[過去ログ] 東洋教学総合スレ (988レス)
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838: 2010/11/12(金) 10:50:10 0 AAS
特筆すべきは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道が、
修羅・人・天の三善道などと比べて、峻厳などころか、むしろ緩慢としているということだ。
人の心の峻厳さは、修羅道や人道においてこそ極まるのであり、
それは、両者を高度に両立させた日本の伝統的な武士道が(新渡戸の偽武士道ではなく)、
あまりにも仁強であるために、仁弱な人間からは気違いじみているとすら思われることからも分かる。
仁弱さが保護されて畜生のごとく飼い馴らされたり、逆に保護されなくて餓鬼と化したりすることは
「悪趣」であるわけだから、「善趣」である人道や天道と比べて、より精神的な疲弊が多そうに
予想されやすいが、実際には悪趣である餓鬼道や畜生道こそは精神薄弱の世界であり、
薄弱者に特有の緩慢さこそが持ち越されることで、餓鬼や畜生となる。それは、
三悪趣中最悪の地獄道についてですら言えることで、罪を罪ともわきまえられない
仁弱者に対してこそ、地獄の鬼たちも、どこまでも際限のない厳罰を加え続ける。
悪それ自体は恐るべきものであり、不用意に受け入れれば破滅をも招きかねない危険な
存在ではあるが、人はむしろ、悪への十分な恐れを欠いた中でこそ、悪に取り込まれる。
致命的な意見の分裂を宿した政敵同士が、私的には馴れ合って会食していたり
するような緩慢さこそが、本人たちを知らず知らずのうちに地獄へと突き落とす。
839: 2010/11/16(火) 22:48:24 O携 AAS
心に疚しいところがないのなら、
間違っていたことを間違っていたと認めたからといって、
我を喪う心配をする必要はない。
「私はこうこう思う」といった思考自体が、
あなたの自我だったわけではないから。
840: 2010/11/17(水) 19:55:57 O携 AAS
罪を犯しても、反省すらしないような相手とは、当然付き合えもしないね。
ましてや結婚など、なおさら。
反省したから許されて、早々にも付き合える、それでいいじゃない?
あとは、心から反省する努力が必要なだけだ。
841: 2010/11/17(水) 23:15:02 0 AAS
反省できたかどうかが分かるまでは待っていよう。
反省できたなら、一緒になろう。
反省できなかったなら、諦めよう。
842: 2010/11/17(水) 23:25:59 P AAS
反省は再帰的近代の思考の典型だが、東洋思想には近代がないから
反省もない。
ただし荘子などが近代にたどり着く前に反省をつきつめてしまったから、
(西欧的な)近代を必要としなかったとも言える。
中国にはカントがいないと小林秀雄が言ったが、感性/悟性/理性の
代わりに三国志があるのだ。
843: 2010/11/18(木) 00:02:46 0 AAS
反省はサルにはできない。
ありゃあ、人間にとっての反省のポーズをさせられてるだけだ。
844: 2010/11/18(木) 07:40:04 O携 AAS
心から反省して、いい子になる。
いい子いい子
845: 2010/11/18(木) 14:44:37 0 AAS
「蝃蝀が東に在るを、之を敢えて指さす莫し。女子の行く有り、父母兄弟に遠ざかり。
朝隮の西に于れば、崇朝に其れ雨ふる。女子の行く有り、兄弟父母に遠ざかり。
乃れ之くの如き人、昏姻を懷えども、大しも信無く、命を知らざるなり」
「東の夕空に虹が昇れども、あえてこれを指さそうとはしない。女子が嫁ぎ行く時には、父母兄弟から遠ざかるもの。
西の朝空に虹が昇ったなら、日中は雨になることも見込まれる。女子が嫁ぎ行く時には、兄弟父母から遠ざかるもの。
欲情のあまり婚姻を急ぐような女子は、信用もならない上に、その命を知りも知らない」
(「詩経」国風・鄘風・蝃蝀)
中国で、「虹」は陰陽の交接によって生まれるとされていたことから、「結婚」に比類されることがある。
もちろん結婚が悪いことなわけではなく、万物を化育する陰陽調和の機会として、東洋でも重要なものとして扱われる。
しかし、男系社会である東洋では、結婚が女子にとっては実家を出て他人の家に入る、親愛毀損の発端ともなることから、
あまり女子から欲したりすべきものではなく、よく機会を見計らって、慎重に受け入れるべきものとして扱われている。
記紀神話におけるイザナギ・イザナミの国生み神話などでも、女神のイザナミが男神のイザナギよりも先に
声をかけた時には奇形児が生まれ、イザナギがイザナミよりも先に声をかけた時には日本列島などが生まれたとされている。
陽唱陰和も叶わないうちから、ことさらに女子のほうから婚姻を求めるのは、無知で信用がならない上に、不孝でもある。
むしろ、適切な婚期を得るための準備にこそ尽力すべきなのであって、それでこそ信頼がおける上知である上に、孝行ともなる。
846: 2010/11/18(木) 14:45:57 0 AAS
×その命を知りも知らない
○その命を知りもしない
847: 2010/11/19(金) 01:33:12 O携 AAS
密教は、白人には物理的に修得不能。
突き立ての餅も同然では。
848: 2010/11/19(金) 07:08:13 O携 AAS
釈迦もモンゴロイドかコーカソイドかその混血かは不明にしろ、
「黄色い肌」だったという記録が、原始経典を含む仏典に数多ある。
肌が黄色いと、アレもガッチガチ。
まさかそんな所に器質的な解脱の秘訣があろうとは、夢にも思わなんだ。
849: 2010/11/19(金) 16:25:02 0 AAS
だいたい「東洋教学」って何よ。
そんな言葉初めて聞いたわよ、私。
850: 2010/11/19(金) 17:59:03 0 AAS
お互いに腹を割り切って付き合う、ただそれだけのことじゃないか。
どこに納得のいかないところがあるものか。
851: 2010/11/19(金) 18:18:23 0 AAS
同態復讐の嫌疑を免れるために、当然被害者は、
自分への加害者の断罪には直接従事しない。
あなたの尋問担当者は、たぶんムスリムかインド人あたりになる。
中国人は少し感情的な反発が大きすぎるだろう、お互いに。
852: 2010/11/19(金) 19:26:05 0 AAS
こちとら善意にしろ悪意にしろ、ここに書き尽くしているまでで全てだから。
ちっとも腹の内を見透かされることへの恐れなどはありゃしない。
しかし、そっちは違うな。匿名掲示板で対等な会話をしているようでいて、
腹には一物も二物も宿したまま。誰にも未だ一度も打ち明けたことのない
思いだって、いくらでもあるだろう。そこがどうしたって、不公平な所だ。
士農工商穢多非人や、カースト制の階級差別のほうが
まだマシなぐらいの、内心からの自由の有無の差別だ。
853: 2010/11/19(金) 19:45:48 O携 AAS
女囚にはやっぱり、女性の尋問官をあてないとな。
854: 2010/11/19(金) 22:25:12 0 AAS
ムスリムのおばあちゃんあたりに、直接尋問をお願いして、
女性としての尊厳を著しく損なうような尋問情報などは、
捜査上差し支えのない限りは、おばあちゃんの胸のうちに伏せておいてもらう。
捜査上問題でもあり、性的にも問題のあるような情報に関しては、
なるべく女性の捜査官だけをあてて、男の介在は最小限に食い止めるようにする。
とはいえ、どうせ女囚の数はそんなに多くはあるまい。
万引きレベルなどではない、重大な権力犯罪などを主導しているのはいつも男。
女は介入したとて、せいぜい共犯止まり。捜査する側もそんなに
大掛かりな体勢で臨む必要はないだろう。
855: 2010/11/20(土) 10:56:18 0 AAS
イスラム圏の国境検問所には、女性専用の隔離された身元取調所がある。
厳格なムスリムだと、目まで覆ったヴェールで完全に顔を覆う。
かといってイスラエルなどからの不法入国者の排除も欠かせない。
だから隔離された取調所で、女性同士で顔も晒しつつの身元確認を行う。
つまり、そういう事務に慣れている女性が、イスラムには結構いるということだ。
856: 2010/11/20(土) 15:31:47 O携 AAS
まあ、それでも受け入れられないってんなら、俺と付き合うのは絶対に無理だな。
こちとら、己れの欲せざらざる限りのところを要求しているだけだから。
それすら受け入れられないってんなら、どちらが上か下かはともかくとして、
心の段階に違いがありすぎるから、男女の相違を容れた上でも、やっぱり付き合うのは無理だな。
857: 2010/11/20(土) 16:41:38 O携 AAS
わざわざ心の内を見透かすまでもなく、見透かされることを拒んでいる時点で、
見透かされると困るような致命的な悪心を抱えたままでいることが明らかだから。
そんな相手とは付き合わないでいたほうがマシなのも、
しごく当たり前な道理だといえる。
858: 2010/11/20(土) 17:32:43 O携 AAS
よりにもよって、内面に致命的な悪心を抱えたままでいることが
実証的に明らかな女なんかと付き合うかよ。
だったらまだ、悪心を抱いているともいないとも知れない、
どこぞやの無関係の女と付き合ったほうがいいに決まってんじゃねえか。
859: 2010/11/20(土) 20:58:40 0 AAS
ざらざるざらざる
860: 2010/11/21(日) 13:26:42 0 AAS
悪意をまったく完全に捨て去れってんではなく、
カルト信仰に基づいて「実罪(他者に危害を加える罪)」の
重犯をも正当化してしまうような、俗世に生きる人間としては
致命的な悪念だけを捨て去って、よく反省しろって話だ。
罪には実罪と虚罪とがあり、実罪は上記にいうとおり実害の伴う罪のことで、
虚罪はたとえば、カルト教義や悪法に違反しているとかの、実害の伴わない罪のこと。
