[過去ログ] 【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
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70
(3): 04/09/21 16:11:03 AAS
福地伊予の弟だっけ?>柘植三郎左衛門
71: 04/09/22 00:59:09 AAS
>>70
弟という説と子という説がある。
72
(1): 04/09/22 03:11:51 AAS
>>67
酔っ払って討たれるってかなり「ぷっ!」って感じの最期ですね
73
(3): 04/09/22 03:33:39 AAS
>>72
伊賀衆の息の掛かった百升に「御戦勝おめでとうございます!!!」なんて飲まされたのかなあ?
でも、この時点では敵地だよね?
74: 04/09/22 06:04:28 AAS
>>73
おいおい、「百姓」だっての・・・
「百升」も飲んだら、そりゃ討ち取られる以前の問題だわなw
75: 04/09/22 07:39:19 AAS
>>73
郷士連中にはそれぞれ周辺勢力との関係があるからね。
本気で戦勝祝いを贈る香具師もいれば、逆にスパイを使う香具師もいただろう。
まあ、判断しにくいところだよね。
76: 04/09/22 18:30:49 AAS
>>70
柘植三郎左衛門には北畠具教暗殺の指揮を執ったという説もあるな
77: 04/09/22 23:14:59 AAS
>>65
福地伊予守、柘植三之丞あたりは信長の存命中から家康とのパイプを持っていたね。
かつて柘植は家康に「家臣にしてくれ」と頼んだけど、家康は「一党を率いて三河に来る
なら」という条件を出したために叶わなかったと言われている。
78
(1): 04/09/23 01:32:29 AAS
福地は後に伊賀を追われて三河に遁走したよね?
79: 04/09/23 03:39:56 AAS
>>78
以後の消息は・・・どうなったんだ???
80
(1): 04/09/23 03:55:57 AAS
>>68
仁木兵部少輔って誰?
81
(1): [age] 04/09/24 01:10:33 AAS
>>80

仁木兵部少輔で検索した結果  ページ:9件

それほどメジャーな人じゃないようです...
82: 04/09/24 01:16:52 AAS
>>81
そういう尺度ですか???(w
83
(2): 04/09/24 04:22:39 AA×

2ch板:warhis
84: 83 04/09/24 04:25:38 AAS
リンク先間違えました…
外部リンク[html]:www.city.sasayama.hyogo.jp
です。
85
(2): 83 04/09/24 04:43:39 AAS
なお、「仁木長政」については・・・
天正2年に「伊賀守護 仁木長政」が上野市西高倉の高倉神社の本殿、八幡社、春日社
を建立した旨が春日社の棟札(重要文化財)に記されている。
>>83の「仁木左京大夫長政」と同一人物であるかは定かではないが、永禄6年と天正2年
というとこの間わずか9年ほど。
この間に「仁木左京大夫長政」と「伊賀守護 仁木長政(官途名不明)」という2人の長政が
いたと・・・???
86
(2): [age] 04/09/24 22:34:21 AAS
>>85
足利義昭に同行した近習の中に仁木某がいるよね?
87
(1): 04/09/24 23:56:13 AAS
>>86

永日も覚す暮る夜を懸て飽ぬは花の糸桜かな

                     仁木義政
88: 04/09/25 01:52:33 AAS
>>86-87
義昭が越前に下った際に、義昭と共に朝倉義景から饗応を受けたんだろ?
89: 04/09/25 06:23:32 AAS
>>85
確かに細川真之の子・畠山之照を養育した仁木右衛門(之照の大叔父)という人物が
いるけど、この人物が丹波仁木氏の流れを汲んでるってことはないのか?
90
(1): 04/09/25 22:11:00 AAS
仁木義政=仁木長政?
