[過去ログ] 【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
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414
(1): 05/01/02 12:03:03 AAS
>>413
正成ですら地縁はないからね。親父さんの故郷ってだけで。
415
(2): [age] 05/01/02 22:31:04 AAS
>>414
浄閑入道の時代に伊賀を離れてるからな。
しかし、一門の中には伊賀に残った者もいるわけだろ?
416
(2): 05/01/03 04:16:47 AAS
>>415
浄閑入道って半三保長のことかい????
417: 05/01/03 20:52:23 AAS
>>416
ですね。
418
(1): 05/01/04 01:16:52 AAS
>>415
一応、有事の際には共闘するという決め事があったらしいね。
さすがは伊賀者?
419
(2): 05/01/04 04:30:01 AAS
>>416
千賀地家のこと?
保長の子とされる市兵衛保元の系譜だよな。

保長―保元―則直(千賀地半蔵/服部半蔵)―元則(保田栄西養子、後に藤堂采女)

という家系だったはず。
420
(1): 05/01/04 23:19:27 AAS
>>419
一時期、増田長盛に仕えてたよね?
421
(2): 05/01/05 05:21:51 AAS
増田家改易後は藤堂家。
422
(1): [age] 05/01/06 03:15:13 AAS
>>421
藤堂家への仕官は確か家康が斡旋したのでは?
423
(1): 05/01/06 08:13:50 AAS
>>411
オーナー会社ではよくあることだな。。。
424
(1): 05/01/06 22:54:28 AAS
>>423
とはいえ、その場合は反抗しづらいものがあるけど・・・
425: 05/01/07 01:52:14 AAS
>>424
反抗するとこっちがあぼーんされるだけ。
426: [age] 05/01/10 01:22:20 AAS
>>418
助け合いの精神ですよ。
427
(2): 05/01/10 01:31:41 AAS
>>422
他国から入るのだからそれなりに地縁のある家臣も必要じゃないの?
でなければ、ただの進駐軍になっちゃうし。
428: 05/01/10 06:24:04 AAS
>>427
現地採用組ってことね?
429
(1): 05/01/10 10:47:30 AAS
服部康成のような例もあるわけだが。
そのあたりはどう解釈するのだろうか・・・
430: 05/01/11 01:55:02 AAS
>>429
都に程近いところにネットワークを持つ康成をスカウトしたのであれば、
彼の使いどころはそこにあったと見るべきだが、家老職にあって藩政を
支えた康成を思うにつけ・・・・
431: 05/01/13 09:40:38 AAS
>>427
豊臣大名などにはその傾向があったようだが?
432
(1): 05/01/15 08:59:18 AAS
>>413
それが反発を招く根底にあったと思うね。
正成は別としても正就は伊賀者ではない、というのが彼らの本音。
433: 05/01/16 07:22:29 AAS
>>432
桑名藩で服部半蔵を名乗ったのは、正就の弟・正重の系譜だよね。
彼もまた大久保長安事件に連坐して改易され、松平定綱に仕えたと。
このあたり何故か服部家って不遇だね。
434
(2): 05/01/16 07:48:57 AAS
>>419-421
保田元則(采女)は増田家に仕官する前、豊臣秀長、秀俊に仕えていたよね。
藤堂高虎は大和豊臣家の家老(紀伊粉河城主)だったから、この時点で知己を得ていたはず。
采女は秀俊の早世後、増田家に仕えたが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、増田長盛が蟄居と
なった際、大和郡山城の接収にあたった高虎と再会し、1601年に藤堂家に仕官している。

