鬼和尚に聞いてみるスレ part10 (1007レス)
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(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/16(木)22:03 ID:1d4drIFg0(1/189) AAS
>>1 ご苦労さんなのじゃ。

>>2 よい気付きなのじゃ。
 どんどん使うとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>3 わしはもはや念じないのじゃ。
 念じる者も、念じるということもないのじゃ。
 それらは修行者のための名号なのじゃ。
省11
11
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/17(金)21:39 ID:1d4drIFg0(2/189) AAS
>>8 集中力だけでは観察力は高くならないのじゃ。
 集中力はただ雑念をなくして心をコントロールできるようになるのじゃ。
 集中して観察を実践すれば観察力も高くなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>9 全部間違いなのじゃ。
 死んで煩悩がなくなるのではないのじゃ。
 丸くならないのじゃ。
省1
19
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/18(土)22:04 ID:1d4drIFg0(3/189) AAS
>>12 そうじゃ、学ばなければ真実は明らかにならないのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 
>>13 無明とは自分があるという観念なのじゃ。
 行とは分別なのじゃ。
 生とはいきるものという観念なのじゃ。
 愛とは愛着なのじゃ。
省14
20: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/18(土)22:07 ID:1d4drIFg0(4/189) AAS
>>17 思索が無い思索まで到達できれば可能かもしれん。
 それでもそれは集中であり、観察は独自に行われるじゃろう。
 思索が集中のかわりになるのじゃ。

>>18 謬見なのじゃ。
 ものには何も生み出すことはできないのじゃ。
 自分自身の認識にまで批判を及ぼさなければ悟りも遠いのじゃ。
 そこまでは行っていないのじゃ。
36
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/19(日)20:19 ID:1d4drIFg0(5/189) AAS
>>21 それがおかしいのじゃ。
 それら認識を批判するならば全ての思索や結論もおかしいことになるのじゃ。
 全ては認識に依って成り立つのであるからのう。
 認識の優越性がわかっていないのじゃ。

>>24 そうじゃ、ただひたすらに実践すればできるじゃろう。
 わしのブログなども参考にするとよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
省3
37: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/19(日)20:28 ID:1d4drIFg0(6/189) AAS
>>34 触は感覚器官が接触することなのじゃ。
 六処は目耳鼻舌身体心などの感覚器官なのじゃ。
 受はそれらの器官が刺激を受けることなのじゃ。
 識は認識なのじゃ。
 名色は名前とイメージなのじゃ。
 
>>35 それらによって有るものという観念が生まれ、生有るものという観念もあるのじゃ。
省2
46
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/20(月)21:35 ID:1d4drIFg0(7/189) AAS
>>38>>42 それが未だ認識の優越性がわかっていないということなのじゃ。
 自分の考え、自分の語ることだけは例外と思っているのじゃ。
 本当に認識が本質的な物自体と言われるものとちがうものごとを認識しているならば、
 そのように考えたり、語ったりすること自体も全て過ちと言うことになるのじゃ。

 子供がお菓子を配るときなどに自分を数えるのを忘れるようなものじゃ。
 思考や示唆のわなに陥る者は、この程度の論理さえ超えられていないのじゃ。
 それ故に自らの論さえも否定する論にまでたどり着かなければならないのじゃ。
省13
68: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/21(火)21:28 ID:1d4drIFg0(8/189) AAS
>>47 十二因縁は論ではないのじゃ。
 教えの例なのじゃ。
 わしはカントは間違いとは語っていないのじゃ。
 カント自身が自らの間違いを認めればイカス者になれたというのじゃ。
 傲慢の故に自分が何を書いているのかもわかっていないのじゃ。

>>48 カントは船ではないのじゃ。
 その程度の論は既にウパニシャッドでも語られているのじゃ。
省9
69
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/21(火)21:34 ID:1d4drIFg0(9/189) AAS
>>60 観察しているものを観察すれば自我が観られるじゃろう。
 観察しているならばそのように観察しているのは何であるか観察してみるのじゃ。
 何万回でも繰り返し観れば一回は観られるじゃろう。
 それで十分なのじゃ。
 
