[過去ログ] 〜長屋王 Part1〜 (886レス)
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730(1): 2005/05/14(土) 18:56:59 AAS
>>728
元明の皇太子は孫の首皇子(後の聖武天皇)
>>726
律令制以後で即位時に外祖父が健在のまま天皇に即位したのって清和天皇が最初だろう。
清和天皇の時代にはもう外祖父の良房が頂点まで極めていたから反対のしようがないけど、不比等の時はまだ藤原氏そのものが3代目(中継ぎとしての意美麻呂を含めて)なのだから、
元明退位時点で聖武が即位したら、諸豪族は黙っていないだろう。
(現に太政官の最上位を占める議政官は本来一氏一名なのに不比等は既にそれをぶっ壊しているわけなのだから…)
731: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/14(土) 22:32:23 AAS
>>730
首皇太子ではなく、氷高内親王が即位したことに対する
解釈としては、それが一番説得力を持つ解釈だと思われます
732: 2005/05/18(水) 18:54:31 AAS
age
733: 2005/05/22(日) 23:58:27 AAS
保守
734: 2005/05/23(月) 12:46:04 AAS
平和になったな
735(1): 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/24(火) 00:36:23 AAS
長屋王の没年齢問題は、突き詰めれば史料批判の問題
同時代性の優位を重んじて、単一史料の記述を信用するか?
(懐風藻)
一つの事象に関して、複数の史料の同一記述の方を
信用するか?の問題
(公卿補任、扶桑略記、尊卑分脈、帝王編年記、一代要記)
俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に
信用を置いている
736: 2005/05/28(土) 22:24:59 AAS
なんとなく、長屋王と源高明って似てないか?
737: 2005/05/28(土) 22:38:29 AAS
いや、顔見たことないからわからんけど。
長屋王って高明の娘婿だっけ?
同じ左大臣の娘でも父親が謀反起こしたのと起こしてないのでは随分差が出るんだね。
娘がかわいそう。ってか親父の政敵の息子の妾にされちゃうなんて。
738(1): 2005/05/28(土) 23:14:07 AAS
釣りにしてもエライ大胆だなぁオイ
長屋王の変:729年(まだ源氏なんていないよぅ)
安和の変:969年
長屋王は草壁皇子と元明女帝の娘婿。
高明の娘婿は道長じゃないか?
739: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/29(日) 14:37:03 AAS
>>738
ご指摘とおり高明の娘、明子は道長の妻だね
そして高明の外孫の頼宗は右大臣にまで昇進した
740(1): 2005/05/30(月) 12:50:33 AAS
最大の共通点
長屋王…藤原不比等の娘婿
源高明…藤原師輔の娘婿
そして、義父の死後にその息子たちと対立して失脚したわけだが…。
741: 2005/05/30(月) 12:52:01 AAS
ついでに言えば、長屋王は天武天皇の孫で高明は醍醐天皇の皇子。
742: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/30(月) 13:31:21 AAS
源高明の息子俊賢と、藤原兼家の息子道長は懇意な関係
源高明の孫隆国と、藤原兼家の孫頼通は懇意な関係
親同士は政敵、子や孫同士は友好
743(1): 2005/05/30(月) 13:46:27 AAS
>>740
義父の死というよりも、
元正女帝の影響力低下や村上帝崩御の影響の方が大きいのでは?
744: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/05/30(月) 20:15:45 AAS
>>743
源高明にとっては、村上天皇の死ともう一つ、皇后藤原安子の死も
打撃だった
安子皇后は高明の娘婿である、為平(安子皇后の子でもある)親王を
寵愛していたから、安子皇后が存命だったら、冷泉(為平親王の同母兄)
の皇太弟には、守平(為平親王の同母弟)親王じゃなくて、為平親王に
なったと思われ
745: 2005/06/05(日) 23:20:40 AAS
age
746: 2005/06/20(月) 06:45:47 AAS
すると、藤原氏は、ある時期までは、長屋王を親藤原系として優遇ってことかな?
いつごろ、どういう理由で、排斥することに方針転換したのでしょう?
747: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/06/20(月) 10:54:53 AAS
光明子所生の基親王の死亡と安積親王の誕生が、長屋王と藤原四子との
対立の原因と思われます
聖武天皇に安積親王がいる以上、光明子所生の阿部内親王の立太子を
台閣の首班、左大臣長屋王が反対する可能性が極めて高いでしょうから
748: 2005/07/03(日) 14:47:36 AAS
ふうん
749(1): 2005/07/12(火) 23:30:07 AAS
>>735
>俺は同時代の単一史料の記述より、複数史料の同一記述の方に信用
継体系譜に関して言えば、複数史料の同一記述(愚管抄・神皇正統記)は無視、
ほぼ同時代と思われる単一史料の記述(上宮記逸文)の方のみ信用されてるけど。
後代の史料は、当時の歴史観や社会観に基いていくらでも改変があり得るんで。
750: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/13(水) 13:14:16 AAS
父、高市皇子の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに43才
子、長屋王の没年齢は、公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記ともに46才
父である、高市皇子の没年齢43才に異論を挟む学者は殆どいない
高市皇子(654〜696)は、古代史学会の定説
つまり高市皇子に関しては、公卿補任、尊父分脈、扶桑略記の
史料価値は非常に高いことになる
それが一転して、高市皇子の子である長屋王の没年齢に関しては
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いから信用できないと
言われても、正直言って困ります
同一史料群に対して、親に関しては史料価値が高く、子に関しては
史料価値が低いと言い出す方は、まともなテキストクリティークを
学んだとは到底思えません
751: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/13(水) 13:30:11 AAS
公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の史料価値は低いと
断定されている方なら、当然高市皇子の没年齢は不詳ですよね
まあ大山や寺崎氏などは、高市皇子の没年齢に関しては
無批判に公卿補任、尊卑分脈、扶桑略記の記述を
信用してるようですが(笑い)
また青木氏は、舎人親王の没年齢に関しては、これまた
無批判に公卿補任の没年齢記述を信用しています
長屋王の没年齢54才派の学者達は、同一史料に対する
ダブルスタンダート(二重基準)を、確たる根拠を示さずに
平気で行なっている点に特徴があると言えます
752: 2005/07/15(金) 01:09:15 AAS
「異論を挟む学者は殆どいない」から「史料価値は非常に高い」?
