鬼和尚に聞いてみるスレ part10 (1007レス)
鬼和尚に聞いてみるスレ part10 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/
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1: 541 [] 鬼和尚と修行者の為の交流スレです。 鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。 ルールを守って使用しましょう。 前スレ 鬼和尚に聞いてみるスレ part9 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1496591715/ http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/1
2: 541 [] 最近「嫌なやつ」を修行のために使わせてもらおうと思っているのです。 何故、それは「嫌なやつ」になったのか。 恐らくそれは「志向性」と関係ありますよ。 私が世界を素朴に「道具」と見ているから、それは「私にとって邪魔」な存在となり、「嫌なやつ」となったのです。 ちょっと前まで「いい奴」でした。要は私に都合が良いときは「良い奴」で都合が悪くなると「悪い奴」になるわけだ。 つまり、そいつが「悪い奴」である根拠は「私がそう思っているから」となる。 存在を道具ではなく、目的と見たらどうでしょうか? 箸は箸だし、彼は彼、テレビはテレビで、彼は彼、私は私 自由であります。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/2
17: 541 [] 鬼和尚。思索を極めることで悟りに至ることは出来ますか? インド哲学には、知恵のヨーガなるものがあると聞きましたが。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/17
18: 541 [] カントの『純粋理性批判』で展開される認識論は、悟りの寸前まで行っている気もしますが、鬼和尚はどう評価されていますか? カントによると、我々が経験している世界は感性や知性が生み出した現象世界に過ぎず、生まれるとか生きるとか病む老いるなども、錯覚のようなもので、現象を越えた物自体の世界には人間も神も仏も居ない。 しかし、それら観念存在は、恐らくは物自体から生まれでてる事になります。 物自体の世界は「無」と言っても良いと思います。我々の本性とは、カントが言う物自体、つまり無そのものではありませんか? 我々の本体が無であることを自覚することが、悟りではないでしょうか http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/18
21: 541 [] いや、カントの哲学は主に認識論なので、勿論、己自身の認識を批判しています。 そして、カントの認識論は釈迦に匹敵するほどのものだと私は思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/21
22: 541 [] カントの哲学はその後も批判されていますが、大まかには間違っていないでしょう。我々が見ている世界は、我々の心の世界であると、心を越えた世界は、あると推測されるが、推論を越えるものではない。この結論は仏陀でもひっくり返せないと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/22
27: 541 [] >>23 悪くはない喩えだ。 壁が見えなければ超えることも出来ない。 つまり、カント哲学は盲信しなければ、悟りを目指すものにとって非常に有益だと思うのだ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/27
28: 541 [] 恐らく、悟りの世界とは、「物自体」の世界だろう。この「物自体」と言う言葉にとらわれてはならない、それは「物」とは何の関係もない。 我々の認識力を越えた世界みたいな意味である。 物理学者が言う「5次元世界」や仏者が言う「ニルバーナ」などに近いと思う。 カント哲学によると、感性、知性、理性では、ニルバーナに到達できない。何故なら感性、知性、理性は、この世の構成原理だからである。 むしろ、感性、知性、理性が停止した世界にニルバーナが顔を出す可能性はあると思う。 このようにカント哲学を批判的に検証した方がかえって悟りの世界が分かりやすく説明できると思うのだ。 現代の日本人は、やはり、西洋人的な考え方をするからね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/28
30: 541 [] >>29 うんまぁ 龍樹から学ぶのもいいんだが、現代人ではないのでね。カントの方が、現代人とっては分かりやすいと思うのよ。見掛けは難解だがね。 しかし「妄信」すれば、龍樹も悟りの障害になると思うよ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/30
31: 541 [] 壁のところまで連れて行ってもらうのはカントで、壁を超える方法は龍樹や鬼和尚に聞いたらよい。 もっとも、実際に壁を超えるのは自分自身なので龍樹を妄信している段階では、何の発展もない。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/31
