鬼和尚に聞いてみるスレ part10 (1007レス)
鬼和尚に聞いてみるスレ part10 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/
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7: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>1 ご苦労さんなのじゃ。 >>2 よい気付きなのじゃ。 どんどん使うとよいのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>3 わしはもはや念じないのじゃ。 念じる者も、念じるということもないのじゃ。 それらは修行者のための名号なのじゃ。 >>4 そうじゃ、出来るじゃろう。 頭の鈍いシュリハンドクや、何人も害したアングリマーラのアヒンサーも死を超えたのであるからのう。 実践する者だけが死を超えるのじゃ。 >>5 知らんのじゃ。 おぬしの心の中にそれは働いているじゃろう。 他人の手本は見なくてよいのじゃ。 >>6 完全に観察できればなくなるじゃろう。 心を偽って許したとしていてもいつか機会があれば復讐したりするじゃろう。 そして己の身も破滅するのじゃ。 本心を観るとができれば原因はつまらないことであったと気付いたりして本当に許せるのじゃ。 本心を観なければいつまでも心の中に悪は残るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/7
11: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>8 集中力だけでは観察力は高くならないのじゃ。 集中力はただ雑念をなくして心をコントロールできるようになるのじゃ。 集中して観察を実践すれば観察力も高くなるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>9 全部間違いなのじゃ。 死んで煩悩がなくなるのではないのじゃ。 丸くならないのじゃ。 出鱈目ばかりなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/11
19: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>12 そうじゃ、学ばなければ真実は明らかにならないのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 >>13 無明とは自分があるという観念なのじゃ。 行とは分別なのじゃ。 生とはいきるものという観念なのじゃ。 愛とは愛着なのじゃ。 取とは外部の刺激を取得することなのじゃ。 有とはあるものという観念なのじゃ。 >>14 よいのじゃ。 自らを救った者だけが他人をも救うことができるのじゃ。 自らを救っていない者が他人を救おうとしてもますます苦に落とすだけなのじゃ。 >>15 それは本当は深い瞑想の境地なのじゃ。 睡眠の感覚と似ているからそう思うのじゃ。 深い瞑想に入った禅僧の脳波を見ると寝ているときと全く同じと言うのじゃ。 それでも自らの意志で目覚めたり出来るのが睡眠と違うのじゃ。 >>16 完全に無我ならば苦は無いじゃろう。 苦を受ける自分が無いときは苦もないのじゃ。 自ら観念的な苦悩を作り出せば苦しむことも出来るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/19
20: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>17 思索が無い思索まで到達できれば可能かもしれん。 それでもそれは集中であり、観察は独自に行われるじゃろう。 思索が集中のかわりになるのじゃ。 >>18 謬見なのじゃ。 ものには何も生み出すことはできないのじゃ。 自分自身の認識にまで批判を及ぼさなければ悟りも遠いのじゃ。 そこまでは行っていないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/20
36: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>21 それがおかしいのじゃ。 それら認識を批判するならば全ての思索や結論もおかしいことになるのじゃ。 全ては認識に依って成り立つのであるからのう。 認識の優越性がわかっていないのじゃ。 >>24 そうじゃ、ただひたすらに実践すればできるじゃろう。 わしのブログなども参考にするとよいのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>26 無我が完全ならばないじゃろう。 不完全ならば感じるかもしれんのじゃ。 感じようとすれば感じられるじゃろう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/36
37: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>34 触は感覚器官が接触することなのじゃ。 六処は目耳鼻舌身体心などの感覚器官なのじゃ。 受はそれらの器官が刺激を受けることなのじゃ。 識は認識なのじゃ。 名色は名前とイメージなのじゃ。 >>35 それらによって有るものという観念が生まれ、生有るものという観念もあるのじゃ。 有愛であり、生有るものへの愛着なのじゃ。 それは観察の一例であり、自分の心が観えたならば囚われなくてよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/37
46: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>38>>42 それが未だ認識の優越性がわかっていないということなのじゃ。 自分の考え、自分の語ることだけは例外と思っているのじゃ。 本当に認識が本質的な物自体と言われるものとちがうものごとを認識しているならば、 そのように考えたり、語ったりすること自体も全て過ちと言うことになるのじゃ。 子供がお菓子を配るときなどに自分を数えるのを忘れるようなものじゃ。 思考や示唆のわなに陥る者は、この程度の論理さえ超えられていないのじゃ。 それ故に自らの論さえも否定する論にまでたどり着かなければならないのじゃ。 カントも今までの自分の論は全部間違いじゃと認識すれば、多少はよい論になったのじゃ。 >>43 それは別に罪ではないのじゃ。 悪い友とは付き合わなくて善いとお釈迦様も言っているのじゃ。 新しい門出を祝えないものは善いともではなかったのじゃ。 >>44 違うのじゃ。 自我が観念であると完全に気付き、もはや二度と自我を作り出さない状態なのじゃ。 少し忘我になった程度ならば元に戻ることも有るのじゃ。 >>45 おぬしがそのように観察したのならばそれでよいのじゃ。 自ら観察して気付いたことが自分にとって正しいのじゃ。 十二因縁も観察の例に過ぎないのじゃ。 囚われずに進むのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/46
68: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>47 十二因縁は論ではないのじゃ。 教えの例なのじゃ。 わしはカントは間違いとは語っていないのじゃ。 カント自身が自らの間違いを認めればイカス者になれたというのじゃ。 傲慢の故に自分が何を書いているのかもわかっていないのじゃ。 >>48 カントは船ではないのじゃ。 その程度の論は既にウパニシャッドでも語られているのじゃ。 インド哲学を知らんから自分の論が始めて語られるものと思っているのじゃ。 傲慢と無知をさらけ出している者なのじゃ。 >>49 ウパニシャッドを読むと善いのじゃ。 それが既に2000年も前に語られていることがわかるのじゃ。 >>50 そうじゃ、それならばまた苦を感じることもあるのじゃ。 それも習慣によるものであるがのう。 自ら実践して確めてみるのじゃ。 >>52 どういたしまして、またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/68
69: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>60 観察しているものを観察すれば自我が観られるじゃろう。 観察しているならばそのように観察しているのは何であるか観察してみるのじゃ。 何万回でも繰り返し観れば一回は観られるじゃろう。 それで十分なのじゃ。 >>61 無いのじゃ。 もはや自我が観念であり、本来無いものと気付くのが観照なのじゃ。 無いものと気付いたのであるからもはや無いのじゃ。 主体の無い認識があるだけなのじゃ。 >>62 そのような者達の語ることは悟りへの道なのじゃ。 どこにも行き着かない思索だけのものとは違うのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/69
