[過去ログ] 【ダライラマの】チベットの歴史【聖地】 (930レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
701: 04/07/31 21:25 AAS
ダライラマってすげーDQNじゃん
702: 04/07/31 21:31 AAS
>ドグラ戦争 対ニャロン 対英領インド
この時代のチベット軍って?ある程度近代化されてたんですか?
703: 04/07/31 21:33 AAS
ほとんどされてないよ
704: 04/07/31 21:35 AAS
セブンイヤーズインチベット見たらわかる。
あの時代でもSMGや擲弾筒持った中国軍に弓矢で戦ってた。
705
(1): 例の170 ◆vBOFA0jTOg 04/07/31 22:23 AAS
>>694
トゥグルク朝二代目スルタン ムハンマドがチベットのあたりに侵攻している。
ただし、大失敗してトゥグルク朝没落のきっかけとなる。
706
(2): 04/08/01 03:23 AAS
>>705
ムハンマド・トゥグルクが侵攻したのはヒマラヤ山麓までで、
チベットへは行っていないようだ。

本人は中国(元朝)まで進むつもりだったらしいが、1337年に
Kangra(今のダラムサラあたり)の城を一時占領しただけで
その後大雨で撤退した。雨で撤退したんだからヒマラヤを
越えてすらいなかったでしょう。

それ以前にも1193年にクトゥブ・ウッディン・アイバクが
チベット西部に侵攻している形跡がある。はっきりとした
記録ではないが、ある坊さんの伝記に「ホル(ここでは
イスラム教徒の意味)がチベット西部で寺を荒らし回った」
と記述されている。
707
(1): タヌキ ◆My48Vfouj. 04/08/01 14:02 AAS
>>706
 ホルをイスラム教徒と呼ぶ坊さんの伝記って?
 坊さんか史料の名前がわかったら教えてください。

 漢藏史集という史料には、西方からチベットに侵入した「上ホル」が
 フビライの手勢と争ったという記録がある。

 時期的には、ご紹介のトゥグルクの進軍と同時期かな?
708: 04/08/02 00:35 AAS
> ホルをイスラム教徒と呼ぶ坊さんの伝記って?
 
書名は mar lung pa rnam thar

当該部分は
R.Vitali THE KINGDOMS OF GU.GE PU.HRANG
に引用されています。

この「ホル」をイスラム教徒/アイバク?としているのはVitaliの推測。
実際には mtha' mi hor (国境のホル)と記述されているだけ。この推測の理由は、

・ネパール西部の王も mtha'i rgyal po という記述があることから、mtha' mi hor も
南から来た連中だろう
・荒らし回ったのはチベット西部でもヤルツァンポ沿いなど南部ばかり
・さかんに寺院を略奪してることからイスラム教徒だろう
・アイバクがインド北部を制圧した時期と一致する

というところ。
709: 04/08/02 00:37 AAS
> 西方からチベットに侵入した「上ホル」がフビライの手勢と争ったという記録がある。
> 時期的には、ご紹介のトゥグルクの進軍と同時期かな?

フビライの手勢ということならば、フビライは1294年に死んでいるので、ムハンマド・
トゥグルクの遠征(1337年)とは無関係。1337年はすでにトゴン・テムル(順帝)時代。

「ホル」という概念の変遷については、

森安孝夫 1977 チベット語史料中に現れる北方民族 −DRU-GUとHOR−
アジア・アフリカ言語文化研究 14号

をご覧になるとよろしいでしょう。
710
(2): 04/08/03 19:25 AAS
カムの北部にいる「ホル」が元朝のモンゴル人の子孫という話しを聞いたことがあるが、史料的にどこまで裏付けられるのかね
711: 例の170 ◆vBOFA0jTOg 04/08/03 23:06 AAS
>>706
いや、イブン・バットゥータが伝えるところによると、「三ヶ月行程にわたって連続する大山脈」
カラージール山の頂上の町ワランカルを占領したとある。このカラージール山は明らかにヒマラヤ。
また、インドの年代記家フェリシュタによると、インド軍が豪雨に降られたのは撤退中。
第一チベットといえど、山麓地帯に限ってだが夏の雨季にはそれなりには降る。

それと、Kangraを占領したのは2度目の遠征(確かに、1337年)で、儂の言ってる遠征は
第一回目の1329年?のもの。

ただ、このルートは本当にネパールと北インドとチベットの境界ギリギリなんだよな…。
もしかしたら俺の勇み足だったかも知れない。
一応、ワランカルに至る道が、道の片側に川、もう片側に山脈が連なっているという記述から
サトレジ川〜ヤルツァンポ川沿いではないかと推測されてるが…。
712
(1): 04/08/04 00:36 AAS
> カラージール山の頂上の町ワランカルを占領したとある。

何か勘違いしてないでしょうか。ワランガルはデカン高原東部の町で
ヒマラヤと関係あるとは思えない。

それにヒマラヤ遠征が2回あった、というのもはじめて聞いたなあ。
713
(1): 例の170 ◆vBOFA0jTOg 04/08/05 22:23 AAS
>>712
>ワランカル
類名異地。ワランガルを攻略したのはハルジー朝のカーフールだし、
そう解釈しないと大山脈の頂上云々という記述との辻褄が合わない。
らしい。

>それにヒマラヤ遠征が2回あった、というのもはじめて聞いたなあ。
手短に説明すると、M・フサインという人が唱えた説。
家島センセも支持してるみたいなんで、それなりに信憑性は高いよう
なんだが、斜に構えてみると「シナに遠征してなきゃヤダヤダ」なだけかも知れん。

