【早雲】後北条家総合スレッド 其の七【氏直】 (729レス)
1-

514: 01/01(月)03:02 ID:TR1h41an(1) AAS
謹賀新年。

>>230に挙げた書籍が面白くて、もう十回以上読み返している。
道灌の江戸、北條の江戸、徳川の江戸、…、
実証研究が進めば進むほど中世(戦国)関東史に於ける江戸の重要性が増大してくる。
東京者としては素直に興趣を惹かれる。
近いうちに思う所を書きたい。
 
515: 01/06(土)12:16 ID:aQzGIBoX(1) AAS
キモオタが書いた本は焚書坑儒せんとな
516: 01/11(木)05:34 ID:ewN7YScj(1/2) AAS
江戸はちょくちょく大地震が来ることがわかっていたわけで。

大地震のリスクを考えると江戸を大都市にしたのは疑問手と言えば疑問手。
517: 01/11(木)08:50 ID:v0JfTRxy(1) AAS
つまり江戸以降令和までの政権はすべて無能と
518
(1): 01/11(木)09:20 ID:gBU409nG(1) AAS
ちょくちょくと言うほど来ないだろ
200~400年周期だし
災害が少なく江戸湾という大きな安定した海に接する江戸ほど大都市形成に適した土地はなかなかない
欠点としては地震よりも河川が集中しすぎて洪水が多発する事にあったけどそれも利根川の付け替えで改善できた
519: 01/11(木)13:51 ID:ewN7YScj(2/2) AAS
帝国陸軍の調査では、大地震が来ても被害が少ない場所として八王子と加古川がリストアップされた。
520: 01/11(木)19:39 ID:r88mbm2K(1) AAS
日本に大地震がない平野は存在しない
521: 01/11(木)21:43 ID:/Q6ufMbO(1) AAS
>>518
例えば。
日本列島の「火山地帯」と云う属性は大地震を頻発させる一方で温泉その他多大な利点ももたらしてくれる。
自然環境条件には必ずそういう両義性(多義性)がある。

同様に、
大河川の集中は定期的に水害を招く一方で肥沃な土壌や高度な河川水運と云う大きな強味も与えてくれる。
特に後者は現代交通の陸運偏重の色眼鏡を通すと見え難いが、
省4
522: 01/11(木)22:08 ID:THtNv5KC(1) AAS
掘立て平屋と土の道路
地震で壊れようが洪水で壊れようが現代のような産廃は出ない
523
(1): 02/10(土)00:58 ID:TkBKmv3n(1) AAS
霞堤も現代ではゴミの処理が大変なんだそうで
524: 02/11(日)22:37 ID:CyS/ab5q(1) AAS
>>523
西洋由来の「現代文明」なるものが如何に狂った方向へ走り続けてきたか、と云うことですな。
先人たちに顔向けできない。
 
525: 03/05(火)21:29 ID:YLGEIvJm(1/2) AAS
江戸時代の系図に信玄の書は草
526: 03/05(火)21:32 ID:YLGEIvJm(2/2) AAS
系図 享禄
信玄の書 弘治

なお系図の書式は江戸時代

3000円
527
(1): 03/05(火)23:13 ID:ao1Drlz8(1) AAS
>考えられる。
長々書いて結局根拠史料も提示できない妄想か
528: 03/06(水)00:22 ID:pOSE3Kz9(1) AAS
>>527
文系脳 乙
529: 03/08(金)00:25 ID:LYkva14Z(1) AAS
地元・北多摩地域の北條期について調べるうちにこんな資料を見つけた。
外部リンク:adeac.jp
画像リンク[jpg]:adeac.jp
 
井戸の深いことで知られる武蔵野台地。
その深さが近世まで開発を限定してきた--と、俗説ではそういうことになっている。
しかし「地下水堆」「宙水」と呼ばれる浅井戸帯も少なからず存在していて、その地上には古来集落が営まれてきた。
省5
530
(1): 03/08(金)05:37 ID:7q13xiZ6(1) AAS
神奈川県立歴史博物館
@kanagawa_museum

