おっさんのやり直し日本史を生暖かく見守るスレ (301レス)
上下前次1-新
128: 2015/12/26(土)23:09 ID:wMJ(1/2) AAS
みんなもニュースはソースを見てから論じる癖をつけようぜ
129: 2015/12/26(土)23:09 ID:wMJ(2/2) AAS
ゲ、誤爆。スマソ。
130: 2015/12/31(木)16:14 ID:FUK(1/5) AAS
おっさんです。
年末は、時間があっという間に流れていきますね。
日頃のものぐさがたたって、この土日は大掃除だらけでした。
今小休止で一息ついています。
今年はこれで終わりますが、また来年続けます。
今年の続きをやりますが、その前に、せっかくの年頭なんで、日本史を俯瞰した話を年の初めにやりたいと思います。
その後、今日までの続きをやるということで。
ちなみに今日は、今までメモ書きしていた卑弥呼関係のメモをコピペします。
省2
131: 2015/12/31(木)16:15 ID:FUK(2/5) AAS
●魏志倭人伝 翻訳全文
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/wazinnden.htm
詳細は上記を見てもらうとして、印象的だったところをいくつか抽出してみました。
・風習
役人は4〜5人、庶民でも2〜3人の奥さんがいる。
犯罪を犯したら、軽い犯罪ならその妻子を没収して奴隷にする。重い犯罪なら、家族はもとより、親族を含めて全員死罪。
・卑弥呼と後継者
247年、狗奴国の卑弥弓呼と戦う。現在死亡。葬儀では奴隷百人を生き埋めして卑弥呼の死体に献上した。
その後男王を擁立したがうまくいかなかった。その後、卑弥呼一族の娘「トヨ」13歳)を代表にしたら国が治まった。
●魏志倭人伝からわかること
省20
132: 2015/12/31(木)16:16 ID:FUK(3/5) AAS
●現在の日本地図から推測できる当時の状況(クニ同士の力関係)
まず山口県と北九州地方が大きく描かれている日本地図と、
朝鮮半島と日本を含むアジア地図の2枚をご用意ください。
アジア地図の上下をひっくり返して眺めると、大陸側から把握していた形の日本が見えてきます。
すると、対馬を飛び石にして、北九州が玄関、出雲地方も玄関グループに属していることが分かります。
大阪や京都、奈良のあたりは奥座敷です。
で、当時貴重なレアメタルである「鉄」の産出地は南朝鮮の最南端にあった。
ここで北九州地図をご覧ください。
狭い狭い関門海峡を押さえると、大陸と大阪・京都・奈良の交通はだめになっちゃいます。
この狭さなら当時の軍事力でもにらみを利かせることが可能。
省15
133: 2015/12/31(木)16:16 ID:FUK(4/5) AAS
●卑弥呼の死因2 日食原因による暗殺説:
実は天文学の研究から、太陽の日食が卑弥呼の死亡時期と重なっていたことが分かっている。
卑弥呼は、「日の巫女」であり、太陽神をつかさどる巫女。それが日食と出会ってしまったということは、
周囲の者からみると、「太陽神に嫌われてしまった卑弥呼」とみられてもしょうがない。
日食のあった日の夜に殺された可能性もある。
また、日本の神話の天岩戸の話もこのころの記憶が織り込まれているものと思われる。(これは余談)
・参考
http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-1-4.htm
>最近の、斎藤国治氏、加藤真司氏、橘高章氏などの研究によれば、
> 西暦247年と西暦248年と、2年つづけて、皆既日食といえる日食があった。
省11
134: 2015/12/31(木)16:17 ID:FUK(5/5) AAS
●三角縁神獣鏡
邪馬台国の卑弥呼の物かどうかは別として、当時の「日巫女」たちの必須アイテムである三角縁神獣鏡。
これは三種の神器の一つでもある「鏡」のルーツの可能性があるんだけど、これについて、最近大発見があった。
発見があったのは2014年1月。
最近発明された3Dプリンターの力を借りて、さび付いて出土した三角縁神獣鏡のレプリカを製造することに
成功した。そしてわかったこと。この鏡は魔鏡だったということ。
この鏡の裏には立体的な文様がつけられている。
しかも鏡は薄い。
そのため、この鏡で太陽光を反射させると、その反射光に、鏡の裏の立体的な文様が影響を与える。
なのでそれを見た当時の人たちは、太陽光を操る神の力を感じていた可能性がある。
省6
