[過去ログ] 末法燈明記の作者は最澄か? (1002レス)
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36: 2017/11/16(木)02:13 ID:G0Fm+OyW0(3/4) AAS
ティク・ナット・ハン〜『涅槃(ニルヴァーナ)、自由への道』
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中曲理趣経 初段_十七段
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西室院 「理趣経」 中曲
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般若理趣経 百字偈
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真言聲明高野山悠久の風景
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省3
37: 2017/11/16(木)02:41 ID:G0Fm+OyW0(4/4) AAS
『華厳経』
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延命十句観音経
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大悲心陀羅尼 Daihishindarani
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消災呪
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観音経、般若心経など
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省12
38: 2017/11/17(金)01:31 ID:RHodYhizL(1/21) AAS
波羅蜜(はらみつ)、あるいは、玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた、はらみった) (パーリ語:パーラミー、サンスクリット語: パーラミター)とは、
パーリ語やサンスクリット語で「完全であること」、「最高であること」、を意味する語で、
仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸(とうひがん)、度(ど)等とも訳す。
『般若経』では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、あるいは『華厳経』などではこれに4種を加え10種(十波羅蜜)を数える。
『摩訶般若波羅蜜経』は九十一波羅蜜を列挙[1]するが、全体としての徳目は六波羅蜜である。

六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ、梵:?atp?ramit?)とは、ブッダになりうる資質を獲得するために実践する六つの項目のこと。「六度(ろくど)彼岸」とも呼ばれる。
布施波羅蜜 - 檀那(だんな、D?na ダーナ)は、分け与えること。d?naという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、??la シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
忍辱波羅蜜 - ?提(せんだい、K??nti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、V?rya ヴィーリヤ)は、努力すること。
省2
39: 2017/11/17(金)01:33 ID:RHodYhizL(2/21) AAS
十波羅蜜(じっぱらみつ)は、六波羅蜜に、方便・願・力・智の四波羅蜜(六波羅蜜の般若波羅蜜より派生した4つの波羅蜜)を加えたもの。
唯識論ではこの十波羅蜜を立てて十勝行と称す。華厳教学などでは、菩薩の五十二位の中
の十行のことともいわれる。また菩薩は十地において正しくこの十波羅蜜を順次に習得するという。[要出典]
方便波羅蜜 - 烏波野(Up?ya ウパーヤ、うはや、日本語訳:方便)は、巧みな手段で衆生を教導し、益すること。
六波羅蜜の行によって集めたる善根を有情に廻向せしめて彼と共に無上菩提を求むる廻向方便善巧、一切有情を済度する抜済方便善巧の2種類を修行する。
願波羅蜜 - 波羅尼陀那(Pra?id?na プラニダーナ、はらにだな、日本語訳:願)は、(彼岸すなわち仏の理想世界に到達せんと立願すること。
今日ではこれらすべての修行を完成せんと願う希望をいう。求菩提願・利他楽願の2つを修行する。
力波羅蜜 - 波羅(Bala バラ、はら、日本語訳:力)は、二義あり、一義に一切の異論及び諸魔衆の壊すことなきをいい、また一義に十力の行のうち、思擇力・修習力の2つを修行する。
智波羅蜜 - 智(Jñ?na ジュニャーナ、日本語訳:智)は、万法の実相を如実に了知する智慧は生死の此岸を渡りて、涅槃の彼岸に到る船筏の如く、受用法楽智・成熟有情智の2つを修行する。
40: 2017/11/17(金)01:37 ID:RHodYhizL(3/21) AAS
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさふもんぼんだいにじゅうご)(観音経 全文)
外部リンク[html]:shingon-kyo.sblo.jp

『遺教経』
外部リンク[htm]:www.horakuji.hello-net.info

釈迦牟尼仏[しゃかむにぶつ]は、ブッダとして初めてなされた説法の際にアーンニャータ・コーンダーンニャを悟
りへと導き、その人生の最後にスバッダラを得度された。(釈尊はその生涯において、)教えを説く
べき者、仏道に導き引き入れるべき者は皆全て度し尽くして、サーラ樹の間において、今まさに涅槃に入ろうとされていた。
この時、時間は中夜であり、あたりはひっそりとして音もなかった。そこで(釈尊は入滅される前の最後に)、弟子達のために要略して教えの要をお説きになったのである。
「比丘達よ、私が入滅した後には波羅提木叉[はらだいもくしゃ]を尊いものとして大切にし、
最大の敬意を払わなければならない。
41: 2017/11/17(金)01:50 ID:RHodYhizL(4/21) AAS
大般涅槃経)

