[過去ログ] 【地侍】伊賀・甲賀衆を語ろう U【郷士】 (990レス)
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(2): 04/09/11 16:54:17 AAS
前スレの伊賀衆に加えて、このスレでは甲賀衆まで範囲を拡大します。
なお、近江国の国人衆、さらには周辺勢力についても語って良いことに
します。

●前スレ●
【森田】伊賀国人衆を語ろう【浄雲】
2chスレ:warhis
2: 04/09/11 16:59:26 AAS
前スレよりコピペ

14 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 17:14
上忍家とされる服部、百地、藤林氏も結局のところは土豪(地侍)だしね。
上忍と下忍たちの関係は地主と小作人のようなもので、この下忍たちが能力
を買われて各地の大名家に雇われる構造になっていわけでしょ。

15 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 17:17
百地三大夫って本当にいたの?

>>14
雇われてたっけ?

16 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/02 17:28
>>15
史実上には「三太夫」の名前は見られないらしいね
外部リンク[html]:www.igabito.jp
3: 04/09/11 17:01:26 AAS
25 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/03 04:13
>>23
応仁の乱の段階での伊賀国守護は仁木氏。
しかし、その支配力はごく限られたものに過ぎず、応仁の乱以降は国人衆が仁木派、
六角派、北畠派、独立派に分かれて割拠する状態が続いていた。

26 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/03 05:51
そもそも平安〜鎌倉期には、伊賀はその大半が東大寺などの荘園によって占めら
れており、守護・地頭などの支配が及ぶ地域はごく僅かだった。
したがって伊賀の地侍たちは中央政権の支配を受けず、鎌倉期以後は「悪党」とし
てこれらの荘園を侵略していったため、国内には多数の独立勢力が割拠する状態
となっていた。
戦国期には守護・仁木氏を追ったものの、伊賀1国を支配する勢力が現れることは
なく、それぞれの一族が一党を形成し、党同士による自治組織「伊賀惣国一揆」が
構成され、惣国一揆衆の中から「伊賀十二人衆」と呼ばれる評定衆が選ばれ、国
政を担うことになった。
4: 04/09/11 17:03:01 AAS
51 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/04 23:36
浄雲さんの甲冑・・・何かシンプルだな・・・
画像リンク

5: 04/09/11 17:05:12 AAS
70 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 02:51
伊賀の国人の大半は普通に単なる地侍。
修験の盛んな土地柄故にそういった連中とつながりのあるのも一部いた。
そこで全国を行脚する修験者たちが持ち帰る情報を流してもらったり
また彼らの知識を習い覚えたりしている者もいた。
ま、その程度なんだな。
別に忍術を使ったとか忍者だったというわけじゃあない。
「忍術」なんてのはほとんどが江戸時代にもっともらしく創作されたものだよ。

72 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:26
雑賀衆みたいに傭兵活動してたんじゃないの?
雑賀衆というと鉄砲みたいに思われがちだけど、それ以前から「槍働き」
を以って各地で活躍したらしい。
伊賀や甲賀も方々出向いて金を稼いでいたんじゃない?
戦国時代に自治を守ろうとすれば、そうやって自分たちの力を
広めておくのはかなりいい方法だと思うんだけど。
ただ雑賀みたいに船でどこでも行くというわけにはいかないから、
少人数で情報収集とか放火をやったんでしょう。
伊賀甲賀の連中は放火や夜襲が得意だったようだから。
もっとも、こういう連中は北条の風魔党(風間党)みたいに
あちこちの野武士連中がやっていたようだけど。
6: 04/09/11 17:08:28 AA×

7
(1): 04/09/11 17:12:04 AAS
73 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:38
>>70
藤林長門の子孫、藤林保武が編纂した『萬川集海』に収録されている楯岡道順の
話なんかも創作でいいのか?

