鬼和尚に聞いてみるスレ【1】 (1005レス)
鬼和尚に聞いてみるスレ【1】 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/
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4: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>1 ご苦労さんじゃ。今来たのじゃ。 なかなかよいすれじゃ。相談にも良いかも知れん。 >>2 それにはさまざまな方法が在るのじゃ。 ただ集中だけでも無我に入れるのじゃ。 しかし、時間と才能が必要なのじゃ。 神仏に帰依し、そのイメージに集中するとただ集中するだけより早く無我に入れるのじゃ。 それには強い信仰心が必要なのじゃ。 自我を観察し、厭離を起こせば自我は滅し、自然に無我の境地に入れるのじゃ。 それには自らの言葉とイメージを観察しなければならないのじゃ。 人には難しいが何もしないで座っていれば無我になることもあるのじゃ。 長時間何もしないということが人には難しいがのう。 他にもいろいろとあるのじゃ。 学んでみるのじゃ。 >>3 脳の他にも思考やイメージをおこすものがあるのじゃ。 認識は脳だけでなく肉体の意識によっても行なわれているのじゃ。 さらに肉体をも越えた意識が無ければ、そもそも脳も認識も無いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/4
15: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>5 それにはバランスが大事じゃ。 修行にも、家庭にも行き過ぎないように気をつけて生きるのじゃ。 どちらに行き過ぎてももう一方がいけなくなるのじゃ。 バランスに注意するのじゃ。 >>6 そうじゃ、神仏のイメージやそれによって見たり行き着いたり出来る世界も、本来は集中の為のものに過ぎないのじゃ。 そこには未だ観念があり、観念による囚われもあるのじゃ。 サマーディも更に修行すれば対象の無いサマーディにも至るのじゃ。 そこに至れば観念も無い世界を知る事が出来るのじゃ。 >>7 試してみるのじゃ。 意外と面白いかも知れん。 >>12 気が見えているのかもしれん。 見える者は見えるのじゃ。 金色の光が振っているという。 わしは見えんがのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/15
16: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>14 記憶に依存した認識機能を持つ人間は、言葉とイメージによる観念に因って全てを認識しているのじゃ。 そしてその中には自分自身も含まれているのじゃ。 つまり普通の人間は言葉とイメージによって自分を認識しているのじゃ。 自分の名前と言う言葉によって自分があり、自分のイメージによって自分があると思うのじゃ。 自分の名前によって自分のイメージが起こり、自分のイメージによって名前を思い起こすのじゃ。 言葉には自分の名前以外にも、自分の所属する国や組織や地域や民族なども含まれているのじゃ。 それ故に自分が所属する国や地域を悪く言われると怒ったりするのじゃ。 そのような国や地域の名称も、己であり、己のものであると思っているのじゃ。 自分の名前とその名前が使われた時に起こる反応を、良く観察するのじゃ。 そうすれば名前による囚われが無くなるじゃろう。 そして、自分のイメージをも観察し尽くすのじゃ。 自分のイメージがどのようなものであるのか、呼び起こしては良く観察してみるのじゃ。 どのような色や形をしているか、どのような性質であるか、どのような原因から怒り、どのような生じるのか等、一つ一つ自らのイメージを観るのじゃ。 そのイメージが自分の行いにどのような影響を与えているのか、そのイメージが無ければ自分の行いにどのような変化があるのか、そのような事も観察してみるのじゃ。 その観察によって自分のイメージが己ではなく、己のものでもないと気づきが起これば、自我は厭離されるのじゃ。 己ではないものを己としていた誤謬に気づき、自然に厭離は起こるのじゃ。 そして自我が滅すれば、さらに認識をも滅する事は容易になるのじゃ。 無我に達し、無認識にまで至ったならば、真の悟りを得たと言えるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/16
23: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>17 加盟したらよかろう。 そして都合の良いように変えればよいのじゃ。 今までと同じなのじゃ。 >>18 それは心を病んでいる者のための治療法ではない故に、上手く行かないのじゃ。 出世間の法は、出世間を目指す者にのみ効果があるのじゃ。 いろいろと種類の違う瞑想に手を出すのもいかんのじゃ。 全部止めたら良かろう。 むしろリラックスとした方が良いのじゃ。 浜辺や草原などをイメージして、心身の力を抜くのじゃ。 そのまま寝ても良いのじゃ。 ストレスが抜けて心も治ってくるじゃろう。 >>19 どういたしまして、またおいでなさい。 >>20 見なければ良いのじゃ。 自分の心を観ると良かろう。 自分の心以外には何も問題は無いとわかるじゃろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/23
24: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>21 両方じゃ。 不動心を養いつつ、離れる事も考えると良かろう。 イメージでママンの顔にひょっとこのお面でもつけてやるとよかろう。 なにを言ってもひょっとこなら笑えるだけなのじゃ。 >>22 もう一度、本当に飽きるまで煩悩に耽溺してみるとよかろう。 心底嫌になるまでやってみるのじゃ。 もはや耐えられないと思った時、気づきが起こるのじゃ。 それまで煩悩に溺れてみると良いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/24
40: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>25 いないのじゃ。 もはや慈悲があるだけなのじゃ。 >>27 それはむしろ孤独感から他人に執着しているようであるのう。 そのような者達もやがて死に行くしかないと知れば何も損はしていないと気づくじゃろう。 修行していない者はこの世で何も得られず、何も知らずに死に行くしかないものじゃ。 修行によって不死の境地に至れば、死に行く身で一切を得たと言えるのじゃ。 >>28>>29 人に会わず、瞑想も止めたら良いのじゃ。 ひたすら肉体の力を抜き、リラックスすることに集中するとよかろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/40
41: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>25 いないのじゃ。 もはや慈悲があるだけなのじゃ。 >>27 それはむしろ孤独感から他人に執着しているようであるのう。 そのような者達もやがて死に行くしかないと知れば何も損はしていないと気づくじゃろう。 修行していない者はこの世で何も得られず、何も知らずに死に行くしかないものじゃ。 修行によって不死の境地に至れば、死に行く身で一切を得たと言えるのじゃ。 >>28>>29 人に会わず、瞑想も止めたら良いのじゃ。 ひたすら肉体の力を抜き、リラックスすることに集中するとよかろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/41
42: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>35 それはおぬしが観察をしていないからじゃ。 >>36 相手が不正なことをしているならば、やがて報いが来るじゃろう。 自らが正しい事をしているならば、やがてその報いもやってくるものじゃ。 自らの行いを正しくしていれば良いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/42
44: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>43 おぬしの妄想じゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/44
45: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>39 お釈迦様はこのよう言っておる。 311 、 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。 312 、その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。 313 、もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。 世の中に自分は仏教徒であるとか、行学に励んでいるとか言う者は多いものじゃ。 しかし、実は真摯に修行せず、自らを誇るだけのものならば、むしろ悪しき所への道となるのじゃ。 修行そのものは自らのためのものであり、特に善事でもないのじゃ。 それを自ら偽り、自我を補強するために行なうならば、悪事となるしかないのじゃ。 本当に修行していたとしても、それは誰かに告げるべきものではなく、誇るべきものでもないのじゃ。 それはただ自らの為の行いであるからのう。 修行者が真摯に修行し、自らの本心を見極めようと専心するならば、それこそ正しく修行したと言う事になるのじゃ。 そのようであってこそ為すべき事をして、大いなる果報である悟りを得る事も可能となるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/45
54: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>47 おぬしの、妄想じゃ。 おぬしは例えば数学教師にⅠ足す1は5なのがわかるか?と聞いているようなものじゃ。 止観をちゃんとしていればそのような妄想は湧かないのじゃ。 おぬしはそれが出来ずに見るものが増えると言う妄想に囚われ、さらにそれが全ての者に起こると思っておる。 間違いの上に間違いを重ね、無知の上に無知を重ねて居るのじゃ。 先人の智慧は既にそのような妄想を止めるための止観を教えていると言うのに、謙虚に学ぶ事が出来ないから無知なままなのじゃ。 お釈迦様の言うとおり、自分では修行している積りで地獄への道を行っているだけなのじゃ。 >>50 どういたしまして、またおいでなさい。 >>51 そうじゃ、何でも本当に極めれば悟りに至るのじゃ。 何故ならば一切の真の姿は、悟りによって知れる世界と異ならないからなのじゃ。 人がどこまでも自分の道の真実を追求して行けば、必然として悟りに至るのじゃ。 流れ続ける水がやがては大海に辿り着くようなものなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/54
55: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>52 人を殺さず助けるとか、人のものを盗まず施すとか、嘘を付かず本当の事を言うとかの善事を行なうのじゃ。 大体人を苦しめず、喜ばす事を基準とするのじゃ。 >>53 違うのじゃ。 感じきることも、受け入れる事も、開放することも無用なのじゃ。 何故ならばそれらは自らの心を偽る事になるからのう。 感じたくないものを感じたくないと観察し、受け入れたくないものを受け入れたくないと観察し、開放したくないものを開放したくないと観察するだけなのじゃ。 そのようにしたくない事をメソッドであるからとしている事は自らをノ心を偽り、観察しにくくする事なのじゃ。 世間でよくある会社や社会の為に尽くせという社会的な洗脳と同じなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/55
