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついてい
る。楼門の左右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財と
して保護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼
門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加された
ものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清
めるために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれ
の灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に
石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄進されたも
のである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱
塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執
り行われる馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝
が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことに始まる
と言われ、室町時代の初期にはすでに神事が行われていたとの記
録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられてい
る。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下り
るための石段が組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の
神田川への流出口に石造りの橋が架けられている。春秋の大祭に
はこの橋を通って山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(
1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋
)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛
文10年の絵図には既に描かれているが、大正4年(1915)
に石造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文
10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、
護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出さ
れた。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。
また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎石が
212: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:25:38.89 ID:ncJKes9f0(109/190)調 AAS
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料と
して役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋については、
江戸後期には4軒があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」
という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわ
かる。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏
帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここにて富
士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定
した。「甲斐国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋ア
リ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはすでに身
禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在も富士講の聖地として重要
な地である。写真烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年
代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が行
われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、こ
の神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と
密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素
として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起
点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守成次によって
建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母屋造の建物を身舎としてその前面
に唐破風造の向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各
部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開し、桃
山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐれた意匠をみせる顕著な建物
である。写真本殿の写真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の
創建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営
213(1): (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:26:02.67 ID:nhLYBjhR0(55/96)調 AAS
北側にある丘陵地一帯は神立山と称される。神立山及び富士山
本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩流
に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積
物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのた
め指定地内の一部では溶岩礫が露出し、縄状溶岩も散見される
。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿
いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1
670)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建
築物が描かれ、発掘調査で石畳や護摩堂跡が確認されている。
写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池
」は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山
に降った雨や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の
溶岩層間を流れ、溶岩流末端で湧出して池になったものである
。禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉
池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池
の水で心身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連
の深い池であった。現在も富士山山開きの7月1日には、湧玉
池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢
神立山表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の
樹木が生育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。ま
た、野鳥の生息に適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建て
られている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大
社は、社伝によれば大同元年(806)に造営されたという。
かつての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の
総本社として崇められている。現在の社殿は、慶長9〜11年
(1604〜06)に徳川家康が造営したものである。写真社
殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財で
ある。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他
に例を見ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階
上層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。
明治40年(1907)5月27日古社寺保存法により特別保
護建造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保
214: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:31:46.54 ID:ncJKes9f0(110/190)調 AAS
れた。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えら
れる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石
川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作
」と記され、市指定有形文化財として保護されている。写
215: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:32:17.06 ID:ncJKes9f0(111/190)調 AAS
のである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の向拝をつける一間社流造
の形式である。東宮本殿は、本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿
中最も古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は
、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重により東宮に替わる本殿として建立され
たが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿
の形式は東宮と同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一間の向拝をつけ
る。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に取り入れていて、やがて豪華な本
社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49
−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝
した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所と位置づけている。さらに、
788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分
祀したと伝えられる。現在この地は、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を
祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図・御鞍石吉田火祭(鎮火
祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が
行われる。ここで読まれる祝詞の一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。
写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点在している平面図富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、
いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり
、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自
然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8精進湖図以下に示す要素が点在し
ている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によっ
て行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成
216: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:32:35.54 ID:nhLYBjhR0(56/96)調 AAS
ている。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図
(幣殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行
3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図に
は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分
に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全
景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と
して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣
殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で
、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を
巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として保護
されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外側、本殿
横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−
51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化財とし
て保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋根
は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左右には随
身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている
。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸び
る回廊は、昭和9年(1934)に付加されたものである。・
手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清めるために手
や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境
内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの
鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄進されたものであ
る。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗り
の鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り
行われる馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝
が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことに始ま
ると言われ、室町時代の初期にはすでに神事が行われていたと
の記録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えら
れている。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、
池に下りるための石段が組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧
玉池南側の神田川への流出口に石造りの橋が架けられている。
春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発したと
217: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:38:46.12 ID:ncJKes9f0(112/190)調 AAS
像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている
。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明
治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標
が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十
一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見さ
れ、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御子
神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮
本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」
が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれ
ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿っ
た鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋
)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路
橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図で
は西側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年
の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至る
までの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置
する小高い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の
西岸には、天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成され
る丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近
の北山溶岩流を含め、4つの異なる溶岩流地形が広がっているこ
とになる。遥拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,00
0年前の噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、
この部分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられ
る。そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見
渡せていたため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考え
られる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・
社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9
,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定さ
れている。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠
屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅間大社
218: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:39:31.50 ID:nhLYBjhR0(57/96)調 AAS
。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている
。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が
架けられている。寛文10年の絵図には既に描かれているが、
大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真
図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成
20年の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成
された石垣と建物跡が検出された。石垣は樵石積みで組まれ、
平面形は正方形となっている。また、石垣で正方形に囲
219: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:39:55.48 ID:ncJKes9f0(113/190)調 AAS
要素として、自然地形(湖水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に
示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多く