32: 541 [] 逆に、カント→悟りの方向性を明示できれば、世界規模で多くの人が悟りの方向に迎えると思うんだよ。 いくら優れているとは言え無著だの世親の哲学を学んでいる人など世界規模で見れば殆ど居ないからね。 何と言ってもカントは未だに、学術論文で参照される哲学者ナンバー1の学者だからね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/32
33: 541 [] 私の書き方が悪かった面もありますが、鬼和尚は「物自体」を物だと思ってらっしゃいますが、物ではなく「物を越えた世界」或いは「物と言う表象の向こう側」と言うニュアンスです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/33
38: 541 [] >>21 それがおかしいのじゃ。 それら認識を批判するならば全ての思索や結論もおかしいことになるのじゃ。 全ては認識に依って成り立つのであるからのう。 認識の優越性がわかっていないのじゃ。 鬼和尚。哲学における「批判」とは非難とか否定の意味ではありません。 そしてまさにカントの哲学は「全ては認識によって成り立つ」と言うことを主張するものです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/38
39: 541 [] 簡単に説明します。 カント以前の哲学は、蛇なら蛇が実在して、その実在者を我々が実在する通りに認識するというものでした。 しかし、カントはこれをひっくり返し、「認識の優越性」を主張します。 むしろ我々の感性や知性が「蛇なるもの」を創り出していると言うのです。 ここで、「しかし、縄は蛇そっくりだが噛み付かないだろう。やはり蛇は認識と関係なく実在するのではないか」と言う批判があると思います。 それゆえ「物自体」と言う領域が想定されなくてはなりません。 しかし、物自体は、経験の範囲を超えているので認識は出来ません。 「人間の知性や感性を超えた領域で何かが起きた」のは確かだが、それは人間と関わった途端「蛇」が「人」を「噛んだ」と翻訳されます。 「蛇」も「人」も「噛む」も「噛まれた人が死んだ」なども、人間的な解釈であります。それらは「人間的に解釈された人間的な出来事」ですが「出来事それ自体」ではない。 「出来事それ自身」は人間には捕らえられないが、少なくとも「蛇が人を噛んだ」はそれを見てる人が創り出した「人工世界」の出来事だということです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/39
40: 541 [] もっと、日常の感覚的な例を出すと、例えば、「世界」と言うものが目の前に広がっているように見えますが、 ちょっと病気になり、「眩暈」などすると、その「世界」なるものがグルグル回ったりする経験がある。 これはまさに、「目の前の世界」が、単なる「映像に過ぎない!!」と言うことを示す証左でもあります。 また、目玉をグイッと押すと、世界がグニャと捻じ曲がり、分裂し回転したりします。まさに、自分と関係無しに「在る」と思われていた世界が、単なる「像」に過ぎなかったという 事が分かる。しかし、この「映像」の世界以外の世界は、我々には認識できないのです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/40
41: 541 [] 要するに、我々は、感性や知性が生み出した「虚像」の世界を実像だと思って生きている訳です。 だから「人が死んだ」のような出来事も「そのように見える」「そのように解釈した」というだけのことで、本当に起きている事は認識しようがないのです。 己自身の死すらも、死の恐れすらも、知性が生み出した虚像から生じる恐れです。 本当に起きている出来事は認識を越えたところにある。 これはカント哲学に対して、私が仏教風味に味付けしている面もありますが、それが可能なくらい、カント哲学は本来、仏教と親和性が高いと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/41
42: 541 [] 繰り返しですが「物自体」は「物質」のことではありません。そんなものである訳が無い。 物質とは観念に過ぎません。我々は対象それ自体を見ているのではなく、「物質と言う概念」を投影してその何かを見ているのです。 むしろ物自体=ニルバーナとでも言ったほうが誤解が少ないかもしれません。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/42
43: 541 [] 認識論の話とは別の話なのですが 懺悔したいことがあります。 と言うのは私の高校時代の話です。私は、ある仲のいい友人が居たのですが それは私が、ある方向に踏み出そうとした瞬間、「残念な奴」に見えてしまい、仲たがいしてしまったのです。 それ以来、私は「こんな事はもう二度としてはならない」と思っていたのですが それから20年後、職場の同僚で仲の良い奴がいたのですが、私が新しく人生を踏み出そうとした瞬間にやはり「嫌なやつ」になってしまい、仲たがいしてしまったのです。 「二度と友を裏切る事はしまい」と思っていたのですが、同じ事をしてしまいました。 そして、それは、私が、新しい自分に脱皮するためには避けられないことでした。 高校時代、私は友と仲たがいして非常に後悔したのです。長い間無間地獄をさまよっていました。 しかし、仲たがいせず、そのまま付き合っていたとしたら・・?やはり無間地獄だったかもしれません。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/43
47: 541 [] >>46 鬼和尚。しかし、釈迦も12因縁を堂々と主張し、その誤りを認めたりなどはしていないですよ。 また全ての認識が間違いならば「カントは間違いだ」と言う鬼和尚の認識も間違いと言うことになります。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/47
