[過去ログ] 仏教 議論 33 (396レス)
前次1-
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) 自ID レス栞 あぼーん

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
63: [age] 2012/03/19(月) 21:59:17.66 ID:9OVzVj1b(1/11)調 AAS
太呂先生からのご教示!

> 「客観を求めたり」とか「主観で判断する」とかの心の働きから
> 客観でもなければ主観でもないと言う心の働きに変化させる為に
> 禅定(瞑想)と言う技法を人為的におこなう必要があるんじゃなイカ?

瞑想というものを手段的に見る余り、
何の目的のタメに何をしようとしているのかワカラナイ状態になっている。
実際悟りが目的ならばその様な表現とはならぬであろう。
64: [age] 2012/03/19(月) 22:03:07.45 ID:9OVzVj1b(2/11)調 AAS
太呂先生からのご教示!

> 机龍之介先生からのご教示!
> 方法論とすれば、そのとおりなんだよ。
> だから、
> 「おこなう」とい行動原理になってはいかん。つう意味で
> 「やる必要性」はない。→行動としてはやらない。
> これが南宗禅の特徴です。
> 曹洞宗の黙照禅の源流はこれです。

必要がないからやらないワケじゃないだろう。
覚醒に至る道すじから、
悟りに関係ないモノを逆順に排除してるから、
それぞれの禅の特徴があるのだろう。

『行う』と言っても、行うという言葉の響きによって表現され尽くせるモノではあり得ないし、

『行わない』と言っても、眠ってるのとは違うのは、

意識とは言葉概念でカンタンに捉えられるモノではないコトを意味している。

アンタ、そういや『喫茶去』を[ご苦労さん]と訳してしまう様な食わせ者だったね、
65: [age] 2012/03/19(月) 22:06:51.55 ID:9OVzVj1b(3/11)調 AAS
太呂先生からのご教示!

方法論?

笑える
実践參学こそ宗教者の血肉であり、骨子だろう?

方法論なぞと言う物言いに、アナタの宗教姿勢が見事.雄弁に示されている。

禅と方法論?
実に笑うべきw

それじゃまるで宗教者が、禅の非実践的な理解に重きを置くべきみたいに聞こえるじゃないか。
方法論と禅理解でなく、
禅と口頭小理屈だろう

説明というモノは、他者に述べる際に致し方なく、用いる小理屈なのさ。

それだから、人に禅とは何かと訊かれて、顔を赤らめながら説明しない者は恥知らずだ。
マトモな禅理解があるなら、説明自体がアホの所業だと自覚されて然るベキだからな。
66: [age] 2012/03/19(月) 22:17:16.99 ID:9OVzVj1b(4/11)調 AAS
  ☆  ウィキペディア参照  ☆

禅定

心を統一して瞑想し、真理を観察すること。
またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。
坐禅や止観の止行であるサマタ瞑想で禅定を得ようとする。
仏教においては、涅槃に至るために禅定に勤しむ教派が多く、禅定を得る止行に対して、観行も重視される。
サンスクリット語の dhyaana の音写である「禅」と、その意訳した「定」の複合語で、三昧と同義語である。
また、禅定によって心を乱されない力を定力または禅定力と呼ぶ。

元来は、大乗仏教の菩薩が実践すべき修行徳目である六波羅蜜のうちの第五禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)のことである。
禅那 (Dhyāna) は「禅定」と訳され、真理を思惟して散乱の心を定止することを指している。

阿含経典では、この状態に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとしている。
これが「四静慮(四禅)」である。
次に空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4段階があるとする。
これが、「四無色定」であり、さらに九次第定、百八三昧とつづく。

また、「戒・定・慧」と言われるように、仏教においては戒律を守ることと禅定と智慧とはセットになっている。
(禅定と智慧との関係については、止観を参照。)
67: [age] 2012/03/19(月) 22:19:32.07 ID:9OVzVj1b(5/11)調 AAS
  ☆  ウィキペディア参照  ☆

禅定と坐禅

中国では、この禅定による修行を廃し頓悟を目指す禅宗が成立した。
それは禅定(=坐禅)に新しい定義を与え、従前の仏教を真向から否定するような面を持つものだったが、
唐代に隆盛を極めた。宋代に栄西・道元らによって日本にもたらされたが、
そこでは再び禅定修行が復活し、武士の主要徳目ともなり流行した。