81: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>71 同じところには行き着かないのじゃ。 哲学の行き着くところは絶望と依存しかないのじゃ。 悟りの道と法を知らないからのう。 同じようなことを考えてもそこが根本的な違いなのじゃ。 哲学とは実際には単なる修辞学なのじゃ。 >>74 哲学の批判は批判しているのではないとおぬしは先日書いていたようであるがのう。 すると経験の伴わない思考も批判していないことになるのじゃ。 愚かなことじゃ。 >>75 お釈迦様は六師外道を全否定しているのじゃ。 沙門果経などを読むのじゃ。 >>77 そのように考えているものを観察するのじゃ。 その主体を追求するのじゃ。 わしに訊く者を観察するのじゃ。 >>79 それで善いのじゃ。 意識が刹那にものごとを生み出し、解釈することが観えたのじゃ。 世界はそのように刹那毎に創られているものなのじゃ。 阿頼耶識がそれを作り上げているのじゃ。 恐れるのは未だ悟りを心底から得たいという願望がないからじゃろう。 全てを捨てて進む覚悟が必要なのじゃ。 >>80 1 違うのじゃ。 観察しようとすれば観察する者が自分と言う投射が起こるのじゃ。 それ故に観察している者を観察しなければいかんのじゃ。 今はわしに聞こうとしている者を観察するのじゃ。 わしの答えを読んでいる者を観察するのじゃ。 わしの答えを解釈している者を観察するのじゃ。 2 そうじゃ、観察できれば善いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/81
94: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>82 含まれないのじゃ。 西洋人が勝手に仏教哲学などと名づけているだけなのじゃ。 仏教は哲学ではなく法なのじゃ。 ウパニシャッドでさえアートマンは実践すべき法であると宣言しているのじゃ。 お釈迦様は自らが愚か者と知る者こそ賢者であると言ったのじゃ。 愚かでありながら自らを賢いと思っている者が愚者なのじゃ、とも言ったのじゃ。 語るべき所で語るべき言葉を語ることを知らない者は実に愚かなのじゃ。 >>84>>93 先ずは自分の手を観察して見るのじゃ。 ただひたすらに手を観察するのじゃ。 ここにしわが有るとか、毛が生えているとか詳しく観察してみるのじゃ。 それで何か反応があればそれを確めて進むのじゃ。 なければあるまで続けるのじゃ。 >>85 自我かあればそれは困難なのじゃ。 自分の観察と思って主体を投射してしまうからのう。 先ずは無我を目指すのじゃ。 それは恐れが有るからじゃろう。 全てを捨てる覚悟で進むのじゃ。 そうすれば全てになるのじゃ。 >>86 そうじゃ、観察している者が自分という感覚を観察してみるのじゃ。 観察しているものは自分ではないのじゃ。 それは主体無く起こるものじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/94
95: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>89>>91>>92 観察している者を観察できるのじゃ。 集中していれば複数のものごとを同時に意識できるのじゃ。 それは主体ではないからいくつも視点が有るのじゃ。 それが同時にできないと言う観念こそただ一つの主体があり、それが自分と思っているからなのじゃ。 それは集中している時にも実感できるのじゃ。 呼吸に集中し、それを制御している働きが心には有るものじゃ。 それが無ければ呼吸しながら集中するようなことも制御できないのじゃ。 ただ一つの自分があるという観念を捨てて全てありのままに受け容れればそれは観えるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/95
102: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>96 反応があれば確めてみるのじゃ。 なければあるまで続けるのじゃ。 >>97 追求しなくてよいのじゃ。 ただ観察して反応が有るか無いか確かめてみるのじゃ。 >>98 1 そうじゃ、む刹那に滅しているじゃろう。 漱石も胃潰瘍で死にかけたとき心が滅して驚いたのじゃ。 2 そのようになるじゃろう。 3 生滅するじゃろう。 4 生滅するじゃろう。 >>99 そうじゃ、観察しているのが自分と言う観念を滅するのじゃ。 主体を厭離するのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>100 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>101 観察している自分がいるという観念を観察するのじゃ。 続ければだんだん深く見えてくるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/102
107: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>104 それはおぬし自身が自ら実践して感じるしかないのじゃ。 他の誰も予測し得ないものじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>105 暫くそれでやってみるとよいのじゃ。 ゆれがなくなるかもしれん。 或いはゆれたほうが集中しやすいかもしれん。 自分のやり易いやり方で続けてみるのじゃ。 >>106 それでよいのじゃ。 雑念はながしていくだけでよいのじゃ。 更に精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/107
112: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>108 それが何かおぬしが実践して確めるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>109 どういたしまして、またおいでなさい。 >>110 悟りを得るのじゃ。 >>111 正しく観察することなのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/112
115: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>113 そのようなこともあるじゃろう。 死の予兆を感じるのじゃな。 身近な者が死に瀕していると体臭とか眼の光とかいろいろ予感することができるのじゃ。 それを光としてみるのじゃろう。 死が身近にあれば自分も危険かも知れんから体が警告するのじゃ。 潜在意識がそのようにみせるのじゃろう。 >>114 誰も他人を悟りに導いたり出来ないのじゃ。 お釈迦様でさえ道標になるだけじゃと言ったのじゃ。 本人のやる気が一番必要なのじゃ。 本心では悟りを求めていない者はいつまでも悟れないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/115
119: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>116 どういたしまして、またおいでなさい。 >>117 そうじゃ、自らを導くのじゃ。 やがてなくなるじゃろう。 全ての者が悟りを得るか、人類が絶滅するかどちらでもなくなるのじゃ。 自ら悟りを得て全ての者の道標となるが善いのじゃ。 >>118 死を超える道を真剣に探すようになるじゃろう。 もはやそこにしか逃れる道はないとわかっているのであるからのう。 真の修行者となるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/119
122: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>120 おぬし自身が観ようと思わない限りそれらの方法を使っても観えないじゃろう。 船があっても乗って水を漕いでいかなければ向こう岸にはつけないのと同じなのじゃ。 方法は全て川をわたる船のようなものじゃ。 船に乗るものに向こう岸に着こうという強い意志がなければなにをしても着かないのじゃ。 自らの意志を奮い起こして実践あるのみなのじゃ。 >>121 気がのぼってきたようじゃ。 症状がなくなるまで続けるのじゃ。 姿勢を善くしてその気が頭頂までぬけるようにするとサマーディに入れるのじゃ。 胸が痛いのはそこで気が止まるからなのじゃ。 胸椎が曲がっているのかもしれん。 姿勢を正して研究してみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/122