当館では特別陳列「戦国大名北条氏と西相模・伊豆」を3月16日(土)から開催するぞ。
珍しい使われ方をしている北条家朱印状、伊勢宗瑞の動向を伝える古文書や、北条氏綱時代を知るための重要資料である「快元僧都記」など約20点を展示するのじゃ。
みなが来るのを楽しみに待っておるぞ。
531: 03/08(金)12:35 ID:NmGOcab1(1) AAS
曙町行った帰りに丁度良いな
532: 03/10(日)11:52 ID:+ShwA+HF(1/2) AAS
>>530
神奈川県民「伊勢宗瑞?だれ?」
533: 03/10(日)11:56 ID:+ShwA+HF(2/2) AAS
前に子供に聞いたら「わかった!絵描きだ!」って言われたことがある
534: 03/10(日)13:17 ID:WJdCfptB(1) AAS
正直自分も知らなかった
関東に上杉がいたことすら知られていない
535
(1): 03/10(日)13:22 ID:rNggP6C5(1/3) AAS
>>230に挙げた齋藤慎一氏の『江戸 -平安時代から家康の建設へ』に拠りつつ、
北條の江戸について。
 
巷間今なお抜き難い「江戸は家康から」なる虚構に反して、
北條は扇谷/太田から承け継いだ江戸城と城下町の拡充整備を継続的に施工していた。

先ずはその始点となった太田道灌の江戸。
城域は淀橋台の平川右岸低地に果てる突端、
省13
536
(1): 03/10(日)13:24 ID:rNggP6C5(2/3) AAS
(承前)
 
北條の江戸城、ハードウェア篇。

北條期の主要な城域整備工事として確定的に把握されているのは概ね以下の如くである。
 イ)城域の拡大:台地東段丘面から平川右岸低地「上平川」「下平川」区域の城内取込=寛永以後の二ノ丸・三ノ丸相当区域の形成
 ロ)イ)に伴う平川の流路改修:今日の内濠東半部原形か?
 ハ)城大手の変更:「高橋」=平川橋/平川門から「大橋」=大手門橋/大手門(北條期の架橋)へ
省15
537
(2): 03/10(日)13:26 ID:rNggP6C5(3/3) AAS
(承前)
 
明らかにならないのは西側即ち今日の吹上曲輪である。
吹上曲輪の西縁を限る内濠西半部の完成は勿論徳川期に入ってからのことだろう。
これは牛ヶ淵、千鳥ヶ淵、半蔵濠、桜田濠によって構成されるが、前三者は局沢川、桜田濠はまた別水系の小河川を原形とする。
つまり北條期までの吹上曲輪相当区域は東を道灌濠、西を上記諸河川の谷によって明確に区切られた台上の区画だったと云うことになる。

諸々の古記録や諸碩学の論考を見るに当時此処が城外であったことは間違いない。
省13
538
(2): 03/10(日)20:11 ID:Kh67h/3S(1) AAS
北条な
539: 03/12(火)08:01 ID:Xp9adjl7(1) AAS
>>538
條も正解だぞ。
540: 03/12(火)22:28 ID:Q6tCiUu2(1/2) AAS
>>537から承前)
 
北條の江戸、ソフトウェア篇。

北條期に於ける江戸の位置付け・運用は概ね以下の諸点に要約される。
 イ)利根川水系戦線の前線基地
 ロ)大規模動員時の集合出撃拠点
 ハ)関東交通網のハブ都市
省9
541
(1): 03/12(火)22:32 ID:Q6tCiUu2(2/2) AAS
(承前)
 