なお、大和郡山城接収にあたっては、家老職にあった渡辺勘兵衛や保田采女が高虎に好意
的に接し、武器・弾薬の引渡しが速やかに行われたという。
このことがあり、勘兵衛や采女は藤堂家からスカウトされたとされている。
435
(1): 05/01/16 15:46:21 AAS
>>434
新規召抱えなのにいきなり藤堂姓とはこれ如何に?????
436: 05/01/17 10:47:12 AAS
>>435
伊賀統治には服部家の血筋が何としても必要だったんじゃない?
地侍が点在していた地域だけに。
437: 05/01/17 11:03:04 AAS
采女が重用された理由としては、彼自身の能力もさることながら、伊賀の名族・服部家、紀伊の
名族・保田家の血筋にあたることが大きいと思う。
伊賀上野城代として伊賀の領民を懐柔するにあたっては服部家、圧するにあたっては他国衆な
がら名族でもある保田家の血筋を使い分けさせたのではないか。
服部家の血を引く保田采女を藤堂一門に遇することで、伊賀の土豪・地侍たちの速やかな宣撫
工作を図ったのだろう。
438
(1): 05/01/17 15:05:14 AAS
信長に討伐されて悲惨なことになってたからな。
そのうえ縁も縁も無い為政者が来たんじゃ、内情も不安定になるだろうし。
439: 05/01/17 17:09:00 AAS
>>438
何だかんだ言って生き残ってたりはするんだな。
440
(1): 05/01/17 17:23:29 AAS
>>434
渡辺勘兵衛って後に高虎と袂を分かつんだっけ?
441: 05/01/18 10:23:24 AAS
>>440
大阪の陣の時に主従でもめちゃったんじゃなかったかな?
442
(2): 05/01/18 18:39:12 AAS
渡辺勘兵衛 (1562-1640)
阿閉家臣。主家滅亡後は豊臣・中村・増田・藤堂家に歴仕。豊臣秀吉の小田原征伐の際、
伊豆山中城に一番乗りし秀吉から賞賛された。大坂の陣後、浪人した。
特技:収拾 槍衾 攻城
能力:政治9 統率74 知略49
443
(1): 05/01/18 23:55:29 AAS
>>442
伊予今治城の築城を担当したのって勘兵衛だったはず。
444: 05/01/20 12:14:45 AAS
>>443
YES
445: 05/01/20 17:26:27 AAS
>>442
渡辺了だっけ?
446: 05/01/22 12:43:24 AAS
わたなべ・りょう?
447: 05/01/23 10:57:12 AAS
この渡辺一文字シリーズって何者なの?
448: 05/01/23 14:20:42 AAS
嵯峨源氏だから源融にあやかってるんでないの
直接的には渡辺綱の影響かもしれんが
449: 05/01/23 14:32:31 AAS
外部リンク[htm]:www2s.biglobe.ne.jp
渡辺姓の武将は多い。
渡辺了の他にも大阪の陣で知られる渡辺糺、秀吉麾下の重−勝、さらに孝−任(浅井家臣)、
勝−通−長(毛利家臣)、信−盛−永(徳川家臣)。 (−は親子)。
やたらに名が一字なのが興味深い。
これは多分、武門の祖とも言える源頼光の四天王・渡辺綱の影響であろうか。
実際、渡辺氏は綱の出自嵯峨源氏から発生したものが多く、上に挙げたいくつかの系統は綱
の末裔と称している。
実際、嵯峨源氏は信、常、明と何世代も一字で名を現している者が多い。
450
(1): 05/01/24 02:00:37 AAS
浅井家にも阿閉家にも同族?がいたということは、近江に古くから地縁のある
一門がいたわけ?
451
(1): 05/01/25 21:47:08 AAS
ひょっとして良スレ化の予兆???
452: 05/01/26 14:34:24 AAS
>>451
おいおい、本論からはズレてるだろうに・・・
453: 05/01/27 23:44:23 AAS
 
454
(1): 05/01/29 00:30:02 AAS
>>450
近江と言えば・・・・
455
(2): 05/01/30 12:40:23 AAS
>>454
朽木をおいて他にはあるまいw
456: 05/01/31 00:18:04 AAS
>>455
その名前が……やるか?
457
(1): 05/02/01 02:30:24 AAS
>>455
朽木元綱と聞くだけで萌えてくるのは俺だけ?
458
(1): 05/02/03 14:07:42 AAS
>>457
いや、のぶやぼネタのスレでは必須武将のように思うが?
459
(1): 05/02/04 18:38:34 AAS
>>458
湖畔でひとり天下の趨勢を見つめる元綱プレイはけっこういいぞ。
朝倉軍が来ても「ど〜ぞお通りください」
織田軍が来ても「ど〜ぞお通りください」
だもの。
460: 05/02/05 01:51:55 AAS
>>459
近江国内で合戦になっても反戦中立が基本原則。
461: 05/02/07 01:32:12 AAS
朽木と言えば「金ヶ崎の退き口」と関ヶ原での華麗なる裏切りでしょうな。
462
(1): 05/02/08 04:51:52 AAS
鯖街道だろ、鯖街道。
463
(2): 05/02/09 04:32:27 AAS
>>462
何それ?
464: 05/02/09 04:36:09 AAS
鯖街道だよ、鯖街道を知らんのか。
465: 05/02/11 22:34:00 AAS
>>463
このスレの住人で鯖街道を知らん香具師はモグリ認定だわな(w
466
(1): 05/02/12 01:03:21 AAS
>>463
外部リンク[html]:www.ruralnet.or.jp
より引用

