聖人伝 (15レス)
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1: 2014/10/17(金)01:23 AAS
聖人伝を紹介するためのスレッドです。
2: 2014/10/17(金)01:24 AAS
高山右近
自分の領地よりも、天の御国をとったキリシタン大名

キリシタンの地・高槻

 高山右近(たかやまうこん)は、洗礼名を「ジュスト」といい、最も高名なキリシタン大名であった。彼は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三代の世にわたって生きた人である(一五五三?〜一六一五年)。
 高山右近の父は、高山飛騨守ダリオ(洗礼名)で、やはり熱心なキリシタンであった。ダリオは、大和国(やまとのくに)(奈良県)の沢(さわ)城主であった。
 父ダリオは伝道に熱心で、やがて彼の伝道により余野城主の黒田氏が、家族や家臣たちと共に洗礼を受けた(一五六四年)。その一〇年後、ジュスト高山右近は、この黒田氏の長女・ジュスタ(洗礼名)と結婚した。
 このとき高山右近は、すでに高槻(たかつき)城(大阪府)の城主となっていた。高槻城内の身分ある家臣たちも、ほとんど皆キリシタンとなっていた。父ダリオは、すでに家督を譲り、そこで教会のために専心していた。
 城内には、立派な教会堂が建てられ、宣教師(バテレン)たちの住院も建てられていた。神学校(セミナリヨ)もつくられた。
 庭園の周囲には、花咲く木々が植えられ、その一方には大きな数本の木の下に、三つの階段のある大十字架が立てられていた。その後ろには水を引いて池が造られ、魚が泳ぎ、あたり一面には、遠くから取り寄せた雛菊(ひなぎく)やバラ、ゆりなどが咲き乱れていた。
 これらはすべて、キリシタンの祈りと憩いのためであった。
省5
3: 2014/10/17(金)01:25 AAS
最初の試練

 しかし平和に暮らす高山右近とその妻ジュスタたちのもとに、最初の大きな試練が訪れたのは、その翌年であった。
 右近は当時、荒木村重(あらきむらしげ)を直接の主君として仕えていた。それで荒木村重のもとには、右近の妹、およびまだ四歳の長男ジョアンが、人質として取られていた。
 ところが、荒木村重は突然、織田信長に向かって反旗をひるがえしたのである。これは信長にとって、足元をすくわれかねない重大事件であった。
 信長は右近に、高槻城の開城を要求してきた。高槻は、京都と大阪の中間に位置する戦略的な拠点であった。
 しかし信長に背いた荒木村重のもとには、人質として右近の妹と長男が取られている。もし信長に高槻城を開城すれば、村重は人質を殺すだろう・・・・。
 右近は、人質を取り返すべく努力したいので、しばらく猶予(ゆうよ)が欲しいと伝えた。信長は喜んだが、右近の決心を促すため、フランシスコその他の宣教師たちを捕虜とし、人質とした。
 どちらにも人質を取られた右近は、厳しい選択に迫られた。このとき父ダリオは、もし開城するならキリシタンに禁じられている自害も辞さぬと言って、開城に反対した。
 妻ジュスタも、わが子のことを思い、眠れぬままに右近に訴えた。
 「お願いでございます。ジョアンたちが殺され、父上が自害あそばすようなことは、どうぞなさらないで下さいませ」。
省9
4: 2014/10/17(金)01:25 AAS
秀吉のキリシタン禁令

