[過去ログ] 【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖58杯目 [転載禁止]©bbspink.com (366レス)
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(13): 2015/10/22(木) 09:58:34.83 ID:b3luZhxj0(1/4)調 AAS
【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖58杯目

孤高。そして、孤独。

冬馬 かずさ (とうま かずさ)

Personal Data
(introductory chapter)
  峰城大付属3年E組。
  誕生日、5月28日。
  窓際の席で常に居眠りしている。遅刻・サボリの常習犯。
  雪菜と対極にいる時代錯誤の不良娘。
  裕福な家庭だが、親がほぼ不在。
  長く艶やかな黒髪、モデル顔負けのスタイル、切れ長の瞳。
  外見のイメージに反して、甘い物(プリン・ポートワインなど)好き。
  どちらかと言えば緒方理奈派。
(closing chapter)
  多分ピアニスト。きっとウィーン在住。その他の詳細不明。
  母であり、欧州を中心に世界中で活動するピアニスト冬馬曜子は、
  たびたび日本のメディアにもその活躍ぶりが紹介されているが、
  その不良娘にして実績のない若手ピアニストのことは、
  今現在でも日本ではまったく知られていない。
  彼女がふたたび日本の地を踏むことは、果たしてあり得るのか…

【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖57杯目 [転載禁止](c)bbspink.com
2chスレ:leaf

※次スレは>>950頃に宣言してからスレ立てをして頂けますようお願い致します。

シナリオ担当・丸戸史明による冬馬かずさ評

「捨て犬に懐かれると、とんでもないことになるという見本。というわけであまりにも忠犬。
吠えても噛みついてもすねても常に尻尾は振ったまま。
さらにやっかいなのは、元捨て犬のくせにじつは血統書付きで毛並みが最高なこと。もふもふしてあげるとわかりにくく超喜びます。
でも放っておくと砂糖しか食べないので、厳しい管理が必要です。
というわけで彼女を幸せにできるのは、人生を犬に捧げたトップブリーダーだけです。みなさん頑張ってください」

ソース:【電撃PlayStation】『WHITE ALBUM2』シナリオ担当の丸戸史明氏自らヒロイン5人を紹介!
外部リンク:dengekionline.com
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240: 2015/10/31(土) 21:56:54.48 ID:INUUvXTi0(16/27)調 AAS
 日本を飛び出して、あの日から何も変わっていない。

11年前のあの日から変わらぬこの部屋。大きく変わる事のなかった部屋。変わる事の出来なかった部屋。
 そう、11年たって尚、俺達は二人だった。別に避妊をしていた訳じゃない。寧ろ、毎日のように何も考えずにお互いの体を求めあった。貪り合い愛し合った。
 だが、それでもかずさが妊娠した回数はたった3回。その全ても流産という最悪の結果で終わった。

 神に、咎人に祝福は与えないと頬を殴られたような気がした。罪人は罪人同士で、何も残せず死ねばいいと告げられた気がした。
 神を憎んだ事もある。恨んだこともある。だが、それに意味などないと何度も実感した。

流産の度に慟哭の声を上げるかずさ。かずさを抱きしめながらも俺もかずさに見られないように何度も涙を流した。

 そして、三度目の流産と同時に曜子さんの訃報が知らされた。懸命の治療に関わらず、帰らぬ人となった。
241: 2015/10/31(土) 21:58:19.64 ID:INUUvXTi0(17/27)調 AAS
 かずさはもう一度その女性の顔を見て、やっと彼女が誰であったか思い出した。
 帰国して間もないころ、ピアニストかずさに「ファッションについて」というインタビューを求めてきた不躾な女性記者…確か板倉とかいう名前だった。

「なぁんだ…」 
 どちらかと言うとあまり会いたくない人物である。かずさは軽く肩を落とした。すぐ立ち去ろうかとも考えたが…
 彼女と会った時の記憶がよみがえる。
 いろいろと神経質になっていた時期にわけのわからない取材を求められ怒りを覚えたかずさは手にあったバッグを投げつけて逃げ出した。財布や携帯まで全て入ったバッグを…

