[過去ログ] 【京都】石田三成の腹心、関ケ原後も生存? 名将・島左近の墓から全身の骨発掘、今後年代など調査 三木住職「実像に近づければ」 [樽悶★] (913レス)
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543: 名無しどんぶらこ 2024/06/08(土)19:51 ID:2M8Dn1kq0(11/19) AAS
>>527
挙兵から半月の東軍方の書状で誰が首謀者なのかを調べるとこんな感じだな
細川忠興だけは毛利輝元が首謀者だとかなり早い段階で言ってる
また内府違いの条々が出される前日に蜂須賀家政が石田・大谷が謀反したことを述べてるのも面白い
宛先の堅田元慶は毛利輝元の側近ね
家康の書状だと7月29日に三奉行が謀反したことを述べていてここでようやく三奉行が敵だと認識したことになる
※内府違いの条々は7月17日に発給されてる
・7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
・7月21日付松井康之・有吉立行・魚住昌永宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
・7月23日付最上義光宛徳川家康書状
「治部少輔・刑部少輔以才覚、方々觸状を廻付而、雑説申候条、御働之儀先途令御無用候」
・7月24日付中川秀成宛松井康之書状
「毛利殿・御奉行衆被仰合、内府様へ御謀叛之由申候」
・7月26日付堀秀治宛徳川家康書状
「仍今度治部少輔・刑部少輔雖企謀叛候」
・7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」
・7月29日付黒田長政宛徳川家康書状
「先度御上以後、大坂奉行衆別心之由申来候間、重可令相談与存候處、御上故無其儀候」
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