これぞ史料の妄信。「異論を挟まない」のは、43歳説が書紀の兄弟順序と
照合して無理なく説明できる上、これ以外に妥当な説が見出されないから、
議論はお預け状態。(654?〜696)としている辞典も見かけるが、これは
良心的な立場と評価出来る。「正直言って困ります」、これはお前の勝手w
同時代史料と異なり、中世に入ってから複数の文献に基づいて編纂された史料を
全く均質な同一史料と見なすこと自体、まともなテキストクリティークではない。
実証的な史料分析の上で、信用すべき箇所も、信用できない箇所もあると考える。
無批判な態度にも問題はあるが、補任が一説として36歳説を掲げていることからも
分かる通り、この類の史料においてダブルスタンダードはむしろ肯定されるべき。
753: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:03:03 AAS
公卿補任は中世の史料ではありません、その編纂は平安時代初期から
始まっています
土田直鎮氏が「公卿補任の成立」(国史学65号)において公卿補任は
弘仁ニ年に撰述された歴運記を元にして編纂されたと立証されています
(歴運記自体は、今日ほとんど散逸している)
つまり公卿補任は平安時代初期に歴運記を元に編纂された以上
歴運記に、高市皇子の没年齢は43才と記述されており、長屋王の
没年齢は46才と記述されていた蓋然性が著しく高い
大体「懐風藻」の記述を金科玉条のように信用し
公卿補任を中世の史料だと誤認している“お前に”
テキストクリティークを語る資格なぞないw
754: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:21:22 AAS
だいたい長屋王の没年齢に関して「懐風藻」の記述が正しいのなら
「公卿補任」「扶桑略紀」「尊卑分脈」「帝王編年記」「一代要記」が
「懐風藻」の没年齢を採用しないこと自体不自然極まりない
今日残っている史料で、長屋王の没年齢を54才と記述している
史料は「懐風藻」以外に存在しないことから見ても
懐風藻の間違いは明白
755: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 03:41:20 AAS
序に言えば、天武・持統朝の位階制度において
成人に達した有力皇族が無位のまま置かれる事はあり得ない
懐風藻の没年齢記述だと、長屋王は29才まで無位であった事になるが
そんな事を本気で信じている学者は、天武・持統朝における
位階制度を、まるでご存知ないのかと疑ってしまいますよw
756: 2005/07/15(金) 20:08:32 AAS
>中世の史料
確かにこれは私の注意不足であった。しかし、話の趣旨からして、それほど
こだわる問題ではなかろう? ダブルスタンダードの立場に変わりは無い。
>懐風藻の間違いは明白
明白といえる根拠を提示せよ。これが説明できないと話にならない。
私は懐風藻を「金科玉条のように信用し」ているつもりはない。
ただ、46歳説よりはいくぶんの信拠がおけるだろうと考えている。
>「懐風藻」の没年齢を採用しない
公卿補任や分脈はしばしば複数説をあげて、ダブルスタンダードの立場を
取っていながら、54歳説を採用していないのはなぜか。それは、懐風藻を
見ていなかったからに他ならない。>>749の場合、釈日本紀に系譜が引用
されていながら、宣長が指摘するまで世にほとんど知られていなかった。
>成人に達した有力皇族
文武しか頭に無い持統の目が黒いうちは、高市皇子ならともかく、
長屋王は有力皇族の範囲になかったのだ。しかも、大宝令施行後
初めての叙位で、21歳の長屋王(文武より年下)に正四位上直叙と
いう例外が許されたかどうか。父母の血統のみでは説明しにくい。
757: 2005/07/15(金) 20:26:03 AAS
何度同じ話くり返してんだ過去ログ嫁
758: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/07/15(金) 21:10:34 AAS
俺も同じ事を言いたい、まずは過去ログを読めと
君の問いは既に何度も、このスレで話題になっているモノだから
過去ログを読めは俺自身の回答も載っている
あと敢えて答えるが、天武・持統朝においては皇太子である草壁皇子も
位階を帯びている
つまり天皇と皇后以外は、例え皇子であっても、位階を天皇から与えられ
宮中序列の中に組み入れられる存在
したがって長屋王も成人に達していたら、持統天皇から位階を与えられ
宮中序列の中に組み入れられたはず
しかし長屋王は正四位上を、初叙されるまで無位であった以上
持統朝において既に成人に達していたはずがない
759: 2005/07/31(日) 16:52:02 AAS
しかし考謙(称徳)で天武系が切れてしまった事は皮肉な事ですよね・・・
あんなに天武系の血を守るために努力した、持統と元明の事を
考えるとなお更。天上の虹と長屋王残照記を見て感情移入して
しまいました。
760: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/01(月) 08:35:02 AAS
正直に言って持統と元明は、天武というより草壁の血統を
皇統に残したかったと思われます
本命は草壁―文武―聖武のラインでしょうが、スペアとして
草壁―吉備―膳夫ラインに、特に元明は期待していたようです
律令の原則は男系主義ですから、膳夫王は三世王ですが
元明は自分の孫だからと言う理由で、わざわざ勅を発して
膳夫王を含む吉備所生の王を、皇孫(二世王)に格上げしています
ですから膳夫王の初叙は皇孫として従四位下を授けられています
(本来なら膳夫王は三世王だから、初叙は従五位下なので、位階を
四階も超越した高待遇を受けている)
皇孫なら文武天皇と同じ立場ですから、天皇へ即位する可能性も
あります
長屋王は自身が天智・天武の二世王でありながら、息子の膳夫王も
二世王になったので、事実上の親王待遇となり、木簡にも長屋親王と
記述されるようになったと推測されます
なお、長屋王が21才で初叙された時に、令に規定では従四位下を
授けられるはずが、規定を三階超越して正四位上を授けられたのは
父である高市皇子が太政大臣で、位階は文武の父である草壁皇太子と
同格であったこと、母である御名部皇女が元明の同母姉であったこと
妻の吉備内親王が、草壁皇太子&元明の皇女だったこと等
当時において、最も恵まれた血縁関係のおかげであったと思われます
761(1): 2005/08/01(月) 08:51:42 AAS
では吉備は天皇の娘扱いだったのでしょうか?本来天武の皇孫扱いの元正が、天皇の娘(内親王)扱いされたのも、元正の妹である吉備と同じ理由でしょうか?
762: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/01(月) 09:09:23 AAS
>>761
元正にとっては弟、吉備にとっては兄の珂瑠王が即位して天皇になった時に
氷高女王と吉備女王はそれぞれ皇女(内親王)に格上げされたのです
自分の兄弟・姉妹が天皇に即位すれば、他の兄弟・姉妹も親王や
内親王になれるのです
そういう事は他には、淳仁天皇の兄弟や、光仁天皇の兄弟・姉妹が
親王、内親王になった例を上げることが出来ます
763: 2005/08/21(日) 16:05:17 AAS
そもそも文武が即位された時点でで草壁に天皇号が追贈されていませんでしたか?
764: 没年齢46才 ◆2tH7zOPLcg 2005/08/21(日) 17:23:03 AAS
草壁皇太子は、天平宝字二年(758)8月9日の、淳仁天皇の勅によって
「岡宮御宇天皇」という尊号が追贈されました
(「続日本紀」天平宝字二年八月九日条)参照
765: 2005/09/05(月) 14:01:46 AA×
![](/aas/history_1090338190_765_EFEFEF_000000_240.gif)
766(1): 2005/09/05(月) 21:26:23 AAS
長屋王殿下の大河化キボンヌ。
末裔はいるの?
767(1): 2005/09/05(月) 23:44:51 AAS
長屋王の息子の一人・安宿王の子孫は「高階真人」を名乗っていた。
更にその子孫の一部は「高」氏を名乗り、足利尊氏の元で活躍した高師直もこの後裔。
しかし、高氏も室町幕府の権力闘争で滅亡したし、今はどうなったのかなあ。>子孫
768(1): 2005/09/06(火) 00:28:39 AAS
漏れは長屋源氏
769: 2005/09/12(月) 09:06:36 AAS
>>768
源氏の定義って知ってる?
770: 2005/09/12(月) 11:43:38 AAS
漏れは長屋平氏
771: 2005/09/13(火) 11:58:46 AAS
>>766-767
こんなのめっけ
外部リンク[html]:www2.harimaya.com
しかし断絶・゚・(ノД`)・゚・
772: 2005/10/03(月) 01:35:53 AAS
ほほー
773(1): 2005/10/05(水) 22:35:20 AAS
>>45
株式会社イトーヨーカ堂に通報しますた
774: 2005/10/05(水) 23:55:22 AAS
>>773
1年後ってテラ遅すぎス
775: 2005/10/06(木) 10:55:27 AAS
でも長屋王邸後は国が買い取って国指定史跡にすべきだったと思う
776: 2005/10/24(月) 23:51:20 AAS
そうやね
777(2): 2005/10/27(木) 07:16:22 AAS
里中満智子さん以外代表する作品はありますか?
778(1): 2005/10/27(木) 17:47:53 AAS
>>777
長屋王が主人公の漫画は、里中氏の作品以外には無いと思われます
重要な脇役としてなら、小説ですが永井氏の「美貌の女帝」があります
779: 2005/10/30(日) 12:20:27 AAS
>778
ありがとうございます。さがしてみます!