67: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>56 おぬしが出来ると思うならば可能じゃろう。 おぬしの意志に掛かっているのじゃ。 強い意志があれば鬼神も避けるのじゃ。 狂度が小さなものならば体が健康②なるだけでもまともになるのじゃ。 >>57 社会は時に無実の者を捉えて殺し、戦争などでも多数の死者を出したりするのじゃ。 そのような集団に対して尽くせば、殺人にも荷担したことになるのじゃ。 一人一人の人間の為に尽くし、喜ばせるのが善事なのじゃ。 >>58 そうじゃ、ただ観察するのじゃ。 怒りが湧いてから、消え去るまでただ観察するのじゃ。 それが出来れば怒りは己ではなく、己のものでもないと気づくのじゃ。 怒りとの自己同一化が無くなり、もはや滅するのじゃ。 >>59 あるじゃろう。 怒りや執着を観察して厭離すれば苦もまた滅するのじゃ。 悟りまで至らなくとも今までの苦から逃れて、安楽に世を過ごせるのじゃ。 一生苦を背負って生きるより、遥かにましなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/67
68: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>60 おぬしがアンカーをして語りかけている者はブッダではなかろう。 妄想の無限ループに陥り、自分に向けて地獄へ行ったのかとか質問しているのかも知れん。 それで自分の言動だけが正しいとか思い込んでいるのじゃろう。 正に無知地獄じゃな。 恐ろしい事じゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/68
69: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>65>>66 お釈迦様はこのように言っておる。 185 、たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。 「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。 186 、 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。 正しく覚った人(仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。 もし人が何かを欲し、その目的の物を得たならば、更に別の物が欲しくなるじゃろう。 美味い食事や、美しい着物や、華麗な家などを手に入れれば、更に美味いものや、美しい着物や、家などを欲しがるようになるじゃろう。 そしてそれが手に入らなければ苦になるのじゃ。 それを欲求不得苦というのじゃ。 欲求するものを得ても更に欲しがる苦があり、得られなければまた苦になるものじゃ。 実際に自らの生活を観察していれば、そのような欲求の増大は直ぐに判るじゃろう。 欲望が果てしない故に、欲求するものが得られない苦は常に在り続けるのじゃ。 欲するものを得る為に苦を我慢して延々と努力し、得られたとしても直ぐに更なるものが欲しくなる。 賢い者はそのような繰り返す苦を知り、それを避ける道を選ぶのじゃ。 欲する事によっては満足は得られない故に、欲しない事による満足を選ぶのじゃ。 それによって無意味な努力を避け、安らぎを楽しむ事が出来るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/69
79: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>70 どういたしまして、またおいでなさい。 >>72 物質的な欲を離れるのが心の道であるのに、物がよってくるとはおかしな事じゃ。 恐らく信者を獲得するためにそのように言っているだけなのじゃろう。 金が儲かるから神を信じろというのと同じようなものじゃ。 心が落ち着くような音楽ならば、瞑想の役に立てる事も出来るじゃろう。 やがて要らなくなるまで使えばよいのじゃ。 >>74 真の悟りに至ればそのような事は無いのじゃ。 なぜならば、例えば自分を羊だと思っていたライオンが、実は自分がライオンであったと知った後に、再び自分が羊だとは思わないじゃろう。 そのように悟りを得るとは偽って己と思い込んでいた観念が己ではないと気づき、それを創り上げた認識をも偽りと気づき、厭離したならば、もはや偽りの認識や自己に還らない事なのじゃ。 見ようとすれば幾らでも見えるのじゃ。 しかし、それらは今の世と同じように観念妄想に過ぎないのじゃ。 個我という観念がある時にのみ、今世とか過去世があるものであるからのう。 誰にでもあるものじゃ。 見ようと思えば誰でも見えるのじゃ。 深い瞑想や眠りに入る時に過去を辿って生まれる前まで遡れば、見えてくるのじゃ。 そのようなものがないとか、自分には見れないとか思い込んでいると見れないだけなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/79
80: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>75 無言なのじゃ。 言葉になる前の知覚なのじゃ。 それを観るのじゃ。 >>76 おぬし自身の経験を思い出してみるのじゃ。 例えばチョコを食べたいと思い、一つ食べればまた一つ食べたくなったじゃろう。 自転車が欲しいと思い、それを得たらもっとかっこいい自転車が欲しくなったじゃろう。 そのように何かを得ればもっと別のものが欲しくなるものじゃ。 金持ちも宝石とか骨董品とか他人が持っていない物を欲しがり、集めていたりするじゃろう。 自給自足するだけで満足すればよいが、それを得ればやはり更に何かが欲しくなるじゃろう。 そのように欲に限りは無い故に今ある物で満足するのが、安らぎへの道なのじゃ。 >>77 おぬしが出来ると思えば出来るじゃろう。 何でもやってみたら良いのじゃ。 共産主義もマルクス1人から始まったものじゃ。 エンゲルスも居たかも知れん。 仏教による友好も1人から始めれば良いのじゃ。 >>78 わしは慈悲によっているといえよう。 慈悲が無くなればわしも消えるじゃろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/80
87: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>84 どういたしまして、またおいでなさい。 >>86 東京なのじゃ。 おぬしが心の奥を観ればいつでも会えるのじゃ。 心の中に遊びに来るが良かろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/87
91: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>85 人の能力に限界があるのは、実際の知力や体力の限界より、心の中にある劣等感や過去の記憶によるものが多いのじゃ。 本当は人は自ら思うよりも多くの事が出来るのじゃ。 過去の記憶や劣等感により、無力な自分のイメージが出来てしまうと、実際にも能力が十分に発揮できなくなるのじゃ。 自分が思う以上の事が出来そうになっても、自分から駄目にしたりさえするのじゃ。 そのような自分のイメージによる制限も、集中力によって乗り越えられるのじゃ。 人が強く集中し、己のイメージも忘れる時、本来の能力が発揮され、思う以上の事が出来るのじゃ。 強い集中で我を忘れた忘我の状態をサマーディと呼ぶ。 サマーディに入った時、肉体の力は心の制限を越えて、最大限に発揮されるのじゃ。 その境地を得る為に昔の武士などは参禅したりしたのじゃ。 剣術を上達するために座ったりしたのじゃ。 そのような禅は本来野狐禅として否定されるものであるが、剣術は命がけであったからのう。 上達するためには何でもやるしかなかったのじゃ。 今でも仕事や勉強に集中力を使えば、より多くの事が出来るじゃろう。 仕事や勉強の前に少しでも数息観などを行なえば、強められた集中力で今まで出来なかった事も出来たりするのじゃ。 集中力が増せば時間が短く感じられたり、自分の体が自然に動くような感じがしたりするじゃろう。 そのようであれば確実に能力も発揮できるのじゃ。 未だ世間において活動するものは、集中力を増す法を活用してみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/91
98: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>92 幾らでも語れるのじゃ。 それが智慧なのじゃ。 >>93 なりゆきなのじゃ。 特に他に行く必要も無いのじゃ。 そのうち行くであろうがのう。 >>94 運とは心から生じるものなのじゃ。 世の中には運をよくする技とかそのようなものが多いが、本当に良くするには善事をする事なのじゃ。 他人に尽くし、喜ばせる事を心掛ける者は運も良くなるものじゃ。 お釈迦様もこのように言っておる。 1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。 車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。 2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う。 影がそのからだから離れないように。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/98
99: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>95 来るじゃろう。 おぬし自身が時に他人を憎み、激しく攻撃したりする性格なのかもしれん。 あるいは自分自身を憎んだりしているのかもしれん。 人は自分の心の中を外の世界に投射するものじゃ。 おぬしが善意で満たされたならば無法者さえおぬしには好意を寄せることさえあるじゃろう。 試してみるのじゃ。 >>96 集中力は身に付くじゃろう。 無知であったからなのじゃ。 経に書かれているのは集中の対象としての阿弥陀なのじゃ。 >>97 マインドを思考、ハートを意識とすれば正しいじゃろう。 思考を捨てれば、思考を超えた意識に気づくじゃろう。 思考が無くとも意識は在るのじゃ。 人が己を思考と思い込んでいると、意識に気づかなくなるのじゃ。 思考を止めれば再び意識に気づくようになるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/99
105: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>100 それを使って己を追及してみるのじゃ。 己が何かを追い求めるより、己でないものを観察してみると良いかも知れん。 手や足は己ではないとか、思考は己ではないとか、その意識さえも己ではないとか、己ではないものを追求してみるのじゃ。、 そのように観察しているものさえ己ではなかった何が観察しているのじゃろうか? 良く観察してみるのじゃ。 >>101 検証してみるのじゃ。 正しい直感ならば証拠や兆があるじゃろう。 間違って思い込んでいるのならばやはり何か間違いの証拠や兆があるじゃろう。 常に検証して正しい事を正しいとするのじゃ。 >>102 どういたしまして、またおいでなさい。 >>103 そうじゃろう。 日々修行していく内に見えないものも見えてくるのじゃ。 毎日の積み重ねが大事なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/105
