[過去ログ] 北周、北斉、陳の鼎立時代を語れるものはいないか (259レス)
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1: 2020/02/29(土)17:14 ID:0(1/253) AAS
「斉、陳、周の三国鼎峙」
資治通鑑より
2: 2020/02/29(土)20:11 ID:0(2/253) AAS
北斉の皇帝の暴帝ぶりを
面白がりながら見る時代だ

自分が住むのは絶対嫌だが
3
(2): 2020/02/29(土)20:57 ID:0(3/253) AAS
魏呉蜀のときは、蜀が小さすぎて事実上の魏呉による南北朝時代であり、しかも「天下の3分の2は魏」と言われるほど国力に大差があった

周斉陳の時代のほうが、「三国鼎立」と呼ぶにふさわしい状況
4: 2020/02/29(土)21:09 ID:0(4/253) AAS
状況としては魏呉蜀より、曹操と袁紹が華北を二分して対立する中、孫策が江東を統一して南で台頭してきたAD2世紀末の状況に似ているのではないかと思う

袁紹は国力に勝り、曹操は勢いに勝る。孫策もまた侮りがたい。

ここで、北斉が袁紹、北周が曹操、陳が孫策に相当する。そんなイメージ
5
(1): 2020/03/01(日)08:16 ID:0(5/253) AAS
>>3
いや
この時代は陳が小さすぎる
北周と北斉の2強対決と言っていい
6: 2020/03/01(日)08:36 ID:0(6/253) AAS
>>3
蜀と呉の人口比は
1:1・5で小さすぎるってことはない
まあ不可侵条約結んでたから実質南北朝みたいなもんだが
7: 2020/03/01(日)08:57 ID:0(7/253) AAS
>>5
国力についてはその通りだが、軍事的にはむしろ、東晋の桓温に次いで南朝が健闘した時期
8: 2020/03/01(日)09:37 ID:0(8/253) AAS
陳の宣帝の北伐

573年、北斉では後主の暴虐が激しくなっていた。陳の宣帝は、北斉討伐を提唱した。公卿達は反対したが、呉明徹だけは決行を唱えた。
宣帝は、呉明徹を都督征討諸軍事に、徐陵を監軍事に任命し、十万の軍で北斉討伐を命じた。

北斉は、揚子江からジョ水まで掘で繋いで防衛線として、水中には大木の柵を築いた。
呉明徹は、程文季を先鋒として、驍勇の士卒を与えた。程文季は柵を抜き、敵を撃破した。
魯廣達が合肥の南で北斉軍と戦い、撃破した。 
北斉軍は、体が大きくて膂力のある人間を選んで先鋒とした。中でも西域胡は、射撃が巧くて百発百中だったので、皆は一目置いていた。

北斉と陳は石梁で戦った。
戦う寸前、呉明徹は、蕭摩訶に言った。
「もしも、あの胡を殺せば、敵軍の志気は崩れる。君の軍才は、関羽にも負けまい。」
省11
9: 2020/03/01(日)11:51 ID:0(9/253) AAS
呉明徹は、王林が軍を立て直す前に討つべきだと考え、夜襲を掛けて撃破した。寿陽の兵卒は、相国城まで退却した。
呉明徹は、寿陽を攻撃した。彼は肥水を堰き止めて、城を水浸しにする。城内には病気が流行り、六・七割の人間が死んでしまった。

北斉の朝廷は、寿陽に救援軍を送った。その軍勢は数十万。しかし、尉破胡が敗北したばかりなので北斉軍は怖じ気づいており、寿陽から三十里のところに留まって、なかなか進まなかった。

呉明徹の諸将が言った。
「堅城を抜く前に、大軍が救援に来ました。どうしましょうか?」
 すると、呉明徹は言った。
「兵は神速を尊ぶ。それなのに、奴等は屯営したまま進まない。自ら戦意を挫いているのだ。奴等には、戦う気はない。」