132: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>123 そうじゃ、合った方法は有るじゃろう。 しかし、やる気があればそれも重要ではないのじゃ。 やる気が一番大事なのじゃ。 >>124 できる者もいるじゃろう。 しかしおぬしは既に無理であったのであるから、無理じゃろう。 心に恐れがあり、避けていれば本心を追求し続けるのは難しいのじゃ。 >>125 悟りには辿りつかないのじゃ。 動機にはなるじゃろう。 >>127 そうじゃ、研究してみるのじゃ。 またおいでなさい。 >>128 何でも試してみると善いのじゃ。 観察していればそれが偽りならば偽りと気付いてもはや騙されなくなるのじゃ。 囚われれば何でも障害になるのじゃ。 囚われなければよいのじゃ。 >>129 難しいのじゃ。 チベット密教は集中だけを教えているからのう。 それも神仏に対する帰依によるものであるからそれらの神仏を強く信仰していないと無意味なのじゃ。 もはや文化遺産程度のものなのじゃ。 悟りを求めるならばオショーとかクリシュナムルティとかを読むけと善いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/132
133: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>131 悪いのではないのじゃ。 それが性質なのじゃ。 それを観察すればよいのじゃ。 更に精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/133
140: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>134 そうじゃ。 それも実践によって確めるのじゃ。 やる気だけで実践しなければ意味が無いのじゃ。 実践が全てなのじゃ。 >>135 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/140
144: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>141 今の環境をよく観察するのじゃ。 それが報いられた行いをしていたのじゃ。 金持ちならばよく布施などをしていた者じゃろう。 >>142 そうじゃろう。 頭に気が集中すると眠れなくなるのじゃ。 朝にすると善いのじゃ。 >>143 それも頭に気が上ったのじゃ。 意識が肉体の他にもあることを感じたのじゃ。 瞑想中にも現れるじやろう。 囚われずに進むのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/144
155: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>146 そうじゃ、心が許可したからなのじゃ。 心が許可した分だけ人は豊かになり、気分もよくなるのじゃ。 心が許可しなければ豊かになれず、気分もよくならないのじゃ。 そのような働きを観察してみると善いのじゃ。 >>147 そうじゃ、いずれは必ず手放すことになるのじゃ。 それならば自分から進んで手放したほうがよいのじゃ。 それによって永遠の意識に到達するので有るからのう。 有限なものによって無限を手にいれらるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>148 そうかもしれん。 最古のクイズとかいっておるのう。 クイズではないのじゃ。 >>150 手を観察するとよいのじゃ。 ここにしわが有るとか、脈が有るとか動かそうとすると動くとか詳細に観察するのじゃ。 そうすると何かが感じられるのじゃ。 >>151 それでもよいのじゃ。 実践していけば観察は深くなっていくじゃろう。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/155
156: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>152 よい気付きなのじゃ。 言葉も本来イメージなのじゃ。 更に精進あるのみなのじゃ。 >>153 悟りには無知なのじゃ。 その他の教育とかには実用的な価値は有るじゃろう。 なんでも読んでみるとよいのじゃ。 >>154 そうかもしれん。 資産があれば無理に仕事をしなくて善いのじゃ。 修行に専念するとよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/156
162: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>157 何を感じたのか観察するのじゃ。 どのように感じたのか観察するのじゃ。 それらを更に何度も観察するのじゃ。 ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。 >>158 どういたしまして、またおいでなさい。 >>159 もう苦しくは無いのじゃ。 苦しければ食べるはずであるからのう。 もはや体が死に向かっているのじゃ。 死に際にはもはや苦は無いのじゃ。 痛みなどは生きるための警報であるからのう。 体が死に向かえばいらない警報も切られるのじゃ。 >>160 おぬしがそう思うならばそうじゃろう。 実践によって確めるのじゃ。 実践が全てなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/162
163: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>161 ご苦労さんなのじゃ。 なかなか頭の善い王じゃ。 全ての他に自分が居ると気付いたのじ゜ゃな。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/163
169: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>164 そうじゃ、本来、死とは枯葉が樹から落ちるような自然の営みなのじゃ。 自然に見取るとよいのじゃ。 またおいでなさい。 >>165 手は身の内なのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>167 自分に気付ける者だったからなのじゃ。 観察している観察者にもいつか気付くかもしれんと思ったのじゃろう。 探していたのは正に自分であったと気付ける者と見抜いたのじゃ。 >>168 それはまだ無我の境地なのじゃ。 もはや自分が無くとも認識は有るものじゃ。 無我から更に今の認識が記憶に依存したものと気付いて滅するのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/169
174: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>170 わしにはできるがおぬしにできるかどうかはわからんのじゃ。 何でも試してみたらよいのじゃ。 崩壊するかもしれん。 実践あるのみなのじゃ。 >>171 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>172 それは思考ではなく認識なのじゃ。 判断しているのが認識であり、認識したことを操作するのが思考なのじゃ。 観察のためならばそれも使ってよいのじゃ。 ただひたすらに観察有るのみなのじゃ。 >>173 自分が探していたのは自分であったと気付くのじゃ。 全てを観察して全てで無いものは正に自分と気付くのじゃ。 それもまた実践によって気付くしかないものじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/174
177: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>175 そうじゃ、観察して確めるのじゃ。 またおいでなさい。 >>176 人が自分というものを認識するのは、認識する全てと対峙した主体という自覚からなのじゃ。 認識する対象の他に、認識する主体が有るという観念から自己観念が起こるのじゃ。 認識対象があれば、なにものかを認識する行為があり、認識する主体も有るという自覚が起こるからのう。 そして全てと切り離された自己観念による孤独感や不安感なども起こるのじゃ。 認識できる全てでは無いものを気付くことができる者はそれにも気付けるじゃろう。 精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/177
188: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>178 感覚ではないのじゃ。 意によって感じられるものではあるがのう。 現象なのじゃ。 >>179 そのようであるならば収入を求め、女子を求めるがよいのじゃ。 それが死に対して無力であると気付いてから修業に専念するとよいのじゃ。 未練が残らないように求めるものを得るとよいのじゃ。 >>180 それは実際におぬしが実践してみて感じるものじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/188
