[過去ログ] 戦国ちょっと悪い話45 [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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(1): 2017/07/17(月) 09:31:56 ID:PQvx1qrF(1/2)調 AAS
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
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書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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2chスレ:sengoku

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戦国ちょっといい話45
2chスレ:sengoku
876: 2018/06/20(水) 14:29:44 ID:v/cke0Ys(1)調 AAS
氏郷の病状は医学天正記にも書いてたな
確かまとめにもあったような…
877: 2018/06/22(金) 17:15:43 ID:K53k58Oq(1)調 AAS
陣佐右衛門一揆の長四郎が首を取る事

一揆の長、四郎が首を細川家の足軽陣佐右衛門取りけり。二の丸にて鉄砲に中り、倒れし
者の首を斬りしに、忠利前髪有る首を選り出させ、鞭にて彼首を指し、四郎が首とも覚し
きに、誰か見知りたる、と問う。須佐見権之允、四年以前に四郎を召使いし事の候。紛い
無き四郎なり。左の耳の下に瘤の候。是其証なり、とて生捕りたる四郎が母に見すれば、
吾子なり、とて泣倒れしかば、忠利使を立てて首を石谷十蔵の方に送られけり。後陣に千
石の禄を与えらる。

(常山紀談)

 誰か分かって取ったわけではないのだな。二の丸で銃弾に当たって倒れていたというの
が不審。吉村豊雄『天草四郎の正体」によれば、量産型天草四郎が一杯いたそうだが。

 千石の俸禄を得ているにしては、その後、細川家の家臣団に陣氏って見かけないような。
どうなったんだろう。
878: 2018/06/24(日) 00:07:50 ID:AYWzaaZT(1)調 AAS
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと
879: 2018/06/24(日) 15:54:28 ID:u7rojT8f(1)調 AAS
結局、遅かれ早かれだったな。
880: [age] 2018/06/24(日) 17:03:51 ID:b0BBvRSj(1)調 AAS
横からわるいけど
こないだ加藤清正公の菩提寺である熊本県の本妙寺にいったんだけど。。。。。。。。。。。
大規模なお寺なんだけど。。。。。
先の震災のあと何も復興されてなくて、荒れ放題になってんの。
国も県も何もしてくれないとかで。。。。
熊本県はお寺に石灯篭を献上するのが風習みたいなんだけど
その何百という灯篭が倒壊したまんま、清正公の墓を守してきた一族の大きな墓所も壊れたまんま。
清正公があまりにもお気の毒。熊本は熊本城をシンボルにして観光やってるのにさ
菩提寺の惨状には知らぬ存ぜぬ。おかしいんじゃないの?
881: 2018/06/24(日) 17:42:10 ID:rHj3jcQH(1)調 AAS
マルチ辞めろ
882: 2018/06/25(月) 07:31:51 ID:HySMom0y(1)調 AAS
乞食すぎだろ…
883: 2018/06/27(水) 13:58:19 ID:Py8YpCep(1)調 AAS
天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、
五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。
これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。

伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。

三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。
宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。
以降、切支丹は厳重に禁止された。

(長澤聞書)
884: 2018/06/27(水) 15:07:23 ID:tCs7j6lY(1)調 AAS
キリシタンって普通に他宗を攻撃する排他的なカルト教団だし
弾圧されるのも残当
885: 2018/06/27(水) 15:22:46 ID:H7tae2x0(1)調 AAS
キリスト教が長崎でどんだけ破壊と殺戮やったか知ると、そりゃ報復も苛烈になるわって思う
松倉勝家がどうであろうと、キリスト教を旗印にして嫌がる村まで道連れに軍事反乱まで起こしてるし
886: 2018/06/27(水) 17:49:50 ID:Ys4oUs31(1)調 AAS
ほんまかいなというエピソードだけど・・・
887: 2018/06/28(木) 00:06:56 ID:wWSPXeF5(1)調 AAS
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる

尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。

仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。

善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院は
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。

善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院は
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。

このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。

和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。

――『池田家履歴略記』

* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
 恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
 子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。
888: 2018/06/28(木) 14:39:10 ID:7FJJQwwj(1/2)調 AAS
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。
889
(1): 2018/06/28(木) 19:52:50 ID:uDHlqSWM(1)調 AAS
大阪の陣が終わった後、京都ではもっぱら女能が流行した。

その頃、吉野という傾城の太夫が四条河原にて能を興行していたが、これを織田上心(常真・信雄)が
お忍びで見物をしていたところに、織田宇楽(有楽)も見物に来ており、ここで常真の衆と有楽の衆が
喧嘩と成った。
これにより双方多くの侍が死亡し、また能舞台も完全に破壊されるという、殊の外大きな騒動と成った。

この事件があったため、女能は固く禁止と成った。

(長澤聞書)