>● 歴史と文化が交差した「鯖街道」
>
>若狭の国・福井県、小浜城下から京の出町柳辺りまで、約80kmの街道は古くから「鯖街道」と
>呼ばれてきました。これは13世紀の初期にできた若狭街道のことで、戦国時代から江戸時代
>にかけ、若狭の海でとれたサバがこの道を通って京へ運ばれたことから、「鯖街道」の名で呼ば
>れるようになりました。
>渓流魚の佃煮、鯖のなれずし、栃餅など朽木の自然の中から生まれた品々がこの街道筋で売
>られました。また、奈良時代、朽木谷から「朽木の杣」、材木を東大寺の建築用材として筏で搬
>出した記録や、貝原益軒の『諸国めぐり』に、朽木を材木の名所として記されていることなど、朽
>木は木工品の産地としても昔から知られ、塗物の椀や盆などもこの道を通っていきました。
>このように鯖街道は、京都をはじめ各地へ朽木の産物が流通し、同時に都の文化・技術も行き
>来した歴史と文化の交差点だったのです。
467
(1): 05/02/12 10:36:58 AAS
伊賀・甲賀はどこに…?
468
(1): 05/02/13 01:29:11 AAS
司馬の「街道をゆく」では伊賀・甲賀は通ってるのか?
469: 05/02/13 02:15:39 AAS
>>468
司馬ネタは他でやってよ。
470: 05/02/13 02:21:47 AAS
>>467
朽木は将軍家非難ルート繋がりだね、確か。
471: 05/02/19 00:26:56 AAS
御料所の代官だろ?
472
(1): 05/02/19 13:32:19 AAS
足利将軍家で近江国に亡命したのは義晴、義輝、義昭の3人か?
義晴は伊賀&甲賀には避難してないし、義輝は細川晴元と近江坂本に逃れた後、
各所を転々としながら、2度目に近江に逃れたときは朽木谷で5年余りを過ごし
ている。
義昭は大和に幽閉された後、伊賀経由で甲賀の和田惟政の許に逃げ込んでいるが
朽木谷に入ったという記録はない。
朽木氏には将軍から偏諱を受けた者も多いし、幕府の御供衆にも列しているが、
甲賀の諸氏にそこまでの者はいない。
473
(1): 05/02/19 19:37:18 AAS
>>472
こらこら、足利義澄を忘れるなっての。
しかも、義澄は近江であぼ〜んしてるじゃないか。
474: 05/02/19 19:47:21 AAS
外部リンク[html]:www2.harimaya.com
朽木氏
----------------------------------------------------------
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)

佐々木氏の一族。信綱の次男忠信は高島郡田中郷を与えられ高島氏を名乗っていた。
その子頼綱、さらにその子義綱の代になってはじめて朽木氏を称するようになった。
朽木庄は、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれ、安曇川上流の渓谷
に沿う谷盆地となり、京都にも近いということと、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこ
ともあり、早くから開け、交通上の要衝としても重視されていたところだ。
朽木氏は朽木谷一帯を抑え、佐々木氏一族として重きをなした。1528年三好元長が京都
に乱入した時、足利将軍義晴は朽木谷に逃れ、そのころの当主稙綱は義晴を厚遇した。
その功によって稙綱はのち申次七人衆の一人に数えられることになった。さらに1551年に
も将軍義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがあり、山間盆地という地勢が将軍
の避難所としての条件を持っていたことを示している。
朽木氏の歴代にあっては、稙綱と晴綱および元綱が特筆される存在で、晴綱の弟たちも
将軍家に多く仕えている。
たとえば藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆として名がみえ、足利
将軍家との関係の深さを示している。
元綱は、はじめ六角氏に仕え、次いで朝倉氏と結び、さらに足利義昭、次いで織田信長と
転々としているが、近江という政治情勢の変化の激しい地方の小戦国大名としては当然
の身の処し方だったといえよう。元綱はさらに豊臣秀吉、徳川家康に仕えている。関ヶ原
の合戦では、最初西軍に属し途中で東軍に通じている。その結果、減封措置ではあった
が近江高島郡九千石を安堵されている。
しかし、江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名
となった。この稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。
475: 05/02/19 19:55:05 AAS
>>473
そうだね。
足利義澄は永正8年(1511年)8月、京都に戻る準備を進めていた最中、近江国の
岡山城(滋賀県近江八幡市)で病没している。
476: 05/02/19 22:47:42 AAS
>>466
山林資源の豊富なところだったわけか。
477
(8): [age] 05/02/20 02:51:46 AAS
今は幻となった朽木村を偲びつつ・・・・
外部リンク[htm]:www.biwa.ne.jp

朽木谷をゆく(朽木村の概要)  
  
<現況>
・成 立 明治22年(1889)4月1日、市制町村制施行により成立
・面 積 165,ku   ・人 口 2,603人
・村の花=ヤマユリ  ・村の木=スギ
・村名の由来 中世の荘名による。