の富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられ
ている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的
価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがある
。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士本宮浅間大社図以下に示
す要素が点在している平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称さ
れる。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶
岩流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積物の層で−50
−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出
し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋
沢堀沿いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(1670)の浅
間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳や
護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の
「湧玉池」は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨
や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末端で
湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池
のみを湧玉池、下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心
身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現在も富
士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細
平面図・社叢神立山表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が
生育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に適した環
境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀
・楼門)浅間大社は、社伝によれば大同元年(806)に造営されたという
220: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:45:01.47 ID:ncJKes9f0(114/190)調 AAS
浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」において、これに同行し
た大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾立
石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿っ
た鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾であ
り、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1つの計2
つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登る
ための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしくは戦後に
改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方
が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶
岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築さ
れている。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土
しているため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もし
くは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の
玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられたものと考
えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付けられてい
る。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目的として
築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約
7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等に
よって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に
向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所
が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝所
の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建て
られている。昭和6年(1931)に建立されたものである。・
参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山浅間神社図
以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩流村山浅間神
社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付
の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区
は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に
位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ば
れる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社
221: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:45:28.93 ID:ncJKes9f0(115/190)調 AAS
ての駿河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として崇められて
いる。現在の社殿は、慶長9〜11年(1604〜06)に徳川家康が造営したも
のである。写真社殿全体の写真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財であ
る。「浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。1階下
層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁行3間・梁間2間の三間社流造で
共に桧皮葺である。明治40年(1907)5月27日古社寺保存法により
222: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:45:47.72 ID:nhLYBjhR0(58/96)調 AAS
た敷地内で建物跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で
、南側に入口を有していたと考えられる。発掘調査後に、江戸
時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「本地堂」とする記載が確
認されており、最終的に護摩堂から本地堂へ造作し直された可
能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)
図平面図・随身像慶長19年(1614)2月に建立された。
背銘には、左側の像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右
−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作」と記され、
市指定有形文化財として保護されている。写真随身像全体の写
真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7
年5月に奉献されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前
に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の首標が、
池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一
月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれて
いる。昭和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見
され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三
御子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・
七之宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅
間神社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立
石が置かれている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の
際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神
路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている
。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年(
1670)の絵図では西側にのみ架けられている。写真橋全体
の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要
素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居か
ら参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展開し
ている。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶岩流の先
端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子山)溶
岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する。よって
、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含め、4つ
の異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝所
223: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:52:10.58 ID:ncJKes9f0(116/190)調 AAS
ら大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因
の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]−5
4−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定され
た。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根
が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の
乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以
前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀
でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念
物に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。
境内の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東
西17.5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ
8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢とされ
るが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境
内には胸高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本
、スダジイ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹
されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されてい
る。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境
内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左
座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照
大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2
年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化した
ため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられてい
る。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の
文保年間(1317〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊
が村山に興法寺を開いたと伝えられている。その興法寺の建物と
して現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊と
する。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸
時代末期の建造と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられ
ている。桁行5間・梁間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出
入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。
写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修
224: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:52:38.41 ID:ncJKes9f0(117/190)調 AAS
護建造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿全
体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿
をつなぐ部分で、桁行3間・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図
には幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間
ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全景がよく見えるように描かれたと推測
される。県指定文化財として保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床
は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺
、正面に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している
。県指定文化財として保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外側
、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2
棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護されている。[楼門]三間
一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左
右には随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保護されている。写真楼門
全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934
)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清め
るために手や口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に
設置されている。・石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和
33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端にそ
れぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われ
る馬場が約200mに渡って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行っ
た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに神事が
行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両側に御神木の桜が植えられて
いる。・禊所湧玉池の上池と下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が
組まれている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に石造り
225: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:52:57.62 ID:nhLYBjhR0(59/96)調 AAS
となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火によって
流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区域
と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、
樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため
、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真
溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通り
の幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780
uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定されてい
る。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が
建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅
間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」において、これに同行し
た大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾
立石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の
宿った鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山
弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置に1つ、石段の手前に1
つの計2つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する
丘陵へ登るための石段が組まれている。現在あるものは戦中も
しくは戦後に改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周
辺約45m四方が石塁により方形に区切られている。青沢溶岩
流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を
含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いられたと
思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた12
世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定
される。写真石塁の写真図石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所
の周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もし
くは戦後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口に
は鉄製の門扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝
礼し、祭儀を行うことを目的として築造されたと推定される施
設である。南北約15.2m、東西約7.6mの長方形で、3
0〜40p程度の溶岩を用いて石列等によって組まれている。
富士山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀
を行う際の大宮司席、公文・案主席、献饌所が、向かっ
226: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:57:57.42 ID:ncJKes9f0(118/190)調 AAS
、富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.