780: 2005/11/19(土) 02:36:51 AAS
保守
781: 2005/11/20(日) 01:11:11 AAS
浮上
782: 2005/12/10(土) 01:23:03 AAS
783: 2005/12/20(火) 19:32:31 AAS
age
784: 2006/01/08(日) 18:49:58 AAS
785: 2006/02/17(金) 22:59:07 AAS
保守
786: 2006/02/24(金) 17:10:47 AAS
保守
787: 2006/03/09(木) 00:30:01 AAS
age
788: 2006/03/14(火) 12:41:47 AAS
生年684年、没年齢46歳派の完全勝利
789: 2006/03/32(土) 00:39:10 AAS
2006/03/32(土)
790: 2006/04/22(土) 14:19:18 AAS
791: 2006/05/13(土) 01:23:06 AAS
長屋王
684年
46歳
792: 2006/05/13(土) 02:31:04 AAS
元正上皇は、長屋王を見捨てたのか?
それとも、聖武・光明子ー藤原ラインを止める力がもうない??
793: 2006/05/13(土) 03:41:18 AAS
逢いたいな
794: 2006/05/14(日) 00:01:08 AAS
橘奈良麻呂の乱が成功していれば、長屋王の息子の
黄文王が天皇に即位していた。
奈良麻呂(橘諸兄の嫡男)は、既に天平十七年段階で
黄文王を天皇にしようと企てていた。
高市皇子(太政大臣)→長屋王(左大臣)の血統は
天皇になるべき血統だと橘氏に認識されていた
因みに、奈良麻呂の母である多比能は、縣犬養三千代の娘
奈良麻呂の父である諸兄は縣犬養三千代の息子
奈良麻呂は異父同母兄妹の間に生まれた子供
美努王+縣犬養三千代→橘諸兄
藤原不比等+縣犬養三千代→藤原多比能
橘諸兄+藤原多比能→橘奈良麻呂
*長屋王+藤原長娥子(不比等の次女)→黄文王
795: 2006/05/14(日) 03:17:05 AAS
長屋王ではなく、本当は「長屋親王」だったことが、明らかになった。
796: 2006/05/23(火) 22:57:40 AAS
>>777
里中さんの「長屋王残照記」はいいね。
何がいいって、長屋王を主人公にしておきながら、
不比等や藤原四兄弟を単なる悪玉にしないところが。
不比等や房前は結構魅力的な人物に思えたよ。
797(1): 2006/05/24(水) 17:47:37 AAS
里中さんは、藤原北家信仰に惑わされている
あの漫画だと長屋王の変の首謀者は房前にされているが
実際の首謀者は、長男である藤原武智麻呂の可能性が非常に高い
奈良時代は基本的に藤原南家が主流で、藤原北家が
藤原氏の主流になったのは平安時代になってから
798: 2006/05/24(水) 23:57:49 AAS
うーん「
799(1): 2006/05/25(木) 01:00:12 AAS
長屋王の変に関しては、岸俊男氏が詳細な研究があるけれど
それによると藤原氏の光明立后の目的は、光明子を皇后にする事で
縣犬養広刀自が産んだ安積親王を。皇太子にする事を
防ぐ狙いがあったからだと結論づけている
確かに縣犬養広刀自の子である安積親王が立太子し、その後
天皇に即位すれば、藤原氏が天皇の側近としての地位を失う
可能性は高い
ところが、藤原四子の中で、安積親王が立太子しても、天皇に
即位しても、側近としての地位を失わないのが藤原房前である
何故なら房前の正室は縣犬養三千代の娘である牟漏女王
つまり房前は縣犬養氏にとっては婿であるから、安積親王が
即位しても、他の3兄弟とは違って側近の地位を失わないのである
したがって、房前には他の兄弟たちと違って、光明子を皇后にする動機が
なく、光明子を皇后にする動機がなければ、長屋王を自害に追い込む
動機もない事になる
800(1): 2006/05/25(木) 01:04:03 AAS
その傍証として、房前の子である藤原八束は、橘奈良麻呂や大伴家持と
共に、安積親王と深い交友関係がったことが、万葉集に記述されている
安積親王の死後(藤原仲麻呂による暗殺という説が有力)、橘奈良麻呂は
黄文王(長屋王と藤原長娥子の子)擁立へとひた走り、一方の藤原八束は
真楯と改名し、仲麻呂政権下では、病と称し、ろくに出仕せずに、自宅で読書三昧の
日々を過ごしたと続日本紀に記述されている
八束としては、安積親王暗殺の疑いがある仲麻呂の元で、議政官として
働く気が起こらなかったのであろう
以上の考察から、藤原房前には長屋王を滅ぼす動機がなかったと
結論づけられる
したがって、長屋王を自害に追いこんだ主犯は、長男の藤原武智麻呂であり
共犯者が三男の藤原宇合であろう
四男の藤原麻呂も謀議に加担したかどうか微妙な存在
801(2): 2006/05/25(木) 01:20:10 AAS
>>797
> 奈良時代は基本的に藤原南家が主流で、藤原北家が 藤原氏の主流になったのは平安時代になってから
え、主流だったのって式家じゃないの?仲麻呂が失脚してからは特にさ。北家の台頭は式家の仲成、薬子が、平城太上天皇とともに、嵯峨天皇と争った時に、蔵人頭として冬つぐ(字でねー)が使えたときから。
802: 2006/05/25(木) 01:37:49 AAS
>>799-800
瀧波説の受け売り乙
その説では八束以外の藤原北家の他の兄弟は安積親王と親しくしてない
のが説明できんのだが、その辺はどうクリアされるのかね。
>>801
見事にやおい番をゲットした君にプレゼントしよう
つ 冬嗣
803: 2006/05/25(木) 01:44:24 AAS
>>801
藤原北家の台頭は藤原内麻呂(冬嗣の父)が
南家の藤原雄友を超越して、右大臣に任じられた時から
その後、南家は伊予親王の変で、大納言雄友と中納言乙叡が
失脚して衰退
因みに式家は、百川の早死にや種継の暗殺なので、なかなか勢力を
維持するのが困難だった上に、薬子の変で大打撃を受けた
しして百川の長男の緒嗣は、左大臣まで昇進したものの、同じ式家である
薬子や仲成の謀叛を恥じたのか、左大臣として権力を行使する事はなかった
つまり北家の一人勝ち状態になったと言う訳です
804: 2006/05/25(木) 01:52:58 AAS
藤原八束は和歌の長けていた
この点で八束は大伴家持とも親交があり
同じく和歌に関心が高かった安積親王とも
交際があった事が万葉集から分かる
他の兄弟は、和歌に長けてなかった
また藤原清河は、牟漏女王の子では無いから
安積親王との交友関係がなかったのであろう
それに藤原房前の後継者は藤原八束
805(1): 2006/05/25(木) 02:02:56 AAS
藤原房前が、美努王と縣犬養三千代の娘である牟漏女王を
正室にしている事は、房前が縣犬養氏一員である事を示している
したがって、聖武天皇と縣犬養広刀自の皇子である、安積親王が
立太子しても、天皇に即位しても房前にとってはマイナス要因には
ならず、むしろ他の兄弟より有利な地位を占める事になったであろう
806(6): 2006/05/25(木) 14:34:54 AAS
確か寺崎氏の書いた「人物叢書 長屋王」では
「房前が長屋王の変に加わらなかったとは考えがたい」と
言ってるね。「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」といってる。
永井路子も「美貌の女帝」の中で、房前は元正上皇と聖武天皇
との間の連絡・折衝を勤めている。
それに確か房前は中衛府の大将じゃなかったっけ?
だけど、中衛府の兵も長屋王邸を囲んでたよね。
大将である房前が長屋王の変に加わってないのに、
中衛府の兵を勝手に動かすことってできるの?
あと、いくら妻が県犬養氏の出でも、妻の一族の娘が生んだ子が
皇位につくよりやっぱ妹が皇后に就いたほうが有利なんじゃない?
807: 806 2006/05/25(木) 15:00:48 AAS
それと房前の後継者は八束じゃなくて、永手じゃない?