 何も考えず駆け出し、気がつくと迷子になってしまったかずさであったが、春希に助けられ事無きを得た。なお、投げつけたバッグはこの女性記者が律義に冬馬曜子オフィスまで届けてくれていた。

 今から思い起こせば赤面ものである。しかも、その後この板倉とかいう女性記者にお礼もお詫びもしていない。
 当時の自分自身はそれどころではなかったし、今からお礼なりお詫びをするとしても完全に時期を逸しているが…

「『ごめん』、くらい言っておくか」
 このまま知らんふりをして帰っても同じくらい気まずい思いが残る。
 ならば、また少々無遠慮な取材を食らうことになったとしても、謝意を伝えてすっきりした方がいいとかずさは考えた。

「すいません。記者の板倉さん…ですよね」
「え、…ええっ!」
 話しかけられた女性記者板倉は驚き、当惑した。

 なにせ目の前にいるのは冬馬かずさ。数か月前には取りつくしまもなかった人物の方から話しかけられれば面くらうのも当然だった。

 かずさはかまわず、たどたどしく謝罪の言葉を口にする。
「この前はごめんなさい。いや、あの時はちょっと気が立ってたっていうか…その…」

 板倉記者は困った。
 相手は今をときめく話題の美人女性ピアニスト。ここは謝罪を受けつつ、うまくすり寄って取材に持ち込めたら僥倖である。
 
 しかし今日は別の取材相手の出待ち中で、タイミングが悪かった。
『なんでこんなタイミングでこんなチャンスが…』
 しかし、二兎を追う者一兎を得ず。ここは当面の取材を優先すべき。

 少し待ってと板倉記者が言いかけたその時だった。

「あれ? 冬馬かずささんじゃないですか?」
 そう言ってスタッフ出入り口のドアを開けて出てきたのは、板倉記者の本日の取材のターゲット。
 劇団コーネックス二百三十度の新人女優、瀬ノ内晶、本名和泉千晶であった。
242: 2015/10/31(土) 21:59:38.58 ID:INUUvXTi0(18/27)調 AAS
「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
243: 2015/10/31(土) 22:00:51.36 ID:INUUvXTi0(19/27)調 AAS
幕間

「…かずささん?」
 板倉に話しかけられてかずさは我に返った。
 『榛名』のキスシーンから第一幕の終わりまで、結局かずさはずっと立ちっぱなしだった。

「…行く…」
 そうつぶやいたかずさに板倉は聞き返した。
「?…おトイレですか?」
「あの女のとこだよ!」
「えっ? かずささん?」

 板倉を押しのけて出ようとするかずさであったが、座っていたのは端が詰まった席であったため、板倉や他の観客が邪魔になりすぐに出られない。無理に出ようとしてつんのめったかずさを板倉は止めた。

「かずささん! まだ一幕目が終わっただけで、すぐ次が始まりますよ! まだ瀬之内さんには会えませんってば!」
 そう諭されて、我に返り腰を下ろすかずさ。
 しかし、体は座しつつもその目は怒りと苛立ちに満ちており、今にも舞台に飛び上がりそうであった。

 何で? 何を怒っているの?
 板倉は不安を隠せなかった。

 やがて、第2幕が始まった。

 ここからは物語が大きく現実から逸れ始めた。板倉がかずさの方を見ると、射抜かんばかりの視線で舞台を見ていた。板倉はホッとした。とりあえずは大人しく鑑賞しているようだ…

 榛名の想いを知りつつ、和希に猛烈アタックを仕掛ける雪音。やがて、二人は恋人として付き合いを始める。
 しかし、新進気鋭のポップス歌手として一人メジャーデビューを果たした雪音は和希とすれ違いの生活を続け、やがて、和希は雪音に隔意と嫉妬を抱き苦しむ。