両度の国府台合戦に見る如くロ)はイ)を包括するが、
その他にも関宿や岩附方面の戦争等北條宗家直率軍が動く大規模軍事行動に際しては先ず江戸城に入城、
支領勢や近隣の味方國衆勢の集合並びに戦争機材の集積を待ちつつ情勢分析や軍議を尽くしてから出撃していた。
北條の江戸重視の証左であるが、
実はこれが上述の「吹上曲輪相当区域は準城域だったのではないか」と云う私見の切掛にもなっている。
省10
542
(2): 03/13(水)13:22 ID:LLCkxv6g(1) AAS
秀長を主人公に豊臣兄弟を作るなら幻庵を主人公にして北条一族も作ってくれ
543: 03/13(水)17:06 ID:ntMj0KwV(1) AAS
需要がない
544: 03/13(水)17:50 ID:rEAVf+ko(1) AAS
>>542
伊勢宗瑞(北条早雲)は何故実現しない?
新説の幕府史僚出身は確定してるし。
545: 03/13(水)19:59 ID:z4W9S6pm(1) AAS
戦国初期は人気がない
後の世代は見せ場ない
最後に至っては太閤記の引き立て役の存在でしかない
546: 03/13(水)21:59 ID:j44XILT5(1) AAS
確定してないだろ
申次が将軍の側を離れてあっちゃこっちゃ遠国に滞在してる例が他にあるのか(ない)
547: 03/13(水)22:10 ID:KhtpbFyU(1/2) AAS
軍記脳、最後の抵抗か…。
548: 03/13(水)23:03 ID:TnnXtZcw(1) AAS
確かに将軍の近くにいないと申次にならないなw
549: 03/13(水)23:46 ID:KhtpbFyU(2/2) AAS
伊勢盛時は伊豆侵攻と殆ど重なるタイミングで「奉公衆」即ち将軍直属の暴力装置に編入されている。
堀越御所の内訌は勿論、
ドサクサ紛れに今川家督争奪戦争への介入についても法的正当性を遡及適用(法理学的には禁忌)せんとする幕府の意志が垣間見える。
 
いつの世も、役所は役所。
 
550
(2): 03/14(木)00:40 ID:HPR5V9p3(1) AAS
>>541から承前)
 
ハ)について。
江戸には下記の要路群が集中交差していた。
道灌や北條の仕事と云うよりも歴史の必然、多くは自然環境条件の然らしむる所だったと云える。

 ・陸上交通: 鎌倉大道(下ノ道)、矢倉沢往還、国府路道(古甲州街道)、清戸道(古川越街道)、岩附道、浅草道、等々
 ・河川交通: 平川、旧石神井川、隅田川(入間川)、荒川、利根川、古川、多摩川、等々
省21
551: 03/14(木)09:18 ID:hGwf3Tju(1) AAS
豊臣兄弟かー
こんどこそ後北条と思ったのに
いったいなにが悪いんだろう 
伊豆は静岡県だけど、やっぱり徳川今川になるのかな
小田原は神奈川県 神奈川って後北条押してないのか?
もっとNHKにロビー活動しろよ
552: 03/14(木)13:11 ID:BtfEtW6+(1) AAS
神奈川は鎌倉幕府で何度もやっているので
この前も執権北条氏をやったばかりだしパチモン北条なんて興味ないです
553: 03/14(木)18:54 ID:MQHQMlej(1) AAS
昔まことしやかに言われてたのは某宗教団体の名誉会長が北条が嫌いだからってのがあったね
554: 03/14(木)19:30 ID:71ddNwZK(1) AAS
織田豊臣徳川あきたわ
何回擦るんだよ
555: 03/14(木)20:32 ID:OiNjhrXP(1) AAS
天下人はネタが豊富だから作りやすい
マイナー武将は大部分を創作ネタで補う事になるので微妙な内容にしかならない
556
(2): 03/15(金)00:15 ID:lTJ8WW2s(1) AAS
>>550から承前)
 