アイドルのライブで乱闘騒ぎ起こしたようなものか。なにやってんねん織田家
890: 2018/06/28(木) 20:36:11 ID:z4iy15Aq(1)調 AAS
>>889
>能舞台も完全に破壊される
とばっちりにもほどがあるw
891: 2018/06/28(木) 21:02:27 ID:7FJJQwwj(2/2)調 AAS
喧嘩という名の局地戦。
892: 2018/06/28(木) 22:20:16 ID:/ZvrGPKO(1)調 AAS
女能って言えばその芸女は遊女も兼ねてたから、きっとアフター権利を巡って争ったんだろうな
893: 2018/06/29(金) 12:59:47 ID:aCJ1kYtX(1)調 AAS
阿国歌舞伎もレズビアンショーみたいなものだったしな
894: 2018/06/29(金) 13:27:21 ID:5kUak/hA(1)調 AAS
あら^〜
895: 2018/06/29(金) 19:45:30 ID:Fy+Q12xR(1)調 AAS
どこからそうなるんえ?
896: 2018/06/29(金) 22:51:44 ID:d3bXhUj1(1)調 AAS
大阪冬の陣の講和の後、大野修理が御城より帰り、内御門の脇にて小便をして居た。
ここに30ばかりの、撫で付けにした小紋の袷を着て、一尺三寸ばかりの脇差を持った男が、
大野の60人ばかりの供の者に紛れていた。

その時は夜の五つ時分(午後八時頃)であっただろうか、男は大野に飛びかかった。
脇差が大野の身に刺さったまま、男は駆け逃げた。
闇夜であったので大野の供の者たちは方々を探したが男は見つからなかった。
しかし大野の小姓が、焼き崩された片桐且元の屋敷跡の、石垣の際にて男に追いつき、肩先から
一太刀で討ち留めた。
この小姓は後で豊臣秀頼より、過分のご褒美を下されたという。

そして、かの討ち取られた男についてだが、大阪城より、金子五十枚を賞金としてかの男の
身元を知る者は訴えるよう属託したところ、翌日には二人のものが訴え出て金子を受け取った。
すると本町に住む牢人が、家に火をかけ自害するということが置きた。

後に下々の者は、この事件は片桐且元が起こした事だと申していた。

(長澤聞書)

大野治長襲撃事件のお話。一般には治長の弟の大野治房などによる襲撃と言われますが、大阪では
「片桐且元の仕業」という噂が流れていたのですね。
897: 2018/06/29(金) 23:29:33 ID:UkJDX4f0(1)調 AAS
へうげものに出た大野兄襲撃エピソードって元ネタがあったんだな
898: 2018/06/30(土) 11:53:43 ID:FfwUYCBs(1/2)調 AAS
死人に口なしってのが、暗殺事件の基本だわな。
899: 2018/06/30(土) 12:04:43 ID:FfwUYCBs(2/2)調 AAS
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。
900
(2): 2018/06/30(土) 14:43:23 ID:wJckDjva(1)調 AAS
毛利輝元、自分の少年時代を振り返って

以下は毛利輝元が、毛利秀元と福原広俊を通して嫡男の秀就(数えで19才)に
訓戒させるため、慶長18年(1613年)12月に送った書状。
長いので意訳&抜粋。

私が長門(秀就)の行儀に対して堅く申し付けてはいないのだと、世上で
言われています。(実際行儀はよくないので)仕方がないことではありますが
私は知音の上方衆から、(秀就が)領国に帰ると手荒く居丈高に物事を申し付け
『近年の毛利家中は申し付け様が緩いのでよくない。
 手荒く申すようにすれば人が恐れるだろう』
などと申していると聞きました。

私にも少々荒く申し付けた方が若い者らしく、人も(立派に思って)驚くと
下々の者が申したことがあり、それを真に受けてそのように振る舞っていたときが
ありました。しかしそれでは下々の者が迷惑し憎むようになるのでよくないと
聞いた後はそれに合点して、その後はよい振る舞いをするようになりました。
総じて若い間は、礼儀も善悪も全くないものなのです。

まぁ私も立派な人間ではありませんから、申すようなことはありません。
十一で親(隆元)と離れ、十三で嶋根陣(月山富田城の戦い)に行き
日頼様(元就)の側に詰めるようになってからは、私は十九になるまで、お側を
離れず御奉公したものの、それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

日頼様の(私への)御折檻は内々に人目を憚ったものでしたが、今も存じている者が
いるはずなので、尋ねてみてください。そういう訳なので私はこの年になっても
世上を敬い、当世の利根才覚がないので大事大事と朝夕考えながら日々を過ごして
国主などになりました。今時の風潮とは違うようですが(このような有様なので)
一つとして私は(秀就に)毛頭申すことなどありません。

――『毛利家文書 一一五七号』
901: 2018/06/30(土) 15:08:18 ID:0QCKxBzw(1)調 AAS
>>900
謙遜じゃなくてマジなのがせつないというかなんというか…
902: 2018/06/30(土) 16:38:51 ID:WAV9ogJV(1)調 AAS
なんか、尻すぼみ感がすごいな。輝元自身が、シオシオとなっていく感じが…
903: 2018/06/30(土) 17:46:36 ID:v37hq9s4(1)調 AAS
偉大な祖父や叔父からひどい折檻受けて育てばなぁ…。
優秀すぎたせいで、そこそこの出来の子供の養育方法わからなかったのかもしれない。
904: 2018/06/30(土) 19:49:43 ID:Gy5MCzvM(1)調 AAS
アレらが殿上人のような存在だと自分を卑下してイエスマンで有り続けるしかない
次期当主がそれだと困るから折檻されるのだが思うようにやっても結果が伴わないので結局折檻される
こうして歪んでいき結果傾国したのであった
905: 2018/07/01(日) 21:47:16 ID:X9OW92xd(1)調 AAS
> それでも立派な人間になることは出来ませんでした。
> 良くも悪くも日頼様の御意を窺って、それが親子の間での最上の振る舞いだと
> 思っていないと仕えていくことは出来なかったのです。