 一方、ピアノより和希のそばにいることを、雪音の身代わりであり続けることを選んだ榛名。しかし、やがて二人は過ちを犯してしまう。

 『お前のことなんか別に何とも思っていなかった』榛名の、本当の、そして真摯で深い思いの発露。
 そして…

「後悔…するぞ…」
「後悔なんて…し飽きた…」

 暗転する舞台

「いつもの約束…守れよ?」
「榛名…」
「雪音には…内緒だぞ」

 雪音は、ふたりの逢瀬に気付きつつも、カタチだけの「遠距離恋愛の彼氏と彼女」の関係にすがりつく。いや、カタチだけの廃墟同然の関係にすがり、崩壊だけ先延ばしにするような日々を送る。

「『もぉ〜、ひどいよねぇ〜。誕生日にまで仕事入れられて〜』」
「『てなわけで、和希くんゴメン! 電話してくれてうれしかったよ! じゃあ…』」
 場面が明転し、雪音の自室。電話の切れる音ともに枕に伏し、独り涙をこらえる雪音。
 くすんだ色の空虚な部屋から「会えない二人」のハリボテのような関係がにじみ出ていた。
 枕元に置かれた写真立ての中にだけ、3人の色褪せない姿がある。

 優しさ故、会えない日々の中で一人待ち続ける雪音
 臆病さ故、和希の想いから逃げ続ける榛名
 立ちどまる和希
244: 2015/10/31(土) 22:07:42.85 ID:INUUvXTi0(20/27)調 AAS
 間もなく舞台が始まった。オープニングニングに流れたのは「White Album」。かずさにとっても懐かしい曲だ。
 メジャーデビューを夢見る高校生、西村和希が二人のヒロインをバンドに引き込もうとするシーン…前半はラブコメディ色が強い
「俺と合わせられるのはお前しかいない!」
「だから質問に答えろ」
「俺みたいなヘタクソをフォローするには、お前くらいの腕がないと不可能なんだよ!」

 開演後、しばらくして…2人目のヒロイン『冬木榛名』登場のあたりから…板倉はかずさの異変に気づいた。最初はギャグシーンで他の観客と同じようにクスクス笑っていたかずさが、やがてクスリとも笑わなくなったばかりか、だんだんと表情を強ばらせている。
「…あの…かずささん?」
「…まさ…か…っ」
 かずさは、気付きつつあった。
 この劇は…彼女と春希、そして雪菜の関係をモデルにしている。いや、三人の性格から関係、あの日々までを調べ尽くし、えぐり出している。

 なぜ? なぜこんなことまであの女は知っている?
 どうやって知った? 誰から聞いた?
 …そして、なぜ、自分にこの劇を見せようとした?
 かずさは舞台の上の『冬木榛名』から、もはや目を逸らすことができなかった。
 榛名の演技は、かずさにとってあたかも呪いの鏡であり、かずさは自分の虚像たる榛名に存在を突き崩されつつあった。

 舞台はコンテストの直前、控え室での和希と雪音。雪音が和希にキスをねだるシーンだ。
「じゃ、もう一度目をつぶるので考えてみてください。制限時間は30秒!」
「え? え? え?」
「ん〜っ!」
「目をつぶったのはわかったけどさ…その背延びは何?」
「残り20秒〜」
「ゆ、雪音…?」
「残り10秒〜」
「10秒はやっ!?」
「………」
「………」
「残り15秒〜」
「増えてる!?」

「…っ!」
 観客がどっと笑ったその時、かずさの口から漏れたのは笑いではなく驚きの絡んだ呻き声であった。
 気付いたのは板倉だけであった。彼女がかずさの視線の先を追うと、その先には舞台袖に控える千晶がいた。

 千晶はそんなかずさの様子を観察して悦に入っていた。
「いやいや、あの席は特等席だねぇ…」
 前列端のその席は舞台を見るための特等席ではなかった。舞台袖に控える役者がその観客を観察するための特等席だったのだ。
「3人の1人しか引っ掛からなかったのは残念だけど…さあ、見せてちょうだい。冬馬かずさの怒り、嫉妬、嘆き、叫び、涙。全部を…」
 千晶はそう呟くと『榛名』に戻り、舞台へ踏み出した。

