【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】 (729レス)
【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/
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64: 人間七七四年 [] 2021/01/23(土) 22:23:59.81 ID:aByMZPic 伊藤潤、もう北条ものは書かないのか? https://dot.asahi.com/dot/2020120700007.html?page=4 ――もう北条氏は書かないのですか 予定はありません。今回の『北条五代』で卒業してもいいかなと思っています。 『北条五代』は、私の北条作品の集大成的大作であり、この作品でサーガに終止符を打てるのは、素晴らしいエンディングでもあるわけです。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/64
65: 人間七七四年 [sage] 2021/01/24(日) 00:35:36.81 ID:8MDlHrcV 伊東潤は応援して来た小田原人のことをダサい田舎者だとTwitterで言ってからあまり好きじゃなくなったな。 歴史小説と歴史研究の違いもTwitterで語ってたけどなんだそれって感じだったし。 北条氏を専門に書く作家があまりいなかったからヨイショされてたけど実力はない。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/65
188: 人間七七四年 [age] 2023/03/26(日) 18:32:58.81 ID:6TjlQ2Fy >>187 名胡桃事件を受けた「宣戦布告」の段階でもなお、 「豊臣公儀」側の公式声明は「実行者の処断と北條氏政の上洛謝罪無くば北條を討伐する」だった。 裏を返せばそれが果たされれば少なくとも殲滅まではしない、とも読める。 北條権力体視点で「家」存続を至上命題とするならば史実に於ける北條の運動は確かに不適切だったとは云える。 とは云え、 社会史を俯瞰する視座からは天正十六年八月時点で既に北條の役割は終わっていた。 その先の謂わばノイズの部分で有能無能を論ずることに積極的意義があるとは思われない。 ましてやそれ以上の無意味なifなどは議論に価しないだろう。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/188
364: 人間七七四年 [sage] 2023/07/28(金) 17:11:35.81 ID:25qL8hGT 将門といい奥州藤原氏といい 中央政権から距離を置いて独立した勢力圏を成立させようとしたとかロマンがあるじゃないか 結果的にみんな失敗したけどそういう男達がいたと事に熱い思いがこみ上げてくる http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/364
549: 人間七七四年 [sage] 2024/03/13(水) 23:46:05.81 ID:KhtpbFyU 伊勢盛時は伊豆侵攻と殆ど重なるタイミングで「奉公衆」即ち将軍直属の暴力装置に編入されている。 堀越御所の内訌は勿論、 ドサクサ紛れに今川家督争奪戦争への介入についても法的正当性を遡及適用(法理学的には禁忌)せんとする幕府の意志が垣間見える。 いつの世も、役所は役所。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/549
557: 人間七七四年 [] 2024/03/15(金) 18:24:09.81 ID:boFtcIWs >>550 >北條期に関して特筆すべきは、 >利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。 こんな風に断言する根拠史料は何なのかが知りたい http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/557
573: 人間七七四年 [] 2024/03/24(日) 19:07:11.81 ID:nYQMlBqg このスレは妄想と願望をポエムする場所だからしゃーない。 まあポエポエするのは1人だけだけど http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/573
669: 人間七七四年 [] 2024/05/17(金) 18:47:43.81 ID:alDRgrCe >>666 北条氏の年貢4割という数字は史料によって異なり、必ずしも正確とは言えません。しかし、確かに年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収が行われていたことは事実です。特に後北条氏後期になると、領主による農民への収奪が強化され、困窮した農民の逃散が相次ぎました。 北条氏がこのような厳しい政策をとった理由はいくつか考えられます。まず、戦国時代は常に戦争の危険があり、そのためには多くの兵士や物資が必要でした。年貢以外にも様々な賦役や銭の徴収を行うことで、北条氏はその財政基盤を強化しようとしたのです。 また、後北条氏後期になると、領内の経済状況が悪化していました。天候不順や戦争による被害などが重なり、農民の生活は苦しくなっていました。そこで、北条氏は年貢を増徴したり、新たな賦役を課したりすることで、財政収入を増やそうとしたのです。 しかし、こうした厳しい政策は農民の不満を招き、逃散を加速させました。さらに、北条氏が逃亡した農民を連れ戻そうとしたことで、領主までも逃亡するという事態に陥りました。 結果的に、北条氏は領内を疲弊させ、戦国時代の覇権争いで勝利することができませんでした。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/669
691: 人間七七四年 [] 2024/05/30(木) 21:12:40.81 ID:5ZgxwbEq >>690 齋藤慎一氏『江戸-平安時代から家康の建設へ-』に拠って>>535-537を書いた。 その要約。 太田道灌の江戸城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、 今日の本丸から道灌濠の東側即ち今日の西ノ丸にかけての区域だったとみられる。 北條期の主要な江戸城域整備工事(つまり扇谷期と北條期の差異)として確定的に把握されているのは; イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成 ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か? ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ ニ)イ)に伴う城下町の移動:大手門橋前(東側)区画「大橋宿」へ 上記の結果、北條期江戸城の物理的構成は; ・今日の本丸、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸に相当する城域を有する ・平川、道灌濠、日比谷入江を外郭線兼防御線とする ・今日の大手門と同じ位置に大手を構える ・大手に架橋された大橋を街区生活圏の要とする ・大橋の東側に城下町として大橋宿を擁する ・城域西側の台上区画を附帯占有区域とする(?) --と概括される。 http://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1608288935/691
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