106: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>104 心が変われば世界も変わるのじゃ。 心の他に環境や世界がある訳ではないのじゃ。 良く観察してみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/106
111: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>107 当っていると思って見ると当って見えるのじゃ。 当っている所だけ見えて、外れている所は無視するからのう。 外れていると思ってみれば外れているように見えるのじゃ。 それが認識の選択視点なのじゃ。 >>108 おぬしが効果があると思えば効果があるのじゃ。 呪った相手が転んだだけでものろいのおかげとおもうからのう。 それも認識が見せているのじゃ。 >>109 未だ観ていないからじゃ。 他人の所為にするような心がけでは観えないのも当然なのじゃ。 己を観ていないからのう。 先ずは己の行いを観るがよかろう。 >>110 何が起きても他人の所為にする事を止めるのじゃ。 自分の失敗を他人の所為にするのは器が小さいのじゃ。 他人が失敗しても自分が罪を被れば器が大きいと言われるじゃろう。 常に心掛けるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/111
116: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>112 おぬしが当っていると思えば当っているように見えるのじゃ。 謙虚の反対は傲慢とか驕りではないかと思うがのう。 それもおぬしがそう思うから自愛と見えるのじゃ。 幸せになると傲慢になる者は元から傲慢で、幸せになるまで見せないように我慢してきたんじゃろう。 金が無い時は他人に頭を下げて金儲けしていたが、金が出来ればもう傲慢の本性を現すのじゃ。 優しくなる者は不幸だと他人に辛く当る者であったのじゃろう。 不幸になれば叉他人に辛く当るかも知れん。 良く観察してみるのじゃ。 >>113 自分がそう思っているだけなのは気づきではないのじゃ。 ただの思い込みなのじゃ。 それではカルト宗教の信者と同じなのじゃ。 >>114 観察が完全に行なわれ、気づきが起これば滅するのじゃ。 それを体現しなければ観察は無意味なのじゃ。 観察は厭離のためのものであるからのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/116
117: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>115 悟りを得ていない者が怒りを完全に無くす事は無理じゃろう。 しかし、観察によって囚われ無くなることは出来るのじゃ。 自分に不都合なことが起こったとき、肉体や精神の動きを観察してみると良かろう。 頭に血が上ったり、腹が暑くなったりといろいろな動きがあるじゃろう。 それを観察できれば、怒りは己ではないものとして認識できるのじゃ。 怒りに巻き込まれず、観察の対象として観る時、怒りは恐れるものではなくなるのじゃ。 止めようとせずに始まりから終わりまで観察するが良いのじゃ。 そうすれば怒りに囚われ無くなるじゃろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/117
122: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>118 そうじゃ、やってみるのじゃ。 またおいでなさい。 >>119 違うのじゃ。 修行者には完全に怒りを消す事は無理なのじゃ。 それは自我の防御反応として在るからのう。 自我をなくし、認識が無くなれば怒りも無くなるのじゃ。 悟ればもはや怒りは生じることは無いが、意志によって怒りを起こす事も出来るのじゃ。 >>120 それで良いのじゃ。 一切を捨てて無為になるのじゃ。 >>121 厭離が起こるまで観れば良いのじゃ。 それが完全に観察が行われた事なのじゃ。 観察の対象が己ではなく、己のものでも無いと気づくことなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/122
130: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>123 先ずこの世が無常である事を教えるじゃろう。 老病死が世間の法によっては逃れられない事を教え、その苦を滅する唯一の道として悟りの道に導くのじゃ。 しかし、それでも修行したくないというならばそれも自由にさせるのじゃ。 本人の自由な意志で修行しなければ意味が無いのじゃ。 >>124 威張らなくて良いのじゃ。 実利を得た者はもはや威張る必要は無いのじゃ。 何一つ実際に得たものが無い者が威張るのじゃ。 苦を滅し安らぎを得る道に入れば、威張らなくとも安楽なのじゃ。 >>126 本当に無我になって一切を放棄したならば、上手くやらなければならない事などは一つもないのじゃ。 己が無く、全てを放棄したならば世界が滅んでも何も感じないじゃろう。 それを感知する己が無く、全ては捨ててしまったものであるからのう。 神も真我も何一つしないじゃろう。 無為は無為のままなのじゃ。 >>127 上司とか、金を持っていたら全てを放棄していないのじゃ。 社会生活をしたままでは全てを放棄するのは無理じゃろう。 何もせず何日も座っていなければならんからのう。 食欲や性欲も捨てるのじゃ。 それはむしろ普通の瞑想より難しいのじゃ。 自我のある者は防御反応により全てを捨てきる事は困難であるからのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/130
131: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>129 自分の心の内に慈悲があることを観るが良かろう。 それは生じさせるものではなく、見出すものなのじゃ。 慈悲とは他者を己と同じと観て、起こる感情なのじゃ。 慈悲でないものは観念なのじゃ。 無我の行為は己という観念が無い時に起こる行為なのじゃ。 己という観念があって行う行為はそうでない行為なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/131
142: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>132 そのように至高の価値とか考えて心身を労している者に、安心を与えるのじゃ。 >>133 摂り過ぎればやはり害があるじゃろう。 天然のものであるから全て体に良いとは限らないからのう。 毒草も毒魚も天然のものなのじゃ。 塩分も体には必要なのじゃ。 特に夏には塩がなければ熱中症になったりするのじゃ。 昔は冷蔵庫が無い故に、何でも塩漬けにしていて、塩の摂取量が多かった故に、塩抜きの健康法が正しかったのじゃろう。 必要な量の塩がなければやはり健康には悪いのじゃ。 >>134 それを聞いた者には自我がある故に、他者と己があると説かれるのじゃ。 わしには自我は無いが、おぬしにはある故に、他己によって慈悲が生じるのじゃ。 例えばおぬしが孤独に泣くとき、わしの身にも慈悲が生じるのじゃ。 >>135 どういたしまして、またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/142
143: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>136 わしも永遠の意識とか不死の境地とか言っているが、それについてあまり言葉を重ねると、勘違いする者が出て来るのじゃ 瞑想中に光が見えたりすると、それがワンネスであるとか、キリスト意識であるとか、幻想に名前をつけて、自らを悟ったと思う者が出る故に、無為によって現すのが良いのじゃ。 一切を無によって定義すればそのような幻想も否定できるのじゃ。 >>137 悟りを得ることは出来るじゃろう。 しかし本当に全てを捨ててしまうかもしれん。 お釈迦様も妻子を捨ててしまったからのう。 >>140 過去に病気をしたから自分は体が弱いとか思っていると弱いままじゃろう。 薬を飲みつづけているとか、通じが悪いとか肉体にも原因があるかも知れん。 完全に治ったならば肉体も力が湧くじゃろう。 真摯に求めれば生きている限り悟りは得られるじゃろう。 >>141 そのように信じている者にしか効かないのじゃ。 信じていない者にはただの雑音なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/143
144: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>139 絶望とは望みが絶たれると書くのじゃ。 今まで望んでいた事が絶たれてなくなる事なのじゃ。 それはむしろ良い事なのじゃ。 この世に望みがなくなれば、世間を出る法に入るしかないからのう。 お釈迦様も老病死から逃れられぬ世間に絶望し、悟りを求める事にしたのじゃ。 絶望こそ真の希望への門なのじゃ。 悟りを得たいと思う者も、その多くは実は自分が変わりたくないと思っているものじゃ。 今の状態に執着して変わりたくないと思っているから悟りに至らないのじゃ。 自分や世間に心の底から絶望すれば、変わらなければならなくなるじゃろう。 全てを捨てて変容を起こす事を自分に許すのが、絶望という状況なのじゃ。 絶望したならばそれこそが真の安楽への門であると知るが良いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/144
151: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>145 それはもはや理屈ではないのじゃ。 愛とか慈悲がどのような秤や論理で測れるじゃろうか? 言葉の意味は他者なのじゃ。 しかし、己があるとと思っている他人とも言えるのじゃ。 >>147 人について勉強しているのじゃ。 特に人の心を研究しているのじゃ。 人は心によって人となるものであるからのう。 >>148 魂の成熟とか、転生回数などは意味がないのじゃ。 今精神を集中し、苦を滅したならば安楽になるじゃろう。 それが真のお釈迦様の教えなのじゃ。 わしのブログを参考に試してみたら良いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/151
152: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>150 それはサマーディに入った時の事じゃろう。 元々強い集中状態のときに人は自然に呼吸を止めるのじゃ。 死なない程度に数分間止まるだけなのじゃ。 実際に数息観などの集中の瞑想をしていればそのうち止まるのじゃ。 その時、思考も止まれ無我になるのじゃ。 それがサマーディなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/152
153: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>146>>149 魔とは悟りの障害になることを言うのじゃ。 お釈迦様が見たような人の形をした魔がいつも現れる訳ではないのじゃ。 人によっては全く魔が現れない事もあるのじゃ。 マハリシには出てこなかったようにのう。 それも死を超えたものを強く求める故に、魔が現れる暇もなかったからといえよう。 そのように人によって出たり、出なかったりするのじゃ。 悟りの障害になるのが魔である故に、今の人にはゲームとか、アイドルとかアニメとかが魔になる事もあるじゃろう。 魔が現れるのは、人が未だこの世に何か執着を残しているからといえるのじや。 何か悟りを得る事よりも強く執着しているものがあれば、それが魔になるのじゃ。 悟りに近付けば、このまま一切を捨てて悟りを得るか、世間に戻るか、常に選択を迫られるものじゃ。 何か心に執着する事があれば、それが魔となって、悟りよりもそれを選ぶように迫られるのじゃ。 魔は執着を残す心より起こるとも言えるのじゃ。 お釈迦様のように老病死によって本当に世間に絶望していたり、マハリシのように強く不死の境地を求めていたならば、魔もつけいる隙がないのじゃ。 心に執着が残っているかどうか、自らの本心を良く観察し、魔を超えて悟りに至るが良いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/153