「イチャイチャしたりジタバタしたり忙しいな」
「うぇっ!? ふ、冬木?」

 ガタンッ!
「えっ!? かずささん!?」
 突然立ち上がったかずさに驚いたのは板倉だった。かずさの顔からは血の気が失せていた。

「ごめんな… それから、今日まで本当にありがとう」
「…まだ終わってないだろ。最後の、一番めんどくさい本番が残ってる」
「そうだな…これが最後だ」
「………っ」
「行こうか、冬木。雪音が待ってる」
「………西村」
「ん…?」
 『冬木榛名』が『西村和希』に歩みを進める。

「…やめ…ろ…」
 かずさには次の『榛名』の行動がわかっていたから、抗議の声を漏らさざるを得なかった。
 しかし、かずさの弱々しい声は聞き入れられず、『榛名』は『和希』に唇をよせる。
 舞台上のキスにどよめきの声を上げる観客の中で、かずさ一人だけが軋むような声を上げていた。
 そして流れる『3人』の「届かない恋」
 かずさの心の悲鳴は止まらなかった。
245: 2015/10/31(土) 22:09:12.38 ID:INUUvXTi0(21/27)調 AAS
雪菜「ここが音楽室だね。懐かしいな。中に2人いるんだよね。じゃ、入るよ」
 ガチャ
雪菜・武也・依緒「結婚おめでとう!」
 ビクッ
春希「な、なんで雪菜たちが…」
かずさ「な、なんで…」
雪菜「なんでって…招待してくれたんじゃないの?」
春希「いや、俺は誰か来るなんて聞いてなく…」
春希「(曜子さんだな…なんて人だ…)」
武也「(こりゃ本当に何も知らされてなかったな…かわいそうに)」
かずさ「(な、何で雪菜たちが来ているんだよ! 今日は春希とあたしの為だけの式だぞ! 春希が「最初から始めよう」って言ってくれた記念の日に何で雪菜たちが来るんだよ!)」
かずさ「帰れ…」
雪菜「え?」
かずさ「帰れよ! なんで雪菜が来てるんだよ!」
春希「こ、こら! かずさ」
曜子「や、やめなさい! かずさ! …ごめんなさい、ちょっとお色直し中で気が動転してて…」
かずさ「いいから帰れ! あたしの音楽室から出ていけ!」

ガチャ
依緒「友達だと思ってたのに…酷いことしちゃったね…」
雪菜「ゴメン。曜子さんが『2人も待ってる』って言ってくれたからてっきり…」
武也「いや、俺達も気付くべきだった。曜子さんも最近いろいろ焦ってたからな。こんな形で結婚式挙げさせようとするとか」

扉の向こう「卑怯だよ! 母さん、卑怯だよ!」「落ち着いて! かずさ!」

武也「帰るか…」
雪菜「うん…」

・校外

武也「やれやれ、せっかくの日に冬馬たちには悪いことしたな」
雪菜「ゴメン! ウィーンでも春希君とは会って話できたんだけど…」
依緒「かずさがあんな拒否感残してるなんてね」
雪菜「ビデオレター見てくれたときもかずさはすごく怒ってたとは聞いたけど」
武也「あのレターも、曜子さんが2人の為に作ってくれとまで言ってくれたのにな」
依緒「曜子さんがかずさたちに隠して会わせるつもりだった可能性は考えておくべきだったね。曜子さんあんな人だし」
雪菜「かずさ、まだわたしたちのこと、あんな風に思ってたんだね…」
依緒「…雪菜。このハンカチ使って」
武也「今日は仕方ないさ。感情が和らいでまた会える日が来たらまた会ってやろう」
雪菜「うん…」
246: 2015/10/31(土) 22:11:38.05 ID:INUUvXTi0(22/27)調 AAS
5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
 フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
 
 かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
 奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
 
 ぱん、ぱん、ぱん…
 練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
 母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
 
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
 弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
 賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
 たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
 フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
 娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」

 やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
 オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
 フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
 まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」

 200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
 そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
 春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
 そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪

「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
 曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。

 残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
 春希ぃ…
 5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
 しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
 
 冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
 忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
 かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。

