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純粋・応用数学(含むガロア理論)5 (1002レス)
純粋・応用数学(含むガロア理論)5 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1602034234/
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92: 現代数学の系譜 雑談 ◆yH25M02vWFhP [] 2020/10/23(金) 22:58:58 ID:TlbIDRZK >>88 中世のイタリア、数学の公開試合があったという。おっさん、時代錯誤www https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A_(%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%81%AE%E8%91%97%E6%9B%B8) アルス・マグナ (カルダーノの著書) 成立の逸話 16世紀のイタリアでは、代数方程式を解く、時に金銭を賭けた数学競技が流行していた。またその解法は当時の師弟関係の間で伝授される秘術であり、公開されることはなかった。 3次方程式の解法では、シピオーネ・デル・フェッロが研究の端緒を開けたとされているが、彼は業績を公表せず、弟子の何人かに伝授して亡くなっていた。弟子の1人であったアントニオ・マリア・フィオル(Antonio Maria Fior )は、師の解法を使って数学競技で連勝し富と名声を得ていた。そこに、ニコロ・フォンタナ・タルタリアという人物が独自に 3 次方程式の解法をみつけたという話を聞きつけた。1535年、3 次方程式 x3 + ax = b (ただし a,b > 0) の数学競技でフィオルはタルタリアに勝負を挑んだもののフェッロの解法では勝てず、勝ったタルタリアは一躍有名になった。彼はおそらく独学でこの解法の発見していたが、彼も解法について公表しなかった。 1539年、ミラノの Piatti Foundation の数学の講義で、最初の数学本『Pratica Arithmetica et mensurandi singularis』(英: The Practice of Arithmetic and Simple Mensuration、「算術と単純求積の実践」)を出版したカルダーノは、タルタリアの話を聞きつけ、同年タルタリアに彼の 3 次方程式の解法を懇願した。何度も断った末にタルタリアはしぶしぶ了承したが、カルダーノにはタルタリア自身が公表するまでは外に出さないと約束させられた。カルダーノはその後の数年間は、タルタリアの解法を元に自身でその他の型の3次方程式の解法を拡張することに没頭した。その頃タルタリアの弟子であったルドヴィコ・フェラーリは 4 次方程式の解法も発見していたが、しかしフェラーリの方法もタルタリアの 3 次方程式の公式を補助的に使っていたため公表できないでいた。 つづく http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1602034234/92
93: 現代数学の系譜 雑談 ◆yH25M02vWFhP [] 2020/10/23(金) 22:59:20 ID:TlbIDRZK >>92 つづき その後、カルダーノとフェラーリは、たまたまボローニャにいたフェッロの養子のアンニバレ・デラ・ナーヴェ(Annibale della Nave)に会うことができた。そこで彼らはタルタリア以前に解法について書かれたフェッロの論文を見てしまう。カルダーノはこのことを根拠にタルタリアとの約束に縛られずに公表できると確信した。 1545年、約束を違えて出版した事実を知ったタルタリアはガルダーノに激怒した。カルダーノは本書は自身の業績の内容だと反論したがタルタリアは聞き入れず、カルダーノに数学の公開試合を申し出た。カルダーノはこれを受け入れず、代わりに弟子のフェラーリとの試合が組まれたという。結果についてはフェラーリが大勝したとの説やフェラーリが遅刻して試合が無効になった説などがあり判然としない。 本書の出版はそれまで秘匿とされていた代数学の発展に重大な転換をもたらした。後にガリレオ・ガリレイは、この本を参考書に研究を進め、天文学の父と呼ばれるまでになった。 (引用終り) 以上 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1602034234/93
96: 132人目の素数さん [sage] 2020/10/24(土) 05:27:52 ID:qKLszrb1 >>92 >中世イタリア ではなく、近代ドイツだったな https://ja.wikipedia.org/wiki/Disquisitiones_Arithmeticae Disquisitiones Arithmeticae(ディスクィジティオネス・アリトメティカエ、ラテン語で算術研究の意、以下 D. A. と略す)は、カール・フリードリヒ・ガウス唯一の著書にして、後年の数論の研究に多大な影響を与えた書物である。1801年、ガウス24歳のときに公刊された。その研究の端緒はガウス17歳の1795年にまでさかのぼり、1797年にはほぼ原稿は完成していた[1]。 ラテン語の arithmetica(アリトメティカ)は通常「算術」と訳される[2]が、ガウスの意図したものは、今日「数論」もしくは「整数論」と呼ばれる学術的領域である[3]。D. A. を『数論研究』と訳している書物もある[4]し、高瀬正仁による最初の D. A. の完全な日本語訳の書名は『ガウス整数論』である。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1602034234/96
98: 現代数学の系譜 雑談 ◆yH25M02vWFhP [] 2020/10/24(土) 07:44:46 ID:i6I9Q5ne >>96 >中世イタリア 補足しておくと 問題の起源の話ではなく、問題を出し合って、数学の試合をして 「時に金銭を賭けた数学競技が流行していた」(>>92) 「アントニオ・マリア・フィオル(Antonio Maria Fior )は、師の解法を使って数学競技で連勝し富と名声を得ていた」(同上) って話 ガウスDAの時代なら、数冊の本(あるいは十数冊か)を見ていれば、 「この問題は、この本から取ったな」と分かったろう だが、21世紀の数学は多岐にわたるから、そんな程度で済まないだろう ”問題を出し合って、数学の試合をして”ってのが、時代錯誤じゃね? ってこと だったら、おれも、問題出すよ ”Ramanujanの 数 学のP409 (2.10),(2.11)の証明を、ここに書いてみな”(>>94) って話なんだよね(^^; http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1602034234/98
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