鬼和尚に聞いてみるスレ part5 (1001レス)
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21(3): 2015/02/27(金)07:13 ID:LC3de7YgO携(1/57) AAS
鬼和尚、おはようございます。
毎日、できるだけ長く座っています。
鬼和尚のご指導で、集中すること、ありのままを観察すること、ひたすらそれに没頭することの快楽を知ることができました。
その瞑想の成果で、かなり早い段階から、瞑想を知る前の自分であれば不安に苛まれ、いてもたってもいられないような事態に直面しても不安を感じず、その意味で「苦」を免れています。
しかし一方で、この苦を免れているという感覚は、「現実逃避」の技術が身に付いただけではないのかという念も強くあります。
仮に逃避であろうと、苦を免れているという感覚は実生活の上でありがたい変容ではありますが、それ以外に格別の意識の変容も未だ自覚できません。
強く前向きに生きるための、元気の出る説法をお願いします。
省1
27(1): 2015/02/28(土)02:29 ID:LC3de7YgO携(2/57) AAS
>>25
鬼和尚、ありがとうございます。
>人が自らの心を静めコントロールしたり、癒すことが出来てもそれは逃避ではない
→まさにその通りでありますね。
>世間の常識ではそのようなことは出来ないとされている
→鬼和尚のご指導の通り「止」「観」「苦滅」の法を実践することは、難しいことは何もなく、ある程度のコントロールが可能になると、そのありがたさをあっさり忘れてしまいますが、鬼和尚とご縁を得たこては、真に希有なることだと感謝しております。
>自らの心をコントロール・・・出来るという真実を受け入れるならば、それがもはや世間の常識を超えた変化となる
省7
29(1): 2015/02/28(土)16:38 ID:LC3de7YgO携(3/57) AAS
鬼和尚、こんにちは。
>>21 で、瞑想の成果で、かなり早い段階から、・・・(ある)意味で「苦」を免れています。
と書きましたが、思い返してみると、
1)最初「止」の行で集中力を高め、雑念が整理され、己の感情に振り回されることから解放された実感をある程度得た段階で、瞑想に私が求めたものは得られたと思いました。
2)しかし、止の行の効果の実感が確実なものになるまでは、心の観察に踏み込むのが恐ろしく感じていました。
3)記憶と無意識の反応である感情の仕組みを身体で理解したことによりその恐れは克服でき、そこから一歩進んで自分の心の深奥を観察する「観」の行に取り組もうといろいろ試しても、観察が深奥まで届かず、表面的なことしか観えて来ませんでした。
4)観察を深める試行錯誤を一旦中断し、初心に戻り、「止」の行を深めようと姿勢や腹式呼吸に細心の注意を払い取り組む間に、丹田に陽気を感じるようになり、子供のころに雑誌で読んだうろ覚えの仙道気功の知識で、陽気を意念で誘導してみると、胸の上部まで陽気がじわじわ上がり、驚きました。
省6
33(1): 2015/03/01(日)00:24 ID:LC3de7YgO携(4/57) AAS
>>32
鬼和尚、ありがとうございます。
がんばりますo(^(∀)^)o
67(1): 2015/03/09(月)19:44 ID:LC3de7YgO携(5/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
いつも、長文お許しください。
『禅と悟り』というサイトで、禅宗における悟りの分析について読でみました。
まず、修行により禅定=サマディを体得し、その上で自らの内側に悟り(=仏性)を探し続ける、悟りとは何かを自らに問いつづける。
おそらく、その問い以外何もない状態で、
己に問い続けても、実感をえられない。
そこで師匠に悟りとは何かと尋ねると、蹴られたり殴られたりして我に返り、その瞬間に悟る。
省17
70(1): 2015/03/09(月)21:57 ID:LC3de7YgO携(6/57) AAS
>>69
鬼和尚、ありがとうございます。
「私とは何か」
瞑想で、思考の少ない状態になり、その状態を維持しようとする意思、その状態を監視している意識が自分だと思います。
ですから、思考の主体、思考する行為、思考の対象の全てが自分と感じています。
ここに、思考や感情は記憶に基づく観念とその反応に過ぎない、観念に過ぎないものに実体はない。従って自我には実体はないという無我についての理解を挟み込んでもよいのでしょうか?
