[過去ログ] 浄土真宗本願寺派 [18願] (1001レス)
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955
(1): 925 2006/06/18(日) 21:37:51 ID:cidH2avu(5/6)調 AAS
しかれば、凡夫不成の迷情に令諸衆生の仏智満入して不成の迷心を他力より
成就して、願入弥陀界の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、
「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、「住不退転」とも、
聖人釈しましませり。これすなはち「即得往生」の時分なり。
この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源を
つなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、
「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。

これは覚如上人。
「この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源を
つなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて」
「やぶれて」なんて言葉、「無明がはれて」より強烈。
「利剣即是弥陀名号」(名号は切れ味するどいつるぎだ)というお言葉も
信心決定したひとなら「ほんまやーほんまやー」と拍手喝さいですが
なんでこれが「体験ではない」になるんですか?
956
(1): 925 2006/06/18(日) 21:55:16 ID:cidH2avu(6/6)調 AAS
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、
久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、
ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、
選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、
難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われ
らが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、

「選択の願海に転入せり。」「たのむ一念のとき、往生一定」
十八願の世界、無碍の一道に出たぞ、たのむ一念のとき往生一定になったぞー
と仰っているじゃないですか。
「真に知んぬ」「明らかに知られたり」「明信仏智」とか「はっきり」という
お言葉はいたるところにあります。
こんなはっきりすることがなんで「体験じゃない」んですか?
957: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:38:09 ID:EQ0U4EWX(1)調 AAS
>>951
留年はあるでしょう。
通信卒の住職は意外にいるよ。
詳しくは中央イム教学院のスレで聞いた方がいいと思う。
958: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:38:45 ID:LIM8oiIM(2/2)調 AAS
信心決定かどうかわからんが、いつの間にか念仏について考えるようになったのは、お育て、というやつだろうか?
959
(2): 波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 2006/06/18(日) 23:40:56 ID:/4RjN+XD(1)調 AAS
魔の誘いだろ
960
(2): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:53:05 ID:KyhqXG7r(1/2)調 AAS
>>952-956
>体験というのは、一般に、外界と自分自身との相互作用の過程や自分の内面の
>変化の過程を言うんじゃないでしょうか。

『広辞苑』には、「自分が身をもって経験すること。また、その経験。」とありますね。
だから、普通は、仏教用語で言う(自分の)三業にかかるものじゃないですかね?

>信心決定は体験ではない、三業に限る、あるいは使うに
>不適当とかいうことならその理由を説明していただけるとありがたいですね。

三業に限るというのは、「体験が」ということですか? 上記したように、「体験」
の日常的な意味なら、「体験」は、(仏教用語で言う)「三業にかかる」と思うので
すが、あなたが、「三業にかからない『体験』がある」と言われるならば、説明キボン。
「体験が三業に限るか否か?」は、それによって判断させていただきますね。

あと、決定信(=他力信心)そのものは、あなたが、>>942で、「三業自体が真実信心で
はないというのは何度も言っています。 」と言われてますように、私の言う三業の意味
での「体験」ではないのは言うまでもありません。「決定」の主体は、「真実信心」(=
仏心)であり、機(衆生)が決定するのではないし、決定するのは、「報土(往生)の真
因が決定する」(『行文類』他)わけですからね。ただ、その「真実(決定)信」が、機
相(衆生の三業)に現れた「体験」はある(ただし、衆生の三業に現れる体験は、機ごと
に違う)。というのは、何度も言うとおりです。
961: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 23:54:27 ID:KyhqXG7r(2/2)調 AAS
>>960続き

>信一念の変化は御聖教全部がそうといってもいいくらいにたくさんあります。
>死んで生き返る経験をするのに「体験じゃない」ってどうして言えるんでしょう?
>なんでこれが「体験ではない」になるんですか?
>こんなはっきりすることがなんで「体験じゃない」んですか?