日本仏教と禅定

日本仏教のほとんどの伝統的宗派においても、禅定を得るために様々なアプローチが派生してきたといわれる。
曹洞宗・臨済宗における坐禅はもちろんのこと、天台宗では法華禅とも呼ばれる止観を重視し、
真言宗では印相を結んだり、陀羅尼や真言を唱える身体性を重視する。
浄土宗や浄土真宗では称名念仏である南無阿弥陀仏をくり返し唱える。
時宗においては踊りながら念仏を唱え、日蓮宗では題目の南無妙法蓮華経をくり返し唱える。
いずれのアプローチも、思考や妄想から離れて精神を集中させて禅定に至る行といわれる。
68: [age] 2012/03/19(月) 22:26:48.36 ID:9OVzVj1b(6/11)調 AAS
> マトモな禅理解があるなら、説明自体がアホの所業だと自覚されて然るベキだからな

机龍之介先生の場合は

◎禅定(瞑想)を人為的におこなうと言う概念が欠落している

◎禅定(瞑想)についての概念も欠落している

◎そして禅についての理解も欠落している

 ↑ こんな感じなんじゃなイカ?
69: [age] 2012/03/19(月) 22:41:20.67 ID:9OVzVj1b(7/11)調 AAS
禅は禅定ですが、貧しい市井の人間は生きるので精一杯で
禅定さえする暇もない。

誰ひとりとしてこぼれることはなく
全ての大衆が救われるには、ただただ念仏だけ唱えれば良い。
こうして念仏は大衆の支持を得た。
いつか念仏を唱えれば悟ることはできる。
その悟りは禅と全く同じだよ。

イエスと念仏は何処が違うのか?
イエスと人間は対立の関係。阿弥陀如来と人間は無為の関係。
「如来」だからね。一如なんです。「如」を考えれば全て納得いくはず。
ではオチです。

 − − −

聞きたいんだが念仏唱えて煩悩が消え智慧が湧くんか?

 − − −

想受滅定(滅尽定)

仏教の阿含経典では、この三昧に至る過程には、
まず初禅から第四禅までの4段階があるとする。
続いて空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4段階があるとする。
前の4つを「四静慮(四禅)」、後の4つを「四無色定」としている。
さらに深まった状態として「心のあらゆる動きが全く止滅した状態(滅尽定)」があるとしており、
以上9の段階を「九次第定」と数えている。
70: [age] 2012/03/19(月) 22:47:49.66 ID:9OVzVj1b(8/11)調 AAS
> 聞きたいんだが念仏唱えて煩悩が消え智慧が湧くんか?

渇愛(タンハー)と言う煩悩を滅尽させる為には

想受滅定(滅尽定)と言う禅定(瞑想)を

人為的におこなう実践が必要なんじゃなイカ?
71: [age] 2012/03/19(月) 22:58:45.50 ID:9OVzVj1b(9/11)調 AAS
外部リンク[html]:www.j-theravada.net

渇愛(タンハー)

『これは、ビクらよ、苦しみが現れてくる過程についての聖なる真理です。
苦は、渇愛から生じます。渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、
という三つの特色をもち、五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています。』(初転法輪経)

タンハーとは「渇いている」「満たされていない」「ほしい」という生命の根元的な欲望で「渇愛」と訳されています。

渇愛の特色の一つは『punabbhava』。
これは puna (再び) と bhava (成ること) からできた言葉で、成っては消え、成っては消え、ずーっと何らかの状態に成り続けていくことです。
たとえば欲深い人はそれなりに色々なことをしていくし、立派な人間になりたいという人もそれなりに色々なことをしていきます。
そうやって動きながら、瞬間瞬間、私たちは変化していきます。それは止まりません。
「私はこれで終わった、もう何もする必要はない」という心の状態になることは、決してありません。
次から次へと「何かになること」をくり返していきます。
72: [age] 2012/03/19(月) 23:20:04.39 ID:9OVzVj1b(10/11)調 AAS
瑜伽師地論(ゆがしじろん)の場合は

我愛と戯論と善悪業によって

中有身(死んでから次に生まれるまでの状態の意識)が形成される

 ↑ この場合の我愛(があい)と言うのは渇愛(タンハー)の事でございます!
73: [age] 2012/03/19(月) 23:29:44.98 ID:9OVzVj1b(11/11)調 AAS
前世 → 中有 → 現世

渇愛(我愛)と戯論と善悪業によって、心相続が形成される

心相続によって、渇愛(我愛)と戯論と善悪業が形成される

変化的生存が輪廻を繰り返す

 ↑ こんな感じなんじゃなイカ?
前次1-
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.344s*