思考の理解を挟むとありのままの観察にならず、いつまでたっても実感は得られないのではないかと思いつつも、であるからこそ、観念の破壊になるのかなと思ったりもします。
省5
76(1): 2015/03/10(火)21:27 ID:LC3de7YgO携(7/57) AAS
>>74
鬼和尚、ありがとうございます。
がんばります。
(´・(ェ)・`)/
84(1): 2015/03/13(金)18:21 ID:LC3de7YgO携(8/57) AAS
>>74
鬼和尚、こんばん。
「私とは何か」
もう一度観察してみました。
1)
前回>瞑想で、思考の少ない状態になり、その状態を維持しようとする意思、その状態を監視している意識が自分だと思います。
今回)意思は背景にあるだけで、観察時に自分だと感じられるものには、ふくまれないのかもしれない。
省5
85(1): 2015/03/13(金)19:39 ID:LC3de7YgO携(9/57) AAS
>>74
先ほどの書き込みのあと30分ほど座ってみたところ、チョピッと違う観察結果であります。
まず、
A),思考の対象はそれが自分の脳内の状態であっても、瞑想中にそれが自分と強く感じられるものではない。
次に、
B),その状態の監視行為(=思考行)為は、必ずしも自分の行為と強く意識されていないときもある。
ただ、
省3
87(1): 2015/03/13(金)21:28 ID:LC3de7YgO携(10/57) AAS
>>86
鬼和尚、ありがとうございます。がんばります。
(´(∀)`)/
109(1): 2015/03/20(金)01:44 ID:LC3de7YgO携(11/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
以前、鬼和尚に2ちゃんで前世を見ていただいた際に、教師だか宗教家だか、聞きなれない漢字の仕事だったと教えていただきました。
今も、同じように見えますでしょうか?
私は、現在ピンチであります。
瞑想実践のお陰で、精神的には落ち着いているのでありますが、本来であれば、不安に苛まれていてしかるべき、状況であります。
省3
112(1): 2015/03/20(金)21:52 ID:LC3de7YgO携(12/57) AAS
>>110
鬼和尚、ありがとうごさいます。
>心が動揺しなければ必ず道は見つかる
>どのような結果になっても心が不動ならばそれで良い
>諦めたり、自分は失敗したと心によって思わなければ、既に成功しているのじゃ。
全ての言葉が心にしみます。
現実を受け入れることを、諦めではなく、新たな展開への好機ととらえ、不動心でがんばるであります。
省2
132(1): 2015/03/28(土)21:00 ID:LC3de7YgO携(13/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
無門関第27則:不是心仏
南泉和尚、因みに僧問うて云く、「還(かえ)って人の与(た)めに説かざる底の法有りや?」。
泉云く、「有り」。
僧云く、「如何なるか是れ人の与(た)めに説かざる底の法?」。
泉云く、「不是心(ふぜしん)、不是仏(ふぜぶつ)、不是物(ふぜもつ)、」。
や、
省9
134(1): 2015/03/28(土)22:17 ID:LC3de7YgO携(14/57) AAS
>>133
鬼和尚、ありがとうございます。
最近、瞑想が徐々に深まり、集中する意識も薄まり、無思考の「質(?」の純度が高まってきて、途切れ、ふっと「雑念」がわく。
その「雑念」の見えかたが、睡眠中の「夢」のように一瞬見えたのです。
何等大袈裟なことではなく、とるに足りないことではありますが、そんなことがありました。
(´(∀)`)/
136(1): 2015/03/29(日)23:33 ID:LC3de7YgO携(15/57) AAS
>>135
鬼和尚、ありがとうございます。
>雑念が起こる瞬間を観ることでそれとの自己同一化が滅する
>深い瞑想の中ではそのような微妙な心の働きが観える
確かに、観察力がついて来ていると思います。
瞑想中だけでなく、睡眠中でも、潜在意識が見ている映像により示唆される「チエ」の片鱗みたいなもの(?)を感じ取れるような気がする時もあります。
省1
137(1): 2015/03/30(月)09:36 ID:LC3de7YgO携(16/57) AAS
鬼和尚、おはようございます。
>>135 で
>そのようなことが大事 とご指摘いただきはじめて思ったことではあるのですが、
雑念が睡眠中に展開される「夢」のように見えたと言うことは、あともう一歩で「観照」に至るところまで近づいているのではないか?と期待が高まります。
勘違いでありましょうか?