東洋文庫「大旅行記 5」巻末ちょっとに詳しく載っている。
714
(1): タヌキ ◆My48Vfouj. 04/08/07 08:11 AAS
>>710
 文宗トクテムルの「弟」(笑 を祖とする「ホル王」なんてのもいるね。
715: 04/08/07 23:12 AAS
581 名前:世界@名無史さん :04/08/07 22:26
どうでもいいけど、宮崎市定は中国史家のなかで唯一、
中国の大国主義を批判した人物。「中国を叱る」という
すげータイトルのエッセイがある。内容は清の康熙帝が
清とベトナムの国境にある金山を中国側のものにしようとした
臣下を怒鳴りつけ、「大国は小国の利を奪うことはしないものだ」
と言い切った事実を明らかにしたあと、中国大陸政府の南沙諸島
問題(だったと思うが尖閣かもしれない)に対する態度を批判したもの。

未だ問題になっていないことがらをとりあげ、世間に知らせるのは聖人
だというが、このエッセイの発表年代はなんと1980年代。
今になって慌てて尖閣問題で騒ぎまわるようになった漏れたちの、
遥か先を宮崎老は歩んでおられたわけだ。
716: あぼーん [あぼーん] あぼーん AAS
あぼーん
717: あぼーん [あぼーん] あぼーん AAS
あぼーん
718: 04/08/08 21:17 AAS
川喜田二郎先生も早くからチベット問題に関して
中共を堂々と批判してるよ。詳しくは著作集を
みてね。

中国を深く知る人ほど「中共はクソ」というのを
よく知っていらっしゃる>宮崎先生・高島先生など。
平山郁夫みたいに、商売用に付け焼き刃で中共礼賛
してる馬鹿とは違います。
719: 04/08/08 21:55 AAS
61 名前:57 :04/08/08 21:48
「その理屈」って中華民族論のこと?

私は中共の言う「中華民族論」とは何かを叙述しただけで
それが良いことなどとは一言も言ってませんが?

だいたいみんなが黄帝の子孫とかナンセンスもいいとこ
中華民族論は各部族の平等の実現でもなんでもなく
少数民族を漢族に同化させ、無理やり中国国民としての一体感を作り出そうとするもの
そのために都合の良い歴史の解釈まで行っている
720: 04/08/08 21:58 AAS
チベットでの中国人支配は、残酷を極めました。多くのチベット人が拷問され、人権は完全に踏みにじられたのです。少なくとも120万人のチベット人が死亡し、少なくとも6千カ所におよぶ仏教寺院が破壊され、数え切れないほどの美術品やチベットの文化遺産が破壊されました。
外部リンク[html]:www.sftjapan.org
721: 04/08/09 04:41 AAS
文革期の西蔵って?
722: 04/08/09 11:07 AAS
「西蔵」はチベットの一部分。チベット人がいうところの
ウィ地方・ツァン地方・ガリ地方と、カム地方の西半分。

中国による行政区分では、その他のチベットの各地について、

カム地方の東半分は四川省。
南部は雲南省。
アムド地方の中央部から西部にかけては青海省。
アムド地方の東部は甘粛省。
アムド地方の東南部は四川省。

という具合に分断されている。
723: 04/08/09 14:52 AAS
じゃあ日本語でもチベット自治区じゃなくて
西蔵自治区と呼んだほうがいいね。
724: 04/08/09 19:01 AAS
自治区以外のチベットに住むチベット族はどれくらい?
725: 04/08/10 22:39 AAS
>>713
イブン・バットゥータは抄本しか読んだことなかったが、東洋文庫読んでみた。
家島先生は、ずいぶんA.M.Husainの影響受けてるんですね。だけど
専門がイスラム史なんで、残念ながらヒマラヤ・チベット関係の考察は全然ダメ。

いろいろ調べたけど、ヒマラヤ遠征が2回(ひょっとすると3回)あった可能性は
ありうるが、チベットまで入っている可能性はまずないでしょう。

14世紀の(ほぼ)同時代史料の中では、ChachがNagarkot遠征(1337年という
年号あり)を記録、BaraniとIbn-BattutaがQarachil遠征(年号不明)を記録している。

1600年頃の史料(FirishtaやBadauni)では、これらを統合して「1337年に
Himachal遠征(具体的な地名なし)を行ったが撃退された」と記録している。

一般にはこの見解が支持され、「ヒマラヤ遠征は1337年に1回だけ、Nagarkot占領」
という説が優勢。
726: 04/08/10 22:40 AAS
これに異を唱え、「1329-30年のQarachil遠征と1327-28年のNagarkot遠征の
2回あった」と主張したのが、

Agha Mahdi Husain (1938) THE RISE AND FALL OF MUHAMMAD BIN TUGHLUQ
Agha Mahdi Husain (1976) TUGHLUQ DYNASTY

家島先生や『中世インドの歴史』などもHusain説を採用している。

Husainは、Nagarkot遠征(1337年)とQarachil遠征は別ものと推測。
別ものとする根拠は、Chachは「ムハンマド王の親征」と記録しているのに対し、
Ibn-Battutaは「司令官を派遣した」と記録している、だから別、と、これだけ。
727
(1): 04/08/10 22:41 AAS
だが、Chachの記録は詩というか王に捧げる賛歌で、王自身を美化して過大に
表現している可能性がある。「実は親征していない」というのが事実かもしれない。

Ibn-Battutaは、Qarachil遠征について2度記しているのだが、司令官の名は
1つはMalik Yusuf Bughra、もう1つはMalik Nakbia。これは2回の遠征に
別々の司令官を派遣したと言ってるのか、1つの遠征だけど勘違いで
(Ibn-Battuta結構多い)別々の名を記しているのか、何とも言えない。