91
(1): 04/09/25 22:18:51 AAS
>>90
丹波にいた香具師が将軍近臣?どうだろうねぇ・・・
92
(1): 04/09/25 22:36:51 AAS
>>91
仁木氏が丹波から四万十川流域に移る時に、長政だけが伊賀入りしたとしたら……
土豪、郷士たちが認めるところの「伊賀守護」として迎えられ、高倉神社などの建立も
「伊賀守護」として長政が行ったとすれば……
93: [age] 04/09/26 02:37:07 AAS
「仁木友梅=仁木義政」に100j
94
(1): 04/09/26 03:11:21 AAS
>>92
長政は信長による伊勢侵攻の際に滝川一益を通じてこれに
協力しているよね?
95: 94 04/09/26 03:13:17 AAS
それ故、後に織田信雄の軍団に組み入れられているね。
96
(2): 04/09/26 06:35:33 AAS
「新津秀三郎氏所蔵文書」によれば、1569年7月28日、信長は滝川一益を通じて
伊賀国の仁木長政を味方につけ、長政に国内の状況報告を命令したという。
なお、仁木義視なる人物が信長の支援によって伊賀に入国し、守護に迎えられた
のは1571年のこと。そして1578年には近江・信楽に追放されている。
となると、長政は義視より少なくとも2年ほど前に伊賀に在住していたことになる。
97
(2): 04/09/26 12:05:48 AAS
>>96
確かに、元亀2年に伊賀に入国した香具師が、永禄12年に伊賀の国情を
報告するのはそりゃ、無理ってもの。
しかも、高倉神社の棟札自体が重文に指定されるようなシロモノで、そこ
に「伊賀守護」「仁木長政」とあるのだから、裏も取れてるしな。
98: 04/09/26 12:29:27 AAS
>>97
その棟札には官途名は記載されてるのかな?
99
(1): 04/09/26 21:05:42 AAS
>>96
追放後はどうしてたんだ?
100
(1): 04/09/26 21:57:21 AAS
しぶとさを発揮してますね・・・仁木氏
外部リンク[html]:www.club-ec.com
>いつも私を大相撲の砂かぶりに招待して下さる大切なご贔気の仁木さん。
>この方は巣鴨で印刷業を営んでおいでになりますがこの方の御先祖は徳川の
>お旗本なのです。しかも二千石という大身旗本で、何でも関ヶ原の合戦で大変
>な戦功を上げたのだそうで御仏壇の御位牌なども長く大きく三、四十cmはあろ
>うという位牌なのです。
>戦前までは武具、刀、槍、兜、みんな残っていたそうですが、みんな空襲で焼
>けてしまったとのこと、実に残念です。ただ、そのお顔はやはりチョンマゲの似
>合いそうな風格のある旗本顔で、血というのはすごいもんです。
101: 04/09/26 22:54:58 AAS
>>100
確か榊原家家臣から起こってるんじゃないかな?>旗本・仁木家
102
(2): 04/09/26 23:09:24 AAS
>>99
天正伊賀の乱の時などは「信長に恭順の意を示すように」と国人たちの説得に
あたっていたらしいな
103: 04/09/27 00:42:09 AAS
>>102
第三次天正伊賀の乱であぼーんだっけ?
104
(2): 04/09/27 02:25:34 AAS
なぜ忍者に謎が多いか。
それは忍者組織が徹底した秘密主義を貫いたからだ。
現代でも謎が多いということは、この平成の世にも生き残ってうわ何をするやめあwせdrftgyh
105
(2): 04/09/27 05:58:50 AAS
>>104
上野市の役所に行ったら、職員が忍者ルックで仕事してました・・・
106
(1): 04/09/27 14:53:27 AAS
>>105
それ、忍者じゃないって…
107: 04/09/27 18:04:35 AAS
>>97
ここで仮説を立てると…
丹波にいた仁木左京大夫長政は、永禄6年(1563年)以降に一部の伊賀国人衆の支援を
受けて伊賀国に入国したが、国人衆の全てがこれに同意していたわけではなく、非公認の
伊賀守護に過ぎなかったと。
伊賀国内は当時、北畠派、六角派、仁木派、独立派の4つに分かれていたから、仁木派
に担がれた長政の立場は極めて脆弱なものであったのだろう。
そのため、長政は信長の軍事力によって北畠派、六角派に対抗するため、滝川一益を通
じて永禄12年(1569年)7月に信長に内応、国内の情報を逐一信長に報告し続けた。
しかし、信長の軍事力は伊賀には及ばず、また、北畠派、六角派の反対もあったのだろう。
長政を正式な守護に立てることができず、やむを得ず、妥協の産物として仁木義視(=足
利義昭の近臣・仁木義政?あるいは義政の縁者?)を守護に送り込むことにした。
そしてこの間、長政は天正2年(1574年)に「伊賀守護として」高倉神社を建立したと。
108
(1): 04/09/27 18:06:18 AAS
なお、仁木義視(=友梅)を追放した際、国人衆の誓紙の中に仁木姓を名乗る者がいたこ
とからも、自称・伊賀守護、実際には国人衆の1人という仁木氏(=長政?)が在国してい
たことは間違いない。
109
(1): [age] 04/09/28 09:34:51 AAS
>>108
伊勢系の仁木氏かな?