48: 541 [] 釈迦は、「向こう岸に着いたならば、乗ってきた船は捨ててよい」と言いました。 カントや釈迦や唯識論などは、向こう岸に着くための船であり、それ自体が真理では在りません。 しかし、船無しに向こう岸にたどり着くのも至難のわざであると思います。 違いますか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/48
49: 541 [] 出来れば、全否定ではなく、空海や天台などがしたように、仏教と関係の無い思想であっても関連つけて説明して欲しいのです。 観察によって認識の構造を炙りだしたカントの哲学には非常に鋭い洞察が在るはずです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/49
53: 541 [] やはり「カントが間違っているというわしの意見も間違っているのじゃ」と言わないと、鬼和尚も、自分の頭を数え忘れていることになってしまうw http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/53
54: 541 [] >>51 ですから、前も言っている様に、門の前につれてこられるだけでも、十分、素晴らしいと思いますよ。 >あなたの言う「虚像」だけではなく、「実像」も「あなた」が考えていることなのです。 そのことに気付く必要があります。 そんな事は百も承知で、カントは実像としての物自体は経験できず、理性の推論でしかないとね。 つまり、天国や地獄、あの世などは「理性的推論でしかない」ので、それについて議論したり、戦争をしたりしても、決着はつきませんよと言うことなのです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/54
55: 541 [] >>51 ちなみに貴方の宗教体験なるものも虚像であることに注意した方が良いと思います。 例えば、LSDで幻覚を見せられてそれを真理だ、実体だなどと考えている場合が在ると思います。 「宗教体験」なるものを過剰に重視する人間は、特にカント哲学からはじめた方が良いと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/55
56: 541 [] 「理性の暴走」を戒めるカント哲学と禅仏教は親和性が高いと思うし、本来、観察を重視する鬼和尚の仏教とも相性は抜群に良いと思う。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/56
57: 541 [] 悟りと言う頂を上るのには沢山の門があると言われる。 現代においては「西洋哲学門」なるものを認めないと、仏教の裾野が広がらないと思うのだ。 仏教は、そのつど、時代時代の思想を体系の中に吸収してきた。それだけの「器」が仏教には在るのである。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/57
58: 541 [] 私こと541菩薩は、悟った後、必ずや未開拓の「西洋哲学門」を整備し、世界中に居る沢山の迷える後輩たちを悟りの世界に導くことを誓います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/58
62: 541 [] ところで鬼和尚はシャンカラの不二一元論や竜樹の中観哲学などはどう評価されていますか? 鬼和尚は形而上学的実在を主張する者にたいしては絶対無を説き、絶対無を説くものに対しては究極的観察者の実在を説くような面があるように思いますが。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/62
63: 541 [] >>59 でもいわば君は悟りの入り口にも立っていない、凡俗じゃないですか? 凡俗の視点で仏教の優位性を説いたところで、それは仏教思想に自我を投影しているだけの凡俗な主張でしかないと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/63
65: 541 [] >>541 なんであれ貴方が凡俗だと言う事は直観的に分かります。 と言うのも、貴方に何も聞いていないのに、答えようとするからです。 それは煩悩がコントロールできないことを意味しています。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/65
66: 541 [] 竜樹やシャンカラが「カス」だという意味でカントが「カス」だというのなら、納得できます。 と言うのも、カント哲学を発展させていくと、どうも、シャンカラの説くような不二一元論に至るような気がするからです。 これは、新カント派を引き継ぎ、発展させたハイデガーが「存在」を哲学の出発点であり、到達点としたことからも推測できます。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/66
67: 541 [] 竜樹は、シャンカラやハイデガーのような形而上的な実体を否定する立場ですが、鬼和尚は、そうでもないですね。 どちらかと言うと、シャンカラ寄りと言うか、全てを見ている「一者」を肯定するようなところもあり、 とはいえ「真我」のようなものを説く者に対しては、それも観念だと否定する。逆に、空の論理で全てを否定するものに対しては「それも空じゃろう」となるので 観念を超えた実存の立場から物を語ると言うことはあるでしょうね http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/67