隆元も、元就に対して同じような気持ちだったんじゃないかな。せつないなあ……。
906: 2018/07/02(月) 12:25:56.88 ID:bR/a18wF(1)調 AAS
>>900
自分を虎だ龍だと思い込んでる奴よりは余程好感が持てる
907: 2018/07/05(木) 09:38:54.04 ID:OR8ekP7n(1)調 AAS
父・惣兵衛(水野忠重)の家臣である富永半兵衛と申す者が、私のことを惣兵衛に告げ口し
その仲を散々にさせたため、あまりにも迷惑し無念に思い、牢人するのならこの者を斬ってから
牢人しようと心に決め、伊勢の桑名で手討ちにした。

それから私は牢人したのだが、伊勢長島に常真公(織田信雄)が居られたので、伺候して「奉公をしたい」
と申し上げたものの、これを知った惣兵衛より「倅を召し出すのなら、我々は味方をやめ在所に引く!」と
殊の外強く構いをしたため、(当時、小牧長久手の戦いが起こっていた)奉公することは出来なかった。

それから私は小牧山に参った。権現様(徳川家康)へ本多佐渡殿、高木筑後を通して『前々のごとく
召されますよう』と申し上げたが、常真の時と同じように、これを知った惣兵衛が構いを申し上げたため
これも成らなかった。

この時権現様は「そのうちに惣兵衛を説得しよう。それまでは私が存ぜぬ体にて隠れて居るように。」
そう仰られたため、小牧に居るわけにもならず、清須の須賀口の寺に滞在した。

その頃太閤様(羽柴秀吉)は美濃口に出陣という沙汰にて、惣兵衛と丹羽勘助は美濃口のだきという所へ
遣わされた。その時、前田の城主である前田与十郎が常真公を裏切り、滝川一益を蟹江城に引き入れた。
このため惣兵衛、丹羽勘助も急遽こちらに向かい、私も駆けつけた。
6月17日、滝川の子である滝川三九郎が東の大手より出撃した所を、横合いから突撃し、黒母衣で
金の半月の指物の者(その名失念いたし候)と鑓を合わせ、三鑓突いたが、すばやく門内に引き返し
門を閉めたため、討つこと出来なかった。その時私も二ヶ所鑓によって負傷した。

その後、権現様が前田の城の傍に作った堤に馬を立て休憩されていたところに伺候し、先の私の戦いを
詳しく申し上げた所「今に始まらぬ手柄である」と御感なされた。この時、傍に朝比奈左近も居たので、
その様子は左近が詳しく知っている。

(水野日向守覺書)

水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで
908: sage 2018/07/05(木) 17:50:05.82 ID:/LwZ2lnk(1)調 AAS
父親大激怒。
909: 2018/07/06(金) 17:36:49.94 ID:N8PBqEKt(1)調 AAS
自由民主党の党首は大東亜戦争を肯定しており
党の名前と違い主義は極右の民族主義で
北方領土問題では戦争を示唆する発言をし
アジアの国々を再び自国の支配下に置こうという意図を持っており
あの民族の血を引いていながらあの民族を激しく批判しており
国内の少数民族を差別する発言を繰り返し
アジアや欧米から危険な右翼と言われている人物だ
910: 2018/07/07(土) 12:18:26.77 ID:eEq3uQv/(1)調 AAS
スレ違いのパヨチン
911: 2018/07/07(土) 16:33:36.73 ID:i9a9NQi9(1)調 AAS
どうも、最近の勝成研究では、富永半兵衛は佞臣だった、ということになっているらしい
外部リンク[html]:blogs.yahoo.co.jp
912: 2018/07/09(月) 14:06:32.67 ID:0EAhNFSl(1)調 AAS
佞臣という言葉がすでに新しくないというかなんというか
913
(1): 2018/07/10(火) 03:42:58.66 ID:o+BV0MVC(1)調 AAS
上杉謙信の家臣団といえば上杉二十五将などとも言われ著名な武将が多い。
そんな上杉家臣団を見ていて気付くことがないだろうか。

…あれ、謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

そこで有名どころの生年と第四次川中島の時の年齢を上げてみる。

柿崎景家 1513年(48歳)
宇佐美定満 1489年(71歳)
色部勝長 1493年(68歳)
北条高広 1517年(44歳)
本庄実乃 1511年(50歳)
中条藤資 不明だが1494年には家督を継いでいた(70歳以上)
安田長秀 1516年(45歳)
直江景綱 1509年(52歳)

参考までに主な武田家臣の生年と年齢も。
山県昌景 1529年(32歳)
高坂虎綱 1527年(34歳)
内藤昌秀 1522年(39歳)
馬場信春 1515年(46歳)
山本勘助 1493年(68歳)
真田幸綱 1513年(48歳)
原虎胤 1497年(64歳)
小山田信茂 1539年(22歳)

またその子供も随分歳が離れているのが多い。長子と思しき人物との生年と年齢差も書いてみる。

色部勝長 ー 色部顕長 1549年(56歳)
安田長秀 ー 安田堅親 1557年(41歳)
中条藤資 ー 中条景資 1532年(40歳以上)
直江景綱 ー お船 1557年(48歳)

