[過去ログ] 【書籍】 韓流の起源は百済、日本の尼僧も留学した〜「韓国仏教史」出版[03/26] (1001レス)
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821: <丶`∀´> 2011/03/28(月) 17:06:44.40 ID:deZ9EMIe(3/4)調 AAS
イザベラバード:
「朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない」
今も昔も変わらぬ朝鮮人。金氏朝鮮は李氏朝鮮なみの長期政権となるだろうな。
822(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 17:16:58.54 ID:2IrZdSOb(5/5)調 AAS
>>819
お前こそ本当に読んだのか?
エベンキのトナカイ遊牧は詳しく書いてあったぞ。
823: <丶`∀´> 2011/03/28(月) 17:21:44.36 ID:SdFbhoSb(6/11)調 AAS
>>822
このロシア人研究者以外の他の本も読んだよ(書名忘れたが)。
エベンキはトナカイに乗ったり、騎馬民族なんてことだけはないよw
824(2): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 18:12:57.25 ID:WwZZB92i(1)調 AAS
半島の文化といわれてもなあ。実際にはゼロじゃないけど、めぼしいものは中国
から伝わってるな。いわゆる半島経由じゃなくて、半島で成熟されたものとなると
結構微妙じゃないかな?高麗青磁も日本に来てるけど、技術の伝播というより物を
輸入したというべきだし。須恵器の技術なんかは朝鮮由来なんだろう。しかし、韓国
人の直接の祖先の李氏朝鮮は完全な後進国だったから、何も無い。
825(4): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 18:29:38.36 ID:SdFbhoSb(7/11)調 AAS
>>824
大体、12〜13世紀くらいまで国としての体をなさず、
正史すらなかった連中に「文化」なんて言われてもね〜?w
826(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 18:52:21.85 ID:fKABWEDH(1/13)調 AAS
>>825
いや、三韓は曲がりなりにも国家でしょ。
正史すらないって、単に散逸しただけだし。
827(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 19:27:16.62 ID:et3EA029(2/2)調 AAS
>>808
あまり馬鹿なこと書くな。日本酒造史的な本は戦前からいくらでも
研究書がある。
828(2): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 21:24:19.27 ID:SdFbhoSb(8/11)調 AAS
>>826
散逸って・・・元からな〜〜んもないものがどうして散逸するんだ??w
大体、三韓なんて、宋書や日本書紀にだけボンヤリした記述がある、いわば部族社会ってだけだしw
(多分、エベンキ族のなれの果てが数部族いただけ)
2〜3世紀の正史が朝鮮にあるとでも?
その三韓なんて言い方を始めたのも、なんと、17世紀以降だしwww
829: <丶`∀´> 2011/03/28(月) 21:37:54.54 ID:deZ9EMIe(4/4)調 AAS
「朴正煕 選集」−我々は今何をいかになすべきか−
わが五千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の歴史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、
統一天下の威勢で以って民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したこと
があっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかったし、せい
ぜい同胞相争のため安らかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の
一つの縮図にすぎなかった。
第一にわれわれの歴史は始めから終わりまで他人に押され、それに寄りかかって生きてきた歴史である。大韓帝国が終幕
を告げるまで、この国の歴史は平安な日がなく外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに、 かろうじて生活とはいえない生存
を延長してきた。
ところが、嘆かわしいことは、このながい受難の歴程のなかでただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示
した事がないということである。
そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、われわれの力不足のため起こったのではなく、ほとんどがわれわれが招き
入れたようなものとなっている。また、外圧に対してわれわれが一致して抵抗したことがなかったわけではないが、多くの場合、
敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられるのであった。
自らを弱者とみなし、他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自首や発展は
期待することはできないであろう。
第二に、われわれの党争にかんすることである。これは世界でもまれなほど小児病的で醜いものである。
第三に、われわれは自主、主体意識が不足していた。われわれの波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった 文化、
政治、社会はついに「我々のもの」を失い、代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。
われわれが眠っている間に世界各国はいち早く自国の経済向上のため 目覚しい活動を展開していた。しかし、われわれは海外
進出は念頭におかず、せいぜい座ってワラを編んでいただけではなかったか。
高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。それもかろうじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。
しかし、これも途中から命脈が切れてしまったのだから嘆かわしいことである。
以上のように、わが民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろん ある一時代には世宗大王、李忠武公のような万古
の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に願みるとただあ然とするだけで真っ暗になるばかりである。われわれが真に一大民族の中興
を期するなら、まずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。
このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史はむしろ燃やしてしかるべきである。
朴正煕 韓国大統領
830(2): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 22:43:46.53 ID:fKABWEDH(2/13)調 AAS
>>828
ありますよ?
例えば日本書紀には引用先として、百済記、百済新撰、百済本記など先行文献があります。
あと何か勘違いしているようですが、「三韓」っていうのは、恐らく君が指しているであろう馬韓辰韓弁韓ではなく、この場合は百済新羅高句麗のことを指します。
いずれにしろ「三韓」という名称は日本書紀に既にありますよ?
何が言いたいのかは知りませんが、もう少し勉強してください。
831(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 22:47:25.61 ID:SdFbhoSb(9/11)調 AAS
>>830
それが今の朝鮮の「正史」なのかよ?ww
あ、それから、
>現在のような三韓論を主張したのは韓白謙が最初であり、
>実学者たちによって定立された。
この韓白謙ってのが17世紀の人なw
832(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 22:50:48.37 ID:Z8xdWIPv(1/2)調 AAS
>>830
もっとその辺の文献を出してくれるといいですよね〜
なんかソースだしてといか言われると
ネトウヨがとかしか言えなくなる人多すぎです・・・
833(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 22:52:21.91 ID:fKABWEDH(3/13)調 AAS
>>831
ええ、散逸していますけど、三韓の一つである百済の正史であった可能性は高いでしょう。
今の朝鮮民族がどうとか、つまらない話題逸らしは無しの方向で。
それから韓白謙どうのこうのと言いますが、要するに馬韓辰韓弁韓を三韓と呼び習わし始めたのが17世紀以降であって、それ以前に三韓と言えば間違いなく百済新羅高句麗のことを指したわけです。
まあどちらにしろ、君が>>825で言った、国家の体を成していないとか、正史すらなかったというのは、酷い間違いです。
834(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 22:53:13.29 ID:gLcdm833(1)調 AAS
>>814
> >>804
> 台湾人の気性が穏やかだなんて、大変な見当違いだぞ
> 彼らはいざとなると非常に勇猛果敢だ
> 植民地時代、死者が多数出るほど日本政府軍に抵抗もした
まあ、ある意味間違いではないが、それは高砂族の話だろう。
当時、世界でも有数の日本軍と貧弱な武器で堂々と渡りあった。
その力を認めた日本軍も彼らの力を認め、投降の際には投降式を行って、
敗残軍ではなく勇士として扱ったという。
高砂兵の気風は、日本の古武士に似ており、日本兵と非常に気があい、
日本兵は高砂兵を可愛がり、高砂兵は日本兵によくなついた言う。
太平洋戦争時、捕虜になった高砂兵を撫順しようとインタビューを行なったが、
どの兵士もどんな好条件を出しても見向きもせず、かえって「釈放されたら原隊に復帰して再び戦う」と言うので諦めたと言う話がある。
835(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 22:54:34.83 ID:fsbMJ/vy(3/5)調 AAS
>>827
酒造史関連の本には載ってるの?