189: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>180 実践しなければ何も感じられないのじゃ。 おぬしだけが実践して感じるものであり、他人にはわからないことなのじゃ。 実際に観察して何を感じたか書くのじゃ。 >>181 嘘じゃろう。 そのような文献は知らんのじゃ。 嘘はいかんのじゃ。 >>182 死を感じて動揺したのじゃろう。 おぬしに罪は無いのじゃ。 安心するとよいのじゃ。 >>183 更にその全てを見ているものを観察するのじゃ。 それはもはや何も操作するものではないのじゃ。 ただみるだけのものであるのじゃ。 それに近づくにはただひたすらに観察在るのみなのじゃ。 >>184 そうじゃろう。 実践してみるとよいのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>185 そうじゃ、意志もまた観察されるものであるからのう。 全てを観察するとよいのじゃ。 そうすればみているだけのものに気付くじゃろう。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/189
197: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>190 何度か読んだのじゃ。 内容は忘れたのじゃ。 >>191 それでよいのじゃ。 観察した後に自分の手をどのように感じるか観察して見るのじゃ。 観察する前と何か変ったことがないか注意するのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>192 既に自分はないのじゃ。 全てが全てなのじゃ。 最初からそれだけだったのじゃ。 そのように感じるのじゃ。 >>193 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>194 嘘をついてばかりいると自分の本心もわからなくなってしまうのじゃ。 修行者は自らの本心を誤魔化す事無く進まなければならないのじゃ。 悟った者はよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/197
198: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>195 そのような理解でよいのじゃ。 何も私ではないというのが自分に気付いた段階なのじゃ。 無我になれば全てがわたしになるのじゃ。 まだ観念があるからなのじゃ。 主客がないら全ては主体なのじゃ。 全てが無であれば大悟徹底なのじゃ。 >>196 主体に気付くのじゃ。 何人もいるじゃろう。 おぬしも速やかに気付くのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/198
209: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>199 なくなるじゃろう。 もはや苦を感じる主体も無いのであるからのう。 苦がまだあれば無我ではないのじゃ。 >>200 どういたしまして、またおいでなさい。 >>201 主体に気付けば厭離が起きて、無我になるのじゃ。 同一ではないのじゃ。 何人もいるじゃろう。 >>202>>203>>204 それでよいのじゃ。 更にどんどん観察してみるのじゃ。 例えば右手だけ観察して、観察していない左手との違いが感じられるか観察してみるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/209
210: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>205 悟っていないのじゃ。 借りた知識を語っているだけなのじゃ。 >>206->>208 そうじゃろう。 意味に反吐が出るとか思っているのじゃ。 何も思わずに実践するとよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/210
218: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>211 そうじゃろう。 個が認識できるということはないのじゃ。 適当に語っているだけなのじゃ。 >>212 更に観察し続けるのじゃ。 そのように違いがわかるならば進んでいるのじゃ。 どんどん観察すれば更に違ってくるじゃろう。 それが観察による変容なのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 >>213 二十分も集中し続けられるならば気付けるじゃろう。 強い意欲も必要であるがのう。 本当に主体が見えそうになると、誰でも恐れが生じるものじゃ。 本能的に自分が無くなるという予感があるからのう。 それを乗り越えるには強い意欲が必要なのじゃ。 >>214 よいのじゃ。 自由なのじゃ。 >>215 悟りではないのじゃ。 思考が停止しているのじゃ。 どんどん続けたらよいのじゃ。 >>216 慈悲を以って接するとよいのじゃ。 そうすれば福楽も付き従うのじゃ。 あとは自由なのじゃ。 ナンパでもするとよいのじゃ。 >>217 それでよいのじゃ。 どんどん続けると善いのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/218
228: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>219 いない者にあうまでやり続けるのじゃ。 それがなんぱ道なのじゃ。 >>223 おぬしがそう思うならばそうじゃろう。 実践によって確めるのじゃ。 囚われずにすすむのじゃ。 >>224 聞くことも観察になるのじゃ。 注意深く集中して感じるのじゃ。 正しく見ることなのじゃ。 >>225 その全体を見ているものを観察するのじゃ。 今書いているものを観察するのじゃ。 特に区別は無いのじゃ。 方法は一年でも覚えられるものじゃ。 後は自分で進むしかないのじゃ。 >>226>>227 本当に悟ったならばもはや我はないのじゃ。 自分もないのじゃ。 そのように考えるのも自我から離れていないからなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/228
241: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>229->>233 みんな繋がっているのじゃ。 ただそうではないと思っているだけなのじゃ。 もはや他人も無いのじゃ。 物質も意識の現われなのじゃ。 それが独りということもないのじゃ。 それは他にかぞえられるものがある時にいわれるのであるからのう。 >>236 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>239 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/241
247: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>242 他人がいなければ繋がる意識という観念も無いのじゃ。 どこまでも他人という観念に囚われているのじゃ。 他人が無い状況がわかっていないのじゃ。 囚われずに進むのじゃ。 >>244 そうじゃ、それは自動的に起こるものじゃ。 自分がするとか、できたといのは誤りなのじゃ。 囚われずに進むのじゃ。 >>245 雑念が浮かんでも集中はしているのじゃ。 数息観などの瞑想をして雑念を流していくのじゃ。 一つのことを続けてやれれば集中しているといえるのじゃ。 実践有るのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/247
249: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>246 そのような時は瞑想を楽しむが善いのじゃ。 姿勢を正しくして瞑想をすれば自然に快が生じるものじゃ。 お釈迦様もむしろ瞑想の楽しみを味わうようにと言うのじゃ。 瞑想をすると人を超えた快が生じるのじゃ。 それは人が通常に感じられる喜びの五百倍にもなるというのじゃ。 人として最高の真の楽しみを味わうことができるのじゃ。 今の科学でも瞑想をすると脳の細胞がふえるというのじゃ。 肉体的なことでも精神的なことでも傷付いた脳が癒されていくのじゃ。 瞑想によって心も体も癒されていくのじゃ。 瞑想によっていずれは全ての苦を滅し、悟りにも到達するので有るからどんどん実践していくと善いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/249
255: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>250 最後の最後まで我から離れていないのじゃ。 我があるという自分の観念から全てを思考しているのじゃ。 水の一滴が自分を我と思わないように、物理的にくっついているものに我はないのじゃ。 自分の幻想から他人に語りかけ、自分の幻想を見て失望しているのじゃ。 カウンセリングを受けるとよいのじゃ。 おぬしに必要なのはよいカウンセラーなのじゃ。 >>251 そのようなものじゃ。 実践によって確めるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>252 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>254 それもできるじゃろう。 分別しているのは観念でしかないのであるからのう。 修業すれば観念を超えて観察する事も出来るのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/255
