鬼和尚に聞いてみるスレ part12 (1004レス)
鬼和尚に聞いてみるスレ part12 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/
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275: 避難民のマジレスさん [sage] 鬼和尚、相談があります。 何十秒間、もしくは何分間か観察(思考を挟まずにただ眺め見る)をしても厭離が起こらない、という ことはありますか? 具体的に私の現在の状況を書きますと、例えば手のひらに対する自己同一化を 解除するために何十秒間か手のひらを見続けると、厭離も比較的早く起こって、「手のひらが自分である」 という感覚がなくなったような感覚になります。 しかし、すべての対象部位がそのように簡単に厭離できればさぞ楽でいいんでしょうが、 自分の場合、胸のあたり(みぞおちの少し上)と眉間の奥(そこから外を見ているのが私である、という感覚)に かなり強い「それが自分だ!」という自己感覚があるんです。(それらの感覚が肉体に深く深く根をはっている、ような感じです) そしてその感覚ゆえに「自分が肉体である」という観念は落ちることなく、いまだに肉体の死がものすごく怖い。 という苦の連鎖の中にいます。 胸のあたりの強い自己感覚については現在進行形で取り組んでいて数分どころか数時間もぶっ続けで意識を その部位に集中しても、いまだ外れません。 自分のケースのように何時間も意識を対象の部位に向けても(鬼和尚のおっしゃる「観察」をおこなっても) 自己同一化がなかなか解除されない(へばりつき具合が強くて容易に自己感覚がそこから剥がれない)、 ということはよくあることなんでしょうか?それとも私が何か間違っているのでしょうか? ただ、明らかに自己同一化している対象部位はもはや明白にわかってるので自分にはただその部位に 対する意識の集中をそれが外れるまでとにかくやるしかない、という心境でいるんですが、 ここまで簡単に剥がれない(厭離されない)、というのは鬼和尚のブログにも書いてなかったと思うので不安になって質問させて もらいました。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/275
329: 避難民のマジレスさん [sage] 275です、返信遅れてすいません。 回答ありがとうございました。観察と集中を混同していました、ご指摘ありがとうございます。 あと、お聞きしたいんですが、 「無我に至ったら認識を観察することが可能になる」、ということの詳細について もっと踏み込んで教えてもらいたいんですが 無我にならないと認識は観察できない、とのことですが、 無我になったら認識を観察できる、という「無我」という状態が 漠然としていて具体的によくわかりません。 仮に、「自分は肉体だ」、という観念が落ちて死の恐怖が消えたら無我に至った(=認識を観察できる状態に達した) と思っていいですか? それとも、「自分は肉体だ」という観念がドーン!!と落ちて肉体の死の恐怖が完全に 消えるような劇的な境地に至っても、しかもそれが一時的な状態じゃなく生涯にわたって ずーっと継続するような類の境地に至っても、他にまだ「自分は○○だ」という自己同一化の観念 (例えば自分は目の裏から外を見ているぼんやりした自己感覚だ、というような観念)が 少しでも残っていたら(=認識以外自己同一化している対象がないくらい極限の無我じゃないと)認識を観察 する地点には立てませんか? それとも、 「肉体は自分じゃないから死ぬのも怖くない、思考しているのも自分が意志して 行っているわけじゃなくて自然発生的に起こってるんだ。」 くらいの気づきを心底体感として得とくしているくらいの境地なら「認識を観察する」ことは可能ですか? 「認識(阿頼耶識)を観察して厭離することができる境目」というのが具体的にどこか知りたいです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/329
330: 避難民のマジレスさん [sage] 329です。最後の文を訂正します。 ×「認識(阿頼耶識)を観察して厭離することができる境目」というのが具体的にどこか知りたいです。 〇「認識(阿頼耶識)を観察して厭離することができる状態とできない状態の具体的な境目」というのが具体的にどこか知りたいです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/330
340: 避難民のマジレスさん [sage] 329です。 ちょっと待ってください。自我による好悪の判断があれば認識を観ることができない というのは、例えば「頭がいいのは良い」とかの善悪の観念が一つたりともあれば 認識を観察できない、ということですか? 好悪の判断がある、というのが単純に何らかの善悪の観念がある、ということなら 善悪の観念なんて細かいものも含めたら一生じゃ全部見れないんじゃないか、と思える くらいあるし(少なくとも私個人の感覚ですが) 上記の考えは言い過ぎな感じはありますが、 もし仮にそうなら、無認識なんて私にはどれだけやろうが到達しえないんじゃないかと絶望感 を強烈に感じた、というのが正直な感想です。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/340