<立地>
〜国境の山村〜
 県の西部に位置し、朽木谷の名で知られた広い村域のほとんどが山地である。周囲を取り囲んだ
標高500〜900mの山々に2つも三国岳の名が見えるのは、近江と若狭・丹波・山城の国界によっ
たものであり、さらに小川地先に近江・山城2国の境界石が残存するなど、いずれもその辺境性を示
している。その中を丹波高原の百井峠に源をもつ安曇川(俗称.大川)が北流し、針畑川・北川・麻生
川の支流を合わせ、主邑市場付近で向きを東に変え、隣接安曇川町に注いでいる。大川筋はいわゆ
る花折断層に沿うもので、北陸〜京都を結ぶ間道として早くから利用されたが、ここに開かれたのが
朽木街道であった。気候は、山間地特有の時雨のため天候が変わりやすい。また日照時間が短くて
気温も低く、冬期はしばしば豪雪に見舞われて孤立化することがある。最奥の針畑地区を含む朽木
西小学校区は、僻地指定でも、県内最上位の*5級地になっている。
478: 477 05/02/20 02:53:20 AAS
<沿革> 

「原始・古代」
〜森林資源と開発〜
朽木谷にはまだ、原始の人々の暮らしを証明する考古資料(遺跡・遺物)は1つも見つかっていない。
この地域が歴史上で確かめられるのは、せいぜい1,000年ほど前からである。「和名抄」の高島郡
郷名に桑原郷が載っているが、所在について諸説がある。「日本地理志料」などのように、針畑地区
に桑原があるので、それを古い針畑荘(桑原・古屋・中牧・小入谷・荘屋・生杉・能家・横谷・轆轤の9
か村)と古賀荘(上古賀・下古賀・南古賀の3か村)にゆかりのあるものと推定すれば、その範囲はか
なり広いものであったことになる。
奈良期、東大寺の建築用材がこの地域の山作所から、筏などで搬出されたらしい。天平宝字6年(7
62)の「高島山作所漕材注文」(大日古)は、文中の小川津について問題を残しがらそのことを推測
させる。平安期になると、長保3年(1001)中納言・大宰権師平惟仲が、白川寺喜多院に布施した
所領10か所の中に、「高島郡朽木庄」と記したものがある(高野山文書)。この頃国の諸所に荘園化
が進み、先の桑原郷もいまひとつ大きな朽木荘に吸収されたもののようである。
治暦4年(1068)の「大政官符」に朽木谷奥地の針畑地区と、朽木谷に北接する三谷地区の山々が
子田上杣(こだかみのそま)と呼ばれたことが見え、それがやがて藤原頼通の家領となる。都にも知
られた「朽木の杣」で、歌枕にもなった。この谷筋が当初からその森林資源をもとに開拓されたらしい
ことが、その自然環境と照らし合わせて充分うなずける。
479: 477 05/02/20 02:55:00 AAS
「中世」
〜朽木氏登場〜
朽木谷が荘の性格をはっきりさせて登場するのは、鎌倉期に入ってからである。承久の乱後,佐々
木信綱はその功によって、幕府からこの朽木荘の地頭職に新補された。所領は朽木荘以外にもあ
ったが、子孫が次々と分かれていって、それが後に高島七頭といわれた武士団を形成した。朽木荘
を譲られたのはそれらの中で、信綱二男高信の孫にあたる義綱が最初である。弘安10年(1287)
のことで、ここに土地の名をとって朽木氏を称した。しかし、元弘3年(1333)には地頭職安堵の綸
旨を朝廷から得たかと思うと、建武3年(1336)には幕府からこの地域を兵糧取り立ての料所とし
て預けられたように認めてもらったりして、所領確保に苦心している。