 秀吉は結局、天の神のもとにひざまずくことは、なかった。彼は神の前にへり下ることなく、むしろますます征服欲を燃やし、傲慢(ごうまん)になって、朝鮮にも出兵して人々を従えようとしていた。
 一五八六年にコエリョ宣教師が、オルガンチノ師やロレンソ以下の随員を従え、秀吉の大阪城を訪れた。右近は、彼らに同行した。
 秀吉は宣教師たちとの会談の中で、天下統一を果たした今は、望みは死後に自分の名をとどめ、権勢を伝えることだけだと語った。また、国は弟の秀長にゆずって、自分は朝鮮とシナ(中国)を征服するつもりだ、と打ち明けた。右近はそれを聞いていた。
 宣教師たちとの会談は、ごくうちとけた雰囲気の中で行なわれ、謁見(えっけん)は成功裏(せいこうり)に終わったようにも見えた。しかし、右近は重い心で城へ帰ってきた。
 疲れの見える右近は、妻ジュスタと共に祈祷所へ入った。祈り終わった右近は、いつもの快活さとは異なる沈痛な面持ちで、ジュスタに語り始めた。
 「同じ霊名(洗礼名ジュストとジュスタ)をいただくそなたとは、身も心も一つでありたい。そなたは女の身なれど、申し聞かせる。
 このたびの大阪城でのコエリョ様のお言葉には、暗い予感がするのじゃ。関白(かんぱく)(秀吉)殿の朝鮮出兵に、軍船を斡旋(あっせん)なさるとか、九州のキリシタン大名を集められるとか、バテレンにあるまじき発言をされた。
 しかし、どのようなことが起ころうとも、我々は信仰を貫き通さねばならぬ」。
 秀吉によって、青天のへきれきのごとくキリシタン禁令が下ったのは、その翌年のことであった。
省19
5: 2014/10/17(金)01:25 AAS
マニラへの船出

 しばらくして右近は、有馬領でコエリョ師に出会った。コエリョ師は、自分の軽率な発言を恥じ、右近の信仰をたたえた。右近は師を責めることなく、むしろ今後のことを語りあった。
 やがて、秀吉の怒りも和らぎ、ほとぼりも冷めつつあった。
 一五八九年には、貧しさの中に信仰生活を送る右近たちの姿に打たれた利家の計らいと、秀吉の弟・秀長のとりなしとによって、右近に二万石が与えられるようになった。その後も、右近の熱心な伝道活動のゆえに、多くの武士や農民、婦人たちが洗礼を受けた。
 一五九九年になって、秀吉は没した。
 秀吉が死に臨もうとするとき、謁見(えっけん)を許されたポルトガル人司祭ロドリゲスは、しきりに秀吉に魂の救いを説いた。しかし秀吉は、かたくなに眼を閉じて聞き入れず、世を去った。
 秀吉は、日本という一つの世界を手に入れた。しかし彼は、「まことのいのち」を得ることはなかった。
 秀吉はその権勢を後の世に伝える者となったが、その権勢は一時的なものにすぎない。人は自分の死の向こうにまで、権勢を持っていくことはできないのである。しかし、もし彼が回心して神におぼえられる者となっていたならば、神は彼の名を、高く引き上げられたことであろう。
 秀吉ののちに天下を取ったのは、徳川家康であった。
 家康ははじめ、キリシタンに対して比較的おだやかな態度をとった。しかしやがて幕藩(ばくはん)体制確立のために、キリシタンの思想を排除しようと、弾圧を始めた。そして一六一三年には、宣教師の国外追放令も発した。
省6
6: 2014/10/17(金)01:26 AAS
マニラでの死