呉明徹は自ら武装して四面から寿陽へ猛攻を加えた。遂に、その一角が崩れ、王林を捕らえて建康に送った。援軍の将は北へ逃げた。陳軍は、彼等が残した輜重を奪った。

呉明徹の陣中には、王林の元の部下だった将兵が大勢いた。彼等は、王林が捕らわれるとこれを伏し拝み、仰ぎ見ることのできる者はいなかった。そして、彼等は争うように王林の助命を嘆願した。
省1
10: 2020/03/01(日)11:54 ID:0(10/253) AAS
↓上記は、このサイトの要約

http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/tinnhoku.htm

北斉を討った南朝最後の名将・呉明徹だが、はたして、良かったのか、悪かったのか。

というのも、弱体化した北斉が、北周の武帝に滅ぼされてしまったからだ。
華北を統一した武帝。もはや、南朝・陳の運命は風前の灯火となった。
11: 2020/03/01(日)14:23 ID:0(11/253) AAS
漢 禅譲→ 魏 禅譲→ 晋 禅譲→ 宋 禅譲→ 禅譲→ 斉 禅譲→ 梁 禅譲→陳

陳こそ漢民族の古代からの流れをくむ国だったのに
12: 2020/03/01(日)16:45 ID:0(12/253) AAS
三国志のハイライトは、なんといっても、曹操VS袁紹の華北対決だという人が少なくない。
実際、曹操が袁紹を倒して華北を統一してからは、「天下の3分の2は魏」と言われるほど北が南を圧倒していたので、群雄割拠といってもイマイチ盛り上がりに欠ける。

400年後の隋末の群雄割拠を描く「隋唐演義」でも、盛り上がるのは長安の李淵と、洛陽の王世充の華北対決。歴史ドラマはたいてい、唐が北朝を統一したところで終わる。
実際には、復活した南朝の蕭銑との死闘がそこから始まるのだが、ここはスルーされることが多い。

それと同じように、北周や北斉の時代を描く歴史ドラマも、南朝の陳はあんまり出てこない。
北周の武帝とか、北斉の蘭陵王あたりが見どころだ。
13
(1): 2020/03/01(日)17:30 ID:0(13/253) AAS
五代十国や南北朝の時代を描いた演戯もあるのに
4大奇書に
三国志が入ってるのは
南北朝や五代十国と違って
三国時代は漢民族が主役で異民族がわき役だから
講談師も気合入って書きやすかったからだろう

五胡南北朝や五代十国だと完全に異民族も主役の一端を担っている
しかも南北朝の場合、最終的に凝った隋は異民族の流れだし
14: 2020/03/01(日)18:11 ID:0(14/253) AAS
>>13
どっちかって言ったら、むしろ、講談で人気があるのは、漢民族の英雄が異民族を倒すストーリーだな

「三国志演義」の評価が高いのは、作者の羅貫中が優れた知識人だったため、文学作品として士大夫に愛読されたことによるもの
16: 2020/03/01(日)19:41 ID:0(15/253) AAS
講談は、清朝の満州人に威張りちらされてストレスたまった漢人の民衆が、日頃の鬱憤を晴らすためにあった
17
(1): 2020/03/01(日)19:50 ID:0(16/253) AAS
あれ
明の時代から盛んじゃなかった?
18: 2020/03/01(日)20:49 ID:0(17/253) AAS
>>17
「三国志演義」などの4作品が「四大奇書」とされるようになったのは清代

「奇書」というだけあって、読書人の愛読書
19: 2020/03/01(日)21:01 ID:0(18/253) AAS
明代の民衆にとっても、北方民族の侵略は忌み嫌われる恐怖だった。
宋の岳飛や楊家将、明の劉伯温など、異民族と戦う漢民族の英雄は、講談の人気者。

「異民族が出てくるストーリーは民衆に人気がない」というのは、日本に限った話で、中国ではそうでもない。

もちろん、中国でも関羽や張飛は有名だし、三国志に人気がないと言ってるわけじゃないんで
20: 2020/03/01(日)21:10 ID:0(19/253) AAS
金庸をはじめとする中国の武侠小説には、清の庶民、とくに子どもが講談や芝居を楽しむ場面がよく出てくる

それを見れば、講談がどういうものだったかが分かる
21
(2): 2020/03/02(月)13:59 ID:0(20/253) AAS
後梁はカウントされないのか…
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