[過去ログ] 浄土真宗本願寺派 [18願] (1001レス)
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828(2): 名無しさん@3周年 2006/06/04(日) 12:49:11 ID:RgYgzJkg(1)調 AAS
バカ僧侶と妻がほざいてますよ外部リンク:diary.raix.raindrop.jp
829: 名無しさん@3周年 2006/06/04(日) 17:44:32 ID:pmQEFdt9(1)調 AAS
>>828
炎上寸前ww
830(1): 名無しさん@3周年 2006/06/04(日) 17:58:28 ID:rc4r1UKq(1)調 AAS
>特に、宗祖親鸞聖人は、肉食妻帯し、
>在家の生活の中で真実を問いたずねていかれた方です。
>外部リンク[html]:www.tomo-net.or.jp
>の7番の文章でも読んでみて下さい。
師(親鸞聖人)と仰ぐ方を一介の僧が自分に準える事はよくある事なのですか?
一般人の私には、自分への批判を受けた場で師の言葉を引用するという行為は
師を陵辱、嘲笑う行為に見えてしまいます。
師は仰ぐものと教わりましたが、彼がしていることは逆の行為にしか見えません。
また妻の反論を読んでも、僧である夫に敬意を払っているとは思えません。
敬意を払っているのであれば、僧としての姿勢を問われている場で、
趣味である音楽の姿勢を語ることはないと思います。
匿名掲示板へ投稿するのは同じ宗派の方が私の考えについてどう思われるか知りたかったからです。
ご返答を頂ければ幸いです。
831: 名無しさん@3周年 2006/06/04(日) 21:21:27 ID:7fsZWrWk(1)調 AAS
>>830
> 師(親鸞聖人)と仰ぐ方を一介の僧が自分に準える事はよくある事なのですか?
植木等のスーダラ節のエピソード知ってる?
> 匿名掲示板へ投稿するのは同じ宗派の方が私の考えについてどう思われるか知りたかったからです。
ん?あなたは本派の方?
832(1): 名無しさん@3周年 2006/06/04(日) 22:21:24 ID:vwopwS4M(1)調 AAS
都会の人間には通用しないのかね。
反論があると思うが、住職が門徒の家に逝かないような寺は真宗の寺とは言えない。
833: 名無しさん@3周年 2006/06/04(日) 22:27:12 ID:Re6XwY19(1)調 AAS
>>832
西本願寺は?
834: 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 01:39:10 ID:9leCg7FN(1)調 AAS
西本願寺と言う寺はない。
835: 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 09:38:48 ID:4oCwuncV(1/2)調 AAS
>>828
ワロスwwwwww
雷頭おかしーなこれwwwwwww
嫁も頭わりーレスかえしちゃってるしwww
なんつーか、僧侶たるもの自己の行為に常に慎重になるべし。って言いたくなるなぁこりゃwww
査問委員会でも動かしてみるか?w
836(1): 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 11:12:03 ID:4oCwuncV(2/2)調 AAS
例の法名のヤフオク出品、また出てるな
外部リンク:page5.auctions.yahoo.co.jp
うたい文句に色々おかしなところがあるから、詐欺に近い気もするんだがどうなんだろ?
837: 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 12:21:20 ID:THhPqcGo(1)調 AAS
うたい文句はメチャクチャだが、本山が帰敬式をすすめる
文句もメチャクチャ。
優婆塞・優婆夷の形体たりながら出家のごとく、しひて
法名をもちゐる、いはれなき事(改邪鈔10)
838: 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 14:44:37 ID:qt7omg7e(1)調 AAS
変なのを放置すると蔓延して手がつけられなくなるな。
組織は自浄作用がないと崩壊するのは歴史の鉄則。
839: 旅の名無し 2006/06/05(月) 15:09:14 ID:PEvBsae4(1)調 AAS
ちょっと失礼いたします。
じつは、創価学会って日本人を差別してるって知ってました?
創価学会の『池田大作』名誉会長は在日朝鮮人で
本名 成太作(ソン・テチャク)
その他の幹部も在日朝鮮人で日本人は幹部になれません。
これって差別だと思いませんか?
それでは旅の途中なのでこれで失礼いたします。
ごきげんよう。さようなら。
840: 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 21:07:01 ID:MCMlvuHe(1)調 AAS
不戦の国で生きたい 北海道 教育基本法改悪阻止へ共同
外部リンク[html]:www.jcp.or.jp
> 浄土真宗本願寺派一乗寺の殿平善彦住職は
>「人は『信心』が保障されないと、本当の意味では生きられない。
>教基法を変えれば、私たちの心の内側を縛り付け、
>日本とアジアの間に深い対立を生むことになる」と発言しました。
しんぶん赤旗 2006年6月5日(月)
841: 名無しさん@3周年 2006/06/05(月) 22:32:30 ID:b4zu3Gpj(1)調 AAS
小武正教先生は頑張ってるね。
中核派と足並みを揃えるのもどうかと思うが。
外部リンク:8408.teacup.com
外部リンク:6254.teacup.com
842: 名無しさん@3周年 2006/06/06(火) 02:17:40 ID:Y/8ODLcJ(1)調 AAS
>>836
詐欺ではないと思うが説明文にうさん臭さはあるな
843: 名無しさん@3周年 2006/06/06(火) 10:19:20 ID:0usApN/o(1/2)調 AAS
木版法名は、お札を売らない浄土真宗の大切な収入源・・・
は、冗談としても、いっそ帰敬式受式タダにするか、受式者名簿
への登録だけにして、何も持ちかえらさないか・・ ですね。
844(2): 名無しさん@3周年 2006/06/06(火) 11:52:34 ID:+Kdu6gga(1)調 AAS
本山宗務部に電話してみた。
「インターネットのオークションの・・」って言ったところで「あぁ〜」ってw
一応結構な数の報告上がってるみたいで、対応中らしい。
職員カワイソスw
あと、出品者への質問、最初の質問が削除されてるぽくね?
845(2): 名無しさん@3周年 2006/06/06(火) 13:41:24 ID:0usApN/o(2/2)調 AAS
>対応中らしい。
「年月日、何県何様お買い上げ」とか書いて、受式者が特定
できるような表示をするだけで、転売はできなくなる。
(こんな書式を安易にバラまいていると、度牒でもネット競売)
846: 名無しさん@3周年 2006/06/06(火) 21:12:00 ID:uqc5zpSd(1)調 AAS
国連協会京都本部本部長に大谷光真・浄土真宗本願寺派門主を選任
外部リンク[php]:www.kyoto-np.co.jp
京都新聞 2006年6月6日(火)
847: 名無しさん@3周年 2006/06/06(火) 22:14:17 ID:GBOKko/N(1)調 AAS
俗名をどっかに書いておくだけでもいいだろうになあ。
848: 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 00:34:06 ID:BnRsji9M(1)調 AAS
>>845
それをしても旧版そっくりなものを作って売られたら・・・。
・・・あ、普通に詐欺事件か。
現在、本山は法名の管理してるの?