 右近らを乗せた船は、一路、マニラ(フィリピン)へと向かった。
 誰はばかることのない航海であった。「ボートピープル」「難民」となった彼らだが、大海原を静かに進む船からは、いつも讃美歌と祈りの声が聞こえていた。
 順風で行けば一〇日ほどの航程である。しかし老朽船の船脚(ふなあし)は遅く、また逆風・暴風にさまたげられて、航海は一か月以上に及んだ。
 この間に、四人の者が死んだ。なかには、在日三二年、聖人のほまれの高かった六四歳のクリタナ師も含まれていた。
 ある日、水夫たちの不注意で、船室が水浸(みずびた)しになってしまった。しかし右近は、誰をも咎めることなく、ぬれた書物を孫たちと一緒に一枚一枚ていねいに乾かした。
 マニラが近くなったとき、モレホン師は先にマニラに入って、右近らの到着をマニラ総督に伝えた。
 マニラ総督ファン・デ・シルバは、すでにグスマン著『ゼズス会(イエズス会)東洋伝道史』を読んで、右近たちのことを知っていた。彼はすぐに右近らの歓迎を計画、受け入れ体制を整えてくれた。
 右近たちが港に入ってきたとき、熱狂したマニラ市民は岸壁を埋め、一発の礼砲を合図に歓迎の砲声が響き渡った。その中を右近たちが上陸した。
 総督は彼らを官邸に招き、涙を流して労をねぎらった。右近らは、日本の武士流の礼儀正しさで、深い感謝を表した。
省10
7: 2014/10/17(金)01:26 AAS
 「模範的キリシタンになるように」
 としたためた。こうして右近は、一六一五年二月五日に息を引き取った。
 妻ジュスタは夫の最期の装いとして、大切に日本から持ってきた武士の盛装をさせ、胸に十字架を抱かせながら語りかけた。
 「あなた様は良き戦いを戦い、走るべき道程を走り終え、信仰を守り通されました。こののち、殿のためには、天で義の冠が待っているばかりでございます」(二テモ四・七〜八による)。
 そして、
 「安らかにお眠りくださいませ。私もいつかお跡(あと)を」
 と、そっと頬に触れた。
 マニラ総督は、右近の死を知り、盛大な葬儀をとりおこなった。右近の遺体は立派な棺におさめられ、総督官邸の広間に安置された。
 その日は、マニラ中の教会の鐘が鳴り響くなか、右近の足に接吻しようとする市民や、棺をかつぐ役を得ようとする人々で、ごったがえした。そのあと棺は、サンタ・アンナ聖堂の大祭壇のかたわらに埋葬された。
 こうして高山右近の魂は、永遠の神のもとへ帰り、その永遠の生命の中に入った。
省7
8: 2014/10/27(月)11:11 AAS
マルグリット=マリ・アラコック
Ste Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690

 マルグリット=マリ・アラコック (Ste. Marguerite-Marie Alacoque, 1647 - 1690) は聖母訪問会 (L'ordre de la Visitation Sainte-Marie) に属するフランスの修道女で、ジャン・ユード (St. Jean Eudes, 1601 - 1680) とともに聖心への信心を広めた功績により知られます。マルグリット=マリ・アラコックは1864年9月18日にピウス9世により列福、1920年5月13日にベネディクトゥス15世により列聖されました。ちなみにジャン・ユードは1925年5月31日にピウス11世により列聖されています。

【マルグリット=マリ・アラコックの生涯】

 マルグリットは 1647年、六角形のフランス国土の中心よりも少し東、クリュニーから20キロメートルほど西にある大きな村ヴェローヴル (Verosvres) の、ロートクール (l'Hautecour) という集落に生まれました。公証人の父は土地も所有しており、裕福な家庭でしたが、マルグリットよりも先に生まれた三人の男の子と一人の女の子のうち、姉に当たる女の子は既に亡くなっており、マルグリットの誕生は両親を喜ばせました。

