鬼和尚に聞いてみるスレ【1】 (1005レス)
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(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/07/30(火)20:07 ID:kaXJvxhM0(1/157) AAS
>>1 ご苦労さんじゃ。今来たのじゃ。
 なかなかよいすれじゃ。相談にも良いかも知れん。

>>2 それにはさまざまな方法が在るのじゃ。
 ただ集中だけでも無我に入れるのじゃ。
 しかし、時間と才能が必要なのじゃ。

 神仏に帰依し、そのイメージに集中するとただ集中するだけより早く無我に入れるのじゃ。
 それには強い信仰心が必要なのじゃ。
省9
15: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/07/31(水)20:08 ID:kaXJvxhM0(2/157) AAS
>>5 それにはバランスが大事じゃ。
 修行にも、家庭にも行き過ぎないように気をつけて生きるのじゃ。
 どちらに行き過ぎてももう一方がいけなくなるのじゃ。
 バランスに注意するのじゃ。

>>6 そうじゃ、神仏のイメージやそれによって見たり行き着いたり出来る世界も、本来は集中の為のものに過ぎないのじゃ。
 そこには未だ観念があり、観念による囚われもあるのじゃ。
 サマーディも更に修行すれば対象の無いサマーディにも至るのじゃ。
省7
16: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/07/31(水)20:53 ID:kaXJvxhM0(3/157) AAS
>>14 記憶に依存した認識機能を持つ人間は、言葉とイメージによる観念に因って全てを認識しているのじゃ。
 そしてその中には自分自身も含まれているのじゃ。

 つまり普通の人間は言葉とイメージによって自分を認識しているのじゃ。
 自分の名前と言う言葉によって自分があり、自分のイメージによって自分があると思うのじゃ。

 自分の名前によって自分のイメージが起こり、自分のイメージによって名前を思い起こすのじゃ。
 言葉には自分の名前以外にも、自分の所属する国や組織や地域や民族なども含まれているのじゃ。

 それ故に自分が所属する国や地域を悪く言われると怒ったりするのじゃ。
省11
23
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/01(木)20:58 ID:kaXJvxhM0(4/157) AAS
>>17 加盟したらよかろう。
 そして都合の良いように変えればよいのじゃ。
 今までと同じなのじゃ。

>>18 それは心を病んでいる者のための治療法ではない故に、上手く行かないのじゃ。
 出世間の法は、出世間を目指す者にのみ効果があるのじゃ。
 いろいろと種類の違う瞑想に手を出すのもいかんのじゃ。
 全部止めたら良かろう。
省8
24
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/01(木)21:07 ID:kaXJvxhM0(5/157) AAS
>>21 両方じゃ。
 不動心を養いつつ、離れる事も考えると良かろう。
 イメージでママンの顔にひょっとこのお面でもつけてやるとよかろう。
 なにを言ってもひょっとこなら笑えるだけなのじゃ。

>>22 もう一度、本当に飽きるまで煩悩に耽溺してみるとよかろう。
 心底嫌になるまでやってみるのじゃ。
 もはや耐えられないと思った時、気づきが起こるのじゃ。
省1
40
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/02(金)20:26 ID:kaXJvxhM0(6/157) AAS
>>25 いないのじゃ。
 もはや慈悲があるだけなのじゃ。

>>27 それはむしろ孤独感から他人に執着しているようであるのう。
 そのような者達もやがて死に行くしかないと知れば何も損はしていないと気づくじゃろう。
 修行していない者はこの世で何も得られず、何も知らずに死に行くしかないものじゃ。
 修行によって不死の境地に至れば、死に行く身で一切を得たと言えるのじゃ。
 
省2
41: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/02(金)20:27 ID:kaXJvxhM0(7/157) AAS
>>25 いないのじゃ。
 もはや慈悲があるだけなのじゃ。

>>27 それはむしろ孤独感から他人に執着しているようであるのう。
 そのような者達もやがて死に行くしかないと知れば何も損はしていないと気づくじゃろう。
 修行していない者はこの世で何も得られず、何も知らずに死に行くしかないものじゃ。
 修行によって不死の境地に至れば、死に行く身で一切を得たと言えるのじゃ。
 
省2
42
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/02(金)20:39 ID:kaXJvxhM0(8/157) AAS
>>35 それはおぬしが観察をしていないからじゃ。
 
>>36 相手が不正なことをしているならば、やがて報いが来るじゃろう。
 自らが正しい事をしているならば、やがてその報いもやってくるものじゃ。
 自らの行いを正しくしていれば良いのじゃ。
44
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/02(金)21:26 ID:kaXJvxhM0(9/157) AAS
>>43 おぬしの妄想じゃ。
45
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/02(金)21:26 ID:kaXJvxhM0(10/157) AAS
>>39 お釈迦様はこのよう言っておる。

311 、 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

312 、その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。

313 、もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。

 世の中に自分は仏教徒であるとか、行学に励んでいるとか言う者は多いものじゃ。
 しかし、実は真摯に修行せず、自らを誇るだけのものならば、むしろ悪しき所への道となるのじゃ。
省6
54: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/03(土)19:43 ID:kaXJvxhM0(11/157) AAS
>>47 おぬしの、妄想じゃ。
 おぬしは例えば数学教師にⅠ足す1は5なのがわかるか?と聞いているようなものじゃ。
 止観をちゃんとしていればそのような妄想は湧かないのじゃ。
 おぬしはそれが出来ずに見るものが増えると言う妄想に囚われ、さらにそれが全ての者に起こると思っておる。
 間違いの上に間違いを重ね、無知の上に無知を重ねて居るのじゃ。 
 先人の智慧は既にそのような妄想を止めるための止観を教えていると言うのに、謙虚に学ぶ事が出来ないから無知なままなのじゃ。
 お釈迦様の言うとおり、自分では修行している積りで地獄への道を行っているだけなのじゃ。
省5
55
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/03(土)19:54 ID:kaXJvxhM0(12/157) AAS
>>52 人を殺さず助けるとか、人のものを盗まず施すとか、嘘を付かず本当の事を言うとかの善事を行なうのじゃ。
 大体人を苦しめず、喜ばす事を基準とするのじゃ。