信前信後(「信一念」の前後)の機相に、「変化がない」とか、「体験的な歓喜がない」
と言っているのではないのも、何度も既出。

無論、信後の機相に、真実信心からおこる「体験的な歓喜」はあります。
「体験でない」と言っているのは、「『信一念』の一念」=「時剋の極促」=「広大難思
の慶心」のこと。これも何度も既出。>>917氏や、私(>>938>>932-933)のカキコを再読
してください。
962: 名無し 2006/06/19(月) 00:56:29 ID:5s6Pz2L5(1/4)調 AAS
魔もまた仏…
963: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 00:57:16 ID:VOvk6R3J(1)調 AAS
>>959
巡回乙。神仏板の自治でしか知らんが。
964
(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 00:58:49 ID:1RMXtwNo(1)調 AAS
>>952
>信心決定は体験ではない、三業に限る、あるいは使うに不適当とかいうことなら
>その理由を説明していただけるとありがたいですね。

信心決定の初一念は「時剋の極促」で凡夫の三業では捉えられない瞬間のことである。
したがって体験できない。
もし、三業で体験できるものであるとすると一念覚知の異安心を許すことになる。

>信一念の変化は御聖教全部がそうといってもいいくらいにたくさんあります。

初一念は覚知できないが、二念以後に歓喜がないとは言わない。
しかし、その味わいは画一ではない。
たとえば歎異抄第九章の親鸞聖人と、そして唯円房の味わいはしみじみとしている。

>>954
凡夫の三業の喜びが信心の証拠であるというのも異安心とされるんですよね。
それだと凡夫の三業のはたらきが往生の決定に必要だと言うことになりかねなくなりますから。

>>959
他宗の信仰に茶々を入れるのが日蓮宗の流儀ですか?
あまり失望させないでください。
…あなたも邪教と位置づける信仰者の評価など気にされないのかもしれませんがね。

ちなみに今ここで議論をしかけているのは、たぶん親鸞会の人間です。
965: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 01:45:41 ID:hVTR4dTw(1)調 AAS
>>964
> たぶん親鸞会の人間です。

だからこのスレに来たんだと思う。
レスも単なる茶々とも思えない。
しかし誤解を招くレスには違いないかな。
966: 名無し 2006/06/19(月) 11:16:24 ID:5s6Pz2L5(2/4)調 AAS
俺は本派僧侶だけど
親鸞会かなんか知らんけど、本派を批判する事で自分の主張の正しさを示そうとするのが批判の動機なら、考えた方がいいと思うな。信心を得た体験があってお念仏喜べるなら、喜べばいい。人に議論をふっかける必要は無いと思うが?
967: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 11:48:19 ID:5s6Pz2L5(3/4)調 AAS
「私はこのようにお念仏を喜びました。」
「それはありがたい事です。」

後はみんなでなんまんだぶととなえりゃそれで済むと思うんだが。それで済まないのが娑婆のクソ凡夫なんだろう。だから、阿弥陀さんが必要なんだろうな。
968: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 11:52:41 ID:5s6Pz2L5(4/4)調 AAS
お念仏の頂き方を、個人で喜ぶ分には全く問題無い訳で。それを唯一正しいと他の頂き方を批判したくなるから、話がややこしくなると思う。

ま、一般のご門徒さんにはとっちゃ、何の話?って感じだろうけんど。
969
(1): 925 2006/06/19(月) 13:17:08 ID:7KdE4oQU(1)調 AAS
>>960
>『広辞苑』には、「自分が身をもって経験すること。また、その経験。」とありますね。
だから、普通は、仏教用語で言う(自分の)三業にかかるものじゃないですかね?