5m、奥行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底
に石を敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水
垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋
で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行の
ときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている。写
227: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 06:58:22.31 ID:ncJKes9f0(119/190)調 AAS
架けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発したとされる。
寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本
殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の絵図には既
に描かれているが、大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真
図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査に
より、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出された。石垣
は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。また、石垣で正方形に囲繞さ
れた敷地内で建物跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有
していたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地堂へ造作し直され
た可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身
像慶長19年(1614)2月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下
山住番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井三蔵作」と記
され、市指定有形文化財として保護されている。写真随身像全体の写真・狛犬参道
の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7年5月に奉献されたものである。
・御神幸道首標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道の
首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一月とされ、
「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている。昭和59年(1984)
に浅間大社境内の土中から発見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に
、淺間第三御子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮本
殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」が建てられている。
・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が置かれている。明治の初めまで行われていた
山宮御神幸の際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、
神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路橋
228: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:03:47.16 ID:ncJKes9f0(120/190)調 AAS
離場の写真・護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明王の石像
が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5.3mの丸
い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石には、「干時
安政四年九月」と刻まれ、安政4年(1857)造立と考えられ
る。周囲の正方形の石組みと中央の丸い石組みは石材に違いが見
られ、造成時期が異なっているものと思われる。写真護摩壇の写
真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護摩壇裏手の一段高くなっ
たところに末代上人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しか
し、神仏分離令により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日
堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社を遷し「富士大神
社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在は「高根総鎮守」と
呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五月十
七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の
社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登
る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和28年(195
3)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮守
社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成15年
の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水鉢)村
山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置されている
。明治16年(1883)に設置されたものである。・石段(参
道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂へ続くも
のの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5年に奉納された
狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢500年を超えるス
ギの巨木が22本あり、中には樹高37m、目通りの太さが7m
を超えるものも見られる。社叢全体が市指定天然記念物として保
護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれ
ば、天元4年(961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したと
の記録がある。その後の記録として社殿の存在が確認できるのは
、大永4年(1524)と記された修築時の棟札による。現在の
社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真
社殿の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で
229: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:04:26.68 ID:nhLYBjhR0(60/96)調 AAS
弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(19
13)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、
その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。
写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文
保年間(1317〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊
が村山に興法寺を開いたと伝えられている。その興法寺の建物
として現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主
尊とする。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴
230: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:04:45.71 ID:ncJKes9f0(121/190)調 AAS
が神路枚橋であるが、寛文10年(1670)の絵図では西側にのみ架けられてい
る。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に示す要素が
点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至
るまでの区域は北山溶岩流上に展開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵
は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子山)溶岩
流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する。よって、山宮浅間神社周辺に
231: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:10:03.90 ID:ncJKes9f0(122/190)調 AAS
れる神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛
犬境内には、社殿前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置さ
れている。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成1
3年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てら
れている。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところに
あるものは、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に奉納さ
れたものである。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の
2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−
56−年と刻まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10m
ほどは石畳が敷かれ、その後社殿の位置する高台へ登るためにコ
ンクリート製の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗り
のコンクリート製の鳥居が建てられている。昭和41年(196
6)に奉納されたものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として
奉幣を受けていたことを示す碑が建てられている。・古宮神社八
坂大神、八幡大神、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内
社である。覆屋の中にあり、旧本殿と推測される建物である。B
5冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・社叢(
浅間の杜)社殿周囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に
参道南側の部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物
である大樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1963)
2月19日に静岡県の天然記念物に指定された。根回り約6m、
目通り4m、樹高24.50m、枝張東西28.10m、南北2
3.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多い落葉高木で、
静岡県では極めて少なく当社以外の小山町内では数本しか見当た
らないが、境内には10本が生育している。・エゾヤマザクラ昭
和58年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約1
30年で、根回り2.08m、目通り1.75m、樹高約10m
、枝張東西13.8m、南北9.5m。別名をオオヤマザクラと
称するヤマザクラの北方型で、静岡県が南限である。県内ではま
れな樹種である。・根上がりモミ平成3年5月1日に小山町の天
然記念物に指定された。樹齢約300年で、根回り4.61m、
目通り3.07m、樹高27m。この根上り群は約150
232: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:10:30.45 ID:ncJKes9f0(123/190)調 AAS
15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図石
塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されてい
る。戦中もしくは戦後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製
の門扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うことを目
的として築造されたと推定される施設である。南北約15.2m、東西約7.6m
の長方形で、30〜40p程度の溶岩を用いて石列等によって組まれている
233: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:10:48.03 ID:nhLYBjhR0(61/96)調 AAS
ら江戸時代末期の建造と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに
変えられている。桁行5間・梁間7間、入母屋造、鉄板葺きで
、南面に出入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡
らしている。写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏修行
者及び修験者が、富士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場
所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形で、深さ約0.