仮に観照が起こり、自我を滅し、無我の実感に至ったとして、その時点で残る自我のものならざる「意識」は、遍在する意識、全体の意識 (普遍性の中に溶け込むような意識みたいなものかなとイメージしてるのですが)のように感じられるものなのでしょうか?
それとも、「意識」を滅するまでは、「無我」の実感あってもなお「個」に残る意識みたいな感覚なのでしょうか?
省2
140(1): 2015/03/30(月)21:04 ID:LC3de7YgO携(17/57) AAS
>>139
鬼和尚、ありがとうございます。
>無我になっても認識があればまだ世界はある
→無我かつ認識があって見る世界は、自我がない世界でありますから、世界は一つと認識されるのでしょうか?
。
>認識も滅すれば世界は無く、行いも無い
分別がなくなる故に、一切は夢幻
省5
143(1): 2015/04/01(水)06:31 ID:LC3de7YgO携(18/57) AAS
>>142
鬼和尚、ありがとうございます。
>自我があれば自分のものと、自分のものではないものがある世界がある
>無我になれば自他のものへの区別が無くなり、世界は一つと見えるのじゃ。
空間認識の欠如=空間の中での自分の位置づけという感覚がなくなり、宇宙との一体感を実感したりもするようになるのでしょうか?
それとも、宇宙との一体感などの感覚は、「サマディー」や「無我」の時点で既に実感できるものなのでしょうか?
鬼和尚が誓願に付き説かれるのは、認識を滅するところまで至れば、そこは既に現世に対する一切の意味も価値も見出だせない、「絶対幸福」のような境地であり、「法を説く」という強い意思がなければ、生存を維持する意思も起こらないからでしょうか?
省2
146(1): 2015/04/01(水)22:51 ID:LC3de7YgO携(19/57) AAS
>>145
鬼和尚、ありがとうございます。がんばります。
(・(ェ)・)/
155(1): 2015/04/04(土)16:55 ID:LC3de7YgO携(20/57) AAS
不ニであり、自他の別がないのであれば、死人もこれから生まれてくる人の別もないわけで、死者が迷いの中にいるとしても、それも、迷いのない死者と何等変わりはないと言うのが道理かなと思うのであります。
問題は生存中の個々の迷いでありますが、これもまた、「不ニ」の実感が得られるまでは人類共通の迷いでありましょいから、自分から積極的に迷いから脱却しようと志さない限り、輪廻があろうとなかろうと、他の誰かとしての自分が迷い苦しみ続けるのでしょう。
その「不ニ」なる実感と言うのをなんとしても得たいものだと思うのであります。
直接知る人でも歴史上の人でも、死者は自分の潜在意識中に生きており、それが、「ちえ」を授けてくれたり、助けてくれたりすることがあるのかなと思えることがあることは、幸せなことであり、彼等が助けてくれるように、出来るだけ正直に生きて行きたいものであります。
鬼和尚、こんな理解でも良いでしょうか?
(´・(ェ)・`)/
159(1): 2015/04/05(日)19:42 ID:LC3de7YgO携(21/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
鬼和尚は、悟る以前、前世の記憶をもつものとしての自我を持っていたとのことでしたが、それは修行の過程で、前世を知るに至ったのでしょうか?
また、死苦克服のために修行に取り組んだとのことですが、始めてからどのくらいの期間でサマディ、無害、最終的解脱に至りましたか?
また、その間に、一貫して1日20分程度の瞑想でしたか?
