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ガロア第一論文と乗数イデアル他関連資料スレ11 (1002レス)
ガロア第一論文と乗数イデアル他関連資料スレ11 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/
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246: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 14:30:17.26 ID:8VnUw5mp おサルさん>>9、わめく 『ここで数学と無関係の●室の話をするということは このスレッドは廃止する ということでよろしいか?』>>150 ふっふ、ほっほ やってみなよ ほれ ほれ ほれ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/246
247: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 14:39:34.25 ID:8VnUw5mp >>238 >保阪正康って名前を見た瞬間、読む気が完全に失せた・・・ では、いましばしw ;p) 保阪正康は、下記か 同志社大 2023 (>>232) の講師役は、「同志社大学文学部社会学科卒業」だからだね ”京都の私大に通っていた時は60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生” だったかw ;p) (参考) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E9%98%AA%E6%AD%A3%E5%BA%B7 保阪 正康(ほさか まさやす、1939年(昭和14年)12月14日 - )は、日本の作家・評論家[1]。 北海道札幌市生まれ、二海郡八雲町育ち[2](なお、自著のプロフィールでは「北海道生まれ」のみと表記し、出身市町村については明記していない[3][4][5])。 経歴 北海道札幌市で教員の父親のもとに生まれる[6]。父親は群馬県、母親は江別市出身[6]。父親の勤務の関係で、生後間もなく江別市に移り、3歳で福島県二本松市、5歳で北海道二海郡八雲町に移る[6]。そのまま八雲町で終戦を迎え、小学校6年まで同町で育った後、根室市を経て札幌市白石町(現・札幌市白石区)に移った[7]。札幌市立柏中学校、北海道札幌東高等学校を卒業。阿部典英は中学高校の同級生[8]、西部邁は中学校の1年先輩に当たる[9]。同志社大学文学部社会学科卒業。在学中は演劇研究会で特攻隊員を描いた創作劇を執筆。 人物 札幌の高校生時代、北海道大学のシナリオ研究会に入会し、先輩に唐牛健太郎がいた。京都の私大に通っていた時は60年安保に反対する学生運動に参加する左翼系の学生であり、1960年6月の運動最盛期にはそれまでの地元の商店主やタクシー運転手から『迷惑だ』との怒声がなかったこと、反対デモ参加者の多くは安保条約改定の中身を知らなかったことを明かしている[12]。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/247
248: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 15:54:58.06 ID:8VnUw5mp 日本敗戦の年の 昭和天皇・マッカーサー会見 1945年(昭和20年)9月27日 敗軍の将としての会見だった ある記述によれば、マッカーサーは「命乞いに来る」と予想していたらしい しかし、昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした。」といったそうな 「命乞い」とは、真逆の一国のリーダーとしての立派な発言に マッカーサーは”私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした” King of kings、将の将たる器 これは、一朝一夕にできるものではない 悠仁さまに必要な帝王学 昭和天皇・マッカーサー会見の歴史を学んで、将来 日本国天皇として おつとめを果たして頂きたいものだ (東大でも いいんじゃない? 帝王学のたしになるなら) (参考) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%BC%9A%E8%A6%8B 昭和天皇・マッカーサー会見は、連合国軍占領下の日本において、昭和天皇(第1回当時44歳)と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官:ダグラス・マッカーサー元帥(第1回当時65歳)により、駐日アメリカ大使館で行われた会見である。1945年(昭和20年)9月から1951年(昭和26年)4月まで、全11回にわたり行われた[1]。 特に、第1回の会見における内容や、昭和天皇の戦争責任論を含む日本の戦後処理への影響に関しては、今尚議論の対象となっている。 