161: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>156>>158 結婚とか恋人とか、世の中では当然と思われている事も、実は現実的ではない幻想でしかなかったりするのじゃ。 人は結婚したり恋人同士になる時、永遠に一緒だとか誓いをしたりするが、この世ではそれはありえないのじゃ。 無常という法則のあるこの世では、死や別離が何時かは訪れ、別れてしまうしかないのじゃ。 それが真の現実なのじゃ。 苦の多い世の中を忘れるため、幻想に浸っていると、そのような事も眼に入らなくなってしまうものじゃ。 結婚も恋愛も創られた幻想なのじゃ。 例えば目覚し時計をかけて、朝に起きなければならない者が、寝ぼけて永遠に寝ていられるとか思っているようなものじゃ。 何時かは鳴る時計を忘れ、ずうっと寝ていられると思っても、実際には時計が鳴って起きなくてはならなくなるじゃろう。 老病死という苦のある現実の世では、肉体を持つ二人の者が永遠に一緒にいられるという事はないのじゃ。 そのように無常であり、死と言う時間の限界があるという事を知れば、執着も消えていくじゃろう。 ただ一時しか持つ事が出来ない物に、囚われれば苦が起きるじゃろう。 それを何度でも観察し、囚われを厭離出来れば、苦もまた滅するのじゃ。 執着があれば、それを手に入れたいという欲が起こり、得られなければ苦が起こる。 執着が無ければ、それを手に入れたいという欲が無く、得られないという苦も無いと、観察を繰り返すならば、執着も苦も共に滅するのじゃ。 その苦の連鎖が己ではなく、己のものでもないと気づきが起こる故に、厭離も起こるのじゃ。 そのようにして幻想から起こる執着を乗り越えるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/161
168: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>164 おぬしがもっと学べば見えるじゃろう。 人間は自分が見て来たものしか見えず、知っているものしか見つけられないのであるからのう。 >>165 おぬしが信じれば、おぬしには力がある事になるのじゃ。 信じなければ無力なのじゃ。 やって来ないのじゃ。 なぜなら死者は既におぬしのうしろにいるからのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/168
177: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>169 そのままの意味じゃ。 死人はどこか別の国に行って、帰って来たりするのではないのじゃ。 生きている者と同じ所に居るのじゃ。 >>170 慈悲の心の故にこうして答えているのじゃ。 今聞いているのじゃ。 >>171 日頃から観察したり、空と観ていると肉体への囚われも無くなって行くのじゃ。 それは生来のものではなく、長い間に積み上げた心の習慣によるものなのじゃ。 ヨーガの行者のように心を集中すれば、でかい針を刺しても平気なようになるのじゃ。 >>172 現代の者も科学と言う信仰をもっているのじゃ。 この薬を飲むと科学的に効果があると聞くと、本当に聞いたりするのじゃ。 瞑想は科学的にメラトニンが出て心が落ち着くと証明されているのじゃ。 やってみるとよかろう。 >>173 瞑想を実践していれば妄想も去るじゃろう。 科学的に証明されているからのう。 実践が全てじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/177
178: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>174 2ちゃんねるに書き込むのが忙しいのじゃ。 >>175 見るという行為によっても自我は起こるじゃろう。 見る主体があると言う観念により、自我が投射されるのじゃ。 それを観ると良かろう。 >>176 そのような無限回帰は修行者が良く陥るものじゃ。 しかし、実際には自分を見ておらず、見たと言う記憶を次々に見ているだけなのじゃ。 それも自我を形成する働きであるがのう。 自分ではなく、見たという行いによって生じた主体という観念に、自我を投射しているだけであると気づけば、自我は厭離されるのじゃ。 観察がどのようなものなのかわからなくなったら、基本に戻るのじゃ。 自分の手を観察していた時のように、対象に集中し、冷静に観察するのじゃ。 無理にそれを見る自分を観察しようとせず、全体の動きを眺めるが良いのじゃ。 数息観をしていた時のように、心の働きを止めたり、動かそうとせずに、流れて行く川を眺めるように今ここにあるものだけを観察するのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/178
188: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>179 生きている時と同じようにおぬしと生活しているのじゃ。 しかし、日中は無意識なのじゃ。 夜になると夢の中でおぬしも会ったりしているのじゃ。 先祖はもうどこかに行ったのじゃ。 >>180>>181 狂ったりはしないのじゃ。 むしろ幻想でしかない観念を己と想っている人間が狂って居るといえるのじゃ。 その幻想から覚めて正気になるのが悟りといえるのじゃ。 恐れずに試してみるのじゃ。 >>182 記憶に依存している認識が、その習慣から抜け出し本来の認識に戻る事なのじゃ。 本来の認識は知覚がそのまま認識されるのじゃ。 それが如実知見と言われるのじゃ。 認識が記憶に依存していると、知覚したことを一度記憶の中の物事と照会し、現実より記憶の中のものを観てしまうようになるのじゃ。 それが記憶と観念に依存した人間の状態なのじゃ。 そこから抜け出すのが認識を滅する事なのじゃ。 >>183 すでに論理的に説明したがおぬしにはわからなかったようじゃのう。 哀れな事じゃ。 >>184 良い事なのじゃ。 全人類が悟れば新幹線も不要なのじゃ。 欲に取り付かれて働きつづける事も無いからのう。 >>185 そのような理解でも良いのじゃ。 後は実践あるのみじゃ。 >>186 無くなるじゃろう。 おぬしが人に教えるために生きたいとか、子孫を残したいとか想えば起こす事は出来るじゃろう。 自在なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/188
189: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>187 最初から意義は無いのじゃ。 それは人が考え出した仮設された観念に過ぎないものじゃ。 何の意義も無く草は生え、花は咲くのじゃ。 人も居ない山奥でも同じように営みは続けられるじゃろう。 人の考える意義などは無意味な観念に過ぎないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/189
203: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>190 それは2ちゃんねるでは煽りと言う技なのじゃ。 本当は無感情なのじゃ。 >>191 悟れば通常の苦楽を離れた寂静と安楽と喜びがあるものじゃ。 それは人が味わえる限界を越えた喜びなのじゃ。 しかし、それすらも必要ではないのじゃ。 大金持ちがもはや黄金を幾ら見ても必要とは思わないようにのう。 >>192 そうじゃ、誰にでも悟る事は出来るのじゃ。 本当はそれほど難しくも無いのじゃ。 ただ人は自分が変わる事を嫌がり、特に今の自分が消えるように感じると恐れが生じる故に、悟りを自ら避けてしまうのじゃ。 何の恐れも無い者ならば直ぐにでも悟れるのじゃ。 >>193 おぬしがそう願えばそうなるじゃろう。 おぬしが願う間だけそうしているじゃろう。 天国も地獄もおぬしの心の中にのみあるのじゃ。 おぬしがそのような夢を見れば迎えが着たとか想うじゃろう。 魂は元から無いからどうにもならないのじゃ。 おぬしがそう思うならそうじゃろう。 そうなることもあるじゃろう。おぬしがそう思うならば。 誰も生まれていないのじゃ。 おぬしが今生きていると言う事さえ、思考の及ばない不可思議な事なのじゃ。 自ら体験してみれば真実もわかるじゃろう。 それは特にわしやおぬしが何かしなくとも、100%確実に訪れるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/203
205: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>197 間違えては居ないのじゃ。 それが全て正しいのじゃ。 自分で自分に向けた言葉を良く噛締めて生きるのじゃ。 >>200 愚かな民衆の持つ迷信なのじゃ。 この国でも100年ぐらい前には無茶をしていたのじゃ。 侍は町人を3人位斬れるとかのう。 ガンジーはそのような愚かな民衆を正しい道に導こうとしたのじゃ。 不可触民の人もただの人なのじゃ。 >>201 時にしたりするじゃろう。 夢の中で会話をするようにのう。 夢の中では自分の意思ではなかなか動けない故に、修行は難しいのじゃ。 天国も地獄も阿修羅も餓鬼も自らの心の中に在るのじゃ。 >>202 おぬしには負けるがのう。わっはっはっは。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/205
217: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>206 本当はそう願ったからこの世にいるのじゃ。 忘れているだけなのじゃ。 もし願っていないならこの世にはいないのじゃ。 本来は死者も生者もないのじゃ。 おぬしが死者とか生者をわけて考えている故に話をあわせたのじゃ。 生きている者も死者も同じなのじゃ。 >>207 ガンジーも知識や慈悲心はあったが十分でなく、迷信に囚われていたのじゃろう。 そのような親からの教育は知識を持っている者にも抜け出すのは難しいものじゃ。 そうじゃ、放って置くのじゃ。 自分を向上させる修行をすれば良いのじゃ。 関係無い人を助けようとしたり、いるかとかくじらをたすけようとしたり、しまいには虫とかを助けようとしても無意味なのじゃ。 人が本当に救えるのは自分自身だけであるからのう。 >>208 未だ思考や記憶や分別や感情や認識等が残っている故に、それらが起こってくるじゃろう。 暫くすれば止まるかも知れんがのう。 更に思考などの心の働きも止めるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/217
