[過去ログ] 末法燈明記の作者は最澄か? (1002レス)
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643: 2020/06/29(月)13:31 ID:1pFweukLW(4/10) AAS
ブッダの聖句「無論争の境地を安穏と観ぜよ」を四聖諦に当て嵌めると
論争をしたくなる執着、我執、三毒等が集諦、
八正道を実践して、妄執を離れ、執着を持つ醜さ、無意味さを知るのが道諦
無執着(無論争)の境地(=空)に至って、涅槃寂静を得る のが滅諦
となります
644: 2020/06/29(月)15:02 ID:1pFweukLW(5/10) AAS
>説一切有部所有のウダーナヴァルガの四法印?だと

第十二章 道

5.「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
6.「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
外部リンク[html]:kokoronoeiyou.seesaa.net

7.「一切の形成されたものは空である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
8.「一切の事物は我(われ)ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
省13
645: 2020/06/29(月)15:59 ID:1pFweukLW(6/10) AAS
色即是空は誕生〜死で、空即是色は死後から来世の誕生?
ブッダは色即是空のあと空即是空
646: 2020/06/29(月)19:13 ID:1pFweukLW(7/10) AAS
>他力本願を釈迦仏教派は批判するが、あれにも理論根拠はある
世界はなる様にしかならないのだから(他力が運営する)、自力(私が世界を変える)に
執着しても無駄だよ、という思想がある

例を挙げると、かつて蓮實重彦を筆頭に日本文壇は「村上春樹を読むな!」と叫んだ
しかし、結果は村上春樹は日本中でも世界中でも読まれまくった
これは村上春樹が世界中の人々に刃物を突きつけて無理やり読ませたわけでもない
蓮実にも村上にも決定権は無かった
「私」が村上春樹を読ませない世界にしたわけではないし、「私」が村上春樹を読ませる世界にしたわけでもない

「私」には世界を思い通りにする力など無いのである
これに気付けないなら、人生は苦に満ちる
省1
647: 2020/06/29(月)20:14 ID:1pFweukLW(8/10) AAS
日本に伝わってる経典はサンスクリット語→漢訳→古文訳→現代語訳と少なくとも三つの過程を経ているのでニュアンスが変わったり
元の意味が失なわれている可能性が否めません

だが元を辿れば、
有象無象が結集して多数決で創作した経典に辿り着く。
釈迦は何も書いてなかった。
648: 2020/06/29(月)21:52 ID:1pFweukLW(9/10) AAS
>密教となると欲望・煩悩は
「この世の中で欲望を捨てることほど大きな罪はない」
「もし、欲が邪魔になるなら、もっと大きな欲で制すればよい」
「例えば、御仏と同じ一切衆生を済度するという大欲が我々に持てれば、目先の小欲は制することができる、欲の浄化とはそういうことだ」
「将来、大欲があったお陰で今日の自分がある、と言えるようになれる」
と大欲をもって小欲を制す、そのためにも発心するのだと空海が説いていたとあります↓。
外部リンク[php]:www.kurusonzan.or.jp

こちらのゾクチェン僧?が顕教・密教・ゾクチェンでの悪(煩悩も含んでいるでしょう)への対処について上手く説明しています。
動画リンク[YouTube]

正法眼蔵   「生死(しょうじ)」という章では
省9
649: 2020/06/29(月)21:54 ID:1pFweukLW(10/10) AAS
>中論頌を読む限りにおいては、
二諦によって、中に導くという感じがします。
また、心経そのものは、
色即是空 空即是色
世俗義、勝義
そして、心経そのものは中
つまり、実相
実相というは、非相、故に実相
呪、故に、現量
650: 2020/06/30(火)03:22 ID:x/aeFi1+K(1/2) AAS
>アビダルマにも無因唯作心っていう見解がある。