誰しもが旧約聖書の律法に少なからず違反していたり、七つの大罪を犯していたりすることを根拠に
誰しもを罪人扱いして、「誰にも誰をも断罪する権利はない」の論理と、「毒食わば皿まで」の論理によって、
自分たちこそは多大なる実害も伴う、重大な実罪に手を染めようとする。それこそは致命的に許されない所で、
実害の伴うわけでもない虚罪は、坊さんでもないような俗人なら何ら咎められる謂われはない一方で、
実害の伴う実罪だけは、俗人であろうとも犯しちゃいけない。みんな虚罪(キリシタンなどは「原罪」という)を
犯しているからといって、自分たちが実罪を犯しても構わない根拠などになるはずがなく、そのような
カルト教義への狂信に根ざした悪念だけは捨て去って、十分に反省しなければならない。
そこんところすら十分に反省して、二度とカルト教義への狂信に基づく実罪の重犯などには陥らないと
見受けられたなら、法定上の最低刑以上にも軽い刑罰や、執行猶予などだけでも済むかも知れない。
それぐらいの償いはしてからでないと、悪念を抱えたままであることが
確実な相手などとわざわざ付き合う筋は通らない。
861(1): 2010/11/21(日) 17:47:15 0 AAS
あなたの愛こそは、己れの罪を乗り越えられていない。
試練からも逃げ去ろうとする卑小な愛でしかないから、
無理に付き合うことがあなたの思いに沿わないことも明らかなので、
あなたの意向を尊重する上でも、付き合わないほうがいいということになる。
腹を割って付き合えるほどにも、純粋で透徹した愛などが
あなたには備わっていないことが、その選択からも明らかだから、
愛もない相手などに付き合いを無理強いするほうが、相手にも悪いことになる。
862: 2010/11/21(日) 17:58:56 0 AAS
本当はぜんぜん付き合いたくなんかない、
美形の白人男の、モチモチのちんぽこそを咥えたい、
そんな内心を見透かされたんじゃ、何もかもが台無しになっちゃうから、
どうあっても自分が“やられる側”になるのだけは認められない。
だったらねえ、付き合おうとすることからやめなきゃねえ。
身分や心の段階の違いを乗り越えて付き合うだなんて以前に、
そもそも本人にそんなに付き合いたい意志がないことが明らかなんだから、
それを無理強いして付き合ったりするのは、そちらにこそ悪いからねえ。
863: 2010/11/21(日) 19:24:02 0 AAS
別に、家の都合で嫁ぎ先までもが決められる封建社会なわけでもあるまいし、
愛してもいないような相手と無理やり付き合わされるような強要も認められまい。
誰から強要されるわけでもない付き合いが、内心を読まれることで破綻するというのなら、
それは「愛していない」か、「他に愛している相手がいる」かのいずれかでしかありえない。
そのいずれであろうとも、付き合うのをやめておく理由としては十二分なもの。
こちらではなく、あなたの内心こそを慮って、お付き合いをご免させて頂かねばならない。
864(1): 2010/11/21(日) 19:52:55 0 AAS
「愛していない」や「他に愛している相手がいる」と同等か、
それ以上にも深刻な破綻の原因となるのが、「カルト信仰が捨てられないから」という理由。
愛することよりもカルト信仰のほうが重要、だからカルト信仰は捨てられない、
だったらカルト信仰と結婚すりゃいいのであって、俺の出る幕なんか微塵もありゃしない。
何よりも、カルト信仰による征服支配の口実に、愛が悪用されることが頂けない。
男女の交合が、君臣や父子の序列にも先んじる最原初の陰陽調和であることが「易経」の
序卦伝においても認められているのに、その男女の関係よりもさらに先にカルト信仰を
置くとするなら、もはや何ものにも先んじてカルト信仰があるということになる。優劣はともかく、
先後関係については、易に始まる漢学ですらもが先を譲っている男女の関係の、
さらに先にカルト信仰を置いたりすることは、史実上の順列においても間違っているし、
実際、認められるもんじゃない。漢学すらも先を譲っている男女関係のさらに先に、
カルト信仰を置いたりすることは、漢学の拘束すらも振り切った俺こそが許さない。
865(1): 2010/11/21(日) 20:04:42 0 AAS
近ごろ、俺が熱心な勉学対象として、深く傾倒しつつある漢学すらもが、
「男女の関係については、我々の領分よりも先にあった」と認め、
俺を含む天下万人の、男女関係に関する殊更な拘束を解いている。
にもかかわらず、その漢学よりもさらに劣悪なカルト信仰が、漢学すらもが拘束を解く
男女関係に対して、精神的な拘束を強要することなど、認められるわけがない。
旧約聖書の2倍もの歴史を持つ、世界最古の古典「易経」をも擁する漢学すらもが
「そこから先はもう自分たちで好きにやってくれ」としている男女関係を、
漢学よりも質でも量でも古さでも劣るカルト信仰などに拘束されることは、
漢学の拘束すらをも振り切った俺こそが認めない。愛に関して複雑怪奇な
学問宗教が介在することは、漢学も含めて一切認めず、何ものによる拘束も
認めないがゆえに、カルト信仰による拘束もまた、当然のこととして認めない。
愛を拘束するカルト信仰を捨てられない、そんな相手と付き合うことこそは認められない。
男女の恋愛への拘束は、漢学すらもが解くというのに、カルト信仰などが試みるとは、何ぞや?
おまえらよりも遥かに優等な教学すらもが介入を控えている部分に、おまえらこそは介入を試みる、
何様のつもりだ?ということだ。何ものかによる精神的な拘束を受け続ける、常時マゾ状態の
恋愛などを、何ものに拘束されているわけでもない、この俺こそは認めてたまるかってんだ。
866: 2010/11/21(日) 20:22:22 0 AAS
カルト信仰・・・虚罪(原罪など)を厳禁して実罪を容認。
法律万能主義・・・実罪も虚罪も法文で禁止されていれば厳禁、法文で黙認されていれば容認。
道徳主義・・・実罪を厳禁して虚罪を容認。
カルト信仰は、憤怒や色欲のような虚罪までをも厳禁しようとして、結局実罪を放任する。
法律万能主義は法文による杓子定規で、実罪か虚罪かなどということを察知しない。
道徳主義は他者に危害を加える実罪を厳禁する一方で、憤怒や色欲のような、
それだけでは誰に危害を加えるわけでもない虚罪を全く容認する。
カルト信仰に即して「罪」とされるような罪を裁かれる必要は全くないし、
法律万能主義に即して「罪」とされる罪も、道徳主義に即して罪とされない場合には許される。
ただ道徳主義に基づいて、俗世の凡人の虚罪は一切咎めず、実罪の責任のみを徹底的に追求し、
もう二度と同じ過ちを繰り返さないことが明らかな程もの反省ができたなら許すが、
その言質も取れないようなら、いつまでも許されることはない。
生きている間に許される見込みがないようなら、もうあなたとの付き合いは諦める。
許されて釈放されたならば、多少の時間がかかったとしても付き合うだろう。
もちろん元から愛してもいなかったり、他に愛してる相手がいたりするのならば、とっとと諦めるが。
867: 2010/11/21(日) 22:07:31 0 AAS
自ら愛していない証拠を提示し続ける相手と付き合う無理。
868(1): 2010/11/21(日) 22:50:33 0 AAS
「全ては愛のため」だったというのなら、その心を見透かされることを恐れる必要は何もないはず。
「愛のためか、もしくは正当な理由のため」だったというのなら、それでも恐れる必要は何もない。
「愛や不当な理由のため」だったり、「不当な理由のためだけ」だったりするなら、
その心を見透かされて、断罪や破談の対象になることも恐れざるを得ない。
「不当な理由」ってのは、たとえば愛までをも拘束して悪用するようなカルト宗教だったり。
カルト信仰でなくても、実罪を犯すような致命的な悪行の存続のためだったり。
まあ、その「不当な理由」が、心からの弁解によって人に理解されることもあると思うんなら、
その場合にも心を見透かされることを恐れる必要はないわけで、自分が愛のため以外の
理由としていることが、心の底からの弁解によってでも、到底認められ得ないような、脆弱な
欺瞞に根ざしていることが自分でも分かってるから、心を見透かされることを恐れるわけだ。
どこまでも、自らが人と愛し合うに値しない存在であることを自ら実証し続けているのが、今のあなただ。
869: 2010/11/21(日) 23:04:33 0 AAS
愛し合うに値しないし、愛し合ってはならないという義務性すら伴っている。
今のあなたのあるがままのあり方が、「誰も私と愛し合ってはならない」
という義務感を、全ての人間に対して振りまき続けている。
愛されオーラではなく、「愛してはならないオーラ」が、
あなたの自意識に即してこそ、周囲に発散され続けている。
ただ罪障を帯びているだけでなく、その罪障を自らが振り払うこともできず、
むしろ自分から保全すらしようとしていることが、あるがままの行状からも
明白なので、最大級にあなたを愛している相手ですら、あなたを愛している
ような素振りを、思考からすら表現することができない。
どこもかしこも「愛してはならないオーラ」で取り巻かれているので、
最大限にあなたを愛している相手もまた、あなたの意向に沿うためにこそ、
あなたを愛する素振りすら見せようとしないように努める。
それでこそ、愛するあなたの今の意向に即していることになるから。
870: 2010/11/21(日) 23:32:21 O携 AAS
素直に反省すれば許される程度のことなのに、
その反省すらをも拒む強情さ。その強情さにすら勝てない愛。
大して人を愛そうともしない相手を、一方的に愛することもできなくはないが、
それは相手にとってこそ酷なことだろうから、あえて愛さないでおく配慮を尽くす。
それでこそ、真に相手への愛情を込めた応対だといえる。
871: 2010/11/21(日) 23:55:55 O携 AAS
何か、理に適わないことを言っただろうか?
理には適っても、愛情に反することを言っただろうか?