ループしてるので、多分これ以上は無理でしょう。
その広辞苑で「経験」をくってみるといいと思います。

>ちなみに今ここで議論をしかけているのは、

議論しにきてるのではないのでやめときますね。
ちなみに私は門徒ですが。(うちの仏壇、たしか西だったと思うけど)

>機(衆生)が決定するのではないし、決定するのは、「報土(往生)の真
因が決定する」(『行文類』他)わけですからね。

疑情は三業だ、ということですか?
別にお答えいただかなくても何にも言いません。
自分で学習されればよろしい。

>たとえば歎異抄第九章の親鸞聖人と、そして唯円房の味わいはしみじみとしている。

歎異抄第九章は機の深信を言われているんですよ。
「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、
往生は決定と存じそうらえ。」
「助けられても喜ぶこころがない、そんなものと見抜いて助けてくださった弥陀の本願は
たのもしいなあ、うれしいなあ」と喜んでおられるじゃないですか。
谷深ければ山高し。
浅い谷しか知らないから、「しみじみ」なんていってるんです。
無宿善には読ませてはいけないと言われたのはそのためです。
970
(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 19:08:03 ID:DjNbNyyz(1)調 AAS
>>969
>ループしてるので、多分これ以上は無理でしょう。
>その広辞苑で「経験」をくってみるといいと思います。

『広辞苑』によると、「経験」とは、「人間が外界との相互作用の過程を意識化し
自分のものとすること。」とか、「感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活
動までを含む体験の自覚されたもの」etc とありますが、「意識化」「感覚」「知
覚」「行為」「活動」「自覚」と、やはり仏教用語で言うところの「人間の三業にか
かる」ことを言うようですが。ループしてるのは、あなたの方じゃないですか?
あなたの見解は、「信一念は、人間の三業にかからない体験(?)」ということでい
いでつか?
だとしたら、「三業にかからない体験」って何? 「自分が体験していることが、自分
でわからない」こと?

>疑情は三業だ、ということですか?

真宗では、疑情を、根本無明(元品の無明)としますから、「迷妄の業識の大元」で
あるとしますね。迷いの三業の元ということですね。
ですから、疑情を断破されるのは、「名号光明」と「真実信心の業識」の因縁による
しかないですね。
「『疑情』(根本無明)が破られる『初一念の時剋の極促』は、凡夫の三業では、覚
知できない。」という話を、私はずっとしているんですが。
971
(3): 925 2006/06/19(月) 20:00:38 ID:qKZcZLLt(1/2)調 AAS
>>970
議論したいなら相手にはなりますけど。

>>917
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
>信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。

もともとこれが議論の始まりであって「信心決定を体験というのはおかしい」という
論難が本なんですから「三業のことしか体験とは言わない」というなら
立証責任はそちらにあるのではないですか?
972
(2): 925 2006/06/19(月) 20:01:12 ID:qKZcZLLt(2/2)調 AAS
>etc とありますが、

私の広辞苑が古いんでしょうか。「内界の変化の過程」みたいなことも
書いてあったように記憶しているんですが、あなたのには無いですか?

「獲信は三業にかからない体験」ってどこかでいいましたっけ?
三業自体が真実信心ではないっていいましたが、「三業にかからない」というのは
誤解の多い表現です。どこかでしてたなら訂正します。
真心はかならず三業に表れますが、三業から信心は計れないと言っています。
慶びがあるからと言って信心獲得の証にはならないのは当然です。

>迷いの三業の元ということですね。

だから「迷いの三業の元」というのは三業なんですか、そうではないのですか?

>「『疑情』(根本無明)が破られる『初一念の時剋の極促』は、凡夫の三業では、覚
知できない。」

だから後続の二念(?っていうのかな)以降の真実信心も覚知できないということか、
って慶喜心の根拠をあげて御聞きしてるんですけど。
慶喜心も覚知できないなら「信心決定したかどうかは本人にはわからない」という
ことですよね。
973
(1): 925 2006/06/19(月) 20:30:58 ID:28bkQguV(1)調 AAS
二種深信というのは、そんなしみじみとしたもんじゃありません。
「うれしい」のと「かなしい」のが徹底してるんです。
「三かな文」は有名でしょう。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、
遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。
真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。
ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、
定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、
恥ずべし、傷むべし、と。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀
を知りて、良に師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
これに因って、真宗の詮を鈔し、浄土の要をひろう。ただ仏恩の深きことを念じて
人倫の嘲を恥じず。もしこの書を見聞せん者、信順を因として疑謗を縁として、
信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。