位も兄弟中では一番高い正一位左大臣だし。
808: 2006/05/25(木) 17:22:39 AAS
永手は八束より年上だけど議政官になったのは遅い
八束は748年で、永手は757年
それと八束(真楯)が大納言で大臣になれなかったのは
766年に52才で死亡したからです
809(1): 2006/05/25(木) 17:42:58 AAS
>「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
>おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」
単なる憶測で史料的な裏付けがありません
>中衛府の兵も長屋王邸を囲んでたよね
中衛府の兵は長屋王邸の包囲軍には参加していません
衛門府および左右衛士府の兵が長屋王邸を包囲したのです
(「続日本紀」『神亀六年二月十日条』参照)
つまり史料上、藤原房前が長屋王の変に関与していると言う
記述は一切ありません
したがって藤原房前を、長屋王の変の首謀者とするのは
史料に基づかない単なる憶測に過ぎない
小説家なら史料に基づかない見解を述べても自由だけど
歴史学者が史料に基づかない見解を述べるのは・・・
810(1): 2006/05/25(木) 17:57:00 AAS
史料から言えることは、長屋王の変に関与したのは
藤原4子の中では、藤原武智麻呂(長男)および
藤原宇合(三男)の二人だけである
そして史料上、藤原房前(次男)および藤原麻呂(四男)の
長屋王の変への関与はなかった事になる
811(1): 2006/05/25(木) 18:18:42 AAS
>いくら妻が県犬養氏の出でも、妻の一族の娘が生んだ子が
>皇位につくよりやっぱ妹が皇后に就いたほうが有利なんじゃない
光明子の兄は藤原房前だけではない
しかし藤原4子の中で、縣犬養広刀自と姻戚関係にあるのは
縣犬養三千代の娘である、牟漏女王を妻にしている房前だけ
それと四子の中で房前だけが皇族を妻とし、その妻である牟漏女王は
橘諸兄(縣犬養三千代の子)の妹で、橘奈良麻呂(縣犬養三千代の孫)の叔母
*橘奈良麻呂は長屋王の子である黄文王を天皇にしようと策動した人物
つまり皇族、縣犬養氏、橘氏と縁戚関係にあった房前は、藤原氏だけの
利害を追及出来る立場には居なかったと言える
これが南家の武智麻呂や仲麻呂と、北家の房前や八束との最大の
違いである
812: 2006/05/25(木) 18:37:15 AAS
>>811は読み直してみたら、かなり自分の憶測が入っているから撤回します
813(1): 806 2006/05/25(木) 18:44:52 AAS
>>809
>中衛府の兵は長屋王邸の包囲軍には参加していません
>衛門府および左右衛士府の兵が長屋王邸を包囲したのです
(「続日本紀」『神亀六年二月十日条』参照)
???「続紀」の該当箇所を読んでみたけど、長屋王邸を
囲んでたのは「六衛府」の兵士だと書いてありますよ。
あなたの言い分を聞いてると、長屋王邸を囲んでたのは
衛門府と左右衛士府だけで、これだと「三衛府」になりますね。
残りの三衛府はどこにいったんですか?
>>「長屋王を糾問したメンバーの中に房前が加わってないのは
>>おそらく宮中で調整役をしていたせいだろう」
>単なる憶測で史料的な裏付けがありません
>つまり史料上、藤原房前が長屋王の変に関与していると言う
>記述は一切ありません
>小説家なら史料に基づかない見解を述べても自由だけど
>歴史学者が史料に基づかない見解を述べるのは・・・
でも、上のほうで青木氏が「史料に基づかない憶測」で
「長屋は太政大臣に就任するつもりだった」とか言ってるんですから
寺崎氏が「房前は長屋王の変に何らかの形で関与してた」と
いう説を提唱してもよろしいのでは?
それに寺崎氏は何も「長屋王の変の首謀者が房前」だと
言ってるのではないと思うんですが・・・。
「関与しただろう」といってるだけで。
814(1): 2006/05/25(木) 19:50:15 AAS
>>805
>藤原房前が、美努王と縣犬養三千代の娘である牟漏女王を
>正室にしている事は、房前が縣犬養氏一員である事を示している
嫁が県犬養=その一員というのは言い過ぎ何じゃ
じゃなんだ、
武智麻呂の嫁は阿部氏だから武智麻呂は阿部氏の一員ともいえてしまうぞ。
宇合の嫁は石上氏だから(ry
麻呂の嫁は武智麻呂の娘だから(ry
815: 2006/05/25(木) 21:15:26 AAS
>>813
確かにその部分は私の読み間違えでした
六衛府に中衛府も入りますね
>でも、上のほうで青木氏が「史料に基づかない憶測」で
>「長屋は太政大臣に就任するつもりだった」とか言ってるんですから
>寺崎氏が「房前は長屋王の変に何らかの形で関与してた」と
>いう説を提唱してもよろしいのでは?
青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
日本霊異記と言う史料の「“太政大臣”長屋“親王”」という記述に
基づいての見解だと思われます
つまり青木氏の見解は、日本霊異記という史料に基づいていますから
寺崎氏の史料に基づかない見解とは質的に違います
そして長屋親王という呼称は、長屋王邸後から出土した木簡にも
記述されていましたから、長屋王は事実上は親王待遇だったのでしょう
したがって、太政大臣の方も、その官に任官する可能性があった事は
否定できません
816: 2006/05/25(木) 21:22:15 AAS
>>814
しかし、安積親王、藤原八束、橘諸兄・奈良麻呂、大伴家持が
親密な関係だった事は万葉集の記述で証明されております
このうち、安積親王、藤原八束、橘諸兄・奈良麻呂親子を結ぶ糸は
和歌と縣犬養氏の血脈だと言えます
817: 2006/05/25(木) 21:35:45 AAS
それと寺崎氏は長屋王の没年54歳説の人ですから
長屋王の即位の可能性を年齢的に否定していますが
私は長屋王没年46歳説ですから、まだ40代の長屋王には
即位の可能性があったと考えております
そして寺崎氏は長屋王の子の膳夫王には、即位の可能性があったと
考えているようですが、父である長屋王を差し置いて膳夫王が即位する
可能性は、長屋王が即位するより可能性が低いと考えております
818: 2006/05/25(木) 21:51:18 AAS
藤原房前が長屋王の変に関与していたとしたら
聖武天皇の命によって中衛府の兵を出動させた事でしょう
(天皇の命がなければ、兵の出動は出来ない)
*六衛府の兵の指揮を取ったのは式部卿の宇合
それ以外の房前の長屋王の変に対する関与は
史料上どこにも見出すことは出来ません
819: 806 2006/05/25(木) 21:56:52 AAS
>青木氏の長屋王太政大臣就任可能性説は
>日本霊異記と言う史料の「“太政大臣”長屋“親王”」という記述に
>基づいての見解だと思われます
>つまり青木氏の見解は、日本霊異記という史料に基づいていますから
>寺崎氏の史料に基づかない見解とは質的に違います
そうでしょうか?あなたも認めたじゃないですか、
「長屋王邸を囲んだ衛府の中には中衛府もある」
と。前述のとおり、中衛府の大将は房前なんですから、
中衛府の兵士の出動は彼が許可したものと思っても
よいでしょう。となると、房前は長屋王に謀反の罪を擦り付けて
殺すことに賛同したものと思われます。
それが、自発的なものだったのか、武智麻呂に説得されてなのかは
知りませんが(おそらく後者だと思いますけど)。
「続日本紀」はれっきとした正史なんですから、説話集である
「日本霊異記」より信憑性が高いのでは?
故に、あなたの「青木氏の見解は寺崎氏の見解とは質的に違う」
という意見には賛成できません。
また、あなたの「房前は縣犬養氏の姻戚だからわざわざ長屋王を
追い込まなくてもよい立場だ」という意見には欠陥があるように思います。
つまり、「房前が縣犬養氏の姻戚であるのがほかの兄弟より有利である」って
いうのはあくまで安積が皇位を継ぐことが確 実 な 場合でしょ?