71: 541 [] 鬼和尚。 意外にも意見が合致しましたね。 カントやハイデガーの思想は、突き詰めると、まさに古代インド哲学と同じ結論に到達すると思うのです。 すなわち、梵我一如です。 ちなみに、カントが「思索だけの哲学者」と言うのは間違いです。 彼の方法は「観察」です。 『純粋理性批判』と言う著作は「思考を突き詰めれば真理に到達できるんだ」と言うような書では無く、その逆なのです。 言い換えれば「理性の限界設定」(思考では真理に到達できない)と言うような内容なのです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/71
72: 541 [] 逆に、ウシャニパッドを知らないのに、「自力」で苦闘して、西洋形而上学を破壊して、インド哲学に匹敵する体系を作り上げたと言うのは誉れだと思いますよ。 鬼和尚は、インド哲学をカンニングできたのに、彼らは一から作り上げたのだとすれば、多少敬意を払っても良いと思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/72
73: 541 [] ごめん、ウパニシャッドね。(笑) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/73
74: 541 [] 思うに、鬼和尚は「イメージのカント」を批判しているような気もする。 例えば、『純粋理性批判』の「純粋理性」と言うのは、「経験の伴わない思考」の意で、それの「批判」な訳で、鬼和尚の主張と別に矛盾している訳では無いんだよね。 いや、むしろ「同意見」ではないですか。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/74
75: 541 [] 私は覚者としての鬼和尚を尊敬してはいるが、「理論」「知識」の方面は余り得意ではないと思う。 その分、行が凄いとは言えるのだろうが。 恐らく、知識の面でも抜群に秀でていた釈迦であれば、六師外道を「全否定」はしなかったように、 無碍にカントのような学者を否定はしなかったと思う。 天台が、クソみたいな経典も、ランク付けして、一応仏典認定したように。 空海が、禽獣のような人間に法華経や華厳経を教えても理解できないのだからと、取りあえずは儒教で仁義礼などを教えるのも一つの修行だと捉えたように。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/75
76: 541 [] ところで、私はカント哲学をクソほどありがたいなどとは思っていない。 だから、安心して読めるのである。 一方で、「東洋思想」に対する「西洋思想」などと言うように二項対立を設けて、一方を否定することにエネルギーを使うものは 結局、東洋だろうが西洋だろうが、何一つわかってはいないのではないかと思う。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/76
82: 541 [] 鬼和尚の言うことにもレトリックがある。 哲学には仏教哲学も含まれるからです。 実際は過去七仏と言うように、過去にも未来にも、仏教に匹敵する思想が生まれても不思議ではないし、「西洋哲学」みたいなくくりで、全てを否定するのは単なる不見識だと思う。 それらの中には、その内部の主流の哲学を批判する流れもあるのだからね。特に現代思想は、プラトンやアリストテレス以来の哲学を否定する流れにある訳だしね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/82
118: 541 [] 鬼和尚、死を観念としてではなく、絶対に逃げおおせるものではなく、たった今にも到来する可能性として、己自身に引き受けたとき 人はどのような変容を遂げるでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/118
125: 541 [] 119鬼和尚 そのケースでは、死を恐怖していることが前提条件ですよね。例えばですが、私はそれほど、死に対する恐怖心がありません。 それは人生において、やるべきことをやっている感があったり、鬼和尚などの講話を聞いて、それほど、恐るべきものでもないだろうなと言う予断があるからと言う面もあると思います。 そうではなく、完全に死を受け入れることで、悟りの境地に立てるのかと言うことです それとも、あくまで、修行の動機付け程度の話でしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/125
130: 541 [] >思想家は思想によって、芸術家は感性によって、それぞれ独自の自我を確立しておることが良く判る。 >同じように体を使うものは体が自分と認識し、感覚を大事にするものは、自分を感覚のもとであると、認識しておるやも知れぬ。 (鬼和尚言行録より) 確かに、私は、思想の進歩が人生の進歩に繋がると思っているところがありますね。 体験より思索の発展が、自己の発展だと考えている。正直、体験は思想の「おまけ」だと考えている面が在ると思う。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/130
131: 541 [] ただ、鬼和尚。それが悪いって訳ではないんでしょ? それとも、思考に自我を投影しているとして、それをやめればよいのか? ただ、別に、思考を止めたとして、恐怖とかの感情はないですよ。 人生を切り開くツールとして、思考を使うのが、比較的得意だし、楽しいのでそうしている面が大きい。 また「感性が大事」と言うのも、思考的な結論として、そのように至っている面もある。 「感性を重視しよう」と思考している。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/131