「慶ばしいかな」「悲しきかな」「慶ばしいかな」これがいつも一緒に
あるんですよ。常歓喜常懺悔。
974
(2): 925 2006/06/19(月) 21:23:12 ID:xHdnle6o(1)調 AAS
>「『疑情』(根本無明)が破られる『初一念の時剋の極促』は、凡夫の三業では、覚
知できない。」という話を、私はずっとしているんですが。

あー、やっとわかりました。あなたの言っていること。
そりゃあ「凡夫の三業だけ」だものわかるはずないですよ。
初発の一念どころか、後続の二念も三念も何にもわかりませんよ。
信心獲得の行者というのは仏智をいただいて機も法もみえるんですから。
仏凡一体になってない、凡心だけじゃ何にもわからんのはごもっとも。
「獲信見敬大慶喜」というのはいただいた仏心で法を見るんです。
凡心と仏心が一体になって初めて見えるんです。
「体験じゃない」わけだ。「凡心だけ」なんだから。

一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて、
仏智より他力の信心をあたえたまうがゆえに、仏心と凡心と
ひとつなるところをさして、信心獲得の行者とはいうなり。
975
(3): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 21:50:30 ID:sLluB9VB(1/3)調 AAS
>>971
真宗の宗学は一念覚知を認めない。
この説は一念を覚知しなければ信心とは言えないとするもの。
それは信心決定に凡夫の自力の意業が介在しなければならないことを意味する。
しかし、自力の心を離れるのが他力の信心である。
だから、信心決定の瞬間に自力が介在するとする一念覚知説は異安心とされる。
そのため宗門では信一念を、行者の三業で覚知できる体験とはいわない。

>>916
>永遠に救われることのない自分と誰が救われなくても自分だけは浄土往生まちがいない
>ということの両方が同時にツユチリの疑いなくハッキリする。
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。

は、一念を覚知できるといっているように見える。
ハッキリする一念を意業で覚知しなければ信心といえないなら、それは他力の信とは言えない。

>>973
>二種深信というのは、そんなしみじみとしたもんじゃありません。

いや、歎異抄第九章はしみじみしているよ。
踊躍歓喜の思いが持てないという告白と、そんな凡夫だからこそ阿弥陀仏は目当てとされるのだと言う回答。
そこにある機の深信は慚愧の思いで頭を抱えるというようなものではないし、
法の深信も踊躍歓喜し始めるようなものでもないだろう。
意業としての歓喜が、いつでも同じ強さであるわけではないだろう。
(ただし頂き物である他力の心は変化しない)
976
(2): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 22:43:52 ID:sLluB9VB(2/3)調 AAS
>>974
>信心獲得の行者というのは仏智をいただいて機も法もみえるんですから。
>凡心と仏心が一体になって初めて見えるんです。

なんとなく宗学の機法一体と違う気がするな。
宗学で言う機法一体は、単に阿弥陀仏のはたらきと凡夫の信心が一つであるという意味だよ。
二つの別々の心が一つになるって意味では取らない。

「西方指南書」は機法一体の解釈が何種類か出てくるけど、蓮如上人の解釈で取らないと(真宗的に)おかしくなる。
(たとえば、彼此三業不離一体の機法一体は阿弥陀仏の三業で成就された名号が衆生に届くのだから、
 衆生の三業は阿弥陀仏と離れない、とかね)

その他力の信心を開けば、機の深信と法の深信になる。
二種深信は他力の信を開いたものであるから初発の一念からある。
しかし初発の一念は「時剋の一念」であり、意業では覚知できない。
977
(2): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 22:49:18 ID:GJdvKjoL(1/2)調 AAS
>>975
横から質問。

一念覚知説と妙好人の回心体験は外見的に似ているが、
その違いは「自力の意業が介在」するとするか、しないか、
って事ですか?
978
(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 23:10:03 ID:sLluB9VB(3/3)調 AAS
>>977
いや、強烈な廻心を経て信心決定する人はいる。
しかし宗学では、その人であっても「信一念」を意業で覚知したわけではないとされる。
なぜなら、初発の一念は人間の意業ではとらえらえられない、すごーく短い瞬間とされるから。