房前が「安積が皇位を継いでも自分にとっては同じだから、
長屋王を謀殺することには賛成でなかった」といってますが、
もし長屋王を生かしておけば、安積よりも血筋がいい
長屋の息子膳夫王か、それとも長屋本人が皇位を継ぐ可能性も
あるのではないでしょうか。
となると、房前が縣犬養氏と姻戚であることには何の意味も
なくなります。
820: 806 2006/05/25(木) 22:01:05 AAS
と思ったんですが、私の疑問に上のほうで答えてくださって
ますね。
すみません、書き込みが前後したようです。
>それ以外の房前の長屋王の変に対する関与は
>史料上どこにも見出すことは出来ません
それで十分なんじゃないんですか?
全く書かれてないわけじゃなし。
821(1): 806 2006/05/25(木) 22:05:43 AAS
だって、長屋王の「太政大臣就任」だって「日本霊異記」以外の
どこにも見出すことはできないんでしょう?
822(1): 2006/05/25(木) 22:26:12 AAS
>>821
そんな事を言い出したら、長屋王の没年齢54歳は
「懐風藻」以外の史料には全くありませんがw
だから、懐風藻だろうが日本霊異記だろうが、史料に基づいての
見解なら、議論の対象になりうるが、史料に基づかない見解は
良く言えば単なる憶測、悪く言えば電波
823: 2006/05/25(木) 22:32:37 AAS
>中衛府の大将は房前なんですから、
>中衛府の兵士の出動は彼が許可したものと思っても
>よいでしょう。となると、房前は長屋王に謀反の罪を擦り付けて
>殺すことに賛同したものと思われます。
中衛府の兵に出動を命じられるのは聖武天皇ですよ
勅命に逆らえる訳ないですから、中衛大将である房前の
内心を判断し得る史料とはなり得ません
824: 2006/05/25(木) 22:44:28 AAS
その「日本霊異記」の記述である長屋親王が
長屋王邸の出土木簡にも記述されていたのだから
長屋王は令の形式上は王だけど、事実上は親王扱い
だった訳で、日本霊異記の記述を否定する事は出来なくなった
それならば、もう一方の太政大臣という記述も、長屋王が
任官する可能性があったから、そう記述されたとの解釈が出来ます
825: 2006/05/25(木) 22:54:00 AAS
だいたい長屋王は初叙の時から、令の規定である従四位下ではなく
勅命によって、正四位上という破格の位階を授かられているのだから
彼を令の形式規定で考えるのは無理なのです
長屋王の子である膳夫王も、初叙は令の規定では従五位下に
なるところを、2世王扱いを受けて従四位下という、これまた
破格な位階を授けられていますから、長屋王家自体が令の規定に
縛られない存在だったと解釈する他ありません
826: 2006/05/26(金) 02:00:25 AAS
ワケワカランから
おまいらトリップつけろや
827(1): 2006/05/26(金) 21:01:52 AAS
舎人親王や新田部親王は、内親王を妻にしてないし
藤原不比等の娘も妻にしていない
ところが長屋王は元明天皇の皇女である吉備内親を正室に迎え
藤原不比等の娘である長娥子を側室にしている
つまり令の規定では、舎人や新田部の方が親王だから皇族内での
地位は長屋より上だけど、実質上は長屋王の方が舎人親王や
新田部親王より上だったと言える訳です
令の規定に縛られない特別の地位を保持していた事が
結局は仇となって長屋王家の悲劇に繋がったのかも知れません
828: 806 2006/05/27(土) 17:16:02 AAS
>>822
え?私は一度も没年齢が五十四歳だといってませんがw
あ、ひょっとして、私が寺崎氏の説を引用してるから
私も五十四歳説賛成派だと思ったんですかww
別に、その人の学説をすべて支持してるわけではありませんよ。
あなただって、青木氏の五十四歳説を否定しつつ、
長屋太政大臣就任説は肯定なさってるじゃありませんか。
私は上のほうで散々議論されている問題ですし、要するに
この時点で結論が出ない問題のようですから、その点は
言及しないでないでおきました。
>だから、懐風藻だろうが日本霊異記だろうが、史料に基づいての
>見解なら、議論の対象になりうるが、史料に基づかない見解は
>良く言えば単なる憶測、悪く言えば電波
だから、ちゃんと房前が関わってることが「続日本紀」に
書いてあるじゃないですか。
まあ、そういうと、
>中衛府の兵に出動を命じられるのは聖武天皇ですよ
>勅命に逆らえる訳ないですから、中衛大将である房前の
>内心を判断し得る史料とはなり得ません
と反論なさるんでしょうけど、「内心を判断できない」ん
だったら、房前が「勅命に逆らえず仕方なく」中衛府
出動を許可した、という証拠もありませんよね。
つまり、この時点で、あなたも私も同じく証明することが
不可能ってことになりますよね。
つまり、この問題に関しては結論が出ない、でよろしいでしょうか。
>>827
その考えには全面的に賛成です。
長屋は舎人や新田部親王から反感を
かってたと思う。
829: 2006/05/27(土) 19:10:33 AAS
>「内心を判断できない」んだったら、房前が「勅命に逆らえず仕方なく」
>中衛府出動を許可した、という証拠もありませんよね。
>つまり、この時点で、あなたも私も同じく証明することが
>不可能ってことになりますよね。
>つまり、この問題に関しては結論が出ない、でよろしいでしょうか。
上記の見解に同意致します
830: 2006/05/28(日) 01:53:56 AAS
>この時点で結論が出ない問題のようですから、その点は
>言及しないでないでおきました。
54歳説の最大の弱点は、676年生まれだと長屋王は29歳まで
無位でいたことになるが、それに対する合理的説明が出来ないこと
54歳説論者の中で、木本氏だけがその事を説明しようとしたけれど
木本説の最大の弱点は、天武朝や持統朝においても、皇族に対して
位階が授けられていた史実を見逃している点
皇族に対して位階を授ける制度が、大宝律令制定以降であったならば
木本説でも問題はないが、天武朝(685年)の位階制度改革で
天皇と皇后を除く成年皇族(皇太子も含む)は、位階を授かられる
対象者になったと言う史実がある
したがって、676年(54歳)説だと、持統朝で既に成年に達した長屋王が
位階を授からず無位でいた事の説明は不可能と言える
何故なら位階を持たなければ、宮中や太政官で活動する事が不可能であり
父である高市皇子が没した後、その後継者である長屋王が、宮中でも
太政官でも活動できない立場に置かれたまま、29歳まで歳を重ねた
と言うのは余りにも不合理であり、到底納得出来るモノではない
これが684年(46歳)説だと、704年に21歳(成年)に達した長屋王に
位階が授けられたと言う、非常に合理的な説明が可能になるのである
831(1): 2006/05/28(日) 01:56:57 AAS
序に言えば、長屋王が令の規定である従四位下ではなく正四位上を授けられたのは
壬申の乱の英雄で、後皇子尊(*)と称された太政大臣高市皇子の嫡男で
あったからであろう
(*)『後皇子尊薨』「持統十年七月十日条」(日本書紀)
因みに天武の皇子で尊の尊称が記述されたのは、皇太子草壁皇子と
太政大臣高市皇子の二人だけである
また薨じた時の位階は草壁皇子、高市皇子とも浄広壱位で同位階であり
位階と尊称から高市皇子は、草壁皇子の没後は事実上、皇太子と
同じ待遇を受けていたと言える
832: 2006/06/27(火) 19:46:52 AAS
この人、長屋に住んでたんだってな。
833: 2006/07/02(日) 18:16:25 AAS
うほ
834: 2006/07/14(金) 01:04:19 AAS
馬鹿店舗
835: 2006/07/17(月) 10:15:27 AAS
神皇正統記(抜粋)
継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
836(2): 2006/08/09(水) 17:06:16 AAS
>継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが
そうだっけ?