昔は管理してなかったから、同一人物が何度も帰敬式を受け、
何度も法名を受けられた、と聞くが。
849: 845 2006/06/07(水) 10:09:21 ID:ScBtSn93(1)調 AAS
仮に模造としても、詐欺は難しいですよ。まあ、著作権法違反
(こんな簡単な書式が「著作物」か?)なんかで立件です。
「法名拝受」だけなら、「交通安全」や「ガン封じ」のお守り
と同じレベルで、簡単に詐欺と決め付けられません。
無記名の紙片を、何か価値のあるもののように安易に下付して
いることが問題でしょ。
850(1): 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 12:54:27 ID:X/DPgjlf(1)調 AAS
法名は真の仏弟子になったひとがいただくもので
売り買いするものではありません。
祖師聖人は、機の深信からご自分を「極悪低下の者」と知って「愚禿」と言われ
またそういう者が本師本仏に救われてお釈迦様の御弟子にさせていただいた、
真の仏弟子であるという法の深信から「愚禿釈」と名乗られています。
信心決定しているか、どうかが要です。
851(1): 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 21:18:21 ID:mrtNwiAI(1)調 AAS
つボイノリオ 10年ぶりリミックスメドレー発売
外部リンク:chuspo.chunichi.co.jp
中日スポーツ 2006年6月1日 (斎藤正和)
852: 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 22:05:03 ID:frdVtdRt(1)調 AAS
>>844
電話乙です
853: 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 22:35:56 ID:jk8KURsT(1)調 AAS
>>844
削除されたみたいだね
外部リンク:page5.auctions.yahoo.co.jp
質問2投稿者:sm6021 (103)6月 5日 15時 6分
はじめまして。何点か質問させていただいてよろしいでしょうか?
法名をふたつお願いしたい場合は、複数落札することは可能でしょうか?
法名は例示ということですが、法名の指定?をどのようにするか、
わからないのでどうすればよいのでしょうか?ご回答よろしくお願いします。
回答2投稿者:hyundaishin (50) (出品者)6月 5日 22時 31分
法名をふたつ希望される場合は、複数落札を承ります。
法名の指定(内願法名)には所属寺院の住職の紹介が必要です。
法名の指定(内願法名)をご希望であれば、ご縁のある本願寺派寺院にご相談下さい。
以上、よろしくお願いします。
854(1): 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 22:49:45 ID:jB73zznb(1)調 AAS
>>850
信心決定してるわけがない赤ん坊でも法名はもらえるシステムだが。
855(1): 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 22:50:56 ID:qqDBHJIr(1)調 AAS
>>851
「本願寺ぶるーす」は放送禁止歌と言われているけど
東西本願寺等からクレームをつけたというような
事実はあるの?
じっさい歌詞も放送禁止にするほど問題あるようには
思われないんだが…
それよりも繰り返される「他力本願」発言のほうが
よほど(・A・)イクナイ希ガス…
856: 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 22:54:03 ID:RVJWh4it(1)調 AAS
浄土真宗本願寺派(西本願寺)御門主より拝受の法名(男性用)
外部リンク:page5.auctions.yahoo.co.jp
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落札者: ichijyu10 (1)
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入札単位:1,000 円
出品地域:大阪府
開始日時:5月 31日 20時 58分
終了日時:6月 7日 21時 11分Yahoo!カレンダーに終了日時を登録
オークションID:e58084861
入札の記録:
[6月 7日 21時 11分] ichijyu10 入札して落札。数量: 1 で 50,000
[5月 31日 20時 58分] オークション開始。数量: 1 で 50,000
857: 名無しさん@3周年 2006/06/07(水) 23:55:54 ID:kWBD3eJM(1)調 AAS
落札GJ
858: 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 00:12:45 ID:33z/xk/9(1)調 AAS
>>855
本願寺ぶるーすのクレームは聞いた事がない。
他のは聞いたが。
859: 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 00:49:45 ID:+swgXD6Q(1)調 AAS
>>854
スルー汁
860(2): 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 08:38:52 ID:JsmklbmO(1)調 AAS
>赤ん坊でも法名はもらえるシステムだが。
赤ん坊でも信心いただけるというのは土蔵秘事の特徴のひとつでしょ。
システム自体がそういう方向に走っているのかな?
生まれたときから宿善開発している子供がいるわけではないから
「宿善開発して善知識にあわずば往生はかなうべからず」で
教えを聞けなければ信心決定できないでしょう。
教えを聞ける子供なら、信心はいただけるでしょうが。
861: 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 11:33:18 ID:ThzLIGdG(1)調 AAS
赤ん坊なんて問題じゃない。ブッシュでもコイズミでも、没後なら
法名をもらって、「本願力に遇いぬれば・・かの仏国に到る」
(葬場勤行の表白)ですよ。
862: 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 12:54:10 ID:0/M+tPN8(1)調 AAS
>>860
信心が大事と、いいたいことはよく分かるのだが、
信心決定の印として法名を与えるのも土蔵秘事の特徴な気が・・・
863: 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 20:44:22 ID:5lknKVqh(1)調 AAS
つか、ふと思ったが、故人は浄土でお生まれになりましたと言う一方で、遺体におかみそりするのに何の意味があるのだろうか?
864: 名無しさん@3周年 2006/06/08(木) 22:33:35 ID:A3fw+gqZ(1)調 AAS
863
ただ、なんとなく
865: 名無しさん@3周年 2006/06/09(金) 08:32:56 ID:napCYJUC(1/3)調 AAS
>信心決定の印として法名を与えるのも土蔵秘事の特徴な気が・
信心を認可するとしたら土蔵秘事だな。
おかみそりは仏門に入る儀式として仏縁を結ぶ意味がある。
発菩提心や十九願にあたるはずだが、西本願寺が
そういうことをしているのはおかしいのでは?
それともおかみそりで信心を認可しているのかな?
866: 名無しさん@3周年 2006/06/09(金) 08:34:54 ID:napCYJUC(2/3)調 AAS
死人に法名をつけるのは残ったひとの仏縁を
念じているだけだろう。
逝ったひとには関係ないことだし。
867: 名無しさん@3周年 2006/06/09(金) 08:38:10 ID:napCYJUC(3/3)調 AAS
庄松同行がおかみそりに京都に行ったのも御恩報謝でしょ。
信心いただきにいったのではないよね。
868: 名無しさん@3周年 2006/06/09(金) 09:13:11 ID:9fIQ6Hc9(1)調 AAS
いっそ、帰敬式なんかやめて信徒登録。木版法名はやめて
信徒登録証(「俗名某を信徒として登録するが信心決定の
証明でない」、法名引換券つき)にでもすれば、転売はでき
ないよ。
869: 名無しさん@3周年 2006/06/09(金) 12:44:33 ID:EIa16ut4(1)調 AAS
信心獲得に法名も糞のあるかよ。
何くだらない話してるんだ!