会見日等 第1回会見:1945年(昭和20年)9月27日[2](於:駐日アメリカ大使館、通訳:奥村勝蔵) 第2回会見:1946年(昭和21年)5月31日[3](於:不明、通訳:寺崎英成[3]) 第3回会見:1946年(昭和21年)10月16日[4](於:不明、通訳:寺崎英成[5]) ・ ・ 第10回会見:1950年(昭和25年)4月18日[11](於:不明、通訳:松井明[10]) 第11回会見:1951年(昭和26年)4月15日[12](於:不明、通訳:松井明[10]) 第1回会見 『マッカーサー回想記』によれば、会見の冒頭 「私は、国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした。」 さらに、皇室財産を担保に国民の衣食住の保証を願い出た。[要出典] そして同回想記によれば、天皇を「戦争犯罪人」として起訴せよという米国内及び国際世論の中、このような発言をした天皇に対し、マッカーサーは次のような感想を抱いた[32]。 私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした 天皇発言に感動したマッカーサーは、天皇への呼びかけを「You(あなた)」から「Your Majesty(陛下)」に改めた、と松平康昌が田中隆吉に伝えた[29]。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/248
251: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 18:38:57.64 ID:8VnUw5mp 悠仁さまは、9月6日に18歳の法律上の成人になられました ただし、酒とたばこはダメだったと思う 20歳成人のときは、子供扱いだろうが いまは、18歳は 大人扱いです 18禁OKだよ、悠仁さま! といっても、18禁に自由に出入りできるわけないですがね!!w ;p) (参考) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240906/k10014573631000.html 悠仁さま きょう18歳の誕生日 成年皇族に 2024年9月6日 秋篠宮ご夫妻の長男の悠仁さまは、6日、18歳の誕生日を迎え、成年皇族となられました。皇位継承権を持つ男性皇族が成年となったのは父親の秋篠宮さま以来39年ぶりで、悠仁さまは、夕方、天皇ご一家と上皇ご夫妻に誕生日を迎えたあいさつをされました。 皇位継承順位が皇嗣の秋篠宮さまに次ぐ第2位の悠仁さまは筑波大学附属高校の3年生で、学校が終わったあと午後5時すぎに皇居を訪れて、天皇皇后両陛下と長女の愛子さまに誕生日のあいさつをされました。 民法改正で成人年齢が18歳に引き下げられてから皇族が成年となったのは今回が初めてで、悠仁さまは門を通る際に車の窓を開け、集まった人たちから「おめでとうございます」と言われると、笑顔で会釈し手を振って応えられていました。 このあと、上皇ご夫妻にあいさつするため赤坂御用地にある仙洞御所を訪ねられました。 悠仁さまは、天皇ご一家と上皇ご夫妻に、今までのことに対する感謝の気持ちと、これから成年皇族の一員となることへの思いを伝えられたということです。 宮内庁によりますと、悠仁さまは、天皇ご一家と上皇ご夫妻へのあいさつを終えたあと、お住まいで、宮内庁と側近部局の代表者から祝賀を受けられたということです。 これに対し、悠仁さまは、感謝の気持ちを表すとともに「今は、高校生としての学業もありますが、この先は、広い視野を持ちながら学びを深め、さまざまな出会いや関わりを通して経験を積み、自らの務めについて考え、成年の皇族としての役割を果たせるよう努力していきたいと思っています」などと述べられたということです。 宮内庁によりますと、悠仁さまはこの1年を健やかに過ごし、友人たちとともに学びを深めながら、文化祭などの学校行事を作り上げるなど様々な経験をして、充実した高校生活を送られているということです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/251
253: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 20:31:10.94 ID:8VnUw5mp 前にも書いたが、小林・益川理論 益川が先輩で、先に京大の物理にいて、あとから来た小林誠氏に共同研究をもちかけたという アイデアマンの益川氏が思いついたことを、緻密な小林が潰す繰返し うまく行かずに、益川氏がもう諦めようと思った夜の風呂で、”クォークが3世代(6種類)”を思いついたという 数学では、O-竹腰というのがあるらしい 竹腰先生が、当時手紙で Feffermanの論文をO氏知らせてきた 帰国して、O氏との共同研究 O氏がアイデアを出し、竹腰が議論して潰す その繰返しの中で、ある日真のアイデアが降ってきた(ポアンカレみたいにかもね ;p) コーチェル・ビルカーの[BCHM]4人論文 ビルカーだけが、フィールズ賞が授与された フィールズ賞は、年齢制限もあるし、他の3人は40歳オーバーかも 共著になっているから、だれがどういう役割かの詮索はしたい人がすれば良いのです 気にしない人は、気にしない 気にする人は、気にすれば良い (参考) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E3%83%BB%E7%9B%8A%E5%B7%9D%E7%90%86%E8%AB%96 小林・益川理論(こばやし・ますかわりろん)は、小林誠(京都大学、当時)と益川敏英(京都大学、当時)によって1973年に発表された理論である[1]。 