「やっぱり私、母親失格かも」
 曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」
247: 2015/10/31(土) 22:12:42.72 ID:INUUvXTi0(23/27)調 AAS
 日本を飛び出して、あの日から何も変わっていない。

11年前のあの日から変わらぬこの部屋。大きく変わる事のなかった部屋。変わる事の出来なかった部屋。
 そう、11年たって尚、俺達は二人だった。別に避妊をしていた訳じゃない。寧ろ、毎日のように何も考えずにお互いの体を求めあった。貪り合い愛し合った。
 だが、それでもかずさが妊娠した回数はたった3回。その全ても流産という最悪の結果で終わった。

 神に、咎人に祝福は与えないと頬を殴られたような気がした。罪人は罪人同士で、何も残せず死ねばいいと告げられた気がした。
 神を憎んだ事もある。恨んだこともある。だが、それに意味などないと何度も実感した。

流産の度に慟哭の声を上げるかずさ。かずさを抱きしめながらも俺もかずさに見られないように何度も涙を流した。

 そして、三度目の流産と同時に曜子さんの訃報が知らされた。懸命の治療に関わらず、帰らぬ人となった。
248: 2015/10/31(土) 22:13:52.99 ID:INUUvXTi0(24/27)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
249: 2015/10/31(土) 22:16:05.95 ID:INUUvXTi0(25/27)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
250: 2015/10/31(土) 22:17:15.95 ID:INUUvXTi0(26/27)調 AAS
『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
251: 2015/10/31(土) 22:21:36.25 ID:INUUvXTi0(27/27)調 AAS
・デュッセルドルフ、コンサート後の控え室

春希「お疲れ。かずさ。少し部屋から出ないか?」
かずさ「やめとく。今日の演奏の調子がどうだったかぐらいわかってる。評判が聞こえてくるのもイヤだからいつものように部屋に引きこもっているさ」
春希「(耳が良いのも考え物だな…)わかったよ。じゃあ、興行主さんの所に挨拶に行ってくる」

・興行主の部屋

興行主「お疲れ様。ミスター北原。かずさ嬢はお疲れだったのかな?」
春希「…先日、日本からウィーンに戻ったばかりですので少し旅疲れがあったかも知れませんが、次の公演にはちゃんと…」
興行主「いや、追加公演は不要だよ。しばらくは休んだ方がかずさ嬢にもいいのでは?」
春希「(あんな事があってからよく夜にうなされてるしな…)…ありがとうございます。お気遣い感謝します。では」
興行主「ミュンヘンやベルリンにも冬馬かずさの名は知れ渡ってしまっただろうから、ゆっくり休むといいさ」
春希「……」

・再び控え室

かずさ「どうだ? 興行主さん怒ってた?」
春希「いや。ただ、追加公演はないって」
かずさ「じゃあ、赤が出るか。ゴメンな、春希」
春希「いいさ。公演できるところをまた探せばいい」
かずさ「ああ。幸い母さんのおかげで世界中に助けてくれる人はいるし、食うには困らないさ。…なあ、春希」
春希「なんだ? かずさ?」
かずさ「オケとか探すか? 定期的に演奏入った方が春希も楽だろ」
春希「…いや。やめといたほうがいい」
かずさ「…わかった。じゃあ次の仕事また頼むよ。マネージャーさん」
春希「ああ」 

春希「(協調性のないかずさがオケなんかに入ったらつぶれかねない。それに、かずさを独占していたい…)」

・テッサロニキ、コンサート会場控え室

かずさ「おい」
春希「なんだ? かずさ」
かずさ「この控え室、壁が薄い。隣りの声が聞こえる」
春希「? 聞こえないよ。気のせいじゃないか?」

 どんっ

かずさ「あたしが聞こえるって言ったら聞こえるんだよ!」
春希「や、やめてくれ! かずさ! また控え室荒らして出入り禁止なんてもう勘弁だよ!」
かずさ「…もうたくさんだよ。なんでこんな…」
春希「人の評判なんて気にするなよ。あのジョバンニコンクールの事は覚えている人も多くて、一度演奏聴いてみたいという人は探せばいくらでもいるんだから」
春希「(また聴きたいって人はなかなか現れないけどな)」
かずさ「なあ、春希」
春希「なんだ?」
かずさ「あたしたちの国ってあるのかなあ? 日本には帰れないし、オーストリアには家はあるけど、自主公演もできないし…」
春希「…きっと、そのうち見つかるさ」
かずさ「…どこかに良い国があるといいな」
春希「ああ」