>>61 無いのじゃ。
 もはや自我が観念であり、本来無いものと気付くのが観照なのじゃ。
省4
81
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/22(水)21:23 ID:1d4drIFg0(10/189) AAS
>>71 同じところには行き着かないのじゃ。
 哲学の行き着くところは絶望と依存しかないのじゃ。
 悟りの道と法を知らないからのう。
 同じようなことを考えてもそこが根本的な違いなのじゃ。
 哲学とは実際には単なる修辞学なのじゃ。

>>74 哲学の批判は批判しているのではないとおぬしは先日書いていたようであるがのう。
 すると経験の伴わない思考も批判していないことになるのじゃ。
省20
94
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/23(木)21:19 ID:1d4drIFg0(11/189) AAS
>>82 含まれないのじゃ。
 西洋人が勝手に仏教哲学などと名づけているだけなのじゃ。
 仏教は哲学ではなく法なのじゃ。
 ウパニシャッドでさえアートマンは実践すべき法であると宣言しているのじゃ。
 
 お釈迦様は自らが愚か者と知る者こそ賢者であると言ったのじゃ。
 愚かでありながら自らを賢いと思っている者が愚者なのじゃ、とも言ったのじゃ。
省16
95
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/23(木)21:31 ID:1d4drIFg0(12/189) AAS
>>89>>91>>92 観察している者を観察できるのじゃ。
 集中していれば複数のものごとを同時に意識できるのじゃ。
 それは主体ではないからいくつも視点が有るのじゃ。
 それが同時にできないと言う観念こそただ一つの主体があり、それが自分と思っているからなのじゃ。
 
 それは集中している時にも実感できるのじゃ。
 呼吸に集中し、それを制御している働きが心には有るものじゃ。
省4
102
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/24(金)21:52 ID:1d4drIFg0(13/189) AAS
>>96 反応があれば確めてみるのじゃ。
 なければあるまで続けるのじゃ。

>>97 追求しなくてよいのじゃ。
 ただ観察して反応が有るか無いか確かめてみるのじゃ。
 
>>98 1 そうじゃ、む刹那に滅しているじゃろう。
  漱石も胃潰瘍で死にかけたとき心が滅して驚いたのじゃ。
省12
107
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/25(土)20:13 ID:1d4drIFg0(14/189) AAS
>>104 それはおぬし自身が自ら実践して感じるしかないのじゃ。
 他の誰も予測し得ないものじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>105 暫くそれでやってみるとよいのじゃ。
 ゆれがなくなるかもしれん。
 或いはゆれたほうが集中しやすいかもしれん。
 自分のやり易いやり方で続けてみるのじゃ。
省3
112
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/26(日)20:46 ID:1d4drIFg0(15/189) AAS
>>108 それが何かおぬしが実践して確めるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 
>>109 どういたしまして、またおいでなさい。

>>110 悟りを得るのじゃ。

>>111 正しく観察することなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
115
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/27(月)21:16 ID:1d4drIFg0(16/189) AAS
>>113 そのようなこともあるじゃろう。
 死の予兆を感じるのじゃな。
 身近な者が死に瀕していると体臭とか眼の光とかいろいろ予感することができるのじゃ。
 それを光としてみるのじゃろう。
 死が身近にあれば自分も危険かも知れんから体が警告するのじゃ。
 潜在意識がそのようにみせるのじゃろう。

>>114 誰も他人を悟りに導いたり出来ないのじゃ。
省3
119
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/28(火)21:51 ID:1d4drIFg0(17/189) AAS
>>116 どういたしまして、またおいでなさい。

>>117 そうじゃ、自らを導くのじゃ。

 やがてなくなるじゃろう。
 全ての者が悟りを得るか、人類が絶滅するかどちらでもなくなるのじゃ。
 自ら悟りを得て全ての者の道標となるが善いのじゃ。

>>118 死を超える道を真剣に探すようになるじゃろう。
 もはやそこにしか逃れる道はないとわかっているのであるからのう。
省1
122
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/29(水)20:49 ID:1d4drIFg0(18/189) AAS
>>120 おぬし自身が観ようと思わない限りそれらの方法を使っても観えないじゃろう。
 船があっても乗って水を漕いでいかなければ向こう岸にはつけないのと同じなのじゃ。
 方法は全て川をわたる船のようなものじゃ。
 船に乗るものに向こう岸に着こうという強い意志がなければなにをしても着かないのじゃ。
 自らの意志を奮い起こして実践あるのみなのじゃ。