理に適い、しかも愛情に即したことを言っている。
そこに反発を抱くというなら、それは、あなたの言い分が理に適わない上に、
愛情にすら反している証拠でもある。
愛すらも、もはやあなたの味方ではなく、敵だ。
872: 2010/11/22(月) 08:53:00 0 AAS
せっかく、愛の真実さを証明する手段が目の前にあるというのに、
その手段を用いることを拒むってことは、愛が真実でないか、
真実の愛すらをも阻害するような何らかの障害があるってことだ。
あなたの内面にこそ。愛が真実でない場合はもちろんのこと、
真実の愛すらをも阻害するような何らかの障害がある場合にも、
これ以上お近づきになったりしたとて、その障害の側からの
阻害によって、今以上にも真実の愛が損なわれていくことが
明白だから、より愛を育むためにこそお近づきになるという本来の
目的が叶えられることはないので、やはりダメだということになる。
873: 2010/11/22(月) 09:36:56 0 AAS
「自らの意思とは無関係に、親の意向などによって結婚する相手も選ばされる」
なんてのは、封建社会の武家などなら当然あったことだ。
しかし、その封建主義を君らは目の敵にして、
本人自身の意向がどこまでも通される自由主義を絶対視している。
だったら、本人の意思が根本からお付き合いを欲しているのかどうかを
確かめることを憚る必要など、何もないはず。
「本人自身が意向の有無を読まれることを拒絶している」としても、
その希望がすでに、読まれると困るような不実さを宿したままでいる実証にもなっている。
それ以前に、その意向すらも、本人自身の本心からの意向であるとも知れない。
少なからず、何らかの欺瞞を宿したままでいる人間が、
全ての欺瞞を引き剥がされて丸裸と化した人間と付き合おうとする無理。
至らない人間が、至っている人間と対等に付き合おうとする、自明に不当な平等志向。
厳重な差別化で付き合うか、もしくはお互いに丸裸になるかでないと、通らない。
874: 2010/11/22(月) 13:29:07 0 AAS
丸裸といっても、服を脱いで丸裸ということでもなければ、
自尊心や道徳心を引き剥がされて丸裸ということでもない。
自他に対する欺瞞を完全に引き剥がし、
善意も悪意も完全に丸裸にしているという意味。
未だ自己の内面に致命的な欺瞞を抱えたままでいる者と、
全ての欺瞞を捨て去った者とが、接触する狂気。
その欺瞞の内容が如何であれ、欺瞞を持たない人間は欺瞞を忌み嫌い、
欺瞞の持ち主も欺瞞を持たない純粋さを忌み嫌うのが人の心の常。
致命的な欺瞞の持ち主であることが明らかな人間と、
あらゆる欺瞞を捨て去っていることが明らかな人間。
そのような者同士であることがすでに、致命的な敵対の原因ともなる。
875: 2010/11/22(月) 15:01:12 0 AAS
バカで無知蒙昧な上に、さらに誤解や無理解に根ざした自己意見ばかりをがなり立てるから、
到底こちらの言ってることなんか理解できやしない。そしてそんな甘えは、もう通用しない。
ただでさえ難解な東洋教学の深奥を、自己流の思い込みをあてがいつつ理解しようだなんてんじゃ、
二度と檻の中から出られなくなるだろうことも必定。分からないなりにも従順でありつつの熱心な
学習に努め、それでもかなりの時間がかかって、多少なりとも理解できるかどうかってとこ。
理解ができて、それが反省材料ともなり、他者に危害を加える実罪ぐらいは踏みとどまる程度の
倫理観が恒常的に抱けるようになって、その反省の度合いが審査されて、許されれば釈放となる。
難解であって、しかも反発意識すら未だ大きいだろう道徳学。反意を抱くのは明らかに罪障の大きさ故の
自業自得だし、難解すぎて理解できないのも、頭が弱すぎるからでなければ、間違った学知による
曲学阿世で、正しい学問を理解する方向に脳みそが割り振れなくなっているからで、それもまた、
間違った異学異見をあえて自分が好き好んで取り入れてきた自業自得によっている。
876: 2010/11/22(月) 20:12:06 0 AAS
自分だって、目の前に洋学や聖書教しかなくて、漢学や仏教が巧妙にひた隠されていた限りにおいては、
そっちのほうを好き好んでいた経験があるから、それらを捨て去って漢学や仏教へと移行する大変さもよく知っている。
もしも目の前に洋学や聖書教しかなく、漢学や仏教など、未だ遥か遠い世界の未知の存在であったりしたなら、
洋学や聖書教のほうに傾倒し続け、それらをアイデンティティの拠り所にしていたに違いない。
しかし、実際のところ自分の目の前には漢学や仏教もあって、歴史的に自分の家系などが傾倒してきた
度量も漢学や仏教のほうが遥かに大きかったことが明らかだから、その、洋学や聖書教と比較しての優等さも
合間見えて、当然のこととして漢学や仏教を含む東洋教学のほうに振れきり、それらへの傾倒にも専念した。
そういう、恵まれた境遇にあるわけでもない君らが、東洋教学を修得するために必要とされるのは、偏に向学心。
イエスと同じように妾腹の私生児として産まれながらも、自暴自棄になって破滅級のカルト教義を触れ回るわけでもなく、
伝統上にある正統な道徳学の継承に努めた孔子のような、不遇さをも超克した向学心による、正学の修得。
恵まれた血筋などが跳躍板ともなって、色を好むように徳を好めた俺の場合などとは違って、
君らにはいかなる後ろ盾もない、純粋な向学心のみに即した、東洋教学修得の責務が課される。
それは、全く苦労をさせられていないわけではないにしろ、同質の苦労はさせられたことのない
俺などには計り知ることも、助言することもできないところなので、ただ「がんばれ」としか言えない。
がんばった先に結実するものがあることぐらいは知っているから、その応援ぐらいはできる。
877: 2010/11/23(火) 18:44:02 0 AAS
まじめに答えてくれるスレがここだけなので。
私はゴータマブッダの教えは「中庸を得ること」だと感じたのですが、どうでしょうか?
878: 2010/11/23(火) 19:01:55 0 AAS
「中正を得ること」だ。
「始めから中正を守り抜き続けること」が中庸。
「両極端の過ちから中正を得ること」が中道。
俺は結局、中庸でい続けているわけだけれども。
君らはもう中庸は無理で、中道を目指すしかない。
879: 2010/11/23(火) 19:24:50 0 AAS
ゴータマ・ブッダは「両極端を退けよ」とおっしゃられましたよ
880(1): 2010/11/23(火) 19:29:23 0 AAS
孔子はそんな言い方もせずに、ただ中庸の徳を褒め称えている。
両極端を経験した上で卒業したから、
仏陀であるものこそは「両極端を退けよ」とも言える。
881: 2010/11/25(木) 23:32:34 0 AAS
「中国が共産主義をやめて古来の徳治主義社会に立ち戻るなら、
資源配分を是正して中国にも人口相応の資本を分け与える」と、
資本主義国の側が宣言すればどうだろうね?
共産党を崩壊させる民衆革命が起こるかもね。
882(1): 2010/11/26(金) 23:40:02 0 AAS
むかしむかし、地球村という村に、70人の村人たちが住んでいました。
この村は、人里遠く離れたど田舎ではあるものの、自然は豊かであり、
村の中だけでも、100人分の食糧はまかなえるほどもの資源に恵まれています。
しかし、この地球村には、盗賊を生業とする人種が約10名ほどもいて、
こいつらが地球村の食糧を80人ぶんも強奪して独占してしまうために、
残りの20人ぶんの食糧しか、盗賊ではない60人の村人たちには行き渡りません。
60人の村人たちが、たった20人ぶんの食糧だけで何とか食いつないでいるのですから、
当然まったく栄養が足りず、飢えて苦しむ人たちもいますし、そうでなくたって、
栄養状態がはなはだ悪いために、元気でいる村人たちもあまり体格はよくありません。
かえって、盗賊身分の村人たちは、たった10人で80人ぶんもの食糧を独占している
わけですから、栄養状態はよ過ぎるほどにもよくて、体格も巨人かというほどにも
大きくなったりしています。それはあくまで、他の村人たちからの食糧の強奪によって
成り立っているものなのですが、強奪によってこそ巨大になった自分たちの体格を、
盗賊たちは「自分たちが他の村人たちよりも偉い証拠だ」などと思ってもいます。
この地球村における、盗賊身分ではない60人の村人たちが、
飢餓を解消して人並みの生活を送るためには、どうすることが最善でしょうか?
1.盗賊たちを滅ぼしつくして、60人の村人たちだけで地球村の生計を立てていく。
2.盗賊たちが、他の村人たちからの食糧の大強奪をやめて、平等な資源配分の下で仲良く暮らす。
3.盗賊たちによる資源の大強奪はそのままに、他の村人たちが自助努力によって資源を増産する。
4.盗賊たちによる資源の大強奪はそのままに、盗賊たちが村の外に出て村人たちへの借りを返す。
5.その他。( 記入欄 )
883: 2010/11/27(土) 14:33:59 0 AAS
低能な、あまりにも低能な
884: 2010/11/27(土) 15:36:13 0 AAS
>>861>>864>>865>>868
カッコイイね。
885: 2010/11/27(土) 17:25:53 0 AAS
単なる低能を、「愛」なんて言葉でごまかしてんじゃねえよ。
脳みそだけがカルト教義によって幼児退行したところで、
大きく成長したおまえらの身体を、もうお母さんも抱きかかえられねえよ。
886: 2010/11/27(土) 20:28:19 0 AAS
>>880中庸を得るために極端な行動をすることはあり得る。
ただし行いに対し基準(到達点)を求めず、闇雲に
連続してそれを行うのならば、傾いた舟に水が入って
沈むかのごとくすべてを失う。
887: 2010/11/27(土) 21:01:26 0 AAS
というよりも、その舟に乗っていたことがすでに極例だが。
洪水に方舟で対抗しようとする以前に、まず治水から。
888: 2010/11/27(土) 21:57:50 0 AAS
たとえば舟が荒波によって急激に右方向に舵を取られたとする。
舟の本来である「目的地に対しての安定した推進」を得るためには
瞬間的に左に舵を切らねばならぬ。これは中庸である。
だが闇雲に方向を基準とせず常に舟を右、あるいは常に左に
航海する、というのは偏向であり偏った悪しき行いである。
これさえも現代人は気づかない人が多い。
889: 2010/11/27(土) 22:34:42 0 AAS
目的のための手段と、目的のない手段とでは、当然違いが出てくるだろうね。
飼い犬は長生きできても、野良犬は早死にするようなもん。
目的を司るあなたの飼い主はいずこ。
890: 2010/11/28(日) 09:12:09 0 AAS
そもそも、水上を航行するために設計されていた方舟が、
乗船者の大多数を占める船頭たちの意向で山の上に登り、
陸上での無理な引きずり航行が祟って、自壊しつつあるとでもいった所。
目的のために選ばれない手段も、武経七書などの兵法では嗜まれる。
しかし、それは恒常的な統治手段などではなく、有事の軍政に限って
用いられることが認められるものであり、平時にまで性懲りもなく
用い続けたならば、名将ではなく重罪人のそしりを被るのみ。
891: 2010/11/28(日) 09:30:24 0 AAS
キリスト教で是とされる隣人愛や、
アリストテレスの「ニコマコス倫理学」で賛美されている友愛なども、
それらの名目上の愛を偏重することによって得られる実質的な効能が、
「釈遠謀近は利益を得やすい」」という形で七書中の「三略」に説かれている。
大戦中や冷戦中のような戦闘状態ならば、自分たちばかりの利益を慮って
遠方の利益を蔑ろにすることにも妥当性が伴っていたが、冷戦も終結し、
同時テロのような自作自演でも試みないことには有事を捏造できない、
平時へと世界が移行しても、相も変わらず「グローバリズム(国際主義)」
などという、釈遠謀近を正当化するイデオロギーを全世界に強制し続けた
せいで、他国の人間を餓死に追いやってでも自分たちばかりが裕福でいる、
国家レベルからの重権力犯罪の条件をも満たしてしまったわけだ。
892: 2010/11/28(日) 09:56:53 0 AAS
西洋人が釈遠謀近をやめたからといって、
今度は東洋人が釈遠謀近を試みるようになるわけでもない。
そのせいで今度は、欧米が貧窮するようなことになってもいけない。
>>882の答えも、1よりは2であるべきだから。
893: 2010/11/29(月) 19:18:45 0 AAS
盗賊が、何かを得た上で“失う”なんてこともなく、