218: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>209 そうじゃろう。 お釈迦様の言葉も当時の習慣や信仰に合わせて語られているのじゃ。 今ならば認識とか心の働きを見て説法をするじゃろう。 時間空間も観念に過ぎないのじゃ。 >>213 フロイトはそのような間違いにこそ人の本音が表れていると言っていたのじゃ。 おぬしも本当は自分に語りたいのじゃろう。 好きなだけ自分に語るが良いのじゃ。 >>214 自我が起こる瞬間が観えたのじゃな。 それ以前の状態で暮らすことは出来るじゃろう。 目覚めた者は常にその状態なのじゃ。 それは執着ではなく探究心なのじゃ。 しかし、その状態を維持する事を目指すのが修行ではないのじゃ。 自我がそのようにして完全に観察されたならば、その瞬間に自己同一性を失い、厭離が起こるのじゃ。 つまりそれ以前の状態を維持しようと目指したりするのではなく、そのように起こる自我を観察しようと努めるのじゃ。 その観察が大事なのじゃ。 >>215 駄目だとか言われた回数の何倍も自分は出来る出来ると、自分に言うと良かろう。 ついでに毎日楽しい楽しいと自分に言うと良かろう。 朝目覚めたときと夜寝る前に言ったりするのじゃ。 その言葉のとおりになるじゃろう。 >>216 そうじゃ。 人が夜寝る前に睡眠を恐れないように、死もまた肉体を休めるだけであり、恐れる必要は無いのじゃ。 悟っていても、悟っていなくとも意識は死によって消えることは無いのじゃ。 悟っていればそれを感じ、知る事が出来て、苦が無いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/218
251: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] また規制じゃな。 >>220 そうじゃ、王や天の神さえ羨む境地なのじゃ。 またおいでなさい。 >>224 おぬしには論理的な説明が理解できなかったという事じゃな。 わしがどれほど説明しても、おぬしがいつまでも自分には理解できなかったという事が出来るのじゃ。 それ故におぬしの言葉は自分自身に向けた言葉になるのじゃ。 わしは何でも全部説明するとは言わず、ここも鬼和尚が何でも説明するスレではないのじゃ。 人々が気づきを得たり、自ら知る事を促すのがわしの役目なのじゃ。 おぬしへのヒントは、理外の理も理の内と言う事じゃ。 >>235 五感や心の働きが全て止まったら、そこに意識が在ると気づくじゃろう。 もし肉体や心の働きが自分であると思っているならば、完全に気を失った無意識の状態に思えるじゃろう。 目覚めた者と深い瞑想に達した者だけが、全ての心の働きが止まっても、そこに意識を感じる事が出来るのじゃ。 思考や感情や分別などの心の働きも、肉体の能力として在るものじゃ。 それは肉体と共に消えるじゃろう。 しかし、肉体の中にあり、肉体の外にもあり、一切に普遍にある意識は消えることが無いのじゃ。 平等にして普遍の意識は時間や空間と言う観念に縛られる事も無く、唯一存在すると言えるものなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/251
266: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>252 それに名を与えれば、他の者はそれを自分の知る神とか実在のイメージに結びつけるじゃろう。 そして瞑想中に幻想を見て自分は神になったとか、実在に達したとか思ったりする者も居るじゃろう。 それ故に古来、無によってのみ定義されるものとして言及されるのじゃ。 古ヴェーダでは無によってのみ現されるアートマンとかブラフマンであると言い、お釈迦様は何ものも無いニルヴァーナであると行ったりするのじゃ。 それも人の言葉による意味付けを絶つためなのじゃ。 >>254 自分で探すのじゃ。 それがおぬしの修行なのじゃ。 >>255 それがわしの導きなのじゃ。 詩情もテンポも廃して可能な限り正確な言葉にするのじゃ。 >>256 悟りを得なくとも、サマーディに達した者もその意識を垣間見る事が出来るのじゃ。 手を見るのと同じように、自分の心の中に浮かぶ感情や思考の働きを眺めるのじゃ。 普段から観察していると、やり易くなるのじゃ。 怒りが湧いたならば怒りが湧いたと観察し、思考が起きたならば思考が起きたと観察するのじゃ。 そのために集中の行が役に立つのじゃ。 >>257 そうじゃ、ただ実践あるのみじゃ。 >>260 そうじゃ、それが忘我による安らぎなのじゃ。 自我があれば不安や恐怖や孤独が常に付き纏うものじゃ。 自我が無ければそれらも無く、寂静と安らぎがあるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/266
267: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>261 お布施は食べ物などの物を上げる事もあるのじゃ。 ボランティアは労働で人の役に立つのじゃ。 >>262 そのような技も人により、心境により違いが出るものじゃろう。 お釈迦様も人によって違う教えを説いたように、人によって違うのじゃろう。 おぬしがそれをやってみて、上手く行った方がおぬしに合った有効なやり方なのじゃ。 何でも試してみると良いのじゃ。 >>263 最初の内は意識的に吐く息を長くしてやると、神経が休まり、早く瞑想には入れるという。 瞑想に早く入れるようになったら、意識せずに呼吸したら良いのじゃ。 最後には自分に合ったやり方をするのが一番なのじゃ。 >>264 そーめんをゆでるのじゃ。 車は無いからどっちでもないのじゃ。 車無しだからなのじゃ。 >>265 数息観に熟達したならば、一日の大部分を無我の境地で過ごせるようになるじゃろう。 2,、3回呼吸するだけで無我の境地に入れるのじゃ。 そこまでいけば技も上手くなるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/267
286: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>269 そうじゃ、自分に合ったやり方を続けるのじゃ。 それが本当に役に立つ修行になるのじゃ。 育たないのじゃ。 無理にやっても習慣になるだけなのじゃ。 自他を超えれば慈悲は自然に生じる故に育てなくとも良いのじゃ。 >>272 わしは不変の意識とか書いていないのじゃ。 そのように本当は言葉の持つ意味さえわからないのに、他人の言葉を勝手に変え、解釈や説明を加え、己だけは何でも知っているつもりになる者が出る故に、正確でなければならんのじゃ。 わしが可能な限り正確に記してさえも、そのように自分の脳内で勝手に変換し、解釈する者が居る。 まして詩や歌やあいまいな記述を使えば、更に出鱈目な解釈が広まるじゃろう。 おぬしが自我をそのまま肥大させたいならば、神や実在があり、自分がそれだとか言うと良かろう。 ただわしはそれを認めたりはしないのじゃ。 >>273 続けてやってみたらよいのじゃ。 何でも試してみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/286
287: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>274 ようするにおぬしは自分で探す事もできない、しないと言う事じゃな。 自分で探す事も出来ない、しない者が、理解する気だけはあるじゃろうか? 本当に知りたくて理解したいならば、先ず探すじゃろう。 本当は理解する気も無いのに嘘を書いたのならば、もはやレスはしないのじゃ。 >>278 厭離とは気づきによって、観察の対象との自己同一化が滅する事なのじゃ。 例えば人は怒りを発すれば、怒りと己が同一であると認識しておる。 怒っている己があり、己の怒りが怒っていると認識しておるのじゃ。 冷静に集中して観察すれば、怒りはただ原因から自動的に連鎖して起こっているだけであり、己とは無関係である事に気づくのじゃ。 そして怒りは己ではなく、己のものではないと厭離され滅していくのじゃ。 怒りなどの感情が原因から連鎖的に起こるように、観察して気づきがあれば、。厭離も連鎖的に起こるのじゃ。 >>279 悟っていないのじや。 お調子者じゃな。 >>280 未だ怒りに囚われる者ならば、怒りが起こっては消えていく過程を観察しつづけるが良かろう。 初心のうちに深く観察しようとすると、怒りに巻き込まれてしまい、冷静な観察が出来なくなるのじゃ。 集中に熟達し、どれほど観察しても怒りによって支配されなくなったら、原因などを深く観察していけば良いのじゃ。 原因から観察が出来れば、同じ原因から怒りは起こらなくなるじゃろう。 >>281 修行のために観察力をつけようとするならば、日常でも観察するがよいのじゃ。 それはただ修行の為の補助なのじゃ。 観察していれば、日常でなにをしても良いと言う事ではないのじゃ。 特に酒を飲むと集中力が弱るのじゃ。 >>282 悟った後、さらに多くのことを学んでからなのじゃ。 智慧も土台となる知識が無ければいかんのじゃ。 ここで人々の性質を知り、答える事も学びなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/287
288: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>284 その判断基準がどのような原因から起きているのか、観察して追及するのじゃ。 原因がわかれば、その原因から価値判断が起こり、原因が無ければ価値判断も起こらないと観察するのじゃ。 大抵の場合価値判断は親とか友人とか仲間内などから教えられるのじゃ。 子供の頃の価値判断を抱えていれば、大人になってから苦になったりするのじゃ。 >>285 部下にどんどん仕事を任せるが良かろう。 それが出来る者は、上に行くほど仕事が楽になるのじゃ。 それが金持ち父さんなのじゃ。 何でも自分で仕事をしないと気がすまないままだと貧乏父さんのままなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/288
309: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>289 何度も説明したとは書いていないのじゃ。妄想を止めるのじゃ。 愚者は匙が汁の味をわからないように、何度説明しても分からないが、賢者は舌が汁の味を直ぐにわかるように一言の説明でもわかるのじゃ。 例えば数学の問題でこの公式を使って証明せよと書かれていたら、その公式を使わなければ間違いになるのじゃ。 しかし、言語で論理的なる説明をせよというのならば、論理を使うだけでなく、論理が対象とどのような関係であるか説いても論理的な説明と言えるじゃろう。 このヒントで速やかに探してみるのじゃ。 賢い者ならば判るじゃろう。 >>290 どういたしまして、またおいでなさい。 >>291 釣りじゃな。 >>292 やっと判ったようじゃな。 >>293 おぬしがそのように聞くからじゃ。 神と言う言葉に囚われ、何故普遍の意識が良くてなんで神や実在が駄目なのかと、聞くものが居る限り神や実在があるという幻想を否定するべきなのじゃ。 >>294 そうじゃ、気づきじゃ。 思考や感情に意識が向けられていると、それだけが己と思うのじゃ。 深い意識に周波数を合わせるとそれに気づくのじゃ。 >>295 おぬしが言葉に頼る奴隷のような自我をたくさん育成したいという妄想をしなければ、どこにも問題は無いのじゃ。 人は自らの心にある妄想を他に投射するものであるからのう。 >>296 叡智もまた学ぶ事からやってくるのじゃ。 全知全能とはありえない観念なのじゃ。 叡智もまた言葉とイメージによる観念の中にあるものじゃ。 自我や観念に囚われているからなのじゃ。 悟っていない人でも己と言う観念や思想信条などの囚われが無ければ叡智がある者と成れるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/309
310: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>297 実際にはその自我は無いのじゃ。 あると言う観念のみがあるのじゃ。 自我が無くとも原因からの観念の連鎖が起こるのじゃ。 それに己であると言う観念を投射するのが、認識の働きなのじゃ。 存在しない自我が何かを邪魔したりする事は無いのじゃ。 思考を止め、実践する者が進歩するのじゃ。 >>298 見ないのじゃ。 悟れば見ないのじゃ。 夢も未だ観念があり、認識もある世界であるから悟りによって無くなるのじゃ。 ただ記憶による秩序が無く、混沌であるから普段は出来ない様々な事が可能になるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/310