>>121  気がのぼってきたようじゃ。
 症状がなくなるまで続けるのじゃ。
省4
132
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/30(木)21:58 ID:1d4drIFg0(19/189) AAS
>>123 そうじゃ、合った方法は有るじゃろう。
 しかし、やる気があればそれも重要ではないのじゃ。
 やる気が一番大事なのじゃ。

>>124 できる者もいるじゃろう。
 しかしおぬしは既に無理であったのであるから、無理じゃろう。
 心に恐れがあり、避けていれば本心を追求し続けるのは難しいのじゃ。

>>125 悟りには辿りつかないのじゃ。
省13
133: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/11/30(木)21:59 ID:1d4drIFg0(20/189) AAS
>>131 悪いのではないのじゃ。
 それが性質なのじゃ。
 それを観察すればよいのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
140
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/01(金)20:55 ID:1d4drIFg0(21/189) AAS
>>134  そうじゃ。
 それも実践によって確めるのじゃ。
 やる気だけで実践しなければ意味が無いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>135 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
144: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/02(土)21:40 ID:1d4drIFg0(22/189) AAS
>>141 今の環境をよく観察するのじゃ。
 それが報いられた行いをしていたのじゃ。
 金持ちならばよく布施などをしていた者じゃろう。

>>142 そうじゃろう。
 頭に気が集中すると眠れなくなるのじゃ。
 朝にすると善いのじゃ。

>>143 それも頭に気が上ったのじゃ。
省3
155
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/03(日)21:28 ID:1d4drIFg0(23/189) AAS
>>146 そうじゃ、心が許可したからなのじゃ。
 心が許可した分だけ人は豊かになり、気分もよくなるのじゃ。
 心が許可しなければ豊かになれず、気分もよくならないのじゃ。
 そのような働きを観察してみると善いのじゃ。

>>147 そうじゃ、いずれは必ず手放すことになるのじゃ。
 それならば自分から進んで手放したほうがよいのじゃ。
 それによって永遠の意識に到達するので有るからのう。
省11
156: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/03(日)21:34 ID:1d4drIFg0(24/189) AAS
>>152 よい気付きなのじゃ。
 言葉も本来イメージなのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>153 悟りには無知なのじゃ。
 その他の教育とかには実用的な価値は有るじゃろう。
 なんでも読んでみるとよいのじゃ。

>>154 そうかもしれん。
省2
162
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/04(月)20:20 ID:1d4drIFg0(25/189) AAS
>>157 何を感じたのか観察するのじゃ。
 どのように感じたのか観察するのじゃ。
 それらを更に何度も観察するのじゃ。
 ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。

>>158 どういたしまして、またおいでなさい。

>>159 もう苦しくは無いのじゃ。
 苦しければ食べるはずであるからのう。
省7
163: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/04(月)20:26 ID:1d4drIFg0(26/189) AAS
>>161 ご苦労さんなのじゃ。
 なかなか頭の善い王じゃ。
 全ての他に自分が居ると気付いたのじ゜ゃな。
169
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/05(火)21:59 ID:1d4drIFg0(27/189) AAS
>>164 そうじゃ、本来、死とは枯葉が樹から落ちるような自然の営みなのじゃ。
 自然に見取るとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>165 手は身の内なのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>167 自分に気付ける者だったからなのじゃ。
 観察している観察者にもいつか気付くかもしれんと思ったのじゃろう。
省5
174
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/06(水)20:32 ID:1d4drIFg0(28/189) AAS
>>170 わしにはできるがおぬしにできるかどうかはわからんのじゃ。
 何でも試してみたらよいのじゃ。
 崩壊するかもしれん。
 実践あるのみなのじゃ。

>>171 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>172 それは思考ではなく認識なのじゃ。
省7
177
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/07(木)20:02 ID:1d4drIFg0(29/189) AAS
>>175 そうじゃ、観察して確めるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>176 人が自分というものを認識するのは、認識する全てと対峙した主体という自覚からなのじゃ。
 認識する対象の他に、認識する主体が有るという観念から自己観念が起こるのじゃ。
 認識対象があれば、なにものかを認識する行為があり、認識する主体も有るという自覚が起こるからのう。
 そして全てと切り離された自己観念による孤独感や不安感なども起こるのじゃ。
 