 マルグリットの代母はフォートリエール侯爵夫人マルグリット・ド・サンタムール (Marguerite de Saint-Amour, la Marquise de Fautrieres) という貴婦人で、マルグリットの生家から5キロメートルほど西、ボーベリ (Baubery) のコルシュヴァル城 (le chateau de Corcheval) に住んでいました。マルグリットは 1651年にこの貴婦人に引き取られ、1655年までコルシュヴァル城で育ちましたが、1655年に父が亡くなるといったんロートクールに戻り、翌1956年に、ロートクールから12キロメートルほど東に離れたシャロル (Charolles) にあるクララ会の寄宿学校に入りました。マルグリットはこの寄宿学校に入学した直後、9歳のときに初聖体を拝領しましたが、その二年後に病を得て生家に戻りました。マルグリットの病状は重く、四年に亙って床に就きましたが、発病の四年後、14歳のときに、あたかも奇蹟に拠るかのように突然快癒しました。
省4
9: 2014/10/27(月)11:13 AAS
 さて、17世紀初頭のヨーロッパには幾多の修道会がありましたが、その頃のほとんどの修道会は規律がたいへん緩く、例外とも言えるカルメル会の規律はあまりにも厳しく、真摯に神を求めながらも身体がとりわけ丈夫でもない女性に相応しい修道会がありませんでした。そのような状況の中で、カルヴァン派から逃れてサヴォワに滞在中のジュネーヴ司教フランソワ・ド・サル (St. Francois de Sales, 1567 - 1622) が、貴族の未亡人ジャンヌ・ド・シャンタル (Ste. Jeanne de Chantal, Jeanne-Francoise Fremyot, baronne de Rabutin de Chantal, 1572 - 1641) を指導して 1610年に設立したのが、聖母訪問会です。「聖母訪問会」という名称は、受胎を告知されたマリアが親類のエリザベトを訪問した故事に基づきます。「聖母訪問会」は一般には「サント=マリ」(Sainte-Marie 聖マリ、聖マリア)という略称で呼ばれていました。

 この聖母訪問会は、1626年、ロートクールから西へ30キロメートル足らずのパレ=ル=モニアル(Paray-le-Monial ブルゴーニュ地域圏ソーヌ=エ=ロワール県)に、女子修道院を新設しました。おそらく「サント=マリ」という修道会名のせいもあって、マルグリットはかねてからパレ=ル=モニアルの修道院に心を惹かれていました。1671年5月25日、マルグリットは兄と共にここを訪れて、神がこの場所での修道生活を望んでおられると確信します。この日修道院長と修練院長に面会したマルグリットは入会の許可を貰い、ひと月足らず後の6月20日、晴れて入会を果たしました。二カ月後の同年8月25日には着衣式を行い、修練女となりました。
10: 2014/10/27(月)11:14 AAS
(上) パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院付属礼拝堂。向かって右のガラスの棺に、マルグリット=マリが安置されています。

 マルグリット=マリは幼少時からたびたび幻視を経験しましたが、修練女として厳しい修道生活を送るなかでその傾向は強くなり、仲間の修道女たちに嘲笑され、修練院長に叱責されました。修練期の終わりが近付き、修道誓願を立てる許可をマルグリット=マリに与えるかどうかについて議論がされましたが、マルグリット=マリは修練院長と、この頃着任した新修道院長マリ=フランソワーズ・ド・ソメーズ (Marie-Francoise de Saumaise) に完全な従順を示し、これが認められて、1672年11月6日、無事に初誓願を立てることができました。

 マルグリット=マリは祈り(ミサと聖務と念祷)から担当する職務、雑務に至るまで、修道院で行われる活動を他の修道女と同様にこなしました。1673年には修道院内の病室で看護を担当していましたし、1674年には修道院に短期滞在する修道女候補の女性たちの指導係を務めました。これらの職務を一人前にこなす一方で、マルグリット=マリはたびたび自己の内部に沈潜して神の声を聴き、あるいは幻視を行いました。

 マルグリット=マリに限らず、一般に神秘思想家とされる人たちは、余人には窺(うかが)い知れない内的世界への扉とでも呼ぶべきものを常に内に抱えて日々生活しているのであり、その扉がいつ、どの程度開くかは、本人を含め誰にも分かりません。神秘思想家の心の中でその扉が開くと、本人は扉の向こうの内的世界に魂を奪われてエクスタシーに陥ります。周囲で見ている人間があれば、神秘思想家に何らかの異変が起きていることに気付きますが、周囲の人には出現物が見えるわけでも声が聞こえるわけでもありません。

