おっさんのやり直し日本史を生暖かく見守るスレ (301レス)
おっさんのやり直し日本史を生暖かく見守るスレ http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/
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101: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/12(土)11:35:09 ID:S8B ●抜歯について 参考書には、縄文時代、成人の通過儀礼として抜歯があった、とされています。 けど、本当なのだろうか。おっさん的にはもやもやと疑問を感じています。 というのも、昔見た「楢山節考」という映画のワンシーンを思い出したためです。 その映画の舞台は江戸時代の貧しい農村。 寒村のため、食料が不足するので、村のおきてとして、生産性のなくなった老人を、つまり自分の親を、 姥捨て山に捨ててこなければいけないという、そういうお話です。 主人公のばあさんが最終的には冬山に捨てられてしまうんですが、その前段階として、 自分の意志で(あるいは村の掟か風習として)抜歯をするんです。 食事が不自由になるために。食事のスピードを減らすために。つまり食事の量を減らすために。 映画の舞台となった江戸時代の村よりも、縄文時代のほうがはるかに貧しかったはずなので、 もしかすると、縄文時代にも、緩やかな人減らしを目的として、ある程度の年齢を超えた「老人」から 抜歯をしたのではないか。 そんなことを妄想したりしています。 風習というのは形式であるにせよ、その成立には何らかの根本動機が必要なはず。 その動機をおっさんは「ゆるやかな口減らし」に求めたいと思うわけです。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/101
102: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/12(土)11:48:59 ID:S8B ●屈葬について (通説への異議) おっさんは屈葬の通説にも反対です。 屈葬については3つほど強い説があって、 1番強いのはゾンビのような黄泉がえりをさせないため。 2番目には生まれ変わり祈願。 3番目には穴掘りを楽にしたいからという合理性追求のため。 通説は1番が1番強い。 でも、おっさんは2番目が正しいと思う。 その理由を述べます。 未開の土人のドキュメントフイルムを見たことがあったんですが、 彼らは、大地とセックスをするんです。 大地に穴を掘って、ちんぽこをそこに挿入して腰を動かす。 これが彼らの祈りだったんですね。 一見とても奇異だし、衛生的にも極めて危険な行為ですが、 彼らの目線を想像すると理に適っている。 つまり、大地は、母なる恵みの大地であり、豊穣を生み出す女性的なものというイメージなんです。 女性は男性とセックスして男性の精子を受け入れることで赤ん坊を産出する。 母なる大地も豊穣なる多様な植物の恵みを毎年産出する。 その大地を男性の精子ではらませることでさらに豊饒な大地の恵みを得ようとするわけです。 つまり未開土人にとって大地は女性の腹。 すると死者を体育すわりの形で大地に埋めること(すなわち屈葬)、は胎児の姿をまねているということになる。 もう一度生まれ帰って来い、また一緒に生活しようという死者へのメッセージが込められているのではないかと、 未開土人のセンスを想像してそれに沿って考えると、以上のような結論になるわけです。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/102
103: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/12(土)11:53:02 ID:S8B ●三内丸山遺跡 青森県出土で、世界最大の縄文遺跡。 しかし驚くべきは、その大きさもさることながら、集落の寿命です。 1500年間にわたって集落が続いていたと考えられるというのですからびっくりです。 簡単に1500年といっても、その長さは想像を絶する。 そもそも、いまから 1500年前といえば、515年。まだ磐井の乱も発生していない。 ろくに文字も伝わってない、神話の世界からようやく抜け出しかけたかという時代の話です。 それとほぼ同じ期間だけ、三内丸山遺跡では生活者が続いていたということ。 そしてさらに恐ろしいのは、その1500年間、ほとんど進歩がなかったであろうということ。 まさに悠久の時が流れていたというのにふさわしい、太古のロマンであります。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/103
