[過去ログ] 末法燈明記の作者は最澄か? (1002レス)
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656: 2020/07/03(金)05:14 ID:ZBH45bb1Z(1/6) AAS
もとは仏 そのまま如来
そのまま仏、というのは、空即涅槃のような、法理
悟りを得た時に見えるものというか、こちらの認識が落ちた時に、感得するもの
657: 2020/07/03(金)12:45 ID:ZBH45bb1Z(2/6) AAS
「色即是空」解釈の誤り4
2chスレ:psy
658: 2020/07/03(金)12:47 ID:ZBH45bb1Z(3/6) AAS
2chスレ:psy
659: 2020/07/03(金)14:13 ID:ZBH45bb1Z(4/6) AAS
サンスクリット原典には、心経本文の最初に「ここにおいて」という漢訳にはない語がある。

スマナサも「自我は幻想」とか言ってるから、伝統的唯蘊無我心の段階に固執し、これを他にも押し付けようとしている状態。ここ止まり。
> 舎利子になりかわっていいますと、苦しむ自己から解放されるには、自己そのものがないというごく単純な、しかし深遠な事実を知ればよい。
それをいかに洞察するか。自己は五蘊にすぎない(五蘊の仮の集合にほかならない、すなわち「諸法無我」)と知る「五蘊の瞑想」を実践すればよろしい。
 本来は、このフロアだけで十分だったのです。ここが仏教のフロアであり、ここで諸法を観察することによって、人は苦しみから解放される
660: 2020/07/03(金)14:37 ID:ZBH45bb1Z(5/6) AAS
比丘たちよ、苦聖諦(苦しみという聖なる真理)とはこれである。生は苦である、病は苦である、死は苦である、怨憎するものに会うのは苦である、愛するものと別離するのは苦である、求めて得られないのは苦である、略説するに五取蘊は苦である。
 比丘たちよ、苦集聖諦(苦しみの原因という聖なる真理)とはこれである。後の有(再生)をもたらし、喜貪倶行(喜びと貪りを伴う行)にして随所に歓喜する渇愛(タンハー)である。即ち欲愛・有愛(常住への渇愛)・無有愛(断滅への渇愛)である。
 比丘たちよ、苦滅聖諦(苦しみの消滅という聖なる真理)とはこれである。この渇愛を余りなく離れ滅し、棄捨し、定棄し、解脱して執着がないことである。
 比丘たちよ、苦滅道聖諦(苦しみの消滅にいたる道という聖なる真理)とはこれである。八聖道である。即ち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

(中略)

 また私に智と見とが生じた。私の心解脱は不動である。これは私の最後の生である。さらに後の有を受けない、と」。

 先生はこのように説いて、五比丘は歓喜して先生の説いたところを信受した。また、この教えを説いていたとき、尊者コーンダンニャに遠塵離垢の法眼が生じた。集法を有するものはすべてこれ、滅法を有す(生じるものは滅することがある)、と。

 『南伝大蔵経3 律蔵3』大蔵出版
661: 2020/07/03(金)14:55 ID:ZBH45bb1Z(6/6) AAS
むかし文壇の権威が負った言葉に、文学の面白さは二つあって、一つは”身につまされる”、もう一個は”我を忘れる” これを
仏教に充て嵌めると前者が四諦や十二支縁起等になり、後者は華厳経や法華経涅槃経に代表されるSFファンタジー性がある大乗仏伝と言えるかも。
非我、無我をベースにしてるという点では双方共通しているととれなくもないが、
後代の恣意的分別の為か、四ニカーヤ以降では、ヤ−ジュニャヴァルキヤ的アートマン理解が一旦陰を潜めたあと(但し輪廻の認識同様、前提としてはあった)
大乗→密教において大々的に復活したとも考えられる。しかし、真我の瞑想が二十世紀までヒンドゥーの賢者の思弁の中に息づいているのは言うまでも無い。
但し、下手をすると箍が弛み、カルトの知恵遅れで低級な霊妄想による三毒痴信心に堕するのは自明の理。
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