また柿崎景家の子柿崎晴家は生年不明だが1570年に人質に出された記録があり、この頃はまだ未成年だったとすると景家40歳頃の子供となる。
914: 2018/07/10(火) 14:31:47.68 ID:dSxs4i6+(1/3)調 AAS
安田長秀の末裔が言うには有重という子がいたらしい
親子ともに治部少輔を自称、母は長尾政景の妹、妹に安田堅親の室
因みに堅親は河田からの養子で有重の跡を継ぐ、兄が長親
他の者も親子同じ官名を自称して実名が表記されてないから混同されてんじゃね?
915: 2018/07/10(火) 14:54:53.90 ID:dSxs4i6+(2/3)調 AAS
柿崎晴家は次子
長子祐家は天正元年越中朝日城攻めに名が見える
のち親子ともども誅殺されたのか討死、病死かは不明
916: 2018/07/10(火) 15:12:04.41 ID:dSxs4i6+(3/3)調 AAS
大昔って大した娯楽がないから毎晩セックス三昧っていう暮らしだと勝手に想像しているんだが
子が生まれても女子だったり寒さで流産したりと跡継ぎが出来にくい土地柄だったのかしら
917: 2018/07/10(火) 15:50:00.59 ID:oaqH4q4O(1)調 AAS
織田家部将の子どもの少なさ考えたら少なくとも身分ある武士がセックス三昧とはとても
918: 2018/07/10(火) 19:23:27.63 ID:wjkq+BjH(1)調 AAS
戦国武将って、あちこち出張しているから、ゆっくり致す暇もなさそう。
特に、信長以降の天下人の部下は東奔西走しているからなあ。
919: 2018/07/10(火) 21:42:18.89 ID:+Sn4NBhJ(1)調 AAS
あの時代は危険日(冷静に考えると変な言葉)とかわかってなかったんだろうし、それこそ運任せだったんじゃね。
戦があれば何ヶ月も帰ってこれないし、そら側室たくさんいても子供簡単にできないわな。
920: 2018/07/10(火) 22:06:22.67 ID:2jNQiVdt(1)調 AAS
>>913
謙信の場合、一応父親と兄の代の家臣団をそのまま引き継いでいるので年齢高めなのは仕方ないかも。
家督継ぐ前に自分の家臣団を形成したような感じもないし、若手を大量抜擢とかもしてないようだし。
長子との年齢差はよく分らんが、、、謙信が遠征に引っ張りまわしすぎて作る暇もなかった?
921
(2): 2018/07/10(火) 22:55:39.57 ID:4OTrD0VR(1)調 AAS
古の軍記等には虚説が多いと言うが、それも当然であろう。
信長記、太閤記などを読むと非常に虚説が多い。近頃なら難波戦記、島原記などだが、
私はこれらの戦いを実際に近くで見及んだわけだが、これらの書物は、書くべきことを
書き漏らし、書く必要も無いことを、さも大事な事のように書いている。

こういう近年の事例から、古についても察するべきである。

(渡邊幸庵對書)
922: 2018/07/11(水) 10:30:57.46 ID:5Chz2f1H(1)調 AAS
>>921
そりゃそうだろうけど
お前が言うなよw
923: 2018/07/11(水) 11:51:36.35 ID:fTvUYMZ5(1)調 AAS
130歳まで生きたと称している時点でアレ過ぎるわな…
924: 2018/07/11(水) 20:29:15.44 ID:1ZkPdiom(1)調 AAS
>>921
このスレにも書き込んでそう
925: 2018/07/12(木) 00:32:05.26 ID:dWRGVtRJ(1)調 AAS
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。
926
(1): 2018/07/12(木) 11:22:03.55 ID:ckxWvSyp(1)調 AAS
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし
927: 2018/07/13(金) 08:36:07.35 ID:LVuhrboZ(1)調 AAS
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・
928: 2018/07/13(金) 18:21:14.87 ID:yKRA+Q2p(1)調 AAS
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?
929: 2018/07/13(金) 18:28:45.61 ID:BBT1hpwE(1)調 AAS
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ
930: 2018/07/13(金) 21:00:22.32 ID:j2a9VVjX(1)調 AAS
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』
931: 2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe(1)調 AAS
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰
932: 2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs(1)調 AAS
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・
933: 2018/07/15(日) 21:09:58.79 ID:p0z8v/pj(1)調 AAS
文明9年11月、将軍家(足利義尚)より東西の陣に上使が立てられ和平をなした。
「各々戦を止め自分の領邑に戻り兵士を休めて将軍家の命を受けよ」
東軍西軍である細川山名の両家とその従類はその命に従い自分の領邑に帰った。

しかし11年の兵乱に都鄙尽く衰微し、世路を渡ることも成り難い有様であった。
そこで将軍家は所司代、奉行人らと協議して、『天下徳政』と称して、福人の財貨を借り取り、借り捨てとして
返済の沙汰を禁止することとした。

ところが奸邪の者、すばやくこの事を聞きつけて、村里近隣の馴染みの者の家に行き、当座の銭や鎌鍬に至るまで
借り取って返さず、その内に徳政の触れがあると貸主の家に行き、あたかも迷惑のような振りをして
「これを返せば法令に違う、返さずば芳志を失う。どうにも出来ない。」などと騙し、結局はこれを奪った。

このような者たちに対し天下の人々は「奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。これが天道の応報というものだ」
などと言い合ったという。