言葉の豆事典の元ネタはそっちなのかな。
それだったら、もう少し遡れるかも。
書名とかわかればお願いします。
最近になって下り酒説をよく聞かされるんだけど、
・希少であるとかの理由で上方近辺でしか消費されなかった酒は、「くだらない」のか?
・江戸で求められない限り、その酒はより価値が低いということなのか?
という点がひっかかって、下り酒が語源ってありうるのか疑問に思ってたもので。
836(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 22:57:49.95 ID:fsbMJ/vy(4/5)調 AAS
>>834
> 要するに馬韓辰韓弁韓を三韓と呼び習わし始めたのが17世紀以降であって、それ以前に三韓と言えば間違いなく百済新羅高句麗のことを指したわけです。
そうなのか・・・
今まで馬韓辰韓弁韓を三韓だと思ってた。
837(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:01:24.81 ID:fKABWEDH(4/13)調 AAS
>>832
「文献」となると、それこそ『日本書紀』を読めとしか言い様がないですね。
『書紀』における『百済三書』からの引用については、中々適当なサイトが見つからんけど、まとめてあるところが見つかった。
外部リンク[html]:www.ne.jp
外部リンク[html]:www.ne.jp
もっともこのサイト、史料はともかく論考はあんまりアテにはしていない。
838(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:04:33.91 ID:fKABWEDH(5/13)調 AAS
>>836
うーむ
そうですか。
神功皇后の「三韓征伐」もあるから、従来のものの方がポピュラーだと思っていたんですが。
839(1): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 23:10:55.55 ID:fsbMJ/vy(5/5)調 AAS
>>838
そっか。三韓征伐がありましたね。
歴史嫌いだった人なので、知識は極めて偏ってます。
三韓と聞いて、単純にその前の韓のついた三国だと思いこんだんでしょう。
840: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:13:35.56 ID:fKABWEDH(6/13)調 AAS
>>839
まあ偏見と思い込みには注意しませんとね。
841(3): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 23:15:58.57 ID:SdFbhoSb(10/11)調 AAS
>>833
どれも正史ではないよな。
ずっと言わずに来たけどさw
人に勉強しろなんて言うのなら、せめて、正史の意味くらいは知っててほしいんだけどなw
しかも、出発点の「朝鮮の正史」は、百済史なんかと何の関係もないんだし。
>朝鮮の正史
朝鮮では、高麗の金富軾が作った高句麗・百済・新羅三国の紀伝体正史『三国史記』 (1145年) が
最初の正史であり、←
現存する最古の歴史書である。
高麗が李成桂の朝鮮にとってかわられると、中国の正史編纂にならって紀伝体の『高麗史』が作られた。
『高麗史』の最大の特徴は、歴代の高麗王の記述が天子を意味する「本紀」ではなく、
諸侯の歴史をさす「世家」となっていることである。
これは中国の天子の歴史だけが「本紀」といわれるべきであり、
高麗王は中華皇帝の諸侯である、という趣旨からである。
またそれとは別に編年体の『高麗史節要』も作られた。
20世紀初頭まで続いた李氏朝鮮では、各国王一代の編年記録(実録)が編纂されつづけ、
『朝鮮王朝実録』と呼ばれているが、
紀伝体による李氏朝鮮王朝の正史は作られていない。 ←
842: <丶`∀´> 2011/03/28(月) 23:18:12.55 ID:Z8xdWIPv(2/2)調 AAS
>>837
ありがとうございます
843: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:23:39.97 ID:fKABWEDH(7/13)調 AAS
>>841
正史ってのは、要するに国家が編纂した歴史書のことです。
現在の朝鮮民族と百済民族の違いは、百済三書が正史かどうかには何の関係もありません。
さらに付け加えると、どこから引用したのかわからん君の文章ですが、それは要するに現存する最古の正史が『三国史記』だからです。
『百済三書』に関しては、その編纂過程が謎に包まれていますが、正史であったか、『書紀』編纂のために作られたそれに準ずる扱いの文書だった可能性は高いでしょう。
844(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:28:30.37 ID:fKABWEDH(8/13)調 AAS
>>841
付け加えれば、君の引用文には矛盾があるように見受けられます。
>朝鮮では、高麗の金富軾が作った高句麗・百済・新羅三国の紀伝体正史『三国史記』 (1145年) が
>最初の正史であり、←
君は「出発点の「朝鮮の正史」は、百済史なんかと何の関係もない」と言っていますが、上の文章では『三国史記』を朝鮮の正史としていますね。
845(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:30:24.65 ID:fKABWEDH(9/13)調 AAS
>>841
あと、「紀伝体による李氏朝鮮王朝の正史は作られていない。」に矢印をつけた意味がわかりません。
紀伝体だろうと編年体だろうと、正史は正史ではないのですか?
そもそも李氏朝鮮が滅んだのは20世紀のことであって、中華お定まりの、次の王朝が前の王朝の正史を編纂するという時代でもない。
846(2): <丶`∀´> 2011/03/28(月) 23:35:10.43 ID:SdFbhoSb(11/11)調 AAS
>>844
あれあれ??w
元の百済記などの日本書紀に書かれてるだけの百済関連のものが正史だったんでしょ?
すり替えちゃってw
847: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:35:56.81 ID:fKABWEDH(10/13)調 AAS
念のため検索をかけてみたら、引用先はウィキだったか。
外部リンク:ja.wikipedia.org
まあ>>845でも書いた「中華お定まり」の断代史という意味でなら、『三国史記』が最初の正史であるという主張は確かにその通りではありますな。
こうなってくると、「正史とは何か?」という定義づけの問題になりそうですが。
848: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:39:07.92 ID:fKABWEDH(11/13)調 AAS
>>846
ええ、私は『百済三書』の一部ないし全部が、国家編纂の正史かそれに準ずる文章であった可能性が極めて高いと考えています。
ですので、君が>>825で書いた「正史すらなかった」や、>>828の「元からな〜〜んもない」は偏見に基づいた酷い間違いであると断じます。
849: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:40:44.76 ID:fKABWEDH(12/13)調 AAS
>>846
ところで、「元の百済記などの日本書紀に書かれてるだけの百済関連のものが正史」ってどういうことですか?
そもそも文章の意味が分からないし、私がそれに類するようなことをいつ言ったんでしょう?