104: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/12(土)12:02:40 ID:S8B ●弥生時代の特徴 → 「鉄」 やっと弥生時代ですw 弥生時代を一口で言うと「鉄」の時代。 弥生時代の特徴は、大きく言って2つあります。 一つは金属器の時代。これは青銅器と鉄器が同時に流入したことを意味します。 もうひとつは、本格的な農耕稲作がはじまったこと。 そして、金属でいえば重要なのは「鉄」のほうだし、本格的な農耕稲作を可能にしたのも「鉄」。 鉄は農具であると同時に殺人の武器でもある。 なので、一言でいうと、「鉄の時代」になります。 まず鉄器についていうと、青銅器と同時に流入してしまったので、実用的な道具や武器は鉄が担当し、 祭器は青銅器が担当するという、役割分担が発生した。 また農具が鉄器になったことで、生産性が飛躍的に増大。 その結果余剰生産物とその蓄積が可能になり、その蓄積や収奪が発生するようになった。 またそれらの管理経営を通じて貧富の差が明確になってきて、それに伴って身分さも発生してきた。 さらには、農耕は集団で行う必要があるため、活動も集団的になってきた。また河川の水利権の問題が発生するため 腕力で権力を奪い合う闘争も発生するようになった。そのために殺人用の武器も発達した。 また、鉄はどこからでも取れるというわけではないので、鉄の産地を巡ってつばぜり合いも始まり、 特に朝鮮半島の南端、伽耶(かや)とか任那(みまな)と呼ばれた地帯から鉄が取れたので、その利権をめぐって 朝鮮半島にも出征したりするようになっていった。 要するに、鉄と稲作技術により集団としては豊かになったが、同時に貧富の差も発生し、殺し合いも頻発するようになってしまった。 いいのか悪いのかよくわからないけど、それを世の中は進歩発展というのかもしれない、などとさらにその延長上にある現代の住人である 自分は思ったりするのであります。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/104
105: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/13(日)11:32:35 ID:FwF ●微妙に方針転換w 今までのように、「詳説日本史研究」からテーマを取って書いていくと 書くべきテーマの抜け漏れ落ちの心配はなくなるんだけど進むスピードが 異様に遅くなることに気が付きましたw。 土日しか書けないので 今のペース程度しかできないのはしょうがないけど、今のペースでやると 1回転するのに休まずやっても4年かかる計算になってしまうw これでは意味がないので、もう少しキャパの小さい本をテーマ選びの本にします。 いろいろ探したんだけど、「2時間でおさらいできる日本史」が手頃っぽかったんで、 この本の単語から触発された内容を中心に書いていくことにしました。 本日は、弥生時代の考古学的部分(つまり、文字ではなく発掘物体資料の統計から わかるような部分)の続きからです。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/105
106: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/13(日)11:40:16 ID:FwF ●高床倉庫 稲の備蓄をするのに必要な倉庫。食べるだけじゃなく、翌年用種もみも必要だから。 倉庫にはネズミ返しがついていたりしてて、結構高度なものらしいです。 あと、高床なのは、湿気対策だけではなく、津波対策でもあるらしい。 基本は稲の備蓄だけど、寝泊りするのにもつかわれたりもしてたかもしれないです。 ●環濠集落 弥生時代特有の集落。 集落の周囲にぐるりと溝を掘って、そこに落とし穴のような仕掛け (獲物が落ちると何かが突き刺さるような埋め込み物)がしてある集落。 戦争が頻発し始めてることの証明です。 ●高地性集落 瀬戸内地方の高台に物見やぐらの機能を兼ねた集落。 これが発生するのが、地域と期間が限定されてます。 これとは別途に、中国の古文書では倭国大乱の時期があって、 それが2世紀中〜後半あたりで千人以上が死んだという戦いが発生したんだとか。 古文書と、遺跡の両方から、瀬戸内地方で古代としては大規模な戦争が 長く続いていたと考えられます。 ちなみに、それが落ち着いたのが卑弥呼の登場のころ。 卑弥呼については項目を改めて記載します。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/106