省2
188
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/08(金)22:03 ID:1d4drIFg0(30/189) AAS
>>178 感覚ではないのじゃ。
 意によって感じられるものではあるがのう。
 現象なのじゃ。

>>179 そのようであるならば収入を求め、女子を求めるがよいのじゃ。
 それが死に対して無力であると気付いてから修業に専念するとよいのじゃ。
 未練が残らないように求めるものを得るとよいのじゃ。

>>180 それは実際におぬしが実践してみて感じるものじゃ。
189
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/08(金)22:11 ID:1d4drIFg0(31/189) AAS
>>180 実践しなければ何も感じられないのじゃ。
 おぬしだけが実践して感じるものであり、他人にはわからないことなのじゃ。
 実際に観察して何を感じたか書くのじゃ。

>>181 嘘じゃろう。
 そのような文献は知らんのじゃ。
 嘘はいかんのじゃ。
 
省14
197
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/09(土)21:14 ID:1d4drIFg0(32/189) AAS
>>190 何度か読んだのじゃ。
 内容は忘れたのじゃ。
 
>>191 それでよいのじゃ。
 観察した後に自分の手をどのように感じるか観察して見るのじゃ。
 観察する前と何か変ったことがないか注意するのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
省10
198
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/09(土)21:24 ID:1d4drIFg0(33/189) AAS
>>195 そのような理解でよいのじゃ。
  何も私ではないというのが自分に気付いた段階なのじゃ。

 無我になれば全てがわたしになるのじゃ。
 まだ観念があるからなのじゃ。
 主客がないら全ては主体なのじゃ。
 
 全てが無であれば大悟徹底なのじゃ。
省4
209
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/10(日)20:28 ID:1d4drIFg0(34/189) AAS
>>199 なくなるじゃろう。
 もはや苦を感じる主体も無いのであるからのう。
 苦がまだあれば無我ではないのじゃ。

>>200 どういたしまして、またおいでなさい。

>>201 主体に気付けば厭離が起きて、無我になるのじゃ。
 同一ではないのじゃ。
 何人もいるじゃろう。
省4
210: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/10(日)20:31 ID:1d4drIFg0(35/189) AAS
>>205 悟っていないのじゃ。
 借りた知識を語っているだけなのじゃ。

>>206->>208 そうじゃろう。
 意味に反吐が出るとか思っているのじゃ。
 何も思わずに実践するとよいのじゃ。
218
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/11(月)21:47 ID:1d4drIFg0(36/189) AAS
>>211 そうじゃろう。
 個が認識できるということはないのじゃ。
 適当に語っているだけなのじゃ。

>>212 更に観察し続けるのじゃ。
 そのように違いがわかるならば進んでいるのじゃ。
 どんどん観察すれば更に違ってくるじゃろう。
 それが観察による変容なのじゃ。
省19
228
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/12(火)21:43 ID:1d4drIFg0(37/189) AAS
>>219 いない者にあうまでやり続けるのじゃ。
 それがなんぱ道なのじゃ。

>>223 おぬしがそう思うならばそうじゃろう。
 実践によって確めるのじゃ。
 囚われずにすすむのじゃ。

>>224 聞くことも観察になるのじゃ。
 注意深く集中して感じるのじゃ。
省11
241
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/13(水)21:03 ID:1d4drIFg0(38/189) AAS
>>229->>233 みんな繋がっているのじゃ。
 ただそうではないと思っているだけなのじゃ。
 もはや他人も無いのじゃ。
 物質も意識の現われなのじゃ。
 それが独りということもないのじゃ。
 それは他にかぞえられるものがある時にいわれるのであるからのう。

>>236 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
省3
247
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/14(木)21:41 ID:1d4drIFg0(39/189) AAS
>>242 他人がいなければ繋がる意識という観念も無いのじゃ。
 どこまでも他人という観念に囚われているのじゃ。
 他人が無い状況がわかっていないのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>244 そうじゃ、それは自動的に起こるものじゃ。
 自分がするとか、できたといのは誤りなのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。
省4
249
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/14(木)21:57 ID:1d4drIFg0(40/189) AAS
>>246 そのような時は瞑想を楽しむが善いのじゃ。
 姿勢を正しくして瞑想をすれば自然に快が生じるものじゃ。
 お釈迦様もむしろ瞑想の楽しみを味わうようにと言うのじゃ。