家島先生は、Malik Yusuf Bughraの遠征の方をNagarkot遠征と同一視
しているが、それだと「ムハンマドの親征」と矛盾するので、その辺は
むにゃむにゃとごまかしてるw。
728: 04/08/10 22:41 AAS
Husainは、Qarachil遠征の時期は1329-30年と推測。これは、Ibn-Battutaが
記録している内容は伝聞であり、それはBattutaのインド到着(1334年)以前の
事件に違いない、また、Qarachil遠征のすぐ前にKishlu Khanの反乱(1327-28年)
が記述されているからその直後だろう、ということらしい。

だが、これらは直接年代を示す証拠にはなり得ない。時期について言えることは
Ibn-Battutaがインド滞在中(1334-42)に聞いた話ということだけ。
Ibn-Battutaの記録だけから、Qarachil遠征の時期についてこれ以上突っ込んだ
議論は不可能。

またもし2回あったなら、Ibn-Battutaがインド滞在中に起きたはずの重大事件
「ムハンマド王のNagarkot親征」の方は全く記録していないのも奇妙だ。
この辺は家島先生もあえて踏み込んでいかない。
729
(1): 04/08/10 22:42 AAS
Qarachil遠征については、Ibn-Battutaの記録が最も詳しい。しかしこれを見ると
ヒマラヤを越えたとはとても思えない。その内容を簡単に記しておくと、

・Malik Nakbiaと10万の騎兵を含む大軍をQarachilに派遣した。
・山麓にある町Jidyaを占領し、周辺地域を破壊・略奪。住民は山の上に逃亡した。
・山上の町Warangalを占領した。
・Malik Nakbiaはムハンマドにこの征服を伝え、駐留指令を受けた。
・駐留中に雨期が始まり、病人が相次ぐ。
・撤退を開始したが、谷底の道で住民の待ち伏せに遭い、太い丸太を山の上から
落とされて軍はほぼ全滅した。
・デリーに戻ったのはMalik Nakbiaを含む3人の司令官だけだった。
・その後ムハンマド王は山岳民の入貢を受入れ、山麓平野部での農耕を許した。
・シナから使節が訪れ、かつてトゥグルク軍が占領したQarachil麓の町Samhalに
寺院を再建する(シナ人が巡礼に訪れる場所であったが先の遠征で破壊された)
許可を求めたが、ムハンマド王はこれを拒否した。

というものだが、
730
(1): 04/08/10 22:42 AAS
まず高山(ヒマラヤ)越えを示唆するような記述がない。氷河・万年雪、高山病などの
記述は皆無。

次に、「麓の町Jidyaを征服後、住民は山の上Warangalに逃げた」ということで、どうも
麓の町から山上の町まではそれほど距離はなさそうだ。「ヒマラヤ山麓の町から
ヒマラヤを越えてチベットの町に逃げた」と解釈するのは難しかろう。

それに、トゥグルク軍は撤退時に太い木を切って作った丸太を山上から落とされて
全滅している。森のないチベットやヒマラヤ高山での出来事ではないだろう。
雨期の記述もチベット、ヒマラヤ高山らしくない。

それに、遠征軍司令官はデリーのムハンマド王と何度も書簡を往復させており、どうも
ヒマラヤの彼方にある遠隔地という雰囲気はない。
731
(1): 04/08/10 22:43 AAS
実は、この辺の記述はNagarkot遠征と解釈すれば、非常につじつまが合う。

麓の町JidyaとはJwalamukhi(Jwalajiとも呼ばれる)かもしれない。Jwalamukhiは
Nagarkotの南東35km、平野部の町。

Nagarkot城は三方を崖に囲まれた山上にあり、その登り口はIbn-Battutaの記述通り
騎馬兵は一列縦隊で通るしかないような狭い道。

Nagarkotの南方は今も森深いシワリク丘陵が広がっていて、太い丸太を切り出すのも
容易だし、丸太を山上から突き落とせる谷もたくさんある。

さらに山岳民は麓の平野に農地を持っており、農耕の許可(どうも平野部はまだ
トゥグルク朝が抑えていたようだ)をムハンマドに求めているのだから、どう見ても
チベット高原の話ではない。
732
(1): 04/08/10 22:44 AAS
Ibn-Battutaの東洋文庫の解説で、家島先生はQarachil遠征の推定ルートを地図に
記している。

デリー→シムラ→サトレジ川を上流へ→スピティ方面へ北上→ラダック東部の高原
地帯→インダス川を上流へ→カイラス山・マナサロワール湖→ヤルツァンポを下り
ラサ方面へ?

が、これは何の根拠もない。妄想みたいなもの。地名比定がひとつもできていない
のに、堂々といいかげんなルート図出しちゃうなんて、まともな学者のやることとは
思えない・・・。

それにこのルート、何万もの騎馬兵が通れるようなルートではない。家島先生は、
19〜20世紀の旅行記(Thompson、Gerard、Francke、Tucciなどたくさんある)を
読んだことはないらしい。
733: 04/08/10 22:44 AAS
というわけで、ムハンマド・トゥグルク時代のヒマラヤ遠征は1337-8年の1回だけで、
それはNagarkot遠征という説の方が有力だとは思っているが、2回(ひょっとすると
3回)あった可能性は捨てきれない(誰が軍を率いたかを重視すれば)。ただし、
Ibn-Battutaの記すQarachil遠征の内容はおそらくNagarkot遠征の内容だろう。
チベットへ行っているような証拠は見つからない。
734: 04/08/11 12:21 AAS
>>666の掲示板を
見ると中国人は本当になにも知らない
ようだね。
どうやったら信じてもらえるかな。
735: 04/08/12 00:19 AAS
う〜ん、つまりはチベット遠征など無かったと?
736
(1): 例の170 ◆vBOFA0jTOg 04/08/15 00:28 AAS
>>727
>だが、Chachの記録は詩というか王に捧げる賛歌で、
なんと(;´Д`)
>>729-731
確かに、つじつまを合わせるのはその解釈の方が容易く、真実とするに妥当ですね。
>>732
>が、これは何の根拠もない。
う゛ぇっ。フサインさんの論文とかからが出典と思いきや…
>19〜20世紀の旅行記(Thompson、Gerard、Francke、Tucciなどたくさんある)を
>読んだことはないらしい
ああ耳が痛い耳が痛い。