870: 名無しさん@3周年 2006/06/10(土) 19:20:42 ID:lIcx7CMD(1)調 AAS
そもそもこの御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝
徳をなさんとおもいて、聖人の御まえにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲
得せしめたるひともあるべし。また不信心のともがらもあるべし。もってのほか
の大事なり。そのゆえは、信心を決定せずは、今度の報土の往生は不定なり。
報恩講に参詣しても、信心決定しているひととしていないひとがあります。
未信は一大事ですよ。
871: 名無しさん@3周年 [sage うざ] 2006/06/11(日) 00:19:27 ID:mGWc807r(1)調 AAS
・・・
872: 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 01:58:37 ID:UgaQT6Zp(1)調 AAS
武田達城先生は未来の総長です
873: 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 08:12:14 ID:TH14ajgG(1)調 AAS
この信心をうるを慶喜というなり。慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。
慶は、よろこぶという。信心をえてのちによろこぶなり。喜は、こころのうちに、
よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。うべきことをえてのちに、
みにも、こころにも、よろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、
「分陀利華」とのたまえり。
永久の闇より救われたよろこびをお伝えいたしましょう。
874(2): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 15:39:05 ID:puQXpAiT(1/2)調 AAS
質問よろしいでしょうか。
母が亡くなってから父の友人に戴いた般若心経の写経を読んでおりますが
もしや阿弥陀さまに失礼だったかと心配しています。
このまま読み続けてもいいのでしょうか。よかったら御返答願います。
875(1): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:07:06 ID:4DH17/GM(1)調 AAS
>>874
>もしや阿弥陀さまに失礼だったかと心配しています。
失礼ではありません。
>このまま読み続けてもいいのでしょうか。
宗旨にもよりますのでお好きにどうぞ。
876(2): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:17:49 ID:8o6LLk0R(1)調 AAS
浄土真宗とは・・
阿弥陀の救済を信じる信心決定を仏の悟りにも等しい
とする親鸞聖人の教え
と
(それだけじゃ、信心があれば坊主も寺も不要になる
から)儒教道徳の「恩」を説いて本願寺に貢がせる
覚如上人・蓮如上人の教え
で構成された奇妙な宗教
877(2): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:46:33 ID:+U2gdT6F(1/2)調 AAS
親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそう
らわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。いず
れもいずれも、この順次生に仏になりて、たすけそうろうべきなり。わがちから
にてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわ
め。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、
いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなりと
云々
親鸞は読経どころか念仏さえも父母孝養のためにしたことがない。
自分のちからで善根を励み真実の善のできる身であれば念仏、読経の功徳を父母に
回向するということもあり得るだろうが、雑毒虚仮の善しかできぬ身であれば
自分自身が地獄しか行き場のない罪悪生死の凡夫。人に善根を回向して助ける
などということができるはずがない。
ただ阿弥陀仏を一向にたのみ信心決定して、浄土に生まれることがまちがいない身に
なってこそ往相還相の二種の回向をいただいて弥陀同体のさとりをひらくことが
できるのだ。
小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき
弥陀の願船しか私たちを渡してくださる船はないことをよくよく知っていただきたい
と思います。
878(1): 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 19:54:36 ID:+U2gdT6F(2/2)調 AAS
それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸
仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。しかればここに
弥陀如来ともうすは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏とし
て、いまのときの、諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人を
ば、弥陀にかぎりて、われひとりたすけんという超世の大願をおこして、われら
一切衆生を平等にすくわんとちかいたまいて、無上の誓願をおこして、すでに阿
弥陀仏となりましましけり。この如来をひとすじにたのみたてまつらずは、末代
の凡夫極楽に往生するみち、二つも三つもあるべからざるものなり。
諸仏に見捨てられ、弥陀一仏が「われひとり救わん」と立ち上がってくださったのです。
般若心経を読んで何をしようとされているのか、我が身をよくよく問いつめて
ください。
「逆謗を救うぞ」とあなたのために誓われた弥陀を十劫の間待ちぼうけをくわせて
いつまでも我が身知らずで雑行を捨てないあなたを見て弥陀は泣いておられますよ。
879: 874 2006/06/12(月) 21:36:14 ID:puQXpAiT(2/2)調 AAS
>>875-878
いろいろご意見下さってありがとうございます。
毎日仏壇を整えること以外母に何もしてあげられないので
せめて読経をと思い続けておりました。
会話ができない寂しさもあって読んでいたのかもしれません。
しかし母が本当に望むことを私は疎かにしていたと思います。
読経のことはあまり考えすぎないようにしようと決めました。
スレ汚し失礼いたしました。
880: 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 23:02:57 ID:jZrg3dRD(1)調 AAS
仏説阿弥陀経と正信げをあげましょう
881: 名無しさん@3周年 2006/06/12(月) 23:31:32 ID:1iATbLQA(1)調 AAS
>>877
いや、たぶん法然上人と出会う前、比叡山時代には父母孝養のために読経したことはあると思う。
念仏は父母孝養のためにしたことはないはずだけど。
882: 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 01:50:03 ID:/o+7OtnN(1)調 AAS
信心決定の人は日曜日が忙しい人か
883(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 13:05:34 ID:LHuz/ypn(1)調 AAS
>比叡山時代には父母孝養のために読経したことはあると思う。
比叡山でも念仏の行はありますよ。
親鸞聖人が言われたのはそういうことではないでしょう。
884: 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 19:31:44 ID:JhNtnMzS(1)調 AAS
亡くして初めて知る親の御恩ですね。
「恩を知るは大悲の本なり、善根を開く初門なり」と
教えられています。
無常と自己の罪悪を観じて仏縁を求めてください。
874さんに仏縁が恵まれることを念じております。
885(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 20:23:37 ID:qgcjLEmF(1/2)調 AAS
>>883
聖人は比叡山時代に念仏の行をしたとでも?
886(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 22:08:35 ID:B0K5fMgh(1)調 AAS
>885
あほか、常行三昧堂の堂僧(堂に仕え勤行を修する僧)だったのにやらいでか。
887: 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 22:41:32 ID:qgcjLEmF(2/2)調 AAS
>>886
それは自力の念仏ですか?何のための念仏ですか?