鬼和尚が金剛般若経を読んでるときに悟りを得たとお聞きしたので、一時期暗誦に取り組みましたが、今一つピンとこず、今のところ暗誦できるのは、般若心経と信心銘だけです。
特に信心銘が日々の瞑想に役立っているように感じます。
他におすすめのものはありますか?
省1
161(1): 2015/04/05(日)21:33 ID:LC3de7YgO携(22/57) AAS
>>160
鬼和尚、ありがとうございます。
勘違いしていなであります。
10年間、金剛般若経以外にたくさんのお経を読んだりしていたのですか?
ヨガや気功法、呼吸法等の身体技法にも取り組んだりしましたか?
(´・(ェ)・`)/
165(1): 2015/04/07(火)06:54 ID:LC3de7YgO携(23/57) AAS
>>163
鬼和尚、ありがとうございます。
横レスですが、禅定=サマディは、その無心の状態から我にもどる瞬間を自我の生じる瞬間を目撃し観照がおこるチャンスと捉える意味で重要と理解すれば良いでしょうか?
ただその禅定も、意識されない程度の深まりが必要であり、一体感の心地よさを味わっている自我の意識もない域まで行かなければならず、その域まで行き、そこから戻る瞬間を捉えようとするほうが、観察もしやすく、観照も起こりやすい。
禅定の中に身をおくことにより、宇宙との一体感に耽溺するだけでは、魔境に溺れるようなものでしょうか?
一所懸命何かに打ち込んでいたり、雑念の海でボーッとしていたりする時に、突発事故等で我に返る瞬間に気付ければそれでもよく。そのためには「公案」のように「自分とは何か」を問い続ける。
ただ、そのような偶然に頼るのではなく、「止」で集中力を高め、「禅定」を得、その高めた集中力で「観」=観察を行い、「観照」を起こす。
省2
172(1): 2015/04/08(水)01:18 ID:LC3de7YgO携(24/57) AAS
>>169
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚の説法を読み、質問する機会をいただいているお陰で、理解は少しずつ進んでいるようでありますが、充分な実感は伴っておりません。
鬼和尚でも10年修行されたのですから、龍明ごときが1~2年で何とかなろうとするのが、端から無理でありましょう。
ただ、鬼和尚が独力で探り当てた悟りのための方法論を懇切丁寧に解説していただいてるのですから、もう少し短期間で・・・と願っております。
がんばります(´・(ェ)・`)/
186(1): 2015/04/11(土)11:17 ID:LC3de7YgO携(25/57) AAS
鬼和尚、おはようございます。
4月12日(日)午前5時~6時にNHKで、ベトナムの臨済宗の禅僧ティク・ナット・ハンの教え、第二回「ひとりひとりがブッダになる」を放映する予定とのことであります。
彼の教え「マインドフルネス」はとは禅とは全く異なるものなのでしょうか?
平和活動であったティク・ナット・ハンですが、師は悟りを得ていたと思われますか?
189(2): 2015/04/11(土)23:46 ID:LC3de7YgO携(26/57) AAS
>>188
鬼和尚、ありがとうございます。
>社会など無い
>無いものを変えようとか良くしようとするのは妄想に囚われている
悟れば、社会などないというのが真理と知り得たとしても、悟るまでは、社会の中で生きていると感じざるを得ず、その社会は、何とかして社会をより良くしたいという人の、仮に妄想だとしても、自由、平等、平和、安定、調和、博愛、といった理念(妄想)を追求してきた人達の努力で、今があると思わざるを得ません。
大乗の悟った人達は、菩薩の誓願により、現世にとどまり、衆生を悟りに導くこと以外は、本来、社会などないのだから、悟ってない人達の社会を少しでも良くしようとする努力には一切関与しない、あるいは、関与すべきではないのでしょうか?
あるいは、本来ないものを良くも悪くもできないということなのだから、悟った人はそれらの努力には一切関与して来なかったということなのでしょうか?
