[過去ログ] 第2回2ちゃんねる全板人気トーナメント宣伝スレ-013 (577レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) レス栞 あぼーん
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
3: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:15:41 ID:5C7T0sDt(1/16)調 AA×
4: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:16:59 ID:5C7T0sDt(2/16)調 AAS
「ハンカチが四角い理由?」
ハンカチ。見たことがないという人はまずいないでしょう。
何故か四角いハンカチ。丸や三角でもいいのに、何故?と思ったことはないでしょうか?
実は、その謎にはマリー・アントワネットが関係しています。
昔のハンカチは、丸や三角をはじめとして色々な形がありました。
ところが、それを嫌がったのがマリー・アントワネット。
「ハンカチの形は正方形じゃなきゃ嫌なの!」と、夫のルイ16世に訴え、
1785年「フランス国内におけるハンカチは全て縦横同じ寸法のものに」という法令が出されたのです。
それ以来フランスのハンカチは正方形になり、他国にもそれが広まりました。
その伝統(?)は今日でもしっかりと続いている、というわけです。
絶対権力ってすごいですよね。
5: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:18:31 ID:5C7T0sDt(3/16)調 AAS
中世の裁判の話。
現在の社会では動物のような責任能力がないとみなされた存在が刑法上の罪に
問われることはありませんが、中世ヨーロッパではそうではありませんでした。
だから「犯罪」を引き起こした動物は、通常の訴訟手続きを踏まれた上で、
刑法によって罰せられたのです。例えばフランスの古法では、動物が人を殺した場合、
飼い主がその動物の危険な性質を知っていたならば飼い主と動物の双方を死刑にし、
飼い主が知らないか、飼い主がいない場合には、その動物のみを死刑にする、という規定があったそうです。
実際、フランスのヴァロアというところでは1314年に、人を突き殺した牛が被告として公訴され、
通常の裁判手続きをすべて踏んだ上で絞首刑に処されましたし、
ブルゴーニュ地方などでも子供を食い殺した豚が、法廷での審問の後、絞首刑になりました。
1584年にヴァランスで毛虫が大発生したときなどは、毛虫達は不当にも盛んに家宅侵入を行い、
人々の生活と安眠を妨げたので、村民の苦痛を見かねた牧師が毛虫追放の訴訟を起こし、
法廷弁論の上で、被告である毛虫の追放処分が宣告されました。
だが被告達はなかなか裁判所の命令に服従しようとせず、そのうち残らず蝶となって飛び去ってしまったとか。
裁判は裁判でも…なんというか…変な裁判ですよね。
6: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:19:37 ID:5C7T0sDt(4/16)調 AA×
8: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:27:33 ID:5C7T0sDt(5/16)調 AAS
世界史板より、一風変わった脱獄話をお届けしましょう。
国際法の父と呼ばれるオランダのフーゴー・グロティウスは早くも11歳で大学に入り、
15歳の時にはすでに学会から一流と認められる学者となっていた早熟の超天才ですが、
グロティウスについて語るときには、勇敢で知略にも富んだ彼の奥さんのことを外すわけにはいきません。
成人してのち、単なる学者としてだけではなく政治家としても活躍するようになったグロティウスは、
オランダ国内における政治と宗教が複雑にからんだ派閥争いに巻き込まれ、
体制派から、ある要塞に監禁されてしまいました。
両派の政争は厳しくこのままではいつ出られるかわかりません。
9: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:28:04 ID:5C7T0sDt(6/16)調 AAS
さて、入獄中の彼はいつも洗濯物を大きな箱に入れて街に出していましたが、
これが度重なるごとに看守達がわざわざ箱を開けての点検をさぼるように
なってきたのをみたグロティウスの妻は機転をきかせ、夫に面会に行った日、
小さな空気穴をあけたこの箱の中に夫を入れ、外に運び出してしまいました。
グロティウスは変装してアントワープに逃れましたが、看守を欺くため