春希「(かずさ、お前は根無しの浮き草だよ。だからこそ、俺が水になってどこにでも流れていける…俺だけがお前を浮かべていられるんだ)」
252: 2015/10/31(土) 22:30:06.04 ID:FKiZF2mb0(2/3)調 AAS
やっぱ避難所たてた方がいいんじゃね?
こいつが単独犯にしても便乗荒らしがいるにしろ、結局は1日に多くて何十レスもされるし
このままじゃまたすぐ容量オーバーだぜ…
まえに立ててくれるっていった人お願いできるだろうか
253
(1): 2015/10/31(土) 22:36:02.86 ID:RY7eh+HU0(1/2)調 AAS
>>219
そう、日本人当時icの後半まで終わってるって言ってたかな?
なんかすげーコミュ力高い人だったよアメリカでのホワルバPC版は麻薬並の扱いが求められるとかいろいろな話して周りの人たちとワイワイしてたわ
254
(4): 2015/10/31(土) 22:38:40.02 ID:9rm/JEqg0(2/2)調 AAS
避難所たてた

【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 避難所
したらばスレ:game_59384
255: 2015/10/31(土) 22:40:19.14 ID:RY7eh+HU0(2/2)調 AAS
>>254
ありがとう
256: 2015/10/31(土) 22:50:07.54 ID:FKiZF2mb0(3/3)調 AAS
>>254
ありがとうございます
257
(1): 2015/10/31(土) 23:00:24.51 ID:/6FnImO70(3/3)調 AAS
>>253
情報サンクス。麻薬並笑ったw エロゲ皆そういう扱いかね?

>>254

258: 2015/10/31(土) 23:27:31.73 ID:TX+JomjH0(1)調 AAS
>>257
裏パケの小春が完全アウトらしいぞ
高校のicもあるからバレたら言い訳できんと言ってた
259: 2015/10/31(土) 23:51:55.66 ID:JpeUwXpo0(10/15)調 AAS
5/12(水)複合文化施設「Kaikomura」1階レストラン「コクーン」にて

 からり、から…  からり、から…
 
 コーヒーシュガーが空しい音を立て、黒褐色の液体の中に埋没していく。
 その数が5杯目にさしかかったが、同席している誰も彼女—売り出し中の若手女性ピアニスト、冬馬かずさ—の糖分過剰摂取に気付きすらしなかった。
 
 目の前では、彼女のマネージャーがクライアントとの打ち合わせのまとめにかかっている。かずさはそれを他人事のように眺めていた。
 
 同じ建物の3階にあるコンサートホールの下見が済んだ時点でかずさの本日の仕事は終わったようなものであった。
 あとのこまごまとした打ち合わせ事項はいつもどおり全てマネージャー任せであり、かずさ本人にはそういった仕事上のすり合わせを行う能力も意思も全くなかった。
 
 そんな事情を察するや、クライアントの男性もマネージャーとの用談に集中した。
 だから、下見後のフレンチレストランでの会食はかずさにとって、クライアントとマネージャーが話をまとめるまでの時間つぶしにすぎなかった。
 マネージャーが「では、そういうことでいいですね。かずささん」と確認を求めた際も、かずさはほとんど内容を理解することなく「うん、いいよ」と、答えた。
 かずさが理解していたのは「3階のホールで秋にピアノを弾く」、それだけであった。

 食事の間かずさが聞いていたのは打ち合わせの内容ではなく、レストランの外の喧噪の声であった。
 パリのカフェと同じようにポットで出されたコーヒーを砂糖で流し込み終わるころには外の喧噪も打ち合わせも止み、かずさは本日最後の仕事を実行することにした。
 何度も練習させられた、ぎこちない営業スマイルと共に
「では、本日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」
 これが、かずさの5月12日最後の仕事であった。