 瞑想をすると人を超えた快が生じるのじゃ。
 それは人が通常に感じられる喜びの五百倍にもなるというのじゃ。
 人として最高の真の楽しみを味わうことができるのじゃ。

 今の科学でも瞑想をすると脳の細胞がふえるというのじゃ。
省3
255: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/15(金)21:46 ID:1d4drIFg0(41/189) AAS
>>250 最後の最後まで我から離れていないのじゃ。
 我があるという自分の観念から全てを思考しているのじゃ。
 水の一滴が自分を我と思わないように、物理的にくっついているものに我はないのじゃ。
 自分の幻想から他人に語りかけ、自分の幻想を見て失望しているのじゃ。
 カウンセリングを受けるとよいのじゃ。
 おぬしに必要なのはよいカウンセラーなのじゃ。
  
省9
258
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/16(土)22:09 ID:1d4drIFg0(42/189) AAS
>>256 それで善いのじゃ。
 更に優れた境地も有るのじゃ。
 もはや言語をも絶する悟りの境地に進むとよいのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>257 それでよいのじゃ。
 厭離が出来たのじゃ。
 次は腕とか肩とか足とかをどんどん観察していくのじゃ。
省7
264
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/17(日)21:48 ID:1d4drIFg0(43/189) AAS
>>259 そうじゃ、自分のやり易いように観察すると善いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 
>>260 そうじゃ、禅ではやっていないのじゃ。
 集中ばかりしているのじゃ。
 それだけではよほど才能の有るものしかサマーディに辿りつけないのじゃ。
 
省10
273
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/18(月)22:40 ID:1d4drIFg0(44/189) AAS
>>265 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>266 どういたしまして、またおいでなさい。

>>267 それも瞑想なのじゃ。
 眼を閉じて想を働かせるならば瞑想なのじゃ。
 深く考えないでよいのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
省10
276
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/19(火)22:30 ID:1d4drIFg0(45/189) AAS
>>274 そうじゃろう。
 認識は思考よりも早く一瞬にして起こるものじゃ。
 無意識に働くものであるからのう。
 よほど強い集中力と観察力が必要なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>275 心の力を働かすのじゃ。
 集中することでも観察する事でも心の力を使用して行うのじゃ。
省1
280
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/20(水)21:27 ID:1d4drIFg0(46/189) AAS
>>277 そのような理解でよいのじゃ。
 観察して確めるのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

>>278>>279 それは自ら観察して確めることじゃ。
 推測も思想も必要ではないのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
288
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/21(木)21:09 ID:1d4drIFg0(47/189) AAS
>>281 記憶は分別と認識に関わっているのじゃ。
 認識するということは記憶したものごとを観念として認めることであるからのう。
 それらの記憶による分別と認識がなくなった状態なのじゃ。
 そうすれば大悟徹底なのじゃ。

>>283>>284 大事ではないのじゃ。
 何も感じなければ感じないと観察すればよいのじゃ。
 感じようとすれば偽の感覚をつかむじゃろう。
省16
293
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/22(金)23:34 ID:1d4drIFg0(48/189) AAS
>>289 それは思いすぎなのじゃ。
 行為があれば行為として観察してよいのじゃ。
 行為を行為としないことは出来ることではなく、するべきでもないのじゃ。
 ただありのままに自分が観られれば、行為の主体がなくなるのじゃ。
 その時にも未だ行為は主体なくしてあるものじゃ。

 観念が無くなれば行為すらも無になるのじゃ。
 それは無にするのではないのじゃ。
省20
299
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/23(土)21:04 ID:1d4drIFg0(49/189) AAS
>>294 自分がしてきたことの報いによって良いところや悪い所に生まれかわるじゃろう。
 その間は意識だけがあるじゃろう。
 寝ている意識と同じなのじゃ。

>>295 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>296 そうじゃ、なるのじゃ。
 おぬしは既に出来たのじゃ。
省16
306
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/24(日)22:45 ID:1d4drIFg0(50/189) AAS
>>300 どういたしまして、またおいでなさい。