第二十四章
アーナンダは、悲しみながら、比丘を集めた。
比丘が集まると、仏陀は、彼らに、こう説いた。

「比丘達よ、七科三十七道品を修めなさい。
すなわち、その三十七とは、四念処、四正断、
五根五力、七覚支、八正道、四如意足、である。」

「比丘達よ、この三十七道品を修めるならば、
多くの神々と人々に、多くの利益があるだろう。」

三十七道品(さんじゅうしちどうぽん)とは,大般涅槃経、中阿含経などに
省9
42: 2017/11/17(金)01:52 ID:RHodYhizL(5/21) AAS
四念処(しねんじょ、巴: catt?ro satipa??h?n?, チャッターロー・サティ
パッターナー)とは、仏教における悟りのための4種の観想法の総称。四念
処観(しねんじょかん)、四念住(しねんじゅう)[注釈 1]とも言う。三
十七道品の中の1つ。

・四念処
釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法
であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法である
四念処の内容は以下の通り[1]。
身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
省2
43: 2017/11/17(金)01:53 ID:RHodYhizL(6/21) AAS
四正勤(ししょうごん、巴: catt?ro sammappadh?n?, チャッターロ・サ
ンマッパダーナー)とは、仏教における修行内容の1つ。「三十七道品」の中
の第2の行法で、4種の正しい努力のこと[1][2]。「四精勤」(ししょうごん)
[3]、「四正断」(ししょうだん)[4][1]、「四意断」(しいだん)[1]とも訳される。

四正勤の内容は以下の通り[1][2][3]。
断断 - 既に生じた悪を除くように勤める
律儀断 - まだ生じない悪を起こさないように勤める
随護断 - まだ生じない善を起こすように勤める
修断 - 既に生じた善を大きくするように勤める

四神足(四如意足)
省7
44: 2017/11/17(金)01:54 ID:RHodYhizL(7/21) AAS
五根 (三十七道品)
悟り・解脱を得るための5種の能力・機根。
五根は、信根、精進根、念根、定根、慧根である[3]。
修行の根本となる5つであり、根の字は能力を指す[1]。念以外は、
その力が強すぎても、修行の妨げとなるため、それぞれの力が均衡にはた
らくことを瞑想修行を通して目指していく[1]。念は強ければ強いほどい
い[1]。 信仰と智慧、努力と禅定などは対であり、その力の発達には
均衡が必要である[2]。これらが、一個人の中で主導的な力となった場合、五力(ごりき)と呼ばれる

外部リンク:ja.wikipedia.org

五力
省8
45: 2017/11/17(金)01:55 ID:RHodYhizL(8/21) AAS
七覚支
(しちかくし、巴: satta bojjha?g?, サッタ・ボッジャンガー)とは、
仏教における修行内容の1つ。悟りの7つの支分をなす項目。
念覚支(sati-sambojjha?ga) - 気づき。心で今の瞬間の現象を自覚すること
択法ちゃくほう覚支(dhamma-vicaya--sambojjha?ga) - 法の中から真実のものを選ぶ
精進覚支(viriya-sambojjha?ga) - 努力
喜覚支(p?ti-sambojjha?ga) - 喜びに住する
軽安きょうあん覚支(passaddhi-sambojjha?ga) - 心身に軽やかさ・快適さを感じる
定覚支(sam?dhi-sambojjha?ga) - 心が集中して乱れない
捨覚支(upekkh?-sambojjha?ga) - 対象に囚われない
46: 2017/11/17(金)01:56 ID:RHodYhizL(9/21) AAS
八正道(はっしょうどう、巴: ariya-a??ha?gika-magga,
梵: ?rya-a????gika-m?rga)は、釈迦が最初の説法において説いたとさ
れる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。

正見(しょうけん, 巴: samm??di??hi, 梵: samyag-d???i)とは、
仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本
となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。
業自性正見(ごうじしょう-)[6](巴: kammassakat? samm??di??hi)[7] - 業を自己とする正見。
十事正見
四諦正見
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。
省10
47: 2017/11/17(金)01:58 ID:RHodYhizL(10/21) AAS
正思惟(しょうしゆい, 巴: samm?-sa?kappa, 梵: samyak-sa?kalpa)とは、
正しく考え判断することであり、
出離(離欲)を思惟し
無瞋を思惟し、
無害を思惟することである。
このうち「出離(離欲)」とはパーリの原文では「nekkhamma」で、
世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要
視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗
世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。

正語(しょうご, 巴: samm?-v?c?, 梵: samyag-v?c)とは、
省2
48: 2017/11/17(金)02:00 ID:RHodYhizL(11/21) AAS
正業(しょうごう, 巴: samm?-kammanta, 梵: samyak-karm?nta)とは、
殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れる
ことをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。

正命(しょうみょう, 巴: samm?-?j?va, 梵: samyag-?j?va)
殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことである。

正精進(しょうしょうじん, 巴: samm?-v?y?ma, 梵: samyag-vy?y?ma)とは、
四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未
来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「
いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。