>>53 違うのじゃ。
 感じきることも、受け入れる事も、開放することも無用なのじゃ。
 何故ならばそれらは自らの心を偽る事になるからのう。
 感じたくないものを感じたくないと観察し、受け入れたくないものを受け入れたくないと観察し、開放したくないものを開放したくないと観察するだけなのじゃ。
 そのようにしたくない事をメソッドであるからとしている事は自らをノ心を偽り、観察しにくくする事なのじゃ。
省1
67: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/04(日)19:46 ID:kaXJvxhM0(13/157) AAS
>>56 おぬしが出来ると思うならば可能じゃろう。
 おぬしの意志に掛かっているのじゃ。
 強い意志があれば鬼神も避けるのじゃ。
 狂度が小さなものならば体が健康②なるだけでもまともになるのじゃ。

>>57 社会は時に無実の者を捉えて殺し、戦争などでも多数の死者を出したりするのじゃ。
 そのような集団に対して尽くせば、殺人にも荷担したことになるのじゃ。
 一人一人の人間の為に尽くし、喜ばせるのが善事なのじゃ。
省8
68: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/04(日)20:04 ID:kaXJvxhM0(14/157) AAS
>>60 おぬしがアンカーをして語りかけている者はブッダではなかろう。
 妄想の無限ループに陥り、自分に向けて地獄へ行ったのかとか質問しているのかも知れん。
 それで自分の言動だけが正しいとか思い込んでいるのじゃろう。
 正に無知地獄じゃな。
 恐ろしい事じゃ。
69
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/04(日)20:35 ID:kaXJvxhM0(15/157) AAS
>>65>>66  お釈迦様はこのように言っておる。

185 、たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。
    「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

186 、 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。
    正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

 もし人が何かを欲し、その目的の物を得たならば、更に別の物が欲しくなるじゃろう。
 美味い食事や、美しい着物や、華麗な家などを手に入れれば、更に美味いものや、美しい着物や、家などを欲しがるようになるじゃろう。
省9
79
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/05(月)20:16 ID:kaXJvxhM0(16/157) AAS
>>70 どういたしまして、またおいでなさい。

>>72 物質的な欲を離れるのが心の道であるのに、物がよってくるとはおかしな事じゃ。
 恐らく信者を獲得するためにそのように言っているだけなのじゃろう。
 金が儲かるから神を信じろというのと同じようなものじゃ。

 心が落ち着くような音楽ならば、瞑想の役に立てる事も出来るじゃろう。
 やがて要らなくなるまで使えばよいのじゃ。

>>74 真の悟りに至ればそのような事は無いのじゃ。
省10
80: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/05(月)20:35 ID:kaXJvxhM0(17/157) AAS
>>75 無言なのじゃ。
 言葉になる前の知覚なのじゃ。
 それを観るのじゃ。

>>76 おぬし自身の経験を思い出してみるのじゃ。
 例えばチョコを食べたいと思い、一つ食べればまた一つ食べたくなったじゃろう。
 自転車が欲しいと思い、それを得たらもっとかっこいい自転車が欲しくなったじゃろう。
 そのように何かを得ればもっと別のものが欲しくなるものじゃ。
省10
87: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/06(火)21:11 ID:kaXJvxhM0(18/157) AAS
>>84 どういたしまして、またおいでなさい。

>>86 東京なのじゃ。
 おぬしが心の奥を観ればいつでも会えるのじゃ。
 心の中に遊びに来るが良かろう。
91: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/06(火)22:09 ID:kaXJvxhM0(19/157) AAS
>>85 人の能力に限界があるのは、実際の知力や体力の限界より、心の中にある劣等感や過去の記憶によるものが多いのじゃ。
 本当は人は自ら思うよりも多くの事が出来るのじゃ。

 過去の記憶や劣等感により、無力な自分のイメージが出来てしまうと、実際にも能力が十分に発揮できなくなるのじゃ。
 自分が思う以上の事が出来そうになっても、自分から駄目にしたりさえするのじゃ。

 そのような自分のイメージによる制限も、集中力によって乗り越えられるのじゃ。
 人が強く集中し、己のイメージも忘れる時、本来の能力が発揮され、思う以上の事が出来るのじゃ。

 強い集中で我を忘れた忘我の状態をサマーディと呼ぶ。
省10
98: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/07(水)20:45 ID:kaXJvxhM0(20/157) AAS
>>92 幾らでも語れるのじゃ。
 それが智慧なのじゃ。

>>93 なりゆきなのじゃ。
 特に他に行く必要も無いのじゃ。
 そのうち行くであろうがのう。

>>94 運とは心から生じるものなのじゃ。
 世の中には運をよくする技とかそのようなものが多いが、本当に良くするには善事をする事なのじゃ。
省8
99
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/07(水)20:51 ID:kaXJvxhM0(21/157) AAS
>>95 来るじゃろう。

 おぬし自身が時に他人を憎み、激しく攻撃したりする性格なのかもしれん。
 あるいは自分自身を憎んだりしているのかもしれん。
 人は自分の心の中を外の世界に投射するものじゃ。
 おぬしが善意で満たされたならば無法者さえおぬしには好意を寄せることさえあるじゃろう。
 試してみるのじゃ。