(南海通紀)
934: 2018/07/16(月) 22:15:21.41 ID:ZMGQkMUJ(1)調 AAS
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話
935: 2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt(1)調 AAS
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』
936
(2): 2018/07/22(日) 13:33:33.51 ID:6O0Iyn2X(1/2)調 AAS
備後神辺城は尼子方である山名氏の重臣、杉原氏がこれを守っていたが、大内方の圧迫に耐えきれず、
天文19年10月13日、ついに城を明け渡し、出雲へと撤退をした。

ところが、丁度その頃、尼子晴久は家臣の目黒新右衛門に、兵500を付けて命じた
「神辺へ向かい、杉原を救援するのだ。」
目黒はこの命に感激し、畏まりて

「御家人多き中に私に仰せ付けられたこと、この御厚恩何を以て報いるべきでしょうか。今回
城を助けることが出来なければ、私は二度と当国の土を踏みません!」

そう誓言して出発したが、その途中で、撤退中の杉原の一行に出会った。
目黒は驚き「これは如何に?」と問いただすと、杉原は開城したことを説明した。
目黒も尼子晴久より救援の命を受けた旨を説明したが、「今は軍勢を率いて馳向かっても無益である」と、
軍兵達は杉原に付けて出雲に下らせ、自身は一人で神辺へと向かった。

そして城へ付くと、神辺城を接収した大内方の平賀氏へ検使を出すことを要請した。
「主君との一言の約によって、臣が百年の齢を誤る。」
そう言って腹を十文字に掻っ切って頸を伸ばして待ち、平賀よりの検使である坂新左衛門が首を打ち落とた。

その後、頸は出雲へと送られた。

この目黒新右衛門には二人の息子があったが、尼子晴久は「目黒家は小身であるから」と、目加田の家を
継がせた。この目加田采女、弾右衛門尉兄弟は、父にも大人ぬ勇者として聞こえたという。

(安西軍策)

ええ…、これで腹を切るのか…。
937: 2018/07/22(日) 13:40:21.31 ID:m/v//j6z(1)調 AAS
武士のメンツを意地でもたてるいい話やないすか
938: 2018/07/22(日) 15:32:10.92 ID:6O0Iyn2X(2/2)調 AAS
>>936
最後の行

× 父にも大人ぬ勇者
○ 父にも劣らぬ勇者

スイマセン…
939: 2018/07/22(日) 18:21:32.24 ID:LdInRxkq(1)調 AAS
>>936
気がくるっとる(^p^)
940: 2018/07/22(日) 21:53:41.33 ID:EZ86dxyM(1)調 AAS
狂ってるも何もこれが武士やろ
941: 2018/07/23(月) 11:07:49.30 ID:TwFnC8JM(1)調 AAS
武士がこうするのにも理由と言うものがあってな
942: 2018/07/24(火) 14:08:39.46 ID:Y77Y/Kca(1)調 AAS
本人のせいでないのに負け戦巻き込まれを回避しつつ面目躍如で子孫も安泰
変に突っ込んで討ち死にせずに敵の保証までつくという計算高さも素晴らしい
943: 2018/07/24(火) 14:17:37.42 ID:Oug0IF5q(1)調 AAS
面子>>>>>>>>命だから、命を捨てても面子が立つのなら、それでOKだからなぁ。
944: 2018/07/24(火) 19:08:19.04 ID:SXhbsbeg(1)調 AAS
武士は面子じゃなくて面目な
945
(1): 2018/07/24(火) 23:01:39.02 ID:EyEJGJF5(1)調 AAS
永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと
言われてしまうと考えた。そこで、尼子方の秋上伊織に使者を出して申し述べた

『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。

しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。

そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って旗を揚げるであろう。』

これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、鹿介「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」と
急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。そこでかねての約束を信じ油断して
待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は「方便にかかった」と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて
想いのままに射させた所、敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、引き色が見えた
所で、隆重は「時分良し!」と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。

山中鹿介らは、天野隆重に謀られ諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。

(安西軍策)
946: 2018/07/24(火) 23:33:26.46 ID:IOR1qyBx(1)調 AAS
その心持ちがないのは不孝だ

池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。

――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。
947: 2018/07/25(水) 07:58:35.02 ID:YKRKfBFg(1)調 AAS
>>945
これ、小説だと、秋上が功にはやって受け入れる、山中は怪しいと止めるエピになってるよね。
秋上がその後裏切るのはこの時の不面目を引きずったからとか。
948: 2018/07/25(水) 21:35:10.44 ID:BEZvxerT(1)調 AAS
俺が30年以上前に見た山中の伝記じゃ秋山が看破で山中が騙されるだった
それ以降秋山は尼子復興は無理と判断し吉川に降る
949: 2018/07/25(水) 21:38:15.64 ID:vxPU3Si5(1)調 AAS
小説は鹿介マンセーしたいだけのオナニー作品だろ
しょせんフィクション
950: 2018/07/26(木) 07:02:23.83 ID:P8oD2fN8(1)調 AAS
天野隆重「かかったな!アホが!」
951: 2018/07/26(木) 12:44:58.47 ID:9WnOU9Er(1)調 AAS
フフ…火薬入りの茶釜は…痛かろう
952: 2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a(1)調 AAS
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春、小早川隆景は
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。
953
(1): 2018/07/27(金) 00:03:21.50 ID:nvc+W+Pq(1)調 AAS
備中国の住人、三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。父家親は1年前に
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は芸州毛利家へ使いを下した