74 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 03:48
万川集海は自称1676年の執筆だけど、現存するのは
1789年に幕府に献上されたものだからなあ・・・
いずれにしろ一次史料と呼ぶには新しすぎるんだよな・・・

80 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/08 04:30
>>73
正しくは伊賀崎孫兵太兵衛といい、号を道順。出生の地・阿山郡楯岡に因んで「楯岡の
道順」と呼ばれていたようだが、彼の名は菊岡如幻の『伊乱記』、さらには『伊賀国司系
図並侍附帳』(天正10年成立、延宝4年写本)にもその名が登場している。
道順は六角承禎の要請により、伊賀出身の忍び44名、甲賀出身の忍び4名を率いて佐
和山城に潜入し、火を放って六角軍の攻撃を容易ならしめたと言われている。
まあ、このスレ的には創作ということになるんだろうが。
8
(1): 04/09/11 17:16:39 AAS
まずは朽木ネタから……
9: どこまでも名無しさん 04/09/11 17:39:42 AAS
伊賀忍茶
10
(1): 04/09/11 18:15:23 AAS
結 論 : 忍 者 な ど い な か っ た
11: 04/09/11 22:17:27 AAS
>>7
道順は誰かの家来だったの?
12: 04/09/11 23:04:44 AAS
>>10
彼らも自分たちの事を忍者だと思っていなかっただろう。
ここで不思議なのが、上忍・中忍・下忍という家柄分け。
忍者・忍術は江戸時代のことなのに?
便宜上の分類?わかる人教えて
13: 04/09/11 23:24:08 AAS
そもそも万川集海より以前に用いられた分類かどうかというのが
問題なんじゃないかな。
14
(2): 04/09/12 00:42:53 AAS
何かスレタイが全てを語ってますよねw
15
(1): 04/09/12 00:48:00 AAS
鈎の陣だって夜陰に紛れての奇襲攻撃だし、信長の伊勢侵攻の際にゲリラ戦で
翻弄したのも弓矢での攻撃だしな…

忍術なんて使ってない…
16: 04/09/12 00:50:42 AAS
これについてどう思う?
俺は眉唾だと思うけど。

2chスレ:warhis

953 :無名武将@お腹せっぷく :04/08/29 23:13
>>951

外部リンク[html]:www.alpha-japan.co.jp
>室町幕府末期、伊賀忍者「百地 三大夫」の末裔成り!!

なんて書いてありますね。
17: 04/09/12 00:56:42 AAS
>>14
ただの地侍集団。
18
(2): 04/09/12 01:11:27 AAS
>>8
そもそも朽木ネタってどこから出てきたんだ???
19
(1): 04/09/12 01:52:04 AAS
足利総合じゃないの?
にしても、>>1偉そうだな。
20
(1): 04/09/12 02:56:57 AAS
>>18
確か足利将軍の避難所ネタから。
21: 04/09/12 03:14:18 AAS
>>18-20
実は前スレの1000レスのうち200強は朽木関連だったと。
しかし、朽木スレが立つには至らなかったけど。
22: 04/09/12 17:41:32 AAS
【森田】伊賀国人衆を語ろう【浄雲】
2chスレ:warhis