>>96 集中力は身に付くじゃろう。
省7
105: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/08(木)20:15 ID:kaXJvxhM0(22/157) AAS
>>100 それを使って己を追及してみるのじゃ。
 己が何かを追い求めるより、己でないものを観察してみると良いかも知れん。
 手や足は己ではないとか、思考は己ではないとか、その意識さえも己ではないとか、己ではないものを追求してみるのじゃ。、
 そのように観察しているものさえ己ではなかった何が観察しているのじゃろうか?
 良く観察してみるのじゃ。

>>101 検証してみるのじゃ。
 正しい直感ならば証拠や兆があるじゃろう。
省6
106: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/08(木)20:53 ID:kaXJvxhM0(23/157) AAS
>>104 心が変われば世界も変わるのじゃ。
 心の他に環境や世界がある訳ではないのじゃ。
 良く観察してみるのじゃ。
111
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/09(金)21:13 ID:kaXJvxhM0(24/157) AAS
>>107 当っていると思って見ると当って見えるのじゃ。
 当っている所だけ見えて、外れている所は無視するからのう。
 外れていると思ってみれば外れているように見えるのじゃ。
 それが認識の選択視点なのじゃ。

>>108 おぬしが効果があると思えば効果があるのじゃ。
 呪った相手が転んだだけでものろいのおかげとおもうからのう。
 それも認識が見せているのじゃ。
省8
116: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/10(土)20:10 ID:kaXJvxhM0(25/157) AAS
>>112 おぬしが当っていると思えば当っているように見えるのじゃ。

 謙虚の反対は傲慢とか驕りではないかと思うがのう。
 それもおぬしがそう思うから自愛と見えるのじゃ。
 
 幸せになると傲慢になる者は元から傲慢で、幸せになるまで見せないように我慢してきたんじゃろう。
 金が無い時は他人に頭を下げて金儲けしていたが、金が出来ればもう傲慢の本性を現すのじゃ。
 優しくなる者は不幸だと他人に辛く当る者であったのじゃろう。
省9
117
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/10(土)20:25 ID:kaXJvxhM0(26/157) AAS
>>115 悟りを得ていない者が怒りを完全に無くす事は無理じゃろう。
 しかし、観察によって囚われ無くなることは出来るのじゃ。

 自分に不都合なことが起こったとき、肉体や精神の動きを観察してみると良かろう。
 頭に血が上ったり、腹が暑くなったりといろいろな動きがあるじゃろう。
 それを観察できれば、怒りは己ではないものとして認識できるのじゃ。
 怒りに巻き込まれず、観察の対象として観る時、怒りは恐れるものではなくなるのじゃ。
 止めようとせずに始まりから終わりまで観察するが良いのじゃ。
省1
122: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/11(日)20:23 ID:kaXJvxhM0(27/157) AAS
>>118 そうじゃ、やってみるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>119 違うのじゃ。
 修行者には完全に怒りを消す事は無理なのじゃ。
 それは自我の防御反応として在るからのう。

 自我をなくし、認識が無くなれば怒りも無くなるのじゃ。
 悟ればもはや怒りは生じることは無いが、意志によって怒りを起こす事も出来るのじゃ。
省6
130: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/12(月)20:28 ID:kaXJvxhM0(28/157) AAS
>>123 先ずこの世が無常である事を教えるじゃろう。
 老病死が世間の法によっては逃れられない事を教え、その苦を滅する唯一の道として悟りの道に導くのじゃ。
 しかし、それでも修行したくないというならばそれも自由にさせるのじゃ。
 本人の自由な意志で修行しなければ意味が無いのじゃ。

>>124 威張らなくて良いのじゃ。
 実利を得た者はもはや威張る必要は無いのじゃ。
 何一つ実際に得たものが無い者が威張るのじゃ。
省13
131
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/12(月)20:33 ID:kaXJvxhM0(29/157) AAS
>>129 自分の心の内に慈悲があることを観るが良かろう。
 それは生じさせるものではなく、見出すものなのじゃ。
 慈悲とは他者を己と同じと観て、起こる感情なのじゃ。
 慈悲でないものは観念なのじゃ。
 無我の行為は己という観念が無い時に起こる行為なのじゃ。
 己という観念があって行う行為はそうでない行為なのじゃ。
142
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/13(火)20:52 ID:kaXJvxhM0(30/157) AAS
>>132 そのように至高の価値とか考えて心身を労している者に、安心を与えるのじゃ。

>>133 摂り過ぎればやはり害があるじゃろう。
 天然のものであるから全て体に良いとは限らないからのう。
 毒草も毒魚も天然のものなのじゃ。

 塩分も体には必要なのじゃ。
 特に夏には塩がなければ熱中症になったりするのじゃ。
 昔は冷蔵庫が無い故に、何でも塩漬けにしていて、塩の摂取量が多かった故に、塩抜きの健康法が正しかったのじゃろう。
省7
143
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/13(火)21:07 ID:kaXJvxhM0(31/157) AAS
>>136 わしも永遠の意識とか不死の境地とか言っているが、それについてあまり言葉を重ねると、勘違いする者が出て来るのじゃ
 瞑想中に光が見えたりすると、それがワンネスであるとか、キリスト意識であるとか、幻想に名前をつけて、自らを悟ったと思う者が出る故に、無為によって現すのが良いのじゃ。
 一切を無によって定義すればそのような幻想も否定できるのじゃ。

>>137 悟りを得ることは出来るじゃろう。
 しかし本当に全てを捨ててしまうかもしれん。
 お釈迦様も妻子を捨ててしまったからのう。

>>140 過去に病気をしたから自分は体が弱いとか思っていると弱いままじゃろう。
省5
144: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/13(火)21:36 ID:kaXJvxhM0(32/157) AAS
>>139 絶望とは望みが絶たれると書くのじゃ。
 今まで望んでいた事が絶たれてなくなる事なのじゃ。

 それはむしろ良い事なのじゃ。
 この世に望みがなくなれば、世間を出る法に入るしかないからのう。

 お釈迦様も老病死から逃れられぬ世間に絶望し、悟りを求める事にしたのじゃ。
 絶望こそ真の希望への門なのじゃ。

 悟りを得たいと思う者も、その多くは実は自分が変わりたくないと思っているものじゃ。
省4
151
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/14(水)20:53 ID:kaXJvxhM0(33/157) AAS
>>145 それはもはや理屈ではないのじゃ。
 愛とか慈悲がどのような秤や論理で測れるじゃろうか?