135: 2016/01/02(土)13:04 ID:EJm(1/3) AAS
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
●日本史の俯瞰 5つの事件とともに。
昨年の続きを始めるわけですが、その前に、せっかくの正月なんで、本日は、日本史をざっくりと俯瞰してみたいと思います。
日本史では、その政体を変えるほどの衝撃を受ける大事件、あるいは単発としては弱いかもしれないけど
前後の分岐点になっていたような事件など、時代の曲がり角になる大きな出来事がいくつかあります。
おっさんはその曲がり角の事件として、ざっくりと5つ取り上げることにしました。
その5つの事件とその周辺を俯瞰することで、日本史全体を見つめてみたいと思うわけでです。
ではよろしくお願いします。
省21
136: 2016/01/02(土)13:15 ID:EJm(2/3) AAS
○承久の乱前後
中央集権化に成功した天皇。
その右腕となるべき人物は誰か。その地位をめぐって暗闘が繰り広げられる。
奈良時代の80年間は、藤原氏と、その他の氏による。
この地位の奪い合いだった。
平安時代には藤原全盛となる。
平安時代は約400年。そのうち半分の期間を摂関政治として藤原氏が独占する。
日本中の土地が藤原氏のものになってしまったといわれたものこのころの話。
しかし、政治はおろそかになり、民の世界は混乱が始まり、やがて、武士が力をつけてくる。
省10
137: 2016/01/02(土)13:50 ID:EJm(3/3) AAS
○関ヶ原の戦いの前後
鎌倉幕府は、元寇などにより弱体化。機を見て後醍醐天皇が討幕の命令。
鎌倉幕府にがっかりしていた連中が手を貸して、鎌倉幕府は滅亡。
天皇が新政を始めたのはいいけれど、これが恐るべき無能。
天皇「裁判は全部俺がやる」
御家人「やってくれ」
天皇「容量オーバーのためゲームオーバー」
御家人「だめだこりゃ」
省18
138: 2016/01/02(土)18:56 ID:K7n(1) AAS
酒飲んで寝ちゃいましたw
目覚めたらなんか勢いがなくなっちまったんで、あと(=明治維新以後)は省略してw
まとめますね。
ポイントは「壬申の乱」が一番重要。
ちょうど内憂外患状態で激烈な体質改善が求められる時代の真っただ中にあって、その要求に見事答えたっていう点。
次に重要なのが、「大政奉還」。
大政奉還そのものが重要というのではなく、時代の流れをみると壬申の乱をなぞっているという点。
重大さからいうと甲乙をつけがたいんだけど、壬申の乱は最初だし、大政奉還(というか明治維新)は
壬申の乱(というかそれ以降の改革の一連)の模倣の部分が結構あるんで大政奉還は、壬申の乱の下位に付けます。
この2つが、太い線で引かれる時代の分岐点。
省19
139: [:] 2016/01/03(日)02:16 ID:kJz(1/2) AAS
見てます
140: 2016/01/03(日)16:06 ID:MgY(1/4) AAS
ありがとうございます。
ギャラリーが一人でもいると励みになります。
さて、本日からは、昨年の続き。
古墳時代にはいります。
古墳時代は、ざっくりと4世紀〜6世紀の約3百年間。
このうち、4世紀は大和政権が形作られた、つまり現在につながる日本の原型が形成されたという、非常に重要時期。
にもかかわらず、文章がこのされていない。なのでどのようにどうなってきたのかよくわかっていない。
この辺りは辛いですね。「謎の4世紀」と言われているくらいですから。
この辺りは、海外の石碑や古文書、国内の遺跡、
記紀や各地の風土記、神社仏閣の口伝書などに記載されている各種神話
省9
141: 2016/01/03(日)16:12 ID:MgY(2/4) AAS
○古墳の形から、ヤマト政権の勢力の推移が見える
まず、古墳時代に入る直前、弥生時代の終わりのころ(3世紀)。
方形周溝墓、円墳、方墳など、地域によっていろいろな形が作られていました。
言い換えると、地方色が豊かだったわけです。
それが古墳時代になると、その大半が「前方後円墳」となり、一律なものになっていく。
これは、その地域の文化が統一されていったた過程であると考えられます。
もっとはっきり言います。
前方後円墳は、ヤマト政権のランドマーク、社章みたいなものです。
省4
142: 2016/01/03(日)16:21 ID:MgY(3/4) AAS
●古墳の副葬品から、集団の性質の変遷が分かる 1)騎馬