888(1): 名無しさん@3周年 2006/06/13(火) 22:43:50 ID:MVmc5oHr(1)調 AAS
ダヴンチ・コードを見ても(小説だから真偽はいろいろあるにしても)ローマ帝国が
キリストを神にしたとか、お釈迦さまも竜樹の時代の前頃から生まれながらの仏さま
にする考え(久遠仏)が出て来ていたとかあるが、親鸞さんも生まれながらの浄土真
宗の開祖にしたくなる御仁が出てくるんだろうか。それぞれ人間だからいいところが
あると思っているのだが、洋の東西を問わず似た現象は起きるもの。
889: 真如 2006/06/14(水) 03:11:57 ID:yiNGIEZR(1/5)調 AAS
親鸞は南無阿弥陀仏の意義を細分化して、阿弥陀回向の他力信心と言う処まで突き詰めたが、そこまで突き詰める事は親鸞にとって重要だったのであって、一般の人にはさして重要じゃない。全くと言って良いほど重要じゃない。
890(1): 真如 2006/06/14(水) 03:41:31 ID:yiNGIEZR(2/5)調 AAS
一般の人にとっては、念仏が自力か他力かなんて議論自体、無意味だ。
ご先祖様になんかありがたい念仏をあげれば良いだろう、そんな感じだ。
しかしそれでいいんだ。大切なのは南無阿弥陀仏ととなえ念じさせる事だと思うから。
891(1): 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 04:19:56 ID:YP3slg/p(1)調 AAS
>>890
そういう人、そういうお念仏のいただきぶり、でさえも、
阿弥陀様は救って下さいますよ、と御開山はおっしゃったです。
892: 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 04:24:19 ID:aEP3nHig(1)調 AAS
>>891
必ず救うと誓願を立てられた。しかし、彷徨い続けるのは止めて、平生業成させて
もらいましょう。
893: 真如 2006/06/14(水) 04:58:20 ID:yiNGIEZR(3/5)調 AAS
念仏を肉に例えれば、この肉はどこの店から買ったのか、どこの産地か知るのも大切かもしれん。自分で買うか他人に買ってもらってなおかつ料理してもらうか、違いがあるだろうが。
しかし結局はみな、肉を食べれば栄養になり血肉となる。
念仏をとなえるのも同じ事だ。となえれば念じれば、自然に仏果を得る。
店や産地を知るのは、肉を食べる助けになるだけの事だ。肉には古いか新鮮さかの違いがあるが、南無阿弥陀仏にはそれが無い。南無阿弥陀仏はそれだけで尊いからだ。
自力か他力かなどどうでもいい。南無阿弥陀仏をとなえ念じる事こそ重要だ。南無阿弥陀仏
894: 真如 2006/06/14(水) 05:08:36 ID:yiNGIEZR(4/5)調 AAS
いや待てよ、阿弥陀さんから信心を頂いている、と思う事も、いわば南無阿弥陀仏の変化形だな。失敬失敬
895(1): 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 06:39:26 ID:80kG2KgA(1/2)調 AAS
アミダさまに頼るだけでいいんだというなら、なぜ大伽藍を造営し仏壇を麗々しく
荘厳し大教団を維持しなければならないんだ。
親鸞さんはお寺も弟子もいらんと言っておられたんではないか。
親鸞さんの教えを護り多くの人の賛同を得ないといけないとの思いが、壮大な装置を
必要としているんではないか。現実問題、アミダさまに頼るというのは一大事業でも
あるのではないか。その覚悟は、ある意味必死なことではないか。
「自力か他力かなどどうでもいい。称名念仏しなさい」と言って「ああそうですか」と
こっちへ来た人は、他から祈伏されるとすぐにあっちへ行くんではないか。心底をつき
固めるにはそれなりの手順が大事だと思うがどうか。
896: 真如 2006/06/14(水) 10:00:46 ID:yiNGIEZR(5/5)調 AAS
895さんは、心底を突き固めた経験なり手順なり、があったのだろうな。
897: 895 2006/06/14(水) 11:35:44 ID:80kG2KgA(2/2)調 AAS
月曜日の昼、京都南を通ったので本願寺へお参りして門徒会館で昼飯を食った。
境内にも会館地下の食堂でも新発意か学僧らしい若い僧が大勢見えた。行き交う
人に挨拶するのもいないのもいた。しかし得度をしたんなら一度でいいから剃髪
くらいしたらどうかと思った。このスレの前にも信心決定が大事と書いてあった
が、決心をそういう形で一時期であれ示すのは大事なことではないかと思うが、
どうか。踏絵になって酷だという人もいるかな。普通の会社でも新入社員は全員
こざっぱりした頭髪服装になっていて新人だなと分かるものだ。失敗しても免罪
符になるせいもあるが。
898: 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 13:21:15 ID:QP0EZjN8(1)調 AAS
普段から剃髪してます。
ちょっとめんどくさい時は丸坊主ですが。
特に決意がどうこうというつもりではないですが、袈裟着たときに一番ピシッと似合う頭はやはり坊主頭だなぁと。
作務衣にも似合うと思うし。
格好からでゴメンw
899(1): 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 16:59:56 ID:oOkWrqaB(1)調 AAS
かの無碍光如来の名号よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまう、
しかるに称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば、実の
ごとく修行せざると、名義と相応せざるに由るがゆえなり。
「名号にはすべての人の無明を破る力があるけれども
念仏を隙無しに称えていても無明が破れずに信楽のこころになれない者がある」
そういうひとの称える念仏を蓮師は
「それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、なにの
分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにお
もえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。」と言われたのです。
十九願、二十願、十八願の念仏はそれぞれ称え心が違います。
十八願のお念仏を称える身になっていなければ往生はできません。
900(2): 900 2006/06/14(水) 21:57:24 ID:ZbfiKAPS(1)調 AAS
>>899
人間に十八願のお念仏なんてできんのかよ
901: 名無しさん@3周年 2006/06/14(水) 22:43:28 ID:wtmqaeTt(1)調 AAS
>>900
できます。
阿弥陀仏のお力でできるのです。
902: 真如 2006/06/15(木) 00:39:57 ID:fFu15zrY(1/5)調 AAS
あのさ、阿弥陀さんから信心も念仏も頂いている、と認識する事で十八願念仏とするなら、念仏の力じゃなくて、「認識」の力によって念仏は十八願になったり、そうじゃなくなったりすると言う事になるからね。
認識で念仏を操作出来るものかねぇ。操作出来なくて認識も関係無いのが念仏なんじゃないかと思うがなぁ。認識で念仏の効用が変わると説いた所が親鸞の言い過ぎた所なんだよな(笑
903: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 04:40:07 ID:28ZHI/UH(1/3)調 AAS
そのハンドル、恥ずかしくないかい?
というのはいいとして、あんさんの理屈だと機の部分がないね。
法だけ説くのならば「念仏する、させる」でいいんだけれどさ、
凡夫という機があるから本願の念仏という法があるんであって、
機の部分が欠けると本願もいらなくなるのよ。
あんさんの認識っつうのは念仏の細分化のようだが、
親鸞聖人がこだわったのは「私」の機の部分。しかも、
細分化というより明確に顕したというのが正解でしょう。
徹底的に機を見つめられたから報恩感謝の念仏ということになるのよ。
報恩感謝の念仏っていうことは、凡夫の計らいだっていうことと同じなの。
だからこそ、自分の凡夫性に気が付いた人は安心して称えられるの。
904: 真如 2006/06/15(木) 09:48:23 ID:fFu15zrY(2/5)調 AAS
903
あなたの言う「安心して」の「安心」とは、どういう心持ちを言うのですか?