 言葉の意味は他者なのじゃ。
 しかし、己があるとと思っている他人とも言えるのじゃ。

>>147 人について勉強しているのじゃ。
 特に人の心を研究しているのじゃ。
 人は心によって人となるものであるからのう。
省4
152
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/14(水)20:56 ID:kaXJvxhM0(34/157) AAS
>>150 それはサマーディに入った時の事じゃろう。
 元々強い集中状態のときに人は自然に呼吸を止めるのじゃ。
 死なない程度に数分間止まるだけなのじゃ。
 実際に数息観などの集中の瞑想をしていればそのうち止まるのじゃ。
 その時、思考も止まれ無我になるのじゃ。
 それがサマーディなのじゃ。
153
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/14(水)21:21 ID:kaXJvxhM0(35/157) AAS
>>146>>149 魔とは悟りの障害になることを言うのじゃ。
 お釈迦様が見たような人の形をした魔がいつも現れる訳ではないのじゃ。

 人によっては全く魔が現れない事もあるのじゃ。
 マハリシには出てこなかったようにのう。
 それも死を超えたものを強く求める故に、魔が現れる暇もなかったからといえよう。

 そのように人によって出たり、出なかったりするのじゃ。
 悟りの障害になるのが魔である故に、今の人にはゲームとか、アイドルとかアニメとかが魔になる事もあるじゃろう。
省8
160: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/15(木)20:29 ID:PAHPUIz60(1/3) AAS
>>154 おぬしが聞くから答えるのじゃ。
 聞かなければ話さないのじゃ。
 
>>155 悟っているとは自我を滅し、認識をも滅した状態なのじゃ。
 悟ってしまえば何も違いは無いのじゃ。
 猫が悟れるかどうかは別にしてのう。

>>157 それでも良いのじゃ。
省2
161: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/15(木)21:13 ID:kaXJvxhM0(36/157) AAS
>>156>>158  結婚とか恋人とか、世の中では当然と思われている事も、実は現実的ではない幻想でしかなかったりするのじゃ。
 人は結婚したり恋人同士になる時、永遠に一緒だとか誓いをしたりするが、この世ではそれはありえないのじゃ。

 無常という法則のあるこの世では、死や別離が何時かは訪れ、別れてしまうしかないのじゃ。
 それが真の現実なのじゃ。

 苦の多い世の中を忘れるため、幻想に浸っていると、そのような事も眼に入らなくなってしまうものじゃ。
 結婚も恋愛も創られた幻想なのじゃ。

 例えば目覚し時計をかけて、朝に起きなければならない者が、寝ぼけて永遠に寝ていられるとか思っているようなものじゃ。
省10
166
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/16(金)20:27 ID:PAHPUIz60(2/3) AAS
>>159 集中して行なうのじゃ。
 そのために集中の行があるのじゃ。
 集中力があれば心の奥でも自分が何をしているかわかるようになるじゃろう。
 集中の行は思考や感情などの表面的な意識より、深い所にある意識に気づかせ、コントロールできるようにするものなのじゃ。
 行えば多くの事に気づくじゃろう。
 
>>162 仏陀は聖書に従わないのじゃ。
省11
168: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/16(金)20:38 ID:kaXJvxhM0(37/157) AAS
>>164 おぬしがもっと学べば見えるじゃろう。
 人間は自分が見て来たものしか見えず、知っているものしか見つけられないのであるからのう。
 
>>165 おぬしが信じれば、おぬしには力がある事になるのじゃ。
 信じなければ無力なのじゃ。

 やって来ないのじゃ。
 なぜなら死者は既におぬしのうしろにいるからのう。
177
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/17(土)20:51 ID:kaXJvxhM0(38/157) AAS
>>169 そのままの意味じゃ。
 死人はどこか別の国に行って、帰って来たりするのではないのじゃ。
 生きている者と同じ所に居るのじゃ。

>>170 慈悲の心の故にこうして答えているのじゃ。
 今聞いているのじゃ。

>>171 日頃から観察したり、空と観ていると肉体への囚われも無くなって行くのじゃ。
 それは生来のものではなく、長い間に積み上げた心の習慣によるものなのじゃ。
省9
178
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/17(土)21:04 ID:kaXJvxhM0(39/157) AAS
>>174 2ちゃんねるに書き込むのが忙しいのじゃ。

>>175 見るという行為によっても自我は起こるじゃろう。
 見る主体があると言う観念により、自我が投射されるのじゃ。
 それを観ると良かろう。

>>176 そのような無限回帰は修行者が良く陥るものじゃ。
 しかし、実際には自分を見ておらず、見たと言う記憶を次々に見ているだけなのじゃ。
 それも自我を形成する働きであるがのう。
省5
188
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/18(日)20:14 ID:kaXJvxhM0(40/157) AAS
>>179 生きている時と同じようにおぬしと生活しているのじゃ。
 しかし、日中は無意識なのじゃ。
 夜になると夢の中でおぬしも会ったりしているのじゃ。
 先祖はもうどこかに行ったのじゃ。