元来他人の財産であるものを一時的に奪い取ったから、
それを“お返し”するだけのことだ。
未だ「悪いことをした」という罪の意識すら十分にわかないのも、悪魔の仕業には違いないが。
悪魔役だった連中を厳罰に処すのは簡単にしても、それで反省の気持ちが抱けるかどうか。
かえって一部の「トカゲの尻尾」に全ての責任を押し付けて、自分自身は罪を免れた気にすらなりかねない。
むしろ、自分こそは悪いことをしたという、率先して罪に服していこうとする心意気が必要。
何もかもの罪をキリストさんに押し付けるのではなく、自分こそは相応の罪に服そうとする。
その際、他人の罪までをも自分が代わりに被るような、分不相応なおせっかいにも及ぶことなく、
自分自身が犯した罪こそを特定して明らかにすることに努め、その罪に相応の罰を受けることに
ついてこそ率先的であらねばならない。誰しもの罪を償おうとすることにかけてではなく、
自分自身の罪を償うことにかけて徹底的であろうとする心意気こそは、
自らの行いによって、他者にも徳性の堅持を促す、最も道義的な服罪姿勢となる。
894: 2010/11/29(月) 22:34:05 0 AAS
大山不動にして億千万の鼠鳴動せる。
895: 2010/11/30(火) 05:18:06 0 AAS
欧州人がイエスを信じる割合は5%w
896: 2010/11/30(火) 09:46:09 0 AAS
でも、みんな聖書から姓名を引用している。
実際のところ、新約聖書は「古代ローマ小説」でもあるし。
897: 2010/11/30(火) 10:11:22 0 AAS
「罪と罰」で、強盗殺人を犯したラスコーリニコフの代わりに
誤認逮捕されたペンキ屋のミコールカが、慈善(偽善)団体に加入していた関係から
「自分が犯人だ」などとウソの自供を始め、ラスコーリニコフの代わりに
強盗殺人の罪を背負おうとするくだりがある。
そのせいもあったり、親孝行娼婦(爆)ソーニャのキ○○イじみた説得などに応じたりで
ラスコーリニコフも最後には自首するが、やはりキリスト教圏の小説なだけあって、
これも色々とおかしい。他人の罪までをもかぶる偽善が持てはやされたり、
親孝行のために娼婦になったりの、実相からの狂いが前提としてあって、
その狂いに感化されて強盗殺人の真犯人も自首するという、美談のようでいて、
実際には人間倫理にひどく反する犯罪寓意が散りばめられている。
自らの罪を償うことにかけて徹底的であるような人間に倣って自首するのならいいし、
親孝行のために貞女であろうとする女性に感化されて、「人は結局あるべきところに
いなければならない」と感化されて自首するのでもいいだろう。しかし、他人の罪までをも
被ってあげようなどとする偽善者に感化されたり、親孝行のために娼婦になった白痴女
なんかに感化されたりして自首するのでは、自首する動機から間違っているから、
服罪に努めたところで、なかなか反省するのも難しかろうな。
898: 2010/11/30(火) 10:19:41 0 AAS
かようにして、キリスト教圏においては、
長らくカルト教義にドップリ漬かり続けてきた爪あとが方々に残されている。
たとえ今はもう、キリストなんか本気で信じていなくたって、
カルト信仰の爪あととしての凶相が方々に残されているために、
ドストエフスキーやニーチェのような実存主義志向の文学ですらもが、
凶相の遍在を前提とした論理展開から脱却できないままでいる。
899: 2010/11/30(火) 10:48:56 0 AAS
マルクスの「資本論」なども、資本主義経済批判の対象として、
よりにもよってイギリスの下層階級の極端な薄給重労働をあげつらい、
「こんな風にならないためにはどうしたらいいか」をわざわざ論じ立てているから、
人間社会のデフォルトがさも、イギリスの下層階級の薄給重労働であるかのようになってしまった。
マルクス存命中でもあった、江戸時代の日本人の平均労働時間などは、今の半分程度だったというし。
王権神授説によって上層階級の権力を絶対化し、そのくせして四民制やカースト制のような
支配階級と産業階級の分別も付けず、ユダヤ商人などもヘタに近づけて、資本家の権力までをも
絶対化させてしまった英欧の社会体制などを大前提として、マルクスも共産主義を提唱したから、
非宗教・無信仰的なイデオロギーであるはずにも関わらず、共産主義もまた、
その内面に奇形的な精神性を宿したままに定立されることとなってしまった。
そもそも王権の神授性から、封禅の儀の成功如何によって左右され(始皇帝は失敗し武帝は成功した)、
儒家や法家の提唱した四民制によって政財界の分別も行き届いていた東洋の社会体制に基づくなら、
19世紀のイギリスの下層階級の薄給重労働など自体が、すでに異常なものであることが確かだから、
それを前提にその解決を目指すようなことからあり得ず、そのイギリス的な資本主義を、東洋的な封建主義
よりもまだ先進的なもの(ただし共産主義よりは後進的なもの)として認めたマルクスの判断もおかしかった。
900: 2010/11/30(火) 21:08:08 0 AAS
ラスコーリニコフが、親孝行娼婦ソーニャの説得に応じて自首したことにも、ちゃんと裏がある。
家を出る 人としきけば仮りの宿に 心とどむなと 思ふばかりぞ
「人が出家しただなどという話を聞けば、仮の宿に過ぎない現世ごときに心をとどめるなとばかり思う」
との意味である、西行法師と歌詠み交わした江口の遊女の返し歌。
現世で散々にわが身をもてあそばれ、どこにも安住するに足る場所を見出せない娼婦の詠んだこの歌が、
「兵法にも通ずる」として沢庵和尚に「不動智神妙録」で取り上げられ、それを又引きしつつ柳生宗矩も
「兵法家伝書」を書いた。娼婦の心境は、命をやり取る兵法者の心境にも順ずるものであり、
真剣勝負の場においてですら有効ながらも、それはしごく殺伐としたものであるということ。
家計を助けるために娼婦になって、殺伐とした遊女なりの心境を蓄えつつあったソーニャと対面して、
自らの罪状を告白したラスコーリニコフは、発狂したかのごとく自首を命令するするソーニャの
気勢に押されて、最後には自首してしまう。それは要するに、強盗殺人という重罪を犯しながらも
反省すらしないでいたラスコーリニコフの気勢が、真剣勝負にも相当する戦闘態勢を、日々の
秘め事で蓄えていたソーニャの気勢に圧倒されて、思わず自首してしまったということであり、
反省の足りなさに打ちひしがれるどころか、反省しないでいる平気さの足りなさに打ちひしがれて
自首したということだったので、より悪い動機によって自首してしまったことにしかなっていない。
901: 2010/12/01(水) 09:35:50 0 AAS
内心「あ"〜早くちんぽ咥えたい、咥えたい、咥えたぁ〜い」などと思っていても、
そこはムスリムのおばあちゃんの心のうちに止めておいてもらう。
別にそれが実罪なのではなく、
畜生の渇望を巧妙な権力犯罪に振り向けたことこそは実罪なのだから。
902: 2010/12/01(水) 10:05:49 0 AAS
地獄餓鬼畜生の三悪趣と、修羅人天の三善趣との違いは、主に渇望の有無ないし充足の有無にある。
地獄餓鬼畜生には全く充足がなく、渇望ばかりがあり、餓鬼のように本当に餓えている場合だけでなく、
すでに相当な利権を貪っている畜生ですらも、いま以上の貪りを続けようとすることを止めない。
修羅人天にも全く渇望がないわけではないが、人としての致命的な問題をも呈するほどもの渇望は
十分に抑制されて、邦に道の行われている時にこそ熱心に働いて俸禄も得ようとするような分別によって、
自ずからの充足を知り、むしろ充足状態故の浩然の気を保つことにかけての研鑽にすら努めようとする。
903(1): 2010/12/01(水) 10:06:59 0 AAS
ただ、このうちでも扱いが難しいのが修羅で、劣悪な修羅は際限もなく戦いを貪ることがあるために、
正統仏教においても地獄餓鬼畜生と合わせた「四悪趣」として扱われることがある。しかし、どこまでも
際限なく戦いを貪るのはあくまで劣悪な修羅のみであり、東洋兵法や武芸などの高潔な修羅においては、
武はあくまで目的のための手段であるとされ、一旦泰平という目的が達成されたなら、堅実な徳治などに
道を譲ることが貴ばれているために、どこまでも無意味に戦いを貪り続ける畜生的な要素は廃されている。
とはいえ確かに、戦闘中の修羅は安穏としてもいられない所があり、実際に心を一所に止めることが
ないように努めるさまが、畜生道である遊女の心境にも近いものだと、沢庵や柳生ですらもが認めている。
「地獄餓鬼畜生修羅人天」の順列では、修羅と畜生は隣り合わせになるが、確かに近いところもあって、
戦争中の兵士なども性欲を蓄積させてしまうために、軍規の徹底や慰安婦のあてがいにでも依らない
ことには、戦地での婦女への暴行なども横行してしまう(ソビエトは戦地での強姦を正式に認めてもいた)。
逆言すれば、畜生道にあたる娼婦の心境は、戦闘中の修羅にも見紛う渇望にまみれたものである故に、
それを今から自首せんとする犯罪者への後押しなどに用いれば、檻の中で心を落ち着けて反省
しなければならないところが、その気持ちは殺がれ、バビロン拘留中に異民族への復讐意識を
モーセ五書に託した古代ユダヤ人のような、全く反省しない服役者が量産されるだけのこととなる。
自分が投獄されるのは戦いに負けただけのことに過ぎないから、「今度は勝つ」などと、己の罪に
よってこそ投獄された犯罪者としては思い上がりにも程がある、勘違い下での悪念を募らせる。
904: 2010/12/01(水) 16:34:29 0 AAS
地獄界・・・米英瑞以
餓鬼界・・・ブラックアフリカ
畜生界・・・欧露
修羅界・・・イスラム圏
人界・・・中国
天界・・・インド
かようにして、現代の現実世界もまた、ちゃんと六道輪廻の配分に収まっている。
今の日本はといえば、地獄餓鬼畜生修羅人天のいずれもが混在している状態で、
善くも悪しくも、六道については世界一網羅が行き届いている社会となっている。
畜生界は、それらだけで重大な実罪に手を染めることは少ないが、
「蛇の道は蛇」であり、地獄道の連中との連絡にも余念がなく、
仲間内で小競り合いなども多少はしながら、利権関係ではねんごろとなり、
地獄界並みかそれ以上もの利権的豊満に与る。
餓鬼界はといえば、ただ地獄界や畜生界から一方的に利権を奪われ続ける一方で
ある点が深刻な従犯状態ともなっており、資本主義国の工業生産の下請けなども
引き受けつつ、ちゃっかり工業技術などを吸収している中国のようなしたたかさもない。
ただ奪われ通しで、誰を怨めばいいかも分からないほどの無知蒙昧の中に
置かれ続けていることも、決していい見本にはならないので、
地獄道や畜生道と共に、三悪趣の中に入れられる。
修羅界はといえば、三悪趣の敵になることもあれば、三善趣の敵になることもあり、
一概に善か悪かを断定できないのも確かだが、少なくとも実罪の共犯であることにかけて、
地獄界や畜生界と共同しようとまではしないので、断罪の対象にまではならない。
人界と天界については、もうさんざんここで説明し尽くしているので、いま詳述する必要はあるまい。
東洋教学は主に、人界や天界、仏界などを研究対象とし、地獄道や餓鬼道、畜生道などの
暴挙を抑え付けることによる、天下万人の恒久的な福利厚生に貢献することをも目的としている。
905(1): 2010/12/02(木) 01:37:18 0 AAS
俺は修羅が英米だと思うね。慢性的なうそつきと戦争と自己正当化の繰り返し。
まさにアスラ。
人界は支那やインドシナかな。とりあえず食わねばならず、そのために人を動かす
政治に重点を置いてるから。
天界は自己に打ち勝つことを目的とした宗教家だろうか。
畜生道は日本やドイツといった敗戦国だろう。まさに戦勝国のための家畜。
飢餓道は旧共産圏だろう。心身ともにすべてに飢えている。
地獄道はわからない。
906(1): 2010/12/02(木) 01:41:40 0 AAS
>>903「闘争を以ってむさぼる存在」とは言いえて妙ですな。
欧米の「権利の追求」は自分の権利を主張するために
他者の権利を踏みにじり、そしてその人はまた自分を保持する
権利を突きつける・・まさに「闘争の輪廻」が続いていくわけです。
こんなバカな政治制度は荀子の時代でさえ、すでに退けられて
いたのに、あいも変わらずの白人の暗愚と独善ぶりには
笑うしかないです。
907(2): 2010/12/02(木) 11:43:00 0 AAS
闘争が貪りであるのは、闘争している限りにおいてだ。
畜生はもはや何もかもが貪りであり、戦闘状態でなければ禅定に努める本物の修羅とも根本的には違う。