獄中に残っていた妻は脱出が成功したと見ると看守に一切を打ち明けました。
当然彼女も起訴されかかり、一時は投獄されそうになったのですが、
結局は釈放され、むしろ世人の称賛の的になったといいます。
すごい奥さんですねー。夫婦愛の賜物でしょうか。
12: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:28:54 ID:5C7T0sDt(7/16)調 AAS
次も奥さんのお話。
こちらはナポレオンの妻ですが。
大ナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌ。浮気者だったとか、
○○がチーズ臭かったとか、なんかさんざんの言われようですが、
園芸の世界で彼女のことを悪く言う人はあまりいないと思います。
彼女は大の花愛好家で、植物学にも深い興味を持っていたため、
ナポレオンとの離婚後も住んでいたマルメゾンの館のイギリス風庭園には、
大金を出して捜索させた世界の珍しい花々が植えられ、
バラだけでも当時知られていたあらゆる種類が集められていました。
また彼女の手によって最初のバラの展示会も開かれ、その結果、
この地でローマ時代以後初めてバラが蘇ったとさえいわれました。
彼女のバラ園は現在でも政府によって一部が保存されています。
22: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:43:48 ID:5C7T0sDt(8/16)調 AAS
時間一杯まで支援を続けましょう。
船の戦いのお話です。
大砲登場以前の昔の海戦では、
艦首の喫水線下に設けられた衝角で相手の船に衝突して船体に穴をあける、
というのが戦術の基本でした。
ところがこの戦術、実は砲撃戦が当たり前だった第一次大戦でも使われたんです。
この大戦中にドイツは計14隻のUボート(潜水艦)を
英国の水上艦船の衝角戦術(衝突戦術)によって失っているんですね。
というのは、大戦初期における水上艦艇による対潜水艦戦のありようは
(1)Uボート発見後、水上を航走しているなら砲撃によってこれを攻撃し、
(2)潜行途中なら衝突によってこれを撃沈する、というものだったのです。
当時の軍艦にはまだ衝角が残ってたり、船首が衝突に耐えられるように
頑強に造られたものが多かったことがこの戦術を可能にしていました。
24: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:44:12 ID:5C7T0sDt(9/16)調 AAS
実際、第一次大戦におけるUボートの最初の喪失は、
英海軍軽巡洋艦バーミンガムの衝角戦術によるU15の撃沈でしたし、
1914年9月22日に連続して三隻の装甲巡洋艦を撃沈した
オットー・ウェディゲン大尉のU9をしとめたのも戦艦ドレッドノートの衝角戦術によるものでした。
大戦も後期になると水上艦艇の爆雷による戦果が出始めますが
大戦中の対Uボート戦をトータルで見てみると、
この衝角戦術による14隻撃沈という戦果は、固定機雷による46隻、
爆雷投下(曳航爆雷を除く)による43隻、潜水艦同士の対決による19隻、
砲撃による16隻に次ぐ成績で、長い歴史を持つ衝角戦術はこの大戦において、
主力戦術としての最後の栄光を飾ったのでした。
28: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:48:51 ID:5C7T0sDt(10/16)調 AAS
猿。
今は肉を食べるとはあまり想像しませんが、昔は違ったようです。
陶芸家・書家・そして稀代のグルメとして知られる北大路魯山人
(「美味しんぼ」の海原雄山のモデルになった人)によると、
少なくとも明治二十年代の京都では、割と普通に猿の肉を売っていたらしいんです。
当時の京都では猪に比べて豚はまだあまり食べられておらず、
京都人は豚よりもむしろ猿を喰っていたと彼は述べています。
魯山人自身も、時々猿を食べたそうで、
「その肉はちょうどかつおの身のように透き通ったきれいな肉であった。
感じから言えば兎の肉に似ているが、当時の印象では、これも脂がなくて、
そううまいものではなかった。しかし兎の肉よりは美味かった」
という感想をもらしています
29: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:49:15 ID:5C7T0sDt(11/16)調 AAS
実は日本における猿肉食の伝統は意外と深いのです。
東北地方や北陸地方では昔から、漢方薬や民間薬として尊ばれて良い値がついた
「黒焼き」用の猿の頭や、同じく薬用の「胃」目当てにさかんに猿が捕獲されてきましたが、
