[過去ログ] ガロア第一論文と乗数イデアル他関連資料スレ2 (1002レス)
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405
(3): 132人目の素数さん [] 2023/03/15(水)11:18 ID:eYGN6GRo(1/5)
>>404
ありがとう
へー
方程式論で有名なタルタリア氏 下記”「タルタリア(どもり)」というニックネーム”を連想したけど
「ニコロの顎と口蓋もフランス軍によって切り落とされた。これによって、ニコロは普通には話せなくなり、「タルタリア(どもり)」というニックネームが付けられた」か
良く生き延びたね
ハンディを負って、一層努力したに違いないね

(参考)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2
ニコロ・フォンタナ・”タルタリア”(Niccolo Fontana "Tartaglia"、1499年または1500年-1557年12月13日)はイタリアの数学者、工学者、測量士。ヴェネツィア共和国の簿記係でもあった。アルキメデスやユークリッドの初めてのイタリア語訳を含む多くの著書を著し、数学関係の編集の分野で高く評価された。タルタリアは、史上初めて数学による大砲の弾道計算を行ったので弾道学の祖とされる。彼の導いた弾道は現代の理論からすれば誤りだが、45°の角度で射出した際に最も遠くに到達することは正しく導いた。
ガリレオ・ガリレイは彼の孫弟子である。タルターリアとも。なお後述するように「タルタリア」は生後につけられた渾名である。

生涯
1512年にはカンブレー同盟戦争でフランス軍がブレシアに侵攻し、さらなる悲劇を経験した。ブレシア軍は7日間に渡って街を守ったが、フランス軍がついに侵攻に成功すると、街の人達は虐殺された。戦争の終わりには、45000人を超える住民が殺されていた。
ニコロの顎と口蓋もフランス軍によって切り落とされた。これによって、ニコロは普通には話せなくなり、「タルタリア(どもり)」というニックネームが付けられた。

タルタリアは、資金が尽きる前に家庭教師からアルファベットをKまで習っただけであり、残りのLから先の文字は、墓石に刻まれた文字を手本に学んだという逸話がある。いずれにしても、彼は本質的に独学だった。

つづく
406
(1): 132人目の素数さん [] 2023/03/15(水)11:19 ID:eYGN6GRo(2/5)
>>405
つづき

1535年の初めごろ、アントニオ・マリア・フィオールに数学の公開論戦を申し込まれ、これを受諾した。三次方程式の問題を互いに30問出し合い、30日後に多く解けた方が勝ちとした。タルタリアはこれに勝利し、名声を高めた。

彼が1543年に編集したユークリッド原論の初めての近代ヨーロッパ語訳となった本はとても重大なものであった。

彼はまたその理論に初めて近代的なコメントを付けた。この理論はタルタリアの弟子だったオスティリオ・リッチ(英語版)によって天文学の父として知られるガリレオに教えられ、ガリレオの研究に不可欠な道具となった。

タルタリアの公式
タルタリアは、4つの頂点の間の距離を用いて三角錐の体積を表すタルタリアの公式を考案したことでも知られる。

ここで d_{{ij}}は頂点 iと jとの間の距離を表す。これは三角形におけるヘロンの公式を一般化したものである。
(引用終り)
以上
407
(1): 132人目の素数さん [sage] 2023/03/15(水)11:57 ID:Mv9exFAa(1/2)
>>405-406
399に回答できず話逸らしてごまかすサル1
409
(2): 132人目の素数さん [] 2023/03/15(水)17:28 ID:eYGN6GRo(3/5)
>>405
追加
ポントリャーギン 失明して 数学者となった彼の専門分野は、幾何学
というのが、若いころは意味が取れなかった
抽象的な現代数学の幾何学だったんだね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%B3
レフ・セミョーノヴィッチ・ポントリャーギン(Лев Семёнович Понтрягин、1908年9月3日 - 1988年5月3日)は、ロシアの数学者。

略歴
ロシア革命前のモスクワに生まれ、ソビエト連邦崩壊直前にこの世を去った。彼の家庭はとても貧しく月謝の安い実験学校さえ行けず、4年制の小学校で最初の教育を受けた。14歳の時にプリムス・ストーブの爆発事故により失明した。そんな彼が数学者となれたのは母親の献身的な努力があったからだと言われている。 農家の主婦だった彼の母親タチヤーナ・アンドリェーエヴナ・ポントリャーギナは、彼が身を立てるための一切の世話を引き受けた。文献を読んで聞かせたり、論文に式を書き込んだり、さらに彼女自身外国語を習得して彼の完全な「秘書」を勤めた。数学者となった彼の専門分野は、幾何学(微分幾何学)だった。

1929年にモスクワ大学卒、1935年には物理・数学博士、教授、1938年には位相群論、連続群論を発表した。数々の数学的業績に対してレーニン賞、スターリン賞、ロバチェフスキー賞、ソビエト連邦国家賞、社会主義労働の英雄という称号などを授かった。
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