ニ)の足利義氏江戸移座計画は遅くとも永禄元年(1558)には北條氏康の下で準備実行段階に入っていた。
義氏自身の江戸入りが具体性を帯びるのは永禄四年(1561)即ち長尾景虎「越山」以後の軍事状況によるものだったが、
計画そのものはそれ以前から既定の政治工程だった。
諸条件に鑑みればその発端はどんなに遅くとも義氏「鎌倉殿」継承の天文二十一年(1552)、
或いは河越合戦で足利晴氏が北條に完全屈伏した天文十五年(1546)にまで遡るものとみられる。
省5
557
(1): 03/15(金)18:24 ID:boFtcIWs(1) AAS
>>550
>北條期に関して特筆すべきは、
>利根川右岸の広域一元支配によって江戸と云う都市の巨大なポテンシャルを意志的に解放せんとした点にある。
こんな風に断言する根拠史料は何なのかが知りたい
558: 03/15(金)21:22 ID:iCNLFQj7(1/2) AAS
>>557
中世関東の地理水文。
大橋及び大橋宿の構築。
北條氏康の言葉。
北條氏照の廻船政策。
北條氏政による両都化。
街道の付替。
省10
559
(2): 03/15(金)21:45 ID:iCNLFQj7(2/2) AAS
「江戸」と云う範疇を超えるから一連の書込(もう幾つか書く)では触れなかったが、
北條氏照の廻船政策によって逆照射されるのは権力体の想定以上のレベルで留保されていた在地のポテンシャルだろう。
流域の一元掌握と云うトリガーを引くことでその解放がむしろ暴走し始めていたことを示すものとみられる。
 
560: 03/15(金)22:03 ID:Ed5HLnVR(1) AAS
>>538
晒し上げ
561
(1): 03/17(日)12:13 ID:lGanvyte(1) AAS
江戸については岡野友彦氏の「家康はなぜ江戸を選んだか」って著書があった
北条氏の記述は限定的だったけど
562: 03/17(日)14:18 ID:nrdgXy/4(1) AAS
>北條氏照の廻船政策
これは布施美作守宛書状と天正四年九月二十三日付書状のことを言っているのだろうか?
いずれにしても直接的な根拠史料があるわけではなくて、推測であることは良く分かったのでもういいです。
563
(1): 03/17(日)16:17 ID:HMHpVs42(1) AAS
北条水軍の関係者が海路、松島の瑞巌寺を参拝したことがある、
という論文を読んだ記憶があるのだが。

北条と伊達にとって佐竹は共通の敵なんだが、水面下で交渉はあったのかもしれない。
564: 03/17(日)17:14 ID:ojvSK78y(1/4) AAS
>>563
> 海路、松島の瑞巌寺を参拝
 
事実であれば「里見降伏」が絶対的な要件になるから天正五年以降のことか。
佐竹水軍は河川警備隊程度の質・量に過ぎず里見や北條のそれと比べるようなシロモノではないと読んだことがある。

だとしても太平洋岸の沿岸航法、
潮に逆らって松島まで行くのはなかなか骨が折れたろうな…。
565: 03/17(日)17:18 ID:ojvSK78y(2/4) AAS
>>561
ありがとう。
調べてみたら面白そうだ。
が、出版が99年。
新刊で買えるかなあ…。
 
566: 03/17(日)17:21 ID:ojvSK78y(3/4) AAS
>>556から承前)
 
永禄十三年(1570)頃迄には御所重臣の移住も実現するほど進捗していた「鎌倉殿」江戸御座所計画は、
しかし相越同盟の「御座所は古河なるべし」との合意条項を以て未完のまま終焉する。

これを承けて北條はホ)の方向に動く。
江戸領を城代支配から一門衆支領へ、
更には小田原との両都化を思わせる存在へと引き上げて行く。
省11
567: 03/17(日)17:29 ID:ojvSK78y(4/4) AAS
(承前)
 
天正二年(1574)、北條の関宿接収。そして越後上杉の関東全面撤退。
天正五年(1577)、安房里見降伏。
天正十年(1582)、甲斐武田滅亡。踵を接して織田政権崩壊と北條の上野國制圧。
自然環境条件は依然厳しいが、
軍政上はもはや関東制覇に障碍無し--であるかに見えた--との状況現出を受けて、
省13
568: 03/17(日)20:59 ID:Iv/VjYf0(1) AAS
なにこの糞スレ
569: 03/18(月)08:24 ID:qVLNSsgV(1) AAS
病気だよ 北條氏は自分のレスが荒らしになってるのが分かってない
誰が読むんだろうね 一人二人はいるか
570: 03/20(水)01:10 ID:G+TaBu7l(1/2) AAS
(承前)
 