省1
192(1): 2015/04/12(日)12:59 ID:LC3de7YgO携(27/57) AAS
鬼和尚、こんにちは。
不二なれば皆同じ・・でありますので、自他の別なければ、必然的に社会も妄想にすぎない。
↑このような捉え方も、「空」等と同様な観念を破壊するための観念ではないのでしょうか?
本当はただ一つの「意識」に帰するとしても、それが、枝分かれして、鬼和尚のような悟った人やオウムのような狂人がおり、そのような狂人に衆生が騙されないようにと鬼和尚も説法を始めたわけで、これは、覚醒者と狂人と衆生が混在する「社会」を前提としており、鬼和尚の説法は衆生を救うという意味で、社会を良くしようとすることなのではないでしょうか?
平和運動等も広い意味で戦争当事国の衆生や当局に覚醒を促し、「悟り」に導く行為のようにも思えるのでありますが、違うのでしょうか?
釈迦もアチコチの王様の相談にものっていたのではないでしたっけ?
(´・(ェ)・`)ゞ
196(2): 2015/04/12(日)22:05 ID:LC3de7YgO携(28/57) AAS
>>194
鬼和尚、ありがとうございます。
>在るのは一人一人の人間だけ
>一人一人の人間を善行や悟りに導くことが出来るだけ
>社会というものには人は慈悲を抱かない
>一人一人の人間を見てこそ慈悲も湧いてくる
いつも、明快なお答えありがとうございます。
省9
208(2): 2015/04/13(月)22:43 ID:LC3de7YgO携(29/57) AAS
鬼和尚、ありがとうございます。
悟りを得た者 = 僧 であり、僧はいかなる意味においても政治や社会に関わるべきでないのですね。
私は、数十人の中に入れるでしょうか?
仮に、入れなくても、今まで到達できた所まででも、十分鬼和尚に感謝しておりますが、どうせなら、悟りたいであります。
悟ったら、私も僧になるのでしょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ
213(1): 2015/04/14(火)22:51 ID:LC3de7YgO携(30/57) AAS
>>211
鬼和尚、ありがとうございます。
悟れば、ブッタの仲間入りでありますか?
東大に入るより百倍難しい狭き門でありますが、懺悔と修行を積み重ね、頑張ってみるであります。ι(`(ェ)´)ノ
220(1): 2015/04/16(木)01:02 ID:LC3de7YgO携(31/57) AAS
>>218
鬼和尚、ありがとうございます。
頑張って、生涯をかけてブッタを目指します
今、歯の治療をしているのですが、ガリガリと削られるときに、一瞬前のビクッとするような痛みを常に毎瞬間記憶にとどめないようにしよいなんて変なことを試してみると、それだけで、そんなことをやってる自分がなんか愉快で、記憶に基づき次の瞬間を予想して苦しんでる自分ではなくなるような気がチョピッとしたであります。
o(`(ェ)´)o
246(1): 2015/04/21(火)21:06 ID:LC3de7YgO携(32/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
実は、失業していたのでありますが、何とか仕事がみつかりそうであります。
相談に乗っていただいた方のお陰さまなのでありますが、求職中も分別をしてはいけないと思いつつも、どうしても欲が出てしまい、すると贅沢な迷いや、不安が生じるのがよくわかりました。
仕事をしながらも、瞑想により仕事ではりつめた神経をクールダウンすることからはじめ、心の観察を続けて行こうと思いますが、どうやら職場の皆様はお酒大好きな人が多いようで、最初のうちはともかくとして、徐々に酒席からは遠ざかりたいと思います。
(´・(ェ)・`)ゞ
(まだ、決定ではありませんが、鬼和尚には、私の近い将来が何か見えるでありましょうか?)
254(1): 2015/04/22(水)22:04 ID:LC3de7YgO携(33/57) AAS
>>252
鬼和尚、ありがとうございます。
修行も続けて参ります。
ここのところ極端な節約生活を送り、崖っぷちから転がり落ちつつも、何故か恐怖感も不安もなかったのは、鬼和尚にご指導いただいた瞑想のお陰であります。
予想外の展開で状況が好転し物事が進み出すと、逆に不安が生じ、卑しい欲も生じてくるのを感じます。
出来る限り執着せず、身を律して行きたいであります。
省2
308(1): 2015/04/30(木)02:20 ID:LC3de7YgO携(34/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
>全てではないが死んだことが分からない者も居る
→悟りを得ていない、無我を実感できない人が死んだ後の「意識」は、生きてる時と同じ個としての意識が残るのですしょうか?