6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みとなっている
。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧
水を引き、上の段から樋で落とし垢離を取るようにしてある。
水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石像
が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側に
あり、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四
囲を石で囲んだ一辺5.3mの丸い石組となっている。丸い石
組の前に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、
安政4年(1857)造立と考えられる。周囲の正方形の石組
みと中央の丸い石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異な
っているものと思われる。写真護摩壇の写真・氏神社(高嶺総
鎮守社)−55−護摩壇裏手の一段高くなったところに末代上
人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しかし、神仏分離令
により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日堂の間から裏
山に登ったところに大棟梁権現社を遷し「富士大神社(祭神大
己貴命)」として祀られた。現在は「高根総鎮守」と呼ばれ、
元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年五月十七日奉
再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。現在の社殿
は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅間神社へと登る
石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和28年(195
3)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社(高嶺総鎮
守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。平成1
5年の再建に合わせて建てられたものである。・手水舎(手水
鉢)村山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置さ
れている。明治16年(1883)に設置されたものである。
・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くもの
234: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:16:57.69 ID:ncJKes9f0(124/190)調 AAS
モミの根本にブナ、イヌシデの種子が生え、宝永噴火の火山灰土
が、降雨により流亡しながらモミが成長したため、根が爪を立て
た状態で生育し、根上がりになったと考えられる。縁結びの木と
も呼ばれている。・社殿平成18年8月24日に小山町の文化財
(建造物)に指定された。宝永噴火により大きな損害を受けたが
、享保3年(1718)に再建された。その後蟻害や老朽化によ
り改修したものの、部材は享保年間(1716〜36)のものが
今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結した権現
造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本殿は享保年間の
遺構を残した流造りとなっている。−57−構造は、拝殿が桁行
5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千鳥破風付。幣殿
が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造、向拝1間、
屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の写真図社殿の図面
・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付きの縁を巡らし
ている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配神されてい
る。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在のものは明
和4年(1767)随神が寄贈された当時に再建されたものと考
えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板
葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先として
いる。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てられて
いる。春日造で、額束には「不二山」と刻まれている。明治33
年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から本殿
へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼
門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい
る。・富士講講碑群明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄
進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が
成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証とした
もので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられ
ている。写真富士講講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B6河
口浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社
は、864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも
浅間神社が建てられることになったが、その神社である可
235: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:17:21.74 ID:ncJKes9f0(125/190)調 AAS
山を拝む方向に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公
文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられている。写真遥拝
所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭
和6年(1931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続
いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩
流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間
は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高く、他の集
落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東
側に「竜頭ヶ池」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき
た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側から大沢川と
なる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因の一つである。・御神木(イ
チョウ、大スギ)[イチョウ]−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然
記念物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1
9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根が数多く垂下する
。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の乳の出がよくなると伝えられ、女性
の信仰を集めていた。また以前はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現
在でも祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然記念物に指
定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内の多くのスギの中で
最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17.5m、南北31m、樹高47mも
ある。中心部には高さ8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の樹齢と
されるが、実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸高直
径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ1本などの大樹も見
られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林
に指定されている。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によっ
236: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:17:41.16 ID:nhLYBjhR0(62/96)調 AAS
日堂へ続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭和5
年に奉納された狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須
山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢
500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高37m
、目通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢全体が市
指定天然記念物として保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対
馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(961)に駿河国司
・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の記録とし
て社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524)と記さ
れた修築時の棟札による。現在の社殿は、文政6年(1823