258: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>256 それで善いのじゃ。 更に優れた境地も有るのじゃ。 もはや言語をも絶する悟りの境地に進むとよいのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 >>257 それでよいのじゃ。 厭離が出来たのじゃ。 次は腕とか肩とか足とかをどんどん観察していくのじゃ。 全身が観察できればもはや自分の体という観念は無くなるじゃろう。 肉体のもたらす苦から離れられるのじゃ。 肉体が終われば感覚を観察していくのじゃ。 感覚の次は思考とか感情を観察するのじゃ。 最後には分別とか認識を観察するのじゃ。 わからなくなったらまた手を観察する事に戻ればよいのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/258
264: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>259 そうじゃ、自分のやり易いように観察すると善いのじゃ。 実践が全てなのじゃ。 >>260 そうじゃ、禅ではやっていないのじゃ。 集中ばかりしているのじゃ。 それだけではよほど才能の有るものしかサマーディに辿りつけないのじゃ。 >>261 五蘊を観察するのは、色受想行識の順なのじゃ。 色とは肉体なのじゃ。 受が感覚であり、想が思考とか感情なのじゃ。 行が分別であり、最後が認識になるのじゃ。 だんだん深くなっていくのじゃ。 >>263 行者病なのじゃ。 経に書いてある通りのことが少し瞑想しただけで出来たような気がするというのが幻覚なのじゃ。 言葉の意味も知らずに語っているのじゃ。 麻原彰晃と同じ者じゃな。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/264
273: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>265 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>266 どういたしまして、またおいでなさい。 >>267 それも瞑想なのじゃ。 眼を閉じて想を働かせるならば瞑想なのじゃ。 深く考えないでよいのじゃ。 実践が全てなのじゃ。 >>268 そうじゃ、厭離が出来ればよいのじゃ。 観察はその為に有るものであるからのう。 厭離が出来なければ観察ではなく、実践すべきものでもないのじゃ。 >>270 それも観念なのじゃ。 あるものであるが言葉にすれば観念なのじゃ。 観念の指す所は実際とは別のものになるのじゃ。 >>271 それは認識であり、分別の働きなのじゃ。 認識も分別という記憶による照合の過程が有るのじゃ。 それから記憶に有るものと同じと認定する働きが起こるのじゃ。 そのような過程も観察すると善いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/273
276: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>274 そうじゃろう。 認識は思考よりも早く一瞬にして起こるものじゃ。 無意識に働くものであるからのう。 よほど強い集中力と観察力が必要なのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 >>275 心の力を働かすのじゃ。 集中することでも観察する事でも心の力を使用して行うのじゃ。 それが瞑想なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/276
280: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>277 そのような理解でよいのじゃ。 観察して確めるのじゃ。 実践がすべてなのじゃ。 >>278>>279 それは自ら観察して確めることじゃ。 推測も思想も必要ではないのじゃ。 実践が全てなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/280
288: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>281 記憶は分別と認識に関わっているのじゃ。 認識するということは記憶したものごとを観念として認めることであるからのう。 それらの記憶による分別と認識がなくなった状態なのじゃ。 そうすれば大悟徹底なのじゃ。 >>283>>284 大事ではないのじゃ。 何も感じなければ感じないと観察すればよいのじゃ。 感じようとすれば偽の感覚をつかむじゃろう。 実践することが大事なのじゃ。 >>285 骨には無いのじゃ。 もはや生きていないからのう。 それは観念なのじゃ。 意識は自由に有るものじゃ。 それは夢の中で生きているものにも感じられるのじゃ。 物ではなく意識を感じるのじゃ。 >>286 自分を見なければよいのじゃ。 そうすれば悟らないでいられるじゃろう。 好きなときに自分を見て悟ればよいのじゃ。 >>287 そう言えるじゃろう。 更に深く観察するのじゃ。 どこまでも主体を追求して進んでいく時に、修業の道を進んでいると言えるのじゃ。 知識や記憶に囚われてはいかんのじゃ。 囚われずに進むのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/288
293: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>289 それは思いすぎなのじゃ。 行為があれば行為として観察してよいのじゃ。 行為を行為としないことは出来ることではなく、するべきでもないのじゃ。 ただありのままに自分が観られれば、行為の主体がなくなるのじゃ。 その時にも未だ行為は主体なくしてあるものじゃ。 観念が無くなれば行為すらも無になるのじゃ。 それは無にするのではないのじゃ。 無にしようとすればそれが行為になるのじゃ。 観念が無い時に行為も自ずから無になるだけなのじゃ。 ただひたすらに自分を見極めることだけが目指すべき指標なのじゃ。 >>290 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>291 記憶や習性は残ったりするのじゃ。 それが報いの元になるのじゃ。 転生しても会うことも有るのじゃ。 以前の習性が残っていてわかったりするのじゃ。 死んでしまえば修行は無理なのじゃ。 夢の中にいるのと同じ意識であるからのう。 自分の存在すら定かではないのじゃ。 肉体があれば修業もできるのじゃ。 自らの苦が無くなれば周りの者にも影響が及ぶじゃろう。 精進あるのみなのじゃ。 >>292 おぬしは既に体験しているじゃろう。 手を観察していたら物のようにみえたというのが厭離なのじゃ。 観察する事により、自分や自分の身が自己同一化観念から離れるのじゃ。 自己同一化から離れるから厭離というのじゃ。 更に精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/293
299: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>294 自分がしてきたことの報いによって良いところや悪い所に生まれかわるじゃろう。 その間は意識だけがあるじゃろう。 寝ている意識と同じなのじゃ。 >>295 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>296 そうじゃ、なるのじゃ。 おぬしは既に出来たのじゃ。 更に身体の全てを観察すると善いのじゃ。 >>297 線香や水も心がこもっていれば意味が有るのじゃ。 イメージによって供養するとよいのじゃ。 好きだったものをイメージでつくり、与えるところをイメージするのじゃ。 心は伝わるじゃろう。 現世も夢幻には変わりないのじゃ。 自らの思うとおりに関わって善いのじゃ。 >>298 それをそのままに観察すればよいのじゃ。 おなかがきりきりするとか、心身が動かないとかのう。 観察すればそれが自分の反応ですらないと気付くのじゃ。 そして厭離されるのじゃ。 今ここで起きたことをただありのままに見ていけばよいのじゃ。 そうすれば少しずつでも進んでいくのじゃ。 でかい山に裾野から少しずつ進んでいくようなものじゃ。 諦めれば絶対に上れることは無いのじゃ。 諦めずに続ければどんなに高い山でも登ることが出来るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/299