正念(しょうねん, 巴: samm?-sati, 梵: samyak-sm?ti)
省3
49: 2017/11/17(金)12:13 ID:RHodYhizL(12/21) AAS
仏教のある時代に人間として生まれてきただけで、すごいことです。
十分に悟れる可能性があります。
経典では奴隷の少女、瀕死の老人、盗賊…さまざまな人がお釈迦さまの詩を一節聞いたくらいでワンサカ悟っています。
仏教の知識どころか字を読めない人もいましたし、修行もしていません。(一応、過去世からの長い修行の結果、お釈迦さまに巡り合い、無常・苦・無我の理を観察し悟ったとされています。)
…容姿や性格、体力知力がそれぞれ異なるように、私たちの悟りへの道順や近さは異なります。しかしやるべきことは一緒です。
悪を離れ、善を行う。自分を観察し清らかな心を育む。
その修行のために最低限の知識がいるとすれば、個人的には「業自性正見」を挙げます。
天野和公

四諦(苦・集・滅・道)、また、名(こころ)と色(もの)の性質は苦・無常・無我であると知っておくのも役立つと思います。
その上で、五戒を守り、止(精神集中の瞑想、禅定)と観(智慧の瞑想、観察)を実践することが、悟る(苦悩の原因である煩悩をなくす)ための王道ではないでしょうか。    願誉浄史
50: 2017/11/17(金)12:18 ID:RHodYhizL(13/21) AAS
業自性正見(ごうじしょう-)  業を自己とする正見。
生きとし生けるもの(巴: satt?)は、
業(だけ)を自己の所有とする(巴: kammassak?)
業(だけ)を相続する(巴: kammad?y?d?)
業(だけ)を(輪廻的生存の)起原、原因とする(巴: kammayon?)
業(だけ)を親族とする(巴: kammabandh?)
業(だけ)を依り所とする(巴: kammapa?isara??)
51: 2017/11/17(金)12:22 ID:RHodYhizL(14/21) AAS
十事正見
布施の果報はある(巴: atthi dinna?)
大規模な献供に果報はある(巴: atthi yi??ha?)
小規模な献供に果報はある(巴: atthi huta?)
善悪の行為に果報がある(巴: atthi sukatadukka??na? kamm?na? phala? vip?ko)
(善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi m?t?)
(善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pit?)
化生によって生まれる衆生は存在する(巴: atthi satt? opap?tik?)
現世は存在する(巴: atthi aya? loko)
来世は存在する(巴: atthi paro loko)
省1
52: 2017/11/17(金)12:46 ID:RHodYhizL(15/21) AAS
>>1
平安時代の仏教書。1巻。延暦20年(801)最澄著と伝えるが真偽未詳。末法には無戒名の僧こそが世の灯として尊ばれねばならないと主張したもの。
本書は栄西,法然,道元,親鸞らの著書に引用され,鎌倉仏教の思想的基盤となった。
53: 2017/11/17(金)13:15 ID:RHodYhizL(16/21) AAS
三時または五箇の五百歳は『大集経』に説かれる。
「大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固已上一千年、
次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」
第一の五百歳 解脱堅固…インドにおいて伽葉・阿難等が小乗教を弘めた。
第二の五百歳 禅定堅固…インドにおいて竜樹・天親等が大乗教を弘めた。
第三の五百歳 読誦多聞堅固…仏教が東に流れて中国に渡り経典の翻訳や読誦、講説等が盛んに行われた。天台大師(智)が法華経を弘めた。
第四の五百歳 多造塔寺堅固…仏教が東に流れて日本に渡り聖徳太子以来多くの寺塔が建てられた。伝教大師(最澄)が日本の仏教を統一し大乗戒壇を建てた。
第五の五百歳 闘諍堅固・白法隠没…戦乱が激しくなり、釈迦の仏法が滅尽する。
日本では『末法燈明記』[1]では1052年(永承7年)に末法に入ったとされた

^ なお、日蓮等の鎌倉仏教の多くの祖師は『末法燈明記』は最澄の著述だと定めているが、現在では『末法燈明記』は最澄に仮託して書かれた文献、つまり偽典と説明されることがある。
54: 2017/11/17(金)17:34 ID:RHodYhizL(17/21) AAS
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、仏教用語で、煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)であるということを指す。
涅槃寂静は三法印・四法印の一つとして、仏教が他の教えと根本的に違うことを示す。
諸行無常・諸法無我の事実を自覚することが、この涅槃寂静のすがたである。
無常と無我とを自覚してそれによる生活を行うことこそ、煩悩をまったく寂滅することのできた安住の境地であるとする。
いっさいの差別(しゃべつ)と対立の底に、いっさいが本来平等である事実を自覚することのできる境地、それこそ悟りであるというのが、涅槃寂静印の示すもの
仏教本来の意味からすると、涅槃とはいっさいのとらわれ、しかも、いわれなきとらわれ(辺見)から解放された絶対自由の境地である。
これは、縁起の法に生かされて生きている私たちが、互いに相依相関の関係にあることの自覚であり、積極的な利他活動として転回されなくてはならない。この意味で、この涅槃寂静は仏教が他の教えと異なるものとして法印といわれる
55: 2017/11/17(金)18:04 ID:RHodYhizL(18/21) AAS
経典によれば、釈迦は縁起について、
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
と述べた。またこの縁起の法は、
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、
自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では、
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
— 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。
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