110
(1): 04/09/28 11:02:40 AAS
>>109
幕臣仁木氏の話って前スレに無かった???
111: 04/09/28 11:57:31 AAS
>>102
んなモン、聞き入れるわけないわなw
112
(1): 04/09/28 14:00:57 AAS
>>104-106
「伊賀・甲賀衆」の冠をつけると必ず忍者ネタ書き込んでくる香具師がいるのには笑える(w
113
(1): 04/09/28 16:44:07 AAS
>>110
仁木「甚五兵衛」家のことね。
館林藩士から幕臣となり、下野国内に1500石を領していた。
なお、家紋は「丸に二つ引」「五三桐」。
114: 04/09/28 22:03:59 AAS
>>113
旗本になったのは時代的にはいつ頃なのかな?
115
(1): 04/09/28 23:24:20 AAS
>>112
それだけ「刷り込み」されてるということでは?
116
(1): 04/09/28 23:38:31 AAS
榊原家にいた仁木甚五兵衛が名族コレクションに引っ掛かり、幕命で名跡を継いだってこと
なんだろな。
117
(1): 04/09/29 00:51:22 AAS
>>115
甲賀衆なら武勇伝あるけどな
118
(1): 04/09/29 00:58:13 AAS
>>117
沢山城攻略とか?
119: 04/09/29 01:04:37 AAS
ケムマキ
120
(2): 04/09/29 01:44:57 AAS
 結 論 : 忍 者 な ど 存 在 し な か っ た

 
121: 04/09/29 03:39:51 AAS
>>120
早いよ(w
122: 04/09/29 11:16:21 AAS
>>120
傭兵部隊だからね。確かに忍者じゃないよな。
123
(1): 04/09/29 17:50:50 AAS
>>118
鈎の陣こそ(ry
124
(1): [age] 04/09/29 23:04:29 AAS
>>123
一説には甲賀衆が足利義尚を討ち取ったって話あるけど、あれってどうなの?
125
(1): 04/09/30 00:23:28 AAS
外部リンク[html]:www.m-network.com
服部半蔵はその初陣とされる宇土城攻めにおいて、『寛政重修諸家譜』に「正成十六
歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを
賞せられて御持鎗(長七寸八分両鎬)を拝賜す」とあるのだが、正成十六歳といえば弘
治三(1557)年のことで、このとき家康(当時は松平元康)はまだ今川義元の元に人質と
して存在し、しかも当時の宇土城主鵜殿長持は今川方に属していたことから、話が何
かかみ合わない。
半蔵は一体誰から槍を「拝賜した」のであろうか?