136: 541 [] 例えば、ここにオショー・ラジニーシの『死・終わり無き生』と言う本がある。 要は、生と死は同じコインの裏表で、死を捨てて生だけを見ると言うわけには行かない。 裏側の無いコインなどは存在しないように、人生も成立しないのだと言う。 そして、しっかりと見るならば「死」などは存在しないのだという。 ただこの本で、オショーは「死の克服法」と言うものは明確にはしていない。 しかし生死の観念を越えた「実存」のようなものが在るということを示唆はしている。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/136
137: 541 [] 実際「死を見よ」と言われても、死とは「終わりの予感」とでも言うものであり、 観念の中にしかない。天気予報と同じで「予測」なのだ。少なくとも、鬼和尚も含めて「死」を実体験した人はこの中にはいない。 居ないが、たった今、次の瞬間にもやってくる可能性はあるのである。 ところで、普通の意味で、私には「死の恐怖」と言うのは、余り無いと思う。 これは本心だろうか?まぁ、本心に近い。近いというのは、少なくとも、肉体は痛みや腐敗を避ける行動を取っているし 心も、ほぼ無意識に、死に向かう行動は取らないからである。 かといって、死を嫌っているわけではない。もし、明日「末期がん」を宣告されたとしても、さほど恐怖を感じる事はないと思うし、 やることも余り変らないと思う。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/137
138: 541 [] 自我や認識が消滅したところで、望むところである。 これで、悟れなかったら嘘だよな http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/138
139: 541 [] ところで、私は、「願望実現法」にも長けており、ほぼ、7割方、社会経済の歯車から抜け出ることにも 成功した。つまり、私は、「生きているために何かの準備をしなくてはならない生活」から自由になったといえる。 要するに、明日の仕事のために早起きしようとか、「現在」を「未来」のために犠牲にする必要が無いということである。 (もちろん「現在」も「未来」も「仕事」もあらゆる存在すらも元々観念である。) 超越論的な意味で自由なだけではなく、観念世界(資本主義世界)の枠組みの中でも自由になったということである。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/139
141: 541 [] 鬼和尚、私の前世はなんでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/141
145: 541 [] なるほど。 確かに、今は、金持ちで、多芸、多才、人脈にも恵まれ、学識や仙術にも秀でている面があります。 しかし、前半生はそれほど楽なものでもなく、絶望のどん底に居ましたが、この絶望の時期が無ければ、今の隆盛も無かったように思います。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/145
146: 541 [] しかし、布施をすると金持ちになるというのは、どういうメカニズムなの?? なんか、心霊商法の論理だよね。 別に誰か「裁く神」みたいなものが居る訳ではなく「お布施したから金持ちになっても良い」と「心」が許可するから、そうなるという理屈なのか? その辺を明確に説明して見てくれませんかね?鬼和尚。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/146
153: 541 [] ところで、鬼和尚はルドルフシュタイナーに関してはどうお考えですか? 悟りの修行に際して、読む価値はありますか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/153
160: 541 [] 鬼和尚。輪廻転生と言うことに関して、こういうことかなと私は思います。 そもそも、この世界が「仮象」であることは鬼和尚も同意されると思います。 「物それ自体」はなんだか分かりませんが、それを認識した途端「何か」になります。 その意味で、この世界は私の「心象」であります。他者だけではなく、自己ですら、一種のイメージであります。 しかし、認識の向こう側には、「何か」があるように思えます。しかしそれは「見る」ことでは出来ません。 その「目に見えない何か」は時間や空間を超えた存在なので、何度も、このゲームをすることが出来ます。 それが「生まれ変わり」であり、その「何か」こそが、我々の本質であると。それを体感することが「悟り」なのでしょう。 そうではありませんか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/160
170: 541 [] 例えば、「茶碗の上に割り箸が置いてある」と言う「日常的風景」があるとします。 しかし、この「木」の切れ端を「食物を掴む道具」とすんなり認識できるのは、記憶があるからですが 「記憶が無かったら」として、順観、逆観できますか? 「記憶がなかったら」と「仮定」しても、記憶はある訳で、「箸」はもう「箸」にしか見えない。 観察しているうちにゲシュタルト崩壊が起きますかね? 箸とか、生活に深く根ざした対象は観念崩壊させるのが難しいような気がします。 それでも、観察する以外に無いのでしょうね。例えば、漢字なども長い間見続けていると、なんだかよく分からない意味以前のシミにしか見えなくなるときがありますからね (小学校の漢字テストの時など。長時間漢字を見ているうちにゲシュタルト崩壊が起きる) http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/170