 マルグリット=マリの場合も、この事情は同じです。初誓願を立てて半年経った頃から、ド・ソメーズ院長はマルグリット=マリに勧めて内的経験を記録させましたが、その内容は神秘主義的思索と神やキリスト、聖母、諸聖人からの「声」のようなメッセージ、およびいわゆる「アパリシオン」(apparitions 御出現)が、互いに判別不可能な形で混然一体となっています。マルグリット=マリは大きなアパリシオンを三度経験したと言われていますが、聖女の内的世界に通じる扉はいつでも開閉自在であり、ときに半開きにもなって、深い神秘的思索から脱魂状態まで、さまざまな程度の内的状態を聖女に経験させます。よく知られている三度のアパリシオンは、このようにして起きる脱魂状態のうち、聖女がキリストの臨在を圧倒的に強く感じ、限りない大きな深みへと引き込まれたケースと考えることができましょう。
省3
11: 2014/10/27(月)11:15 AAS
(上) ド・ラ・コロンビエール神父

 ド・ラ・コロンビエール神父は四旬節に聖母訪問会を訪れて修道女たちの告解を受けましたが、その際にすぐにマルグリット=マリに注目し、マルグリット=マリもまた、聖心の信心を広めるにあたり、ド・ラ・コロンビエール神父が協力者となるであろうことを、神の啓示により知りました。告解のときは修道女の顔を見ることはできませんが、後日聖母訪問会を再訪した際に神父はマルグリット=マリに目を留めて、ド・ソメーズ院長に対し、マルグリット=マリは神の恩寵を受けていると言いました。

 院長は別の日にマルグリット=マリに命じて神父に面会させ、自身の内的状態を話させました。神父とマルグリット=マリは対話を重ね、神父はマルグリット=マリが精神病でも悪魔に憑かれているのでもないと明言し、聖心への信心を広め続けるように励まし、自らもそのためにあらゆる努力を惜しまない決意を固めました。

 1675年の聖体の祝日(6月13日)から八日間にわたり、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院礼拝堂では聖体が顕示されていました。マルグリット=マリは聖体顕示台に向かって跪いていましたが、このとき第三回目の大きなアパリシオンを受けました。神は聖心を示して人々の忘恩について語り、聖体の祝日後の八日間が過ぎて最初の金曜日を、聖体の祝日とするように命じました。
12: 2014/10/27(月)11:17 AAS
(上) 1675年の御出現を浮き彫りにしたメダイ。1900年のもの。当店の商品です。

 マルグリット=マリの指導司祭であり、聖女の内的経験を神からの啓示と信じるド・ラ・コロンビエール神父は、この第三回目のアパリシオン後の金曜日に、自分自身を聖心に捧げました。翌1676年の秋、神父はヨーク公(イギリス国王ジェイムズ2世の弟)の妃付司祭として指名されてイングランドに渡りましたが、マルグリット=マリとの書簡のやり取りは続きました。

 ド・ラ・コロンビエール神父がパレ=ル=モニアルを去った翌年、キリストはマルグリット=マリに対し、修道女たちが神に心を向けないゆえに父なる神が怒っておられること、その怒りを逸らすために聖女が自分を犠牲に捧げるよう求めました。マルグリット=マリは修道院においてほとんど最年少であったにもかかわらず、先輩修道女たちの罪を全員の前で告発せざるを得ない状況になりました。聖女は極度に怖れ悩みましたが、最後は従順に聴き従い、1677年11月20日の夜にこのことを実行しました。その結果、一部の修道女たちは耳を傾けて告解と悔悛の苦行を行いました。しかしながら当然予想されたように、一部の修道女たちは激高して聖女に十字を切り、聖水を投げつけ、それから後のマルグリット=マリは精神的に追い詰められる日々が続きました。しかし聖女は神への愛ゆえ、歓びを以ってすべてに耐えました。
13: 2014/10/27(月)11:17 AAS
(上)ミサに与(あず)かるマルグリット=マリ。古い絵葉書から。

 1678年6月17日、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院に新院長ペロンヌ=ロザリー・グレイフィエ (Peronne-Rosalie Greyfie, 1638 - 1717) が着任しました。この頃のマルグリット=マリは、宗教的な罪の意識に以前と変わらず苛まれるとともに、周囲からの批判を自分に非があるせいだと思い込み、絶えずわが身を鞭打つ等の苦行に励んで、身体の健康状態はたいへん悪化していました。新院長はマルグリット=マリの行動に、前任者以上に戸惑い、聖女に対して非常に厳しく接しました。しかしながら院長がマルグリット=マリに宛てた忠告のメモあるいは手紙を読むと、院長の厳しい態度は、マルグリット=マリの霊的成長を願う気持ちから発していたことがわかります。