850(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/28(月) 23:42:29.16 ID:fKABWEDH(13/13)調 AAS
そもそも、私は>>825みたいな無知な文章が許せんだけなのですが、一体何の話になってるんだか。
825 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2011/03/28(月) 18:29:38.36 ID:SdFbhoSb
>>824
大体、12〜13世紀くらいまで国としての体をなさず、
正史すらなかった連中に「文化」なんて言われてもね〜?w
851: たいぞう ◆6YtHw9Csqs 2011/03/28(月) 23:46:30.60 ID:TbRZBcAQ(1)調 BE AAS
根拠無くなんも無いとか言うってのは、卑しめんがための無知だわなぁ。
852: <丶`∀´> 2011/03/28(月) 23:49:04.43 ID:VdMc1fr1(1)調 AAS
韓国の起源は百済、に見えた。
そうだったら親しみもわくのにねえ。
853: <丶`∀´> 2011/03/28(月) 23:54:53.88 ID:qJZA1xbH(1)調 AAS
百済と韓国には何の繋がりもありません。
シベリア近くに暮らしていた文明とはかけ離れた蛮族エベンギ
朝鮮半島にあった民族文明は、流れてきた蛮族に奪われ破壊されました。
その侵略者である蛮族エベンギの子孫が現在の朝鮮人です。
854: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 00:01:49.05 ID:Ps88sBdy(1)調 AAS
>>1
で、その3人の尼僧と僧侶の名前は?
いつも肝心な事が抜けてるんだよな、朝鮮電波は。
855: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 00:07:20.85 ID:Xy/eZl9M(1)調 AAS
倭王は宋・斉・梁に使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に封じされて、朝鮮半島南部の軍事的支配権を認められている。
同じ朝鮮半島南部の百済に留学してもおかしくない。
856(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 00:07:32.21 ID:MxpE94CO(1)調 AAS
だから韓国貶すためだけにエヴェンキ族ディスるのもいい加減にしろと
ソ連の苛斂誅求やシナの浸透に曝されながら今もシベリアに暮らしてるんだぞ
857: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 00:17:17.39 ID:GL6U0+ZW(1/6)調 AAS
855
最後の文章が上の文とつながってないんだが…
858: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 00:17:47.27 ID:8jY/eNtG(1)調 AAS
>>856
『嘘で固めた朝鮮文化記事の、嘘を指摘するな!』と
『真実を伝えてはダメ!』
という事ですね。
そんな我侭言われても困りますね(´・ω・`)
859: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 00:28:10.61 ID:TT4jHM42(1/3)調 AAS
倭は、宋/斉/梁によって"使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王"に封じされて、朝鮮半島南部支配権を認められた。
隋書によれば、百済は隋のみならず倭に対しても朝貢していたとの記述があるので、軍事的には影響下にあった。
そんな情勢なので、百済に派遣されていても不思議ではない?
860: 2011/03/29(火) 00:40:19.47 ID:cTWkl3es(1)調 AAS
あの不潔な半島の中で属国奴隷として
何千年もうずくまっていたのが現在の朝鮮猿どもの歴史。
861(2): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:02:07.16 ID:4VqLU95s(1/4)調 AAS
>>835
まるっきり何もわかってないらしいな。酒造史より交通史や海運史、商業史
農業史までまで含めて日本近世史の知識がゼロって人には無理があるかな。
Wikipediaの「樽廻船」(たるかいせん)をググッてみよ。関連事項の「下り酒」も
読むべし。
862(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:05:48.59 ID:GL6U0+ZW(2/6)調 AAS
>>861
そんなのどうでもいいんだよ。
下らないの語源が下り酒だっていうソースが知りたいだけなんだけど。
863(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:18:31.91 ID:TT4jHM42(2/3)調 AAS
>>862
その説は多分間違い。
"くだらぬ"って言葉自体は、下り酒がなどの下りものという言葉が出てくる以前から存在したそうな。
864: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:21:14.25 ID:GL6U0+ZW(3/6)調 AAS
>>861
スレの流れを見直してみたけど、あなたは「くだらぬ」を江戸時代にできた言葉だと言った人?
もっと前からある言葉なんだけど。
下り酒からくだらぬが出てきたというのなら、その根拠がマジで知りたいので。
ググっても、下り酒説ばかりがヒットする。
865(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:33:04.80 ID:TT4jHM42(3/3)調 AAS
最近の主流は、
くだらないという言葉は、下り酒という言葉が出てきた以前から使われていることから、
「下り酒」「下らない酒」説は否定。
「くだらない」は「下る」と言う動詞に、打消しの「ない」がついた言葉で、くだる - 「上から下へ流れる、落ちる」と言う意味に使われていた。
逆に、物事の意味が分からず理解できないと、下までキチンと流れない、つまり、「下ることができない」。
このようなことから、意味が分からないことを「くだらない」と言うようになり、更に「ばかばかしい」、「取るに足らない」と言う意味に広がったと言われている。
が、諸説あってはっきりしない。
ただし、「百済ではない人」→「くだらない」は確実に否定されている。
否定は「ぬ」であり、名詞を「ぬ」で否定はありえないし、
「くだらぬ」以前に「くだらない」という言葉が使われていたことになってしまい、矛盾するため。
866: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:33:19.60 ID:GL6U0+ZW(4/6)調 AAS
>>863
古語にあるのは知ってるし、元々筋が通るという意味もあったのも知ってます。
ネットを見ると下り酒(下りもの)が語源という風になっているので、驚いたわけです。
それが本当なら、別に駄洒落が語源でもいいんですけどね。
ただその元になった話を見たことがないので、悩んでいます。
古語辞典にも下りもの説が載ってるという話も聞いたので、もう常識になっているのかなと。
自分の持ってた古語辞典は行方不明なので、再度買い直すかどうか思案中です。
867(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:35:33.79 ID:oYF67kDV(1)調 AAS
>>804 コピペだが、解りやすい。
<< 日本は本当に半島を植民地化したのか? >>
韓国の教育による歴史捏造の手法の一つに 「不適切な用語の適用」 がある。
1910年の日韓「併合」(当時は朝鮮併合)を「植民地化」と表記するのもそれである。
「併合」と「植民地化」という歴史用語の意味する統治概念や対応する史実は全く異なる。
・「併合」 は 「自国化」 が目的であり、獲得地域に本土と同じ生活環境を整備し、住民
を本土国民と同じ権利義務を持つ人として扱う。 その統治の基本方針は同化である。
・「植民地化」 は経済的収奪が目的であり、その為の開発だけが行なわれ、植民地住人
は労働力として位置づけられる。 その統治の基本方針は本国の収益の最大化である。