>それも我があるという無明から来るもの
→と言うことは、肉体=脳がなくても個としての記憶も残るのですか?
(´・(ェ)・`)ゞ
314(1): 2015/04/30(木)22:11 ID:LC3de7YgO携(35/57) AAS
>>312
鬼和尚、ありがとうございます。
>意識は残る。
>個としての観念があれば個としての記憶もあると思うじゃろう。
常日頃鬼和尚は「わしの言うことも疑うのじゃ」と仰ってますし、これもより真剣に修行に取り組むように導く方便であると理解します。
頑張って悟らなければ地獄に落ちるぞぉぉ~っていうような、チョピッと早いですが夏の夜の怪談話みたいなものでありましょうか?
このような理解でもよいでしょうか?
省1
335(1): 2015/05/01(金)21:59 ID:LC3de7YgO携(36/57) AAS
>>333
鬼和尚ありがとうございます。
実践して確かめます。
実践して実感を得れることのみを求めます!。
(´(∀)`)
642(1): 2015/07/02(木)20:58 ID:LC3de7YgO携(37/57) AAS
鬼和尚、こんばんは(´・(ェ)・`)/
瞑想中の幻覚や幻聴、あるいは神仏の実在感等は無視すべき事柄であると思いますが、それと、同様に内心の実感であるところの、観照できたことによる無我の実感は区別がてくものなのでしょうか。
648(1): 2015/07/03(金)20:58 ID:LC3de7YgO携(38/57) AAS
>>644
鬼和尚、ありがとうございます(´(ェ)`)/
がんばります。
660(1): 2015/07/08(水)20:37 ID:LC3de7YgO携(39/57) AAS
鬼和尚、生きることはたった一回のことだと思うのであります。
悟りを目指すこと以外に何か他にあるとしたら、何か・・・ありませんよね
690(1): 2015/07/17(金)21:00 ID:LC3de7YgO携(40/57) AAS
鬼和尚こんばんは(´・(ェ)・`)/
ここ数ヶ月、座れていません。せっかく毎日2時間~ 数回に分けて座る習慣ができていたのに、決して時間がないわけでもなく、ただ心に感じるストレスが瞑想から遠ざけています。
ただ、そのことにより、瞑想実践以前の状態に逆戻りする訳でもなく、瞑想から自分を遠ざけてる原因であろうストレスも、何となく瞑想を通して体得した小手先のわざ(?)で解消できてしまいます。
どうかこんな龍明にカツを入れて下さい。
697(1): 2015/07/19(日)17:01 ID:LC3de7YgO携(41/57) AAS
>>694
鬼和尚、ありがとうございます(´・(ェ)・`)/
ここまで、不安や劣等感や自らの様々な感情に苦しむことから逃れたくて、瞑想をやって参りました。
座ることをしばらく休むと、瞑想に取り組む以前の状態に戻ってしまいそうな時もありますが、それに気づき、心の有り様を整えようと意識すると、おさまります。
なんか、小手先のわざだけ覚えてそのことで満足してしまい、怠け者の本性があらわれているようであります。
なんとか、がんばります。
722(1): 2015/07/26(日)00:53 ID:LC3de7YgO携(42/57) AAS
鬼和尚、こんばんは。
日常会話調のシナリオを、台詞の微妙な「間」に対する相手の反応から、その心理を読み取りつつ繰り返すような作業を長時間続けるようなことを修行の役にたてることは可能でしょうか。
あたかも、単純な工作作業を繰り返すように、単純なコミュニケーションを繰り返すようなことです。
(´・(ェ)・`)ゞ
726(1): 2015/07/26(日)23:06 ID:LC3de7YgO携(43/57) AAS
>>725
鬼和尚、ありがとうございます。
仕事を修行として取組ます。
(`(ェ)´)/
762(1): 2015/08/05(水)21:10 ID:LC3de7YgO携(44/57) AAS