ちなみに宇土城落城は永禄五(1562)年のこととされている(永禄六年説もある)ので、
仮にこの戦いが実際に行われて半蔵が活躍したとしても、落城には至っておらず、ま
た家康の命で働いてはいないことになる。
さらに記すと、家康(当時は松平元康)は永禄三年二月、戸田三郎四郎と牧野伝蔵を
近江に派遣、多羅尾光俊等甲賀二十一家の衆二百名を集めたという。ただし、これは
今川方に属していた家康の戦闘要員としてである。そしてこれら甲賀衆は、桶狭間の
戦いで今川義元が討たれた後も鳴海城の岡部美濃守長教の手に属し、水野藤十郎
(藤九郎とも)信近を刈谷城に攻め、門に放火するなどして奮戦、遂に信近の首を挙げ
ている。
さて今川家から独立した永禄五年三月、家康は松井左近忠次(松平康親)を大将に命
じて今川方鵜殿長持の拠る上郷城を攻撃させた。忠次は城の北西名取山に陣を敷い
て攻めようとするが、守りは堅くなかなか攻めきれない。そこで、忠次もまた家臣の勧
めで甲賀から伴与七郎資定ら八十余名を招き、これら忍びの者を使って放火攪乱させ
るという夜襲をかけ、ついに城を落としたとされている。しかし、服部半蔵の名はこの記
録にも見られない。
城主長持は城の北にある護摩堂を目指して敗走中に、伴資定に追い付かれて突き伏
せられ、首を取られたという。また、子の藤太郎長照・藤三郎長忠兄弟は伴伯耆守資
継に生け捕られ(鵜飼孫六説もある)、駿府に人質となっていた家康の妻子との交換が
行われることはよく知られている。しかし、落城日時にも異説があり、城主を長照とする
ものもあって、現時点でははっきりと断定することはできない。
126: 04/09/30 05:56:53 AAS
>>125
思いっきり傭兵部隊って感じですね……
127
(1): 04/09/30 14:57:49 AAS
>>124
義尚の死因は肝炎とされている。
甲賀衆の襲撃により負傷したのは確かなようだが。
128
(1): 04/09/30 16:04:48 AAS
>>127
別に甲賀衆だけで幕府軍を叩いたわけじゃないよね?
129
(1): 04/09/30 16:25:55 AAS
>>128
六角軍の先鋒として夜襲仕掛けたんだろ?
その時に足利義尚を負傷させ、近江から幕府軍を撤退させたわけだが、
その後、甲賀の連中がその武勇伝を喧伝しまくったことで話がデカく
なっていったと。
130: 04/10/01 11:33:33 AAS
>>129
六角氏に軍事力を提供することで、自治を認められていたから、
従軍したのは約定通りってことだからね。
131
(1): 04/10/01 11:47:34 AAS
義尚って手淫に浸って早死にしたんじゃなかったか?
132: 04/10/01 12:23:17 AAS
>>131
何か2ch的な将軍様でつね・・
133
(2): 04/10/01 13:23:38 AAS
外部リンク[html]:okhome.fc2web.com
>坂本に義尚が着陣すると、六角高頼は対決を避け逃亡。このため義尚は、
>翌十月に陣を鈎(まがり)の安養寺に移し、甲賀郡に攻め込む。
>もはや、「この一帯には将軍の敵は全くいない状況」とまで記録されている
>が、青年将軍は今度は下鈎の真宝館に陣を移し、ここに御所を建造して長
>期戦に備える体制をとる。
>本当は京に戻りたくなかったのでは。父親の大御所義政やうるさい母親日
>野富子のいない新天地で幕府の運営と権力の一元化に取り組みたかった
>のが真意ではないか。事実上の鈎幕府である。
>しかし、その義尚も小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ、不規則な生
>活がもとで体調を崩し、その志は挫折、短い生涯をここで終える。推測だが、
>「夜幕府」は、将軍権力のこれ以上の強化を望まず、妻帯もしないで奇行の
>多い細川政元が仕掛けた「罠」であったのかもしれない。
>長享三年(1489年)三月晦日、将軍義尚の遺体は管領細川政元や母日野
>冨子に護られ京に帰還、さながら凱旋将軍のような隊列であったと記録され
>ている。泣き崩れる富子が側に寄り添っていなければの話だが。
134
(1): 04/10/01 17:26:16 AAS
>>133
>小姓達との酒色、「夜幕府」に取り込まれ

凄い表現ですね(w
135
(1): 04/10/01 19:22:52 AAS
>>134
将軍って男色家多いねw
136: 04/10/02 03:53:42 AAS
>>135
女どもに囲まれてると「そっち」に行っちゃうんじゃないの?