意業で覚知した気になる人がいても、宗学的には、それは二念以後のことになるんだろうね。
その理由を凡夫の自力の介在は義としておかしいとするわけだけど、
現実的に、一念覚知説を否定しなきゃならない理由もあったんだろうと思う。

信心決定者の誰もが何年何月何日何秒に信心が決定したかを覚えているわけじゃないから。
それに、法を聞く内にいつの間にか阿弥陀仏の救いを感謝するようになる人がいるから。
979
(1): 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 23:11:13 ID:1KLeHNIf(1/2)調 AAS
>>971-972
>もともとこれが議論の始まりであって「信心決定を体験というのはおかしい」という
>論難が本なんですから「三業のことしか体験とは言わない」というなら
>立証責任はそちらにあるのではないですか?

既に、>>975氏(=>>917氏?)が、回答されてますけど、>>917氏の論は、「信心決定を
体験というのはおかしい」ではなくて、「『信一念』を体験というのはおかしい」だと
思いますが。信心決定の相としての凡夫の体験を否定されてるわけじゃないですから。
それと、「立証責任」って何ですか? 「体験」というのは、仏教用語じゃないって、
あなたも言ってるとおりで、それで日常言語から「体験」の意味を伺うと、仏教用語で
言う「三業による所作」の意味しかないと言ってるわけで、異論があるなら、「非三業
の体験」があるというなら説明を何度もキボンしてるわけですが。それに、あなたは、
「非三業の体験」の「有無」について言明してません。どっちなんでつか?

>私の広辞苑が古いんでしょうか。「内界の変化の過程」みたいなことも
>書いてあったように記憶しているんですが、あなたのには無いですか?

さあ? 私のは電子辞書ですが、その通りの文言は見つかりません。それに、
>「外界と自分自身との相互作用の過程や自分の内面の変化の過程」
というのも、仏教用語で言う「三業」のカテゴリーに入ると思いますが。
980: 977 2006/06/19(月) 23:33:22 ID:GJdvKjoL(2/2)調 AAS
>>978
なるほど。ありがとう。ミクロの世界だねぇ。

ぐぐったらこんなのもあったわ。スマン。

外部リンク[html]:www2.big.or.jp
名号は 不思議な慈悲で
合点がいらぬ
合点いらぬが 南無阿弥陀仏
981: 925 2006/06/19(月) 23:43:13 ID:8IfmFH7I(1/2)調 AAS
>>975-976
>ハッキリする一念を意業で覚知しなければ信心といえないなら、
それは他力の信とは言えない。

あなた方が「初発の一念の覚知」にこだわるから
「それなら後続の二念以降は覚知はどうなるんですか。
真実信心は三業では覚知できないなら、信心決定は本人にはわからない
という結論ですか?」とお聞きしているんです。
質問がわかりませんか?

>そこにある機の深信は慚愧の思いで頭を抱えるというようなものではないし、
法の深信も踊躍歓喜し始めるようなものでもないだろう。

二種深信は三業じゃないんですけど......
982: 名無しさん@3周年 2006/06/19(月) 23:47:47 ID:1KLeHNIf(2/2)調 AAS
>>971-972続き
>だから「迷いの三業の元」というのは三業なんですか、そうではないのですか?

「元品の無明」は、無始来で、業識を生み出す元だから、三業ではないです。

>だから後続の二念(?っていうのかな)以降の真実信心も覚知できないということか、
>って慶喜心の根拠をあげて御聞きしてるんですけど。

あなたも、「真心はかならず三業に表れますが、三業から信心は計れないと言っています。」
と言われてますように、「かならず三業に現れる」真実信心は、体験的に知ることができます。

>>974
>仏凡一体になってない、凡心だけじゃ何にもわからんのはごもっとも。
>「獲信見敬大慶喜」というのはいただいた仏心で法を見るんです。
>凡心と仏心が一体になって初めて見えるんです。

