鬼和尚に聞いてみるスレ【1】 (1005レス)
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503
(1)
: 2013/09/07(土)06:45
ID:LC3de7YgO携(24/40)
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503: [sage] >>499 苦を観察することにより、不安やいたたまれなさを一時的にしろ解消できるのは、その苦と自分が一体になっているように感じることの間違いに観察が気づかせてくれるという理解でよいのでしょうか?一時的にしろ厭離が起きているのでしょうか? それを繰り返して、永続的に苦を滅することができるようになることを目指すのが止観の行なのでしょうか? その時に感じる苦の根深さや、心の苦か肉体的な苦かにもよりましょうが、相当に深刻に感じる苦もそれを一時的にしろ消せる以上は訓練を続ければ滅することも可能かもしれないと希望をもっています。 苦は自分自身でも自分のものでもないと観察する意識の存在を確信することが止観の行の目的という理解でよいのでしょうか? 仮にその理解で良いとした場合、そこに行き着く道として、集中や観察があり、集中の方法の中にクンダリーニヨガや周天法などがあるという理解でよいのでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1374882757/503
苦を観察することにより不安やいたたまれなさを一時的にしろ解消できるのはその苦と自分が一体になっているように感じることの間違いに観察が気づかせてくれるという理解でよいのでしょうか?一時的にしろ厭離が起きているのでしょうか? それを繰り返して永続的に苦を滅することができるようになることを目指すのが止観の行なのでしょうか? その時に感じる苦の根深さや心の苦か肉体的な苦かにもよりましょうが相当に深刻に感じる苦もそれを一時的にしろ消せる以上は訓練を続ければ滅することも可能かもしれないと希望をもっています 苦は自分自身でも自分のものでもないと観察する意識の存在を確信することが止観の行の目的という理解でよいのでしょうか 仮にその理解で良いとした場合そこに行き着く道として集中や観察があり集中の方法の中にヨガや周天法などがあるという理解でよいのでしょうか
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