206 :無名武将@お腹せっぷく :04/02/13 19:15
将軍用避難シェルターとしては、甲賀伊賀と朽木ではどちらの方が
信頼度が高いのだろう。

全てはここから始まった…
23
(2): 04/09/12 17:52:35 AAS
やっぱ朽木谷だべさ。
甲賀は・・・・
24: 04/09/12 19:40:18 AAS
>>23
甲賀は六角氏との関係があるからね。
25
(5): 04/09/12 19:46:48 AAS
三河松平家に何故か居た伊賀の名族の当主服部半蔵の父親だか祖父だかは
足利将軍に付き添って諸国を流れてたってホントなの。
26: 04/09/12 19:55:37 AAS
あのころの将軍家はみんな各地を放浪していたようなものだし…。
27: 25 04/09/12 20:13:40 AAS
将軍の事は知ってるけどさ(流れ公方なんてのもいましたね)
オレが知りたいのはハットリくんの方だからそちらを教えて。
28: 04/09/12 21:19:50 AAS
>>25
伊賀忍者の家系ってのがそもそも詐称。
29
(1): 04/09/12 22:26:43 AAS
>>25
半三保長のことか?
30
(1): 04/09/13 02:47:33 AAS
>>29
半三って服部党を率いて足利義晴に仕官しようとしたよな?
ところが一党を養うだけの所領など足利家にはなく、結局、破談になったはず。
それをスカウトしたのが松平清康・・・とかそんな流れじゃなかったか?
31: 04/09/13 05:30:55 AAS
>>30
そして、義晴は朽木谷の避難シェルターへ...
32
(1): 25 04/09/13 10:35:51 AAS
サンクス
何で伊賀の服部家が三河の松平家に仕えてたのか知らなかったが
そういう事だったのか。
あの時代の人間ってもっと視野や世界観が狭いと思ってたけど
清康が上方の服部党をスカウトしたり半三が東国の三河に臣従したりして
意外と列島規模の移動って多かったのかな。
33: 25 04/09/13 10:41:34 AAS
東国の三河に臣従したりして は
東国の三河に移って臣従したりして に訂正します。
34
(2): 04/09/13 14:25:47 AAS
もともと保長が将軍家に仕えたというのも箔をつけるための創作だよ。
35
(1): 04/09/15 00:39:14 AAS
>>34
なるほど。まあ、あの当時の将軍家ならど〜にでも脚色できそう。
ちなみに「あれは創作ですよw」としている学者さん、研究者さんってどんな人?
36: 04/09/15 05:45:49 AAS
>>35
それ以前に「保長が義晴に仕えた」という説はどの資料に登場するんだ?
と考えた方が良いと思うが?
37: 04/09/15 15:48:03 AAS
>>34
いつの時点での箔付けなんだ???
38: 04/09/15 16:44:30 AAS
>>32
清康が何の理由で保長たちを臣下に加えたかだよな
当時の松平家に伊賀衆を100人単位で召抱えるなんて余裕があったとは思えんし…
かなり高価な買い物だったはず
39
(1): 04/09/15 17:50:40 AAS
忍者としてというより武芸に優れた兵法者として雇われた面が大きいんじゃない。
40
(1): 04/09/15 22:06:25 AAS
>>39
そんなことを言い出したら当時の日本にどれだけ「武芸に優れた兵法者」が
いたことやら・・・
41
(1): 04/09/16 00:21:29 AAS
>>40
例えば武田家だと武芸自慢の流れ者を牢人衆として雇って一部隊を
編成し、牢人の中から特に優れた者を選りすぐって指揮させていた。
42
(2): 04/09/16 03:25:12 AAS
>>41
それが伊賀・甲賀衆とどのような関連が・・・?
43: 04/09/16 08:32:40 AAS
>>42
武田と同じような方法で伊賀衆、甲賀衆が召し抱えられたってことだろ
44: 04/09/16 09:45:27 AAS
>>42
現代文成績悪かっただろ?
45
(1): 04/09/16 12:38:33 AAS
ただそれだと、伊賀とか甲賀とか関係ないような・・・?
服部のオヤジは本当に手下引き連れて従ったんかい?
どこの家でも武勇自慢で仕えて出世して武将になった奴ってのは
いるもんだが・・・・
46: 04/09/16 14:42:52 AAS
>>45
確かにそういう疑問にぶち当たるわな
47
(1): 04/09/16 19:44:45 AAS
伊賀に三つしかない上忍の家の当主なんてのは嘘っぱちで、単なる土豪。
伊賀にいつまでいたってうだつ上がらないだけだから
単身伊賀を出て士官を探し、最終的に松平家に落ち着いた。
そこで優れた武勇を発揮して勲功を重ねて出世し、一軍を
まかされるほどに至った――という程度なら、戦国時代には
結構いるかもね。
実際のところはどうなんだろう?
48
(1): 04/09/16 21:39:12 AAS
>>47
一応、子分たちがいたんだろ?浄閑入道には
49: 04/09/16 23:31:41 AAS
>>48
浄閑入道?
50: 04/09/17 00:15:47 AAS
服部保長のことでしょ。
武田家の今福浄閑という可能性もあるが。
51
(1): 04/09/17 00:20:17 AAS
そもそも伊賀でそれなりの支配地を持って部下もそれなりに
いたようなのが、なんで伊賀を離れて一族郎党で流浪せにゃ
ならんかったんやろね。
52: 04/09/17 12:57:32 AAS
>>51
小なりと言えど城持ちじゃなかったか?
53
(2): 04/09/17 19:38:00 AAS
でも長年に亘って故郷をお留守にしてたワリには
伊賀越えでは土豪達に対して結構な影響力を持ってた様な(倅が)。
マルっきりの雑魚の家柄ではああいう芸当は不可能では。
少なくとも武田信玄の北信侵攻時に
現地土豪の間で真田幸隆が持たれてた程度の信頼と同胞意識がなくては無理。
54
(1): 04/09/17 20:45:00 AAS
>>53
実際に活躍したのは柘植党だったという説もある。
55
(1): 04/09/18 00:42:27 AAS
>>54
この後で伊賀に居づらくなって三河に逃れるんだよね?
56
(1): 04/09/18 00:50:32 AAS
>>53
信長にボロボロにされた後の伊賀なら、ちょっとでもコネのある奴が
有名大名に恩売れるチャンスを手引きしてくれる状況なら
まず動くかと。
57: 04/09/18 03:39:00 AAS
あれかぁ
伊賀者ってホッペタにナル(ry
ニンニン
58: 04/09/18 03:44:38 AAS
その通りだが、みんな知ってることを何を今さら・・・?
59: 04/09/18 14:36:43 AAS
>>56
信長の死後にも第三次天正伊賀の乱を起こしてるし、多少の戦闘力は残っていた
ようだな。
60
(1): 04/09/18 14:50:12 AAS
>>55
鉄砲足軽の組頭か何かになったよな
61
(1): ( ’ ⊇’)裸眼ちゃん [安室ちゃん貶したらぼこりオールw。] 04/09/18 15:38:18 AAS
。。
62: 04/09/18 22:08:34 AAS
>>61
何これ?
63
(1): 04/09/19 01:43:36 AAS
>>60
前スレで一瞬話題になってたな>柘植党
64: 04/09/20 03:25:56 AAS
>>63
ログっておきます。
65
(2): 04/09/20 05:10:28 AAS
家康の伊賀越えでは、服部半蔵が活躍したことになっているが、実際、一行に協力した
のは福地宗隆の孫・與次郎忠安や三之丞(清広)などで、三之丞は一党を率いて一行
を信楽から伊勢白子まで誘導したとか。
しかし、柘植一族は鹿伏兎一族とそれほど関係が良くなかったため、最大の難所・加太
越えでは米地九左衛門が代役を務めたらしい。
66
(1): 04/09/21 02:39:04 AAS
>>65
柘植三之丞って天正伊賀の乱で討ち死にした柘植某とはどういう関係に
あるのかな?
67
(1): [age] 04/09/21 02:54:31 AAS
>>66
柘植三郎左衛門尉のことか?
ちなみに前スレには
2chスレ:warhis