>>301 それらも全てそのままに観察すると善いのじゃ。
 その恐怖があるせいで喉元が抑えられて自由な言動ができないと観察するのじゃ。
 恐怖という感覚が強まれば強まるほど自分がそれに支配されると観察するのじゃ。
 そのように考えることも逃避なのじゃ。
 恐れに勝てないとか観られないとか、隔離できないとか、全て逃避なのじゃ。
 そのように逃避していると観察するのじゃ。
省8
310
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/25(月)21:01 ID:1d4drIFg0(51/189) AAS
>>307 そうじゃ、観察していないのは逃避なのじゃ。
 しかし、感覚で抑えるとかはしなくてよいのじゃ。
 逃避していることもまたありのままに観察するのじゃ。
 そうすれば逃避は反応であるからのう。
 ただひたすらに観察するのみなのじゃ。

>>308 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
省4
314
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/26(火)22:23 ID:1d4drIFg0(52/189) AAS
>>311 逃避していることも観察できるのじゃ。
 恐れに打ち勝てないと思うことも逃避なのじゃ。
 恐れへの反応が逃避なのじゃ。
 それができないとか、区別がつかないというのも恐れから逃避しようとしているのじゃろう。
 
 逃避を戒めるのは修業も放棄する者のためなのじゃ。
 観察すると決心したならばもはやありのままに観察すればよいだけなのじゃ。
省6
319
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/27(水)21:46 ID:1d4drIFg0(53/189) AAS
>>315 そうじゃ、全てを観察し続けるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>316 またそのように変化があるまで観察し続ければよいのじゃ。
 おぬしはそのように感じたということは自分で厭離したと感じたのじゃ。
 おぬしにとってはそのような感覚なのじゃ。
 自己同一化がなくなったのじゃ。
省1
322: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/28(木)21:42 ID:1d4drIFg0(54/189) AAS
>>320 おぬしがそれでよかったと思うならばそれで善いのじゃ。
 それによって出世するかもしれんのじゃ。
 すべておぬし次第なのじゃ。

>>321 そのような者はすでにわしの裁量する者ではないのじゃ。
 自ら名乗ろうと思えば名乗るじゃろう。

 この世の衆生全てが無我になり、大悟徹底しようともおぬし独りが悟りを得なければ全て無意味なのじゃ。
 他人ではなく自分を観るのじゃ。
324: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/29(金)19:31 ID:1d4drIFg0(55/189) AAS
↑そのように思うならばよいことじゃ。
出世はしないかもしれんがのう。
資産があれば働かなくても善いのじゃ。
343: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/30(土)21:00 ID:1d4drIFg0(56/189) AAS
>>328 あるのじゃ。
 不死の境地に到達しない限り、全ては虚しく消えるのみなのじゃ。
 精進して不死の境地に至るがよいのじゃ。

>>340 ご苦労さんなのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
350: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/31(日)21:32 ID:1d4drIFg0(57/189) AAS
>>342 へその下ではなく外腹斜筋なのじゃ。
 丹田から腹の下をまわっているのじゃ。
 まわしのような筋肉なのじゃ。
 ここに力を入れると腹も安定するのじゃ。
 
 意識は呼吸とか眉間とか胸の真ん中に集中するのじゃ。
 丹田でもよいがのう。
省6
351: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2017/12/31(日)21:33 ID:1d4drIFg0(58/189) AAS
>>349 血とか気が集まってきたのじゃ。
 厭離しようとしなくてよいのじゃ。
 ただひたすらに観察していれば厭離は起こるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
355: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/01(月)21:03 ID:1d4drIFg0(59/189) AAS
>>352 善かったのじゃ。
 あけおめことよろなのじゃ。
 