312: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>299 もはや欲は無いのじゃ。 作り出す事は出来るがのう。 見ている世界は同じであるが、見方は違うのじゃ。 わしは自我や観念が無い見方で見ているのじゃ。 彼等は悟っているが、その教えが全ての者にとって正しい道とはならないのじゃ。 何故ならば人はそれぞれ性格や経験してきた事が違い、それによって悟りへの道も違ってくるからなのじゃ。 それ故にお釈迦様は音楽家には瞑想を琴の弦を強くも緩くも無くしめるように実践するようにいい、洗濯屋には心の汚れを落すように修行せよと言ったのじゃ。 おぬしに合う道がおぬしにとって正しい悟りへの道なのじゃ。 それを知るために何でも試してみると良いのじゃ。 >>300 悟っていないのじゃ。 真言では三昧への道しか教えていないのじゃ。 それ以上の境地になったとしたら、御山の方でも困るじゃろう。 もはや伝統を守る事しか考えていないようであるからのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/312
313: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>301 心の中に己を失う事への恐れがあるからなのじゃ。 幻想でしかない自我を己と思えば、それが消える事を己の消滅であると感じ、恐れが起きて修行を止めてしまうのじゃ。 もし恐れが無ければ悟りを得るものはもっと増える事じゃろう。 惜しい事じゃ。 >>302 嘘なのじゃ。 ちゃんとした師匠や学校で習った占い師ならば、人が死ぬとか病気になるとか言わないのじゃ。 それで病にならない札を買えとかいう詐欺なのじゃ。 よくそれで逮捕されたりしているのじゃ。 気にせんで良いのじゃ。 >>303 そうじゃ、そのような気づきによる厭離は、日常的にも起きているのじゃ。 今まで判らなかったことがわかったり、知らないことを知って世界が変わるのじゃ。 それを己に起こるようにしていくのじゃ。 そのために自分を観察することが修行となるのじゃ。 自分の肉体に始まり、五感や思考などの心の中を観察し、自我を観察するに至るのじゃ。 観察する主体は無いのじゃ。 本来一切の人の心身の働きは主体無く起こるものであるが、そこに主体があると感じ、主体があると思うのが自我を認識する働きなのじゃ。 観察するものは無く、無我に入る者も無いのじゃ。 何か観察するものがあり、無我にはいる者があったと思うならば、未だ無我ではないのじゃ。 主体無く無為となるのが無我なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/313
314: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>304 それは聞こえていても良いのじゃ。 耳には聞こえても気にならなくなるのじゃ。 経には雷が傍に落ちて聞いていても心が動揺しなかった者や、お釈迦様が大勢の隊商が傍を通っても知らなかったという話があるのじゃ。 そのうち聞いている意識と集中する意識があると気づくようになるじゃろう。 >>306 そう言えるじゃろう。 苦によって人は修行の道に入るものじゃ。 人の世に苦が無ければ悟りの道も無かったかも知れんのじゃ。 >>307 世界のどこにでも天変地異は起こっているのじゃ。 それは一切が苦になる儚い世界に生きている事を知らせてくれるのじゃ。 死から免れない世界を知るためにそのようなものもあるのじゃ。 >>308 出来るじゃろう。 身の程を知る己を愛したらよいのじゃ。 どんな者であろうと他人は放っておいたら良いのじゃ。 自分のした事としなかった事だけをよく省みるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/314
315: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>311 言葉の正しい意味でそれだけが在ると言えるのじゃ。 仮にそれに名前をつけるとしてであるがのう。 本来名をつけられるものではないが、人に説くためにそのように言えるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/315
343: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>319 そうじゃ。 何ものにも囚われることなく、ただ集中し続けるのじゃ。 そのように毎日続けていると、今まで出来なかった事も出来るようになり、無我にまで至るのじゃ。 >>320 常に意識は在るのじゃ。 脳とか肉体にも関係なく意識は在り続けるのじゃ。 肉体も脳もただこの物理的な世界に働きかける道具としてのみ在るのじゃ。 人がペンチやスパナなどの道具を箱に仕舞うようなものじゃ。 脳や肉体などの道具が休んでも意識は常に在り続けるのじゃ。 >>324 本当に悟りを得るために全てを捨てても良い位の情熱があれば、無師独悟も可能なのじゃ。 お釈迦様やマハリシも無師独悟であったのじゃ。 時に自我の消滅を恐れ、迷う者のために師匠はあるのじゃ。 しかし、お釈迦様も自分は道標に過ぎないと言われたように、どんなに優れた師匠も道を示すだけなのじゃ。 >>326 いやわかる。 おぬしは賢い子じゃ。 やればできるの子じゃ。 ここはわしに聞くスレであるから、このレスであるかとか、こっちのレスじゃろうとか、何度も聞けば良いのじゃ。 >>330 自我の観念だけでなく、一切の観念の投射のない認識が無認識と言えるのじゃ。 自我の観念の投射が無いだけでは、未だ無我なのじゃ。 一切の観念の投射が無いから、一切の対象も主体も無く、行為も無いのじゃ。 本来は観察する主体無く、無為無我であるが、そこに主体が在り、対象が在ると認識しているのが通常の者の認識なのじゃ。 主体が無く、観察と言う行為も無いが、誤ってそこに主体や対象や観察の行為があると衆生は認識してしまうのじゃ。 一切衆生は本来仏陀であるが、無明によって迷いの世に陥っているとはそのような事なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/343
347: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>331 ぐぐって読んでみたのじゃ。 同じようじゃ。 大体古いギーター等の聖典も目覚めた者達によって書かれているのじゃ。 それは境地を現したものではなく、むしろお釈迦様の教えと同じく実践され、瞑想されるべき方法なのじゃ。 >>332 そうじゃ、気づく順序としてはそのようになるのじゃ。 始めは観察の対象として自我を捉える。 しかし、それが無であると気づき、主体が無くなる。 主体が無いと気づくから対象も無いと気づくのじゃ。 >>339 迷信なのじゃ。 ただ単に厳しい自然環境で女子は簡単に死ぬ恐れがあったからじゃろう。 くまとかへびとかいのししとかも多かったようであるからのう。 >>340 乞食行脚あるのみじゃ。 おぬしの地元に行ったら布施を頼むのじゃ。 金はいらんのじゃ。 食べ物を頼むのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/347
364: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>344 出来るのじゃ。 今わしがやっているからのう。 役者が架空の舞台と知りながら、演劇をしているようなものじゃ。 衆生に付き合って名のある者を演じるが、実際には無我と知っているのじゃ。 >>345 それは悪事を止めさせ、善事を勧めるために仮に説いたのじゃ。 行為者が無ければ行為は無いが、初心の者が誤って行為が無いなら何をしても良いとか思わないように、行為とその結果はあると説かれるのじゃ。 そのような愚かな者は昔から多く居るものじや。 そうであるから常に行為とその報いはあると説かれるのじゃ。 悟りを得れば自然にわかるのじゃ。 >>346 自分で作ったのじゃ。 ものごとは心によって作り出されるのじゃ。 肉体とか脳などがあると思う心が在らせるのじゃ。 >>348 そのようにして肉体を持って観察して良いのじゃ。 どこまでも観察していけば本当は個人とか個我などは無いとわかるのじゃ。 肉体や精神は呼吸や食物やエネルギーを通して全てと繋がり、けっして離れては居ないのじゃ。 全てと離れた一個の肉体があると言う事さえも誤った観念なのじゃ。 常識や先入観に囚われず、真摯に観察すればそのように物理的にも肉体は全てと一体である事が真実と気づくのじゃ。 一旦気づけば、何故今まで判らなかったのかと不思議に思う位なのじゃ。 >>350 どういたしまして、またおいでなさい。 >>352 もの凄いひんとがあったのにのう。 慈悲とは論理的に説明ができないと言うのが、慈悲を論理的に説明した事になるのじゃ。 何故ならばそれは論理を使用して慈悲を説明したのではなくとも、論理と慈悲がどのような関係であるか説明したのであるからのう。 それが慈悲の論理的、説明なのじゃ。 おぬしには難しかったかのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/364
365: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>353>>354 そのように常に死が訪れる事を知っている者こそ修行したら良いのじゃ。 悟りが得られなくとも、サマーディにまで達したならば、死を超えた意識が垣間見られるのじゃ。 死によって世間の一切が無意味で虚しく思える時、死によっても滅する事の無い意識を知る事が唯一の道なのじゃ。 有限な肉体によって無限の意識に到達すれば、肉体を持って生きたことも意味があったと言えるのじゃ。 >>355 そうじゃ、そのまま観察しつづけるのじゃ。 何が起きても観察すれば良いのじゃ。 そこからまた想念が生じても、動揺せずに観察を続けるのじゃ。 それが正しい道なのじゃ。 >>356 観察が完全に行なわれれば消えていくじゃろう。 原因から起こる心の働きを観察するのじゃ。 その連鎖が縁起と呼ばれるものなのじゃ。 わしはもはや何も思わないのじゃ。 >>357 そうじゃ、続けるのじゃ。 熱が頭まで来るならば、胸などに集中して熱を降ろすのじゃ。 他にも様々な方法がある故に迷ったら聞けばよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/365
366: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>358 それはまだ八正道の途中なのじゃ。 正しい観察から始まり、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正定、正念にまで至って悟りは得られるのじゃ。 正しい念とは気づく事なのじゃ。 個体も個我も己も無く、認識さえも無であると気づいて悟りは徹底されるのじゃ。 観察によって正しい思惟から、正しい気づきまで到達できるのじゃ。 >>359 それは観察ではなく意識の拡大に気づいたのじゃ。 肉体にも活動している意識は在ったのじゃ。 肉体だけが己の全てであると言う観念から自由になったのじゃ。 瞑想に熟達すればいつでも感じられるじゃろう。 >>361 昔、そのような体験をしたり、何かを見たりして恐れが残っているのじゃろう。 その原因から恐れが起こり、原因が無ければ恐れが無いと観察すれば消えるじゃろう。 わしはもはや何も思わないのじゃ。 >>362 神も人より長く生きたり、人には無い力を持っていたりするがやはり死に行くものなのじゃ。 悟りを得て不死の境地に達したら、死に行く神も羨むのじゃ。 神の世界は安楽であるから良く修行しようとする者も少ないのじゃ。 苦の多い人の世で修行して悟りを得れば、神以上のものとなるのじゃ。 >>363 助けないのじゃ。 おぬしを救う事が出来るのはおぬしだけなのじゃ。 お釈迦様でさえ道標になるだけと言ったのじゃ。 おぬしには己を救うために、神仏よりも大きな力と智慧を出せるのじゃ。 慈悲と善事を心掛ける清らかな心で世を行けば、福楽は向こうからやって来るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/366