総論。
 
江戸なる都市は、戦争が生んだ。

それは「享徳ノ乱」なる大構造の重要構成要素として立ち上げられた。
しかし稀有の自然環境条件がこの地に与えた巨大なポテンシャルに鑑みれば、
省22
571: 03/20(水)01:12 ID:G+TaBu7l(2/2) AAS
(承前)
 
「北條の江戸」が何であったかは一言では語り難い。
様々な見方もあろう。
しかし、
「江戸の北條」が何であったかは一言で語り得る。
 
省13
572: 03/21(木)19:29 ID:ZhzhPHHj(1) AAS
女の子が最も怖がるスタイル
573: 03/24(日)19:07 ID:nYQMlBqg(1) AAS
このスレは妄想と願望をポエムする場所だからしゃーない。
まあポエポエするのは1人だけだけど
574: 03/24(日)19:54 ID:5UtGHkGa(1/17) AAS
伊勢宗瑞と地震の関係。
先ずは対象となる三つの地震について。
 
【明応四(1495)年八月十五日 地震 津波】
『鎌倉大日記』『熊野年代記』等。
地震の推定M不明。津波の推定波高8m前後(鎌倉、東伊豆)。
由比ヶ浜で二百余人溺死、鎌倉大仏殿が流失したとの被害記述(実は誤読か)の残る震災。
省8
575: 03/24(日)19:56 ID:5UtGHkGa(2/17) AAS
(承前)
 
【明応七(1498)年八月二十五日 地震 津波】
『塔寺八幡宮続長帳(異本塔寺長帳)』『常在寺衆年代記』『日海記』他多数。
地震の推定M8.2~8.4。津波の推定波高6~10m(焼津、西伊豆)。
歴史地震の代表格とも称すべき大震災。
東は房総から西は四国まで東海道及び南海道の広範囲に亘って死者数万人、建屋被害数万戸とも謂う厖大な被害記録を同時代史料に残す。
省6
576: 03/24(日)19:57 ID:5UtGHkGa(3/17) AAS
(承前)
 
【明応九(1500)年六月四日 地震】
『勝山記(妙本寺記)』『王代記』等。
地震の推定M不明。津波の記録未発見。
『勝山記』に拠れば明応七年地震以上の震動であったと謂う。
甲斐國の史料にのみ記録が残り他国就中沿岸国の史料が確認されないことから内陸の直下型地震を思わせるが上記両史料にはそれぞれ
省7
577: 03/24(日)20:01 ID:5UtGHkGa(4/17) AAS
(承前)
 
次に、
伊勢宗瑞の小田原城接収や伊豆國全域制圧と地震との関連について。
 
【地震と小田原城接収】
伊勢宗瑞の小田原城接収は長享ノ乱に於ける扇谷上杉方与同勢力としての行動である。
省12
578: 03/24(日)20:02 ID:5UtGHkGa(5/17) AAS
(承前)

ロ. 明応九年説
四年説同様、震災を奇貨として小田原城接収が為されたと云う理解であるが、その契機は明応九年地震だったとする。
四年説を否定した黒田氏は、史料に依拠する限りその時期は「上記明応五年七月から文亀元(1501)年三月(宗瑞の小田原掌握を明示する文書の初見)までの間の何時かとするしかない」として断定を避けた。
近年になって盛本昌弘氏は寺社棟札の研究から本件が明応九年地震の直後であったとの仮説を提起、黒田氏もこれを支持する。
上記文亀元年との時間的近接、宗瑞の伊豆制圧完遂(明応七[1498]年)との前後関係、そして五年七月に小田原城大森氏が山内方に転じたこととの連関性等から見て九年説の蓋然性は極めて高い。
但し九年説にも四年説の根拠たる『鎌倉大日記』の記事との矛盾を単に誤記として切り捨てるだけで十分な説明を為し得ていない、四年地震自体の「復活」には沈黙する、等の危うさや強引さは残る。
省1
579: 03/24(日)20:05 ID:5UtGHkGa(6/17) AAS
(承前)
 
