聖人伝 (15レス)
上
下
前
次
1-
新
13
: 2014/10/27(月)11:17
AA×
[240|
320
|
480
|
600
|
100%
|
JPG
|
べ
|
レス栞
|
レス消
]
13: [] (上)ミサに与(あず)かるマルグリット=マリ。古い絵葉書から。 1678年6月17日、パレ=ル=モニアルの聖母訪問会修道院に新院長ペロンヌ=ロザリー・グレイフィエ (Peronne-Rosalie Greyfie, 1638 - 1717) が着任しました。この頃のマルグリット=マリは、宗教的な罪の意識に以前と変わらず苛まれるとともに、周囲からの批判を自分に非があるせいだと思い込み、絶えずわが身を鞭打つ等の苦行に励んで、身体の健康状態はたいへん悪化していました。新院長はマルグリット=マリの行動に、前任者以上に戸惑い、聖女に対して非常に厳しく接しました。しかしながら院長がマルグリット=マリに宛てた忠告のメモあるいは手紙を読むと、院長の厳しい態度は、マルグリット=マリの霊的成長を願う気持ちから発していたことがわかります。 1675年から76年にかけてマルグリット=マリを指導したド・ラ・コロンビエール神父は、その後帰国してリヨンにいましたが、ロンドンで罹った病気のために、1681年夏、環境の良いパレ=ル=モニアルに転地しました。当地でも良くならなかったので、さらなる療養のために、パレ=ル=モニアルから南南西におよそ120キロメートル離れた生地サン=サンフォリアン=ドゾン(Saint-Symphorien-d'Ozon ローヌ=アルプ地域圏ローヌ県)に戻ることになりましたが、マルグリット=マリは神父が当地で天に召されることを神が望んでおられると言って神父を引きとめました。神父は聖女の言を容れてパレ=ル=モニアルに留まり、1682年2月15日に当地で亡くなりました。 1684年5月、院長ペロンヌ=ロザリー・グレイフィエはセミュール=アン=オソワ(Semur-en-Auxois ブルゴーニュ地域圏コート=ドール県)の修道院長に選ばれてパレ=ル=モニアルを後にし、後任にスール・ムラン (Marie-Christine Melin) が選ばれました。パレ=ル=モニアル修道院生えぬきの人であったムラン新院長は、マルグリット=マリが優れた人材であることをよく理解しており、聖女を院長の補佐役に抜擢し、さらに半年後には修練院長に任命しました。聖女は1685年から翌86年まで二年に亙る任期を修練院長としてよく務め、聖心に対する崇敬を修道院内に広めました。またド・ラ・コロンビエール神父の著書「ルトレート・スピリチュエル」("Retraite spirituelle", Lyon, 1684) が広く読まれることにより、聖心への崇敬は他の修道院にも広まってゆきました。 マルグリット=マリはその後看護担当助手、修道院に短期滞在する女性たちの指導係、修道院長の補佐役を務めた後、1690年10月17日、43歳で亡くなりました。 【マルグリット=マリの列福と列聖】 マルグリット=マリに関する列福の調査は 1714年10月15日に始まりました。1830年に聖女の棺が開けられた際、二件の奇蹟的治癒が起こったと報告されています。マルグリット=マリは、1864年9月18日、ピウス9世によりローマで列福され、1920年5月13日、ベネディクトゥス15世によりローマで列聖されました。また1929年には教会暦上の祝日が定められました。 マルグリット=マリの祝日は10月16日です。現行の教会暦において、マルグリット=マリの祝日と聖女がが亡くなった日に一日のずれがある理由は、聖女が亡くなった日付である10月17日が、使徒時代の教父アンティオキアのイグナティウス (Ignatius Antiochenus, c. 35 - c. 108) の祝日となったため、聖女の祝日が1969年に一日ぶん繰り上げられたことによります。 マルグリット=マリは聖心を崇敬する人、及び両親を亡くした人の守護聖人です。 【「悔悛のガリア」】 マルグリット=マリに対する大きなアパリシオン(apparitions 御出現)は三回とされていますが、前述したように、神秘思想家マルグリット=マリはその内面において、さまざまな様態の神秘体験を頻繁に経験しました。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12469/1413476600/13
上ミサに与あずかるマルグリットマリ古い絵葉書から 年月日パレルモニアルの聖母訪問会修道院に新院長ペロンヌロザリーグレイフィエ が着任しましたこの頃のマルグリットマリは宗教的な罪の意識に以前と変わらず苛まれるとともに周囲からの批判を自分に非があるせいだと思い込み絶えずわが身を鞭打つ等の苦行に励んで身体の健康状態はたいへん悪化していました新院長はマルグリットマリの行動に前任者以上に戸惑い聖女に対して非常に厳しく接しましたしかしながら院長がマルグリットマリに宛てた忠告のメモあるいは手紙を読むと院長の厳しい態度はマルグリットマリの霊的成長を願う気持ちから発していたことがわかります 年から年にかけてマルグリットマリを指導したドラコロンビエール神父はその後帰国してリヨンにいましたがロンドンでった病気のために年夏環境の良いパレルモニアルに転地しました当地でも良くならなかったのでさらなる療養のためにパレルモニアルから南南西におよそキロメートル離れた生地サンサンフォリアンドゾン ローヌアルプ地域圏ローヌ県に戻ることになりましたがマルグリットマリは神父が当地で天に召されることを神が望んでおられると言って神父を引きとめました神父は聖女の言を容れてパレルモニアルに留まり年月日に当地で亡くなりました 年月院長ペロンヌロザリーグレイフィエはセミュールアンオソワ ブルゴーニュ地域圏コートドール県の修道院長に選ばれてパレルモニアルを後にし後任にスールムラン が選ばれましたパレルモニアル修道院生えぬきの人であったムラン新院長はマルグリットマリが優れた人材であることをよく理解しており聖女を院長の補佐役に抜擢しさらに半年後には修練院長に任命しました聖女は年から翌年まで二年に亙る任期を修練院長としてよく務め聖心に対する崇敬を修道院内に広めましたまたドラコロンビエール神父の著書ルトレートスピリチュエル が広く読まれることにより聖心への崇敬は他の修道院にも広まってゆきました マルグリットマリはその後看護担当助手修道院に短期滞在する女性たちの指導係修道院長の補佐役を務めた後年月日歳で亡くなりました マルグリットマリの列福と列聖 マルグリットマリに関する列福の調査は 年月日に始まりました年に聖女の棺が開けられた際二件の奇蹟的治癒が起こったと報告されていますマルグリットマリは年月日ピウス世によりローマで列福され年月日ベネディクトゥス世によりローマで列聖されましたまた年には教会暦上の祝日が定められました マルグリットマリの祝日は月日です現行の教会暦においてマルグリットマリの祝日と聖女がが亡くなった日に一日のずれがある理由は聖女が亡くなった日付である月日が使徒時代の教父アンティオキアのイグナティウス の祝日となったため聖女の祝日が年に一日ぶん繰り上げられたことによります マルグリットマリは聖心を崇敬する人及び両親を亡くした人の守護聖人です 悔のガリア マルグリットマリに対する大きなアパリシオン 御出現は三回とされていますが前述したように神秘思想家マルグリットマリはその内面においてさまざまな様態の神秘体験を頻繁に経験しました
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 2 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
ぬこの手
ぬこTOP
0.087s