『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。しかし宇喜多直家に欺かれ、
益無く討たれたのです。父の敵である直家を何としてでも滅ぼしその恨みを晴らしたいと
考えていますが、我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、御太刀影(助太刀)を
お頼みしたいのです。宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、我ら二人もいよいよ御手に属し、
忠節を励まします!』

これを吉川元春に対して嘆き申し上げた。

ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、毛利を敵に回してはかなわないと
考え、洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、また安国寺恵瓊を深く頼み
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』と訴え申し上げた。

この時毛利元就は既に老病の中にあり、元春、隆景に対し「能くはからえ」と言うだけであった。
元春は「三村は父家親の時代より当家馳走の者である。宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように
言ってきても、それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、ついには隆景も
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、隆景の判断に
任されていたのである。

その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
(安西軍策)
954: 2018/07/27(金) 01:45:54.66 ID:GayH9LlL(1)調 AAS
宇喜多に対するため織田と結んだ三村
織田に押されて織田に降った宇喜多

小早川は先を見る目がないな
955: 2018/07/27(金) 05:07:03.62 ID:G0Ciaoxc(1)調 AAS
この数年後に毛利は播磨で織田と戦う事になるけど、背後の岡山は宇喜多家の元で漸く安定しかけてたところだったから、
1575年に元春の言を容れて三村攻めずに宇喜多攻めてたら完全に叩けてたかは分からないし、下手したら織田の中国侵攻はより早いものになってたんじゃない?
隆景に先を見る目がなかったとは思わないけど
956: 2018/07/27(金) 05:39:13.12 ID:DXVfv2KC(1)調 AAS
神の視点ではなんとでもいえる。最終的に維新を成し遂げたのは長州だしな。
957: 2018/07/27(金) 09:53:30.89 ID:ZiRbSX6d(1)調 AAS
小早川は長州じゃないwww
958: 2018/07/27(金) 10:27:07.00 ID:LPTjxN7n(1/2)調 AAS
揚げ足とり子猿
959: 2018/07/27(金) 10:33:56.52 ID:LPTjxN7n(2/2)調 AAS
小早川家は最終的に毛利家から養子もらってんだけど
960
(1): 2018/07/27(金) 12:43:23.48 ID:IaLFv6CX(1)調 AAS
長州「うるせー、やんのかコラ」
961: 2018/07/27(金) 12:59:24.32 ID:p3aDYfYw(1)調 AAS
>>960
橋本はもう居ないんだ…
962: 2018/07/27(金) 18:11:46.66 ID:MkEPw/Kf(1)調 AAS
結局宇喜多のが良いコネ持ってたってだけの話だな
その良いコネを掴むのも実力のうち
963
(1): 2018/07/27(金) 18:29:19.50 ID:UiD44MF2(1)調 AAS
>>953
別に毛利家は義理人情に厚いわけじゃないし(むしろ…)三村と宇喜多でどっち選ぶかといったらねぇ。
964: 2018/07/27(金) 19:12:48.21 ID:N/22wCO0(1/2)調 AAS
とはいえ相手に恩義を感じさせれば裏切らない駒が出来るわけで
わざわざ恨みを買って敵に回すのはアホのやること
965: 2018/07/27(金) 19:27:59.40 ID:vgKHLEqs(1)調 AAS
元春さんは情と付き合い(と宇喜多直家の腹黒さ)を重視して三村氏を
隆景さんは現実的と言うか実利的に判断したって感じかな?

後々も対秀吉で意見が食い違うこの兄弟だけど、2人の将としての資質や思想の違いも垣間見えた逸話な気がする。
966
(1): 2018/07/27(金) 20:24:45.44 ID:z/aV9ADT(1)調 AAS
鶴田もマサ斎藤もいない…。それどころか、三澤や冬木もいない…。
なのに、猪木はまだいる。
967: 2018/07/27(金) 20:36:55.33 ID:yleoGLak(1)調 AAS
>>966
天龍「俺は?」
968: 2018/07/27(金) 21:16:31.42 ID:N/22wCO0(2/2)調 AAS
>>963
当時の勢力図を念頭に入れてから発言したほうがいいな
余りにもバカ過ぎる発言だ
それに三村を討ったのは毛利だし宇喜多が毛利と結ぶようになったのは天正に入ってからだろう
969: 2018/07/28(土) 11:42:48.49 ID:/VZEAqYq(1)調 AAS
そういや、民間歴史研究家が軍記物を信奉してて困ったもんだどうのっての
海外だと、日本でもイラスト入り歴史本で知られてるオスプレイ社の書籍、
これの東アジア物で多くの著作のあるスティーブン・タンブル氏は、
軍記物丸写しで書きまくってますね
東洋軍事史の権威扱いだから、英語圏ではそのままの内容で日本理解が