【地震と伊豆制圧戦争】
「幕府-扇谷上杉-今川-伊勢」対「堀越足利-山内上杉-武田」の対立構図による足掛け六年間に及ぶ戦争である。
将軍足利義澄の堀越足利茶々丸(=母と弟の仇)に対する復仇戦、幕府の関東直属拠点(堀越御所)回復運動、及び長享ノ乱の三つの要素が重層構造を成している。
明応二(1493)年伊勢宗瑞の侵攻に始まって同七(1498)年足利茶々丸の自害及び狩野道一の滅亡を以て終結した。
戦争期間中に明応四年震災と同七年震災及び台風を経験、当然ながら戦争の転機や帰趨は大規模自然災害によって不可抗的に規定されたものと考えられる。
省2
580: 03/24(日)20:06 ID:5UtGHkGa(7/17) AAS
(承前)

イ. 明応四年地震と戦局
伊勢宗瑞の侵攻以来二年間一進一退だった戦局はこの年、足利茶々丸が伊豆國から没落して大島に渡るという大転機を迎えた。
以下、明応四年地震実在の立場を取る片桐氏、金子氏等の仮説を踏まえて概観する。
四年地震が実在したとすると、考古学成果から茶々丸勢力圏(堀越~東伊豆)は甚大な震災被害を受けたと認められる。
茶々丸没落が震災前後何れのことかは不明であるが、後であったとすれば物理的に戦線維持が不可能になった結果と推測できる。
一方、当時宗瑞の軍勢は伊豆北西部又は駿東地域に在ったとみられる。
省4
581: 03/24(日)20:07 ID:5UtGHkGa(8/17) AAS
(承前)

ロ. 明応五年及び六年の戦局
明応四年に一旦は伊勢宗瑞方優位が確立した伊豆戦線であるが、翌五年から六年にかけて足利茶々丸方が反転攻勢に出た。
大島亡命後程無く本土帰還を果たした茶々丸は武蔵國(山内顕定)や甲斐國(武田信縄)に仮寓しつつ彼等の支援を受けて北方から伊豆を窺う一方、伊豆國内に残る与同勢力とも連動して反撃を展開する。
五年七月には小田原城大森氏が山内上杉方に服属、「西郡一変」と云われる状況が現出する。
これを受けて翌六年になると茶々丸勢は駿河御厨地域まで進出、呼応して伊豆の旧臣狩野道一も攻撃を激化させる。
宗瑞方は一転して劣勢を余儀無くされて拠点死守が精一杯という状態に追い込まれた。
省2
582: 03/24(日)20:08 ID:5UtGHkGa(9/17) AAS
(承前)
 
ハ. 明応七年地震と戦局~足利茶々丸の滅亡
明応六年は足利茶々丸方優位の裡に推移したが、翌七年に戦局は再び大転換、伊豆戦線は同年の内に伊勢宗瑞方の勝利で最終決着を見る。
この転換の直接契機が茶々丸の滅亡であったことは疑いを容れない。
その時期は『王代記』に拠れば正に大震災と台風の明応七年八月であったと謂うが、震災が茶々丸滅亡を如何にして決定付けたかについては研究者の間でも意見の分かれる所である。
かつては宗瑞方が震災後の大混乱に乗じて茶々丸を追い詰めたとする見解が主流であった。
省3
583: 03/24(日)20:10 ID:5UtGHkGa(10/17) AAS
(承前)

これに対して家永遵嗣氏は大地震、津波とこれに追い討ちを掛けた台風の壊滅的災害下では大規模軍事行動やその準備作業は物理的にも時間的にも不可能であると指摘する。
黒田氏等は家永氏の指摘を肯定した上で、伊豆七島の津波記録の解析から宗瑞方が伊豆國全域に於いて再び優位を確立したのは震災以前だったとして金子氏等と見解を異にしている。
この前提に立って震災の茶々丸滅亡決定過程については甲斐國武田信縄の動向を重視する。
ここまで茶々丸を擁して伊豆戦線に激しく干渉してきた信縄は、震災と時期を同じくして殆ど唐突に今川/伊勢と和睦を遂げている。
甲斐國に於いても激甚であった震災被害下、内訌をも抱える信縄が多方面戦争体制を維持し得なくなって和睦に踏み切った蓋然性は高い。
和睦に際して一つの「落とし前」として茶々丸の身柄或いは首級を差し出した、謂わば茶々丸は武田権力体に捨てられた--のではないか。
省5
584: 03/24(日)20:12 ID:5UtGHkGa(11/17) AAS
(承前)
 