〜針畑荘と年貢〜
宮前坊に残る抜塚の伝説は、朽木氏入部に際して行われたこの谷の旧支配層坊村少将などの抵
抗をしのばせるが、当時この地域にどのような村落生活の展開があったかは詳らかでない。「針畑
文書」によると、荘内の針畑9か村が山門(延暦寺)西塔領に属するようになって、それを区別する
ために針畑荘と呼ぶようになったという。やや時代が下降するが、天文23年(1554)の「針畑田地
之事」の文面には、それが上白屋・今井・田中・山本・小入・上中寄・下中寄・下白屋・くほう・滝権寺・
下司・公文・能家上・能家下の14名に分かれ、領主がその名田ごとに年貢を収納したらしい。年貢
は、米・大豆その他山方年貢として四二寸榑(しにすくれ=4寸と2寸角の材木)があったらしい。そ
の四二寸榑をめぐり、永仁5年(1297)に地頭代と雑掌間に争いが起こり、ついに地頭代が解任さ
れる事件があったので、その結果針畑荘では,さらに新たな年貢の負担を申し渡されたりしたことも
あった。
また、この荘の南の葛川荘や、西南の山城久多荘との間で、争いが絶えなかった(葛川明王院文
書)。そのほとんどは山論である。しかし、互いに荘園の区域をこえて共通するものをもち、行き来も
ずいぶんあったと思われる。鎌倉末期に、朽木荘に葛川の上分田がつくられるとか、朽木荘の田地
が葛川明王院に寄進されるとか、あるいは南北朝の頃になると、地頭の朽木氏が明王院へ奉った
戦功祈願の願文があったりする。
480: 477 05/02/20 03:00:06 AAS
〜山の生活〜
朽木・葛川の谷筋には、古くから山にヤマノクチと呼ぶ山の神、川にシコブチと呼ぶ筏神の土俗の
信仰が伝えられてきた。新来の地頭朽木氏も、それらを無視することはできず、宮前坊の旧朽木大
宮権現(邇々桙神社)・野尻の旧山神社(山神神社)を朽木谷の総産土神と崇めたり、葛川の地主
神社の祭礼に何かにつけて関与した。
この頃、京都〜小浜間の交通はようやく開けた。寛元元年(1243)曹洞宗の開祖道元が、北陸下
向の途次立ち寄り、上柏指月谷が宇治興聖寺の地形に似たところから、領主の信綱に勧めてここ
に禅林を創立させたのが、現在の岩瀬興聖寺の起源であるとされている。これが近江最初の禅林
で、代々朽木氏の菩提所となった。以後、朽木村の天台系寺院のほとんどが禅宗に改宗すること
になった。今日朽木領内53か寺のうち、禅宗が37か寺を数える。また、雲洞谷日吉神社の「大般
若経」奥書には、嘉慶2年(元中5〈1388〉)京都の信光寺にあったものを、応永3年(1396)この
地区がもらい受け、さらに康正3年(1457)になって神社に奉納したことを記している。
481: 477 05/02/20 03:00:51 AAS
〜将軍避難所〜
長禄2年(1458)になると、足利義政が朽木貞高に朽木荘を安堵した。それはその翌々年に室町
幕府の御料所として、毎年100貫文を貢納させる下心があったからともとれる。以来、朽木氏は応
仁・文明の戦乱の打ち続く中で、ひたすら幕府に密着して終始した感があった。まもなく、足利将軍
はたびたびこの谷筋に難を避けることになる。享禄元年(1528)12代将軍義晴は管領細川氏の
失政によって孤立すると、はじめ六角氏の援助を求めて近江に来たが、その分流の縁故から朽木
稙網(たねつな)を頼って朽木谷に入り、同4年(1531)までここで政務を見た。朽木氏は居館を朽
木陣屋内に設けて仕えた。さらに13代将軍義藤(義輝)も、三好党に追われて坂本・穴太・堅田を
転々としたが、三好党と六角氏が戦うことになると、天文12年(1543)と同22年〜永禄元年(15
58)の5年間を、2度にわたって難を避けるために滞在している。永禄11年(1568)織田信長が
近江に侵入して六角氏は滅びるが、その分流でありながら朽木氏はこの時も独自の行動をとって、
その所領を失うことがなかった。元亀元年(1570)信長が若狭からこの朽木谷へ入って来た際も
巧みに対応することによって、その支配に従った。このようにして,天正18年(1590)の豊臣秀吉
の天下になると、高島都の蔵入地900石の代官となり、いわゆる太閤検地の奉行などを勤めたり
したのである。
482: 477 05/02/20 03:02:14 AAS
〜鯖の道〜
谷筋の街道には関所が置かれ、高島関といわれたようであるが、今日その場所は明らかでない。
長享3年(1489)幕府は朽木氏を関の代官に任じたが、なぜか朽木氏は断った。しかし,朽木氏
も京都へ出る場合は、関を通過しなければならなかった.延徳2年(1490)・明応6年(1497)・
永正3年(1506)などに、朽木氏の被官人500・馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合、その通
過に差し障りがないようにと、幕府が各関所へ命じている。なお、この街道の往来について、「朽木
文書」の「庄下用帳」は京都へ上京する商人が通るとか、車54台に積んで貝鮑が京へ行くとかいっ
たことまで記している。この街道が俗に「鯖の道」と呼ばれたのは、若狭からの海産物が、盛んに運
ばれた結果であろう。