>>976氏が既に反論済みですけど、「仏凡一体」というのは、仏様の真実信心が、凡夫
の煩悩具足の心に満ち満ちて、当来の仏果の真因を頂いてるという「法徳」の上で言わ
れることであって、「機相」の上で、凡心が仏心に転ずるということではないというの
が、オーソドックス。だから、今生、機相の上で、凡心に見えなかったものが、信後、
仏心をいただいて見えるようになるという話ではありません。
983
(1): 925 2006/06/19(月) 23:50:12 ID:8IfmFH7I(2/2)調 AAS
>>979
>自分の内面の変化の過程」というのも、
仏教用語で言う「三業」のカテゴリーに入ると思いますが。

内面がどうして三業に限定されるのか、教えていただきたいものです。
「思います」ではね。

>「迷いの三業の元」というのは三業なんですか、そうではないのですか?

これはどう思います?疑情がやぶれるのは内面の変化ではないわけですか。
自分にはわからないと?
984: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 00:04:47 ID:n6SEFM1z(1)調 AAS
>>983
>内面がどうして三業に限定されるのか、教えていただきたいものです。

衆生の内面の変化も、業の所作だから。

>これはどう思います?疑情がやぶれるのは内面の変化ではないわけですか。
>自分にはわからないと?

機相の上では、「内面の変化」でしょう。だから、二念以降は、自分でわかり
ます。
985: 名無しさん@3周年 [時間] 2006/06/20(火) 00:38:37 ID:gdfMy838(1)調 AAS
>>240
>>272-273
986: 925 2006/06/20(火) 13:23:39 ID:59QpNAas(1)調 AAS
>機相の上では、「内面の変化」でしょう。だから、二念以降は、自分でわかり
ます。
>内面がどうして三業に限定されるのか、教えていただきたいものです。
>衆生の内面の変化も、業の所作だから。

疑情は三業ではない。
しかし疑情が破れるのは自分でわかる内面の変化である。
初一念はわからないが後続の二念以降はわかる。

これでよろしいですか?

午後から仕事で出張なので2日ほどお返事できません。
多分次スレになっているんでしょうがまた帰ってきたら書き込みしたい
と思います。ではでは。
987: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 18:22:48 ID:Si8+GshB(1)調 AAS
某コテみたいな去り方だな
988: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 21:56:31 ID:ezOV37rh(1)調 AAS
ハルヒって見たこと無いけど
動画リンク[YouTube]

こんなのがあがってたよw
989: 名無しさん@3周年 2006/06/20(火) 23:17:16 ID:Z1K7uZdD(1)調 AAS
誤爆?
990: 名無しさん@3周年 2006/06/21(水) 19:52:08 ID:BlEhvp/r(1)調 AAS
990
991: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 02:28:00 ID:eu169uYQ(1)調 AAS
急にボールが来たので991
992: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 03:23:34 ID:ioghEWdC(1)調 AAS
547 名前:名無しさん@6周年[] 投稿日:2006/06/22(木) 02:51:24 ID:NpsBbOOQ0
画像リンク

急にボールが来たけど、守るべき小さな命を守り抜いた平成のサムライ柳沢
993: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 20:59:43 ID:UciCk7LD(1/6)調 AAS
帰命無量寿如来
994: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:00:17 ID:UciCk7LD(2/6)調 AAS
南無不可思議光
995: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:00:52 ID:UciCk7LD(3/6)調 AAS
法蔵菩薩因位時
996: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:04:28 ID:UciCk7LD(4/6)調 AAS
在世自在王仏所
997: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:06:11 ID:UciCk7LD(5/6)調 AAS
覩見諸仏浄土因
998: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:07:10 ID:UciCk7LD(6/6)調 AAS
国土人天之善悪
999: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:09:49 ID:86jKe4HV(1)調 AAS
浄土真宗本願寺派 [19拍]
2chスレ:psy
1000: 名無しさん@3周年 2006/06/22(木) 21:14:36 ID:SBNDOZbT(1)調 AAS
南無
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