306: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>300 どういたしまして、またおいでなさい。 >>301 それらも全てそのままに観察すると善いのじゃ。 その恐怖があるせいで喉元が抑えられて自由な言動ができないと観察するのじゃ。 恐怖という感覚が強まれば強まるほど自分がそれに支配されると観察するのじゃ。 そのように考えることも逃避なのじゃ。 恐れに勝てないとか観られないとか、隔離できないとか、全て逃避なのじゃ。 そのように逃避していると観察するのじゃ。 ただひたすらに観察し続けるのじゃ。 >>302 驚くことは感情といえるじゃろう。 よく観察して確めるのじゃ。 >>304 思い出せばよいのじゃ。 それはありえないとか言い聞かせられるからなのじゃ。 子供の頃はよく覚えているものじゃ。 集中して生まれる前のことを思い出そうとすれば思い出せるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/306
310: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>307 そうじゃ、観察していないのは逃避なのじゃ。 しかし、感覚で抑えるとかはしなくてよいのじゃ。 逃避していることもまたありのままに観察するのじゃ。 そうすれば逃避は反応であるからのう。 ただひたすらに観察するのみなのじゃ。 >>308 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>309 それだけではなく他の感じも有るじゃろう。 自分の身体が自分のものでなく感じるとか、離れてみている感じがするとかなのじゃ。 それはおぬしが実践して感じるものなのじゃ。 実践によって学んでいくのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/310
314: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>311 逃避していることも観察できるのじゃ。 恐れに打ち勝てないと思うことも逃避なのじゃ。 恐れへの反応が逃避なのじゃ。 それができないとか、区別がつかないというのも恐れから逃避しようとしているのじゃろう。 逃避を戒めるのは修業も放棄する者のためなのじゃ。 観察すると決心したならばもはやありのままに観察すればよいだけなのじゃ。 >>312 そうじゃ、おぬしはもうしているのじゃ。 更に精進あるのみなのじゃ。 >>313 興味がなかったからじゃろう。 注意すれば思い出すのじゃ。 無我になることなのじゃ。 前世を思い出すものは多いが無我になるものは少ないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/314
319: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>315 そうじゃ、全てを観察し続けるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>316 またそのように変化があるまで観察し続ければよいのじゃ。 おぬしはそのように感じたということは自分で厭離したと感じたのじゃ。 おぬしにとってはそのような感覚なのじゃ。 自己同一化がなくなったのじゃ。 その感じがどのようなものであるのかは人によって違うのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/319
322: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>320 おぬしがそれでよかったと思うならばそれで善いのじゃ。 それによって出世するかもしれんのじゃ。 すべておぬし次第なのじゃ。 >>321 そのような者はすでにわしの裁量する者ではないのじゃ。 自ら名乗ろうと思えば名乗るじゃろう。 この世の衆生全てが無我になり、大悟徹底しようともおぬし独りが悟りを得なければ全て無意味なのじゃ。 他人ではなく自分を観るのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/322
324: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] ↑そのように思うならばよいことじゃ。 出世はしないかもしれんがのう。 資産があれば働かなくても善いのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/324
343: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>328 あるのじゃ。 不死の境地に到達しない限り、全ては虚しく消えるのみなのじゃ。 精進して不死の境地に至るがよいのじゃ。 >>340 ご苦労さんなのじゃ。 正に菩薩の行ないじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/343
350: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>342 へその下ではなく外腹斜筋なのじゃ。 丹田から腹の下をまわっているのじゃ。 まわしのような筋肉なのじゃ。 ここに力を入れると腹も安定するのじゃ。 意識は呼吸とか眉間とか胸の真ん中に集中するのじゃ。 丹田でもよいがのう。 >>345 ただひたすら集中し、自我を見るのじゃ。 そうすれば無我になり、無認識にも至れるのじゃ。 それが大悟徹底の境地なのじゃ。 >>346 ご苦労さんなのじゃ。 正に菩薩の行ないじゃ。 >>347 どういたしまして、来年もよろしくなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/350
351: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>349 血とか気が集まってきたのじゃ。 厭離しようとしなくてよいのじゃ。 ただひたすらに観察していれば厭離は起こるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/351
355: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>352 善かったのじゃ。 あけおめことよろなのじゃ。 >>353 あけおめことよろなのじゃ。 >>354 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/355
364: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>356 そうじゃ、変容を感じるまで観察するのじゃ。 しかし、変化させようとか思わなくてよいのじゃ。 ただひたすら観察し続ければ変容は自ずから起こるものじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>357 そうじゃ、自我は有るのじゃ。 ただひたすら原因を追求し、原因から苦が起こる事を観察するのじゃ。 そうすれば苦も消えるのじゃ。 自我を滅することも出来るのじゃ。 心身の全てを観察するとか、空と観じるとかすれば自我も滅するのじゃ。 名前とイメージを観察したり、空と観ることでも滅するのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>358 そうじゃ、その恐れがあれば悟りもこないじゃろう。 そのような理解でよいのじゃ。 自我は自分ではないから明け渡してもよいのじゃ。 自我が観念でしかないとわかればそれも可能なのじゃ。 そのような機能も有るじゃろう。 自我とは何か信仰によって理解してもそのような矛盾や恐れはなくなるのじゃ。 >>360 膝と股間の中間でもよいのじゃ。 自分のやり易い位置でよいのじゃ。 いろいろ試してみると善いのじゃ。 >>363 アドラーは少々観念的なようじゃ。 社会的に正しい観念がよいと思っているのじゃ。 それもまた反応に過ぎないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/364
371: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>365 おぬしがそれでやり易いならばよいじゃろう。 なんでも試してみるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>366 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>367 それを実践して自分にあっていると感じるならば続けるとよいのじゃ。 何でも試してみるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>368 ゆるすのじゃ。 これからは善事を積むとよいのじゃ。 善事によって償えば善き者となるのじゃ。 福楽は付き従い、死んでも善いところに産まれるじゃろう。 >>369 はじめはそこまで観察しなくて善いのじゃ。 最初は五感を観察してなれてきたらそれを感じるものとかを観察したらよいのじゃ。 わからなくなったら五感の観察に戻るのじゃ。 基本が大事なのじゃ。 実践有るのみなのじゃ。 >>370 あけおめことよろなのじゃ。 それは無我を説いているのじゃ。 見られたものが見られただけにならばそこには見る主体がないのじゃ。 見る主体が無いからそこにはいないのじゃ。 この世にも他の世にも中間にもいないから無我であり、苦の消滅なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/371
