[過去ログ] 北周、北斉、陳の鼎立時代を語れるものはいないか (259レス)
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8: 2020/03/01(日)09:37 ID:0(8/253) AAS
陳の宣帝の北伐

573年、北斉では後主の暴虐が激しくなっていた。陳の宣帝は、北斉討伐を提唱した。公卿達は反対したが、呉明徹だけは決行を唱えた。
宣帝は、呉明徹を都督征討諸軍事に、徐陵を監軍事に任命し、十万の軍で北斉討伐を命じた。

北斉は、揚子江からジョ水まで掘で繋いで防衛線として、水中には大木の柵を築いた。
呉明徹は、程文季を先鋒として、驍勇の士卒を与えた。程文季は柵を抜き、敵を撃破した。
魯廣達が合肥の南で北斉軍と戦い、撃破した。 
北斉軍は、体が大きくて膂力のある人間を選んで先鋒とした。中でも西域胡は、射撃が巧くて百発百中だったので、皆は一目置いていた。

北斉と陳は石梁で戦った。
戦う寸前、呉明徹は、蕭摩訶に言った。
「もしも、あの胡を殺せば、敵軍の志気は崩れる。君の軍才は、関羽にも負けまい。」
すると、蕭摩訶は答えた。
「やってみましょう。」

そこで呉明徹は降伏した敵兵を呼んできて、誰が西域胡か指し示させ、自ら蕭摩訶へ酌をして酒を飲ませた。蕭摩訶は飲み終わると、馬を馳せて北斉軍へ突撃した。
西域胡は、陣から十余歩前方へ出てきた。だが、彼が弓を射るより早く蕭摩訶が投げた手裏剣が、彼の額へ突き刺さり、即死した。
北斉軍からは、十余人の力自慢が飛び出したが、蕭摩訶は彼等も斬り殺した。
これによって北斉軍は大敗し、尉破胡は逃げ出し、長孫洪略は戦死した。 

尉破胡が出陣した時、侍中の王林も従軍させていた。王林は、尉破胡へ言った。
「呉軍は士気が高い。持久戦へ持ち込むべきだ。軽々しく戦ってはならぬ!」
しかし、尉破胡は聞き入れず、敗北してしまった。
王林は単騎で、どうにか彭城まで逃げ延びた。

(続く)
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