その際、値の付かぬ肉は、狩猟者たち自身が食べていたといいます。
ある石川県の山村などでは、
狩猟法で猿が保護されるようになった昭和に入っても猿狩りが行われていました。
目当ては頭や胃ですが本当は、味噌煮が良く合うその肉もなかなか好まれていたらしく、
特に脂がのる秋に捕れた猿については、美味しすぎたせいか
「秋猿は嫁に食わすな」という諺さえあったそうです。
ナスと同じ扱いですか。
32: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:52:41 ID:5C7T0sDt(12/16)調 AAS
美味しんぼの元ネタつながりでもうひとつ。
木下謙次郎といえば、あの「美味しんぼ」の元ネタとなった料理小説の
名作「美味求真」の作家として知られる人ですが、
彼にとって作家業はいわば余技であって、
その実体は衆院議員や中国の関東庁長官を務めた政治家であると同時に、
深い教養を備えた博物学者でもある大人物でした。
彼が長官として中国の旅順にいた時、当地の実力者である、
奉天軍閥の最高幹部だった常蔭槐という人物に食事に招かれたことがあります。
これも教養人だった常は木下のために山海の珍味を用意し、
料理の一つ一つを自慢げに講釈しましが、それを黙って聞いていた木下は常の話が
終わると中国の古典から傍証しながら静かに自説を述べたと言います。
常は、木下の態度に打たれ、その後は彼に敬服したとか。
33: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:55:26 ID:5C7T0sDt(13/16)調 AAS
紙のお話。
禅の公案(禅とは何か、悟りとは何かをクイズ形式にしたもの。禅問答)の
中に、「禅とは何か」と問われて、「便所の糞かきべらだ」と答えたというものがあります。
その意味はさておき、日本でもかつてはお尻を拭くのには、
こうしたへらを使用していました。
では、紙の使用は何時からというと、鎌倉時代に描かれた『餓鬼草紙』という
絵巻の中で、道端で用を足した人々の足元に、紙が落ちているのが見えます。
当時の京の庶民たちは、大路の脇の決まった場所を公衆便所にしていました。
そこで用を足す人の中に、お尻を紙で拭く人がいたのです。
34: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:55:47 ID:5C7T0sDt(14/16)調 AAS
勿論、中には紙で鼻をかんでいる人もいました。
16世紀〜17世紀に朱印船貿易が盛んになると、海外に出て紙で鼻をかむ
日本人商人の姿がヨーロッパ人に目撃され、驚かれています(彼らは手鼻)。
宣教師ルイス・フロイスによれば、当時のヨーロッパの紙は四、五種類であったのに対し、
日本のそれは五十種類を越えていたとか。それからしばらく後、
寛永年間(1624〜1643)には、甲斐産のはな紙に税がかけられそうになった時、
「日本のもろこしよりまさりたる物は紙にて候」と言われ、
どんな貧乏人でも買っているものに負担をかけるべきではないと反対され、取り止めになっています。
なお、ナポレオンは兵士たちが鼻を垂らした時、
袖に鼻をこすりつけていたのを嫌って袖に三つのボタンをつける事を始めさせたといいます。
かくして、冬将軍の襲い来る中、青っ洟もぬぐえぬ羽目に。哀れ・・・。
36: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 22:59:53 ID:5C7T0sDt(15/16)調 AAS
カタツムリといえばフランスなイメージですが、
実は中国でもカタツムリを食べていました。
カタツムリが珍味として食べられた話はごぞんじでしょうか?
グルメとしても知られた青木正児(まさる)氏(本業は学者)の
研究によれば、中国の紀元前の書物に蝸醢(かかい)という名で
出ているのがカタツムリの塩辛なのだそうです。
その製法はというと、後漢の鄭玄(この人、劉備の先生の先生です)という人の
書物によれば、
「まずカタツムリの肉を薄く切って日に乾かした後、これを刻み、アワのこうじと塩とを
混ぜてうまい酒に浸け、瓶の中に入れ口を土で密閉して百日おくとできあがる」
のだそうで…
まあ、余り美味くなかったのか…、幻の料理となったらしいんですね。
青木さんによればその後歴史からぱったりと姿を消すそうです。
ヨーロッパではもてはやされたのに、不思議な話ですね。
37: 世界@名無史さん 2005/04/05(火) 23:01:24 ID:5C7T0sDt(16/16)調 AA×
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ
ぬこの手 ぬこTOP 0.032s