382: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>372 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>373 こちらこそよろしくなのじゃ。 またおいでなさい。 >>374 それも観察したほうが善いのじゃ。 今ここで感じることを全てありのままに受け容れてみるのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 >>375 それでよいのじゃ。 例え己の母親でさえ他人が救うことは出来ないのじゃ。 人は自らを救うことができるだけなのじゃ。 自らの修行に専念すると善いのじゃ。 思うままに進むのじゃ。 >>376 例えば自分ではまだ自我が観念でしかないと知らなくとも、信頼できる者の言葉によって信じることが出来るのじゃ。 それによって自我を失う恐れも軽減して無我に進むことも出来るのじゃ。 それが信仰によって自我を理解することなのじゃ。 真の理解でなくとも無我への橋渡しになるものじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/382
383: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>377 できるかもしれん。 ひとによって違うじゃろう。 状況によっても違うじゃろう。 実践によって確めるしかないのじゃ。 >>378 思考も感情も起こらない状態なのじゃ。 無我でも観念は有るから心は動くのじゃ。 思考も感情も自我を主体としていないから無我でも働くのじゃ。 >>379 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>380 日常でも動かないならば悟っているのじゃ。 動く者は悟っていないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/383
387: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>384 必要ないのじゃ。 気付きは思考よりも早くやってくるものじゃ。 それを他人に説明したりするために思考は有るのじゃ。 >>385 それでよいのじゃ。 さまざまな流れがあるじゃろう。 一つ一つ気づいていくのが進歩なのじゃ。 更に精進あるのみなのじゃ。 >>386 識無辺定の状態なのじゃ。 意識が肉体の外にもあると認識したのじゃ。 思考も肉体の外にもあるものじゃ。 肉体と意識に本来区別は無いのじゃ。 そのようなこともあるのじゃ。 一度に一つのことに自己同一化していると感じられるのじゃ。 サマーディも一つの対象に没入することであるからのう。 それにも囚われずに精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/387
396: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>388 そうじゃ、使っているのじゃ。 使うことも使わないことも出来るのじゃ。 自在なのじゃ。 >>389 どういたしまして、またおいでなさい。 >>390 悟っていないのじゃ。 善人ではあったようであるがのう。 >>391 そうじゃ、それによって普遍の自己が妄想されるのじゃ。 実は刹那毎に起きているのであるがのう。 死んでも寝ていても思考は有るじゃろう。 思考は肉体にとらわれないのじゃ。 肉体の無い無色の世界では意識だけで在るが思考もできるものじゃ。 >>392 そのようなことを思わずただありのままに観察するのじゃ。 思えばその通りに観えるものじゃ。 主体が感情を引き起こしたと思っていれば、そのように観えるのじゃ。 ただありのままに観察する事が大事なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/396
397: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>394 それも厭離の感覚なのじゃ。 他にも自分じゃないように感じるとかの感覚が有るじゃろう。 ただありのままに感じるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>395 それはもはや成功といってよいのじゃ。 資産なしで職を失うものもいるじゃろう。 そのような者に比べれば大成功なのじゃ。 これからは成功を広げればよいのじゃ。 初めはやり方もわからなくて苦労も多かったであろうが、これからはもはや楽な道なのじゃ。 初心に戻ってこれから資産を築くつもりで頑張るとよいのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/397
403: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>398 できるかもしれんのじゃ。 真心があれば通じることも有るのじゃ。 供養してみるのじゃ。 悟らなくとも自ら修行して心が不動になれば母親にも通じるじゃろう。 実践あるのみなのじゃ。 >>399 浄土思想に縁が有るものじゃな。 禅にも興味が有るようじゃ。 両方を統合するような法を探しているのじゃな。 >>400 悟っていなければ思考が起こるのをとめられないのじゃ。 感情もとめられないのじゃ。 誰かに馬鹿にされたら怒り、攻撃のための思考も起こるのじゃ。 悟れば思考をとめることも使うことも自在なのじゃ。 怒らないことも怒ることも自在なのじゃ。 心は自由な道具となるのじゃ。 >>401 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/403
404: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>402 善いのじゃ。 どんどん実践すると善いのじゃ。 何でも試してみるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/404
414: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>405 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>406 善いことじゃ。 実践して安楽に至ると善いのじゃ。 またおいでなさい。 >>407 そうじゃ、観察して厭離するのを感じるのじゃ。 聴覚は鐘を使うのがよいのじゃ。 他の音が出るものでもよいのじゃ。 いろいろ試してみると善いのじゃ。 >>408 そのような理解でも善いのじゃ。 実践して確めるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/414
418: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>415 それでよいのじゃ。 アートマンがわかったとか、理解できたならばそれはアートマンではないのじゃ。 アートマンとは否定によってのみ表される法であるからのう。 ただ実践すべきものであるのじゃ。 本当の私とかただ観ているものですらもないのじゃ。 観念でも無いものじゃ。 心臓の奥に集中するための対象なのじゃ。 そのように実践すれば認識されることの無い認識が現れるのじゃ。 それまで実践あるのみなのじゃ。 >>416 痛いのもにおいも観察してよいのじゃ。 どんどん実践するとよいのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>417 そのような理解でよいのじゃ。 実践によって確めるのじゃ。 対象の無いとき、認識も無いと観察できれば変容も起こるじゃろう。 実践あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/418