あーはっはっはっは。どんな凄い先生も、専門外のことは全く当てにならない
という事ですねはははははorz
737: 04/08/15 01:47 AAS
>>736
実はHusainは、もう一つ「あんまり当てにならない史料」を使って
「Warangal占領後さらにチベットへ進んだ」という説を立てていて、
家島先生はその影響を強く受けたようです。

ところが家島先生は、その「当てにならない史料」に関してひとことも
触れないので、東洋文庫だけ読んでも「チベットまで行った」説が
どこから出てきたかさっぱり理解できないわけです。
738: 04/08/15 01:49 AAS
>>707
> 漢藏史集という史料には、西方からチベットに侵入した「上ホル」が
> フビライの手勢と争ったという記録がある。

13世紀後半、ディグン・カギュ派と連合して元朝・サキャ派連合軍と
対立した「stod hor」の正体については、

乙坂智子 1990 元朝チベット政策の始動と変遷 史境20号

で詳しく論ぜられてる。

ここでは、ハイドゥ or ドゥアという説にやや傾きつつも、
結局「決定に資する材料はない」と、結論は保留されてる。
739: 04/08/15 01:50 AAS
一方、乙坂氏に手厳しく批判されているのが、スタン&山口瑞鳳が
提唱する「イル汗国・説」。

まあ、1265年に死亡したはずのフレグ自身が1267年に寄進したり、
1290年にディグン派に援軍を送ったり、という、素人が見てもヘンな
記述があるのは事実だし、「イル汗国と元朝の対立は不合理」という
のも、まあ説得力はある。

でも、一部の史料では、フレグが「stod hor rgyal po hu la hu」と
呼ばれていたり、チベット西部(ツァン西部からラダックまで)に
領地を与えられてる(定説とはされていないが)のは、もう少し
検討されていいはずだ。

というのは、ディグン派は13世紀にチベット西部(グゲやラダック)に
拠点を持っていたし、当時チベット西部に「stod hor」という集団が
ちょこちょこ顔を出すのも事実(ディグン派やカルマ派関係史料)。
740: 04/08/15 01:50 AAS
まあ、一気に「stod hor=フレグ家勢力」説に傾くほど強力な証拠では
ないが、もう少し掘り下げる価値はあるような気がする。

フレグ・ウルス本土から中央チベットに派兵するのは無理としても、
もし「チベット西部=フレグ家所領」説が事実だとすれば、
ディグン派を支援した「stod hor」はチベット西部に駐屯していた
フレグ家手勢が出兵したもの、という説は成立する可能性が出てくる。

どっちの説にしろ、もう少し材料がないと結論は出せませんな。
741: 04/08/28 23:34 AAS
シャンシュン王国というのはほとんど伝承上の国なの?
742: 04/08/29 00:20 AAS
シャンシュン討伐の話は、敦煌文書にすでに出てくるから史実でいいでしょ。
シャンシュン都のキュンルンという地名も現存してるし、そこには大きな
遺跡もあるらしい。ただわかってないこと多いみたいだけど。
743: 04/08/29 17:40 AAS
19 :名無しさん :04/08/22 12:18 ID:Aa1Ec5yy
それどころじゃないよ。 大学の友達に聞いたんだけど、NZ生まれの人が若いひとを中心に100万人ほど
NZからそとに出ようとしてるらしいよ。 
俺はそれ聞いたとき、「は、100万人?1万人の間違いじゃなくて?100万人っつたら全人口の4分の1じゃん。」
って思ったんだけど、結局その後にもネイティブの友達にそのことを話したら、「当然だろ?」みたいな顔をして驚きも
しなかったんだよ。10年前までは300万人だった人口が、今は100万人の中国人とインド人を中心としたアウトサ
イダーによって400万になったけど、また100万人のピュアキウィが出て行くから…、
…いよいよニュージーランドの中国化が現実になってきましたね! 少しさびしいよ
744: 04/08/29 19:43 AAS
>>710
> カムの北部にいる「ホル」が元朝のモンゴル人の子孫
> という話しを聞いたことがあるが、史料的にどこまで
> 裏付けられるのかね

>>714
> 文宗トクテムルの「弟」(笑 を祖とする「ホル王」なんてのもいるね。

これは14世紀以降、ナクチュ〜ソク・ゾンあたりを支配してきた
ホル・ギャルポ(霍爾王)のことですな。

元皇帝トク・テムル(文宗)の弟グロン・オロン・タイジが6人の従者と共に
サキャ寺に向かう途中、ソク地方で道に迷いさまよったが、よい牧地を見つけ
そこに定着した。子がなかったので、トク・テムルの次子ウユク・ギャルを
後継者に迎えた。その後ナクチュ〜ソク・ゾンの蔵北諸部族を支配し、
彼らは「ホル三十九部」と呼ばれた(被支配層はチベット人)。

というのだが、限りなくウソ臭いw。
745
(1): 04/08/29 19:45 AAS
元史や新元史では、ハイシャン(武宗)の息子はクシャラ(明宗)と
トク・テムル(文宗)の二人しか記録にない。記録に残っていない庶子の
弟がいたという可能性はあるかもしれないが裏付けは取れない。