905: 真如 2006/06/15(木) 10:13:41 ID:fFu15zrY(3/5)調 AAS
そんな「安心」をいつまでもふりかざしておってもな、誰もありがたいなんて思わんて。
坊さんの言う事やからとみんな仕方無しに聞いてるだけなんやからな。
そういう現実っちゅうもんを、ここらに来てる坊さん方はどのくらい認識しておられるのでしょうかねぇ。
906: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 11:16:33 ID:28ZHI/UH(2/3)調 AAS
法だけ語る方が上滑りしてしまうんだよ。
「おまえは阿弥陀如来になったつもりか」ってね。
理由であるところの機を説かず、人を子供扱いして
頭ごなしに念仏申せということですからね。
あ、だからそのハンドルなのか。(失礼)
だから法と同時に機も説かなきゃならない。
これは難しいよ、自分を語るということだから。
それと、安心の心持ち?
人に尋ねるということは、あなたは安心していないのね。
・・・最近は口で念仏をしていても、自己を見つめる作業をする人がいなくなったのかねぇ。
907: 真如 2006/06/15(木) 11:31:23 ID:fFu15zrY(4/5)調 AAS
あなたの事いくら聞かされたって、仕方無いんだよ。十八願とか他力がどうとか、機がどうの自己がどうのとか、そんな事言われても、心に届かないって事なんだよ。
あなたお坊さん?
908: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 11:37:46 ID:t1fan0RT(1)調 AAS
真如=渡海難事故
909: 真如 2006/06/15(木) 11:48:54 ID:fFu15zrY(5/5)調 AAS
ハンネがどうとか、しまいにゃ他人扱い…わかったわかった、もう来ません。一生十八願念仏とやらをありがたがってろ。上滑りなのはどっちだろうかね…
910: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 11:49:10 ID:28ZHI/UH(3/3)調 AAS
法を聴くっていうこと、これは念仏だけではなくて
仏法としても良いけれど、常に我が事として聴くんだよ。
他人事として聴いているなら無駄な時間でしょうね。
無駄な時間にするか一期一会のご縁とするかは、
聴いている一人一人の心持ち次第。
911(1): 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 14:32:22 ID:HkokLrS2(1)調 AAS
流れを中断するようで悪いが、
この前、西本願寺という寺はないって書き込み在ったな。
境内北に隣接の駐車場入り口の立て看板には、西本願寺って書いてある。
築地本願寺もパンプレットはそうだったような。
オレは通称でいいと思うが、固いこという人にこういうことで話の腰を
折られるのウザイ。法の話も似たような感覚がある。
912: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 19:31:23 ID:6hOJOBuU(1)調 AAS
「他力の念仏は往生すべし。自力の念仏はまったく往生すべからず」
(法然上人)
913: 名無しさん@3周年 2006/06/15(木) 22:31:57 ID:/llNx3+X(1)調 AAS
>>911
うむ、朝には紅顔ありての著者略歴にも「西本願寺住職」とあるよな。
914: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 01:14:08 ID:BZFrxkpT(1)調 AAS
■■オタク殺到■■ 戦国武将縁の寺・神社 ■■
2chスレ:kyoto
915: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 20:08:32 ID:49/uiSCg(1)調 AAS
>あなたの言う「安心して」の「安心」とは、どういう心持ちを言うのですか?
安心は信心のこと。
真宗では二種深信のことを信心というのです。
二には深心、深心と言うはすなわちこれ深信の心なり。また二種あり。
一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に
流転して出離の縁あることなし」と深信すべし。
二には決定して「かの阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂受したまう、疑いなく慮なく
かの願力に乗ずれば定んで往生を得」と深信せよとなり。
今この深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
これが他力の信心です。
信心といえる二字をばまことのこころとよめるなり。まことのこころというは、
行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆえに、
まことのこころとはもうすなり。
また名号をもってなにのこころえもなくして、ただとなえてはたすからざるなり。
916(1): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 20:45:57 ID:ISYlVwZ8(1)調 AAS
>一には決定して「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に
流転して出離の縁あることなし」と深信すべし。
よく間違われているのは、信心決定すれば「救われるはずのない者が救われた」
ということに関して「結局救われる」と思っているひとがあること。
「出離の縁あることなし」で弥陀の本願からも除かれて助かる縁手がかりが
永遠に無い自分ということがハッキリするのが機の深信。
永遠に救われることのない自分と誰が救われなくても自分だけは浄土往生まちがいない
ということの両方が同時にツユチリの疑いなくハッキリする。
だから不可称、不可説、不可思議。
これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
917(8): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 21:03:43 ID:sDzmLEQn(1/4)調 AAS
>だから不可称、不可説、不可思議。
「おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、
造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、
頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、
有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、
ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。
たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。
だね
ただし、信楽が「不可思議不可称不可説」なのは
「しかれば大聖(釈尊)の真言、宗師(善導)の釈義、まことに知んぬ、
この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。
これを至心と名づく」
と、それが「不可思議不可称不可説」である如来の至心、真実心で作られ回向された名号を領受したため。
だから、如来の至心=名号=信心は誰でも同一である。
けれども、その信心から起こる歓喜に関しては人によって受け取りが違うといえる。
凡夫の感覚はすべて違うからね。
>これが体験できなければ真宗の「信心をもって本とせられ候」はわからない。
信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。
918: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 21:10:05 ID:sDzmLEQn(2/4)調 AAS
さらに「不可思議不可称不可説」を掘り下げれば
大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。
「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、
法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。
この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、
法性すなはち法身なり。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。
しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、
方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこして
あらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。
この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。
報と申すはたねにむくひたるなり。
この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに
尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。
無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。
しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。
919(1): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:07:20 ID:uI/iRqQO(1)調 AAS
>その信心から起こる歓喜に関しては人によって受け取りが違うといえる。
諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念
歓喜=欲生=(信楽の)楽だが、三心のいただきものが違うとでも?
三業の違うのは当然ですが。
>信一念にかんしては体験ではない、ということになっているよ。
根拠をあげて話してくださいね。
920(3): 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:37:20 ID:sDzmLEQn(3/4)調 AAS
>>919
>歓喜=欲生=(信楽の)楽だが、三心のいただきものが違うとでも?
ああ、語弊のある言い方だったね
たしかに’初起’の歓喜は信楽と同じくいただきものだし、非意業ってことに江戸宗学ではなってるよ
(歓喜初後という安心論題だね)
>三業の違うのは当然ですが。
第二念以後に三業にあらわれる歓喜はバラバラ。
>根拠をあげて話してくださいね。
そちらの教学でも言われていると思うが、信一念は人間の感覚ではとらえられない瞬間の出来事であるとされているだろ?