351: 避難民のマジレスさん [sage] 340です。 善悪の観念が少しでも残っているなら認識は観察できない、ですか、、 しかし、個人的な話をさせていただくと、私自身、善悪の観念を思いつく限りエクセル上に リストアップした個人的な自分専用のデータ資料があるんですが、思いついた限りでも 約1万3千個以上の善悪の観念が最低でもリストアップされました、もちろん潜在意識下 にはそれよりもっとあるでしょう。 それら全てを一つ一つ観ていってすべて手放して、その上見つかっていない観念すら 探し出して厭離させる、というのは人間の一生じゃ時間がいくらあっても足りない、 というのが私が以前出した結論です。 「冷蔵庫はどこどこのメーカーのがいい」、とか「卓球で相手がこういうサーブを打ってきたらこのように 返すのがいい」とか、そんな細かい観念をすべて一つ一つ厭離させないと無認識どころか 無我にもなれない、というのは余りに非現実的だと感じます。 もちろん、実際に苦しみを生じさせる観念、超自我を強く形成 しているようなメジャーな観念は厭離させる意義はあると思いますし悟りの道を 歩む者としてそうしたエゴ的観念に出会ったら真摯に向き合って積極的に手放そうという姿勢は大事だ、 とは感じていますが。 しかし、鬼和尚の言ってることは「カップ麺は3分ちょうどが一番いい」「麺がのびるのはダメだ」 のような極めて微細な観念も手放せていないと認識を観察する地点(無我)に立てない、というように聞こえます。 また、鬼和尚自身、自己否定の観念を浄化したことはない、と以前おっしゃっておられた記憶 があります。そして、悟りの道を歩むうえで、自己否定の観念の浄化は必要なく、「自分は○○だ」という 何らかの対象に自己同一化している観念を厭離させるだけで充分だ、とも教えていただいた 記憶があります。 最初に述べたような細かい観念の数々は認識を厭離させることで一掃できるんですよね? 私が未熟なので鬼和尚のおっしゃっていることが理解できないのでしょうが、 「認識を観察することが可能となる無我という状態」についての鬼和尚の説明にどうしても 食い違いを感じてしまいます。 もう少しわかりやすく教えていただければ幸いです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/351
385: 避難民のマジレスさん [sage] >>364 >>351です。 回答ありがとうございました。 ということは承認の欲求を生じさせている観念や 様々な特定の対象に対する執着心のような想念は完全に無視して、 「自己感覚を生じさせている数々の自己同一化の観念」 を一点を見据えるように徹底的に見ていくだけで良い。 という理解でいいですか? また、私は少し前に自分の中にある様々な執着を一定期間をかけて手放す作業をおこなったのですが、 一通り執着を浄化できたかな、と思ったら、まーた快楽に対する欲望、浄化作業は一通り終わったけれど いまだ残存している不足感、欠乏感を快楽によって補いたい、という欲望、衝動が沸き起こってきたんです。 確かに何らかの対象や感覚への執着心を手放したら、ある程度は執着の度合いも 軽減された感覚にはなったんですが、 以前、鬼和尚のブログで 「自分という観念が執着の原因だ」 、みたいな文を読み、それを含めて勝手な予想を自分で考えたんです、 その「自分という観念」は自分が消される、という恐怖だけじゃなく、かすかに 根底を流れ続けるノイズのような欠乏感、不足感を生じさせて、その不足感や恐怖から 逃れるために快楽に向かい、それが執着心となる、そんな予想です。(間違ってたら指摘してください) また、そうであるなら 「不足感を生んでいる原因が「自己同一化」の観念であるなら俺のやっていること(=何らかの対象への執着を手放そうとすること) ってただ上澄みをすくってるだけだよなあ」 って、思ったんです。 そうであれば、日常生活において執着心が沸き起こっても、 それがよほど大きな苦にならない限り浄化は放っておこうかなと思ったんです。 ただ、だからって快楽にあいかわらず向かい続けていたんじゃこの悟りの道も進まないだろうと(勝手に)思っているので 美味しいお菓子を食べる、とか酒を飲む、とかの肉体を維持させるための必要最低限以上の快楽は摂取することを意図的に一切拒否し、 自分という感覚を生じさせている自己同一化の観念を一点を見据えるように徹底的に見ていこうと思ってるん ですが、 鬼和尚から見たとき、最終的な悟り(=無認識)まで到達する、というのを 目標として見据えた場合、こんな感じで進んでいこうと私は思ってるんですがうまく機能するでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/385
386: 避難民のマジレスさん [sage] >>385です。 追加でお聞きしたいのですが、上記で書いた理由から根本的に解決 しないのなら快楽に向かいたい、という執着心を残存させたままであっても 自分が何に自己同化しているかを観察して無我→無認識 と進んでいくことは可能ですか? 無認識に至るためなら全世界を失ってもいいくらいに思っているので動機付けの 面では充分だと自分では思ってるんですが。 自分が執着を残存させたままにしておく理由は快楽を手放したくないから、ではなく それを浄化したところでまた湧いてくるし手間だから、という理由です。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/386
406: 避難民のマジレスさん [sage] >>392 385、386です。ありがとうございました。 ポイントをしぼってやっていこうと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1535547716/406
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