181: 541 [] 鬼和尚、釈迦は「嘘も方便」と言ったという伝説がありますが、それは本当のことですか?また何か文献的根拠が在りますか? そして、鬼和尚は場合によっては嘘をついてもよいと考えますか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/181
194: 541 [] 法華経の方便品や鬼和尚もたまに「本当は違うが、お主の修行の為にあえてそういったのじゃ」など、方便を説いてますね。 私は、相手も自分も傷付けず、後悔することもなく、感謝されるような嘘なら良いのかなと思いますが、鬼和尚は、何故駄目だと思われますか? また、駄目なのに、方便は説くのは何故ですか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/194
206: 541 [] 鬼和尚。「現実」と言うのは、中長期的には、思った方向に向かうのですが、 短期的には、滅茶苦茶ですね。 5年前に、鬼和尚に宣言したとおり、あくせく働かなくても良いくらいの資産を作りました。 また、自分に好きなことを仕事にすることも、ほぼ、出来ました。 確かに、中長期的には「うまく行って」いる。しかし、短期的には、ゲロを吐きたくなるようなことばかりでしたよ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/206
207: 541 [] 今だって、ゲロを吐きたくなるようなことが起きて、ウンザリしているんです。 それは、大抵、「よし、新しいことをやってみよう」と言う革新的な行動を起こすと、 人間社会の「醜い裏側」などが見えてきて、嫌に成ったりしますね。 何なんでしょうね。だからと言って、禅堂で、じっと座っているだけの人生と言うのもなんだかなー よく「人生は無意味なんだから、好きに生きればよい」(積極的ニヒリズム)と言うようなことを言う人が居ますが そもそも「好き」に「生きる」と言うこと自体が「意味」ですからね。 好きに生きようとした時点で「意味」に絡み取られている。 そんな矛盾すら、ニーチェはわかっていなかったのかな。 意味が解体した世界では「好き」も「嫌い」も無いんだから。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/207
208: 541 [] ところでさぁ、鬼和尚よ。本心とかいったところで、ほとんどが「言葉=意味」じゃないですか 意味に腹を立てているだけでしょう? 本心では、親が憎かったとか言っても「親」って意味じゃないですか、それは実在ではなく、言葉であり 仮象に過ぎませんよね。 しかし、その仮象でこの世界が成り立っている限り、それを無視して生きるのは至難のわざだ。あぁ、めんどくさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/208
214: 541 [] >何も思わずに実践するとよいのじゃ。 止観ですか? ところで、日常生活と瞑想を、分けずに観てよいですか? すなわち、瞑想的に、日常的な存在者と関わるということですが、今、私は「鬼和尚」に向けてコメントを書いているのですが この場合の「鬼和尚」は日常的他者です。日常的他者を瞑想的に観る、そして関わるという事はどういうことになるでしょうね? 鬼和尚を見ている人、(つまり鬼和尚と言う記号の内容を解釈している人、つまり自分自身)を意識しながら、会話するということでしょうか? すると、「会話」が成立しないのですね。 自己に意識が向かうと、「他者」は影になりますからね。 キーボードがカタカタ鳴り響いているだけと成りますね。 鬼和尚と言う記号をある程度「実体化」させないとコミュニケーションが出来なくなる。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/214
215: 541 [] 私は、”鬼和尚”と言う記号に「悟りの達人」とか「覚者」などの意味を貼り付けている。 なので、ちょっとした言動にも「す、凄い!」とか、感動してしまったりするが、これもまぁ、意味の相乗効果みたいなものでしょう。 「何も思わない」と言う事は、「鬼和尚」自体が現れないことになるし、話が出来ないのですから。 何も思わないのであれば、私は「鬼和尚」と言う記号を前に、一体何をしているのか、「モニターのまえでパチパチ指を動かしているだけではないか」ということすら「思わない」のであれば 私のあらゆる行動は停止してしまいます。 それだけです。 だからといって特に何と言うことも無い。 しばらくすると退屈を感じて、また「意味世界」に戻ってきます。 これが悟りでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/215
216: 541 [] もっと「生活世界」における「他者」との付き合い方についても、鬼和尚、語ってください。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/216
217: 541 [] ワインの空瓶を観察しておりました。 するとボトルが膨張したり収縮したりし始めます。 そのうち、ボトルから関心が逸れて、友人のことが思い出されました。 友人のことを思い出している自分に気がつき、再び部屋に意識を戻しました。 「部屋」には「布団」とか「ベッド」のように「名付けられているもの」がありました。 「私の足」も見えました。 それだけです。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/217