>>180>>181 狂ったりはしないのじゃ。
 むしろ幻想でしかない観念を己と想っている人間が狂って居るといえるのじゃ。
 その幻想から覚めて正気になるのが悟りといえるのじゃ。
省17
189
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/18(日)20:17 ID:kaXJvxhM0(41/157) AAS
>>187 最初から意義は無いのじゃ。
 それは人が考え出した仮設された観念に過ぎないものじゃ。
 何の意義も無く草は生え、花は咲くのじゃ。
 人も居ない山奥でも同じように営みは続けられるじゃろう。
 人の考える意義などは無意味な観念に過ぎないのじゃ。
203: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/19(月)20:02 ID:kaXJvxhM0(42/157) AAS
>>190 それは2ちゃんねるでは煽りと言う技なのじゃ。
 本当は無感情なのじゃ。

>>191 悟れば通常の苦楽を離れた寂静と安楽と喜びがあるものじゃ。
 それは人が味わえる限界を越えた喜びなのじゃ。
 しかし、それすらも必要ではないのじゃ。
 大金持ちがもはや黄金を幾ら見ても必要とは思わないようにのう。

>>192 そうじゃ、誰にでも悟る事は出来るのじゃ。
省14
205
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/19(月)20:08 ID:kaXJvxhM0(43/157) AAS
>>197 間違えては居ないのじゃ。
 それが全て正しいのじゃ。
 自分で自分に向けた言葉を良く噛締めて生きるのじゃ。

>>200 愚かな民衆の持つ迷信なのじゃ。
 この国でも100年ぐらい前には無茶をしていたのじゃ。
 侍は町人を3人位斬れるとかのう。

 ガンジーはそのような愚かな民衆を正しい道に導こうとしたのじゃ。
省6
217
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/20(火)20:03 ID:kaXJvxhM0(44/157) AAS
>>206 本当はそう願ったからこの世にいるのじゃ。
 忘れているだけなのじゃ。
 もし願っていないならこの世にはいないのじゃ。

 本来は死者も生者もないのじゃ。
 おぬしが死者とか生者をわけて考えている故に話をあわせたのじゃ。
 生きている者も死者も同じなのじゃ。

>>207 ガンジーも知識や慈悲心はあったが十分でなく、迷信に囚われていたのじゃろう。
省9
218
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/20(火)20:29 ID:kaXJvxhM0(45/157) AAS
>>209 そうじゃろう。
 お釈迦様の言葉も当時の習慣や信仰に合わせて語られているのじゃ。
 今ならば認識とか心の働きを見て説法をするじゃろう。

 時間空間も観念に過ぎないのじゃ。
 
>>213 フロイトはそのような間違いにこそ人の本音が表れていると言っていたのじゃ。
 おぬしも本当は自分に語りたいのじゃろう。
省18
251
(5): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/21(水)20:07 ID:kaXJvxhM0(46/157) AAS
また規制じゃな。

>>220 そうじゃ、王や天の神さえ羨む境地なのじゃ。
 またおいでなさい。

>>224 おぬしには論理的な説明が理解できなかったという事じゃな。
 わしがどれほど説明しても、おぬしがいつまでも自分には理解できなかったという事が出来るのじゃ。
 それ故におぬしの言葉は自分自身に向けた言葉になるのじゃ。
 わしは何でも全部説明するとは言わず、ここも鬼和尚が何でも説明するスレではないのじゃ。
省10
266
(5): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/22(木)19:58 ID:kaXJvxhM0(47/157) AAS
>>252 それに名を与えれば、他の者はそれを自分の知る神とか実在のイメージに結びつけるじゃろう。
 そして瞑想中に幻想を見て自分は神になったとか、実在に達したとか思ったりする者も居るじゃろう。
 それ故に古来、無によってのみ定義されるものとして言及されるのじゃ。
 古ヴェーダでは無によってのみ現されるアートマンとかブラフマンであると言い、お釈迦様は何ものも無いニルヴァーナであると行ったりするのじゃ。
 それも人の言葉による意味付けを絶つためなのじゃ。

>>254 自分で探すのじゃ。
 それがおぬしの修行なのじゃ。
省12
267: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/22(木)20:13 ID:kaXJvxhM0(48/157) AAS
>>261 お布施は食べ物などの物を上げる事もあるのじゃ。
 ボランティアは労働で人の役に立つのじゃ。
 
>>262 そのような技も人により、心境により違いが出るものじゃろう。
 お釈迦様も人によって違う教えを説いたように、人によって違うのじゃろう。
 おぬしがそれをやってみて、上手く行った方がおぬしに合った有効なやり方なのじゃ。
 何でも試してみると良いのじゃ。
省10
286
(6): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/23(金)20:09 ID:kaXJvxhM0(49/157) AAS
>>269 そうじゃ、自分に合ったやり方を続けるのじゃ。
 それが本当に役に立つ修行になるのじゃ。

 育たないのじゃ。
 無理にやっても習慣になるだけなのじゃ。
 自他を超えれば慈悲は自然に生じる故に育てなくとも良いのじゃ。

>>272 わしは不変の意識とか書いていないのじゃ。
 そのように本当は言葉の持つ意味さえわからないのに、他人の言葉を勝手に変え、解釈や説明を加え、己だけは何でも知っているつもりになる者が出る故に、正確でなければならんのじゃ。
省6
287
(5): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/23(金)20:26 ID:kaXJvxhM0(50/157) AAS
>>274 ようするにおぬしは自分で探す事もできない、しないと言う事じゃな。
 自分で探す事も出来ない、しない者が、理解する気だけはあるじゃろうか?
 本当に知りたくて理解したいならば、先ず探すじゃろう。
 本当は理解する気も無いのに嘘を書いたのならば、もはやレスはしないのじゃ。 