137
(1): 04/10/02 04:01:20 AAS
>>133
といっても近江・六角氏攻めは義稙も継承したよね。
138: 04/10/02 13:00:00 AAS
>>137
結局果たせなかったけどな
139
(2): 04/10/03 02:17:11 AAS
信長が六角を攻める段階になったら早々に屈服したのにな。
まあ、中には水面下で反抗してた香具師もいるわけだが。
140: 04/10/03 07:36:39 AAS
>>139
善住坊だっけ?
141
(1): 04/10/03 11:25:50 AAS
>>139
六角承禎は、近江を追われた後も甲賀衆を使ってチマチマと信長に抵抗してたよね。
善住坊もその1人でしょ。
142
(1): 04/10/03 11:32:53 AAS
>>141
狙撃の名人?のくせにかなりの至近距離から外したって香具師だろ?
143: 04/10/03 11:53:40 AAS
>>142
最後は鋸引きであぼーんですな
144: 04/10/03 12:52:00 AAS
すいません、仁木氏の話はどうなったんでしょ?
145
(3): 04/10/03 13:42:36 AAS
あの頃の火縄銃って狙撃できるほどの精度があったのか?
146: 04/10/03 14:01:42 AAS
>>145
伝えられているところで考えるしかないわなw
まあ、鉄砲で撃ったのは事実じゃないの?
147
(1): 04/10/03 14:56:47 AAS
>>145
じゃあ、弓矢にしておくか?(w
148
(1): 04/10/03 17:57:05 AAS
>>147
信長の伊勢侵攻の際には、伊賀衆が敗走する織田軍を弓矢攻撃で苦しめたよね
149
(2): 04/10/04 07:38:47 AAS
>>148
といってそれが世の伊賀忍者を彷彿とさせるものかと言えば
そうではない。
弓矢を武器にしたゲリラ戦なら他の国人衆でもやってる。
150: 04/10/04 09:24:36 AAS
>>149
ですから・・・・(ry
151
(1): 04/10/04 10:01:34 AAS
忍者なんて都市伝説ですよ
152
(1): 04/10/04 14:09:15 AAS
>>151
『萬川集海』以来じゃないの?
153: 04/10/04 17:11:34 AAS
いきなりマジレスですか、そうですか。
154: 04/10/04 17:20:22 AAS
>>152
もうちょっと引っ張れや・・・w
155: 04/10/05 00:27:10 AA×

156
(1): 04/10/05 02:13:01 AAS
>>116
旗本・仁木(甚五兵衛)家の本国は伊勢なんだよね、伊賀じゃなくて。
157: 04/10/05 09:52:30 AAS
>>156
榊原家から「起こした」んでしょ?経緯的に。
158
(1): [age] 04/10/05 12:28:10 AAS
ホント、謎が多いって言うか・・・
まあ、それだけ没落状態にあったわけで、これが普通なのかな
159: 04/10/05 14:37:35 AAS
>>158
だから語り甲斐があるというもの。
160
(2): 04/10/06 01:03:06 AAS
>>149
特技は「道案内」です。
161: 04/10/06 05:42:29 AAS
>>160
その「道案内」であぼーんした香具師もいるわけですが?
162
(2): 04/10/06 05:46:36 AAS
地獄への道案内です
163: 04/10/06 06:23:36 AAS
>>162
ワロタ!!!
164: 04/10/06 07:22:34 AAS
>>162
自分が地獄に堕ちてどうする!(w
165
(2): 04/10/06 09:41:06 AAS
伊賀ではみょ〜に竹槍戦法が炸裂しますよね。
166
(2): 04/10/06 19:36:38 AAS
山が深いから歩兵の接近戦が一番使えたんだろうな
167
(1): 04/10/08 11:17:46 AAS
>>165-166
出会い頭の竹槍は避けられないだろ。
168
(1): 04/10/08 12:13:03 AAS
>>165-167
本土決戦の主力兵器でしたからね...>竹槍
169: 04/10/08 13:14:21 AAS
>>168
ワロタ!!!