鬼和尚、こんばんさ(´・(∀)・`)/
鬼和尚に占っていただいたとおり、大きな窓の会社に7月再就職し、現在しかられてばがりいます。
長くいれば良いことあると思うのです、仕事に集中します。
しばらく座禅はやめますが、そのぶんも仕事に集中します。
執着ではない集中を目指します。
765(1): 2015/08/05(水)21:40 ID:LC3de7YgO携(45/57) AAS
>>764
(´(∀)`)/鬼和尚、ありがとうございます。
厳しさは、集中するためにはありがたいことでありますので、この機会に、仕事を通しどこまで集中力を高められるかチャレンジしたいと考えております。
仕事後のクールダウンのためのサワーを体か欲しなくなったら、瞑想を再開します。
770(1): 2015/08/06(木)21:51 ID:LC3de7YgO携(46/57) AAS
>>769
鬼和尚、ありがとうございます。
がんばりますo(´(ェ)`)o
781(1): 2015/08/09(日)22:32 ID:LC3de7YgO携(47/57) AAS
>>780
鬼和尚、こんばんは(´・(ェ)・`)/
>多くの者が悟りを得られないのは本当は悟りを得たいと思っていない・・・からなのじゃ。
それもいずれ必ず死ぬという自分の状況がわかっていないからなのじゃ。
「死」を真剣に意識することは、思いの外難しいです。
だいぶ以前「水垢離」等も、身体に死の危機感を感じさせることにより、眠っている生命力、脳の能力、火事場の馬鹿力みたいなものを発揮させる修行法であるという事を読み(「象気功」)、困り果てた時に試したことがあります。
省2
786(1): 2015/08/10(月)21:05 ID:LC3de7YgO携(48/57) AAS
>>785
鬼和尚、ありがとうございます(´・(ェ)・`)/
「死」は最大の「苦」であるはずなのに、それを思い描くことはつくづく難しいと思います。
鬼和尚が以前、 どうしても死を克服しなければならない事情があったので修行に真剣に取り組んだと言った趣旨のことを書いていらした記憶があるのですが、それって、具体的にはどんなことだったのでありますか?
866(1): 2015/08/28(金)21:05 ID:LC3de7YgO携(49/57) AAS
鬼和尚、こんばんは(´・(ェ)・`)/
再就職して1ヶ月とちょぴっと経過いたしました。
順調であります。
過去や未来に思いを馳せることなく、今この瞬間に一所懸命臨んでおります。
失業中に鬼和尚に教えていただきながら取り組んだ修行、集中と観察が失業中には気分の落ち込みから私を救い、仕事を得た今は、ちょぴっと上手く行ってものぼせたり高揚し過ぎたりせずに平常心で日々臨めることに繋がっているように思います。
省1
948(1): 2015/09/13(日)21:13 ID:LC3de7YgO携(50/57) AAS
>>947
「苦」から逃れるためにを執着なくす。
究極の「苦」である「死」(に対する恐怖)から逃れるために、「生」への執着をなくす。
で、それができたら、執着なく、目の前のことごとに取り組む。
執着そのこと自体が悪いのではなく、「苦」を逃れるための近道、方法として有効だよという理解でよいのでしょうか?
それとも、「執着」そのものが悪いのでしょうか?
省1
966(1): 2015/09/20(日)08:18 ID:LC3de7YgO携(51/57) AAS
鬼和尚、おはようございます(´(∀)`)/
新しい職場で2ヶ月が過ぎました。
一日8時間半座っての仕事であり、集中力を持続することが求められるので、身体は使わなくもけっこう疲れます。
しかし、運動不足解消のため、職場か自宅近くの公立体育館のトレーニング室にでも通おうかと、昨日ユニ●でトレパンを買ってきました。
集中しても、疲れない方法とかありましたら教えてください。
無我夢中になれば、疲労も感じないものなのでしょうか?