(こっちでは「信一念義」という安心論題になっている)
「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を顕すなり。」
成就文の「信一念」の一念は「時剋の極促」を意味する。
時剋の極促については有力な解釈が二説ある。
1)「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」(浄土文類聚鈔)
から時間の延び促み、これの「極促」つまり「時間のちじまりきった極限」であるとする説。
2)行巻の「奢促対」
「機に奢促あり、「奢」はおそきこころなるものあり、「促」は疾きこころなるものあり。」(銘文)
この場合の奢促は、おそいはやいの意味で、これから「極促」を「はやさ極限」であるとする説
で、どっちをとるにせよ「時剋の極促」は人間の三業で捉えることのできない瞬間ってことになる。
つまり、この初一念の信楽や歓喜は人間の三業ではわからない…ということになっている。
(だから宗学にとっては一念覚知説は異安心ってことになるわけだ)
後続の信心が非意業かどうかについては、たしか緒論があったと思う。
三業にあらわれる歓喜は万人で同一であるはずがないし、また四六時中意業にあらわれるって訳でもない。
921: 名無しさん@3周年 2006/06/16(金) 23:49:18 ID:sDzmLEQn(4/4)調 AAS
補足すると、
一念については、通仏教で二つの系統で言われる
1)きわめて短い時間、一瞬間を意味する。
サンスクリット語でeka-ksanaなどに対応
ksanaは刹那と音写される時間の単位。
九十刹那を一念とする説もある
2)心のわずかな働きを意味する。
サンスクリット語ではeka-citta-utpadaなどに対応
この心の内容によって初発心、発菩提(一念発起)わずかな信心、(一念信)また1回の念仏など、多様に用いられる
で、真宗では成就文の一念は、「時剋の極促」の意味で取っている。
夫按眞實信樂信樂有一念一念者斯顯信樂開發時剋之極促彰廣大難思慶心也
是以大經巻下言諸有衆生聞其名號信心歡喜乃至一念至心廻向願生彼國即得往生住不退轉
922: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 00:01:08 ID:zuJBKfVd(1/2)調 AAS
刹那(せつな)
仏教における最小の時間単位。
サンスクリット語クシャナksanaの音訳。
『大毘婆沙論』巻136の譬喩的説明によると、
「2人の成人男子が何本ものカーシー産絹糸をつかんで引っ張り、
もう1人の成人男子が中国産の剛刀でもって一気にこれを切断するとき、
1本の切断につき六四刹那が経過する」と述べられている。
2人の男がかりに5000本の絹糸をつかんだとすると、剛刀による一瞬の切断で
5000×六四刹那の時間が経過するから、一刹那の短さが想像されよう。
『大毘婆沙論』同所の科学的説明によると、一昼夜=三〇須臾{しゆゆ}、一須臾=三〇臘縛{ろうばく}、
一臘縛=六〇怛刹那{たんせつな}、一怛刹那=一二〇刹那である。
一昼夜を24時間として計算すると、一刹那は75分の1秒になる。
仏教哲学では「刹那」は、物質的、精神的、なかんずく精神的な現象の瞬間的生滅を説明するときに使われる。
なお、今日の「刹那主義」ということばの概念は仏教のものではない。
<定方 晟>
923(1): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 00:10:12 ID:gNNtC3Pc(1/2)調 AAS
信相の一念が無くなってしまったんですか?(笑)
歓喜が機相ではない、という邪義は昔からあります。
根拠をあげておきますからこれで十分ではないでしょうか。
御質問があればまたどうぞ。(今日はこれで寝ます)
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり。
「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり、です。
「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は如来の御ちかひをききて
疑ふこころのなきなり。「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、
「喜」はこころによろこばしむるなり。うべきことをえてんずとかねてさきよ
りよろこぶこころなり。
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて
疑心あることなし、これを聞といふなり。
「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。
「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、
信心二心なきがゆゑに一念といふ。
924(3): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 00:24:39 ID:zuJBKfVd(2/2)調 AAS
>>923
>信相の一念
いかんね、抜かったよ。
そっちの意味の一念は初一念から存在する。
「「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。
これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。」(信巻)
ただし、初一念は「時剋の極促」であり、その瞬間の信楽は非意業だ。
>歓喜が機相ではない、という邪義は昔からあります。
歓喜がないなどと一言も言っていないが?
初一念の歓喜は信楽と同じく非意業で、後続の歓喜は受け取り方が違うとは言ったがな。
それとも初一念から意業としての歓喜があるという説かい?
それこそ「歓喜正因」の異安心を許すことになる。
925(17): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 05:53:11 ID:gNNtC3Pc(2/2)調 AAS
おはようございます。今日は仕事があるので早目にお答えしておきます。
>後続の歓喜
機相として歓喜があるなら「体験ではない」というのは成り立たないでしょうね。
慶喜心も真実信心ですからいただいたなら一味です。
「一念喜愛心」は一念慶喜の真実信心よくひらけ、かならず本願の実報土
に生るとしるべし。慶喜といふは、信をえてのちよろこぶこころをいふなり。
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。
喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。
うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。
信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。
機相というのは三業だけではないんですよ。
無明とか自力とかがわからないと無理だと思いますけど。
機相と法徳がばらばらでは機法一体ではありません。真実信心ではない、ということです。
926: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 06:17:58 ID:xRTbJswO(1/2)調 AAS
門徒が唱えるお経と、僧侶が唱えるお経は、
どこがどう違うの?もし違いが無いなら、
法事は門徒だけが唱えて済ませていいのかな?