ニ. 明応七年地震と戦局~伊豆戦争の終焉
足利茶々丸滅亡後も伊豆國内の残党の抵抗は稍々続いたが、最早それは伊勢宗瑞方にとって大きな障碍とはなり得なかったとみられる。
伊豆戦争は明応七年の内に淡々と収束に向かった模様である。
その最終過程について金子氏等は、震災で弱体化、孤立化した小勢力群を宗瑞方が各個撃破で殲滅掃討したと想定している。
一方黒田氏等は、物理施設のみならず統治機構も社会関係も潰滅した村々、浦々にむしろ粛々と進駐接収したと云う方が事実に近いと見ているようだ。
省5
585: 03/24(日)20:15 ID:5UtGHkGa(12/17) AAS
(承前)

しかし真に重要な政治過程は戦後にこそ在った。
新たに伊豆國の為政者となった伊勢宗瑞の権力体が全力で取り組まなければならなかった課題、即ち荒廃を極める村々、浦々の救難再建活動である。
『北條五代記』など軍記群に見える「風病」救済活動によって民心を得たとの説話、それも含めた所謂「百姓憐愍」の北條善政伝説の核事実はこの辺りに在るのだろうが、史実に照らしてもこの政治過程には具体的な意義を認め得る。
宗瑞にしてみれば早急に領国を再建しなければ権力体の存立もあり得ないわけで、しかも旧来の統治機構が完全に崩壊した状況下では否応無く村々と伊勢権力体が直接向き合わざるを得なかった。
非常時活動である救難は勿論、権力体の本来機能である徴税や賦役に関しても現場の破滅的現実を真摯に受け止めた上で行うことが不可避だった。
ここに伊勢宗瑞の枕詞とも云うべき「村の直轄統治」「村との直接対話」が萌芽したものと考えられる。
省4
586: 03/24(日)20:29 ID:5UtGHkGa(13/17) AAS
(承前)
 
【私見による補遺その一 小田原城はいつ落ちたのか】
既述の如く伊勢宗瑞の小田原城接収については明応四(1495)年説と同九(1500)年説が対立している。
双方とも強力な根拠がありつつも、対立説を否定するに於いては些か強引さ、粗雑さ、危うさを残す。

議論の基本ルールとして、己の仮説に対する反証が一例でも為された時は一旦自説を捨てて全てを包括説明し得る新仮説を模索しなければならない。
それが所謂「弁証法」−−正・反・合−−による対立の止揚と知見の進化ということではないのか。
省4
587: 03/24(日)20:36 ID:5UtGHkGa(14/17) AAS
(承前)

明応三年、扇谷上杉方の重鎮たる小田原大森氏頼が世を去る。
家督相続を巡って大森家中に内訌が生じたとの所伝は一次史料の裏付けを欠くが、戦国の世にあってはむしろ尋常のこととしてその蓋然性を認めてもいいのではないか。
そして有力氏族の内訌が上位権力体の対立構造を引き入れるのも享徳ノ乱や応仁ノ乱等々に飽きるほど見える図式だ。
大森家中も御約束の如く扇谷派と山内派に割れつつあるところ、これを察知した扇谷定正が機先を制して当該方面の与同勢力たる伊勢宗瑞を動員、山内派を駆逐したものと考えられる。
それを可能にしたのは既述の通り「関東地震である四年震災の被害の偏差」であったろうし、或いは大森氏内訌の顕在化自体が震災の混乱によるものだったかもしれない。

黒田氏等は四年地震非実在説を基にこの件を否定するが、
省5
588: 03/24(日)20:41 ID:5UtGHkGa(15/17) AAS
(承前)