424: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>419>>420 違うのじゃ。 空の法と近いのじゃ。 観念を滅するための観念なのじゃ。 ただ実践によってのみ感得されるのじゃ。 実践によって変化が現れたならばされでよいのじゃ。 更に実践あるのみなのじゃ。 >>421 自分の好きなことや楽しいことをしていったらよいのじゃ。 それによって技も知識も磨かれて金も稼げるのじゃ。 一万時間も練習をやればどの仕事でも一流になれるというのじゃ。 それほどまでに練習できるのは本当に好きなことだけなのじゃ。 自分が何を好きで楽しめるのか本心をどこまでも追求して行くのじゃ。 そこに道は見出されるのじゃ。 >>422 そうじゃ、それら全てが観察して厭離できれば無我から無認識にも至るのじゃ。 迷ったらいつでも手を観察する事に戻るのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>423 どういたしまして、またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/424
428: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>425 真理とは人を安楽にする法なのじゃ。 一切を空と感じれば苦は無くなり、悟りにも導かれるのじゃ。 思考も止まるならばそれを見ているものを観察すると善いのじゃ。 思考が止まったとわかるのはそれを見ているものがあるからなのじゃ。 思考が止まってもそれを認識するものとは何か、観察によって確めるのじゃ。 そのように観察していくと主体ではなかったものが次々になくなり、悟りにも導かれるのじゃ。 >>426 そのようなものじゃ。 今のチャンスを生かして実践あるのみなのじゃ。 >>427 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/428
435: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>430 例えば四万十川の砂が幾粒あるのか知ればそれは事実であるが何の役にも立たないものじゃ。 法則などは生活の役に立つ真実で有るが人の苦を滅することは出来ないのじゃ。 人の苦を滅し、永遠の安らぎである悟りに導く方法こそ真理と呼び、伝えていくべきものなのじゃ。 そうじゃ、悟りは更に先に有るのじゃ。 精進有るのみなのじゃ。 >>432 そうじゃ、心を止めて心を見るのじゃ。 それでこそ観察も完全になるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 >>433 連想とか空想と呼ばれるのじゃ。 雑念なのじゃ。 それも流していけばいずれ止まるのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 >>434 それは悟りによって知ることの出来る知識では有るが、それを知ることが悟りではないのじゃ。 悟らなくとも知ることが出来るものも居るのじゃ。 自我を滅し、認識をも滅したら悟りなのじゃ。 精進あるのみなのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/435
440: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>436 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>437 全てを完全に観察すれば自我も観られるのじゃ。 それらの心身全てが厭離されれば自分と言う観念も在り得ないからのう。 肉体も認識も厭離してしまえば自我も滅するのじゃ。 記憶も観察すると良いのじゃ。 それは認識の能力になるのじゃ。 ものごとを分別し、名前と形を決めるのに使われているのじや。 >>438 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/440
445: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>441 そうじゃ、実践すればできるじゃろう。 実践しなければ出来ないじゃろう。 実践が全てなのじゃ。 >>444 それも原因から観察できれば消えるのじゃ。 嫌いな原因などを追究して原因から嫌いという感情が起こり、見たら苦になると観察するのじゃ。 それができれば消えるのじゃ。 実践あるのみなのじゃ。 悟ればもはや他人も認識しないじゃろう。 一切の苦の根本である観念も無いからのう。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/445
449: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>447 観念が無ければもはや苦も無いのじゃ。 ただあるがままにあればよいのじゃ。 どのように付き合うのかと思うことも無いのじゃ。 >>448 常に自分の状態に気をつけていれば隙は消えるのじゃ。 油断すると隙も生まれるのじゃ。 常に注意深く自分に気をつけているのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/449
458: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>451 同じとは言えないのじゃ。 それは自ら変えることもできるからのう。 報いは変えられないのじゃ。 善事を積むとよいのじゃ。 >>452>>457 それでよいのじゃ。 更に実践あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>453 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。 またおいでなさい。 >>455 欲に囚われている者が多いからなのじゃ。 常に監視しておくと良いのじゃ。 >>456 悟っていないのじゃ。 愚痴の多い老人なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/458
466: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>459 どういたしまして、またおいでなさい。 >>462 疑心暗鬼でも良いのじゃ。 どんどん疑ったらよいのじゃ。 疑い得ない真実だけを求めたらよいのじゃ。 それは実は友人を信じている振りをしながら疑心暗鬼にならないようにするとか。 疑っている自分が格好悪いから疑っていない振りをしたいとか。 そのような苦かもしれん。 自分の本心を受け入れ、深く観察する事でその苦も消えるじゃろう。 >>463 お釈迦様はこのように言って居る。 50 他人の過失を見るなかれ。 他人のしたこととしなかったことを見るな。 ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。 ダンマパダの一句なのじゃ。 常に経典を読んで心を整える道を探すのじゃ。 そして実行すれば心も守られるのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/466
467: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>464 1 ないのじゃ。 2 アートマンではないのじゃ。 3 アートマンは無いのじゃ。 観念を破戒するための観念なのじゃ。 4 それはまだ阿頼耶識ではないのじゃ。 分別が有るからマナ識じゃな。 5 マナ識じゃな。 6 それもマナ識じゃな。 自分の悪口とか分別しているからのう。 脳みそじゃな。 7 不快であるから体に反応が有るのじゃ。 8 マナ識が分別するのじゃ。 9 そうじゃ、常には無いのじゃ。 名前とか形態のイメージなのじゃ。 10 分別から起こるものじゃ。 マナ識じゃな。 11 マナ識じゃな。 12 マナ識じゃな。刺激も幻想なのじゃ。誰も作らないのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/467
468: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>465 出来ないのじゃ。 知識では悟りは得られないのじゃ。 観察して気付くことが大事なのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/468
475: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM [sage] >>469 自分の本心を観るのじゃ。 いつでも答えはそこにあるのじゃ。 ヘーゲルには無いのじゃ。 >>471 それも妄想じゃろう。 今ここにあるものだけを観るのじゃ。 >>472 油断とか隙がないようにするのじゃ。 そうすれば素早い認識の働きも観察できるのじゃ。 妄想でも妄想から覚めるための妄想なのじゃ。 全てに注意して実践あるのみなのじゃ。 >>473>>474 そのような理解でよいのじゃ。 他人もまた妄想なのじゃ。 自分のしたこととしなかったことだけを観て主義用に励むのじゃ。 http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/475
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