朝鮮併合はロシアに対する日本の安全保障を確実にすることが主目的であったが、民生
向上のための多大な投資などの数々の近代化事業はまさに 自国化(Annexation) で
あった。 実態と違う 植民地化(Colonization) という表現は、その統治の日本的な誠
実さ、穏健性などを隠蔽し、日本が朝鮮半島を奴隷的に支配し、経済的収奪をしたかの
様な負のイメージを植え付けることを目的としているのである。
<< 何故そのような歴史捏造が行なわれたのか? >>
1. 戦後独立した韓国の為政者と国民の双方が、自らの出自・履歴を隠す必要があった。
・戦後成立した李承晩政権は、亡命抗日政権を継承する政権としてスタートしたが、その亡命
政権の実態は政治的軍事的活動実績を伴わず、戦後の政権成立過程も米占領政府による擁
立であり、政権の正当性に疑問が持たれ、政治的求心力を欠いていた。
・日本国民から韓国民に戻った半島の人々も、日本への併合を要請し、その統治を歓迎した
という事実の為、韓国民として振舞うことに後ろめたさを感じていた。
この不安感を払拭するのに都合のよい史観が日本の統治を 「史上最悪の植民地支配」 と
する歴史認識であった。 この歴史認識の下では、新政府は圧政への勇敢な抵抗者として、
国民は圧政の犠牲者として、位置づけることができるからである。 そこでは日本政府による
多額の近代化投資、温和で公平な統治、半島人の歓迎協力、それらの結果としての急速な
経済成長と民生の向上などは 「あってはならない史実」 であった。
2.米国は、日本占領政策の一環として、日本の戦前の政策を否定する必要があった。
日本の半島統治を「過酷な植民地支配」として否定することは、米国の占領政策である「戦争
についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画(“War Guilt Information
Program”、略称“WGIP”)」にとっても都合がよかったため、占領政府は様々な方法でこの捏
造された歴史を広めた。
即ち、「大日本帝国による過酷な半島植民地化」 という歴史観は、占領政府と戦後の韓国人が
その政治目的のために創ったものであり、それが韓国人のその後の日本との経済格差への嫉妬、
属国史に対する嫌悪感、その反動としての小中華意識、などと相まって反日感情として定着し、
WGIPにより醸成された日本人の贖罪意識や左翼による反日教育に乗って拡散したものである。
<< このため、韓国の歴史教育は次のような 「神話」 を史実としている >>
・日本の統治は、半島の経済的収奪を目的とした 「過酷な植民地支配」 であった。
・併合は大韓帝国皇帝(純宗)による要請ではなく、日本の軍事圧力を背景とした強制であった。
・大韓帝国統治下の社会は、自立近代化の萌芽を育んでいたが、植民地化でこれが失われた。
・農地接収のような日本の収奪政策により、経済発展が阻害され、社会の近代化が遅れた。
・日本の統治は過酷であったが、半島の人々は多くの犠牲を省みず、これに激しく抵抗した。
・日本の統治により、多くの韓国の文化財が略奪され、伝統文化が抹殺された。
・戦時中、日本政府は、朝鮮人を強制連行し過酷な労働に使役し、女性を軍の慰安婦とした。
・亡命政権は、日本に宣戦布告し果敢に戦った。
韓国の歴史捏造を知りながら、当面の軋轢を避けるために謝罪を繰り返す日本政府の対応は韓
国民の歴史直視を妨げ、返って反日感情を助長していることを知るべきであろう。
868: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:38:02.57 ID:GL6U0+ZW(5/6)調 AAS
>>865
d
結局よくわからないということですか。
百済に絡めた親父ギャグは論外ですがw
語源は、言語学者が自分の本業とは違うとか言ってましたから、誰も調べてないのかな。
869(2): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:41:01.70 ID:BRweXTyr(1)調 AAS
俺の持ってる辞書 [暮らしのことば 語源辞典]には、
くだらない −
「ばかばかしい。取るに足りない。動詞「下〔くだ〕るに打ち消しの助動詞ナイがついた連語で、形容詞ではない。
「下〔くだ〕る」は「文意が通じる」意を示す場合があり、それをナイで否定して「意味がない、筋が通らない」意となり、
そこからさらに、「ばかばかしい」という意味になった。
なお、クダラナイという形が現れるのは近世末期だが、打ち消しの助動詞ズの連体形ヌを用いたクダラヌという形は近世初期から見える。
下り物の話はのってない。
870: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:43:38.45 ID:GL6U0+ZW(6/6)調 AAS
>>869
d
暫く調べてみます。
871: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 01:55:00.40 ID:4VqLU95s(2/4)調 AAS
「のぼる」の否定語は「のぼらない」、「くだる」の否定語は「くだらない」。
それで終わる話だろw なぜ「くだらない」だけ「百済ない」になるんだよ。
馬鹿馬鹿しい。
872: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 02:33:02.02 ID:6mrcyLIv(1)調 AAS
上京に対して、京都発祥の商業品が江戸向けに流通しない。
つまり下野しない(下らない)
873: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 04:09:51.01 ID:4VqLU95s(3/4)調 AAS
下りものには莫大な運送費がかかるため、上方から江戸への下りものには不良品、
低品質なものは除かれた。また江戸から見ると上方から江戸に下る下りものは高級
品だらけであり、江戸近郊の物産は下りものと比較して低品質であった。したがって、
下りものでない低品質な物、転じて低品質な事柄を「下らない」と言うようになった。
外部リンク:ja.wikipedia.org より引用
874: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 11:37:30.87 ID:prfN6CL4(1/2)調 AAS
下りもの説に一所懸命な人がいるけど、一次ソースはないの?
875(2): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 12:28:09.47 ID:no7ppKyh(1)調 AAS
下りもの説、説としては面白いが・・・・殆どが江戸の酒の話になってるだろ。
古文で、江戸以前から「くだらない」という言葉が使われていたのをどう説明するんだろ。。。。
876: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 12:50:44.18 ID:prfN6CL4(2/2)調 AAS
>>875
その辺りは、江戸初期から中期にかけて、つまらないという意味に転換がされた原因として、下りもの説はありうるかなと思うんだけど。
ただこの説がいつ頃から言われ出したかがわからないので。 ネットで調べることができたのが、戦後の言葉の豆事典まで。その出典が何かあるんだろうけど…
877: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 13:19:20.64 ID:4VqLU95s(4/4)調 AAS
>>869>>875
この場合の「くだらない」は「読み下し文」からきている。
漢文を読み下すことにより日本語として意味が通るよう
にしたので、読み下せないことを「くだらない」すなわち
文意不明、筋が通らない、馬鹿げているの意を生じた。
なお、百済を現代日本語で「くだら」と呼ぶが、それがいつからか不明
とされている。古代には奈良仏教華厳宗でサンスクリット語のポタラカ、
呉音または漢音の「フダラク=補陀落」を当ててていたという説がある。
多分、「ふだらく」が「ふだら」、最終的に「くだら」になったのであろう。
チベットのラサ「ポタラ宮」とも関係があるようだ。
878(2): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 13:44:34.89 ID:TzBgVOyq(1)調 AAS
百済って朝鮮?
百済って日本に近いんじゃないの?
今でも百済付近の人間は韓国では差別されてるでしょ?