837: 2006/08/15(火) 14:41:27 AAS
戦争責任は人類すべての人間にあるのです
野生の動物の世界は弱肉強食の悪法がはびこり、戦争状態である。たとえ、
百獣の王ライオンであっても、その子はハイエナに食われる。人間の世界も物
欲によって争闘し、最後には殺し合いとなる。これは人間の欲望に限りがない
からであり、ぜいたくを享楽しているためである。肉食は食欲のぜいたくの極
みであり、これを得るためには家畜を殺し、弱者を犠牲にしなければならない。
動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。これでは、人間の霊性は獣と
何ら変わることがなく、自分の子供がハイエナに食われても文句が言えない。
人間の横暴によってすべての生物が地獄の苦しみにあえいでいる。先の大戦
の犠牲者はこうした人間の行為の償いであり、神からの啓示である。だから、
戦争責任は人間が自らの行為を反省することなく、物欲を発揮してぜいたくを
むさぼっている、人間一人一人にあるのです。
偽科学が常識を盲信させる
非ユダヤ人において、科学の盲目的信仰が功を奏しているようである。学校
の教科書で教えられる事がすべて正しいと信じる。こういった人々にとっては
権威ある学会が言うことのみが正しく絶対なのである。
ユダヤ議定書(第2議定書)
非ユダヤ人は歴史を基礎とする観察を怠り、専ら理論上の旧弊に囚われて、
その結果に対する批判的工作を忘却している。我々は新聞雑誌を利用してこの
科学理論を盲目的に信用させる。非ユダヤ人の知識階級は自己の知識を誇りと
して、科学から得た知識でものを考えようとする。その知識を論理的に吟味も
せず、その知識なるものが、人間を我々の目的の実現に向けて、教育するため
に作られた事に気がつかないのである。悪魔の世界制覇に向けて。我々の主張
を根拠なきものと思ってはいけない。我々の仕組んだところのダーウィン、マ
ルクスの教説の成功に注意なさるがよろしい。これらの教説は非ユダヤ人の心
に破壊的作用を及ぼした。ダーウィンの進化論は常識となっている。チンパン
ジーは何時になったら人間となるのか。急には進化できないから、その中間の
形態のものが存在しなくてはならない。
838: 2006/08/15(火) 14:43:53 AAS
プラムさすがに50過ぎ!団塊下左回りの面目躍如だな!
839: 2006/08/19(土) 16:01:46 AAS
天皇家はフリーメーソンだった
狛犬を研究して分かった事だが、神社の前に護りの神獣として据えてある狛
犬の起源は古代イスラエルまでさかのぼる。向かって右の狛犬は獅子であり、
左のものは狛犬で本当の姿は一角獣の麒麟である。右左で阿吽の形になってい
る。
古代のイスラエルは北王国ヨセフと南王国ユダの二つに分裂していて、ヨセ
フ王国の紋章が一角獣(ユニコーン)であり、ユダ王国の紋章が獅子である。皇
室に伝わる紋章には右に獅子が、左に一角獣(ユニコーン)が描かれ、中央には
12匹の獅子が描かれている。これはイスレエル12支族を表している。
ヨセフ王国の10支族が中央アジアに移った。彼らは肌の色が白いことから
白狄族と呼ばれ、ヘブライ文明の高い技術力で騎馬軍団を組織して中国を制覇
し、秦帝国を築いた。秦帝国滅亡後、北魏を建国した。後に朝鮮に移って百済
王家にとって代わった。
百済王子豊璋と新羅王武王が三韓の挨拶の時に聖徳天皇を殺害し、中大兄皇
子(百済王子豊璋)は一時難波へ逃れ、聖徳太子の子高市皇太子と孫長屋親王を
殺害して、草壁皇子にすり替わったのである。その前は中大兄皇子に化けてい
て、大化の改新の後ずっと、天皇に成れなかったのは聖徳太子の子が天皇に成
ったためで、推古、皇極天皇などの女帝は虚構で、その後に天智天皇となり、
自分の子を文武天皇にしたのある。こうして、日本はフリーメーソンの陰謀に
よって乗っ取られたのです。
840: 2006/08/26(土) 16:28:35 AAS
日本書紀に隠されていた暗号
なぜ、男性天皇であった伝統が聖徳太子の時代から女性天皇に変ったのか。
このことに疑問を感じないのは不思議である。日本書紀は矛盾点が多く改ざん
されている可能性があるため、内容が難解で改ざんしにくい先代旧事本紀大成
経を調べてみると、推古天皇治世の中に突然、欽明天皇の事績が出てくる。こ
れにも改ざんの魔の手が伸びていた。何か手がかりがないかと見ていると、見
出しが目に入った。帝皇本紀上巻上に継体天皇の事績が書かれている。その後
を推定すると、上巻下が安閑天皇、中巻上が宣化天皇、中巻下が欽明天皇、下
巻上が敏達天皇、下巻下が崇俊天皇となる。次が聖皇本紀上巻上となっている。
聖徳太子の聖の字と一致するから、聖徳天皇に推定する。上巻下は高市天皇、
下巻上は天武天皇、下巻下は長屋天皇となる。このように推定した根拠を示す。
日本書紀によると、欽明天皇と石姫皇后の間に2男1女が生まれ、皇太子は
箭田珠勝大兄皇子と言い、二男は渟中倉太珠敷尊と言う。ここでおかしいのは、
二男の名前が本名でなく、諱(死後の尊称)であり、珠の一字からこれは箭田珠
勝大兄皇子の諱である。すると敏達天皇が亡くなればその皇太子が天皇になる
から、用明天皇の存在が消えてしまうのである。敏達天皇と広姫皇后の皇太子
押坂彦人大兄皇子の又の名を麻呂古皇子と言い、用明天皇と広子の長男も麻呂
古皇子と言う。同じ名前なら入れ替えても同じであると言う事は入れ替わった
と言う暗号である。押坂彦人大兄皇子は麻呂古皇子(朝鮮人)に入れ替わったの
である。彼は皇太子なのに天皇になれず、いつ亡くなったのか分からない。ま
るで聖徳太子とそっくりである。聖徳太子の正体は押坂彦人大兄皇子で、皇位
継承第1候補者で天皇になっていた。このことを隠すための嘘の女帝が推古天
皇である。用明天皇は聖徳太子の血筋を朝鮮人に卑しめて、天皇になれなかっ
たとするための虚構である。高貴な天皇家が朝鮮人を妻とする筈がない。
841: 2006/08/26(土) 16:31:29 AAS
朝鮮人が聖徳太子を暗殺したことが証明された
日本書紀によると645年に大化の改新の政変が起こり、蘇我入鹿は中大兄
皇子と中臣鎌足らに暗殺された。それを目撃した古人大兄皇子は走って帰り、
「韓人、鞍作臣(蘇我入鹿)を殺しつ、吾が心痛し。」と言った。朝鮮人が蘇我入
鹿を殺した。胸が張り裂けそうだと言った。史学会の学者は現場に朝鮮人がい
ないので、朝鮮の政治がらみで殺したと歪曲した解釈にした。騙されている先
入観でものを考えるから、判断を誤るのである。朝鮮人は中大兄皇子(百済王
豊璋)と中臣鎌足(新羅武王)らである。
大阪府にある野中寺の弥勒半跏思惟像には次のように書かれている。天智5
年(666)栢寺の智識ら、中宮天皇の大御身労き座しし時に詣り、誓願して弥
勒の御像を奉る。栢寺の縁者が中宮天皇の病気平癒を祈願して弥勒像を贈った。
中宮とは皇后と言う意味ではなく、宮に中(あ)たると言う意味で天皇を指す。
上宮が聖徳太子であるから、中宮は聖徳太子の子・高市皇太子、下宮はその孫
・長屋親王となる。高市天皇は毒殺された。
二人は天武天皇の血筋ではない。
天智7年(668)に中大兄皇子は天智天皇になる。23年間皇太子のままで
いたのはおかしい。成れない事情があったのです。高市天皇が亡くなって成れ
た。この時の斉明天皇は嘘。中大兄皇子が生まれた年は625年で、大海人皇
子は621年である。天武天皇の方が兄である。中大兄皇子の周りは胡散臭い。
文武元年(697)に軽皇子は文武天皇になる。高市皇子が亡くなるのを待っ
ていたように。この高市皇子は嘘で長屋親王である。この時の持統天皇は嘘。
女帝は聖徳天皇らを隠すための隠れ蓑の役割である。聖徳太子の暗殺を隠すた