464 :無名武将@お腹せっぷく :04/04/05 13:37
天正伊賀の乱(第一次)で織田信雄軍に内通した名張郡の土豪、下山甲斐守の最期
はかなり悲惨だな。
信雄は天正7年9月に甲斐守の進言を受けて南部の名張口、北部の馬野口から伊賀
に侵攻したが、地の利を知り尽くした伊賀国人衆に撃破されてしまう。
激怒した信雄は甲斐守が罠に嵌めたと判断し、甲斐守を捕縛して退却するよう指示を
出し、長野左京亮が甲斐守を捕縛して退いた。
このため名張口では甲斐守を奪回しようとする国人衆の追撃を受け、殿の澤源但馬、
秋山右近将監がこれを撃退した。
また、馬野口の殿も追撃を受けながら、日置大膳亮、柘植三郎左衛門尉が防戦にあ
たったが、三郎左衛門尉は酒気のため思うように動けず?鬼瘤の難所で討死してし
まう。
信雄は捕縛した甲斐守を監禁すると共に、秋山右近将監は家臣上津江新坊を「甲斐
守の女婿である」という理由で殺害している。
甲斐守は獄中で一切食を取らず、監禁から28日を経過してなお死なずにいたが、つ
いに自ら舌を噛み切って死んだという。