明応九年、盛本氏等によれば伊勢宗瑞は小田原城を接収して大森氏を排除した。
同五年の山内上杉による同城奪取及び文亀元(1501)年以後の宗瑞即ち扇谷上杉による小田原領支配が共に事実である以上、その間の何時かの時点で接収があったことは自明である。
政治的見地からしても扇谷がその本拠相模國の最奥部に於ける山内の拠点の存在継続を許容することはあり得ない。
扇谷にとってその奪還は極めて優先度の高い政治課題であったろう。
その為にまたしても動員された伊勢が見事に目的を果たしたわけだが、今回の背景として既に伊豆制圧を終えていたことも見逃せない。

しかしそれ以上に重要なのは三度襲来した大地震だった。
省9
589: 03/24(日)20:44 ID:5UtGHkGa(16/17) AAS
(承前)

【私見による補遺その二 それは伊勢宗瑞の戦争だったのか】
伊勢盛時(当時は出家前)の伊豆侵攻が「明応の政変」と連動したもの、即ち足利義澄及び細川政元の意志によるものであったことは既に広く認知されている。
と同時に、義澄、政元、盛時等が好むと好まざるとに関わらず、山内上杉の管国たる伊豆に扇谷上杉の支援を得て侵攻した瞬間それは「長享ノ乱」の大構造に組み込まれることでもあった。
結果論ではあるが初動に於いて取り逃がした足利茶々丸が山内や武田と連携するに至って伊豆戦争はいよいよ「長享ノ乱」の一要素と化していく。
そこには「茶々丸個人の討滅」から「伊豆國全域制圧、確保」へ--という戦争目的の変質が認められる。
当然ながら、盛時の主体意志など微塵も存在しない。
省7
590: 03/24(日)20:47 ID:5UtGHkGa(17/17) AAS
(承前)

どう見ても巻き込まれただけ、右往左往しただけ、酷使されただけの殺人的労働によって維持し続けた戦線の、その経過や帰趨さえ宗瑞の意志によって規定されることはなかった。
宗瑞はおろか如何なるヒトの意志や存在も「無」とする巨大自然災害の非常識なまでの連続がそれを不可抗的に規定した。
「戦争」なるヒトの矮小な営為を嗤うが如く、地震が津波が台風が敵も味方も瓦礫の海に沈めた。
壊滅的破壊に叩きのめされて、それでも宗瑞が何とか立ち上がれたのは殆ど偶然の幸運に恵まれた結果でしかない。
そしてフラフラと瓦礫の上に立った宗瑞が四囲を見回した時、意外にも立っているのは己独りだった--。
乱暴に総括すればそれが真実だろう。
省7
591: 03/25(月)01:00 ID:fnvQbPny(1) AAS
名前付ければ?
読みたい人はまとめて読めて幸せ、読みたくない人はNG設定出来て幸せ
592: 03/26(火)13:42 ID:Cqi56RnL(1) AAS
文章が下手過ぎだろ
不必要な単語や 言い回しが多くて読みづらい
593: 03/28(木)22:05 ID:8UNaMSrO(1/4) AAS
一、八甫迄上船者商船及卅艘之由申、其直ニ彼船も上候条、別ニ咎無之候之条、早々可被戻候。
一、八甫之儀者当知行ニ候、然者無体ニ他之船可通子細ニ無之候、今迄
此穿鑿為如何不被申候、向後者一改可申付候、誰賦船通共改而可承候。

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>>559に云う商船政策を通達した北條氏照書状の抜粋。
これを改めてしげしげと眺めて今更気付いたことがあったので、
面白いから蛸壺系片言隻句ヲタクの皆様に付き合って近視眼的に重箱の隅を突っついてみる。
省15
594: 03/28(木)22:06 ID:8UNaMSrO(2/4) AAS
(承前)
 
通説に従って甲と読んだ場合、
氏照権力体の意志は「八甫湊をどんどん回転させろ。用の済んだ船はサッサと帰ってもらって湊を空けろ。」ということになる。
通商の空間的/時間的効率を最大化しろ、と。
 
他方、乙を採る場合、
省15
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