見境もなく利権を貪り続ける欧米の所業はまさに畜生道であり、純粋な修羅道には当たらない。
利権の貪りのためには権力犯罪すらも犯すのは地獄道であり、その領分は特に米英が勤めている。
だから米英こそは地獄道を突っ走っているといえ、自分たち自身は直接的な権力犯罪に手を染めず、
米英との取引を通じて間接的に利権を貪っている欧州などが、より純度の高い畜生道に当たる。
>>905-906は六道それぞれの意味を取り違えたり、修羅道と畜生道や地獄道を全く混同したりしているので、
それぞれの現実世界への当てはめも全く間違ったものになっている。表向きだけは徹底的な
治安維持志向を打ち出している米英などが、表裏いずれにおいても修羅の徒であるなどとは言えない。
とりあえず食うために働くのも、人界ではなく餓鬼界の条件であり、真人間こそは道義のために死ぬこともある。
克己も人界ですでに勤められるものであり、天界ではもはや自他の区別すら捨て去った一化の嗜みが貴ばれる。
日本やドイツが戦勝国の奴隷状態であるのも餓鬼状態である証拠であり、戦勝国などの際限のない利権の貪りこそは畜生に当たる。
908: 2010/12/02(木) 11:54:29 0 AAS
六道十界論は浄土思想や日蓮宗も通じて広く世の中に頒布されているのに、
ちっとも六道や四乗それぞれの存在性が正しく把握されてはいない。
六道のうちの地獄道・餓鬼道・畜生道だけを、それぞれ地獄・煉獄・天国に当てはめた
ダンテの「神曲」などが流布されたりもしているせいで、本物の修羅道・人道・天道への
理解が特に疎かになり、実際には畜生道や地獄道に過ぎないものを修羅道だと勘違いしたり、
餓鬼道を人道だと勘違いしたり、ただ宗教的ですらあれば天道であるなどと勘違いしたりの、
勘違いのオンパレード状態となっていて、少しも本家本元の六道への理解は行き届いていない。
六道が“六”道であることにもちゃんと理由があって、これは易の六爻からなる六十四卦の構造とも合致している。
「天道、人道、地道がそれぞれ八卦の三爻となり、さらに八卦が上下に重なって六爻の六十四卦となる」
と、「易経」繋辞伝でも孔子が説明しており、より優良な天地人の道が天道・人道・修羅道となり、
より劣悪な天地人の道が畜生道・餓鬼道・地獄道になると、仏教以前の易学においてすでに予言されている。
天地人の道が上下に二つ重なり合うという所までもが、5000年前の中国ですでに把握されており、
未だ天地人が一枚岩でしかあり得ないと思い込んでいる、今の社会通念とは次元があまりにも違いすぎている。
909: 2010/12/02(木) 12:08:02 0 AAS
「六道輪廻は畢竟地獄」などというのも、天地人の三才を地獄・煉獄・天国などの
一枚岩状態であると思い込んでいる重大な勘違いを原因としている。
この勘違いを簡単に喩えるなら、「日食」が分かりやすいだろう。
太陽と月は、いつもは別々に運行しており、人間の肉眼からはほぼ同じ程度の大きさにも見える。
この二つが重なり合って、太陽が月にすっぽり覆われて、日中でも暗闇と化すのが日食。
それと同じように、地獄・餓鬼・畜生の三悪道が、修羅・人・天の三善道をすっぽり覆い隠して、
しかも自分たちのことを「地獄・煉獄・天国」などと言い換えて悦に入ったりもしているのが現状。
そりゃあ、歴史的に見ればほんの一瞬であり、そうそう長く続くものでもない。
太陽と月の運行がずれて、じょじょに太陽の光が取り戻されていき、じきにいつもの通りの、
日中は何もかもが光に照らされる日常が戻ってくることとなる。
六道輪廻はそのような、日食のようなごく一時の現象に限らない、恒常的な世界の有り様を
把捉したものであり、太陽と月が別物であるように、三善道と三悪道もまた、恒常的には
別物で有り続ける。今は修羅のフリをしている米英なども、じきに化けの皮が剥がされて、
本当は地獄の亡者であることが明らかになる。まるで自分たちこそは天国にいるかのような
フリをしている欧州人なども、所詮は畜生同然の貪欲さの塊でしかないことが明らかになる。
逆に餓鬼や畜生扱いされていた東洋人などのほうが、本来の人道や天道の求道者としての
本領を取り戻し、月に覆い隠されぬ太陽としての、無量光を放ち続けて止まなくなる。
910: 2010/12/02(木) 12:51:29 0 AAS
天地人三才の二元性は、日本神道においても明確化されている。
中国原産の易学においては、天が父、地が母であるとされ、
ギリシャ神話における天父神ゼウスや地母神デメーテルなどとも一致している。
しかし、日本神話では、女神にして母神であるアマテラスこそは太陽神であるとされる。
これはむしろ、易学的な観点からしても、ギリシャ神話以上にもおかしいようにすら思える。
しかし、ここにも古代日本人の叡智が隠されていて、それがちゃんと易学とも合致している。
中国の易における「天」とは、日月星辰といった全天体のことであり、特に「星」が主要な天体とされている。
太陽は日光によって全ての星辰を覆い隠し、月の姿すらもうっすらと見える程度にしてしまう。
太陽こそはあらゆる天体の中でも別格のものであり、これをこそ日本神話では女神として扱う。
天子は朝廷の北側に鎮座して南面し、皇祖神にして母神たる天照らす太陽に向かう。
そして北方には、星辰の運行の中心たる北極星があり、北極星のように全ての人間の中心に居住まう
ことこそは天子にとっての本分であるが故、道教で北極星を意味する「天皇大帝」から「天皇」という号が引かれもした。
鏡映認知を徹底的に考え抜くことで、天の中でも太陽こそは母神であり、夜間の星辰の運行の中心となる北極星と
同等たる天皇陛下こそは、父とされる天体=星辰の中心中の中心であるという、完全な易学的配慮が行き届いている。
これにより、ぱっと見易学にも合致しているかのように思える、天父神ゼウスや地母神デメーテルなどの、ギリシャ神話上
の父母配置も、間違っているとまでは言わないまでも、瑣末な仔細ばかりを捉えた極例であることが裏付けられる。
911: 2010/12/02(木) 13:05:22 0 AAS
三位一体思想も、三悪道を司るキリスト教では「父と子と処女膜胎盤(聖霊)」という、
母親をものとしてしか扱わない下劣な定義に止まっていたのが、
修羅道のイスラムでは「父と母と子」という風に解釈され直し、母親の権威が取り戻された。
さらに儒学では「君臣父子夫婦」という三綱が提唱され、三位一体を三つの人間関係に昇華する、
六爻六十四卦の数理にも即した人間関係の理想化が提唱されている。
天地人三才の把握が、六道や三綱のような二元性にまで昇華されているのが東洋教学であるのに対し、
洋学や聖書教ではどこまでも一元に止まり、地獄・煉獄・天国の三つで全ての世界を捉えようともする。
しかし、実際のところそれは間違っており、西洋人が地獄・煉獄・天国とする地獄界・餓鬼界・畜生界の上に、
本当は修羅界・人界・天界の三善界があり、これら合わせて六つを把握することで「俗界」の把握が完成する。
これでこそ全世界の俗世の把握が完了するのであり、東洋人はとっくの昔にそれを完了させていたが、
西洋人はまだであり、修羅界・人界・天界の三つは未だかつて把握したことがない。
修羅や天国だと思い込んでいるものも畜生や地獄でしかなく、人だと思い込んでいるものも餓鬼でしかない。
東洋人は、修羅・人・天・とは別個に地獄・餓鬼・畜生があると分かっていて、自分たちですら地獄や鬼畜に
陥ることがあり得ることも分かっているが、西洋人はそもそも地獄・餓鬼・畜生の三つしか知らないから、
どうあがいたって今のところ地獄・餓鬼・畜生の三つでしかあり得たことがない。修羅や人や天には
偶然やまぐれでなれたりはせず、それなりの学術的な把握や、体系的な研鑽を要するものだから。
六道全体の存在も知らない内から、修羅や天人であれたことがないのも、全く仕方のない話。
912: 2010/12/02(木) 22:41:25 0 AAS
米英が修羅だからいけないってんなら、同じ修羅である武蔵などの剣豪などもいけないことになる。
でも、実際には両者は全くの別物で、剣豪は恨みっこなしの真剣勝負にこそ挑んでいたのに、
米英は怨みの嵐を巻き起こす重大犯罪行為の積み重ねによって、名目上の戦勝も得ている。
戦いこそは主であるものと、罪悪こそは主であり戦いは名目に過ぎないものと。
前者からすれば、後者はまるっきり罪悪の塊に過ぎず、地獄の亡者であるようにしか見えない。
実際に地獄の亡者でしかないから、罪状をすべて自白した上で、十分な反省に努めたなら、
大勝が反故になるのとは引き換えに、戦敗して死ぬようなこともなく、贖罪して庶民になることもできる。
そんな相手とは、そもそも真剣勝負ができないので、戦う気も失せて、何もしないで衰滅を待つ程度。
死ぬことなんて簡単だから、ただ死に様が道化とならない程度には努めるのみ。
913: 2010/12/03(金) 07:15:54 P AAS
>>907
向上心を持てって言ってんだろ
お前のはそれ上昇志向だよ
914: 2010/12/03(金) 09:58:28 0 AAS
向上心が必要なのも西洋人のほうだ。
東洋人は、昔から天地人三才が上下に折り重なった六道が俗界の全容であるとわきまえていたから、
当然のこととして、自分たちがより優良な修羅人天の三善趣であるように努め、
より劣悪な地獄餓鬼畜生の三悪趣ではないように努めた。
しかし、西洋人は大昔から地獄餓鬼畜生(地獄煉獄天国)の三悪趣しか知らず、
最高天とされるものですら畜生天国止まりだったから、
劣悪なものを排して優良なものをとる選択肢などはなかった。
優劣良悪の選択肢が提示されたなら、もはや劣悪を排して優良をとるしかなく、
東洋人も当然のこととして六道のうちの三善趣を採っていたわけだが、
西洋人はなまじ三悪趣の中だけで文化文明を育んできた伝統が長いせいで、
(ただし東洋人が三善趣を選取してきた伝統の長さには及ばない)
なかなか「全ての選択肢」の中から選択すべきものを選択する踏ん切りが付かず、
仮に今から三悪趣を排して三善趣を採ったとしても、大昔から伝統的に
三善趣の選取に努めてきた東洋人との落差はそうそうには埋め合わせられないから、
無根拠で無益有害なプライドもあるせいで、今まさに三悪趣の長であることを「全世界の長」
である根拠ともして、「日食状態の暗闇の長」であることを鼻にかけ続けていようともする。
日食状態なんて、ほんの一瞬だから、いつまでも長きどりをしてもいられず、
じきに三善趣選取にかけての「大後輩」にならざるを得ないが、全く向上心を抱こうともせずに、
最低最悪社会の長である身分に固執すればするだけ、その間の犠牲になっていく被害者も数多い。
だからほんの一瞬といえども、命を大切にする当たり前な人心によって、三悪趣卒業を促し続けもする。
915: 2010/12/03(金) 20:43:38 0 AAS
>>907ハンパしてすみませんでした。六道のことは今まで
誰も教えてくれなかったので。
916(1): 2010/12/06(月) 20:29:38 0 AAS
「六道輪廻」は衆生に説く方便のうちの一つでもあり、自力修習のための本格教学でもないので、
地獄餓鬼畜生修羅人天の六才からなる六道だけを切に学べば、凡人であろうとも理解できないことはない。
しかし、六道の他に、地獄煉獄天国の三獄だけに専らな異端の見識などを同時に学んだりすれば、
いったいどれが正しいのか分からなくなり、どっちも正しいような矛盾許容論理にも陥らざるを得ない。
不純物が混在してしまったせいで、通常なら凡夫でも分かる程度の方便が尽くされている六道輪廻の思想までもが、
容易には理解しがたいものとなってしまっている。本当は別に難しいことでもなく、IQが100もあれば誰でも
理解できることが他力仏教や儒学などでは教えられているのに、IQを一時的にでも20や30程度にまで
落ち込ませてしまう禽獣教学が干渉してしまっているせいで、常識的に理解できることまでもが理解できなくなっている。
別にIQ180や200なんかにならなくても、IQ100程度のまともな知能を恒常的に堅持し続けられればいい。
酔っ払っていても、性交中でも、とにかく一人前の知能は堅持し続けておく。常に一人前でい続けられるのなら、
知能テストの時だけは高得点をはじき出せても、ややもすれば知的障害レベルにまで知能を退行させてしまう
「知能不安定症」の患者などであるよりも、重大な仕事を任せるに値する人間でもあるといえる。
917: トーヘンボク 2010/12/08(水) 23:52:00 0 AAS
・・読もうという気はある。
918: 2010/12/10(金) 19:28:14 0 AAS
>>916地獄道とは具体的にどんな世界なのでしょうか?