107: サボテン◆YYYYYYYYYY [] 2015/12/20(日)13:11:22 ID:tw@SABO___________ まだかなまだかな〜 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/107
108: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/20(日)16:02:55 ID:w1J おっさんです すみません。 風邪ひいちゃいました。 金曜の夜に熱が出て、土日ずっと寝っぱなしです。 いま、家族の目を盗んでキーボードを打ってます。 今週は水曜日に祝日があるんで、それを目指します。 申し訳ないです。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/108
109: 名無しさん@おーぷん [] 2015/12/20(日)17:16:31 ID:2KG 面白く拝読してますよ。 ゆっくり自分のペースで頑張ってください。 それではご自愛を。一刻も早く病気が治りますように。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/109
110: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/22(火)22:35:53 ID:jSc おっさんです。 お騒がせしました。 熱は下がったんですが、なんか体がふわふわしてます。 で、休んでいる間も、日本史の参考書を読んで書き込んだらいいかなってな内容のメモを 紙に書いてみたりしていたんですが、読み返してみると、面白くないですね、全然。 かといって、没にすると、全部没になっちまうw どうも、自分の書き込みの場合、内容よりもリズムとテンポが重要だったようです。 なのでリアルタイムで書いていかないと文章の旨みがどうもすぐに抜けて行ってしまうようです。 ということで、抜け漏れ落ちを気にすることなく、勢い中心で書いてみることにしました。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/110
111: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/22(火)22:50:38 ID:jSc ●三内丸山遺跡、再び。 で、休みの間、寝床でうとうとしながら考えていたのが、三内丸山遺跡。 これ、ひょっとすると、とんでもなくとんでもない遺跡になるような気がしてきました。 まず、世界4大文明に肩を並べる水準の期間の古さと長さと、文明の高さ。 でも、実はそれだけじゃない。 世界四大文明を「超えるもの」があるんです。 しかもそれは根本的に重要なことです。 世界4大文明は、金属を使った。荒れ地を開墾した。 そのために火をガンガン使った。薪として木を伐採した。 その結果どうなったか。。。。土地の砂漠化です。 自然破壊です。環境破壊です。エコじゃないんです。 ところが日本の三内丸山遺跡はどうか。 「火を多用する金属は使用しない」 「食料をとりすぎない」「木を使ったら植林して補てんする」 山も海(津軽海峡)も食べ物が豊富である。 つまり自然を畏れ、敬い、共存する道を選択したわけです。 そして、ここが重要なのですが、その「自然との共存」という考え方が現代世界で一番重要になってきているという事実です。 つまり、食料自給が達成できる環境が手に入るなら、言い換えるとエネルギー革命が完了するのなら、 次に求められるのは、そういう時代を生きるのに適した心構えを持つということです。 そしてその思想・哲学の形を、縄文時代の三内丸山遺跡を生きていた人々の生きざまに学ぶことができる、ということです。 環境を破壊しない姿勢。食べ物をとりすぎない、無駄にしない生き方。木を使ったら植林して補う気持ち。 自然崇拝、自然を敬い、畏れ、共存していくという謙虚な考え方。そして争わず、共存共栄を目指す生き方。 こういったものを縄文時代から学ぶことができるのではないか、そしてそれは、エネルギー革命が達成されて 誰もが飢えないで生きていける時代になったあとにすぐにやってくるのではないか。 そんな予感がするんです。 そういう意味で、三内丸山遺跡の存在というのは、ものすごく重要なものになるのではないか。 そんなことをもやもやと考えていました。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/111
