織田信長の人物像・人間像について考える (558レス)
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(3): 2022/05/16(月)01:35 ID:gTySp7Of(2/2) AAS
>>160
山といったって、結構範囲が広いと思うので、豪雨が来た時に、信長が近づいていたのが、
義元本陣の近くだったかは、まだ疑問の余地があると思う。

言ってみれば、桶狭間山の、義元本陣が布陣していた場所から結構距離のある山際に来た時に、
豪雨が来て、信長公記を読むと、その雨は今川勢にとっては正面から当たる雨で、
桶狭間山の方に向かう織田勢にとっては後ろに当たる通り雨だったように思うので、
そのまま今川勢が前線の状況を把握しにくくなってる状況で、織田勢は義元本陣近くまで移動し、
織田側にはその通り雨が行き過ぎて、今川勢にはまだ当たっていると思われる状況で攻撃した、
っていう解釈も可能だと思う。

上記に書いたように、信長公記を読むと、その豪雨の通り雨は、桶狭間山の方に向かう織田側にとっては背中に当たり、
今川勢にとっては正面から当たる向きの雨だったように思う。
なので、今川勢にとっては正面から当たる向きでいきなり豪雨が、しかも信長公記を読むと、
雨の勢いでそれなりのサイズと思しき木が倒されてるように思うので、
そんなのが正面から当たってきたら、前線の把握どころじゃない状況になっておかしくないと思う。

それで、そうやって今川勢が混乱してる所に、上記のように信長公記を読むと、
今川勢と違って、通り雨が背中に当たる向きで、しかも通り雨が今川勢より先に移動しきって落ち着いた織田勢が攻撃を仕掛けてきたなら、
今川勢は文字通り戦闘どころじゃなくなって、逃げ出すのが普通だと思う。

信長は、信長公記を読むと、今川勢が混乱して敗走した事で、義元の塗輿が捨てられたと思しき描写の後で、
義元の直属部隊について言及してるように思う。

なので、この時点まで信長が自身達が戦っている部隊が、
今川勢の本陣であるかを知っていたのか、疑問に思う。
>>161にあるような感じで、
少なくとも、信長公記を読むと、信長が桶狭間山に向かって移動しようとするまでにおいて、
信長が義元本陣の場所がどこなのか、を知れるだけの情報を得ている形跡はない様に僕は思う。
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