織田信長の人物像・人間像について考える (558レス)
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(3): 2017/11/21(火)16:02 ID:cPKwvzOq(1) AAS
織田信長像というものは、明治以後も現代に至るまで、例えば神国である日本における、桶狭間の戦いのような奇跡的な勝利を挙げる軍人のモチーフとして現れたり、慣例にとらわれずに合理的な手段で改革を進める型破りな組織のリーダーや経営者の姿として、
時に応じて、断続的なものではないものの、断片的に日本人の精神の中にその姿を見せる存在となっています。
織田信長の人物像・人間像すなわち織田信長像についてみなさんで考えていきましょう。
55
(3): 2017/12/08(金)23:48 ID:B/78fWDK(2/2) AAS
そもそも、天下布武自体の意味合いが、
そもそも「布武」という言葉自体が、
古代中国の礼儀作法を書いた礼記にある、「布程の歩幅で規則正しく歩く」という
事柄であって、天下布武、というのは、
「天下(当時は京都周辺・あるいは畿内一帯を天下、と呼称する事も多かった。)を、
礼儀正しく規則正しく歩いていく、やっていく。」
という意味合いであると、最近の論説では唱えられておりますしね。
161
(7): 2022/05/16(月)01:01 ID:gTySp7Of(1/2) AAS
>>159
君がそんな事を書いたって、
逆に信長がその時点で、桶狭間山にいる軍勢を、義元本陣だと認識していた、
という論拠自体が無いと思うんだけど。
少なくとも、信長公記を読むなら、その時点で信長が義元本陣の位置を知っていたと思しき記述はどこにもない様に思うし、
義元本陣の状況を知る情報を得ていた形跡もないように思う。

そんなの、敵軍勢の前衛部隊が行う当たり前の事だと思うけど。
信長には、信長公記を読むと、敵が大高城に兵糧を運んだ事、
その後で織田側の丸根、鷲津の砦を攻撃した事、は報告が入っているように思われるし、
その後で救援に向かう信長は、信長公記だと、丸根、鷲津が攻略されたと思しき煙を確認してるように思われるので、
省11
162
(3): 2022/05/16(月)01:35 ID:gTySp7Of(2/2) AAS
>>160
山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、
義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。

言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、
豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、
桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、
そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、
織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、
っていう解釈も可能だと思う。

上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、
省14
165
(4): 2022/05/18(水)00:46 ID:x0eiDklk(1/2) AAS
>>164
それは厳しいと思う。
>善照寺砦で報告を受けた
仮にこんな事になってたなら、その後の信長公記にある記述と矛盾してしまうと思う。
なぜなら、信長公記において、信長が桶狭間山の敵に向かおうとした時に、
家臣達が引き留めて、それに対して、信長はそれが疲弊した今川勢前衛だと説明してるように思う。
だけど、仮に善照寺の砦の時点で、桶狭間山にいるのが今川義元本陣だという情報が織田勢にもたらされていたなら、
家臣達に信長が桶狭間山にいるのが今川勢前衛だと言っても、困惑されるだけに思う。

そもそも、信長公記の桶狭間の戦いにおいて、家臣達が信長を引き留めているのは、その前の善照寺の砦からの移動の時もそうと思われ、
この時に信長を引き留めたのは、信長公記を読むと重臣達のように思うから、
省4
179
(18): 2022/05/29(日)17:13 ID:NxjkBdLP(3/23) AAS
>>169
そんな描写、少なくとも信長公記にはないと思う。
信長だけが独自に情報を得ていた記述も、それを伺わせるような描写もないように思う。
それなのに、君がそんな風に書くのはどうかと思う。

>>170         >>172        >>171
だから、上記に書いたように、信長公記には、それを伺わせるような記述がどこにもない様に思うのに、
それでそんな事を書くのはどうかと思う。

信長公記を読むと、>>161にも似た事書いたように、信長が城にいた時に認識していた事が確実と思われる情報は、
1.今川軍が大高城に兵糧を運んだ事、
2.今川軍が丸根、鷲津を攻撃した事、
省27
180
(15): 2022/05/29(日)17:37 ID:NxjkBdLP(4/23) AAS
>>173 >>174
だから、>>179にも似た事書いたように、信長公記をそのまま読めば、
信長は丸根、鷲津の砦に攻撃が仕掛けられた情報を受けて、急いで出撃したように思うので、
この時点で信長が今川義元本陣の所在を知っていた形跡は信長公記には、少なくともない様に思うし、
シンプルに考えれば、これは丸根、鷲津を攻撃されて、その救援の為に急いで出撃した、としか解釈の仕様がないように思うけど。

そもそも、これまた上記179にも似た事書いたように、信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、
それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。

今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、
仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、
それこそ信長の計画は厳しいと思う。
省13
182
(4): 2022/05/29(日)17:59 ID:vFSm5tC/(2/19) AAS
>>180
>信長が今川義元本陣を狙おうと思うのは結構だけど、
それを可能にするには、今川義元本陣が、信長がそれを攻撃可能な位置や状況にいないと厳しいように思う。

