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現代数学の系譜11 ガロア理論を読む33 [無断転載禁止]©2ch.net (713レス)
現代数学の系譜11 ガロア理論を読む33 [無断転載禁止]©2ch.net http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1495860664/
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247: 現代数学の系譜11 ガロア理論を読む [sage] 2017/05/29(月) 09:26:32.27 ID:IKiw8fcW >>246 つづき 湯川先生が、昔、「君は、新粒子が好きなのか?」と批判されたらしい(下記) 「オッカムの剃刀」の原理からすれば、”安易に新要素を付け加えるな”という批判なんでしょうね(^^ http://techon.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/371342/051100005/?rt=nocnt 日本の物理学と技術イノベーションのルーツ 湯川秀樹と久保亮五――素粒子物理学と物性物理学の源流 山口 栄一=京都大学 大学院 総合生存学館(思修館) 教授 日経テクノロジー 2016/05/16 (抜粋) 君は、新粒子が好きなのか? 1933年、この難問に対して湯川は、陽子と中性子の間には電子の約200倍の質量を持つ未知の新粒子「中間子」が存在し、それを両者がキャッチボールすることで結び付いているという仮説を打ち出して、1935年「素粒子の相互作用について」と題する英語論文を発表した。 力の源を新たな素粒子に求めるこの大胆な仮説は、しかしすこぶる評判が悪かった。 例えば、電気的にプラスの物質とマイナスの物質が引き合うのは電磁気力が働くからで、この電磁気力をもたらしているのが光子である。 だから新しい力が発見されるたびにそこに新素粒子をあてがえばよいことになる。1937年にニールス・ボーアが来日したとき、中間子論を説く湯川にボーアは「君は、新粒子が好きなのか」と苦々しく言ったという。 また、同じ頃に中間子論を思い付いたエルンスト・シュテュッケルベルク(Ernst Stuckelberg、1905〜1984年)という学生に対してヴォルフガング・パウリは「自分勝手に新粒子を仮定するべきでない」と、論文を却下したという。湯川自身の言葉が残っている。 シュトゥッケルベルクという理論物理学者がある。時々おもしろいアイディアを出す、すぐれた人であるが、論文は難解で、人柄も大分変わっている。彼はジュネーブ大学の教授をしているが、前述の昨年(1967年:筆者注)七月の国際会議のときに初めてあった。私が 「あなたには、もっと早くお目にかかっておるべきはずだった」 というと、 「もしもパウリが私をやっつけなかったら、私もあなたと同じ頃に、中間子論を提唱していたはずだ」と答えた。 (湯川秀樹、『創造の世界:湯川秀樹自選集4』、朝日新聞社、pp.420-421) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1495860664/247
248: 現代数学の系譜11 ガロア理論を読む [sage] 2017/05/29(月) 09:39:50.33 ID:IKiw8fcW >>247 つづき 余録(下記面白いので追加メモ。人間の運命とは分からないものですな〜。が、分からないなりに、懸命に生きるしかない・・(^^;) http://techon.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/371342/051100005/?rt=nocnt 日本の物理学と技術イノベーションのルーツ 湯川秀樹と久保亮五――素粒子物理学と物性物理学の源流 山口 栄一=京都大学 大学院 総合生存学館(思修館) 教授 日経テクノロジー 2016/05/16 (抜粋) 仁科に選ばれなかった湯川 東京で生まれた湯川は、地質調査所(現・産業技術総合研究所地質調査総合センター)に勤務する地質学者だった父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴って、1歳の時に京都市に転居した。 幼少時より漢籍に親しむなど無口で内向的な少年時代を送った。 高校時代、量子論の勃興によって根本的な変革を遂げつつあった物理学に魅了され、1926年に京都帝国大学理学部物理学科に入学、1929年に同物理学科を卒業して同大の無給副手に就いた。 1932年に同大講師に就任、私生活では湯川家の婿養子となって小川姓から湯川姓になった。 前回述べたように、同年、朝永は理研に入る。一方、湯川は翌年大阪大学講師を兼任するようになる。このいきさつを2人の弟子であった中村誠太郎は、次のように記述している。 まず朝永先生は、仁科芳雄博士の目に留まって東京の理化学研究所へ研究室を移すことになる。 その後、湯川先生は、大阪大学の菊池正士博士のところの講師として就職した。 しかし湯川先生はその後、四年たっても論文を書こうともしないので、当時の八木理学部長は「朝永君を採っておけばよかった」と聞こえよがしに小言をいったという。 またずっとあとのことだが、仁科芳雄博士は湯川先生のノーベル賞受賞のニュースを聞いて「湯川君を採っておけばよかった」と朝永先生に聞こえるように嫌味を言ったという。 こうしたことは、いやが上にもお二人の対抗意識を駆り立てたことと思われる。 (中村誠太郎、『湯川秀樹と朝永振一郎』、読売新聞社、pp.45-46) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1495860664/248
253: 現代数学の系譜11 ガロア理論を読む [sage] 2017/05/29(月) 10:18:25.82 ID:IKiw8fcW >>247 つづき 余談だが、湯川秀樹先生、下記では、八木秀次先生から叱責されたとあるね〜(^^ が、上記とは微妙に違うね ・”当時の八木理学部長”は、下記では初代主任教授 ・”四年たっても論文を書こうともしない”は、下記「1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表」とあるので、卒業以来4年でないと計算が合わない(^^ なお、”1929年に同物理学科を卒業して同大の無給副手に就いた”>>247というから、いまでいうポスドクかな? 博士課程がなかったのかも(^^ 「1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表」に、八木先生の叱責が効いた気がする今日この頃(^^ 余談だが、妻スミの実家が裕福で、高価な理論物理の洋書の購入費用を出して貰っていたという話を聞いたことがある https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9 (抜粋) 湯川秀樹 1929年(昭和4年)、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。 1932年(昭和7年)、京都帝国大学講師。 1933年(昭和8年)、東北帝国大学で日本数学物理学会年会が開催された時に八木秀次と知り合い、当時大阪帝国大学の理学部物理学科(は塩見理化学研究所)の初代主任教授に就任した八木に頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。 この頃、大阪胃腸病院(1950年に湯川胃腸病院と改称)の院長:湯川玄洋の次女湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。 大阪帝国大学に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木はさらに勉学に努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば、八木は匕首のような毒舌で有名だったという[10]。 1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表、1935年(昭和10年)、「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。 1949年(昭和24年)にノーベル物理学賞を受賞した。 妻:スミ(和歌山県、医師湯川玄洋の次女) http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1495860664/253
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