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現代数学の系譜11 ガロア理論を読む33 [無断転載禁止]©2ch.net (713レス)
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253: 現代数学の系譜11 ガロア理論を読む [sage] 2017/05/29(月) 10:18:25.82 ID:IKiw8fcW >>247 つづき 余談だが、湯川秀樹先生、下記では、八木秀次先生から叱責されたとあるね〜(^^ が、上記とは微妙に違うね ・”当時の八木理学部長”は、下記では初代主任教授 ・”四年たっても論文を書こうともしない”は、下記「1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表」とあるので、卒業以来4年でないと計算が合わない(^^ なお、”1929年に同物理学科を卒業して同大の無給副手に就いた”>>247というから、いまでいうポスドクかな? 博士課程がなかったのかも(^^ 「1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表」に、八木先生の叱責が効いた気がする今日この頃(^^ 余談だが、妻スミの実家が裕福で、高価な理論物理の洋書の購入費用を出して貰っていたという話を聞いたことがある https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9 (抜粋) 湯川秀樹 1929年(昭和4年)、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。 1932年(昭和7年)、京都帝国大学講師。 1933年(昭和8年)、東北帝国大学で日本数学物理学会年会が開催された時に八木秀次と知り合い、当時大阪帝国大学の理学部物理学科(は塩見理化学研究所)の初代主任教授に就任した八木に頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。 この頃、大阪胃腸病院(1950年に湯川胃腸病院と改称)の院長:湯川玄洋の次女湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。 大阪帝国大学に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木はさらに勉学に努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば、八木は匕首のような毒舌で有名だったという[10]。 1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表、1935年(昭和10年)、「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。 1949年(昭和24年)にノーベル物理学賞を受賞した。 妻:スミ(和歌山県、医師湯川玄洋の次女) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1495860664/253
254: 現代数学の系譜11 ガロア理論を読む [sage] 2017/05/29(月) 11:13:16.76 ID:IKiw8fcW >>253 補足 http://ocw.osaka-u.ac.jp/yukawa-memorial-jp/documents-on-dr.-hideki-yukawa-jp/ 湯川秀樹博士関連資料 http://ocw.osaka-u.ac.jp/yukawa-memorial-jp/documents-on-dr.-hideki-yukawa-jp/dryukawa-osakauniversity.pdf 湯川博士と大阪大学 「適塾」 1982 内山龍雄 (抜粋) 物理学教室主任教授は八木アンテナの発明者として名高い工学博士の八木秀次先生です。 他に原子核物理学の産みの親となった故菊池正士博士とか、長岡博士の高弟で、今もお元気で活躍されている実験物理学の大御所、浅田常三郎博士、また流体力学の大家、故友近博士等、八木先生以外は、どなたも、三十才前後の若さで理学部教授、或いは助教授として赴任されました。 現在、学術会議会長として、御活躍中の伏見先生は、まだ大学出たての新米の学者であり阪大物理学教室の助手として研究に専念されておられました。 このような天下の俊秀が、衝立で間仕切りされた塩見研究所の中で、互いに良きライバルとして、また良き同僚、友人として切磋琢磨していたのですから、今から想像しても、研究所内の空気がどんなものであったか、容易にわかるような気がします。 阪大物理学教室の主任であった八木博士も、業績の揚らぬ湯川博士に業を煮やし、遂に或る日、湯川博士を呼びつけて、これを叱ったそうです。 私にこのエピソードを話して下さったか方は、丁度、この事件のとき、運よく(?)隣の間にいたのだそうです。だから、これから私が話すことは、すべて真実と思いますが、この事件を話してくれた方や、八木、湯川両先生も既に此の世を去られ、真実か否かを確かめたくとも、それは不可能です。 さて八木先生は、湯川博士にもっと勉強するよう叱った後で、「本来なら朝永君に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」といった意味の注意をされたそうです。 八木先生のこの小言が効いたのかどうか知りませんが、この事があってから程なく、湯川先生の第一論文「素粒子の相互作用について」が発表されました。 これは後にノーベル賞の対象となった論文です。処女論文がノーベル賞の対象になった事は、他に例が殆ど無いのではないかと思います。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1495860664/254
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