879: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 14:24:25.70 ID:arKlMW20(1)調 AAS
韓国に源流はない
まで読んだ
880: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 16:27:33.44 ID:QKgX0fPU(1/2)調 AAS
>>878
その一方で百済文化マンセーか
おかしな民族や
881(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 16:32:21.48 ID:41VFIxwb(1)調 AAS
>>878
百済は中国に近いよ
もともと中国からの移民だし、亡命者も中国に統合された
百済って半島にあった馬韓を滅ぼして出来た国なのになw
882: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 16:47:37.53 ID:ZGMBLjgP(1)調 AAS
まぁ鮮人は歴史書をちゃんと読みなさい
・唐会要』百済伝
>百濟者、本扶餘之別種、當馬韓之故地。其後有仇台者、為高麗所破、以百家濟海。
(百済とは、本は扶余の別種で、馬韓の故地にあたる。
その後裔に仇台なる者がおり、高句麗に国を破られ、百家で海を渡った。因って百済と号する。)
・百済(隋書 百済伝)
>「其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。」
(そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)
・東夷傳百済
>「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。」
(その地の者は新羅及び渤海や靺鞨へ逃げ、遂に百済の種は絶滅した。)
百済はもとは遼東の東にあり、高句麗に倒され、馬韓を滅ぼし半島に来た。
住民は倭人も多く、中国人も多い。
滅亡後に民衆は主に大陸に逃げて国は無くなりましたとさ。
ちなみに天皇のゆかり発言は、日本生まれで日本が百済王に任命した日本名斯麻こと武寧王についてだお。
883(4): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 17:04:36.54 ID:xaQEf5uZ(1/3)調 AAS
>>881
百済がどこにあったかは実は不明。韓国の教科書にはさも史実のように歴史地図が載っているが。
『通典』には遼西までもが百済の一部だったとある。実は半島の国家では無かったのかも。
教科書に載っている「百済」の部分を「倭」と仮定すると、いろいろ謎が解けるかも。
884(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 17:08:41.40 ID:RiLqZ9Oh(1/2)調 AAS
>>850
韓国って高麗あたりからの国の系統だからじゃないの?
三韓といっても高句麗や百済は韓国の国なのか?と言われれば違うだろうし
地図を見ても大陸とつながってるわけだから
魏
画像リンク
画像リンク
画像リンク
唐
画像リンク
画像リンク
宋
画像リンク
画像リンク
885(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 17:12:21.54 ID:RiLqZ9Oh(2/2)調 AAS
>>883
『通典』百濟
晉時句麗既略有遼東、百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。
中国の東北部にあったが高句麗に滅ぼされて半島に南下しただけ。
>教科書に載っている「百済」の部分を「倭」と仮定すると、いろいろ謎が解けるかも。
はい?
百済が歴史書に登場するのは4世紀以降。
倭は1世紀には金印をもらってる国なんだけど。
886: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 17:24:42.92 ID:T0QtxU6O(1)調 AAS
>>883
なに言ってんの鮮人w
111 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2011/03/29(火) 16:52:39.15 ID:xaQEf5uZ
日本AV文化無しでは生きられない。
887(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 17:39:13.07 ID:TOK9Rdf6(1)調 AAS
・百済(隋書 百済伝)
>「其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。」
(そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)
なるほど
朝鮮人の先祖は倭人てことか
半島にいっぱいあるもんな、前方後円墳
888: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 17:42:36.67 ID:yjDgsLdg(1)調 AAS
韓国人は教授クラスでも漢字読めないのに歴史書なんて読めるわけない
889: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 18:06:46.87 ID:QKgX0fPU(2/2)調 AAS
>>887
百済人は逃げていなくなったって書いてるから先祖じゃないな
890(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 18:27:19.96 ID:wfvKFTpa(1)調 AAS
>>1
飼育ケースでオオクワガタを飼っていました。
ところがあるとき数匹のゴキブリがケースに侵入し、繁殖を始めました。
ケース内の衛生環境はどんどん悪化していきオオクワガタは減少しついに全滅してしまいました。
その一方でゴキブリは腐臭漂うケース一杯に蠢いていたのです。
飼育ケース=半島、ゴキブリ=おまエラうんコリアンの先祖な。
891: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 19:03:28.76 ID:lk69ZwNK(1/2)調 AAS
>>890
べつに百済はオオクワガタみたいな価値のある国じゃないぜ
文化も中国南朝のものを日本に流してただけだし
892: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 19:18:18.38 ID:xadxKg7S(1)調 AAS
仏教って百済でも隆盛していたが、仏教の教義の仏法僧とか、
仏典、仏閣とかの建築、諸々の宗教文化様式は、中国のものだ。
残念ながら、百済仏教は滅び、韓国仏教として区別しての独自性、
思想哲学を生み出すことは出来なかった。
唯一誇れるのが、大蔵経の木版で、漢字の読めない愚民に、
コピーが簡単に作れる形式を生み出したっていうことぐらいだろう。
写経には、漢字を読め書けるという素養が重要になるw
893(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 19:38:23.77 ID:pgYVCRh5(1)調 AAS
高句麗は中国文明
百済新羅は日本文明
エベンキの朝鮮文明が始まったのは700年くらい前からかな
894: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 19:40:30.88 ID:lk69ZwNK(2/2)調 AAS
高句麗は唐の影響が強いよ
百済新羅は日本文明なんかじゃなくもともと大陸移民の国だから言葉も名前も中国人に似てた
895: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 19:49:17.07 ID:ergBU5e0(1)調 AAS
>>893
エベンキとかも別に関係ないんじゃないの。遺伝的には
漢民族を中心とした、中国圏の外延みたいな感じだし。
もちろん日本とはあかの他人にもほどがある。
百済も関係ないだろ、いまの朝鮮民族。
896: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 19:50:52.68 ID:e5OjC2Kg(1)調 AAS
韓流の起源は百済>腹が痛いwそもそも韓流って何だよw
897(1): たいぞう ◆6YtHw9Csqs 2011/03/29(火) 20:45:06.98 ID:ZHE53T6N(1)調 BE AAS
>>883
つまり百済は倭の属国の一部だったと言うことか。
898(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 20:53:56.48 ID:rH7I+Ovk(1)調 AAS
>>883
百済は扶余系で今で言うところの満州系だよね。
朝鮮とは言葉も文化も違った亡命政権。
しかも、朝鮮で敗退した後は、大挙、日本に移住したから、今の朝鮮なんて関係あるわけがない。
899: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 21:01:04.92 ID:ImP1xqEr(1)調 AAS
>>867
インドや中国、香港などは植民地化されても、結局一緒で
王様や貴族がイギリス紳士に取り入って、一緒に財を蓄えたじゃん
植民地政策って実は別に悪くない?