〜惣村と支配〜
中世末期になると、朽木荘には荒川・麻生・市・村井・椋川・地子原・雲洞谷・栃生といった多くの
惣村が成立した.これらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったが、その下に
は中間と呼ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた。16世紀の初め頃の荘内各惣の10〜4
0軒の家から棟別銭を取り立てた。時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした。永正元年(15
04)に小川惣・平良惣が、椋川惣・荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの祈誓文などが残って
いる。朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが、一方「奥畑炭かま銭」「商人銭」「馬宿銭」と
いったものを課しながら、林業・商業・交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めていった。
しかし、針畑住民などが、能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた。
483: 477 05/02/20 03:03:29 AAS
<近世>
〜谷朽木〜
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に、朽木氏は途中から徳川方に味方をし、その結果さらにこの
谷筋支配を保ち得た。慶長6年(1601)朽木元綱が領有した範囲は、もとの朽木荘29か村をは
じめとして、針畑荘・三谷荘・本荘・広瀬荘・音羽荘・山城久多荘を含めると9,595石であった。
翌7年、村ごとの検地が行われた。この朽木氏を俗に「谷朽木」とも呼んだのは、居所を朽木谷の
野尻に定めたからであった。家の格式は表向き1万右に満たなかったため、交代寄合に位置づけ
られ、その所領も朽木知行所と呼ばれた。しかし、実質は大名に準じて江戸にも参勤交代するこ
とになっていた。そしてその家筋は、いずれも旗本として明治維新に至る。

〜村数と年貢〜
江戸期を通じて朽木知行所内の村高には、なにほどの変化もなかった。あっても100石とか、1
00石以下が大部分を占めたのは、もともと田畑が乏しい地理的条件によったからであろう。この
時代の村数を「朽木文書」によってみると、旧朽木荘(市場・岩神・穴ケ瀬・宮前・坊・野尻・上柏・
下柏・古川・大野・村井・栃生・椋川・麻生・横谷・轆轤・地子原・雲洞谷・平良・小川・荒川)21か
村、旧針畑荘(能家・桑原・古屋・中牧・小林・生杉・庄屋・小入谷)8か村、旧三谷荘(角川・保坂・
途中谷・山中・大杉・轆轤・天増川・梨ノ木・椋川・自在坊・六ツ石・水谷・追分)13か村で、合計
42か村になる。
これらの村々は平地の村とは違い山林関係の生業の割合が強く、この傾向は特に麻生・地子原・
雲洞谷から西の村々で大きいものがあった。年貢は村高の40〜50%に及んだが、自然条件に
災いされることもあったから、川成などで差し引かれることが多かった。その他山方年貢として四
二寸米・川狩米・茶年貢・油草代米・薪代米・みそ米代などがあった。
484: 477 05/02/20 03:04:31 AAS
〜林業と木地屋〜
中世から引き続き、何といってもこの地域を特徴づけてきたのは林業であった。しかし、安曇川を
下る筏は琵琶湖への出口の南船木港(安曇川町)に材木座が置かれ、木材を特権的に取り扱い、
運上・座役銀などの租税・手数料に当たるものを取り立てた。炭焼にも市場・岩神の問屋支配が
あり、これを、仲介しないと炭の売り立ては堅く禁じられていた。
なお、轆轤周辺は麻生木地山ともいった。かなり古くから轆轤師(のちの木地屋)が集結して、朽
木氏の庇護を受けながら椀・盆など木器の木地を生産した。中世〜近世を通じての経歴は、著名
な木地屋根元地と伝承される近江小椋谷の「蛭谷氏子狩帳」「大岩助左衛門日記」などに記録を
とどめている。岩神には数軒の塗師屋もあったが、そこで彼らの木地に漆工したのである。朽木盆
はその製品の中で、黒地に朱で十六菊を描いたものが、特に*「菊盆」*と呼ばれて著聞した。
485: 477 05/02/20 03:11:12 AAS
ついでに・・・
外部リンク[php]:www.biwako-visitors.jp
興聖寺(足利庭園)

安曇川(あどがわ)上流にあります。
鎌倉時代初期、宋から帰国した曹洞宗の開祖、道元禅師(げんどうぜんし)が朽木の里を
訪れたとき、付近の風光明媚な様子が宇治の輿聖寺に酷似していると大変感激して、領
主の朽木氏にこの地に一寺の創建を勧めたのが始まりといわれています。
林のように木々が茂っている中に寺が立っており、境内からは安曇川や上山などの広大
で雄大な景色が眺められます。
閑静な境内には本殿のほか、庫裏(くり)や鐘楼などが立ち並びます。本尊の木造釈迦
如来坐像は、平安時代中期の最澄の名作と伝えられる古式の優美な仏像です。
境内には国の名勝に指定されている美しい庭園、足利庭園があります。
<重文>木造釈迦如来坐像