>>353 あけおめことよろなのじゃ。

>>354 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
364
(4): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/04(木)21:40 ID:1d4drIFg0(60/189) AAS
>>356 そうじゃ、変容を感じるまで観察するのじゃ。
 しかし、変化させようとか思わなくてよいのじゃ。
 ただひたすら観察し続ければ変容は自ずから起こるものじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>357 そうじゃ、自我は有るのじゃ。
 ただひたすら原因を追求し、原因から苦が起こる事を観察するのじゃ。
 そうすれば苦も消えるのじゃ。
省17
371
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/05(金)22:07 ID:1d4drIFg0(61/189) AAS
>>365 おぬしがそれでやり易いならばよいじゃろう。
 なんでも試してみるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>366 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>367 それを実践して自分にあっていると感じるならば続けるとよいのじゃ。
 何でも試してみるのじゃ。
省15
382
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/06(土)21:38 ID:1d4drIFg0(62/189) AAS
>>372 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>373 こちらこそよろしくなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>374 それも観察したほうが善いのじゃ。
 今ここで感じることを全てありのままに受け容れてみるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
省9
383
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/06(土)21:42 ID:1d4drIFg0(63/189) AAS
>>377 できるかもしれん。
 ひとによって違うじゃろう。
 状況によっても違うじゃろう。 
 実践によって確めるしかないのじゃ。

>>378 思考も感情も起こらない状態なのじゃ。
 無我でも観念は有るから心は動くのじゃ。
 思考も感情も自我を主体としていないから無我でも働くのじゃ。
省4
387
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/07(日)22:34 ID:1d4drIFg0(64/189) AAS
>>384 必要ないのじゃ。
 気付きは思考よりも早くやってくるものじゃ。
 それを他人に説明したりするために思考は有るのじゃ。

>>385 それでよいのじゃ。
 さまざまな流れがあるじゃろう。
 一つ一つ気づいていくのが進歩なのじゃ。
 更に精進あるのみなのじゃ。
省8
396
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/08(月)22:06 ID:1d4drIFg0(65/189) AAS
>>388 そうじゃ、使っているのじゃ。
 使うことも使わないことも出来るのじゃ。
 自在なのじゃ。

>>389 どういたしまして、またおいでなさい。

>>390 悟っていないのじゃ。
 善人ではあったようであるがのう。

>>391 そうじゃ、それによって普遍の自己が妄想されるのじゃ。
省8
397
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/08(月)22:17 ID:1d4drIFg0(66/189) AAS
>>394 それも厭離の感覚なのじゃ。
 他にも自分じゃないように感じるとかの感覚が有るじゃろう。
 ただありのままに感じるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

>>395 それはもはや成功といってよいのじゃ。
 資産なしで職を失うものもいるじゃろう。
 そのような者に比べれば大成功なのじゃ。
省3
403
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/09(火)21:51 ID:1d4drIFg0(67/189) AAS
>>398 できるかもしれんのじゃ。
 真心があれば通じることも有るのじゃ。
 供養してみるのじゃ。

 悟らなくとも自ら修行して心が不動になれば母親にも通じるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>399 浄土思想に縁が有るものじゃな。
 禅にも興味が有るようじゃ。
省10
404
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/09(火)21:53 ID:1d4drIFg0(68/189) AAS
>>402 善いのじゃ。
 どんどん実践すると善いのじゃ。
 何でも試してみるのじゃ。
414
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/10(水)20:51 ID:1d4drIFg0(69/189) AAS
>>405 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>406 善いことじゃ。
 実践して安楽に至ると善いのじゃ。
 またおいでなさい。

>>407 そうじゃ、観察して厭離するのを感じるのじゃ。
 聴覚は鐘を使うのがよいのじゃ。
省5
418
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/11(木)22:28 ID:1d4drIFg0(70/189) AAS
>>415 それでよいのじゃ。
 アートマンがわかったとか、理解できたならばそれはアートマンではないのじゃ。
 アートマンとは否定によってのみ表される法であるからのう。
 ただ実践すべきものであるのじゃ。
 
 本当の私とかただ観ているものですらもないのじゃ。
 観念でも無いものじゃ。
省10
424
(3): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/12(金)21:36 ID:1d4drIFg0(71/189) AAS
>>419>>420 違うのじゃ。
 空の法と近いのじゃ。
 観念を滅するための観念なのじゃ。
 ただ実践によってのみ感得されるのじゃ。

 実践によって変化が現れたならばされでよいのじゃ。
 更に実践あるのみなのじゃ。

>>421 自分の好きなことや楽しいことをしていったらよいのじゃ。
省10
428
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/13(土)20:41 ID:1d4drIFg0(72/189) AAS
>>425 真理とは人を安楽にする法なのじゃ。
 一切を空と感じれば苦は無くなり、悟りにも導かれるのじゃ。