379: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>367 神で居る時に衆生を苦しめるような悪事をすれば地獄とかに生まれ変わるじゃろう。 神と言えども輪廻の中から逃れられないのじゃ。 それ故に輪廻を超越できる悟りを得た仏陀を羨むのじゃ。 考えなければ良いのじゃ。 チャンスがあればそれを生かして修行するのじゃ。 >>368 悟りを得ず、智慧が無く、知識も無かったからなのじゃ。 自分の愚かさを知っていたから賢者とは言えるがのう。 彼等は阿弥陀浄土に行く自分の修行だけをしており、後に多数の人間が続くも思わなかったのじゃ。 >>369 神も人が創造したものじゃ。 日を動かしたりするのが仕事らしいのう。 >>370 神に生まれるのは善事の結果なのじゃ。 神には五神通という超能力があるとされているのじゃ。 >>371 おぬしは>>289で頑張って理解するとか書いていたが、やはり嘘であったようじゃのう。 理解したのならばそれが論理的な説明ではないと、論理的に説明してみると良かろう。 論理を否定的に使った論理的な説明とも言えるのじゃ。 >>372 そうじゃ、続けるのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/379
380: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>373 本来の意識は全ての精神と肉体の基底としてあるのじゃ。 それを感じようとすれば常に感じられるのじゃ。 人と話したり、思考や知識を使う時はそれぞれの対象に集中するのじゃ。 本当は全ての者もそれを基底としており、離れる事は無いのじゃ。 瞑想に熟達すれば睡眠は自在に出来るのじゃ。 睡眠の問題は無くなるのじゃ。 通常の意識も使える故にぼんやりしたりしないのじゃ。 >>374 自我を放棄すれば智慧は生まれるじゃろう。 しかし、神に委ねなくとも智慧は生じるのじゃ。 それは神を信じきれる者の道にはなるが、疑いを持つ者には無意味なのじゃ。 神仏は人を救わないのじゃ。 おぬしを救えるのはおぬしだけなのじゃ。 >>375 それを一点の疑いも無く信じきれるならば、それがおぬしの道になるじゃろう。 経典に説かれているように、阿弥陀浄土と阿弥陀仏などをイメージし、一体となるのじゃ。 それによってサマーディに到達するじゃろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/380
381: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>376 おぬしの頭の中に教えられた自転という知識があり、それが行われていると言う記憶によって自転があり、それが行われていると認識があるのじゃ。 それを旋転と呼ぼうという事になれば、自転は無くなり、自転することも無く、旋転している事になるのじゃ。 またその自転も太陽を基点にして考えれば地球が自転している事になるが、地球を止まっていることにして宇宙が動いている事にすることも可能なのじゃ。 朝を夜と言えば永遠に朝はこないのじゃ。 そのように知識と記憶の一切が仮に創られた言葉とイメージにしか過ぎないと知るのじゃ。 それが無ければ本来の世界が見えるのじゃ。 >>377 全部カルマが解消されたと思えば良いのじゃ。 違っていても気が楽になるじゃろう。 腹も立たないじゃろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/381
394: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>382 わしは神と言うものについて書いていないのじゃ。 人が持つ神と言う観念について語っているのじゃ。 全ての神を語る者にその観念はあるのじゃ。 神と言う観念が無ければ神と言う事も出来ないからのう。 >>383 同じではないのじゃ。 地球が不動であると言う視点からは宇宙が動いている事になると、書いたがのう。 太陽を昇らなくするのは簡単なのじゃ。 おぬしの観念を正すだけで良いからのう。 おぬしは地球が自転すると書いたじゃろう。 地球が自転するならば、動いているのは地球であり、太陽は不動となり、昇る事も無いのじゃ。 太陽が昇るならば地球が不動であり、太陽と宇宙が動いている事になる天動説なのじゃ。 地球と言うのも太陽も宇宙もおぬし自身の観念であり、その観念の中で考えるから、観念の誤謬にも気づかないのじゃ。 視覚的に見えるもの、触覚で感じられるもの等も観念にすれば本質を忘れ、囚われと成るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/394
396: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>384 瞑想を続ければ常に出来るようになるじゃろう。 毎日続ければ今まで出来なかった事も出来るようになるのじゃ。 そして、真の世界の姿を見るじゃろう。 >>387 神は居ないから人を救えないのじゃ。 集中した者が自分で自分を救ったのじゃ。 自己は捨てればそこから先があるが、神を信じて神を捨てる者は稀なのじゃ。 >>388 良い事じゃ。 わしは歯を治す方法を知っている故に歯医者に行かないのじゃ。 塩で歯磨きをして歯茎をマッサージしていれば穴だらけの歯も痛くなくなるのじゃ。 全ての者に勧める訳ではないがのう。 普通の者は歯医者に行ったら良いのじゃ。 >>389>>390 先ずは体を権衡にすると良かろう。 運動をして、野菜を食べ、思考を少なくして瞑想しよく寝れば体が健康②なり、心も軽くなるのじゃ。 思考を多くすれば脳も疲れて乱れてしまうのじゃ。 瞑想によって思考を抑えるのじゃ。 そうすれば自分の道も見えてくるじゃろう。 それが実践する事なのじゃ。 >>391 それは何でも受け入れ、抵抗しないと言う事ではないのじゃ。 世間では普通に接すると良かろう。 愚かな者には指導や説教もすると良かろう。 そして何やら苦があったならばカルマが解消されたと喜べば良いのじゃ。 >>392 笑顔が大事じゃ。 いつも笑顔で居れば気軽に話し掛けられるじゃろう。 和顔施という善事にもなるのじゃ。 >>393 あるじゃろう。 無我の安楽なのじゃ。 酒も薬も必要は無いのじゃ。 瞑想が最も安楽なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/396
409: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>397 仏教には悟りへの方法があり、理論があり、苦を滅する道があるのじゃ。 それ故にわしも説くのじゃ。 そうでなければわしには用なしなのじゃ。 キリストは悟っておらず、神を信じていたユダヤ教徒なのじゃ。 >>398 正確に伝えるためなのじゃ。 正確に言うならば雲の上に世界を作ったひげのじじいはいないのじゃ。 それはおぬしの心によって創られたものなのじゃ。 >>400 そうじゃ、続ければいつか悟りは向こうからやってくるじゃろう。 またおいでなさい。 >>401 神と言うのは居ても居なくても、おぬしには全く関係無いのじゃ。 アウシュビッツでも広島でも何万という人が苦しみ助けを願っても、それは現れず、何もしなかったのじゃ。 全知全能ならば人の苦を知り、助ける事も出来る筈であるが決して現れず何もしないのは何故じゃろう? それがいつも子供の頃に助けてくれた親のイメージを投射した幻想に過ぎないからなのじゃ。 幻想に人を好くうちからは無いのじゃ。 現実に人を救えるのは自分自身だけなのじゃ。 幻想の神を捨て、現実に自分を救うことが、賢者と目覚めた者によって説かれた道なのじゃ。 >>403 自分が自分を助けようとしなければ誰も助けにはならないのじゃ。 百万の仏陀と言えども自ら助かる気のない者を助ける事はできないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/409
411: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>404 何でも試してみたらよいのじゃ。 空無辺処は空間の意識を認識している状態じゃ。 非想非非想処は想いが無く、想いでないものもないという状態じゃな。 それは瞑想によって到達する境地であるから、正確にどこからが非想非非想処で空無辺処ではないとかいえないものなのじゃ。 瞑想をしていればそのような感覚があると気づくだけなのじゃ。 そのような瞑想にのみ没頭すれば、観察することが無く、むしろ逆にその境地に辿り着いた己を誇る気持ちが現れて字が肥大に陥ったりする事もあるじゃろう。 小悟で傲慢に成るのと同じなのじゃ。 >>405 おぬしがそれでよいと思えば良いのじゃ。 花や樹木に墓も位牌も仏壇も無く、経を唱えず盆の行事もしないが年々芽が出て咲くのじゃ。 >>406>>407 そうじゃ、肉体の反応以外なくなるのじゃ。 そのような禅の教えは本来の己の感情を認めるためのものじゃろう。 人は日常では大抵感情を誤魔化して生きているからのう。 ありのままの感情を認めなければ己も見えないのじゃ。 十牛図で言えば牛の足跡をみつけるようなものじゃ。 >>408 自分を自分の主とするのじゃ。 何が起きても自分の責任として受け入れるのじゃ。 自分の所為と思うのではないのじゃ。 自らの力で処理する覚悟で実践し事に当るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/411
422: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>412 禅の言うのは十牛図の返本還源じゃな。 記憶に依存した認識も無ければ世界の在りのままの姿が見えるのじゃ。 マハリシは普通の人が見る現実はスクリーンの上の影でしかないと言ったのじゃ。 意識がスクリーンであり、現実はその上に浮かぶ影なのじゃ。 影が無くなればやはりありのままの世界が見えるのじゃ。 普通の人間の意識の仕組みを表しているのじゃ。 わしならば記憶に依存した認識が無くなり、本来の認識によって世界の在りのままの姿が見えると言うじゃろう。 可能な限り正確に語るのじゃ。 >>413 そうじゃ、何でも試してみるのじゃ。 >>414>>415 なにやら混乱しているようじゃ。 イエスは本当にそんな事を言っているじゃろうか? >>418 どういたしまして、またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/422
423: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>419 痴呆は記憶が働かないのじゃ。 普通の者は記憶に使われているのじゃ。 無認識に至れば記憶を道具として使えるのじゃ。 >>420 それでよいのじゃ。 言葉になる前の直感を捕まえるのじゃ。 それが深甚なる観察になるじゃろう。 >>421 観察すると良かろう。 己をどこまでも観察していけば自然に悟れるのじゃ。 マハリシのように最後まで追及すれば悟りは来るのじゃ。 集中でも悟れるが対象の無いサマーディにまで行かなければならないのじゃ。 それには才能と時間が必要になるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/423