919: トーヘンボク 2010/12/11(土) 23:32:55 0 AAS
あした、読もうかな。。
920: トーヘンボク 2010/12/12(日) 10:16:02 0 AAS
全体の要旨を、50行以内の文章にまとめて下さい。
(これ、自分の勉強にもなるよ。。)
921: 2010/12/12(日) 22:31:59 0 AAS
地獄道・・・犯罪まみれの主謀
餓鬼道・・・犯罪被害による貧窮
畜生道・・・犯罪加害による過度の富裕
修羅道・・・犯罪性を除外した武闘
人道・・・犯罪まみれの体系的な払拭
天道・・・犯罪まみれの体系的な抑止
声聞縁覚菩薩仏の四乗も、「諸悪莫作修善奉行(法句経)」や「断悪修善(般若経)」を
旨としており、三悪道を排して三善道を推し進める傾向を伴っているわけだけれども、
三善道のうちの人道や天道が、自分たちから主体的に善性を推し進めていくのに対し、
四乗である仏道の場合には、三善道と三悪道いずれをも傍観的に諦観した上での、
菩提心の発露に即した断悪修善を推し進めていく点が異なっている。
儒学の正典四書五経中の「易経」もまた、六道を六爻六十四卦に即して俯瞰する
材料を一応は提供しているわけだが、その記述は素っ気ない上にやたらと難解で、
易学の理解にまで即して人道たる儒家を実践していくことは大体において諦められ、
四書などのより簡明直裁な勉強材料によって、より実践的に儒学を実践していくことの
ほうが朱子学創立以降の中国や日本でも重んじられてきた。六道全体を俯瞰して
までの超越的な断悪修善のお株は、儒学発祥の地である中国においてですら、
仏教伝来以降には仏教のほうに丸投げしてきたきらいがある。
922: 2010/12/13(月) 13:54:45 0 AAS
なるほど。そう考えると陰陽因循の易経と「善悪六道」の
仏教はたしかに似てますね。
923: 2010/12/13(月) 20:58:21 0 AAS
旧くはなかったね。あまりにも新しすぎたんだ。10000年以上も。>>748
あまりにも新しすぎたんで、付いて来られる人間が限られていたというのはある。
924: トーヘンボク 2010/12/13(月) 21:00:22 0 AAS
・・ありがとうございます。大変、勉強させていただきました。
これからいくつか質問させていただきます。
「超越的な断悪修善」は「六道全体を俯瞰する」ことによって
可能になる、と。すばらしい教えですね。921さんは、日本
仏教の諸流のうち、どれがもっとも本質的に仏道を継承した・・
とお考えですか。
925: 2010/12/14(火) 13:10:18 0 AAS
そりゃあ、場合わけによっていくらでも答えが変わってしまう難問だ。
釈迦が成道に至ったまでの、厳しい研鑽を忠実に再現している点では密教が一番だし、
成道した瞬間の正覚の再現一つに絞って、参禅に努めている点では禅が一番だし、
円熟期の自在な方便も駆使した教学を受け継いでいる点では法華が一番だし、
そもそも凡人が悟りを得ることなどを諦めて堅実な正念に努める点では浄土が一番だ。
仏教はどこまでも、仏陀という巨像を群盲が撫で回した体験談でしかあり得ず、
自分がいずれの盲人であるかによって、どの教派が最適であるかも変わってくる。
とりあえず、貴賤を問わず、誰しもに対して帰依を勧められるのは浄土教で、
天台教学である六道十界論のうちの、特に俗人にとってこそ重要な六道輪廻を
「往生要集」などで主体的に司っているのも浄土教だが、自力の仏者にとってこそ
重要な声聞縁覚菩薩仏の四乗に関する考察などをあえて切り捨てているなど、
やはり仏教らしい仏教であるとは言えないことを認めざるを得ない。
926: トーヘンボク 2010/12/14(火) 21:13:21 0 AAS
自分は、ごく初心者なので見当違いの質問をする。。と思いますが、
ご容赦ください。
浄土教とおっしゃられる場合、具体的には法然の教えを指す・・と
理解してよろしいのでしょうか?
そして、帰依を勧められるのは浄土教である・・とおっしゃられる
一方で、(浄土教は)仏教らしい仏教であるとは言えない・・と
おっしゃっていますね?
つまり、浄土教は、もっとも帰依を勧められる教えであるが、仏教、
本来の仏教とは、異質なものを含む。。ということですね?
つまり、仏教のメイン・ロードは、禅に代表される自力の道であるが、
それは、大衆に広めるという目的からみると、あまりに貴族的な道である
と、示唆されている。。と理解していいでしょうか。(じっさい、開祖の
シッタルタは、王族の出身です。。)
2つの問いをしてしまいましたが、お答えいただければと願っています。
また、やはり、往生要集を、すぐに読んだほうがいいでしょうか。
入門者に、勧められる良い書物があれば、ご紹介いただければ嬉しいです。
ほんとうに、初心者でありまして、
ほとんど読んでおりませんので、どうか、好著をご紹介下さい。
927: トーヘンボク 2010/12/14(火) 23:02:01 0 AAS
ああ。。ごめんなさい。浄土教という場合、もっと古くて、平家物語などにも
大きな影響を与えている信仰のことですよね。
そう言えば、兵藤裕己の「平家物語」「琵琶法師」(岩波新書)という本を
持ってました。。。
928: 2010/12/15(水) 09:51:31 0 AAS
10円玉の平等院鳳凰堂も浄土系の寺院で、本尊も阿弥陀如来だね。
法華と共に禅や浄土、密教なども兼学する日本天台宗が、藤原氏の支援で建立したもの。
未だ禅や浄土の本格的な輸入がされていなかった平安時代までの日本において、
法華を最高の教えとする天台宗で副次的に学ばれていた、禅仏教を本格的に広めたのが栄西や道元、
そして浄土教を本格的に広めたのが法然や親鸞。「往生要集」を著した源信も秀逸な浄土信者ではあったが、
未だ天台宗のいち僧侶に止まっていたために、独自の宗派を立ち上げた法然や親鸞と比べれば、
どうしてもプロトタイプ的な扱いに止められることが免れ得ない。
禅や浄土が独自の宗派としての発展を見せた鎌倉期の新仏教は、いわば「比叡山仏教の開陳」であって、
それまでも延暦寺においては黙々と修習されていた数々の教義が、公家社会から武家社会への
時代の移行などからの要求にもよって、比叡山の外へと持ち出され始めた動きだった。
比叡山では副学扱いだった禅や浄土を独自の宗派として立ち上げたのはまだしも、
主要中の主要教義である法華を独自の解釈も踏まえつつ庶民に流布したのが日蓮で、
その教義の排他性の高さなどから伝統的に非難の対象となり続け、今でも創価などの形で
嫌悪の対象となっている。ただ、皇室ご用達でもある天台教学のうちでも最高の教えとされる法華までもが、
一応は鎌倉新仏教の興隆を通じて一般に流布されており、何らかの仏教教義が象牙の塔の内側に
隠されたままで庶民に流布されることがなかったりしたわけではない証拠にはなっている。
929: 2010/12/15(水) 10:04:24 0 AAS
良くも悪しくも、あらゆる仏教教派の中でも最難関なのが密教。
大乗小乗共通の戒律の他に、密教独特の戒律も加えるなどのガチガチの実践主義。
あまりにもその実践が困難であり過ぎることから、弘法大師空海以降の真言密教では
未だ空海に匹敵するほどもの後継者が生み出されたことがない。
その真言密教も、禅や浄土や法華などのあらゆる他流教義を兼学する総合仏教であり、
天台宗が法華を最高の教えとするのに対し、真言宗は密教こそを最高の教えとする点が異なる。
未だ空海を超えるような密教の後継者が生まれていないにも関わらず、真言密教の人気は高く、
その信者数も浄土真宗と並んで日本最大級であるのも、一つには空海のカリスマ性があるが、
「南無遍照金剛」のような他力本願の信仰形態も部分的に浄土教などから借り受けているために、
自分自身が密教の大成者でなくとも密教に帰依する門扉が開かれているから。弘法大師並みの
大聖でなければ密教に帰依してはならないというのなら、誰も密教信者を名乗ることはできない。
930: 2010/12/15(水) 10:16:54 0 AAS
密教も南無大師遍照金剛、禅宗も南無釈迦牟尼仏、日蓮宗も南無妙法蓮華経。
「南無〜」という他力の帰依を最も純化したのが、浄土信仰の「南無阿弥陀仏」であり、
阿弥陀仏への正念を専修する以上は、もはや自力での仏教修習などは目指さない。
阿弥陀仏も実在しない架空の仏ではあるが、だからこそ見習いようもなく、
お釈迦さまや弘法大師や法華経のような、見習いの対象にもなり得る実物に
帰依する場合以上にも、他力信仰の姿勢だけは堅固なものとなる。
お釈迦さまを見習えると思うのなら、お大師さまを見習えると思うのなら、
そっち系の自力仏教を目指してもいいわけだが、ただ、自力仏教は出家第一。
婚姻も社会的成功も絶って、丸坊主に糞掃衣の風体で厳しい修行に励み続ける。
他力でないというのならそうでしかあり得ず、結局は浄土教以外の仏教に帰依する
のであっても、大体は「南無〜」という他力信仰の形態にあやかる場合がほとんどとなる。
931: 2010/12/15(水) 10:51:42 0 AAS
ベラベラとなまくらな仏教知識を述べ立ててしまったが、自分も仏教が専攻なわけではないんだ。
本当は儒学などに即した徳治学や、その実践に務められた政治史などのほうが専攻。
ただ、東洋の政治史などを専門的に勉強していると、どうしたって仏教が頭をもたげてくる。
あくまで超俗志向であるのが基本であり、武田信玄や上杉謙信のようなにわかでもない本格の僧侶が
本格の政治家として活躍した例なども皆無なわけだが、孝謙天皇の黒幕として専横を働いた道鏡や、
徳川家康のブレーンとして重宝された天海など、政治史の傍流で不気味な威容を放つ僧侶は多い。
そして何より、他力の帰依者としての、本格の政治家による仏教帰依の度合いが半端ではない。
世界最大級の木造寺院である東大寺を建立した聖武天皇、さらにそれ以上もの大寺院の建立を
試みた秀吉(ただし中途の地震による倒壊で中止)、俗世の頂点に立った権力者が、自らの孤高さを
紛らわせる手段として、超俗宗教の雄である仏教に、大枚もはたきつつ帰依することがよくあり、
そのために、自分たちでは大して稼ぎもしない仏門が、伝統的にホクホクの財政状況でもあり続けている。
932: 2010/12/15(水) 11:08:09 0 AAS
あくまで政教分離が基本であり、東洋の為政者が仏教教義に即して政治的手腕を奮ったりはしていない。
しかし、一端の政治家が儒学や老荘などの無宗教的な政治思想に即して、自力での徳治を実現した後に、
事業の封禅の意図も込めて、他力の範囲内で仏教に帰依し、大寺院や大仏を建立するなどした場合が多い。
未だ仏教が流入していなかった前漢までの中国においては、始皇帝や武帝などが仏教ではなく、
道教やそれ以前の土着宗教に即して、泰山などでの封禅の儀を執り行っていた。ただ、未だ未発達な
土着宗教などに即して封禅の儀を行っていたことから、インチキや迷信も相当に横行していたようで、
泰山での封禅を成功させた武帝ですら、欒大のようなインチキ道術者に惑わされてもいる。
未発達な土着宗教などに特有の迷信は排して、絶対真理こそを究明し、他力でもその絶対真理にこそ帰依する
仏教が、かつては迷信混じりな土着宗教ばかりに即して行われていた封禅の儀などをより手堅いものとする上で、
時の権力者たちに重宝されるようになった。もちろん秀吉のように、仏教帰依による報禅が失敗した場合もあるが。
別に、仏教流入以降の中国や日本で、古来の土着宗教が全廃されただなんてこともなく、土着宗教は土着宗教で
道教や神道などとして、仏教との協同に即した洗練なども伴いつつ、独自の発展を果たしてきた。その道教や
神道が衰亡の危機に晒されているのも、仏教ではなく、文化大革命やGHQ占領などのほうのせいだったりする。
933: トーヘンボク 2010/12/15(水) 23:17:50 0 AAS
神道が衰亡の危機に晒されている・・とは、思えないのですが?