古墳時代の前期、4世紀のころは銅鏡や勾玉など、為政者の魔力を示すような呪術的なマジックアイテムが
多かったようです。
それが中期、5世紀になると、武具馬具が多くなってきた。
5世紀といえば、倭の五王のころです。
朝鮮半島の好太王の石碑によると、
>391年に百済と新羅を破って従えた倭国は高句麗と戦った。
>高句麗が勝った。
という内容の石碑があるそうです。
そこから見えてくるのが、すでに4世紀の後半には国内統一をある程度固め終えて、朝鮮半島にもガンガン進出していた倭国の
省7
143: 2016/01/03(日)16:32 ID:MgY(4/4) AAS
●古墳の副葬品から、集団の性質の変遷が分かる 2)男系の世襲
卑弥呼の時代(3世紀後半)はまだ、豪族連合の長たる大王の地位にいる者は
世襲ではなく、男子系統と決まっていたわけでもなかった。
しかし、戦乱の世が続くと、集団の優先順位においては「男の戦う力が」強く意識されるようになる。
これは古今東西人間の歴史の共通項です。
なので、次第に男系の一族世襲になっていったものと思われます。
ただし世襲といっても必ずしも親子ではなく、同母系の兄弟にバトンが渡される形になっていたようです。
当時の平均寿命の短さを考えると、先頭に立って戦える頭脳と体力を集団として維持するためには、
子どもが育つのを待っていては間に合わない、という事情があったのではないかと思われます。
●古墳の大きさの変遷から、集団の性質の変遷が分かる
省13
144(1): 【超大凶】 [:] 2016/01/03(日)18:19 ID:kJz(2/2) AAS
>>49
それ俺も思ったことある
当時1,2位を争う豪族が自分の子供に付ける名前じゃないだろって
謙虚、謙遜、魔除けとかあったとしても
本当の名、改名あるだろって
馬鹿もこっから来てると思ってる
馬子にも衣装とか元は蘇我氏のことかなと
145: 2016/01/10(日)13:06 ID:tAm(1/5) AAS
>>144
調べてみたら、馬とか鹿みたいな、自然に存在する動物の名前をつけるのは当時にとっては自然なことだったようです。
残念。
むしろあなたのおっしゃるように、乙巳の変後に「馬鹿」が出てきた可能性があるようです。
語源はサンスクリット語のモハだかなんだか、とんでもないというような意味だったのを当て字で
「馬鹿」にしたってことのようなんだけど、サンスクリット語ってのは古代インド語で、仏教ができた頃の言語だから
仏教と馴染みの深い蘇我氏外からみもあっても不思議じゃないですから。
肯定材料も否定材料もないけどほのかに肯定の臭いがします。
ちなみに広がったのは鎌倉時代あたりかららしいんで、その辺の時差もなにか関係が出てくる可能性があります。
いまは問題意識を頭の片隅にぶら下げておくだけにしておきます。
146: 2016/01/10(日)13:13 ID:tAm(2/5) AAS
●古墳補遺 :古墳の動機は「残土説」
さて、続きをします。
なぜ古墳ができたのかについては新説があって、それは「残土説」です。
つまり、古墳を作るのが第一目的ではなく、第一目的は、荒れ地の水田向け開墾と水田の治水。
ようは、稲作が出来るようにするためには、土地を平らにしないといけない。
土地を平らにすると、どうしても土が余る。その余った土を集めて古墳を作ったんじゃあないか、そういう説です。
これなら、古墳を作る動機が荒れ地開墾のバロメーターになる。
古墳用の土が高く積まれれば積まれるほど、水田が増えたということになるわけだから。
開拓のモチベーション維持の道具にもなる。
省5
147: 2016/01/10(日)14:14 ID:tAm(3/5) AAS
●古墳時代補遺 :朝鮮半島と日本列島の4世紀
日本の4世紀がブラックボックスと言われつつも、この頃、
ムラが集まって集合体となり、共通の大君を頭に抱くという形態が進展していきます。
で、実は、朝鮮半島も、似た動きがあって、それまでは馬韓・弁韓・辰韓という地域グループだったのが、
それぞれ百済、伽耶、新羅と、統一国家に向かって集団化していく動きになります。
このうち、伽耶は、変身に失敗。
失敗の理由なんですが、鉄の生産地だったということが大きいと思う。
当時の鉄は今の時代の金よりもある意味使い勝手のいいレアメタル。
武器にも農具にも荒れ地の開墾機にもなる。
なもんで、周辺諸国から植民地のような扱いを受けたのではないかと。
省8
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