トク・テムルの次子ウユク・ギャルというのも怪しい人物。記録に残っている
トク・テムルの子は、アラドナダラ、エル・テグス、タイピンヌの三人。
皇太子アラドナダラはトク・テムルより先に死去、タイピンヌも早逝とされる。
次子エル・テグスはトゴン・テムル(順帝)即位後、高麗へ流される途中で
殺害されている。ウユク・ギャルに相当する人物は見当たらない。

ウユク・ギャルも記録に残っていない庶子、という可能性はあるかもしれないが
やっぱり裏付けは取れない。
746: 04/08/29 19:46 AAS
トゴン・テムルの即位後、トク・テムル一派の粛清が始まっており、
その難を避けるためにトク・テムルに近い皇族が逃亡した、というストーリーは
一応筋が通るが、それにしても逃げた先がイナカすぎ。

河西あたりには、小領地を与えられたモンゴル王族がたくさんいて(フビライ家、
オゴタイ家、チャガタイ家など様々)、後に土族の首領(いわゆる土司)になった。
その中の食い詰め者がチベットへ行き、その兄の名がたまたまトク・テムルで、
後に元皇帝トク・テムルと混同されたという話なのかもしれない(裏付けは取れないけど)。

フビライ家or元朝にこだわるならば、平西王−鎮西武靖王(オクルクチ家)の
家系とか、朶甘思(mdo khams)田地里管軍民都元帥府関係者あたりも
考慮していいかもしれないが、調べた人は誰もいない。
747: 04/08/30 23:10 AAS
>太陽熱発電
技術的な進歩は全然知りません。勉強したいです。
教えてくださいまし。。
3年前にチベット行ったんですがラサ(海抜約3600m)は
太陽電池のパネル、街中で結構売ってました。
太陽熱じゃなく太陽光発電でしょうけど。
強い日差しを利用してお湯沸かせるくらいです
から太陽エネルギーによる発電コストもいいん
でしょうね。裕福な漢民族と一部のチベタンしか
買えないんでしょうけど。。。もしかすると公的
な援助もあるのかもしれません。
748: 04/08/30 23:11 AAS
日本も日射きつくなってるのにな
749: 04/08/30 23:16 AAS
>>745で紹介されているホル族とかその王統に関する
資料とか研究とか、どんなのがある?
750
(1): 04/08/31 00:26 AAS
中村淳「チベットとモンゴルの邂逅ー遥かなる後世へのめばえー」
『岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合』p.121-146
751: 04/09/02 20:39 AAS
>>750
これは、元代の「上手のモンゴル(stod hor)」の話題はあるけど、ホル・ギャルポの
話題はない。

ホル・ギャルポの系譜に関する一次史料は

『hor tsho so dgu'i lo rgyus mdor bsdus(霍爾三十九部簡史)』

著者、成立年代などは知らない。近年に編纂されたものかも。

『西藏文史資料選輯 第12巻』 民族出版社 1990

に収録されているらしい。
752: 04/09/02 20:40 AAS
アプローチしやすいのは、

格勒ほか・編著 1993 『藏北牧民−西藏那曲地区社会歴史調査』
中国藏学出版社

ホル・ギャルポの系譜と歴史が解説されている。
ホル・ギャルポとかホルセル・カンガ(ホル五公国)について
研究してるのは、中国でもゲレク先生(出身はカンゼ)だけ。
753
(1): 04/09/03 04:02 AAS
アメリカはイラク、ロシアはチェチェン、中国はチベット、大国は弱いものいじめばかりする
754: 04/09/03 12:52 AAS
チベット自治区が本来のチベットじゃないっていうのは
亡命政府の公式見解なの?
755: 教えるくん ◆ySY1M855I2 04/09/03 14:47 AAS
チベットは、アムド、カム、ウー=ツァン、ガリなどの藷地方
から構成されています。

中国政府のいう「西蔵」は、この領域のうち、ガリ、ウー=ツァ
ン、カムの西部の部分に対する呼称です。

チベット亡命政府は、チベット全体を代表する政府を自認してい
ます。
756
(1): 04/09/03 20:34 AAS
>>753
だからみんな利害が一致してるんで、チベットについても中国に何も言わないわけ。
757: 04/09/03 20:51 AAS
もしチベットが独立したらってスレ誰か立ててみたら?
758: 04/09/04 04:54 AAS
>>756
本当に嫌になるよ、「テロとの戦い」ってなんだよ
759: 04/09/13 18:27:53 AA×

外部リンク:homepage3.nifty.com
760: 04/09/13 20:45:15 AAS
チベット頑張れ!
761: 04/09/14 20:56:11 AAS
中国チベット自治区の武継烈副主席は19日、チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世に対し、
チベットを中国の一部と認める声明を発表するよう要求した。副主席はラサ市内で外国人記者団と記者会見した。
インド亡命中のダライ・ラマ14世は既に独立を取り下げ、香港やマカオの「1国2制度」のような高度な自治を求めている。
しかし武副主席はダライ・ラマ側の変化を一切認めず、
(1)中国が唯一の合法政権(2)チベットが中国の不可分の一部(3)台湾は中国の1つの省
と認める「公開声明」を出すよう求めた。副主席はチベット仏教の僧侶は「国を愛する責任を負っている」と述べ、
中国政府の意向に反する動きを強くけん制。過去にチベット独立運動の先頭に立ってきたチベット仏教の僧侶に対し、
中国政府の政治思想などを植え付ける「愛国教育」を続けていることを明らかにした。