927: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 08:14:40 ID:zl0lLPLP(1)調 AAS
どこも違いやせんですよ。
読経だけなら門徒さんだけで済ませてしまうのも問題ないですな。
しかし法要っちゅーのは、読経してハイ終わり〜っちゅーもんでもないかと。
御法話も聞いて、み仏の教えに会わせていただいてこそ法要かと。
禿坊主の与太話なんぞききとーねーわ!ちゅーなら仕方ないっすがぁ・・・。
928: 名無し 2006/06/17(土) 08:23:36 ID:8HAUDpOK(1/4)調 AAS
お経に違いは無いと思う。しかし、同じお経を聞かせて頂く場に、僧侶も参加させて頂きたい、という思いがある。
そして、法事という場をご縁にして、ご遺族の皆様方が、仏様やお経、お念仏についてどのように想われているのか、お聞きしたい気持ちがある。
私もその中で、念仏に対する思いや考えを述べたい。
しかし、それは法事の場ではなくても良いのかな、という気もする。
929: 名無し 2006/06/17(土) 08:30:08 ID:8HAUDpOK(2/4)調 AAS
僧侶や寺族はもっと、ご門徒さんの声に耳を傾ける必要があるのではないかと感じる。
930(2): 名無し 2006/06/17(土) 10:08:27 ID:8HAUDpOK(3/4)調 AAS
たとえば月参りでご門徒さんの家に行くとします。ご仏壇にお札や他宗派の仏像がある所は沢山あります。しかし、そういう方でもお寺の行事に積極的に参加され、法座にもご聴聞されます。
逆に口に信心を言い、お念仏ありがたいとご門徒の前では言いながら、法務員を奴隷のようにこき使い、気に入らないと口汚くののしる住職もいる。
私にとっては、ご門徒さんの方がよほどありがたく、ご門徒さんに接するだけで、お念仏をとなえたくなる。バカな住職と朝の勤行をする度に、こんなバカ住職と同じ念仏など誰がとなえるもんか、と思ってしまう。
「法は人となり」
そう感じる今日この頃だ。私にとっての「よき人」とは、お聖経から出会うご開山様とご門徒様である。
931: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 12:01:18 ID:xRTbJswO(2/2)調 AAS
>>876
>>888
親鸞聖人やお釈迦さまなど一部の人は、
結局は後世の人の私利私欲のため好きなように扱われているわけ。
聖人の名を使って金儲け出来ているわけだし、
その時代時代に合わせて教えを都合のいいように解釈したりして、
うその上塗りをして教団を保っているわけ。
932(4): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 12:42:57 ID:HS3/ARQr(1/2)調 AAS
>>925
>機相として歓喜があるなら「体験ではない」というのは成り立たないでしょうね。
横レスすんまへんが、初一念の「初起の歓喜」は、「信楽」(仏心)の開発した相
であり、非意業であって、>>917氏の言う通り、「信一念にかんしては衆生の体験で
はない」でしょう。
後続については、「衆生の三業の上に」(だから、当然、機ごとに異なる)歓喜があ
ることは、>>920 >>924(0時過ぎて?IDが違うが、おそららく、>>917氏と同一人
物。)にもある通り。
>機相として歓喜があるなら「体験ではない」というのは成り立たないでしょうね。
>機相というのは三業だけではないんですよ。
「機相」って、「衆生(機)の三業の上の事相」のことを言うと思うのだが、別の意
味に定義してるのかな? 例えば、「性得の機の実相」(それを、信知させていただ
くのが、「機の深信」)とか?それならば、お互いの「機相の定義の違い」を、利用
して? 、「初一念」の話と。後続の話をごっちゃにしているとしか思えませんが。
>機相と法徳がばらばらでは機法一体ではありません。真実信心ではない、ということです。
これも、上と同じで、後続の衆生の三業の話と、初一念の話がごっちゃになっている。
933(3): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 12:50:07 ID:HS3/ARQr(2/2)調 AAS
>>932の続き
「衆生(機)の三業の上の事相」という意味での「機相」ならば、信後も変わらず、
「煩悩具足」であるから、「機相」と「法徳」が違うのは当たり前。
934(1): 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 17:47:26 ID:IgTIAg2+(1)調 AAS
>後続については、「衆生の三業の上に」(だから、当然、機ごとに異なる)歓喜があ
ることは、>>920 >>924(0時過ぎて?IDが違うが、おそららく、>>917氏と同一人
物。)にもある通り。
横レスだけど。
だから925は慶喜の根拠を出してるわけだろ。
後続の真実信心である慶喜心が機ごとに違う、というのはおかしいよ。
>後続の衆生の三業の話と、初一念の話がごっちゃになっている。
信相の一念の話をしてるのでは?
>「機相」と「法徳」が違うのは当たり前。
機相は機受の信相だと思うよ、多分。
他力の信心は三業ではないだろ。
935: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 19:07:33 ID:6oPAt4/V(1)調 AAS
>>930
私は門徒だけど、言いたいことは良く分かるよ。
936: 名無し 2006/06/17(土) 20:12:47 ID:8HAUDpOK(4/4)調 AAS
935さん
ありがとうございます。m(_ _)m
937: 名無しさん@3周年 2006/06/17(土) 23:51:13 ID:zkWM2UKj(1)調 AAS
>>930
たとえば、同じ内容の説教でも、"誰が"話すのかが大事だと言うご門徒いますね。
その考えが正しいのか分かりませんが、相槌だけ打ってます。
938(2): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 00:13:42 ID:RAUHg9DN(1/4)調 AAS
>>934
>だから925は慶喜の根拠を出してるわけだろ。
>後続の真実信心である慶喜心が機ごとに違う、というのはおかしいよ。
>>932-933ですが、>>920= >>924氏は、衆生の機相(三業)に現れる歓喜が、「万人で同一である
はずがない」と言われてるのであって、それに、私は同意してるわけです。
勿論、信後の衆生の機相に現れる「歓喜の体」は、信後称名と同じく、名号法であるので、機ごと
に違うことはありえないですが、「衆生の三業」を通した「後続の歓喜の相」は、機ごとに違う
でしょう。
>信相の一念の話をしてるのでは?
だから、>>917=>>920= >>924氏が、「初起の歓喜」を、「非意業の(衆生の体験でない)歓喜」
と言い、「第二念以後の後続の歓喜」を「機相(三業)に現れる歓喜」(衆生の体験である歓喜)
と言ってるのを、>>925氏が、ごっちゃにして、
>「機相として歓喜があるなら『体験ではない』というのは成り立たないでしょうね。」
と論難していることを言ってるのです。
>機相は機受の信相だと思うよ、多分。
>他力の信心は三業ではないだろ。
「機相」は、「不断煩悩」の相だから、「衆生の三業」でしょう。
「機受の信相」は、 疑蓋無雑の信楽ですから、非意業でしょう。
939: 調声人 ◆DlIN3YzWlI 2006/06/18(日) 00:31:59 ID:+glXfgh3(1/2)調 AAS
少し早いですが次スレをたててまいります。
940: 調声人 ◆DlIN3YzWlI 2006/06/18(日) 02:19:17 ID:+glXfgh3(2/2)調 AAS
次スレでございます。
浄土真宗本願寺派 [19拍]
2chスレ:psy
このスレを使い切るまでは次スレはsageておいてくださいませ。
先スレですのでいったんageておきます。
941(2): 925 2006/06/18(日) 05:30:54 ID:cidH2avu(1/6)調 AAS
おはようございます。今日も朝早くに出ないといけないのでこんな時間に
書き込みです。
>勿論、信後の衆生の機相に現れる「歓喜の体」は、信後称名と同じく、名号法であるので、機ごと
に違うことはありえないですが、「衆生の三業」を通した「後続の歓喜の相」は、機ごとに違う
でしょう。
慶喜心というのは根拠に示した通り、真実信心のことです。
後続の喜びの相の話になったので「信心をえてのちによろこぶこころ」を
根拠に出したのです。
「真実信心は非意業だから体験ではない」との反論ですけど
「三業でなければ体験ではない」という主旨ですよね。
この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。
喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。
うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。
信心をえたるひとをば、「分陀利華」とのたまへり。
さきにあげた御文ですが
「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。
慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり。
喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ。
うべきことをえて」までは非意業だから体験ではなくて
「のちに身にもこころにもよろこぶこころなり」は体験だけど
三業だからひとそれぞれで真実信心ではない、という主旨でしょうか?