>>278 厭離とは気づきによって、観察の対象との自己同一化が滅する事なのじゃ。
 例えば人は怒りを発すれば、怒りと己が同一であると認識しておる。
 怒っている己があり、己の怒りが怒っていると認識しておるのじゃ。
省17
288
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/23(金)20:38 ID:kaXJvxhM0(51/157) AAS
>>284 その判断基準がどのような原因から起きているのか、観察して追及するのじゃ。
 原因がわかれば、その原因から価値判断が起こり、原因が無ければ価値判断も起こらないと観察するのじゃ。

 大抵の場合価値判断は親とか友人とか仲間内などから教えられるのじゃ。
 子供の頃の価値判断を抱えていれば、大人になってから苦になったりするのじゃ。

>>285 部下にどんどん仕事を任せるが良かろう。
 それが出来る者は、上に行くほど仕事が楽になるのじゃ。
 それが金持ち父さんなのじゃ。
省1
309
(4): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/24(土)20:02 ID:kaXJvxhM0(52/157) AAS
>>289 何度も説明したとは書いていないのじゃ。妄想を止めるのじゃ。
 愚者は匙が汁の味をわからないように、何度説明しても分からないが、賢者は舌が汁の味を直ぐにわかるように一言の説明でもわかるのじゃ。

 例えば数学の問題でこの公式を使って証明せよと書かれていたら、その公式を使わなければ間違いになるのじゃ。
 しかし、言語で論理的なる説明をせよというのならば、論理を使うだけでなく、論理が対象とどのような関係であるか説いても論理的な説明と言えるじゃろう。
 このヒントで速やかに探してみるのじゃ。 
 賢い者ならば判るじゃろう。

>>290 どういたしまして、またおいでなさい。
省17
310
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/24(土)20:16 ID:kaXJvxhM0(53/157) AAS
>>297 実際にはその自我は無いのじゃ。
 あると言う観念のみがあるのじゃ。
 自我が無くとも原因からの観念の連鎖が起こるのじゃ。
 それに己であると言う観念を投射するのが、認識の働きなのじゃ。
 存在しない自我が何かを邪魔したりする事は無いのじゃ。
 思考を止め、実践する者が進歩するのじゃ。

>>298 見ないのじゃ。
省3
312: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/24(土)20:24 ID:kaXJvxhM0(54/157) AAS
>>299 もはや欲は無いのじゃ。
 作り出す事は出来るがのう。
 
 見ている世界は同じであるが、見方は違うのじゃ。
 わしは自我や観念が無い見方で見ているのじゃ。

 彼等は悟っているが、その教えが全ての者にとって正しい道とはならないのじゃ。
 何故ならば人はそれぞれ性格や経験してきた事が違い、それによって悟りへの道も違ってくるからなのじゃ。
省7
313
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/24(土)20:42 ID:kaXJvxhM0(55/157) AAS
>>301 心の中に己を失う事への恐れがあるからなのじゃ。
 幻想でしかない自我を己と思えば、それが消える事を己の消滅であると感じ、恐れが起きて修行を止めてしまうのじゃ。
 もし恐れが無ければ悟りを得るものはもっと増える事じゃろう。
 惜しい事じゃ。

>>302 嘘なのじゃ。
 ちゃんとした師匠や学校で習った占い師ならば、人が死ぬとか病気になるとか言わないのじゃ。
 それで病にならない札を買えとかいう詐欺なのじゃ。
省14
314
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/24(土)20:52 ID:kaXJvxhM0(56/157) AAS
>>304 それは聞こえていても良いのじゃ。
 耳には聞こえても気にならなくなるのじゃ。
 経には雷が傍に落ちて聞いていても心が動揺しなかった者や、お釈迦様が大勢の隊商が傍を通っても知らなかったという話があるのじゃ。
 そのうち聞いている意識と集中する意識があると気づくようになるじゃろう。

>>306 そう言えるじゃろう。
 苦によって人は修行の道に入るものじゃ。
 人の世に苦が無ければ悟りの道も無かったかも知れんのじゃ。
省7
315: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/24(土)20:54 ID:kaXJvxhM0(57/157) AAS
>>311 言葉の正しい意味でそれだけが在ると言えるのじゃ。
 仮にそれに名前をつけるとしてであるがのう。
 本来名をつけられるものではないが、人に説くためにそのように言えるのじゃ。
343
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/25(日)20:18 ID:kaXJvxhM0(58/157) AAS
>>319 そうじゃ。
 何ものにも囚われることなく、ただ集中し続けるのじゃ。
 そのように毎日続けていると、今まで出来なかった事も出来るようになり、無我にまで至るのじゃ。
 
>>320 常に意識は在るのじゃ。
 脳とか肉体にも関係なく意識は在り続けるのじゃ。
 肉体も脳もただこの物理的な世界に働きかける道具としてのみ在るのじゃ。
省17
347: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/25(日)20:32 ID:kaXJvxhM0(59/157) AAS
>>331 ぐぐって読んでみたのじゃ。
 同じようじゃ。
 大体古いギーター等の聖典も目覚めた者達によって書かれているのじゃ。
 それは境地を現したものではなく、むしろお釈迦様の教えと同じく実践され、瞑想されるべき方法なのじゃ。

>>332 そうじゃ、気づく順序としてはそのようになるのじゃ。
 始めは観察の対象として自我を捉える。
 しかし、それが無であると気づき、主体が無くなる。
省10
364
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/26(月)19:53 ID:kaXJvxhM0(60/157) AAS
>>344 出来るのじゃ。
 今わしがやっているからのう。
 役者が架空の舞台と知りながら、演劇をしているようなものじゃ。
 衆生に付き合って名のある者を演じるが、実際には無我と知っているのじゃ。