外部リンク:www.nikkei.co.jp
762: 04/09/14 20:59:06 AAS
中国・日本・韓国の3国が3億円を共同投資するアニメーション映画「金玉鳳凰」プロジェクトが正式に調印され、
このほど、シナリオ製作の段階に入った。同映画はアジアの三大アニメ大国それぞれの得意分野を結集する初めての映画。
市場の共有も見込まれる。ストーリーは中国の蔵族(チベット族)の民話を元に構成する。
監督には、かつてアニメ「名探偵コナン」の劇場版を手掛けた日本人監督を起用。
韓国と中国はそれぞれの得意技術を生かして製作を担当する。中国側による具体的作業は上海美術電影制作廠が担当する。
現在、3国の製作スタッフがシナリオの作成と修正を行っている。
映画は2006年の年末年始に中日韓で同時上映される予定だ。

外部リンク[html]:people.ne.jp
ああ、こうやって既成事実化に日本も巻き込まれるのか…
>ストーリーは中国の蔵族(チベット族)の民話を元に構成する
大丈夫なのか?>日本人監督
763: 04/09/14 21:03:52 AAS
中国の暴走は凄いな。それを報道しないテレビNHKなんてひでーもんだ

最近まで、なんでこれほど「一つの中国」って主張をかたくなに通すのか
わからんかった。
しかし、ある歴史の本を買ってみたら、非常に面白いことが書いてあった。
それによると、(日本では、日本史のように統一政権が連続しているように
中国史が語られているが)中国は分裂国家の時代もけっこうあったこと、中央
の地方からの収奪がなくなると逆に民が栄えているということの2点。

結局、1つの中国とこだわるのは、逆に「1つの中原、それぞれの民族国家」
がいいと言われるのを極端に怖れているんだな。
この意味では、「中華とは北京周辺だけですね。」とか「1つの中国とは1
つの中原、それぞれの民族主権ですね。」と言えばいいのでは。
中共の呼び名はもう古い。今は中帝だ。
764: 04/09/14 21:06:26 AAS
マルクス主義的な中国風の名前がチペット式の名前に取ってかわり、建物や道路、
広場などに名付けられた。また、チベット人の多くが中国風に改名させられもした。
ダライ・ラマの夏の離宮ノルブリンカは「人民公園」になった。
チベット語は中国語の単語と言い回しによって徐々に侵食されていった。
「チベット自治区」のある中国人官吏は、『チベット民族特集 1965〜1985』
という著書のなかで、チベット語の使用と学習を妨げる政策を批判的にこう書いている。
「チベット人の先生とチベット語翻訳のできる人間が、とても少なくなっている。
その結果、チベット語と中国語の両方において、公文書の利用や発行がとても骨の折れるれる作業となった。
チベット語を正しく読み書きできないチベット人役人がひじょうに多い。
党の政策をチベット人に布告することもできない。」
外部リンク[html]:www.tibethouse.jp

チベット人は、名前も言葉も奪われた。
765: 04/09/25 03:00:01 AAS
プロ市民ってなんでチベットの人権弾圧を支持しているの?
「宗教は阿片」というマルクス主義の教義からでしょうか?
766
(2): 04/09/25 17:56:30 AAS
人権弾圧など存在しません。
社会主義国で民族差別など存在するはずがありません、全ては帝国主義勢力の反動的策動です。
767
(1): 04/09/25 18:06:24 AAS
>>766
というのを真に受けてる馬鹿ってかなりいるんかね?
どうなんだろう?
768: 04/09/26 01:11:18 AAS
>>766
入院したほうがいいですよ
769: 04/09/26 01:13:10 AAS
だって、今の中国って中華民国から奪っただけじゃんそれもいつまでもつやら
770: 04/09/26 01:20:56 AAS
外部リンク[html]:www.tibethouse.jp
ダライラマが精力的にがんばってるぞ
771: 04/09/26 10:46:22 AAS
新華社電によると中国中部の河南省の山間部で25日、
陸軍機械化歩兵師団による多数の戦車、ヘリコプターなどを動員した大規模な実戦演習「鉄拳2004」が行われ、
インド、パキスタンとASEAN、上海協力機構加盟各国など周辺16カ国の軍首脳、駐在武官ら約60人が参観した。
中国軍がこれまで公開した演習の中で、最もハイレベルで多数の外国軍関係者が参観した。
新華社電は今回の公開について「中国軍への誤解を解き、地域と世界の安全に責任を負う大国のイメージを確立する」
とした軍事専門家の見解を伝えた。中国軍がアジア地域の安全保障の一角を担う存在であることを、
周辺国に誇示する狙いがあるとみられる。 

外部リンク:headlines.yahoo.co.jp
772: 04/09/26 10:48:01 AAS
だからチベットと関係ない記事のコピペはやめれ
773: 04/09/26 10:48:43 AAS
日本も、米軍に倣い、海上自衛隊の尖閣列島海域での作戦のための
訓練に励んでいるそうだ。
月刊誌『現代』に出ていた。
中国の一番の狙いは、天然ガス以上に、台湾侵攻の足場確保だそうだ。
774: 04/09/26 10:55:51 AAS
日本女子大の有賀友美さん、かわいい
775: 04/09/27 23:33:23 AAS
>>767
社会主義礼賛って「定型」しか存在しないから、
本気なんだか釣りなんだか判別できないね。
776: 04/09/27 23:35:56 AAS
要するに既存文面の丸写ししか出てこない。
本気にしても釣りにしても読む価値のある内容は皆無。
社会主義という文化が、いかにレベルが低いかということが
わかるだけ
777
(1): 04/09/30 15:17:36 AAS
アタイだけが 777げとー     
778: 04/09/30 17:31:11 AAS
>>777
ご利益の経験は?(;^_^A アセアセ・・・
779: 04/09/30 18:30:13 AAS
7のご利益、ここんとこないぞヽ(`Д´)ノ
ジンクスは効かなくなったら止めるべし。(゚-゚)(。_。)
780: 04/09/30 18:31:36 AAS
だから、ここぞという日に、面白いものの少ないヤングアニマル
買うの、金輪際止めることにした(;´д`)
781: 04/09/30 19:53:16 AA×