219: 541 [] >>218 それがね、鬼和尚。ナンパしようとすると彼氏が居たりするんですよ。 「全ては幻想じゃー、意味などないのじゃー、突撃じゃー!」と言っても、「ナンパ」している時点で「意味」の中にいるわけですからねw さて、とりあえず、色々と観察を続けて見るが、本当に悟れるのかね http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/219
220: 541 [] ところで、思考を停止すると、感覚的現象が見えますよね。 しかし、感覚的現象を「見ているもの」が居ますよ。 それは、あえて言語化すれば「知性」ですよ。 思考と言うのは「これはワインボトルだな」と言う観念のことです。 さらに「先週、コンビニで買った安い奴だな」と言う観念も想起します。 これらは「思考」ですよ。つまり「過去」に属しますな。「記憶」に近い。自動反応的。 しかし、それに対して「知性」は「今、ここ」で働いているね。 つまり、今まさに、感覚的対象を「見ているもの」ですよ。 知性は対象を「ワインボトルだ」とは思わないです。「ワインボトルと呼ばれている何か」を、つまり、存在を了解している訳です。 人間に置き換えれば、思考は「これは鬼和尚だ」と連想的に思うのですが 知性はそれを「これは鬼和尚と呼ばれている何かである」と了解します。 そして知性が無ければ「観察」自体が成立しません。 もし、観察と言う修行が必要であれば、それは知性を抜きには出来ません。 知性は、感覚的対象を「見ているもの」なのですから。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/220
221: 541 [] 感性は外的な印象を受け取れますが、例えば「概念」のようなもの、これは「感性」では受け取ることが出来ません。 しかし我々は「概念」の存在を了解している。 それがなぜかと言うと「知性」がそれを了解しているからです。 「心象風景」などは眼球では捉えられませんよ。 「これは心象風景だな」は思考です。 「心象風景と呼ばれている何かがある」と了解するのが知性です。 知性は、感覚的対象も自我も思考も越えています。 それらをひたすら観ているのが「知性」なのですから。 これが悟りですか? それとも単に私は「知性」に自我を投影している? 知性が崩壊しても、別になんとも思わんよ。 では「知性」が消滅したら、何か残るか? ちなみに知性とは「名付ける者」でも無いのだよ。それはやはり「思考」でしょうな。 やはり、知性は「見ているもの」なんだよ。 思考が崩壊すると、世界が混沌としていくが、その崩壊する世界を「観ているもの」が居る。それが「知性」だ。 (あえて知性と言う表現を用いたが、「観ているもの」のことだ) 認知症患者は知性がなくなるわけではなく、記憶力が弱まって行くのである。 精神分裂症の場合は「思考」がおかしくなって、いるが、知性が崩壊している訳ではないのかもしれない。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/221
222: 541 [] 「知性」と書くとかえって誤解を生むかもしれない。「観ているもの」は居ますよ。 思考や感覚的印象を超えて、それらを「観ているもの」はありますね。 ところで「目の錯覚」かもしれませんが、物をひたすら観ていると、「物が動き」ますよね。 生き物のようにね。でもそういうことを了解しているのは「知性」が了解しているわけですなぁ。 「観ているもの」がなければ、そういうことに気が付きませんからな。 それと悟りが結びつきますかね。何回も繰り返しているうちに何か分かってくるのかな? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/222
232: 541 [] 真ん中に巨大な壁がある監獄に閉じ込められているようなもので 確かに、向こうから「コンコンコン」と言う音(振動)がする。他の音や声は一切聞こえない。 その「コンコンコン」から、壁の向こうに人が居る気がするが、絶対に確かめようが無い。 人が居ると「思っているだけ」で、本当は居ないかもしれない。 しかし、「コンコンコン」の背後に「意識が存在する」と信じるしかない。 言語を解してコミュニケーションする我々は、ちょうど、この囚人のようだと思うことがある。 この文章の背後に、「何らかの知性を持った意識(人格)」があるような気がするが、その「言葉」と言う記号を読み取っているのは、結局は「私」なのだと。 しかし、意味のある言葉が羅列されているのだから、言葉の向こう側に、私以外の「意識」があるのではないかと、しかし、そう思っているのは、私の意識でしかない。 こういったジレンマを感じますね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/232
234: 541 [] 既存の哲学用語で言うと「現存在」かな。 あらゆる存在者は、現存在が生み出しているが、その事を自覚していないので、 日常世界に埋没している。 そして絶望を通して、本来性を取り戻し、実存する。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/234
235: 541 [] あぁ、馬鹿馬鹿しい。ゆえに自由だ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/235