112: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/22(火)23:00:06 ID:jSc じゃ、縄文時代をそれで総括したことにしてしまってw 改めて弥生時代に入ります。 ●弥生時代の特色 稲作と金属器。これに尽きます。 弥生式土器もあるだろうという突っ込みもありますが、これは微妙なんですね。 思い出してみてください。 縄文時代の晩期には壺が出現してきた。壺の存在意義は、食料保存機能です。 そして食料保存の特徴は、本来的には弥生時代に属するもの。 つまり土器ではスパッと割り切れない。という思いがある。 なので、稲作と金属器です。どっちか一つと言われると、金属器です。 中でも鉄器です。 じつは、縄文時期から農業も発生してる。なので、高効率の農業でないと弥生時代らしいとは言えない。 そして高効率の農業を可能にしたのは鉄器の導入と発展によるもの。 これにより食料が飛躍的に増大して食料貯蔵が可能になり、貧富の差が発生して、身分差になり、 集団同士の争いになり、殺し合いになり、次第に大きい集団に収れんしていき、やがてムラがクニに、 クニが国に発達していく土台が出来上がる。これが弥生時代の大きな特色ですね。 ●稲作は触媒 例えば火の獲得、例えば稲作、例えば紙の発明。 あるいは産業革命、そして情報革命(ネット化社会) このように、ある種の技能を入手すると、そこから歴史は飛躍的に進化のスピードを上げていく。 稲作は歴史進化のスピードを向上させる触媒の一つと考えていいと思うんですね。 縄文時代が1万年続いていたのに、弥生時代は6百年程度。 しかしその間に発生した変化の結果の程度はどうでしょうか。 どっちがどっちといえないくらいのものでしょう。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/112
113: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/22(火)23:18:16 ID:jSc ●弥生時代の年号 さてその弥生時代ですが、ざっくり見て、前期後期と半々に分けられるように思います。 (ご注意:通説は3つに分けてるようですので学生さんは本気にしないように) 前期は、遺跡のみ、後期は遺跡と古文書でわかる時代分析です。 中国の古文書からぽつぽつと当時の日本の様子が分かり、それのおかげでいろいろな流れも見えてきました。 そういう意味で、古文書に乗ってきた時代とそれ未満の時代、という区分です。 で、今回はその古文書と、年号を扱ってみることにします。 下で引用するときのために順に番号を振っておきます。 1) 紀元前1世紀。日本は100以上の小国に分かれていた。その中で、中国に朝貢しに来る者がちらほら存在した。 2) 57年 奴国が朝貢して、「漢委奴国王」の金印を拝受する。 3) 107年 別の国が、160人の奴隷を献上するという朝貢をした。 4) 桓・霊の間(ということは147-189年の間)倭国では大乱(壮絶な殺し合い)があった。 5) 卑弥呼という女王が邪馬台国連合の頂点として君臨し、乱が終息した。 6) 239年。卑弥呼が朝貢。「親魏倭王」と認定される。 7) 247年。邪馬台国の卑弥呼、狗奴国と交戦中。その後死亡。 8) 邪馬台国乱れる。男が跡を継いだが混乱した。 9) 卑弥呼一族の女児(13歳。名前は通説イヨ。だがおそらく真実はトヨ)が邪馬台国の頂点に立ったらみんなが落ち着いた。 10) 266年。トヨが普に朝貢 このあと、391年まで日本の足取りがぷっつりと無くなり、にもかかわらずこの謎の年代の間に大和政権の中核が形成された というもどかしい状態になるのでした。 ここからは、上記年代について、細かく触れていきます。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/113