著作の記述内容からするとタンブル氏、漢字読めないっぽいんだよねえ
970
(2): 2018/07/28(土) 17:13:45.52 ID:INIGIatg(1)調 AAS
誰かが良い悪いスレを英語訳したブログ作れば正しい認識が広まる
971: 2018/07/28(土) 18:31:46.60 ID:EAl/UXA2(1)調 AAS
外人なんて日本と中国の区別もつかないだろうししゃーない。
972: 2018/07/28(土) 19:17:15.86 ID:BOvohA2H(1)調 AAS
>>970
伝説の流布はNG
973: 2018/07/28(土) 19:19:25.65 ID:SuqhbH8/(1)調 AAS
「あれはお宅らのとこのアーサー王伝説みたいなものですよ」と言っとけばいいんじゃないかな。
974
(1): 2018/07/28(土) 20:19:59.72 ID:+awGOuvX(1)調 AAS
ところで富樫関係のネタって需要ある?
975: 2018/07/28(土) 20:37:29.13 ID:ZZDuyEET(1)調 AAS
日本人同士でマウンティング取り合ってるうちに海外では取り返しのつかないことになってるわけか
そしてそれは対岸の火事であると
976: 2018/07/28(土) 20:50:29.07 ID:5hq3+OVK(1)調 AAS
>>974
早くHUNTER×HUNTER連載再開しろよ
977: 2018/07/28(土) 22:16:54.76 ID:mFdaN6FB(1)調 AAS
>>970
このスレにいるような人達でさえよく知らないであろう細かな内容を
膨大な記事でアップしてある戦国時代のサイトがあるんだけど
そのサイトを一言一句残さず丸パクリして韓国語で書き写してるサイトならある
源○○の三男の××から枝分かれした△△地方を領した□□を祖に持ち〜みたいな
内容で細かく書かれてるんだけどそんな記事に対して韓国人もそこそこコメント付けてる
978: 2018/07/29(日) 04:30:37.97 ID:bzv4ryB1(1)調 AAS
どうでもいい
979: 2018/07/29(日) 06:40:55.42 ID:e4AWKg7W(1)調 AAS
タンブルの引用してる軍記物とは、甲陽軍鑑、武功夜話ってレベルどころか、江戸時代の講談本も入ってるからね?
びっくりするぞw
980: 2018/07/29(日) 15:36:28.15 ID:1qFerzx5(1)調 AAS
まあ普通の日本人も三国志演義と正史の区別曖昧だし多少はね。
981: 2018/07/29(日) 17:08:55.71 ID:x/iTMvCE(1)調 AAS
まあ外人がどう思おうが関係ないところだけれどもね
ということは例の明智さんとかが画策してることも同じく関係ないはずだ
普段の生活に何の影響もないし
982: 2018/07/29(日) 17:51:46.57 ID:Zeq2Dxw0(1)調 AAS
毛利家臣である南條伯耆守元続は、尼子氏の牢人である福山次郎左衛門(茲正)という者より、織田方への
寝返り工作を受けていた
「信長卿は武威日々に盛んにして、もはや肩を並べるものおりません。毛利家とても終には信長卿のために
滅亡するでしょう。そうなった時、毛利に属する輩は根は絶たれ葉を枯らすこと疑いありません。
早々に毛利一味の志を変じ、信長卿幕下に属されるべきです。」

このように利を責めて言うと、元続も尤もだとこれに同意し、兄弟である小嶋左衛門尉元清、そのほか
南條備前守、同九郎左衛門、山田越中守、以下家の子郎党を集め「この事如何か」と意見を聞いた所
何れも「この義、宜しいと思います。」と同意した。
そこで信長卿へ、「幕下に属し御馳走を遂げる」と、羽柴秀吉まで云い送った。

しかし、吉川元春はこの情報を察知し大いに怒り、南條家重臣である山田出雲守(重直)を芸州に呼び寄せた
「南條が心変わりしたこと疑いない!汝は知らぬのか!?」
これを聞いて山田は驚き、この事を些かも存しない旨、天神地祇を驚かせたと、起請を書いて差し上げた。

「然らば、南條兄弟に諫言を加え、この工作をした福山次郎左衛門を討ち取れ。」

元春のこの命に応じ、急ぎ伯耆に立ち帰ったところ、山田が安芸より急遽戻ってきたことを
福山次郎左衛門は心もとなく思った。そこで山田の館を訪ねてきた所を、出雲守は常よりも昵懇に
もてなし、過去のことについて物語などする中、傍に控えていた家臣の山田十右衛門へ目配せした。

十右衛門は打者の達者であった。彼は即座に抜き手で福山を切りつけた。
その刀を引かぬうちに、出雲守嫡子である蔵之介が続いて切りつけ、さしもの福山もやみやみと討たれた。

しかし、これを知った南條兄弟は山田出雲守の館に押しかけて来た。この時山田側には軍勢無かったため
戦うこと出来ず、一方の囲みを打ち破って芸州へと退いた。

(安西軍策)

天正4年に起こったとされる、南條兄弟寝返りについてのお話。
983: 2018/07/30(月) 16:47:23.05 ID:W5bsNJ4y(1)調 AAS
天正3年、臼杵の浦に明船が着岸し、このとき猛虎四匹、大像一匹、孔雀、鸚鵡、麝香、そのほか
書巻の名筆、あるいは絵讃、並びに綾羅綿繍伽羅猩々緋の皮二十間つづき、以下種々の珍宝が渡された。

天正4年の夏、南蛮国より大いなる石火矢が到来した。肥後国より修羅を以て、豊後臼杵丹生の島に
引き上げた。大友宗麟は大いに喜び、この大石火矢を『国崩』と号した。

然るに、誰言うと無くこの大石火矢を国崩と号したこと、大いに不可であると沙汰された。
また、それに続いての流言には、前に渡ってきた四匹の虎も不吉であり、日取りを以てこれを見るに、
その文字に違いが有ると言っても四匹の虎は滅ぶ日であり、これを不吉の相であるという。
またある人が言うには、尚書に珍禽奇獣国に育たわずと伝わり、これを育てるのは然るべからずと申した。