めに645年を挟んで太子の事跡を前年にずらし、長屋親王が太子の孫である
ことを隠すために彼の事跡を後年にずらしているのです。
842: 2006/08/31(木) 13:05:00 AAS
資本主義経済は悪魔の偽りの経済だ
資本主義経済は弱者の犠牲の上に成り立つ経済であり、ちょうど江戸時代、
武士が百姓を奴隷にして重い年貢を取り立てて、百姓の生き血をすすっていた
事と同じである。その時は生き血をすすられて犠牲になる者が大勢いたから、
経済がなりたった。今のようにぜいたくになって、犠牲になる者が農家しかい
ない状態では経済が成り立つ訳がない。それが今の不況の原因である。勝ち組
が負け組の生き血をすすっているのだ。悪魔の吸血鬼アメリカに国益を絞り取
られ、国が破産しているのにそれを借金で誤魔化している。最後には国に、金
と資産をかすめとられ、円が大暴落して、日本は物を輸入することが出来なく
なって、食料危機となり大パニックとなる。後は戦争を待つのみ。
2・26事件はその悪魔の資本主義経済が原因で起こった
昭和11年2月26日、青年将校率いる決起部隊が政府要人を殺害する事件
が起きた。首謀者は暗黒裁判によって裁かれ銃殺刑に処せられた。
当時の日本は世界大恐慌の影響で経済が沈滞し、関東大震災によって発生し
た大量の不良手形が原因で銀行、企業が相次いで倒産し、民衆は金に困窮して
生活苦にあえいでいた。農村はアメリカ向け輸出生糸の暴落とそれに連動して
米価が暴落し、東北地方はそれに輪をかけて凶作にみまわれて飢餓に苦しみ、
娘の身売りなどで命の糸をつないでいた。
民衆が塗炭の苦しみにあえいでいる原因は、政権維持にしか眼中にない政党
と、これに結託し民衆の膏血を絞る財閥と、これを擁護して圧迫する官僚と腐
敗する軍部にあり、これらの特権階級が搾取しているからである。したがって
、疲弊した農民を救うためには、税金の免除と米価の安定を図る必要がある。
その障害となる特権階級の奸賊を倒し、国民を愛する天皇の考えが行き届く国
家に建て替えようと青年将校が決起した。しかし、昭和天皇は朝鮮人で偽天皇
だから、奸賊と同類で、彼らの尊い意志を無視して抹殺した。
彼らが頼りにした真崎大将はソ連の工作員で、満州侵略に反対していた皇道
派の軍人を抹殺するために、青年将校をそそのかし、実行させたのである。天
皇を中心とした統制派の軍部の陰謀である。
843: 2006/09/02(土) 12:34:16 AAS
長屋親王は天皇になっていた
天皇は中国語読みではてんのうだが、日本語読みではあめのすめらきと読む。
天孫降臨説から天を前につけているが、皇の一字で天の下を治める尊と言う意
味である。また、王は1国を治める君主である。皇子は天皇の嫡流の子で親王
はその孫である。王子は嫡流外の子を指す。
昭和63年から長屋親王邸の木簡の発掘調査が行われた。邸宅は5.7ha
の広さで、不比等邸に匹敵する。
宅地東辺に掘られた溝から大量の木簡が発見された。
長屋親王宮大贄鮑十編
これは長屋親王に献上された干しアワビに付けられた荷札で、大贄とは天皇
の食物を表す。長屋親王は皇太子になる前に、天皇の代理を務めていた?献上
する者が親王と尊称し、大贄と書いた。
吉備内親王大命以符 婢筥入女進出
吉備内親王の命令で端女の筥入女を呼び出す。大命とは天皇の命令を表す。
これは長屋天皇の死後、その室である吉備内親王が天皇の代理を務めていた?
長屋親王御命符
長屋親王の命令書に御命が使われており、これも天皇の命令を表す。
長屋皇宮俵一石舂人夫
長屋天皇の宮で人夫が米一石搗く。
後皇子 後皇子命宮
後天皇の子 後天皇の子の宮殿
芳野幸行用貫簣
天皇の芳野御幸(外遊)用荷物
長屋親王邸の木簡が千年以上の間保存出来た理由は、粘土によって密閉され
て、空気と水から遮断されていたからです。溝に廃棄後すぐに、粘土で埋めら
れたと考えられる。すると、この木簡を後世に残そうとした意図が読み取れる。
以上のことから推論すると、長屋親王が前皇(聖徳天皇)の孫で後皇(高市天
皇)の死後、長屋親王が天皇の代理を務めたのは祖父、父が相次いで殺された
からである。後に天皇になったが藤原氏の陰謀によって毒殺された。その室吉
備内親王が天皇の代理を務めていたが、長屋天皇一族すべてが殺された。その
事実を後世に残そうとして、家臣が木簡を土に埋めて隠したのである。
844: 2006/09/16(土) 18:50:02 AAS
聖徳太子の謎
蘇我馬子の専横によって、蘇我稲目の娘の子が用明天皇になり、次に崇俊天
皇になった。崇俊天皇が暗殺されて、蘇我氏の血筋の男子が絶えた状態になっ
た。当然聖徳太子が天皇になれば良いのに、用明天皇の妹が推古天皇になった。
なぜ、太子は天皇になれなかったのか。摂政を務めるなら天皇になれば良い。
この後押坂彦人大兄皇子の子が舒明天皇になり、其皇后が皇極天皇になった。
皇極天皇在位中に蘇我入鹿が専横の罪で中大兄皇子に暗殺された。彦人皇太子
は蘇我氏の血筋ではない。なぜ、天皇の血筋が本筋に戻ったのか。どうして、
本筋に戻った事が蘇我入鹿の専横となるのか。皇極天皇は後に斉明天皇になる。
この辺りの皇位継承はおかし過ぎて話しにならない。時の彦人皇太子がいつ亡
くなったのか分からないのもおかしい。
聖徳太子は仏教を普及させた事になっているが、神道の奥義書、先代旧事本
紀大成経を撰述している。この中に予言書の未然本紀がある。神仏論争時代に
この両立は難しい。
太子の正妃は莵道貝蛸皇女であるが、太子が病となり、妃の膳大郎女が看病
して二人が同時に亡くなった。太子の死亡年が621年と翌年の2説ある。太子
を妻でなく妾が看病し、二人が同時に死亡し、その年が2説ある。こんな話は
不自然であり、2説あるのは捏造の疑いがある。
「上宮聖徳法王帝説」に、聖徳太子と山背大兄王が親子でないと言う人がいる
ようだが、それは良くない事だとある。そのように言論統制するのは本当の事
が広まると困るからである。書記は太子の子が山背大兄王だと言っていない。
729年に長屋王が死亡し、737年藤原不比等の4子が疫病で死亡した翌年から
藤原氏が法隆寺の食封を再開し、夢殿を建立した。これらの行為は長屋王の怨
霊封じであり、長屋王が太子の孫だと分かると、法隆寺が太子一族の怨霊封じ
の祈祷をした事が分かる。
隋書に、600年倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤(天足彦)で天下を支える
男(天皇)となる。この時は推古天皇で男の天皇は聖徳太子以外は考えられない。
845: 2006/09/16(土) 18:53:55 AAS
法隆寺の謎
聖徳太子は607年に法隆寺を父用明天皇の為に薬師如来像を本尊として建てた。
しかし、623年に太子の菩提を願って遺族が造った釈迦如来像と鎌倉時代の阿
弥陀如来像が同じ金堂に三具並んでおり、中央の釈迦如来像が本尊だと分かる。
薬師如来像は釈迦如来像に比べて鋳造技術が進歩した物であり、前者の方が後
作となり、製造年が逆転する。法隆寺の本尊が2具あるのはおかしい。
書記に670年に法隆寺が焼失したとある。しかし、「法隆寺縁起幵記資財帳」
には再建されたと言う記載が無く、建物の尺度が大化の改新以前の高麗尺で後
の唐尺でないから、再建説は成り立たない。様式も雲形斗?など飛鳥時代の物
である。西院伽藍内を掘ったが焼土は無かった。
すると、若草伽藍説が出てきたが、再建するなら同じ場所に建てる筈で、法
隆寺の南に面する向きと若草伽藍では、ずれている。区画の時代が違うのだ。
609年に造られた飛鳥寺の丈六如来像の大衣は、右肩から前を覆って後ろへ
回して左腕前膊にかけているから襟が2重である。しかし、法隆寺の釈迦如来
像は襟が1重で最後は左肩の背面に垂れている。作者は両方とも止利で、前作