114: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/22(火)23:27:26 ID:jSc ●訂正 と、その前に。 自分の書いた文書が少し言葉足らずだったので、補足します。 >>111 原文 >そういう意味で、三内丸山遺跡の存在というのは、ものすごく重要なものになるのではないか。 >そんなことをもやもやと考えていました。 修正(1行加える) そういう意味で、三内丸山遺跡の存在というのは、ものすごく重要なものになるのではないか。 近未来の世界全体において、三内丸山遺跡が示す「哲学(生きざま)」が、平和と安全と幸福のアイコンになるのではないか。 そんなことをもやもやと考えていました。 >>113 原文 (ご注意:通説は3つに分けてるようですので学生さんは本気にしないように) 修正(一言加える) (ご注意:通説は3つに分けてるようですので学生さんは私の言うことを本気にしないように) 訂正は、以上です。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/114
115: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/22(火)23:42:01 ID:jSc ということで、改めて弥生時代の年号に入ります。 ●1) 紀元前1世紀。日本は100以上の小国に分かれていた。その中で、中国に朝貢しに来る者がちらほら存在した。 ええと、このころの日本の動きというのは、中国大陸や朝鮮半島の動きと密接に関係しているので、 その動きを頭の片隅に入れておかないと、理解しにくくなることが多いようです。 漢(前漢です)の武帝が朝鮮半島に攻めてきて、4つの郡を設置したんですが、そのうちの一つが楽浪郡。 時は紀元前108年です。日本の中の小国の一つが朝貢しに来たのはこの楽浪郡。 要するに、本店である漢帝国には恐れ多くて出向けないので、最近開店した漢帝国出張所にご機嫌伺いをしに来た というところです。まさにゴミみたいな扱いですね、このころは。 ●2) 57年 奴国が朝貢して、「漢委奴国王」の金印を拝受する。 志賀島で江戸時代に発掘されたという、誰もが知ってる有名な金印です。 でも、どういう意味が書かれているのかが判然としていない。 まずこの金印は、漢に朝貢した奴国王に、プレゼントしたものとされているものなんですね。 で、どう読むのか。これがむつかしい。 現在の通説では「かんのわのなのこくおう」ということで、委という字は倭を意味する、ということにしているわけです。 でも、おっさんはすっきりしない。ちなみに江戸時代は「かんのいとこくおう」と読まれていたんだとか。 江戸時代の読み方だと、意味が変わります。漢に属するイト国の王様という読み方ですね。 でも、中国の文献には奴国王からの朝貢に対する返礼だということが書かれているのでイト国王では具合がよろしくない。 じゃあ通説ではどうか、ってことなんですが、これもあまり具合がよろしくない。なんで倭を委と表記しなきゃいけないのか。 印鑑のスペースの問題なのか。よくわからないんだけどすっきりしない。 で、もう一つ読み方があると思うんですね。表音はよくわからないけど、意味としては、「漢が委ねる奴国の王に」 ということで、文法は英語と同じになるんで、、「漢が奴国の王に委ね」たんだぞ、という証明印、とみてもいいんじゃないかって 思うんです。でもこれはおっさん一人が思ってるだけの可能性もあるんで、受験生の人はくれぐれも無視してください。 途中ですが、病み上がりなんで残りは明日にします。 おやすみなさい。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/115
116: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/23(水)13:13:34 ID:bmk では昨日の続き ●3) 107年 別の国が、160人の奴隷を献上するという朝貢をした。 送り主は帥升(すいしょう。元帥の帥と、マスの升と書きます) で、この人が日本市場、外国支所に名前が残る最初の人物。 ただし、それが人名なのか役職なのかは不明です。 ちなみに2)の57年は日本史で最初に覚える具体的年号。 このあたりは「史上初」が連発されます。 それと、ここからわかるのは、日本の小国は中国にいそいそと朝貢して冊封されることを望んでいた。 ということですね。つまり小国に分かれて争っていたということと、大陸と何某らの交流があったということ、 さらには中国が上、自国が下、という意識が明確だった時代です。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/116