>>345 それは悪事を止めさせ、善事を勧めるために仮に説いたのじゃ。
 行為者が無ければ行為は無いが、初心の者が誤って行為が無いなら何をしても良いとか思わないように、行為とその結果はあると説かれるのじゃ。
 そのような愚かな者は昔から多く居るものじや。
省18
365
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/26(月)20:10 ID:kaXJvxhM0(61/157) AAS
>>353>>354 そのように常に死が訪れる事を知っている者こそ修行したら良いのじゃ。
 悟りが得られなくとも、サマーディにまで達したならば、死を超えた意識が垣間見られるのじゃ。
 死によって世間の一切が無意味で虚しく思える時、死によっても滅する事の無い意識を知る事が唯一の道なのじゃ。
 有限な肉体によって無限の意識に到達すれば、肉体を持って生きたことも意味があったと言えるのじゃ。

>>355 そうじゃ、そのまま観察しつづけるのじゃ。
 何が起きても観察すれば良いのじゃ。
 そこからまた想念が生じても、動揺せずに観察を続けるのじゃ。
省8
366
(4): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/26(月)20:31 ID:kaXJvxhM0(62/157) AAS
>>358 それはまだ八正道の途中なのじゃ。
 正しい観察から始まり、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正定、正念にまで至って悟りは得られるのじゃ。
 正しい念とは気づく事なのじゃ。
 個体も個我も己も無く、認識さえも無であると気づいて悟りは徹底されるのじゃ。
 観察によって正しい思惟から、正しい気づきまで到達できるのじゃ。

>>359 それは観察ではなく意識の拡大に気づいたのじゃ。
 肉体にも活動している意識は在ったのじゃ。
省16
379
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/27(火)20:30 ID:kaXJvxhM0(63/157) AAS
>>367 神で居る時に衆生を苦しめるような悪事をすれば地獄とかに生まれ変わるじゃろう。
 神と言えども輪廻の中から逃れられないのじゃ。
 それ故に輪廻を超越できる悟りを得た仏陀を羨むのじゃ。

 考えなければ良いのじゃ。
 チャンスがあればそれを生かして修行するのじゃ。

>>368 悟りを得ず、智慧が無く、知識も無かったからなのじゃ。
 自分の愚かさを知っていたから賢者とは言えるがのう。
省11
380: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/27(火)20:40 ID:kaXJvxhM0(64/157) AAS
>>373 本来の意識は全ての精神と肉体の基底としてあるのじゃ。
 それを感じようとすれば常に感じられるのじゃ。
 人と話したり、思考や知識を使う時はそれぞれの対象に集中するのじゃ。
 本当は全ての者もそれを基底としており、離れる事は無いのじゃ。

 瞑想に熟達すれば睡眠は自在に出来るのじゃ。
 睡眠の問題は無くなるのじゃ。
 
省9
381
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/27(火)20:49 ID:kaXJvxhM0(65/157) AAS
>>376 おぬしの頭の中に教えられた自転という知識があり、それが行われていると言う記憶によって自転があり、それが行われていると認識があるのじゃ。
 それを旋転と呼ぼうという事になれば、自転は無くなり、自転することも無く、旋転している事になるのじゃ。

 またその自転も太陽を基点にして考えれば地球が自転している事になるが、地球を止まっていることにして宇宙が動いている事にすることも可能なのじゃ。
 朝を夜と言えば永遠に朝はこないのじゃ。
 そのように知識と記憶の一切が仮に創られた言葉とイメージにしか過ぎないと知るのじゃ。
 それが無ければ本来の世界が見えるのじゃ。

>>377 全部カルマが解消されたと思えば良いのじゃ。
省2
394: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/28(水)20:20 ID:kaXJvxhM0(66/157) AAS
>>382 わしは神と言うものについて書いていないのじゃ。
 人が持つ神と言う観念について語っているのじゃ。
 全ての神を語る者にその観念はあるのじゃ。
 神と言う観念が無ければ神と言う事も出来ないからのう。

>>383 同じではないのじゃ。
 地球が不動であると言う視点からは宇宙が動いている事になると、書いたがのう。

 太陽を昇らなくするのは簡単なのじゃ。
省6
396
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/28(水)20:48 ID:kaXJvxhM0(67/157) AAS
>>384 瞑想を続ければ常に出来るようになるじゃろう。
 毎日続ければ今まで出来なかった事も出来るようになるのじゃ。
 そして、真の世界の姿を見るじゃろう。

>>387 神は居ないから人を救えないのじゃ。
 集中した者が自分で自分を救ったのじゃ。
 自己は捨てればそこから先があるが、神を信じて神を捨てる者は稀なのじゃ。

>>388 良い事じゃ。
省21
409
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/29(木)19:53 ID:kaXJvxhM0(68/157) AAS
>>397 仏教には悟りへの方法があり、理論があり、苦を滅する道があるのじゃ。
 それ故にわしも説くのじゃ。
 そうでなければわしには用なしなのじゃ。

 キリストは悟っておらず、神を信じていたユダヤ教徒なのじゃ。

>>398 正確に伝えるためなのじゃ。
 正確に言うならば雲の上に世界を作ったひげのじじいはいないのじゃ。
 それはおぬしの心によって創られたものなのじゃ。
省11
411
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/29(木)20:29 ID:kaXJvxhM0(69/157) AAS
>>404 何でも試してみたらよいのじゃ。
 空無辺処は空間の意識を認識している状態じゃ。
 非想非非想処は想いが無く、想いでないものもないという状態じゃな。
 それは瞑想によって到達する境地であるから、正確にどこからが非想非非想処で空無辺処ではないとかいえないものなのじゃ。
 瞑想をしていればそのような感覚があると気づくだけなのじゃ。