とある。ちょっと情けない死に方だね。
68
(2): 04/09/21 06:01:42 AAS
外部リンク[html]:www.www2.harimaya.com
柘植氏
左三つ巴/丸に二つ引両
(桓武平氏高棟流/貞盛流?)
伊賀国阿拝郡柘植郷より起こった。『江戸系図』また『柘植系図』には、平高棟
の後裔宗清が伊賀国に赴き、柘植の地名をもって名字となしたとある。
『尊卑分脈』をみれば、宗清は平信実の子で右京大夫に任じられ、その子に宗
俊の名はみえない。また年代的にも少し無理があるようである。また、『尊卑分
脈』の貞盛流の裔に宗清の名がみえる。右兵衛尉に任じられ、平家の家人で
あった。こちらの方が、柘植氏の祖として年代的、状況的にうなずけるところが
多いのではないか。
『古代氏族系譜集成』に収められた服部連系図のところに、柘植氏の系図があ
る。これには、平貞盛の後裔で右兵衛季宗の子で、平頼盛の家人であった宗
清が、祖にあたるとみえる。そして、宗清には宗俊・清春・俊忠の三子があり、
宗俊が宗家となり、清春は福地を、俊忠は北村を名乗り、それぞれその祖とな
ったとある。しかし、前記『尊卑分脈』にみえる宗清の子は家清だけである。こ
れは、宗清が世を隠れてからもうけた子がさきの三人ということなのだろうか。
いずれにしても、平家落人の一人として伊賀の山中に潜んだものが、柘植氏
の先祖になるものであろう。宗清にからんで、以下のような言い伝えが『寛政
重修諸家譜』に記されている。
伊賀に隠れ住む宗清のもとへ、源頼朝から誘いの手がのびて、養老の地とし
てそこも与えようという。そこで「宗清戯れに柘植の一枝を新地にさし、もしこの
枝葉繁茂せば草庵をこの地にかまうべしといえり。翌年、柘植の一枝大いに
繁茂して花開けり。宗清奇なりとし、これより柘植をもって家号とす」と。
69: 68 04/09/21 06:04:29 AAS
●戦乱の時代を生きる
大永年間、将軍義稙は、仁木兵部少輔をして伊賀守護とした。このとき、柘
植一族は仁木氏に従わず、しばしば合戦におよび宗家は兵部少輔を射て、
仁木軍を敗走させている。その後、兵部少輔の子某が更めて柘植と戦ったが、
宗家と子の宗能はふたたび仁木軍を討ち破っている。宗家と宗能を兄するも
のもあるが、年代的にみて父子とする方が妥当と思われる。その後、宗家は
遠江国に至って死んだと伝えられる。
天正七年九月、織田信長による第一次伊賀征伐のとき、信長の三男信雄の
軍勢が阿波口・鬼瘤口・伊勢地口の三道から伊賀に攻め込んだ。この戦いは
織田軍の敗北で終わるのだが、鬼瘤口の大将として柘植三郎左衛門の名が
みえている。三郎左衛門は伊賀出身ながら北畠氏に仕えていたもので、北畠
没落後信雄に仕えて伊賀征伐には信雄に属して出陣したようだ。しかし鬼瘤
口も敗北し、三郎左衛門も討死した。この敗戦に怒った信長は、天正九年九
月四万四千の大軍をもって再び伊賀に攻め込んだ。このとき、上柘植の福地
伊予をはじめ、柘植近在の郷士が案内人となっている。この征伐によって、伊
賀国はまったく独立性を失い、また多くの郷士が討死した。この合戦における
柘植氏の動向はさきの案内人をつとめたこと以外に、どのように行動したのか
は詳らかではない。
天正十年(1582)六月、織田信長が明智光秀の謀叛によって京都の本能寺
で世を去った。このとき、信長に招かれて上方にあった徳川家康は、身をもっ
て三河へ逃れることになる。その逃避行の道にあたったのが伊賀の山中であ
った。その案内役を柘植清広がつとめた。これが機縁となって徳川氏に仕え、
のち関ヶ原の戦いにも参加。柘植氏は徳川氏旗本として世にでることになった。
庶流として数家の柘植氏があった。家紋はいずれも、「左三つ巴」「丸に二つ
引両」を用いた。
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