900(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 21:08:43.58 ID:xaQEf5uZ(2/3)調 AAS
>>885
史書に記される倭が「倭国」なのか「倭人」なのかを混同しているかも。
「百済」は国家であり「百済人」には「倭人」も含まれている。
1世紀の「倭」は4世紀の「百済」かもしれない。
901(2): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 21:09:35.05 ID:cSBynVZK(1)調 AAS
百済って新羅(朝鮮人)が滅ぼした国じゃないか。
百済人は日本に逃れてきたから今の朝鮮人とは関係ないだろ。
902(1): <丶`∀´> 2011/03/29(火) 21:14:02.14 ID:xaQEf5uZ(3/3)調 AAS
>>897
いや、「百済」は半島の国ではなく、中国にあったかもしれないということ。
903: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 21:36:58.11 ID:zlguiusy(1)調 AAS
教えてやったニダ!
伝えてやったニダ!
904: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 22:20:06.02 ID:HrFd5R4B(1)調 AAS
>>900
885で言及されてる金印は博多付近で見つかっている、
金印を受け取った倭=百済の論は、私の知る限りの資料では成立しない。
中国の古書に載っている朝鮮国家がもらった印は銅印だったと記憶してる。
あと、中国の古書に出てくる倭人の特徴に泳ぎが得意というのがある。
この特徴はどう考えても江南系、南方系の民族がもつ特徴で、
韓人や満州の騎馬民族が持つ特徴ではない。
倭人と百済人が近い存在なら、そういう習俗も近いはずなのだが
そのような記述は知る限りではない。
もっとも、百済という地域は色々な民族が混在している地域なので
一定割合倭人もいたことはいたのだが。
905: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 22:24:23.90 ID:QdCV3QPJ(1)調 AAS
倭が宋に奏上した際に”使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王”の将軍職をもらったんだけど、
奏上した時点では百済も入ってたんだけど、貰った称号は百済が外された。
百済は、中国支配下だったから倭の支配権認められなかった?
906: <丶`∀´> 2011/03/29(火) 23:17:37.74 ID:1BjCkhAp(1)調 AAS
管流は、ごまかしとウソばかりー
907: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/29(火) 23:29:27.94 ID:ozh0u293(1/2)調 AAS
>>884
指摘どうも
ただし、三韓を統一したのが新羅であり、その系統が高麗と李氏へ続いている以上、やはりそれらも朝鮮半島の国家であるという前提で考えて差し支えないと思います。
高句麗の場合はいささか面倒ですが。
908(1): 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/29(火) 23:39:03.47 ID:ozh0u293(2/2)調 AAS
>>902
中国にあったかも知れんけど、滅亡時点では間違いなく半島にあった国家じゃ。
大陸から移って来たってのもはるか過去の話であって、やはり馬韓諸国の内の一国が強大化したって考えるのが自然ではないかと。
909(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 04:31:57.75 ID:ppMHl/iv(1)調 AAS
朝鮮人の歴史記事って新しい発見とか全然ないよな…まぁ、元々何も無いから発見しようがないのか。
910(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 07:14:45.44 ID:PVU8TzyN(1/2)調 AAS
>>909
「○○遺跡で××を発掘!△△が実在した説を補強」みたいなニュース、皆無だよねえ
庶民はともかく、いくら土葬でも両班の墓からの副葬品とかで、色々な歴史が垣間見えるだろうに
…まさか、全部盗掘されたとか?
911(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 07:27:32.06 ID:qwu1HgyA(1/2)調 AAS
>>910
前方後円墳が西海岸からたくさん見つかってるよ。
912(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 07:34:23.05 ID:qwu1HgyA(2/2)調 AAS
>>908
滅亡時には半島にあったかもしれないが、
耽牟羅国(済州島)まで海行3か月とか、遼西を占領とか、理解できない点が多い。
歴史地図の百済の位置は一体、何が根拠なのだろうか。何か知ってる?
913(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 07:50:51.85 ID:q1i31P6a(1)調 AAS
>>911
ただ、それらの前方後円墳も日本のものより新しい時代のものだから
韓国人は嫌みたいですね
914: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 07:58:09.65 ID:izpmudcP(1)調 AAS
確実に分かっているのは日本に近代化される直前のチョンは木を曲げる技術を持たないレベルの糞喰い土人
だったってこと
今も中身はたいして変わっていないだろうけど
915: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 08:51:11.33 ID:EeJv17p8(1)調 AAS
>>898>>901
満州系でもないし日本に大量移住もしてませんが
歴史書読みなよ
916(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 08:54:30.90 ID:ytVziGQa(1)調 AAS
日本や明や唐は半島のバックについて他国と戦争をした
朝鮮人に言わせると「属国のために戦争はしない」らしいので、
明や唐やアメリカやロシアも半島の属国ということになるなw
917: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 10:30:51.78 ID:PVU8TzyN(2/2)調 AAS
>>913
それ以降の話のこと
人骨を鑑定するだけでも、色々来歴とか現在の朝鮮人との関係性とかが分かるだろうに、その手の話が全く聞こえて来ないんだよなあ
918(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 12:14:17.94 ID:WcKqc1Hw(1/3)調 AAS
>>901
朝鮮人は、またまた、こういうことを認めたがらないが、歴史資料通り、
今の朝鮮に関係ないし、滅亡後、日本に移住した者が多いのは事実だね。
百済は、扶余族だから、今の中国東北部出身。
6世紀に朝鮮に移住してきて、国家を作ってる。
どんな歴史書、資料にも出てくる話だしw
>民族については、百済王・高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余族の国家であったと言う説、
またツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と被支配層(土民中心)の韓族であったとの2説がある。
>百済の支配層は扶余族であったと見られている。
百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、
26代聖王が538年に泗?に遷都した後に国号を「南扶余」と自称していたこともあるからである。
>『隋書』百済伝には「百済百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。
(百済の先祖は高句麗国より出る。そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。)」という事から、
雑多な系統の移民の聚落が散在する国家であったと考えられる。
>百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。
百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある。
919(3): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 12:56:20.66 ID:g/vIYwAC(1)調 AAS
天皇は朝鮮系である
よって天皇の子孫である日本人は朝鮮系ということになる
920: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 13:05:15.68 ID:WcKqc1Hw(2/3)調 AAS
>>916
属国も宗主国も、ほんと、外敵にはいつもいつも役立たず、
島津はじめ、諸国大名らによって、
毎度毎度、同じパターンで包囲殲滅させられてたしw
「宣祖修正実録」
「天兵(明兵)短剣低身騎馬にして火器なく、道険しく、泥深くして
(日本軍とは違い)戦場を機動追撃する能力もない。
(逆に)騎馬巧みな賊(日本軍)は長刀を奮ひて左右に突闘し鋭鋒敵なし。」
「懲秘録」
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、鉄兜胴覆、人馬の区別なく二つ三つに斬り離し捨てた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」
我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無く、行く限り無数の将兵を失わされ、
馬匹資材食料など何もかもなくすだけだったが、
ただ、関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった。
921(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 13:06:22.31 ID:IueM16GQ(1)調 AAS
>>919
じゃあ朝鮮半島併合したのも何も問題ないじゃんwwwww
同族だろwwwwwwwwwww
922: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 13:21:40.57 ID:NW5z1SA9(1)調 AAS
息を吐くように嘘をつく南朝鮮人
923(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 13:27:02.99 ID:vBg/ef72(1)調 AAS
まぁぶっちゃけ、朝鮮出兵なんてどうでもいいんだが・・・・
秀吉はなんで明を攻めようと思ったんだ?