唯する事は業を生じないって趣旨で、それをそのまま道元禅師の思想に当て嵌めて考えるのは?
651: 2020/06/30(火)19:52 ID:x/aeFi1+K(2/2) AAS
梵語も梵字も世俗のものでは無いからブッダは経典の文字化や梵語による編纂に反対したんだよ

代わりに世俗化されたプラークリット語が採用された中の一つがパーリ語聖典だった
652: 2020/07/01(水)12:19 ID:kMFXEUJ0p(1/3) AAS
心経は
唯識の資糧位・加行位・通達位・修習位・究竟位を前提に説かれてる。
修習位以上から通達位以下への説法ととるなら、無苦集滅道も全く違和感が無い
というより、
無苦集滅道あたりは、対象者は阿羅漢(通達位)だけかも知れない
つまりまだ低い段階の悟りで自己満してる者が気付くべきこと

またパーリ仏典の仏種姓経では十波羅蜜が挙げられ、
布施、持戒、出離、智慧、精進、忍辱、真諦、決意、慈、捨  となる。

はっきり言うと上座〜分別説部の歴史は虚妄であると分別説部のものも認めており、
ブッダの教えを正しく理解するには、大衆部〜大乗の流れにまで散らばる真仏説を
省2
653: 2020/07/01(水)12:22 ID:kMFXEUJ0p(2/3) AAS
諸法(五蘊)から完全に心が離れたときに、「それ」は顕れるのです。
ですから、「知る」とは言わずに、そのことを「悟る・覚る(自覚する)」と言う

|1159 もろもろのつくられた事物は、実に無常である。
| 生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。
| それらの静まるのが安楽である。

|1160 五種の構成要素(五蘊)を、
| [アートマンとは異なった]他のものであると見て、
| アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
| ――毛の尖端を矢で射るように。
省14
654: 2020/07/01(水)20:58 ID:kMFXEUJ0p(3/3) AAS
ブッダのオリジナルとバラモン教は そんなに距離は無いという見方もあります。
ウパニシャッド系の行者と見る見方です。ただ行法が独創的で
九次第定とか優越性がある。だからあちらも影響されたし、実際ヒンドゥーでも
神の扱いです

>舎利子は神通の証が無いのにブッダに阿羅漢と認められてる
神通が無かったという話が初期大乗経典で弄られてるだけ

分別説部が説く分別なるものは
アジアの未開人が先進国の自然科学的思考法に目覚め
マネし出した時の独り言を 賽銭ぼったくり用の下らないおみくじに
書き込んだようなものかも
省6
655: 2020/07/02(木)06:07 ID:Y4nRZyPBJ(1) AAS
>>399
神通があると確信を持っていた大乗の菩薩が
神通のあらわれない阿羅漢に説く
という設定にこそ、意味があるかも
知れませんね
656: 2020/07/03(金)05:14 ID:ZBH45bb1Z(1/6) AAS
もとは仏 そのまま如来
そのまま仏、というのは、空即涅槃のような、法理
悟りを得た時に見えるものというか、こちらの認識が落ちた時に、感得するもの
657: 2020/07/03(金)12:45 ID:ZBH45bb1Z(2/6) AAS
「色即是空」解釈の誤り4
2chスレ:psy
658: 2020/07/03(金)12:47 ID:ZBH45bb1Z(3/6) AAS
2chスレ:psy
659: 2020/07/03(金)14:13 ID:ZBH45bb1Z(4/6) AAS
サンスクリット原典には、心経本文の最初に「ここにおいて」という漢訳にはない語がある。