が正しく着用し後の物が着用法が分からないのは理解に苦しむ。釈迦如来像は
溶銅が拙く鋳造し直した跡がある。
このように文化が衰退したのは侵略されたからであり、大化の改新を境とし
て飛鳥から天平へと移り、唐様式になったのも侵略が原因である。
書記が670年に法隆寺が焼失したと記した目的は、唐文化によって再建した
事にしないと飛鳥文化の技術の高さを否定出来ないからだ。
やはり、聖徳天皇は大化の改新時に暗殺されて、それを隠蔽する為に622年
に病死したと言う嘘を後世に残す為に釈迦如来像が造られ、薬師如来像は聖徳
太子の様な聖者が仏教を勧めたと言う方便で仏教を普及しようとした。其像が
あった寺が太子の崇りで焼失したから法隆寺に移したのである。
846: 2006/09/17(日) 17:16:50 AAS
アメリカの正体を見破れ
米国はドルを湯水のように印刷しても、各国がドルを買い支えてくれる。日
本は円高になると輸出不振となるため日銀がドル買いをする。この資金は外資
の餌食となる。
米国の外資が不良債権で6兆円を注いだ新生銀行を10億円で買い叩いた。
旧長銀の負債は免除された。
1985年プラザ合意によって円高不況になり、1987年景気を良くする為に公定
歩合を引き下げた。インフレ傾向になった為、公定歩合を引き上げ、不動産融
資総量規制を行うと、1990年バブル崩壊が起きたとある。しかし、これは計画
的に起こされたのである。米国のソロモン・ブラザーズ証券等が事前に売り逃
げして、巨万の利益を上げた。これらの外資が日本政府とくるんで意図的に株
価操作を行った。デリバティブ(株の先物取引)を利用して株価が下がる方に投機
したのです。バブル崩壊はアメリカが仕組んだ株と土地のいかさま博打である。
米国は日本製品を、ダンピング関税、スーパー301条、いわれのない損害賠償
等で締め出した。米国はいんちき国家である。
米国はユダヤ悪魔教徒の秘密結社(フリーメーソン)が支配する国家で、軍産
複合体は戦争によって成り立ち、資本経済は戦争後の復興事業で不況を脱して
来た。
アメリカは真珠湾攻撃の騙し討ちや9・11テロ(自作自演)等で戦争の口実を得
て、軍事大国になり、核の威嚇外交で国を支えている。
オーム真理教の村井秀夫が右翼に刺された時に「ユダにやられた」と言ったの
はフリーメーソンの意味。ユダヤを敵視して様に見せていたのは、高等戦術で
ある双頭作戦で、戦争は相手が無いと出来ない。自由主義も共産主義もフリー
メーソンが作ったもの。
郵政民営化は郵便貯金等を外資に貢ぐ為のもの。
ジェイコム株上場の株価誤入力事件は、新生銀行からの転職者が行った陰謀
で、外資が暴利を得た。10分間で大量のデーターの中から誤入力を見つけて買
い付ける事は難しい。
堀江貴文が行ったニッポン放送買収資金は、リーマン証券から受けたもので、
逮捕によるライブドアの株価下落等によって、外資は不当な利益を得た。
847: 2006/09/18(月) 09:11:58 AAS
ファチマ第3の予言
貴方たちは、私の忠告を妄想だと言って無視したり、自分の知識を誇って、
無知だとあざ笑って、自尊心を満足させましたね。それで、改心の機会を失い
ました。
麻原の死刑が確定したように、貴方たちの死刑も確定しました。原爆の超高
熱で焼かれるのです。どこへ逃げても、天変地異によって、マグマと津波の生
けにえになる。たとえ、あの世へ逃げても、地獄の極熱の業火で、魂まで焼き
尽くされる。悪業の報いを受けるのである。そうしなければ、犠牲になった動
物たちの魂を救えないし、宇宙が破滅する。
聖母マリア像が血の涙を流している。神が貴方たちを哀れんで、救えない苦
しみの血涙を流しているのです。
848: 2006/09/21(木) 20:07:39 AAS
>>831の続きでいいの?
849: 2006/11/01(水) 08:25:53 AAS
いいよ
850: 2006/11/01(水) 11:23:51 AAS
然し、高市は大政大臣であって、皇太子では無かった。
長屋も、皇太子には結局成れなかった。
永高内新王が、首は未だ幼いと云う事で即位した様に、長屋も出来たはず。
成れなかったのは、母の身分とか、三世王とかではなく、
「胸形氏」の血筋だったからでは?
彼方は、新羅と組んでイロイロやってるし。
と想像してみる。
851: 2006/11/02(木) 02:50:43 AAS
長屋王自体は太政官のトップである左大臣で満足だったろう
ただ聖武と光明の皇子である基親王の夭折で
長屋王と吉備内親王(草壁皇太子と元明天皇の皇女)の間に
生まれた膳夫王にも即位のチャンスが回って来た
聖武と光明の子は阿部内親王だけ、安積親王は縣犬養広刀自の子
だから母の身分が低い
そして長屋王の子のうち、吉備内親王所生の子は、律令の原則である
男系主義は取らずに、元明天皇の孫として2世王扱いとすると言う
元明の発した勅のおかげで、2世王として充分に即位の可能性があった
852: 2006/11/03(金) 15:50:14 AAS
穂積親王も、長屋王みたいなもんだったのかな?
一品になった途端亡くなったけどね。
生きていれば、大伴家も長屋も違ったに思うう。
853: 2006/11/03(金) 16:01:37 AAS
穂積親王の母親は壬申の乱で大友皇子の重臣だった蘇我赤兄の娘。
「卑母」とはいえ壬申の乱で大活躍した高市皇子、その息子の長屋王より立場は弱かったと思われ。
まあ穂積親王がもうちょっと生きてたら大伴氏もあそこまで逼塞することはなかったかもね
854: 2006/11/11(土) 22:07:37 AAS
578 :名無しさんの主張 :2006/11/01(水) 23:46:54 ID:???
外部リンク[html]:rawstory.com
ドイツ通信社のマツモト・チエ記者GJ!
> The princess, who once received sympathy due to the
> immense pressure put upon her, is now the recipient
> of public scorn for holidaying instead of fulfilling
> her official obligations.
以前は(世継ぎ問題で)非常に大きなプレッシャーをかけられている、
という理由で同情を受けていた(雅子)妃だが、今では公務の代わりに
休暇を楽しんでばかりだと国民から批判されている。
> The media was quick to note that Crown Princess Masako's
> last public appearances - at a Tokyo zoo, Tokyo Disneyland
> and attending a ceremony at a kindergarten with her daughter
> Aiko - were possibly an attempt to divert media attention away
> from her pregnant sister-in-law.
最近の都内の動物園、ディズニーランド、学習院行事などでの公的な
露出も、妊娠中の義妹(紀子妃)への注目をそらす努力の一環ではないかと
当初よりメディアにより指摘されている。
855: 2006/12/16(土) 14:12:04 AAS
ほほう
856: 2006/12/18(月) 16:34:30 AAS
長屋王を失ったのも大きい
大伴旅人は藤原氏ではなく
長屋王に近かったと思われるから
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