象徴天皇制が続く限り。。。
秀吉の仏教帰依については、まったく知りませんでした。
彼は大俗物のように思えるので、完全に政治的ポーズだと思いますが?
家康の2人の宗教的ブレーン、南光坊天海と金地院崇伝ですね。
前者は理想家肌、後者はリアルポリティクス志向のような印象が。
あと、面白そうだと思うのは、後白河です。
この辺、おおいに関心があります。
934: トーヘンボク 2010/12/15(水) 23:50:55 0 AAS
・・他力信仰は、仏教と言えるでしょうか。自力と他力では異質すぎるという
気がしますが。
935: トーヘンボク 2010/12/16(木) 07:01:22 0 AAS
浄土教を知るためには、
とにかくまず、法然を研究してみる必要がありそうですね?
936: 2010/12/16(木) 11:06:13 0 AAS
浄土教は純粋な仏教だ。
その依拠元となっている浄土三部経も純粋な仏説だし、その浄土経と、
華厳経などの聖道門の経典との血のにじむような比較査読によって
親鸞聖人が提唱した悪人正機も、確かに正確な仏説の一つでこそある。
「一切衆生悉有仏性」であり、牆壁瓦礫(瓦礫の山)や乾屎蕨(糞かきべら)にまで
仏性は伴っているとされる。それは、拝火教やアブラハム教の主な信仰形態である
他力本願にすら当てはまるのであり、他力信仰に仏性を見出した結果が悪人正機でもある。
仏性ってのは、ある種の位相のことであって、「悪人なおもて往生を遂ぐ、いわんや善人をや」
だと仏性の位相とはならないが、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」だと仏性の位相になる。
易学における吉凶の相とはちょっとちがって、吉凶をも超越する普遍性の位相こそが仏性となり、
位相が専らに優良であることこそが吉祥となり、専らに劣悪であることが不吉となる。
位相が仏性の規則にすら従っていれば、他力信仰ですらもが仏教となり得る一方で、
仏性の規則に違反した位相である以上は、何ものも仏教や仏説であることはない。
悪人正機は確かな仏説だが、善人正機は遊び人のたわ言に過ぎず、両者の違いは厳然としてある。
937(1): 2010/12/16(木) 11:48:08 0 AAS
一休和尚が寺の本尊の阿弥陀如来を枕に昼寝していれば「俺の商売道具に何をする!」と怒り、
信者たちにも「本尊はかけ破れ、聖教は読み破れ」との珍言を残している蓮如上人。
ちっとも本尊であるはずの阿弥陀如来に対する陶酔的な帰依が伺えない、
それもそのはずで、悪人正機に即しての一向専修念仏が、ありのままに悟りに至る正業であるから、
阿弥陀如来という偶像への殊更な精神依存などを浄土信者が必要とすることもない。
仏性という位相に即しての他力本願であればそうなるのに、仏性に違反する善人正機的な
思い込みの中での他力本願は狂信の塊とも化してしまう。仏説に即せば確かに正しい方向へと
導かれ、反仏説に即せば確かに誤った方向へと陥れられる。それはどんなことにでも当てはまり、
受戒を必要としないはずの浄土教においてですら、阿弥陀仏への正念に努めていることで、
自然と一挙手一投足や、一思いや一言から仏性にかなったものへと矯正されていく。
938: トーヘンボク 2010/12/16(木) 23:51:06 0 AAS
ははは。。。
33さんの、煩悩即菩提という言い方は、はじめて聞きましたが
優れていますね。
自分の用語で言うとこれは、弁証法であり、陰陽となります。
939: トーヘンボク 2010/12/17(金) 00:01:21 0 AAS
悪人正機説も、まさに弁証法ですね。
940: 2010/12/17(金) 01:01:02 0 AAS
世の中は荀子の説が正しいのか、老子の説が正しいのか。
>>937さんはどちらを信じてますか?
941(2): 2010/12/17(金) 09:52:23 0 AAS
せっかくタチバナ文庫から「十八史略」の全釈が出たと思ったら、
全巻揃で3900円だってな。古本で新釈版を買ったほうが安いっての。
良書は高く、悪書は安く。少なくとも商売人は性悪説に則っている。
商売人は性悪説を実行し、士人は性善説を実行する。
善悪は人間の社会的作為に影法師のごとく付随するものであり、
作為全般を消極化することによって、善悪の差し障りも根本から防ごうってのが老子の説。
作為を積極化する中にも、善悪の流れを最適化してしまうのが悪人正機。
真宗七祖のうちの第三祖である曇鸞も、道家の書を焼き捨てて阿弥陀仏に帰依するなど、
浄土教と道家の説は互いに相容れないことが歴史的に確認されてきてもいる。
「煩悩を捨て去れ」ってのが道家や自力仏教の勤めである一方、煩悩を最適化して
善用してしまうのが浄土教や儒家の勤め。儒家や浄土教とて、最適化もされていない
劣悪な煩悩をただ垂れ流しにするのではなく、それなりの矯正を行き届かせようとはしている。
性善であるにしろ性悪であるにしろ、濁悪な煩悩をそのまんま肥大化させて
人類を破滅に追い込むようなことだけは避けようというのが、東洋教学全般に共通の要項。
942: 2010/12/17(金) 10:48:52 0 AAS
パソコンも、定期的にデフラグしておかないと、
断片化したファイルだらけで動作がやたらと遅くなるし、
しまいにはMBRまで壊れてOS自体が起動しなくなったりするね。
お念仏は、人間自身にとってのデフラグのようなものだよ。
943: 2010/12/17(金) 10:53:24 0 AAS
MBRまで断片化で破壊されたボリュームは、起動ディスクのブートでも起動できない。
だからハードディスクごと取り出して他のPCに接続し、
MBR修復ソフトやエラーチェッカーなどを駆使して直すしかない。
人間でいえば、刑務所や閉鎖病棟に入って更生するようなものだ。
944: 2010/12/17(金) 11:22:32 0 AAS
ハードディスク容量に十分な空きがあれば、
リナックスとのマルチブートで、リナックスの側から
ウィンドウズやマックのパーティションを修復することもできるかもしれない。
人間でいえば、後見人が付いて全ての治産行為を任せるようなものか。
945: トーヘンボク 2010/12/17(金) 21:27:21 0 AAS
>>941
ふん。
自分はまったくの門外漢ですが、要するに、一種のバランス感覚を
発明せねばならない。。という訳ですな?
綱渡りのなかに真あり、ですか。。。
946: 2010/12/17(金) 21:42:44 0 AAS
>>941老子の「何もしないことが最上の結果をうむ」という説と
「自ら先取して自然を徹底的に人工的に利用して栄えるべきだ」という荀子の説と、どちらを
支持しますか?
私は最近迷ってます。
947(1): 2010/12/17(金) 23:16:32 0 AAS
老子ではないし、荀子でもない。
孔子や孟子の「俗世に道があれば勤労に励み、道がなければ活動を自粛する」という
分別の行き届いた説を支持するし、実際に自分もそうでありたいと思う。
荀子の学門からは、勤労義務化の提唱者である韓非も輩出されており、
その韓非の説を始皇帝も参考にして、下民を牛馬のようにこき使っての事業展開を試みた。
それで中国が強くなったのかといえば、全くその逆で、世界的なバカ建築である
万里の長城まで築き上げつつも、蛮族匈奴による中原の侵略は深刻化する一方だった。
それが漢代になって、無為自然の統治が重んじられるようになると、十分な休暇を
与えられたことで民は瞬く間に強大化し、匈奴の撃退も成功するようになり始め、
武帝が儒家の五経を正学に取り決めた前漢中期に、ついに匈奴は滅亡することともなった。
どこまでも多動性障害を鼓舞する荀子・韓非系の勤労義務化志向も行き過ぎなら、
とくにかく何もしないでいることを推奨する、老荘列のニート礼賛志向も行き過ぎだ。
民の疲弊で弱体化したり、逆に休暇によって強大化したりの緩急の後に、
行動と不動の緩急の加減こそを重んずる、正統な儒学が正学とされたことで、
中国は歴史的にも最高の安定を獲得することとなった。働きまくればいい場合もあれば、
何もしないでいたほうがいい場合もある。そのような場合分け全体を俯瞰しての
均衡を重んずる、正統な儒学の中庸志向が、仏教の中道志向と並んで最適なものだといえる。
948: 2010/12/18(土) 10:02:34 0 AAS
しかし、餓鬼界というのは、単なる犯罪被害者におもえるのだが?