>今川義元本陣が、そんな都合いい場所に出てきてくれるかは完全に未知数で、
仮に出てきてくれていたとしても、その前に今川軍前衛がいて、それを守護していたら、
それこそ信長の計画は厳しいと思う。

織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。

そもそも今が義元は見晴らしのいい桶狭間山に陣を取っていた
これは信長の計画通りだった

つまり豪雨がなければ迂回しなければなかった
省14
185
(3): 2022/05/29(日)18:26 ID:NxjkBdLP(5/23) AAS
>>183
あのさあ、信長公記を読む限りだと、信長が豪雨が来た後に、ルートを変えたと思しき記述は
無い様に思うんだけど、君は何を言ってるのかな、と思う。

君が言うような部隊の存在は、信長公記を読んでる限りじゃ、どこにも伺えないと思うんだけど。
信長公記を読むと、信長の率いる軍勢が戦っているだけで、君の言うような部隊が動いたと思しき形跡はどこにもないように思うけど。

>>181
だから、そういう話じゃなくて、信長公記を読む限りだと、
>>179にも似た事書いたように、信長が城から出陣をしたのは、
丸根、鷲津を今川勢が攻撃して、その報告を受けた後に思うので、
この時点じゃ、今川義元本陣が桶狭間山に移動してたと思しき様子は伺えないと思うし、
省1
190
(4): 2022/05/29(日)18:40 ID:NxjkBdLP(7/23) AAS
>>186
それは普通に信長公記の描写で説明がつくと思うけど。
>>162にも似た事書いたように、信長勢が移動してきた時に、ちょうどよく豪雨の通り雨が来て、
それが今川本陣勢にとっては前から当たる豪雨で、前方の確認や備えがうまくできない状況になって、
そこを織田勢に襲撃されて崩され、義元はその豪雨でぬかるんだ道を逃げる時に、うまく逃げきれずにやられた、
で十分理解可能だと思う。

>>188 >>182
>『信長記』等に
これってまさか甫庵信長記の事?創作色が強いと思われる、この資料を信長公記より上位に置くのはどうかと思うし、
甫庵信長記でも、君が言うような事を梁田がしてたかなあ?と疑問に思う。
省1
191
(3): 2022/05/29(日)18:49 ID:NxjkBdLP(8/23) AAS
>>189 >>182
梁田については、>>190にあるような感じで、俗説のように思うけど。

だから、>>179 >>180にあるような感じで、丸根、鷲津を攻略した後で、
今川軍がどのような配置で前進するか、なんていうのは、完全に今川勢に属する事だと思うから、
信長が完全にそれを決める事は出来ないと思うし、
繰り返し言うけど、上記179 上記180にもあるような感じで、信長が城を出た時点では、
桶狭間山に今川本陣がいる事を示すような情報は、信長公記にはないように思うし、
信長がそれを受け取った形跡もないように思うのに、どうやってそれで桶狭間山に今川義元本陣が来ることを予想して、
それに狙うのかな、と思うんだけど。

仮に信長が桶狭間山に義元が来ると思って、それを狙って倒そうと思っていたとしても、
省4
197
(3): 2022/05/29(日)19:06 ID:NxjkBdLP(10/23) AAS
>>192
>なぜか囲まれて
何が疑問なの、と思うけど。
信長公記を読むと、>>190にあるような感じで、
豪雨を前向きに受けた今川勢が、織田勢に襲撃され、それによって崩れが起き、
その敗走する今川勢の中で、300程の今川義元直属部隊が、信長軍の執拗な追撃を受けて、
50程になって、さらに攻撃を受けて倒された、っていう感じに思えるから、
特に疑問に思う所もないように思う。

>>193
それ言ったら、君だって普通に素人としか思えないんだけど。
省7
207
(4): 2022/05/29(日)19:48 ID:NxjkBdLP(14/23) AAS
>>201
>>190に既にその答えは書いてあるように思うけど、なんでそんな事を書くのかな、君は。

>>202
>義元前衛
なんでこんな話になってるのかな。僕は>>200とかでもそんな書き方をしてないと思うんだけど。
僕が言ってるのは、今川軍全体の前衛、っていう意味なんだけど。

例えば、大阪の陣とかでも、家康の本軍は後方にいて、徳川に味方する武将達で、
前衛を任された武将の軍勢が、豊臣方と戦ってるように、
基本的に後方に本軍がいて、直接敵と戦うのは前衛を任された武将の軍勢、っていうのは、
ありふれた事のように思うし、本軍と前衛の位置が離れてる、っていう事例も普通にあるように思う。
省18
208
(3): 2022/05/29(日)20:00 ID:NxjkBdLP(15/23) AAS
>>205
そうだね。他にも、桶狭間においての、今側の軍勢が、信長公記では、4万5千はいるように思うので、
さすがに誇張が過ぎると思う。
でも、他の甫庵信長記は創作が多いと思うし、軍鑑の桶狭間の描写だと、信長公記とも、三河物語とも、
違いが多い様に思う。
織田側の人間がまとめた信長公記が、相対的にましに思われる、っていうだけに思うけど。