 思考も止まるならばそれを見ているものを観察すると善いのじゃ。
 思考が止まったとわかるのはそれを見ているものがあるからなのじゃ。
 思考が止まってもそれを認識するものとは何か、観察によって確めるのじゃ。
 そのように観察していくと主体ではなかったものが次々になくなり、悟りにも導かれるのじゃ。

>>426 そのようなものじゃ。
省4
435
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/14(日)22:55 ID:1d4drIFg0(73/189) AAS
>>430 例えば四万十川の砂が幾粒あるのか知ればそれは事実であるが何の役にも立たないものじゃ。
 法則などは生活の役に立つ真実で有るが人の苦を滅することは出来ないのじゃ。
 人の苦を滅し、永遠の安らぎである悟りに導く方法こそ真理と呼び、伝えていくべきものなのじゃ。

 そうじゃ、悟りは更に先に有るのじゃ。
 精進有るのみなのじゃ。

>>432 そうじゃ、心を止めて心を見るのじゃ。
 それでこそ観察も完全になるのじゃ。
省9
440
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/15(月)21:13 ID:1d4drIFg0(74/189) AAS
>>436 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>437 全てを完全に観察すれば自我も観られるのじゃ。
 それらの心身全てが厭離されれば自分と言う観念も在り得ないからのう。
 肉体も認識も厭離してしまえば自我も滅するのじゃ。
 記憶も観察すると良いのじゃ。
 それは認識の能力になるのじゃ。
省3
445
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/16(火)21:59 ID:1d4drIFg0(75/189) AAS
>>441 そうじゃ、実践すればできるじゃろう。
 実践しなければ出来ないじゃろう。
 実践が全てなのじゃ。

>>444 それも原因から観察できれば消えるのじゃ。
 嫌いな原因などを追究して原因から嫌いという感情が起こり、見たら苦になると観察するのじゃ。
 それができれば消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。
省2
449: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/17(水)21:21 ID:1d4drIFg0(76/189) AAS
>>447 観念が無ければもはや苦も無いのじゃ。
 ただあるがままにあればよいのじゃ。
 どのように付き合うのかと思うことも無いのじゃ。
 
>>448 常に自分の状態に気をつけていれば隙は消えるのじゃ。
 油断すると隙も生まれるのじゃ。
 常に注意深く自分に気をつけているのじゃ。
458: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/18(木)21:05 ID:1d4drIFg0(77/189) AAS
>>451 同じとは言えないのじゃ。
 それは自ら変えることもできるからのう。
 報いは変えられないのじゃ。
 善事を積むとよいのじゃ。

>>452>>457 それでよいのじゃ。
 更に実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。
省7
466: 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/19(金)22:39 ID:1d4drIFg0(78/189) AAS
>>459 どういたしまして、またおいでなさい。

>>462 疑心暗鬼でも良いのじゃ。
 どんどん疑ったらよいのじゃ。
 疑い得ない真実だけを求めたらよいのじゃ。
 それは実は友人を信じている振りをしながら疑心暗鬼にならないようにするとか。
 疑っている自分が格好悪いから疑っていない振りをしたいとか。
 そのような苦かもしれん。
省8
467
(2): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/19(金)22:46 ID:1d4drIFg0(79/189) AAS
>>464 1 ないのじゃ。
 2 アートマンではないのじゃ。
 3 アートマンは無いのじゃ。
  観念を破戒するための観念なのじゃ。

 4 それはまだ阿頼耶識ではないのじゃ。
 分別が有るからマナ識じゃな。
 5 マナ識じゃな。
省11
468
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/19(金)22:47 ID:1d4drIFg0(80/189) AAS
>>465 出来ないのじゃ。
 知識では悟りは得られないのじゃ。
 観察して気付くことが大事なのじゃ。
475
(1): 鬼和尚◆GBl7rog7bM 2018/01/20(土)21:38 ID:1d4drIFg0(81/189) AAS
>>469 自分の本心を観るのじゃ。
 いつでも答えはそこにあるのじゃ。
 ヘーゲルには無いのじゃ。

>>471 それも妄想じゃろう。
 今ここにあるものだけを観るのじゃ。

>>472 油断とか隙がないようにするのじゃ。
 そうすれば素早い認識の働きも観察できるのじゃ。 
省6
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