430: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>424 姿勢が正確で、下腹に力が掛かると自然に熱が発生するのじゃ。 その熱が背骨を上昇してサマーディに入るのじゃ。 しかし、集中力が無いと意識が無く寝たのと同じになってしまうのじゃ。 集中力も必要なのじゃ。 >>425 ならないのじゃ。 寝ているのと同じなのじゃ。 集中するか観察するかどっちかをしてみるのじゃ。 全く何もしないという行もあるが普通の人間には困難なのじゃ。 >>426 嘆く事は出来たじゃろう。 人に説法をするために仮に自我を保っていたであろうからのう。 そのような時には自然に感情も出るものじゃ。 それをあえて止める必要も無いから止めなかったのじゃろう。 >>427 不安が消え、恐れも消えるじゃろう。 それらは記憶から自我に投射されていたものであるからのう。 過去に孤独や恐怖があると、それが自我に起こりはしないかと不安や恐れになるのじゃ。 不安や恐れが無ければ、自然に心は安らぎ、静まるのじゃ。 そして真の悟りへの道も開かれるのじゃ。 >>429 今生きている人が見えるのも観念であるように、霊も観念なのじゃ。 生死に関わらず人は観念の中に生きているものじゃ。 霊も生きている人も同じなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/430
438: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>431 もし本当の意味で正しい進化をしたならば、悟りを得ることはより容易くなっているじゃろう。 サマーディに到達する事も容易であり、そこから先に行く事も簡単になっているじゃろう。 平等智などは生まれながら持ちっているかもしれん。 それが苦を少なくする正しい進化の方向と言えるのじゃ。 >>432 熱にばかり意識が行くと消えるかも知れん。 むしろ正しい姿勢を続けることに留意するのじゃ。 そうすればやがて熱が昇る時にも役立つのじゃ。 >>433 どういたしまして、またおいでなさい。 >>434 そのような勝負事は知識や技や観察や運なども必要になるからのう。 強い者はそれなりの勉強や努力をしているものじゃ。 気づく事だけでは勝てないのじゃ。 なによりも勝つという強い意志がなければ勝てないのじゃ。 悟ってしまえば勝ちたい欲がなくなる故に強くならないのじゃ。 強い者ほど囚われが多いとも言えるかも知れん。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/438
440: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>435 そのような年ではそろそろ逃れられない寿命が迫っているのじゃ。 これからは後10日で命が終ると想って修行に励むと良かろう。 そのような覚悟で修行に励めば本当の死が来たと時も後悔しないのじゃ。 >>436 その怒りなども起こってからそのままでいる訳ではないじゃろう。 何かの原因で怒っても、時間が経つと静まってきたりするのじゃ。 そのように時間と共に怒りが、静まってきているのを観察するのじゃ。 大きな怒りから小さな怒りへと変わっていく事を確かめるのじゃ。 そうすれば怒りが変化していくものと気づくのじゃ。 他の感情でも変わるのを観察してみるのじゃ。 >>437 おぬしは龍の如き広大な心である龍広じゃ。 龍広よ、修行に励むのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/440
442: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>439 お釈迦様は国や妻子を捨てて、死ぬまで乞食僧だったのじゃ。 しかし、天上天下で唯独り尊い者だったのじゃ。 社会的な欲が無いなら、むしろ苦は無い筈なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/442
454: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>443>>445 お釈迦様は自らその道を選んだだけなのじゃ。 悟れば自由意志でなんでもてきるのじゃ。 悟ったから酢屋になつたりタバコ屋になった者も居るのじゃ。 >>446 おぬしが十分に学び、そしてその知識にも囚われていなければ、仏陀に会い、判る事も出来るじやろう。 学んでその知識に囚われ傲慢に成れば、却って仏陀にあっても判らなくなるのじゃ。 ここにもそのような者が出没しているのを見ればわかるじゃろう。 >>448 そのようなものに感動するのは、日常が不安や苦によって苛まれているからなのじゃ。 良く観察してみれば一つの球を何人も追いかけておかしな遊戯なのじゃ。 不安や苦を忘れるためにそのような遊戯に熱中するのじゃ。 瞑想をすれば人を超えた喜びがあるものじゃ。 仏陀はそれにさえ囚われ無いのじゃ。 >>449 おぬしにはその道があっているようじゃのう。 ヨーガなども参考にすると良いのじゃ。 呼吸法を試してみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/454
455: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>450 集中は心のコントロールをするためのものなのじゃ。 集中力が無いと観察している途中でよけいな雑念が湧いて観察も出来ないのじゃ。 もし数息観などの集中の瞑想をしていなければ、観察することも容易ではないのじゃ。 普通の人間はほとんど観察が出来ないのじゃ。 集中力が無く観察力も無いのじゃ 観察するために集中力が必要なのじゃ。 >>451>>452 例えばおぬしが悟りを得たとしても、他人は幸福にも不幸にもならないのじゃ。 なぜなら人は自ら幸不幸を選び、志向するものであり、他人が自分の意志で幸福になったり不幸になったりするのを、目覚めた者は妨げたりしないのじゃ。 昔、ナポレオンが国を征服して奴隷を解放したら逆に奴隷に反抗されたと言う事があったのじゃ。 そのように人は幸福を求めるように、不幸をも求め執着するものじゃ。 お釈迦様でさえ自分は道標に過ぎないと言われたのじゃ。 人が自らを救う道を示すのが目覚めた者なのじゃ。 >>453 そうじゃ、龍広よ頑張るのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/455
465: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>456 お釈迦様のいとこで弟子になった提婆達多は反逆して生きながら地獄に落ちたと言う。 力があるならば強制的に修行させ、智慧があるなら無理やり説得する事も出来たじゃろう。 それをしなかったのは自らを主として、自分の意志で決めさせるためなのじゃ。 幸せになるのも不幸になるのも各自の意志によるもので無ければならんのじゃ。 そうでなければ幸せになるからサリンをまいても良いだろうと考えるカルト宗教と同じになって仕舞うのじゃ。 自らの意志によらなければ人は幸せにならないのじゃ。 >>457 葬式をしたり墓を作るのは仏教ではないのじゃ。 おぬしがそう思うならやらなくてよいのじゃ。 西洋人は先祖の墓など忘れてしまうがやたらと元気なのじゃ。 >>458 最初のうち、自分が何をしているのかわからなくなるようならば、言葉を使っても良いのじゃ。 しかし、集中して出来るようになったら、言葉を使うのはやめたらよいのじゃ。 なぜならば言葉にならない心の動きも観察しなくてはいかんからじゃ。 言葉に頼っていては言葉を超えた心の働きは観えないのじゃ。 観察した後にあれは怒りであったとか、言葉や考えになるのはよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/465
466: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>459 何でも試してみたらよいのじゃ。 何か得るものはあるじゃろう。 またおいでなさい。 >>460 集中するのじゃ。 仕事に没頭し、集中すれば集中力が高まるじゃろう。 呼吸に集中しても良いのじゃ。 本当に集中したら時間が短く感じるじゃろう。 >>461 ナポレオンにとっては自由が幸福であり、不自由が不幸だったのじゃ。 しかし、不自由でも食べ物だけは与えられ生きているだけで良いと想う者達も居たのじゃ。 その者達は不自由が幸福であり、自由が不幸と想っていたともいえるじゃろう。 >>462 姿勢を正しくして座ってみたらよいのじゃ。 初心の者が姿勢を正しくする事だけに留意すれば、直ぐにでも三昧に到達する可能性が高いのじゃ。 未だ無心であるからのう。 慣れて来ていろいろ考えると難しくなってしまうのじゃ。 >>463 何も想わないのじゃ。 それが起こるのは元々一切に意味が無いからであるが、それを知らない無知な者は放っておけば良いのじゃ。 自分が何を語っているかさえわからないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/466
468: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>464 全てのものは本来名前が無いものじゃ。 人が勝手に名前を与え、記憶によりイメージをも与えただけなのじゃ。 例えば道端に転がっている固い物を石と呼ぶ。 しかし、それは名前がついたから石になって存在した訳ではない。 名付ける前からそこにあったものなのじゃ。 人が名づけようかと名付けまいと関係なく在り続けるものじゃ。 しかし、人が名付け、それにイメージを与えると石と言うものとしか想う事が出来なくなるのじゃ。 名前からイメージが想起され、投射される故に、石は石としてしか認識できなくなるのじゃ。 人間も同じように鈴木家の一郎とか名付けられると、自分は鈴木一郎としか思えなくなるのじゃ。 記憶から過去の体験のイメージが投射され、そのような経験をした鈴木一郎であると言う固体認識がなされるのじゃ。 それが自我というものなのじゃ。 本来の名付けられないものの状態を忘れた習慣による謬見なのじゃ。 観察やサマーディなどによって名前が同一化できなくなると、本来の名前の無い状態が見えるのじゃ。 名前や過去の記憶からのイメージが己であると言う謬見が止まり、真実の姿が垣間見えるのじゃ。 修行者は自我とは名前とイメージでしかないとしり、恐れを超えて行くのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/468
485: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>469 名前が無ければ幸不幸も、社会も無いのじゃ。 それこそが本当に実際的な事なのじゃ。 あるがままの現実に対応するのであるからのう。 >>474 延命は治療ではないのじゃ。 治療とは病を治す事であるから、延命だけでは治療とはいえないのじゃ。 医者は薬や器具を使えば保健が下りて儲かるから勧めるだけなのじゃ。 本当はもはや医学では助からないと判れば、家で自然に死を迎えるが良いのじゃ。 それもまた誕生と同じ自然の働きであるからのう。 もはや治療ではない延命は止めるというとよかろう。 >>479 さっき来たのじゃ。 >>480 無罪の七施のうち和顔施をしてみるとよかろう。 いつも笑顔で居るのじゃ。 そうすると特に話さなくとも明るく見られるのじゃ。 喋らないと威厳もつくのじゃ。 やってみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/485
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