外部リンク:.:
782: 04/10/01 21:48:33 AAS
黄河の水源が、コロラド川同様、枯渇
チベットは、これよりマシなのか?
783
(1): 04/10/03 22:20:09 AAS
NHKスペシャル観ましたか?天空の湖、殺生を禁じていたり
なんか、あんなとこまで文化大革命のおばかさん達が来たり
784: 04/10/04 02:44:09 AAS
>783
漢族の紅衛兵が大挙押し寄せて寺をブッ壊して回ったわけじゃないんだよ。
少数の漢族紅衛兵が地元のチベット人を脅迫して壊させたんだよ。
「共産主義教育の結果、チベット人が自発的に壊しました」っていう
アリバイ作りだよ。>しかし結局は廃墟の寺の山を見て、誰もが
「文革って恐ろしいね。共産党って恐ろしいね」としか思わないw。
紅衛兵の作戦逆効果だったな。
785: 04/10/06 16:28:10 AAS
文革時代のチベットなら『雪の国からの亡命』を読むといい。

ギェンロク(造反派)とニャンデル(穏健派)の内ゲバやら
部下の王其梅と周仁山を生贄にして自分はトンズラした張国華の
糞っぷり、やら、紅衛兵のお寺ぶっ壊し、宝物略奪、集団強姦、
父娘性交強要まで全部わかる。

個人の体験なら『雪の下の炎』を読むといい。しかし文革時代の
本はどれ読んでも胸くそ悪くなる。漢族の本性が丸出しになった
時代だ。本質は変わってないだろ。
786: 04/10/08 03:14:58 AAS
文革時代には、チベット文化抹殺活動のあまりの酷さに
チベット人の怒りが爆発して、各地で蜂起も続発したのだが、
漢族の内ゲバに隠れてあまり記録が残っていない。

最も有名なのは1969年ニェモ(尼木)県で起きた
尼僧ティンレー・チュードンらの蜂起。ニェモ県府に
押し入って漢族幹部を皆殺しにした後あちこちで
ゲリラ戦を行った。最終的には解放軍に包囲されて
つかまり公開処刑(<野蛮)されてしまった。

もっともこのティンレー・チュードンはギェンロク
(造反派)に属していて、この蜂起には文革の内ゲバの
要素もあるらしいのだが、記録が少なくてよくわからない。
ニェモ県にはこの事件の写真などを展示した博物館が
あるらしいが行ったことある人はいないだろうな。
787: 04/10/08 12:08:48 AAS
チベット人の紅衛兵もいたの?
788
(1): 04/10/08 23:21:40 AAS
チベットの若い世代はインドのポップカルチャーに夢中で
仏教に興味を無くしてるそうです。
789: 04/10/09 10:33:59 AAS
インド好きならインドには好都合
790: 04/10/09 10:34:57 AAS
インド映画みたいに踊るの?
791: 04/10/09 10:43:17 AAS
確かにお経読むより救われそう
留学 もできるの?
792: 04/10/09 11:01:33 AAS
中国の愛国カルチャーに染まるよりゃずっと健康的だ。
793: よろずこ 04/10/10 19:51:19 AAS
>>788
今から千年以上前、
チベットの若い連中が印度のタントラに夢中で
観世音菩薩を勧請しちゃったようなもんか?

ほんとはしらん。
794: 04/10/16 10:39:20 AAS
インド万歳
795
(2): [sage] 04/11/07 05:23:25 AAS
ラサから新疆に通じる南北直行ルートって存在したのでしょうか?
ムチャ過ぎるか・・・
796: 04/11/07 08:08:56 AA×

外部リンク:.:
797: 04/11/07 08:59:48 AAS
チベットって中国に併合されたの何年?
798: 04/11/07 22:12:19 AAS
>>795
ラサ−ゴルムド−敦煌ルートは
充分、南北直行ルートだと思うが
799: 04/11/07 22:31:09 AAS
1949年7月8日 チベット政府がラサ駐在の中国政府(国民政府)の官吏を追放
1950年10月 中国人民解放軍がチベット東部のチャムドを占領
1951年5月23日 チベット政府代表団が北京で17条協定に調印。中国のチベットに対する主権を認める
1951年9月9日 中国人民解放軍がラサ入城
1959年3月10日 チベット動乱でダライ・ラマがインドへ亡命
1959年4月29日 ダライ・ラマがインド北部のムスーリーに亡命政府を樹立(翌年ダラムサラへ移転)
800
(1): 04/11/07 22:36:13 AAS
20世紀はじめにはラサが英国に占領されてましたな
801: 04/11/07 23:33:23 AAS
>>800
英国がラサを占領したのは何年?
802: 04/11/08 11:34:05 AAS
外部リンク[wmv]:jya.jp
チベット問題から必死で話をそらす田原総一郎司会者
803: 04/11/10 13:38:08 AAS
【チベット】テンジン・デレク・リンポチェを救え
2chスレ:china
804
(1): 04/11/21 16:30:38 AAS
チベットにしろウイグルにしろ、この問題は右派的なアプローチばかりではなくて
もう少し左派も関心を持つべきではないのか
日本だけじゃないのか、このネタが右派の中国叩きの材料にされてるだけってのは
805
(1): 04/11/21 16:50:44 AAS
サヨは氏ね。さっさと朝ピー配達事務所へ帰れ。
806: 04/11/21 22:02:54 AAS
>>804
日本では問題の存在そのものが隠蔽されているような状況だ。右翼の道具やら左翼の道具だのといったレベル
の話ですらないだろう。知ってしまった人間がどういう立場かに限らず人として間違ってないか?中共政府は
と、思うのが普通ではなかろうか?
アメリカとかでも議会ロビー活動なんかで当然そういう動きはあるわけだしね。