)に再建されたとされている。写真社殿の写真図社殿の図面・
神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を納めた神輿殿
が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内には、社殿前と
石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置されている。社殿前の
一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に奉納された
ものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている。登り
口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは、
それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に奉納されたもので
ある。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に
、手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−56−
年と刻まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほど
は石畳が敷かれ、その後社殿の位置する高台へ登るためにコン
クリート製の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗り
のコンクリート製の鳥居が建てられている。昭和41年(19
66)に奉納されたものである。・石碑鳥居の東側に、郷社と
して奉幣を受けていたことを示す碑が建てられている。・古宮
神社八坂大神、八幡大神、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を
祀る境内社である。覆屋の中にあり、旧本殿と推測される建物
である。B5冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平
面図・社叢(浅間の杜)社殿周囲と、参道の南側に社叢が広が
っている。特に参道南側の部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小
山町の天然記念物である大樹が生育している。・ハルニ
237: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:23:08.50 ID:ncJKes9f0(126/190)調 AAS
高い。現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、
歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのでき
ない資産である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富
士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。
・社殿、鳥居河口浅間神社創建は、平安時代の865年に遡る可
能性がある。建立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時
の富士山及び噴火ということに対する当時の考え方を理解するこ
とができる。鳥居は1697年に谷村藩主秋本喬知の再建
238: (ワッチョイ 6f0c-XhTK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:23:32.61 ID:ncJKes9f0(127/190)調 AAS
社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、彦火
々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀って
いる。現在の社殿は大正2年(1913)に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老
朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真
社殿の写真図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317〜13
18)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開いたと伝えられている。
その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山の本尊である大日如来を主尊
とする。現在の建物は、部材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造
と考えられるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間7間、入
母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側面に幅一間の回り縁を巡
らしている。写真社殿の写真図社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富
士登拝の道者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの
長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みとなってい
る。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段
から樋で落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊
とされる不動明王の石像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東
側にあり、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ
一辺5.3mの丸い石組となっている。丸い石組の前に置かれた葛石には、「干時
安政四年九月」と刻まれ、安政4年(1857)造立と考えられる。周囲の正方形
の石組みと中央の丸い石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているもの
と思われる。写真護摩壇の写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護摩壇裏手の一
段高くなったところに末代上人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しかし、神
仏分離令により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登った
ところに大棟梁権現社を遷し「富士大神社(祭神大己貴命)」として祀られ
239: (ワッチョイ 6f0c-53ns [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:24:04.97 ID:nhLYBjhR0(63/96)調 AAS
38年(1963)2月19日に静岡県の天然記念物に指定さ
れた。根回り約6m、目通り4m、樹高24.50m、枝張東
西28.10m、南北23.50m、樹齢約500年。北日本
の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社以外の
小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生育
している。・エゾヤマザクラ昭和58年5月1日に小山町の天
然記念物に指定された。樹齢約130年で、根回り2.08m
、目通り1.75m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南
北9.5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方
型で、静岡県が南限である。県内ではまれな樹種である。・根
上がりモミ平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定され
240: (ワッチョイ 6f0c-jusK [175.177.5.62]) 2018/01/12(金) 07:29:45.66 ID:ncJKes9f0(128/190)調 AAS
の扁額に記された「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆と
される。写真社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以
下に示す要素が点在している平面図−58−冨士御室浅間神社は
、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初
とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある
。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦渋するため、95
8年、河口湖畔に現在の里宮が建立されたという。現在は二合目
にあった社殿も里宮の広い境内に敷地内に移設されている。修行
や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合
目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能して
きた。顕著な普遍的価値を構成する諸要素としては、信仰拠点で
ある二合目や本殿などがある。・吉田口二合目吉田口登山道二合
目に御室浅間名字(本宮)が鎮座した。御室浅間神社は木花開耶
姫を祭神とし、創立年代は詳らかでないが、社殿には和銅元年(
708)に祭場をしつらえたのが最初とされる。冨士山中最初の
社という。なお、平安末期には浅間神の信仰に修験道が習合して
、富士山が霊験所の一として広く知られていた。冨士修験の信仰
拠点は南口の村山であるが、北口の二合目、御室の地にも山内の
信仰拠点として行者堂が設置されていた。・本殿本殿は、161
2年に当時の甲斐国都留郡領主であった鳥居土佐守成次によって
桃山時代建築様式の神社建物に再建されたことが棟札から明らか
にされている。大規模な入母屋造りの一間社で棟の高さは9.3
m、屋根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇股や軒唐破風妻などにも
彫刻を飾るなど、桃山建築様式の特色が見られる。内部の色彩も
当初のものを良く残しており、建築年代の確実なこの時期の遺構
としては大変貴重な建造物である。写真本殿の写真図本殿の図面
B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は、富士講徒の案内を
し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿坊である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷
地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普遍的価値を構成する
諸要素として、最古の部類に入る旧外川家住宅などがある。・旧
外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入り形式の典型的な御
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