スマナサも「自我は幻想」とか言ってるから、伝統的唯蘊無我心の段階に固執し、これを他にも押し付けようとしている状態。ここ止まり。
> 舎利子になりかわっていいますと、苦しむ自己から解放されるには、自己そのものがないというごく単純な、しかし深遠な事実を知ればよい。
それをいかに洞察するか。自己は五蘊にすぎない(五蘊の仮の集合にほかならない、すなわち「諸法無我」)と知る「五蘊の瞑想」を実践すればよろしい。
 本来は、このフロアだけで十分だったのです。ここが仏教のフロアであり、ここで諸法を観察することによって、人は苦しみから解放される
660: 2020/07/03(金)14:37 ID:ZBH45bb1Z(5/6) AAS
比丘たちよ、苦聖諦(苦しみという聖なる真理)とはこれである。生は苦である、病は苦である、死は苦である、怨憎するものに会うのは苦である、愛するものと別離するのは苦である、求めて得られないのは苦である、略説するに五取蘊は苦である。
 比丘たちよ、苦集聖諦(苦しみの原因という聖なる真理)とはこれである。後の有(再生)をもたらし、喜貪倶行(喜びと貪りを伴う行)にして随所に歓喜する渇愛(タンハー)である。即ち欲愛・有愛(常住への渇愛)・無有愛(断滅への渇愛)である。
 比丘たちよ、苦滅聖諦(苦しみの消滅という聖なる真理)とはこれである。この渇愛を余りなく離れ滅し、棄捨し、定棄し、解脱して執着がないことである。
 比丘たちよ、苦滅道聖諦(苦しみの消滅にいたる道という聖なる真理)とはこれである。八聖道である。即ち正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定である。

(中略)

 また私に智と見とが生じた。私の心解脱は不動である。これは私の最後の生である。さらに後の有を受けない、と」。

 先生はこのように説いて、五比丘は歓喜して先生の説いたところを信受した。また、この教えを説いていたとき、尊者コーンダンニャに遠塵離垢の法眼が生じた。集法を有するものはすべてこれ、滅法を有す(生じるものは滅することがある)、と。

 『南伝大蔵経3 律蔵3』大蔵出版
661: 2020/07/03(金)14:55 ID:ZBH45bb1Z(6/6) AAS
むかし文壇の権威が負った言葉に、文学の面白さは二つあって、一つは”身につまされる”、もう一個は”我を忘れる” これを
仏教に充て嵌めると前者が四諦や十二支縁起等になり、後者は華厳経や法華経涅槃経に代表されるSFファンタジー性がある大乗仏伝と言えるかも。
非我、無我をベースにしてるという点では双方共通しているととれなくもないが、
後代の恣意的分別の為か、四ニカーヤ以降では、ヤ−ジュニャヴァルキヤ的アートマン理解が一旦陰を潜めたあと(但し輪廻の認識同様、前提としてはあった)
大乗→密教において大々的に復活したとも考えられる。しかし、真我の瞑想が二十世紀までヒンドゥーの賢者の思弁の中に息づいているのは言うまでも無い。
但し、下手をすると箍が弛み、カルトの知恵遅れで低級な霊妄想による三毒痴信心に堕するのは自明の理。
662: 2020/07/04(土)04:57 ID:FXfYnslLn(1/9) AAS
空海『般若心経秘鍵 大綱序』

そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるのではなく、われわれの心の中にあって、まことに近いものである。
さとりの真理は、われわれの外部にあるものではないから、この身を捨てて、どれにそれを求め得ることができようか。
迷いとさとりは、自分の内部に存在しているのであるから、さとりを求める心を起こせば、それがさとりに到達すること。
明るい世界(さとり)と暗い世界(迷い)は自分にあるのだから、信じて努力すればたちどころに悟りの世界は開ける。
なんと哀れなことか、哀れなことか。悟りの世界を知らずに眠りこけている者よ。
まことに苦しいことよ、痛ましいことよ。迷いの世界に酔いしれているものよ。
酔ったものは、酔わないものをあざ笑い、眠りこけている者は、目覚めているものを嘲るものである。
名医を訪ねて薬を手に入れなければ、いつの日に大日如来のさとりの光明を見ることができようか。
真実を見通す眼をおおい隠す眼病になどには、重い・軽いがあるのだから、さとりを得るにつけても速い・遅いの生まれてきて、能力や才能は、
省6
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