942(3): 925 2006/06/18(日) 05:31:52 ID:cidH2avu(2/6)調 AAS
正直言ってなにを仰りたいのか意味不明。(というか、
信心決定は体験じゃないから本人にはわからないとか、そういう感じのことを
本当は言いたいんだろうとは思いますが....)
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、
他力の信心といふことをばいますでにえたり。
これしかしながら、弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とは
やがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心に
あらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。
この御文だったら「信心をえたのは非意業だから体験ではない。知られたりは
三業だから真実信心ではない」ということですよね。
こういう話にどんな意味があるんでしょうか。
慶喜の御文も、この御文も、私にはどう読んでも信心決定の体験にしか読めませんね。
「非意業」と言われても、無明が破れたのは「私の無明が破れた」のであって
だれか他人様の無明が破れたのではないし、それが弥陀よりたまわった信心だと
知らされるのは仏智によってだが、知らされているのは私自身で他人様ではない。
真実信心は非意業だから「(自分の)体験ではない」というのは自分で体験して
ないからでしょう。
「無明が破れたのは非意業だから体験ではない。無明が破れたと知ったのは
三業だから信心ではない」というのはどういう意味があるんでしょうか?
信心決定の「非意業」は信楽「開発」であって無念無想ではありません。
三業自体が真実信心ではないというのは何度も言っています。
943: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 08:35:05 ID:qZ/87Cft(1)調 AAS
気に入らない住職は門徒総会で解任したらええがな!
944(1): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 10:53:45 ID:SG+sUAHB(1)調 AAS
オレは嫁さん貰ってるぜ!って妻帯宣言したり
念仏唱えてもちっとも楽しくねえよ!
とか平気で言っちゃう親鸞はカッコいいよね
パンクだぜ
945: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 11:28:58 ID:HCCfkWM4(1)調 AAS
>>944
いいね。 正直で。偽善は嫌だ。
946(2): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:23:20 ID:RAUHg9DN(2/4)調 AAS
>941-942
>「真実信心は非意業だから体験ではない」との反論ですけど
>>938=>>932-933ですが、↑ばかりじゃないですが、私のカキコを、よく
読んでもらえば、わかると思います。
私は、真実信心の相として、衆生の三業に現れる後続の「体験」を否定し
ているのではなく、>>917氏に賛同して、「信の一念にかんしては、非意業
だから、体験ではない。」と言っているのですが。>「三業でなければ体験ではない」という主旨ですよね。
私の意見では、そうです。あなたの意見は、>>925他を読む限り、「非三業の
体験がある」「私の三業にかからない“私の体験”がある」という説みたいで
すね。よかったら、その「非三業の体験」について解説キボン。「体験」につ
いての、概念規定がお互いに食い違っているのだから、話は平行線を辿るまま
ですね。
947: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:24:54 ID:RAUHg9DN(3/4)調 AAS
>>946(>>941-942)続き
>「のちに身にもこころにもよろこぶこころなり」は体験だけど
>三業だからひとそれぞれで真実信心ではない、という主旨でしょうか?
これも、概出。いただいた「真実信心」は一味ですが、「衆生の三業に現
れた体験の相」は、ひとそれぞれということ。
>信心決定は体験じゃないから本人にはわからないとか、そういう感じのことを
>本当は言いたいんだろうとは思いますが....)
概出。そんなことは言ってません。繰り返しますが、「『信一念』(初起の歓喜
)が、人間の体験ではない。」「初一念の信楽や歓喜は人間の三業ではわからな
い。」と言っているのです。
>真実信心は非意業だから「(自分の)体験ではない」というのは自分で体験して
>ないからでしょう。
これも上に同じ。私も>>917氏も、真実信心が、自分の三業に現れた後続の「体験」
を否定しているわけではないです。
948: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:30:00 ID:RAUHg9DN(4/4)調 AAS
>>946後段の改行ミスを訂正します。
>「三業でなければ体験ではない」という主旨ですよね。
私の意見では、そうです。あなたの意見は、>>925他を読む限り、「非三業の
体験がある」「私の三業にかからない“私の体験”がある」という説みたいで
すね。よかったら、その「非三業の体験」について解説キボン。「体験」につ
いての、概念規定がお互いに食い違っているのだから、話は平行線を辿るまま
ですね。
949: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 13:38:37 ID:jsQ1BJFR(1)調 AAS
名古屋の荒子の蓮徳寺の坊主は値遇仏法の門を知らないらしいぞ!笑ったれ!
950: 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 17:45:24 ID:GQhzqDDZ(1)調 AAS
「死を超えた願い−黄金の言葉」展 〜 龍谷大学
外部リンク[php]:www.kyoto-np.co.jp
京都新聞 2006年6月12日(月)
2006/6/12〜2006/8/4まで。入場無料。土日祝日休館(6/17 7/1 7/8は開館)
951(1): 名無しさん@3周年 2006/06/18(日) 19:55:22 ID:0x7XpAj4(1)調 AAS
中仏の通信教育ってどうなんですか?
留年することが有るのでしょうか?
952(2): 925 2006/06/18(日) 21:21:06 ID:cidH2avu(3/6)調 AAS
>「体験」についての、概念規定がお互いに食い違っているのだから、
体験というのは、一般に、外界と自分自身との相互作用の過程や自分の内面の
変化の過程を言うんじゃないでしょうか。仏語ではないですが使って悪い言葉
だとは思えません。信心決定は体験ではない、三業に限る、あるいは使うに
不適当とかいうことならその理由を説明していただけるとありがたいですね。
953(1): 925 2006/06/18(日) 21:29:26 ID:cidH2avu(4/6)調 AAS
信一念の変化は御聖教全部がそうといってもいいくらいにたくさんあります。
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて耳に聞き
口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。
永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根
にあらず、これ多功徳なり
「無辺の聖徳、識心に攬入す」なんて
「ああー、この方も弥陀にあわれた尊い方だなあ」と思わずにおれません。
本願を信受するは、前念命終なり。すなはち正定聚の数に入る
即得往生は、後念即生なり。即の時必定に入る。
また必定の菩薩と名づくるなり。
死んで生き返る経験をするのに「体験じゃない」ってどうして言えるんでしょう?
954(2): 名無し 2006/06/18(日) 21:34:36 ID:LIM8oiIM(1/2)調 AAS
信心があるとか無いとか、阿弥陀さんじゃなきゃわからないと思う。
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