されば流言とは、根のない言葉が水のように流れ、世間に至る。これを流言とも残言とも言う。
天に口無く人をして言わしむとはこれであると、諸人密かに言い合った。
しかし宗麟はこれを聞いて、「一人虚を伝えれば万人実と伝う。一犬吠える真似をすれば万犬声を上げて
吠えるという事もある。」そう言ってこれらの話を気にかけようとしなかった。

(豐薩軍記)
984
(1): 2018/07/31(火) 18:56:09.83 ID:8q4xI7wn(1)調 AAS
天正5年の夏の頃、大友宗麟は体調を崩し、心地例成らざる状態であった。
この時、宗麟は天井に血がついているのを見つけた。それはよく見ると、巨大な人間の足の痕であった。
しかし宗麟は元来、そのような事に驚く人ではなく、少しも臆する景色無く
「これは私の病が平復し、却って盛んとなる印であろう!」
そう言って聊かも心に掛けなかった。

また或る時、座敷の庭より小松が生え出たように見えた所、俄に大木となって枝を垂れ葉を並べた。
番の者達あまりの不思議さに目も離さず警戒して居ると、この松次第に細くなり、幻のごとく消え失せた。
これこそ稀代の珍事と思っている所に、或る夜宗麟の座している畳の間より、6,7尺ばかりの屏風が出て
消えた。

これだけでなく色々と不思議のこと多かったため、人々不屈の前兆ではないかと怪しみ、何か事が起こる
予感をしていた。

(豐薩軍記)

これだけ色々あって特に動じない宗麟も相当な大物の気がしてきた。
985
(1): 2018/07/31(火) 20:38:20.77 ID:hhf0OESO(1)調 AAS
>>984
キチガイは心霊スポット平気って笑い話思い出した。
986: 2018/07/31(火) 22:46:01.24 ID:0jRcZv1l(1)調 AAS
池田輝政も怪異に動じない人だったよね
そういう人じゃないと大名は務まらないのではないのか
987: 2018/07/31(火) 23:52:35.83 ID:7ScV7NvP(1)調 AAS
心中どうであっても、こんな流言飛語に惑わされるようでは政治家は務まらないでしょ
988: 2018/08/01(水) 00:04:14.80 ID:EJ6MU2Mq(1)調 AAS
森忠政、川中島四郡のかわやに牢屋番などを命じる

以下は森忠政がかわや*(いわゆる被差別民)の孫六に送った黒印状。
慣習権が認められる一方、後のえたと同様の役務が課せられていた。

四郡の内のかわや共に牢屋番や細工の仕事を、物頭の孫六が申し付けること。
扶持として(百姓)一戸ごとに籾を一升ずつ取らせる。ただし村々の家の数を
追って書き付けて提出するように。形式は口上にて申し渡す。
下々のかわやは、その者の居住地で稲を一戸につき一把ずつもらう代わりに
城の掃除を油断なくするように。

慶長五年                    忠政黒印
  七月九日
         孫六

――『続舊記集』

* かわたとも言う。語源は"皮のやく"とされ皮革業に従事する人を指した。
989: 2018/08/01(水) 10:59:09.65 ID:iwh3xFfI(1)調 AAS
平穏に家督が継げなかった人ほど肝が座ってたりする
990
(1): 2018/08/01(水) 14:16:56.79 ID:dRV0UO46(1)調 AAS
父親に殺されかけたら生きてる人間が一番怖いってなるわなw
991: 2018/08/01(水) 19:09:50.79 ID:WxT6Ig3O(1)調 AAS
>>985
どちらかというと確固とした信仰心の賜物じゃね?
「これは悪魔が私の信仰心を脅かそうとしているのである」
992: 2018/08/01(水) 19:16:49.06 ID:ShI8x7u0(1)調 AAS
>>990
信玄「せやせや」
993: 2018/08/02(木) 10:14:43.03 ID:rEFEdP0l(1/3)調 AAS
そろそろ新スレ立ててみる
994
(1): 2018/08/02(木) 10:18:53.25 ID:rEFEdP0l(2/3)調 AAS
出来た。まとめブログの方はNGワードになっちゃうのね。こちら埋まったら移動してください

戦国ちょっと悪い話46
2chスレ:sengoku
995
(1): 2018/08/02(木) 11:46:05.06 ID:QupoeyH2(1)調 AAS
>>994
>まとめブログの方はNGワードになっちゃうのね
これは何故だろう
996: 2018/08/02(木) 11:54:23.16 ID:rEFEdP0l(3/3)調 AAS
>>995
多分FC2ブログのURLが全部NGにされてる
997: 2018/08/03(金) 12:58:26.00 ID:wIiR5RyB(1)調 AAS
うめ
998: 2018/08/03(金) 13:18:21.60 ID:wtONOuoy(1)調 AAS
1000なら
999: 2018/08/03(金) 18:15:49.62 ID:DzoYyfFj(1)調 AAS
うも
1000: 2018/08/03(金) 19:37:16.56 ID:ehT1Fxxe(1)調 AAS
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戦国ちょっと悪い話46
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