117: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/23(水)13:29:34 ID:bmk ●冊封体制について ここで、この朝貢する動機となる冊封体制について、知っておかないといけないですね。 ◎まずは、冊封についての辞書的解説 ・中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。 中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで 彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。 簡潔にして無味乾燥ですが、わかりやすい説明ですね。 要するに、冊封を求める側は、中国大帝国様という虎の威を借りたいという、ずるがしこい小国の王たちです。 さてここで、冊封のメリットについてお話しておきますね。 ◎冊封体制のメリット 1)中国側のメリット 冊封を与える中国側のメリット。 まず、この制度は徳治主義ともいうべき考え方がベースになってます。 つまり、前提として冊封を与える中国様は天から委託された地上の支配者。世界最高の王。 その徳は宇宙全体にいきわたり、慈愛満ち溢れ、世界を平和にする。 その中国の王様の徳に感化された周囲の小さい国たちは、この王様のためならと、自らの財産や命を提供しにやってくる。 そんな彼らに、現場現場でわしのために働けよ、と、自分の部下であるというしるしを与える。 だから冊封を受けたいという国が多ければ多いほど、遠くからであればあるほど、その価値は高いので、どんどんウエルカム。 具体的な中国側のメリットは、戦わずして自国領土的な部分が勝手に増えてくるということと、自尊心の満足。 また、恐ろしく建前の嘘八百な世界でもある。この露骨な嘘の付き合いによる関係で出来上がる制度は、現在の中国の動きにも 濃厚に表れています。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/117
118: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/23(水)13:30:05 ID:bmk ◎冊封体制のメリット 2)冊封を受ける小国側のメリット これは、大きく言って、3つあります。細かく分けると6つくらい。 3つというのは「権威」「権力」「財産」です。 細かく分けると、権威は国内での権威と、国外での権威。という2種類の権威。 権力は、権力というよりはその源泉ともなるべきもので、具体的には、進んだ文化と進んだ文明の2つ。 財産は「現金」と「現物」です。全部で6つ。 そしてこの6つの要素のうち、どの要素がほしくて冊封されたがるのかは、時代によって変わってくるところに注意が必要です。 まず、弥生時代。「倭の奴国王」も「帥升」も「邪馬台国の卑弥呼」も、みんな「国内での権威」をほしがったが故の朝貢です。 中国から日本地域の統治者であると認めてもらうことによりその周辺国に「俺に逆らうと、中国様が承知しないぞ?」 「わかってんのか「?あ?お?おらおらおら!」と、戦わずして勝つことができるわけです。少なくともそうなりやすい。 これが、倭の五王の時代になると、朝鮮半島を侵略支配するための正当性を求めるために朝貢するようになる。 国外での権威が必要になるわけです。それまでとは明らかに違ってくる。 さらに、聖徳太子の時代になると、「日本は権威的にはすでに中国と対等である」という、それまでとは立場を変える作戦になる。 でもやはり朝貢は続けるんです。なぜなら、自国での権力維持発展の源泉となる「進んだ文化」や「進んだ文明」を得たいからです。 さらにさらに、時代が下って足利義満の室町時代になると、「現金・現物」がほしくて朝貢するようになる。 というのも、朝貢でもっていく貢ぎ物よりも、はるかに高額なものを下げ渡してもらえるのが冊封関係だからです。 つまり、名誉を捨てて土下座をすれば、中国様から現金現物がざっくざくもらえるという「いい商売」。 このように、冊封関係、朝貢関係といっても、動機となる要因は時代によって変化してくるところに要注意です。 あと、それらを「冊封」とは厳密には言わないという点も。ただし、実質的には冊封の仲間といっていい行為ではあります。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/118