クォークが3世代(6種類) 2008年、小林、益川両名にノーベル物理学賞が贈られた[2]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BC コーチェル・ビルカー FRS (Caucher Birkar, 1978年 - ) 2016年、AMSジャーナル(2010)における「対数一般型多様体に対する極小モデルの存在」の論文(P. カッシーニ(イタリア語版)、クリストファー・ハコン、ジェームズ・マッカーナンとの共著、通称頭文字をとって[BCHM]と言われる)に対して、AMSムーア賞(英語版)を授賞した[8]。そして2018年、ビルカーに、「ファノ多様体の境界性の証明と極小モデルプログラムへの貢献」に対して、フィールズ賞が授与された[9]。 https://en.wikipedia.org/wiki/Ohsawa%E2%80%93Takegoshi_L2_extension_theorem Ohsawa–Takegoshi L2 extension theorem http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/253
254: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 21:58:00.01 ID:8VnUw5mp 図書館で日経読んできた 面白かった www.nikkei.com/article/DGXZQOUA298G50Z20C24A7000000/ 比例復活は選挙制度壊す 政治改革主導の佐々木毅氏 直言 日経 2024年9月14日 5:00 [会員限定記事] (抜粋) 【この記事のポイント】 ・小選挙区の落選候補が惜敗率で比例復活「非常に遺憾」 ・比例復活の問題、制度改正「すぐやった方がいい」 ・中選挙区制に否定的「買収事件、軽く考えない方がいい」 「政治とカネ」の問題に終止符を打つはずだった1994年の政治改革から30年。自民党派閥の裏金事件で政治不信は再び頂点に達し、岸田文雄首相は退陣に追い込まれた。「政権交代可能な二大政党制」も実現していない。平成の改革で旗を振った佐々木毅元東大学長は今、自らの「責任」にも言及し、令和の改革で最後の戦いに臨む。 平成の政治改革は「政治とカネ」の問題の解決とともに「政権交代可能な二大政党制」を目指していた。 ――88年のリクルート事件や92年の東京佐川急便事件などが招いた深刻な政治不信は、今日の状況にも似ている。なぜ選挙制度に着目したのか。 「政治資金と選挙制度の2つの改革をセットにしたのは自民党政治改革委員会(後藤田正晴会長)が答申した89年5月の大綱だ。そこは政治家たちの嗅覚だ。僕は全く関与していない」 「セットにする意味は何か、不思議に思った。93年に自民党の金丸信元副総裁が逮捕され、世論の後押しで選挙制度の議論も動いた。なるほど、そういうのを見越した立て付けだったのかと。後藤田さんに聞いたこともないのでわからないが」 「日本のデモクラシーのために選挙制度を変えなければいけないとは考えていた。政治で一番カネがかかる選挙制度を改めない形で『政治とカネ』は議論できない」 英国の欧州連合(EU)離脱や米国の連邦議会議事堂襲撃事件などで、民主主義の脅威として専制主義だけでなくポピュリズム(大衆迎合主義)も意識されるようになった。 民主主義のモデル、不在に ――小選挙区制の導入を志したのはなぜか。 「当時は社会主義、共産主義が崩壊した後の世界だった。英国、米国の小選挙区制も今ほど評判は悪くなかった。なんとなく米国というものを過大評価したかもしれない。大いに反省もしている」 「今は右か左かわからないけど権威主義体制と対決をしながら自由民主主義を守らなければいけない。(トランプ前米大統領のように)『選挙が盗まれた』とかいう人が延々と選挙運動ができるような国がモデルとはなかなか思いにくい。モデルとするデモクラシーがなくなってしまった」 つづく http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/254