 そのような瞑想にのみ没頭すれば、観察することが無く、むしろ逆にその境地に辿り着いた己を誇る気持ちが現れて字が肥大に陥ったりする事もあるじゃろう。
 小悟で傲慢に成るのと同じなのじゃ。
省13
422
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/30(金)21:05 ID:kaXJvxhM0(70/157) AAS
>>412 禅の言うのは十牛図の返本還源じゃな。
 記憶に依存した認識も無ければ世界の在りのままの姿が見えるのじゃ。

 マハリシは普通の人が見る現実はスクリーンの上の影でしかないと言ったのじゃ。
 意識がスクリーンであり、現実はその上に浮かぶ影なのじゃ。
 影が無くなればやはりありのままの世界が見えるのじゃ。
 普通の人間の意識の仕組みを表しているのじゃ。
 
省8
423: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/30(金)21:11 ID:kaXJvxhM0(71/157) AAS
>>419 痴呆は記憶が働かないのじゃ。
 普通の者は記憶に使われているのじゃ。
 無認識に至れば記憶を道具として使えるのじゃ。

>>420 それでよいのじゃ。
 言葉になる前の直感を捕まえるのじゃ。
 それが深甚なる観察になるじゃろう。

>>421 観察すると良かろう。
省4
430
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/08/31(土)20:28 ID:kaXJvxhM0(72/157) AAS
>>424 姿勢が正確で、下腹に力が掛かると自然に熱が発生するのじゃ。
 その熱が背骨を上昇してサマーディに入るのじゃ。
 しかし、集中力が無いと意識が無く寝たのと同じになってしまうのじゃ。
 集中力も必要なのじゃ。

>>425 ならないのじゃ。
 寝ているのと同じなのじゃ。
 集中するか観察するかどっちかをしてみるのじゃ。
省13
438: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/01(日)20:39 ID:kaXJvxhM0(73/157) AAS
>>431 もし本当の意味で正しい進化をしたならば、悟りを得ることはより容易くなっているじゃろう。
 サマーディに到達する事も容易であり、そこから先に行く事も簡単になっているじゃろう。
 平等智などは生まれながら持ちっているかもしれん。
 それが苦を少なくする正しい進化の方向と言えるのじゃ。

>>432 熱にばかり意識が行くと消えるかも知れん。
 むしろ正しい姿勢を続けることに留意するのじゃ。
 そうすればやがて熱が昇る時にも役立つのじゃ。
省7
440
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/01(日)21:08 ID:kaXJvxhM0(74/157) AAS
>>435 そのような年ではそろそろ逃れられない寿命が迫っているのじゃ。
 これからは後10日で命が終ると想って修行に励むと良かろう。
 そのような覚悟で修行に励めば本当の死が来たと時も後悔しないのじゃ。

>>436 その怒りなども起こってからそのままでいる訳ではないじゃろう。
 何かの原因で怒っても、時間が経つと静まってきたりするのじゃ。
 そのように時間と共に怒りが、静まってきているのを観察するのじゃ。
 大きな怒りから小さな怒りへと変わっていく事を確かめるのじゃ。
省4
442: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/01(日)21:12 ID:kaXJvxhM0(75/157) AAS
>>439 お釈迦様は国や妻子を捨てて、死ぬまで乞食僧だったのじゃ。
 しかし、天上天下で唯独り尊い者だったのじゃ。
 
 社会的な欲が無いなら、むしろ苦は無い筈なのじゃ。
454
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/02(月)19:57 ID:kaXJvxhM0(76/157) AAS
>>443>>445 お釈迦様は自らその道を選んだだけなのじゃ。
悟れば自由意志でなんでもてきるのじゃ。
悟ったから酢屋になつたりタバコ屋になった者も居るのじゃ。
 
 
>>446 おぬしが十分に学び、そしてその知識にも囚われていなければ、仏陀に会い、判る事も出来るじやろう。
 学んでその知識に囚われ傲慢に成れば、却って仏陀にあっても判らなくなるのじゃ。
省9
455
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/02(月)20:14 ID:kaXJvxhM0(77/157) AAS
>>450 集中は心のコントロールをするためのものなのじゃ。
 集中力が無いと観察している途中でよけいな雑念が湧いて観察も出来ないのじゃ。
 もし数息観などの集中の瞑想をしていなければ、観察することも容易ではないのじゃ。

 普通の人間はほとんど観察が出来ないのじゃ。
 集中力が無く観察力も無いのじゃ
 観察するために集中力が必要なのじゃ。

>>451>>452 例えばおぬしが悟りを得たとしても、他人は幸福にも不幸にもならないのじゃ。
省8
465: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/03(火)20:38 ID:kaXJvxhM0(78/157) AAS
>>456 お釈迦様のいとこで弟子になった提婆達多は反逆して生きながら地獄に落ちたと言う。
 力があるならば強制的に修行させ、智慧があるなら無理やり説得する事も出来たじゃろう。
 それをしなかったのは自らを主として、自分の意志で決めさせるためなのじゃ。

 幸せになるのも不幸になるのも各自の意志によるもので無ければならんのじゃ。
 そうでなければ幸せになるからサリンをまいても良いだろうと考えるカルト宗教と同じになって仕舞うのじゃ。
 自らの意志によらなければ人は幸せにならないのじゃ。

>>457 葬式をしたり墓を作るのは仏教ではないのじゃ。
省7
466
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2013/09/03(火)21:02 ID:kaXJvxhM0(79/157) AAS
>>459 何でも試してみたらよいのじゃ。
 何か得るものはあるじゃろう。
 またおいでなさい。

>>460 集中するのじゃ。
 仕事に没頭し、集中すれば集中力が高まるじゃろう。
 呼吸に集中しても良いのじゃ。
 本当に集中したら時間が短く感じるじゃろう。
省10
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ぬこの手 ぬこTOP 0.051s