<足利庭園>
興聖寺(こうしょうじ)の境内にあり、国の名勝指定を受けている庭園です。
もともと、16世紀の半ば、あいつぐ武将たちの反乱に追われた室町幕府の第12代将軍足
利義晴、そして第13代義輝(よしてる)が、朽木氏を頼って数年間滞在した居館の庭園で
す。秀隣寺は、のちに他の地に移され、江戸時代に朽木氏の菩提寺である輿聖寺がこの
地に移されて、現在にいたっています。
作庭は、朽木一族を始め、近隣の大名の協力を得て、将軍を慰めるという目的で意匠を尽
くして作られたといわれています。安曇川(あどがわ)の清流と比良(ひら)山系を借景とし
て、西側の築山に石を利用した滝をしつらえ、屈曲した汀線を持った池に仕上げています。
池には、2つの鶴亀島を置き、楠の化石の石橋が対岸の出島に架けられています。細川
高国(ほそかわたかくに)の代表作であり、旧秀隣寺庭園とも呼ばれます。
486
(1): 05/02/20 21:00:18 AAS
やっぱり独力では厳しかったのね・・
487
(1): 05/02/21 01:42:15 AA×

488: 05/02/21 01:48:10 AAS
>>487
いや、ここは別に忍者スレってわけでもないんだが……
489: 05/02/22 03:56:08 AAS
>>486
所詮、山間の一豪族だし。
私財だけじゃ足らないでしょ。
490
(1): 05/02/23 00:52:59 AAS
蒼天録では六角陣営だったね。
足利陣営、六角陣営果たしてどっちが整合性があるのだか・・・
491
(2): 05/02/23 01:54:06 AAS
>>490
六角氏から独立しながらも友好度アップさせて、対岸から見守るのがいい。
492: 05/02/23 19:12:12 AAS
>>491
他国の軍勢に抵抗しない代わりに、通行料とか取れたら儲かりそうね。
493
(1): 05/02/24 08:22:15 AAS
>>491
「六角」がキーワードですな(w
494
(1): 05/02/25 04:19:33 AAS
そうか・・・朽木村ってもうないのか・・・
495
(1): 05/02/25 16:49:10 AAS
次スレでは雑賀・根来衆も加えて欲すぃ…
496: [age] 05/02/26 22:57:19 AAS
>>495
何でやねん?
497: 05/02/27 15:54:47 AAS
>>494
確か前スレで朽木ネタが炸裂してた頃にちょうど合併の話が出ていたような気がする。
498
(2): 05/02/27 17:10:00 AAS
>>493
そうだね。
甲賀衆と朽木を繋ぐのはやはり六角を置いて他にはない。
499
(1): 05/02/27 19:40:42 AAS
>>498
織田の勢力が迫るとサッサと寝返ったけどね。
500
(1): 05/02/27 21:18:18 AAS
>>499
鈎の陣での奮戦とかもう少し評価してよ・・・
501
(1): 05/03/01 02:27:27 AAS
>>500
甲賀衆が足利義尚を討ち取ったっていうのは本当なの?
502
(2): 05/03/01 04:08:55 AAS
>>501
義尚の死因って肝臓の病じゃなかったか?
確かに鈎の陣で負傷してるけど。
503
(1): 502 05/03/01 04:12:52 AAS
それに甲賀衆の攻撃で夜陰に紛れてのゲリラ戦だろ?
そんな戦法は地の利を知り尽くした土豪ならば誰でもが採り得ると思うし、
打ち破った相手が幕府軍だったというだけで、そんなに喧伝されるような
ことかいな?
504
(2): 05/03/01 05:43:52 AAS
>>498
伊賀は時に足利領(蒼天録以降)、朽木もまた時に足利領(嵐世記)という繋がりは無視か?
505
(1): 05/03/01 16:22:28 AAS
>>504
信長に観音寺城を追われた後も、六角承禎は近江・伊賀国境付近に潜伏して
ゲリラ戦を指導していたからな。
ま、そういう繋がり。
506
(1): 05/03/01 18:11:22 AAS
>>505
義治は武田家を頼って甲斐に落ち延びたわけだが・・・両家ってどういう繋がり?
507: 05/03/02 00:08:17 AAS
>>506
源氏繋がり。
508: 05/03/02 21:35:44 AAS
うんこ
509
(1): 05/03/03 00:33:35 AAS
>>503
伊勢で信長軍を撃破した伊賀・甲賀連合軍も戦術的に特に見るべきものは何も無かったような・・・
510
(2): 05/03/03 00:35:59 AAS
忍術はまさに「忍」の業なので一般人には理解すら出来ない。
従って記録もされない。
そんなところでしょうね。
511
(1): 05/03/03 01:16:36 AAS
>>509
地の利を生かしてのゲリラ戦で、主武器は弓矢……だったはず。
512