255: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 21:58:17.96 ID:8VnUw5mp つづき ――フランスは7月の国民議会選挙で極右の台頭を決選投票で退けた。過半数を得た候補者がいない選挙区では決選投票をすることで、より熟慮を求める選挙制度だと思うが、ポピュリズムへの対応としてどうか。 「ポピュリズムは私も勉強し直している。89〜91年の第8次選挙制度審議会でもフランス型っていうのは熟慮に値するんじゃないか、と言った記憶がある。やっぱりあれはフランス人の知恵だろうと思う」 「日本の地方議会などで実験してはどうか。これだけ投票率が下がってくると、代表者、代表しているということの意味合いが軽くなっている。そのことに気づかないまま政治家たちが動いているというのは危ない。ある日気がついたら、ごそっと(投票していない層を)取って行かれて、あっという間にアウトになってしまう」 ささき・たけし 1942年、秋田県生まれ。第8次選挙制度審議会委員として90年4月に小選挙区比例代表並立制と政治資金制度改革を答申。その後も「民間政治臨調」「21世紀臨調」「令和臨調」を通じ、政治改革の議論を一貫して主導する。2001〜05年、東大学長。19年、文化勲章。 制度設計、性善説に限界(インタビュアーから) 30年前に政治改革の議論をリードした政治家、政治学者、政治記者が君臨する限り、今の選挙制度は変えられない――。そんな説明を何度聞いたことだろう。なかでも佐々木毅氏は政治学界の大御所として「小選挙区制」を墨守する象徴とみなされてきた。 だが、2時間あまりのインタビューでにじんだのは守旧派の姿ではなかった。とりわけ、小選挙区の落選者が惜敗率に基づいて比例で復活するという「制度の抜け穴」を許したことへの悔恨は大きい。「いくらなんでももうやめなきゃだめだ」という声を国会は真剣に受け止めるべきだ。 「選挙制度を政治家に議論させるっていうのは難しい」という言葉には実感がこもる。比例復活の乱用、選挙ポスターや政見放送の醜態、パーティー券をめぐる裏金事件が示すのは、性善説に立つ制度設計はすでに限界だという現実だ。 (政策報道ユニット長 奥村茂三郎) (引用終り) 以上 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/255
256: 132人目の素数さん [] 2024/09/15(日) 23:40:29.75 ID:8VnUw5mp 梶田くんが、トンボの研究をしたいといえば、それで宜しいんじゃ無いですか? ”「光の自由にしていいよ」。母親から何度も言われた言葉だ。” ”常識外の成長曲線を描く天才の育て方を尋ねると「大人は何もしない方がいい」ときっぱり。「梶田君に私が『教える』なんておこがましい」とさえ言う。ふたりの共同研究は対等に進む。飯高がテーマを指示することは一切なく、梶田が興味を持ったことへ背中を押す。” トンボの研究も、それで良いと思う 邪魔をしないこと (参考) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOKC09C830Z00C21A9000000/ 13歳数学者、相棒は79歳教授 才ある子は好きにさせよ 孫正義を超えろ Z世代の天才たち(2) 2021年9月26日 [会員限定記事] 日経 「初等整数論は高校数学の知識があれば研究できるから、僕にとっては取っつきやすいんです」 大好きな数学の話題になると、梶田光は冗舌になった。一見すると普通の中学生の彼は、13歳にして数学者の顔を持つ。常識外の才能を持つ者は天から授かったという意味で「ギフテッド」とも呼ばれるが、本人は「僕は天才じゃない。親が好きなことをさせてくれただけ」という。 小学生で定理発見 「最初にxまでの素数の個数を求める関数を素数計数関数といい、π(x)で表す」――。2019年3月、当時10歳、小学4年生の梶田が書いた研究発表の書き出しだ。同年に参加した研究集会の発表テーマは「スーパー双子素数の個数公式と高橋条件」。その年の瀬には、完全数にまつわる新たな定理を発見した。 「数学は勉強というより、遊びに近いのかな」。赤ん坊の頃から電卓がおもちゃ代わりだった。記号が好きで、標識や音符に目を奪われていたという。世界にちりばめられた記号「数字」に特別な興味を抱くのも自然の流れだった。 自宅の壁に張られた九九の一覧表に関心を示したのが1歳の時で、2歳になる頃には9の段まで暗記した。 「光の自由にしていいよ」。母親から何度も言われた言葉だ。学校でも頭の中は数学ばかりで授業に身が入らない。それでも、母親に怒られた記憶はない。「他の教科も勉強しなさいとか、一度も言われませんでした」。大好きな数学に時間を割くため、小学校への通学を諦めてホームスクーリングを決めた。周囲には不登校状態に否定的な意見もあったはず。それでも、両親はいつも梶田の意志を尊重した。 「教える」なんておこがましい 「我々には何もできません。邪魔をしないことだけです」。学習院大学名誉教授の飯高茂(79)は優しくほほ笑む。代数幾何で世界的に高名な飯高も、梶田の才能に畏敬の念を抱くひとりだ。小学4年生の梶田と出会い、これまでに何本もの共著論文を発表してきた。 常識外の成長曲線を描く天才の育て方を尋ねると「大人は何もしない方がいい」ときっぱり。「梶田君に私が『教える』なんておこがましい」とさえ言う。ふたりの共同研究は対等に進む。飯高がテーマを指示することは一切なく、梶田が興味を持ったことへ背中を押す。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1724969804/256
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