諸説あるけどどれもあやしい・・・・
924: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 14:20:05.31 ID:WZIGmDjv(1)調 AAS
>>1 お前らの祖先が中華と組んで潰そうとしてるからって日本から助けに行ったが間に合わなかった国がどうしたって?
925: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 14:55:33.75 ID:dgLqlNTs(1)調 AAS
>>919
自分が朝鮮人認めた様なもんだな。
今上陛下のお言葉は、1000年以上昔の桓武天皇の生母が百済の武寧王から数えて9代目の子孫である、
ということから”ゆかりを感じる”とおっしゃっただけだ
当時の百済は日本の属国であり、桓武天皇の10代前に半島で生まれたというだけの事だ。
それを「天皇は朝鮮系」とホルホルしているのは哀れな朝鮮人だけ
926(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 15:06:48.14 ID:yzwwj5JM(1)調 AAS
>>919
天皇が朝鮮人なら、同じ朝鮮人同士、併合しても何も問題ないじゃんwwwwww
927: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 15:16:47.27 ID:Wf91FYiU(1/2)調 AAS
>>918
百済人ってのは主に大陸に逃げたんだよ
あとはみな殺された
・東夷傳百済
>「其地自此為新羅及渤海靺鞨所分、百済之種遂絶。」
(その地の者は新羅及び渤海や靺鞨へ逃げ、遂に百済の種は絶滅した。)
928: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 15:18:57.68 ID:Wf91FYiU(2/2)調 AAS
>>921>>926
草生やしてるけど同族じゃないよ
そもそも百済って倭人が多く住んでた国だから朝鮮人の先祖が倭人なわけ
929: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 15:30:20.15 ID:npB6N37b(1)調 AAS
新羅王の脱解が日本出身だってことは半島じゃタブーなの?
あと朝鮮人の本貫見ても百済系なんて4つしかないよ
人口でいえば日系の金海金氏の方が多いな
韓国人本貫累計
外部リンク[html]:www26.atwiki.jp
930(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 17:36:05.57 ID:+1Ks8+Wb(1/2)調 AA×
931(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 18:24:33.36 ID:5QTG5ONx(1)調 AAS
>>930
越州は百越の地つまり今の中国、小海は黄海と渤海じゃないかな。
つまり、唐から見れば、百越と百済が海を挟んであるというイメージじゃ
なかったのかな。
932(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 18:51:26.78 ID:NNNZd79H(1/2)調 AAS
>>923
真意は秀吉本人に聞くしかないので以下も最近支持されてる説の一つにすぎんが。
弱肉強食の戦国末期だった日本とは反対に当時の明は長い間平和が続きすぎた平和ボケ状態で周辺異民族の侵入も防げないほど弱体化していた。(これは説ではなく事実)
宣教師らからこの情報を得た秀吉は弱い国は強い国に従うか滅ぼされるべき、でなければ天下は混乱するという戦国大名らしい考えに基づき唐攻めを決意、中原をお上(天皇)に献上すべく準備を進めたのであった。
933(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 21:25:46.81 ID:WcKqc1Hw(3/3)調 AAS
>>932
なんか、凄すぎの捏造と妄想だなw
韓国の教科書のまんまのアホ説ってのがワロタw
韓国の教科書の妄想では、
明や朝鮮が弱体化しているのを知った秀吉が「侵略」を計画、実行したことになってるw
>16世紀に入って社会的混乱が加速、国防力が弱体化し倭寇の騒乱が絶えなかった。
李珥が10万養兵説を唱えたが、国防力弱体化への積極的対策はとられなかった。
日本の豊臣秀吉は不平勢力の関心を外へ向け、
かつ自らの征服欲を満足させるために朝鮮・明への侵略を準備した。
934: <丶`∀´> 2011/03/30(水) 22:52:58.55 ID:NNNZd79H(2/2)調 AAS
>>933
元々国力の無かった朝鮮はともかく、この時期明が弱体化してたのは事実だぜ。南鮮教科書に書いてあるからでたらめってのもどうかと思うが。
それに制服欲はともかく秀吉が国内の不満をそらすため外征って何だ?唐攻めは回りにそのような機運があったわけではなく秀吉の独断で当初から反対が多かった、不平そらし目的としちゃ的外れもいいとこだろうが。
935(1): <丶`∀´> 2011/03/30(水) 23:32:40.39 ID:+1Ks8+Wb(2/2)調 AAS
>>931
通典にも百済の位置が記されている。
晋より以後、諸國を併呑し、馬韓の故地を占領した。その国、東西に四百里、南北に九百里、南に新羅と接し、
北に高麗と千余里、西は大海に極まり、小海の南に居住する。
「小海」が渤海の可能性はあるが、「小海」が黄海である可能性はない。
当時の中国にとって、黄海は「大海」なのだ。
936: 光 ◆OraMYUrmo2 [sage 祝ドバイWC制覇] 2011/03/30(水) 23:33:36.93 ID:FFGT4m4X(1)調 AAS
>>912
距離や方角については、『魏志倭人伝』を見れば分かるとおり、あまりあてにはしない方がいいかと。
遼西云々の出典はわかりませんが、百済として成立する以前の、扶余全体の民族の記憶が混ざったのかも知れません。
937: <丶`∀´> 2011/03/31(木) 00:15:55.36 ID:vQ5FLTae(1)調 AAS
所詮 輸入品 コピー商品
まともに相手する必要なし
938(1): <丶`∀´> 2011/03/31(木) 00:22:13.98 ID:38usgdkv(1)調 AAS
当時の遣隋使や遣唐使は朝鮮をスルーしてますから、
ご安心してください。
江戸時代に朝鮮通信使がありましたけど、
朝鮮人から何か習うようなことはございません。
嘘の付き方は習ったほうが良かったかもな。
939(2): <丶`∀´> 2011/03/31(木) 00:28:10.16 ID:itbcoPoy(1)調 AAS
朝鮮通信使が日本に来ていた時代、李氏朝鮮は未曾有の大震災でかなりダメージ受けてた。
朝鮮はこんな状態なのに日本は発展しててねたましいニダ!だった。