 1675年から76年にかけてマルグリット=マリを指導したド・ラ・コロンビエール神父は、その後帰国してリヨンにいましたが、ロンドンで罹った病気のために、1681年夏、環境の良いパレ=ル=モニアルに転地しました。当地でも良くならなかったので、さらなる療養のために、パレ=ル=モニアルから南南西におよそ120キロメートル離れた生地サン=サンフォリアン=ドゾン(Saint-Symphorien-d'Ozon ローヌ=アルプ地域圏ローヌ県)に戻ることになりましたが、マルグリット=マリは神父が当地で天に召されることを神が望んでおられると言って神父を引きとめました。神父は聖女の言を容れてパレ=ル=モニアルに留まり、1682年2月15日に当地で亡くなりました。

 1684年5月、院長ペロンヌ=ロザリー・グレイフィエはセミュール=アン=オソワ(Semur-en-Auxois  ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県)の修道院長に選ばれてパレ=ル=モニアルを後にし、後任にスール・ムラン (Marie-Christine Melin) が選ばれました。パレ=ル=モニアル修道院生えぬきの人であったムラン新院長は、マルグリット=マリが優れた人材であることをよく理解しており、聖女を院長の補佐役に抜擢し、さらに半年後には修練院長に任命しました。聖女は1685年から翌86年まで二年に亙る任期を修練院長としてよく務め、聖心に対する崇敬を修道院内に広めました。またド・ラ・コロンビエール神父の著書「ルトレート・スピリチュエル」("Retraite spirituelle", Lyon, 1684) が広く読まれることにより、聖心への崇敬は他の修道院にも広まってゆきました。

 マルグリット=マリはその後看護担当助手、修道院に短期滞在する女性たちの指導係、修道院長の補佐役を務めた後、1690年10月17日、43歳で亡くなりました。
省6
14: 2014/10/27(月)11:18 AAS
 1689年、マルグリット=マリはフランス国王ルイ14世へのメッセージを含む啓示をキリストから受け取りました。キリストはルイ14世を「わが聖心の長子」(le fils aine de mon sacre C?ur) と呼び、受難の際に受けた不正への償いとして、次のことを求めました。

・国王が自らを聖心に奉献し、その範によって宮廷および諸国の権力者をも聖心の信心へと導くこと。

・聖心に捧げた礼拝堂を、ヴェルサイユ宮に設けること。

・ルイ14世自らがローマの聖座(教皇)に働きかけて、聖心に捧げたミサを定めさせること。

 マルグリット=マリはキリストから受けた啓示をルイ14世宛ての手紙に記しました。聖女の手紙はパレ=ル=モニアルのド・ソメーズ院長から、パリのシャイヨ宮にある聖母訪問会修道院の院長、王妃、国王付聴罪司祭を経て国王に渡されるはずでした。
省2
15: 2014/10/27(月)11:19 AAS
(上) キリストに身を投げかける悔悛のガリア。背景は 1914年9月4日のドイツ軍による空襲で炎上するランス司教座聖堂ノートル=ダム。ノートル=ダム・ド・ランスは歴代のフランス国王が戴冠した司教座聖堂です。手前にジャンヌ・ダルクの騎馬像が見えます。当店の商品。

 19世紀後半のフランスでは、こうして宗教的な「回心」の必要が叫ばれるようになり、「悔悛のガリア」(Gallia poenitens) をキリストの聖心に捧げる国民的規模の運動が起こりました。この時代に、聖心に捧げた「サクレ=クール教会」がモンマルトルをはじめとするフランス各地に建てられたのは、悔悛のガリアを聖心に奉献しようとする運動の結果です。
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