ということで>>805激同!!
807
(3): 04/11/23 13:18:49 AAS
むしろ右派がどうしてチベットを論じるのか?
この手の独立、少数民族問題ってのは他にも世界中にあるわけで
なぜチベットだけに固執するのか?
日本の国益を何より大事にし、地球市民を論難する保守派の皆さんが
日本にとっては完全に他人事であるチベット問題にどうしてかかずらうのか?
808: 04/11/23 15:12:30 AAS
ほんとなんででしょうね
チベットが日中戦争中に日本に味方(まではしていないか)してたからとか
まっ、保守派とウヨは違うと言う事で
809: 04/11/23 18:47:38 AAS
右派というか右翼でもいいかな?民族自決の援助とかってやってるよ。
カレン族とかのは有名でしょ?
まぁ、いずれにせよ主立ったサヨが中国というだけで思考停止に陥ってる部分がまずいんじゃないかい?
田原某の一件なんかまさしくその際立った所じゃないかね?

まぁ右でも左でも中共政府関係者が居る場所でデスクトップの壁紙にチベットに自由を!な壁紙張ってたり
なんかの折にチベット独立させろやとか言ってたからなぁ(w
きっと北京に降り立てないリストに載ってそうだ。
810: 04/11/25 19:48:35 AAS
今夜10:10からBSでチベットサッカー特集やるよ!
811
(1): 04/11/26 01:08:39 AAS
>>807
おれは政治も歴史もまったく疎いが、古来からの大乗仏教が
生活に根ざしているという点でチベットに興味があるけどな。
812
(2): 04/11/28 09:19:55 AAS
>>811
チベット仏教は大乗仏教じゃないでそ。じゃ何なのかといわれると困るけど。
1)上座部(小乗)仏教の一種
2)大乗でも小乗でもない密教
3)密教だが基本的には小乗仏教
などいろんな言われ方してる。要するに小乗密教なのかな。
小乗なのに密教ってのはなんとなく語義矛盾でおかしな感じだけど。
813
(1): 04/11/28 15:02:35 AAS
>>812
おいおい、チベタン仏教は大乗の教えだよ。そのうちの金剛乗に偏ってるけど。

まぁ、学者とかで小乗/大乗/金剛乗の三つに分ける人もいるけどね。
814: 04/11/28 16:14:20 AAS
こないだ朝日にケサル叙事詩の記事があったね。いい取材だった。
朝日のチベット記事は、中共支配マンセー記事とまともな記事が交互に来る。
能無し左翼ジジイと若手のせめぎ合いが続いてるようね。
815: 04/11/28 17:47:54 AAS
>>812-813
大乗/小乗/密教とわけて、密教でそ。
816: 04/11/28 23:00:14 AAS
金剛乗=密教の乗り物で、上座部系仏教密教。
方便の教えをうまく使いながら密教的に発展させたのがチベット仏教。
今の大乗教が上座部教を否定しないけど軽視しているのは確か
日本の大乗教に至っては大乗の大乗だから最大乗?(ちが
817: 04/11/28 23:09:45 AAS
812=815は頭悪いな。
818
(1): 04/11/29 02:34:17 AAS
>>807
そりゃあ、「日本は過去の侵略を何故認めないのか、何故反省しないのか」
「南京はナチスのホロコースト並」などといわれ
と怨念のように中国に責められて日本の50年前に滅びた帝国主義を批判されて
実際、中国様が今現在やってることはナチス以上の残虐性であって
反省以前に認知すらしてない状態なわけで
文句言いたくなるのは当然じゃないの。
819: 04/11/29 03:09:23 AAS
チベット仏教は顕密併修ですよ?
それに最大宗派のゲルーの場合、坊さんは、最低二十年かかる顕教
のカリキュラムを卒業したものしか、密教のカリキュラムへは進め
ない。

チベット業界の人でチベット仏教が「密教に偏ってる」って、いま
本気で主張する人はいないよ。
820: 04/11/29 03:14:46 AAS
>>795
 十八世紀の初期から存在しましたよ。
 その昔、ジュンガル部のツェリン・トゥンドゥプ氏が六〇〇〇の兵隊を率い
 てこのルートを南下し、みごとラサを占領しました。しかも真冬に。

 ラサに到達したときは、戦わずして兵力は三〇〇〇に半減していたそうですが。
821
(1): 04/11/29 05:45:38 AAS
昨夜、スナック「シャンバラ」に行ってきました。
なぜかチベットの雰囲気は全くなく、金髪美人ばかり。
822
(1): 04/11/29 10:14:25 AAS
>>818
現在進行形でナチ以上?それってどんなん?
823: 04/11/29 12:15:11 AAS
>>821
スナックに世界の王とかがいても困ると思うが
824: 04/11/29 12:16:27 AAS
チベットでは民族浄化が進んでいるのもしらんのか。
825: 04/11/29 14:57:26 AAS
真言宗って大乗仏教?
826: 04/11/29 18:48:44 AAS
金剛乗。
827: 04/11/29 22:32:57 AAS
チベット人自身は、インドで成立した大乗仏教を、仏教圏諸国のなかで最も
完備した形で受け継ぎ、そのままの形で忠実に伝承してきたと自負している。
1-
あと 103 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.068s