949: 2010/12/18(土) 11:09:14 0 AAS
餓鬼界の住人はね、自分たちが犯罪被害者であることすらもわきまえられないんだよ。
深刻な重権力犯罪被害に遭い続けていることに、まずは気づかない。
なんとなく察知しても、「奉仕の精神」とかいった美辞麗句で犯罪性を隠蔽しようとする。
もはや明らかな犯罪被害であることを察知しつつある状態でも、まだ
「奴隷階級」とか「社会の歯車」とかの、それはそれで存在性がある程度認められるような
表現によって、自分たちの置かれている状況を最低限でも正当化しておこうとする。
それでももう、明らかな犯罪被害者であることこそを完全に突き付けられたなら、
その時はもはや「これでいい(es ist gut)」の一言のみによって開き直る。
犯罪被害者であって、しかも犯罪被害者であり続けることを肯定すらさせられている、
マゾ根性が完全に定着しきってしまっているのが餓鬼界の住人。
畜生界や地獄界の住人は、逆にサド根性が定着しきっており、餓鬼界の住人などに対して
一方的に犯罪行為を加え続けることを「これでいい(es ist gut)」と開き直る。
地獄餓鬼畜生の三悪道の内部にいる者たちは、自分たちが犯罪加害被害という
劣悪な破滅現象の只中にいるという自覚が薄く、そうであることこそを
「これでいい(es ist gut)」と開き直ろうともする。三悪道の犯罪性を
十分にわきまえて、それではダメだという自覚を十分に備えた上で、立派な
勧善懲悪や断悪修善に臨めるのは、あくまで三善道や四乗の住人に限られている。
950: 2010/12/18(土) 11:42:55 0 AAS
次スレ
東洋教学総合スレ★2
2chスレ:philo
951: 2010/12/18(土) 11:54:21 0 AAS
せっかくこっちを埋め立ててから、本スレのほうに移ろうとしてたのに。
【フワーリズミ】東洋教学総合スレ0007【関孝和】
2chスレ:philo
以後、質問があればこちらの本スレに書いてくれ。
952: 2010/12/19(日) 01:30:23 0 AAS
削除依頼が出てるスレじゃ無理だな。
953: 2010/12/19(日) 04:48:17 0 AAS
不当圧力に屈する餓鬼界の住人とは、
奴隷根性を抜きにした健全な議論もできないので、別に構わない。
仕方なく奴隷でいるものとの議論の余地はまだあっても、
自ら奴隷であることを欲するものとの議論の余地まではない。
954: 2010/12/19(日) 10:53:17 0 AAS
>>947しかし始皇帝のころの匈奴はもっとおとなしかったですよ。
さらに武帝までの漢兵は連戦連敗でよくて引き分けな状況が多く、
とてもじゃないけど武帝の時代で勝利とはいえないものでしたよ。
やはり軍隊の瞬間的・戦術的な勝利は法家に勝機があるのでは
ないでしょうか?
955: 2010/12/19(日) 12:46:35 0 AAS
それは、「史記」の匈奴列伝の記録からは、随分かけ離れた物言いだな。
匈奴による中原の侵略が最も深刻だったのが、始皇帝らの支配した秦代までで、
その統治を引き継いだために高祖劉邦などの頃の漢もまた匈奴に苦しめられたが、
呂后や文帝、景帝らの無為自然統治が功を奏して中国全体が強大化し始め、
武帝の代にはついに、匈奴からの侵略の分量を、匈奴駆逐の分量が
上回り始めたと「史記」の匈奴列伝には記録されている。
匈奴駆逐を任命された将軍であった李陵に十分な援軍を送らなかったせいで、
李陵が匈奴に降った武帝の失策を指摘したために、帝の怒りも買って宮刑に処せられた司馬遷が、
にもかかわらず、厳然たる事実の提示として、武帝期の漢の匈奴に対する優勢を認めている。
司馬遷には、良くも悪しくも歯に衣着せぬ冷徹さがあったようで、そのせいで自らが不遇に
追い込まれもしたが、皇帝から貨殖に至るあらゆる人々の行状を偏見抜きに描ききる
道家的な見地に即した世界初の正史「史記」を脱稿することもできたのだった。
956(1): 2010/12/20(月) 03:05:25 0 AAS
始皇帝はモウテンを派遣して匈奴を駆逐したので秦の時代は
匈奴は進入できなかったとか。
957(1): 2010/12/20(月) 07:55:53 0 AAS
現在は老荘思想の無為自然が
荀子・法家の人工思想に勝ったように思えるが。
958(1): 2010/12/20(月) 09:43:02 0 AAS
>>956
その蒙恬こそは、始皇帝没後の醜い後継者争いの犠牲となって
謀殺され、一旦は中原からの撤退を余儀なくされていた匈奴たちも、
中国の側の自業自得による弱体化によって息を吹き返すこととなった。
不世出の聖人君子ではなく、どこにでもいるような小人であっても
世界支配を可能にすることが売りである法治主義を掲げた統一秦王朝が、
実際には蒙恬のような不世出の猛将の奮闘にもよって支えられていたために、
自分たちの守護者を自分たちの手で殺める愚行によって、二代限り、
たった15年の統一支配の後に、秦帝国もまた滅亡するザマとなった。
始皇帝の時代にも、蒙恬のように匈奴への健闘を果たした名将がいたし、
武帝の時代にも、李陵のように匈奴に敗北して投降するような将軍がまだいた。
しかし、全体としての戦局が秦代や前漢初期には匈奴優位中国劣位であった
のに対し、前漢中期には完全に中国優位匈奴劣位となって、中国の側が
匈奴の側に大勝を収める分量のほうが多くなった。部分の勝敗と全体の
勝敗が連動することもあればしないこともあり、部分だけの勝利に固執して
全体の勝利を疎かにするようでは、秦帝国の二の舞三の舞となってしまう。
959(1): 2010/12/20(月) 09:56:24 0 AAS
>>957
完全なる無為か絶対的な有為か、
どちらかのみの勝敗が未だ争われる状態では、
両極端にぶれない儒家や仏教の出番もないな。
政局の大変動が起こる時期に、
おおよそ三種類の人間が頭角を現して来るようになる。
破壊を司るもの、創造を司るもの、そして維持を司るもの。
ヒンズー教における、破壊神シヴァと創造神ブラフマーと維持神ヴィシュヌの
三神一体思想にも符号している、この三種の傾向を司る人間が、単数にしろ複数にしろ必ず現れる。
分かりやすいところでは、信長と秀吉と家康。信長が今川や武田などの
戦国最強軍をも破壊し、秀吉が刀狩りやキリシタン禁教、太閤検地などによって
国の土台を創造し、家康が安定を獲得した日本社会の維持に努めた。
960: 2010/12/20(月) 10:08:18 0 AAS
約2200年前の中国に上記の論理を当てはめるなら、始皇帝はこのうちの「創造」を司った。
中国全土の貨幣や字体を統一し、雁字搦め過ぎるほどもの法制を整備して、善くも悪しくも国の土台を作った。
しかし、あまりにも機構としての融通が利かなかったために、秦帝国自体は早急に崩壊せざるを得なかった。
そして、秦帝国の圧倒的な「破壊」につとめたのが項羽。
劉邦のほうが、なるべく直接対決などを避けた懐柔策によって諸国を投降させていったのに対し、
項羽はほぼ一方的に諸国を撃破していくばかりで、一旦は劉邦が無血で投降させた秦の首都咸陽でも
暴虐を働き、降伏した秦王子嬰も斬首に処し、阿房宮や始皇帝陵墓なども焼き払う蛮行に及んだ。
そして、その項羽すらも垓下の戦いにおいて破り、統一中華帝国の「維持」強化につとめたのが劉邦。
項羽が咸陽の建造物を焼き払って回る直前に、劉邦直属の重臣である蕭何らが大事な書類を収集して回り、
その保存につとめたために、秦帝国における国政関係資料は漢代の中国でも再利用されることが可能となった。
もちろん秦帝国の政治体制をそのまま受け継ぐのではなく、杓子定規に過ぎた法制を軒並み緩和撤廃して、
民たちの自由闊達な心身活動の余地を与え、秦代の中国以上もの国力強化をも実現した。
961(1): 2010/12/20(月) 10:21:50 0 AAS
両極端を排する中道を説いた仏陀が、ヒンズー教では維持神ヴィシュヌの化身とされるが、
一過性の破壊や創造につとめた始皇帝や信長、項羽や秀吉などによる支配は、それこそ一瞬限りに止まったが、
国体の維持につとめた劉邦や家康の興した漢王朝や江戸幕府こそは、数百年もの泰平を実現している。
泰平の「維持」が目的なのだから、長期統治が実現されることも当然なわけだが、長期なだけに、歴史の大部分を占有することともなる。
ヒンズー教で、維持神ヴィシュヌが創造神ブラフマーや破壊神シヴァよりも特別扱いされたりすることはないが、
中道の堅持を説く仏教では当然、破壊や創造以上にも維持のほうが特別扱いされている。自分たち同士での内紛などが
皆無であるインドならば、維持神ヴィシュヌを特別扱いしたりする必要もないのだろうが、相当な戦乱状態も経験している中国や日本などの
社会においては、平和を維持していくことが破壊や創造以上にも重んじられるから、中道の維持を説く仏教がインド以上にも尊重されている。
中国以東に、仏教が流入してきたのは後漢時代以降であり、秦代や前漢時代には、まだ仏教の中道思想は察知されていなかった。
しかし、中国には中国特有の中正教学――儒学があったために、儒学に即しての中正維持が重んじられて、前漢期における
長期の泰平も確立された。インドのような泰平続きでも、西洋のような戦乱続きでもない、一時の戦乱と長期の泰平を順繰りに経験する
極東社会特有の歴史展開は、第一には儒学によって、第二には仏教によって確立されたものであり、まさに中正に即した歴史展開だといえる。
962(1): トーヘンボク 2010/12/20(月) 20:33:18 0 AAS
するともしかして、神道を延々と維持し続け、仏教も、儒学も
やすやすと吸収し尽くした日本は、世界最強か?
963: 2010/12/21(火) 02:18:07 0 AAS
>>958部下(特に将軍)への粛清というのなら劉邦に軍配が上がるのでは?
さらに彼が韓信や英布らを生かしておけば匈奴(中原の都市と平野からなる
戦い方と騎馬民族との戦い方は違うだろうが)への
対応を武帝の時代まで敗北続きにはならなかったのではないでしょうか。
たしかに二代目皇帝のように項羽のような猛将に滅ぼされる危険性があったかも
しれないが、劉邦がかといって不世出の人間を活かしたとはとてもいえず、
まさに本人の奇跡的な魅力で成り立っていただけのような気がします。
法家の始皇に対し儒家が勝った、とみなしたのはかなり後の(特に
儒者たちが拵えた正当性)話ではないでしょうか。
964: 2010/12/21(火) 02:23:55 0 AAS
>>959私は儒も仏も両極端に触れることはありだと考えてます。
それこそ三悪趣におちった者たちが救いを求めるために
修行する姿は他人から見ればえらく極端な行いとも見えます。
このように中庸とは円を描いたその中心、というわけではなく
本来の自分に完全に適した行いを得ることであり、仏教や儒教は
そのためには極性に到達するようなことをするのも是とするだろうと
思います。ただしそれはあくまで目的(王道楽土)あっての極相であり、
連続した闇雲の行いではないとこは誰しもが知るとおりのことです。
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