940: <丶`∀´> 2011/03/31(木) 00:28:15.08 ID:z4QfE94Z(1)調 AAS
>>938
朝鮮通信使を模して唐人踊りというものが現在もありますが
それを見て日本の踊りやダンスはたまた芸能は朝鮮から伝わったとか
とんでも説が出たりするのかな〜・・・・
941: <丶`∀´> 2011/03/31(木) 00:50:34.50 ID:X9taoxh0(1)調 AAS
>>939
なるほど『日東壮遊歌』にはそういうバックグラウンドがあったのか
942(1): <丶`∀´> 2011/03/31(木) 00:54:06.96 ID:2Vwm2GYz(1)調 AAS
>>935
sonotoori
古代の他の史実や国の位置、状況を中国の史書とおりと語っているのに
百済の位置だけ史実にない状態で語るのは不自然
ロマンの話なら野暮な突っ込みですけどね
943(1): <丶`∀´> 2011/03/31(木) 01:06:04.16 ID:dwlCLxB0(1/3)調 AAS
>>939
西暦何年のこと? 白頭山大噴火なら李氏朝鮮よりはるか前の10世紀頃だけど。
944: <丶`∀´> 2011/03/31(木) 01:47:08.11 ID:2yqp+lw3(1)調 AAS
「韓国人の歴史喪失感」 その悲しさは解るが、、、、。
でも、勝手に歴史を創って日本に絡むのはやめてよね。 (以下 コピペ)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
長時間討論の中で、聞いていてえっと驚くような主題や、あぁそうだったのかとあらため
て納得するような内容が幾つかあった。
1392年に高麗が滅亡して李氏朝鮮が成立した。それ以後の李王朝の実在は動かない。
そして、歴史的に現在の韓国人とつながっているのが李王朝の国家と国民であることは
疑いを容れない。
しかしそれ以前の半島の歴史は正確にはなにも全くわかっていないのだ、と金完燮氏は
言うのである。韓国人は、だから自らの民族のアイデンティティに大きな不安を抱いている、と。
通説としては、676年に新羅が半島を統一したというような話になっているが、そういう
歴史的展開はぜんぶ現在の大陸東北部で起こった出来事であって、半島の歴史ではない、と
いうのである。古代史に関する彼の大胆な「仮説」は、27日にあらためて聴くことになっ
ている。ともかく、半島における高句麗、新羅、百済の三韓の葛藤劇もことごとく歴史的実
在が疑わしい。
要するに1392年より以前の半島の歴史で確実なことは何もわからないので、韓国人の歴史へ
の自信喪失は根が深いのだという話である。
945: <丶`∀´> 2011/03/31(木) 02:47:54.83 ID:BcCoiWpc(1)調 AAS
お前らの祖先が中華と組んで潰そうとしたからって
日本から助けに行ったが間に合わなかった国がどうにもならないってのかい?
不平逸らし目的とは、子犬に攻撃されている日本だというのかい?
お父さんに、いいねいいね、言ってる方が恐くて悪い。
946(1): <丶`∀´> 2011/03/31(木) 03:47:22.48 ID:QOZdM6y9(1)調 AAS
>>943
日東壮遊歌に帰された第11次朝鮮通信使派遣に先立つ、1682年と1737年に地震を受けてかなり打撃受けてるよ。
1682年の半島大地震 - 推定M7.5/震度5.5〜6.5
1737年ロシア極東地震- 推定M9.0/震度5〜5.5
947: <丶`∀´> 2011/03/31(木) 03:57:34.82 ID:b5zvFu4w(1)調 AAS
慶暹『海槎録』 1607年江戸時代最初の朝鮮通信使
大阪城下(当時はまだ豊臣家の領地)の様子
海水は襟や帯のように取り巻き、湖と浦が周りを巡らし、城郭が重なり、楼閣が層をなし、青い瓦と白い城壁が雲樹の間に陰映する。
板橋が川に横たわり、高さが三丈ほど、その下を舟行した。
橋を過ぎて上陸すると、役員の騎馬が無慮数百頭も、皆鞍をつけ待っていた。
轎(かご)に乗って行くこと四五里、民家や官庁の建物が四方を取り囲み、街路と墻壁とが連なって各方面に通じている。
男女老少が争って遠近から集まって町に満ちあふれ、その喧騒は天をも衝く。
李景稷 『扶桑録』1617年二度目の通信使
大阪
西に大市街を過ぎたが、街路が往々にして横に分れみな井の字の形で方方正正、四方に通達す。
貨物が山積みにされ、百物が備わっていた。
民家は六十戸をもって町となし、町ごとに一つの里門をおいて、夜は鍵をかけて守った。
また水桶を屋上に置き長いはしごを家の前に立て掛けて失火にそなえていた。
商家では、それぞれ扱う商品を分かりやすくぶら下げていた。
南に大阪を望むと、城中の層楼や飛閣は秀頼の敗戦で焼尽したのに、今まさに工事を起こして築城は完成しており、木工だけは終わっていなかった。
工事の規模の大きさが形容できないほど、人力によってできるものとは思われなかった。
城外の廬舎もまた焼尽したのに、今は復旧して荒虚は一つもない。
人家と物力の豊富さを知ることができる。
京都
東寺から大徳寺に至る二十里は、商街の中を通過した。
人家の周密、市貨の豊富、男女の混雑が大阪の十倍であった。
街路は方正で井の字のごとく、まっすぐな街路を町といい、横の街路を通りといい、町と通りが交差して、そのいくばくかはしれない。
京都〜伏見ま
京都から伏見までは、三十里あまり、民家があい連なり、五町橋を過ぎると、東の方は、民家の盛が京都ほどではなかったが、
ただ左右に切れ目無く連なっており、それがすべて飲食店であった。
都の北から東の伏見に至るまで、松林や竹林が続き、寺刹が相接して、浮屠や層塔が中空荷そびえていた。
その中でも東福寺と大仏寺が、最も大きい寺刹であった
姜弘重『東槎録』1624年 家光将軍職襲位祝賀使
品川
民家はきわめて盛んで、店舗も物が豊富、地勢は平坦で、一面が海に臨み、日本の都市の中でも形勝の地である。
江戸
新将軍の邸宅から城内を一巡して、東に行くこと幾十里あまり、内城の周囲もまた五里は下らなかった。
築城の石は皆大石をもってし、その勢いに従って積み上げ面を削っているのが神業のように巧妙であった。
内に高楼傑閣が起ち、将軍はその中にいる。
別に五層の飛ぶような楼閣が中央に起ち見張りをして守備をするところで、天守台といった。
金色の甍と白い壁が堀の水に影を落とし、光彩が人を照らして心魂を眩乱する。
各家で兵を養い、兵器が便利で精巧であり、軍糧が山積みされ、戦艦が海に満ち、常に臨陣対塁の心構えができている。
だから兵を動員しようとすれば命令に従って直ちに出動できる。
夜明けに河口に舟を移した。河口はすなわち店舗である。
上使と従事はそれぞれ大阪から送られてきた小楼船に乗った。
舟の造りは奇巧を極め、板壁を装うに金箔をかぶせていた。
木版は黒漆を塗り、並べてある器具も奢麗を極め、壁には丹青で絵を描き人の目を眩乱させた。
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