170
(3): 04/10/08 13:46:09 AAS
F4ファントムでさえ落としたらしいしな>竹槍
171: 04/10/08 14:28:04 AAS
>>170
What???
172
(1): 04/10/08 17:23:40 AAS
>>170
さすがは忍び……侮れませんねw
173
(1): 04/10/09 00:56:06 AAS
>>172
忍びじゃねえっての。ただのお百姓さんだっての。
174: 04/10/09 06:34:08 AAS
>>170
ぷぷぷ・・・
175: [age] 04/10/09 13:51:35 AAS
>>173
それ、正しいと思います。
176
(1): 04/10/09 14:08:20 AAS
ネタねぇなぁ
177: 04/10/09 16:45:53 AAS
>>176
無いなら探しましょう。
178: 04/10/09 19:19:39 AAS
>>200くらいまではジ〜ッと我慢。
いつか春は来るだろう。
179: 04/10/10 05:29:11 AAS
>>160
惣国一揆と言っても、織田があまりにも強大になりすぎたよね。
そもそも国内的に一枚岩ではなかったのかも知れないけど……
しかし、早々に織田に屈服した甲賀の郡中惣との決定的な差は何だったんだろ?
180
(1): 04/10/10 07:15:43 AAS
>>145
雑賀の佐武伊賀守は狙撃のために敵を10間まで引き付けたのだよ。
20間で外した杉谷はまあしょうがないな。
181
(2): [age] 04/10/10 08:23:52 AAS
>>180
技量に自信があったのか?、それともそれ以上は近づけなかったのか?
182
(1): 04/10/10 14:08:14 AAS
>>181
待ち伏せしてたわけでしょ?
ってことは、狙ったけど外しちゃった・・・_| ̄|○

ということでは?
183
(1): 04/10/10 14:15:03 AA×

184: 04/10/10 20:16:45 AAS
>>183
ワロタ!!!
185
(1): 04/10/10 22:51:51 AAS
>>181
>>182
待ち伏せだから、都合の良い大木とかが近くになかったんじゃ。
186
(2): 04/10/11 00:50:29 AAS
天正伊賀の乱の時に行われた、筒井順慶の首揃えは悲惨だったらしい。
あと伊賀攻めの織田軍は4万といわれてるが、1万弱だったという説も。
概して弱かったのかも知れない
187: 04/10/11 12:32:51 AAS
>>185
六角承禎様がビンちゃんっぽく感じるのは俺だけ?
188: 04/10/11 16:49:02 AAS
>>186
どこから出てきたの?1万弱説は。
189
(1): 04/10/11 16:56:23 AAS
>>186
既に組織力は弱まってたでしょ?内部から切り崩していたし。
190: 04/10/11 17:02:42 AAS
ニンニン
191
(1): [age] 04/10/11 17:21:28 AAS
>>189
道案内を買って出たり、あるいは信長軍に与したり、対応は決して一枚岩じゃなかったからな。
第一次天正伊賀の乱の時とは状況があまりにも異なっていたのは事実。
192: 04/10/11 22:03:06 AAS
>>191
信長軍の伊勢侵攻の段階から実は始まっていたんじゃない?
193
(1): 04/10/11 22:45:25 AAS
その頃は北畠派、仁木派国人衆の取り込みでは?
194: 04/10/12 10:16:11 AAS
>>193
外的に備えての挙国一致ではあるけど、内部も4派以上に分かれていたからね。
そのうち1派でも取り込めれば、切り崩しはそれ程困難なことでもなかったんじゃない?
195
(1): 04/10/12 10:27:03 AAS
北畠派、六角派は表向きアンチだったしな。
196: 04/10/12 10:49:53 AAS
>>195
だから滝川一益は最初に仁木派を取り込んだんでしょ?
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