>>179 >>180にあるような感じで、信長が君の言うような計画を、城を出た時点で立てるのは、
信長公記を読む限り、その時において想定される、今川勢について信長が得ていたと思われる情報、
今川勢の配置、などからして、まず厳しい様に思うんだけど、どうなの。

>>207に似た事書いたように、桶狭間をそれまで今川と織田で20年近くに渡って行ってきたと思われる、
省4
209
(5): 2022/05/29(日)20:20 ID:vFSm5tC/(18/19) AAS
>>207
まあ正面攻撃説の人間はしつこいね
これでいろいろな人間を無理やり説き伏せてきたわけか

今川前衛でも同じ事だよ
4万の今川前衛と交戦して勝つとか今の歴史学者しか思いつかんよ
なんでそれがわからんかな?

実際には信長はそれらの前衛をスルーして今川義元の本陣と言うか直属の部隊としか交戦しておらんし
それらの部隊300を完全包囲しているんだけどな
213
(4): 2022/05/29(日)21:59 ID:NxjkBdLP(18/23) AAS
>>209
>4万の今川前衛と交戦して
なんでこんな話になってるのかな、と思う。
>>208>>207にあるような感じで、僕は今川勢が桶狭間の時に4万5千もいたとは思えないし、
今川勢総数で考えても、あの当時の今川の国力から想定しても、せいぜい2万もいたかどうか、ってくらいだと思う。

そして、これまた上記207にもあるような感じで、
僕が今川勢の前衛として想定しているのは、信長公記を読むと、
大高城に兵糧を運び、丸根、鷲津で戦ったように思われる、
せいぜい数千ほどの軍勢と思われる松平勢とかの事なんだけど、
なんで君がそんな風に書いているのかな、っていう事に答えて欲しいと思うかな。
省12
228
(3): 2022/05/30(月)01:14 ID:YuNY842+(3/13) AAS
>>226
だからさあ、>>213とかにも似た事書いたけど、信長公記をそのまま読むと、
信長が桶狭間の時に狙っていたと思われる、今川前衛、というのは、
大高城に兵糧運びをして、丸根、鷲津で戦って疲弊した、松平勢とかの数千ほどの軍勢だと思われ、桶狭間の時に、信長公記で信長が率いていたと思われる軍勢数で十分勝負になるるんだけど、なんで君はそんな事を書いているのか、という事と、
このような事は、上記213でも似た事が書かれてるように思うんだけど、
なんでそんな事を君は書いているのか、っていう事についても、
答えて欲しいと思うかな。

信長は単に、信長公記を読むと、桶狭間山にいる軍勢を今川勢前衛と勘違いして、豪雨の影響もあってそれを崩して、>>162にも似た事書いたように、
義元の塗輿があった事で、義元本陣の存在に気が付いた、っていうだけに思うんだけど、どうなの。
231
(5): 2022/05/30(月)01:39 ID:YuNY842+(4/13) AAS
>>229
だからさあ、信長公記読むと、>>162にも似た事書いたように、
信長は桶狭間山にいる今川の軍勢を本陣だとはまったく思ってないように思うし、
そう思っていたと思しき記述もどこにもないように思うし、
>>228にも似た事書いたように、豪雨が来る前から桶狭間山の今川勢を、今川前衛だと勘違いして移動して、たまたま豪雨が来た事もあって、
桶狭間山の今川勢を崩す事に成功し、上記162にも似た事書いたように、
それで今川義元の塗輿を発見して、それが本陣である事に気が付き、
>>197にも似た事書いたように、今川義元の直属部隊300程が固まって逃げてるのに気が付いて、それを攻撃して、ついに倒した、っていうだけに思うんだけど、
なんで君はそんな事書いているのか、っていう事に答えて欲しいと思うかな。
237
(3): 2022/05/30(月)01:50 ID:YuNY842+(7/13) AAS
>>234
それもさあ、>>228に似た事書いてあると思うけど、
信長公記読むと、信長が倒そうと思っていたのは、
大高兵糧運び、丸根、鷲津戦闘をした、今川前衛の松平勢とかの数千程であって、
信長公記において、桶狭間で信長が率いていたと思しき軍勢数で、
相手側が疲弊してるなら、十分勝てそうな相手だと思うんだけど、
なんで君はそんな事を書くのかな、って事に答えて欲しいと思うかな。
243
(4): 2022/05/30(月)02:03 ID:YuNY842+(9/13) AAS
>>238
それについても、>>208で答えられてると思うんだけど、
なんで同じように思える事を書くのかな、と思う。

>>239 >>240
それについても、
上記208や>>207で似た事答えられているように思うけど、
桶狭間まで今川と織田の戦争はかれこれ20年近く続いてるように思うし、
今川の桶狭間の総軍勢数は国力的に2万いるかも疑問に思うから、
松平勢とかの今川勢前衛数千程が倒されたなら、総戦力の一割以上がやられる、
って事だから、地域紛争の一遠征としては、それまでに得た戦果を確保して帰る理由には、
省1
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