(1): 05/03/03 04:36:40 AAS
>>510
以前に島原の乱に従軍した甲賀衆の話があったけど、実際にはそれほどの戦力にはなってない。
513
(1): 05/03/03 07:44:28 AAS
>>510
じゃあ、俺たちが知る由もないじゃないか(w
514
(2): 05/03/04 00:47:54 AAS
>>513
万川集海によって我々も知る事が出来るのですよ。
515: 05/03/04 06:35:28 AAS
>>514
ホラも吹いてみるもの。
516: 05/03/04 16:30:06 AAS
>>514
御上に献上して糊口をしのぐ貴重なアイテム。
517
(1): 05/03/05 02:54:31 AAS
のぶやぼの家宝に出てくる?
518
(1): 05/03/06 02:03:19 AAS
>>517
出てくるとすれば効果は「混乱」あたりか?
519
(1): [age] 05/03/07 02:14:33 AAS
>>518
甲賀郷士の献上アイテムだけに「哀願」でも良さそうなものだが。
520: 05/03/07 18:24:05 AAS
>>519
実際、それで食い繋いでたんだもんな
521: 05/03/08 00:14:42 AAS
>>511
しかも敗走する敵を追撃する戦いだったはず。
522: 05/03/08 05:16:30 AAS
>>502
酒淫に耽りすぎてあぼ〜ん。
ある意味、ねらー的には羨ましい最期だったかもw
523
(1): 05/03/08 12:42:07 AAS
手淫に耽る香具師は多そうだが・・・
524: 05/03/10 15:00:51 AAS
>>523
手淫じゃ死なないでしょ。
525
(1): 05/03/10 23:40:41 AAS
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526: 05/03/11 01:57:28 AAS
>>525
忍者もバスに乗る時代・・・
527
(1): 05/03/14 00:17:45 AAS
>>504
足利家の領地じゃないよね、伊賀は。
御料所があった朽木谷はまだしも。
528
(1): 05/03/16 03:34:52 AAS
>>527
義昭の逃亡経路にあったような気がするが?
529
(1): 05/03/17 01:34:42 AAS
>>528
大名家の直接支配が及ばない地域ってのがあるからね。
伊賀にせよ甲賀にせよ、そういう地域だったわけでしょ。
530
(1): 05/03/18 00:48:04 AAS
>>529
でも一応、守護はいたのだから・・・力はなくとも。
531: 05/03/18 11:15:12 AAS
>>530
ひょっとしてこの展開は……
532
(1): 05/03/18 12:28:11 AAS
伊賀守護ネタかいな(w
533: 05/03/20 13:15:58 AAS
>>532
仁木友埋め
534
(2): [age] 05/03/21 02:58:23 AAS
のぶやぼに出てくる仁木義親って誰?
535: 2005/03/22(火) 17:55:52 AAS
>>534
単なる架空武将
536
(1): 2005/03/23(水) 19:45:08 AAS
>>534
仁木義親はこういう御仁。
外部リンク[cgi]:hima.que.ne.jp
>(1593-1652)伊賀の国人。
>義親は実際は伊賀守護で、織田信長に従った。仁木家は、観応の擾乱の際には足利尊氏に従って
>活躍し、一族で9か国の守護を務めたという。
537: 2005/03/23(水) 20:48:53 AAS
>>536
義視と間違ってねえか?とか思うのだが。
538
(1): 2005/03/23(水) 22:29:33 AAS
足利義昭の近習に仁木伊賀守義政という人物がいるね。
539
(1): 2005/03/23(水) 23:03:13 AAS
>>538
仁木義視(友梅)=仁木伊賀守義政?
540
(1): 2005/03/23(水) 23:57:07 AAS
>>539
義昭が朝倉氏を頼って越前入りした際、供奉した面々の中に「仁木伊賀守」の名が見える。
また、義昭が真木嶋に籠城した際(1573年)にも、同じく「仁木伊賀守」の名がある。
したがって仁木伊賀守は終始、義昭に仕えていたので、仮に義昭の下を離れたとしても真木嶋
落城後ということになる。
一方、友梅は信長の後押しを受けて1571年に伊賀に入国、1578年に国人衆によって追放され
るまでは基本的に在国していたようなので、同一人物ではあり得ない。
とすると、結論的に「仁木伊賀守≠仁木友梅」ということになる。
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ぬこの手 ぬこTOP 0.119s*