119: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/23(水)13:43:15 ID:bmk どんどん続いていきますね ●4) 桓・霊の間(ということは147-189年の間)倭国では大乱(壮絶な殺し合い)があった。 このころ、集落の形態に変化が現れます。 「環濠集落」や「高地性集落」です。 環濠集落というのは、集落の周りに溝を掘り、矢を逆立ってたものを埋め込んで置いたりして、簡単に攻めてこられないようにした集落。 高地性集落というのは、丘の見晴らしのいいところに、作られた集落です。 いずれも、期間限定(=倭国大乱のころ)、場所限定(=瀬戸内方面限定)。 なので、その原因は、中国の古文書が言うところの「倭国大乱」による者であることはほぼ明白です。 ●5) 卑弥呼という女王が邪馬台国連合の頂点として君臨し、乱が終息した。 このころの国の成り立ちのプロセスがわかる事例です。 要するに、ムラという集落単位で戦っていたのが、だんだんとまとまってきて、ある程度の大きさになったところで 悲惨な人名消耗戦が始まった。 お互いにこれじゃあやばいっていうんで、共通の王様を立てて、みんながそれに従う、という平和な解決法を発明した。 これが邪馬台国における卑弥呼であり、他地域でも似たようなことが続いていたと思われ、また、のちに現在の天皇に つながる人のルーツもこういう形から発生したと考えられています。 もう一度別な角度からいいますね。 まず、数十人単位のムラがある。ムラ同士で仁義なき戦いが繰り広げられ、ある程度統合されて 数百人単位(あるいは数千人単位)のクニになる。 そのクニの長が集まって、会議を開いて、全員で、「俺たちのリーダーはこの人」って決める。 「クニ」が約30個集まって、そのリーダー約三十名で会議して、邪馬台国というクニのリーダーである卑弥呼を 「俺たち全員のリーダーにしよう」と決めて、全員が邪馬台国連合の一員になる、という流れです。 暴力団の抗争と手打ちと系列化、みたいなものだと思えばいい。 当時と現在で比較すると、違うのは警察(公権力)の有無。 その離合集散の形や上納金の取り方などは、暴力団を分析して、さらに「もし現在暴力団しかいなかったとしたら?」 と考えると、案外当時の姿に近いものがあるかもしれません。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/119
120: 名無しさん@おーぷん [sage] 2015/12/23(水)13:56:57 ID:bmk ●6) 239年。卑弥呼が朝貢。「親魏倭王」と認定される。 「邪馬台国はどこにあるの?論争」に、このおっさんが、終止符を打ちます。 ご期待ください。 ◎邪馬台国論争についての整理 その前に、この論争は、江戸時代から連綿と続けられてきた伝統のある論争であり、 いまだに結論が出ていないという難儀な代物であるということは皆さんもご承知の通り。 なぜ、邪馬台国のありかが分からないのか。 それは皆さんもご承知の通り、魏志倭人伝で描かれている、邪馬台国への行き方が、でたらめだからです。 仮に魏志倭人伝に書かれているとおり歩いていくと、種子島とか沖縄とか、はるか南方のほうに 邪馬台国が存在することになってしまう。でも、昔も今も、そこはあたり一面、海面です。 じゃあ何が間違えているんだろう? ということで議論百出なんですね。 あともうひとつ。 4世紀あるいはその前後に現在につながるヤマト政権ができたことは間違いないんだけどその成立の時期が、 卑弥呼近畿説と卑弥呼北九州説とでは、半世紀違ってくるんだそうで。国の成立時期と携帯が違ってくるということで、 決定的証拠がないこともあいまって、議論やむことなしな状態なわけです。 ◎近畿説と北九州説 現在に大論争化しているのが近畿と北九州。 現在優位なのは近畿説。これによると、箸墓古墳が時代的にも規模的にも卑弥呼の墓に遜色ない。 ただし、邪馬台国へ行くルートが、「途中で左に曲がる」の文章がどこかで抜けてた、という苦しい逃げ口上。 こういうのを「牽強付会」といいます。初めに結論ありきで、資料を改ざん読みしちゃおうという掟破りの発想ですね。 資料を改変読みする場合にはその必然性となる論拠も求められるんですが、この部分が近畿説は決定的に弱い。 おっさんは、北九州説です。 これについては、スペースの関係で、項目を改めて説明します。 それから、説明の時に、ついでに、「親魏倭王」認定に至る際に卑弥呼が画策したうそと野望についてもお話しします。 中国をだまし、日本をだますことに成功した卑弥呼。この話はこの次。 http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/history/1446870294/120
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