243: 541 [] 横レスだが 意識があるとか無いとか言うのは、それこそ「意識」の判断ではあるね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/243
256: 541 [] これ以上ないくらい至福の境地を楽しんでいるが、これは仏教で言うところの 「天」の境地なのかな? 要するに、人間的な「意味」の世界と意味を超えた「無」の世界を自在に行き来している境地。 鬼和尚。さらにこれ以上の境地ってあるのでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/256
270: 541 [] 鬼和尚 身体とは何ですか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/270
272: 541 [] 鬼和尚 身体とは何ですか? ちなみに道具的な意味ではなく、存在論的な意味を問わせて頂いています。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/272
278: 541 [] 『仏教といふのは妙なもんだ』と岡野は考へてゐた。『慈眼で見張れば、湖上の船も難から 救はれるといふ考へなんだ。こんな死んだ金いろの目で』 見るといふことは岡野にとつて、本来、残酷さの一部だつたが、 「遠くひろがる湖面には、 帆影に起る喜悦の波。 払暁の町はかなたに 今花ひらき明るみかける」 などといふ彼の好きなヘルダアリンの詩句も、この千体仏の暗い金の重圧、慈悲による、 見ることによる湖の支配の前に置かれては、たちまち力を喪ふやうに思はれた。 上記は三島由紀夫の『絹と明察』の一文ですが、岡野が述懐しているように仏教真理の本質とはそういうものと言えますか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/278
279: 541 [] もし、上の仏説が真理ならば、文字通り世界は私の意識に浮かんでいる夢でしょうね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/279
320: 541 [] 鬼和尚。言動にトゲのある言い方をする上司に「言動にトゲがあるから改めてほしい」とおもいっきり注意してしまったのですが、 これは善かったのですかね。私は、行為において、「自分が今日死ぬとしたら、これはやるべきことか否か」と言うことを常に判断の基準にしています。 つまり、死の観念により自我観念を破壊した上で必要な事だけやるようにしている。 今回も死の瞑想をして、その上であえて言うことを選択しました。心は非常に晴れやかですが、私の行いは仏陀が説く慈悲の道にかなっているでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/320
323: 541 [] まぁ、出世するつもりは無いですが、「すべての人が気持ちよく生活できる世界」を作るのが私の仕事だと思っているので これに反する場合は、その悪霊に向かってカメハメ波が炸裂してしまうのですが、 なるべく悪霊だけを破壊したいものです。 自分の中に邪心があれば、そのカメハメ波は何倍にもなって自分に返ってくるでしょう。 しかし、世間の人は、それを怖れて、何が起きても「見てみぬふりをする」訳ですが そのことによって、自己の魂を失ってしまうわけです。 例えば、パワハラ課長に理不尽に怒られても「はい。申し訳御座いません」と言うことが、立派な社会人だと思うことにしている。 しかしその結果、部下にパワハラを働いたり、家庭内暴力に転じたり、うつ病になったりする訳です。 理不尽なことを言われたら、その場で、その理不尽を撃退しなくてはならない。 それが結局は、課内全ての人を救うことになるし、その家族や関係者、課長自身、職場全体、業界全体、世界全体(つまり私の意識)を救うことになるのではないでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/323
325: 541 [] そうですね。鬼和尚のアドバイスもあり、もう既に働かなくても生きていけるくらいの資産はあります。 働かなくても良いのに、あえて働いている訳です。 ドラマの将軍吉宗が町人のふりをして世直しをしているのに近い感覚ともいえます。 というか、働いているのではなくて、自分の好きなように世界を創造しているような感覚に近いですね。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/325
326: 541 [] 恐らく、織田信長などは、私と同じような感覚を持っていたと思います。 彼は「働いている」ような感覚は無かったでしょう。 自分の好きなように世界を創造していたといえるでしょう。 さて、この先の境地と言うのはあるでしょうか? http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/326
330: 541 [] ワタクスは仏教だの何教だのと言うカテゴリーには囚われないようにすております。 自分に役立つ教えは何であろうが全て善い教えでありまふ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/330
331: 541 [] たしかに「神」でありますが、たまに神であることを忘れて、 被造物に幻惑されてしまうそそっかしい所もある神ありまふ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/331
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