968(1): 2015/09/20(日)21:56 ID:LC3de7YgO携(52/57) AAS
>>967
鬼和尚、ありがとうございます。
(´・(ェ)・`)/
出勤時には歩きながら不動明王の真言を唱え、下丹田を意識しながら腹式呼吸を行ってます。
始業前には2~3分ですが、意識的に数息観を行い、昼休みには近くのお寺さんで線香をあげ、般若心経を唱え、神社にもお詣りしています。
以上は再就職後今のところ一度も欠かしたことはありません。
精神的な疲れだけであり、身体は疲れてないはずなのですが、倦怠感が重くのしかかるのは一種の錯覚みたいなものかとも思い、無視しようとするのですが、なかなかしぶといです。
省1
970(1): 2015/09/21(月)21:56 ID:LC3de7YgO携(53/57) AAS
>>969
鬼和尚、ありがとうございます。
過ぎたるは及ばざるが如し、でありますね。(´・(ェ)・`)ゞ
そうなのであります。長期にわたる失業中に預貯金を使い果たしてしまったので、これから懸命に資産を作らないと、大変なのであります。
そのためにも、疲れてる場合ではないのでありますが、なかなかうまく行かないものでありますね。
974(1): 2015/09/22(火)22:33 ID:LC3de7YgO携(54/57) AAS
>>973
鬼和尚、ありがとうございます(・(ェ)・)/
>必ずうまくいくと確信
>成功した理想の自分の姿をイメージする
→
今までは神仏を詣る時頼みごとはせず、ただ感謝の念を捧げるという思いでしたが、これをまだ未実現のことを実現したこととして、神仏に感謝するというようなことでもよいのでしょうか。
それとも、そのような間接的なことではなく、直接的に自分の成功した姿を具体的に詳細にイメージする方が良いのでしょうか?
978(1): 2015/09/23(水)21:08 ID:LC3de7YgO携(55/57) AAS
>>977
鬼和尚、ありがとうございます。
(´・(∀)・`)/
毎日お寺さんと神社にお詣りしてるので、そこで
成功して感謝している自分をイメージするとか両方を一度にイメージしてみます。
どうも、へんに謙虚になってしまい、神仏に願い事をしないだけでなく、「今あることだけで十分です」的な思いがありましたが、もっと積極的に、「こうありたい」というイメージが実現していることとして心底感謝するようにしてみます。
どうもそのようなイメージを抱くことは、強い執着になるような気がしていたのですが、これは、「苦」を引き寄せるものとしての「執着」とはちがうようでありますね。
省2
981(1): 2015/09/24(木)20:02 ID:LC3de7YgO携(56/57) AAS
鬼和尚、ありがとうございます。
(´(ェ)`)/
既に望む結果が出たかのように強く思い、感謝する。
これを、出勤途上と昼休みにやってみたところ。
そうなりました。
狐につままれたくまのようであります。
毎日やってみます。
省2
995(1): 2015/09/26(土)16:04 ID:LC3de7YgO携(57/57) AAS
鬼和尚、こんにちは(´・(ェ)・`)/
長期にわたる失業は、修行実践にはむしろ好環境だったようで、修行実践により不安や恐怖、恥ずかしさや悲しさに苦しまず、究極の耐乏生活もむしろ粗食と計画的食習慣によるダイエットにより健康増進に繋がりました。
再就職し、一所懸命に目の前の仕事に打ち込み、目の前の経済的処遇ではそれなりに報われても、その他の点では小さい組織であることと、新人の悲しさで相変わらず理不尽な処遇を受けます。
失業中に客観的に存在していたはずの不安等に比べて遥かに小さいはずの対人関係における不快感や怒りなどに対して、堪え性のない自分に気付かされます。
しかし、後がないので絶対に我慢し、望む結果の実現をありありとイメージし、感謝を捧げ、成功を諦めずに50%の可能性をつねに信じて邁進します。
今の私には、その事が実社会における修行として適しているような気がします。
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