「では、かずささん。また明日お願いします」
「ああ・・・。いつもありがとう。美代子さん」
 レストランの外でかずさはマネージャーと別れた。
 
 マネージャーはこれから冬馬曜子—稀代の世界的ピアニストにしてかずさの母、そして、冬馬曜子オフィス社長—の所に報告に向かうことになっている。
 行先は峰城大学病院…公表はされていないが、曜子は白血病を患い定期的に検査入院を繰り返している。
 
 娘の売り出しのためには病床を抜け出し駆け回ることを厭わない曜子であったが、今日のような簡単な打ち合わせは報告受けで済ましている。
 だから、かずさは今日はひとりで帰ることになっていた。

 帰る、か…

 かずさの足取りは重たかった。今日は形ばかりの仕事であったが、それでも仕事のあるうちはそれで気を紛らすことができた。
 母親から押しつけられた忙しいスケジュールも却ってありがたかった。
 しかし、仕事が終わってひとりになった時に襲う寂寞感をやり過ごす術までは、まだかずさは見出せてはいなかった。

 そうしてふらふらと出口に向かうかずさの横をひとりの女性が通り過ぎた。

 ぴく…
 かずさは足を止める。
「?…誰だっけ…」

 振り返るが、後ろ姿ではわからない。最近会ったような気がしたが、どこで会ったかも思い出せない。

 しかし気になる。5年間ウィーンで暮らし5ヶ月前に帰国した彼女がこの国で「知り合い」と感じることのできる人は少ない。同年代くらいの女性だったが…

 かずさは追いかけて確かめることにした。たとえ人違いだったとしても気乗りのしない帰宅よりはマシと感じていたからだった。

 その女性はエスカレーターで2Fに上がり、「シアターモーラス」スタッフ出入り口の付近で立ち止まった。
260: 2015/10/31(土) 23:53:28.60 ID:JpeUwXpo0(11/15)調 AAS
 かずさはもう一度その女性の顔を見て、やっと彼女が誰であったか思い出した。
 帰国して間もないころ、ピアニストかずさに「ファッションについて」というインタビューを求めてきた不躾な女性記者…確か板倉とかいう名前だった。

「なぁんだ…」 
 どちらかと言うとあまり会いたくない人物である。かずさは軽く肩を落とした。すぐ立ち去ろうかとも考えたが…
 彼女と会った時の記憶がよみがえる。
 いろいろと神経質になっていた時期にわけのわからない取材を求められ怒りを覚えたかずさは手にあったバッグを投げつけて逃げ出した。財布や携帯まで全て入ったバッグを…

 何も考えず駆け出し、気がつくと迷子になってしまったかずさであったが、春希に助けられ事無きを得た。なお、投げつけたバッグはこの女性記者が律義に冬馬曜子オフィスまで届けてくれていた。

 今から思い起こせば赤面ものである。しかも、その後この板倉とかいう女性記者にお礼もお詫びもしていない。
 当時の自分自身はそれどころではなかったし、今からお礼なりお詫びをするとしても完全に時期を逸しているが…

「『ごめん』、くらい言っておくか」
 このまま知らんふりをして帰っても同じくらい気まずい思いが残る。
 ならば、また少々無遠慮な取材を食らうことになったとしても、謝意を伝えてすっきりした方がいいとかずさは考えた。

「すいません。記者の板倉さん…ですよね」
「え、…ええっ!」
 話しかけられた女性記者板倉は驚き、当惑した。

 なにせ目の前にいるのは冬馬かずさ。数か月前には取りつくしまもなかった人物の方から話しかけられれば面くらうのも当然だった。

 かずさはかまわず、たどたどしく謝罪の言葉を口にする。
「この前はごめんなさい。いや、あの時はちょっと気が立ってたっていうか…その…」

 板倉記者は困った。
 相手は今をときめく話題の美人女性ピアニスト。ここは謝罪を受けつつ、うまくすり寄って取材に持ち込めたら僥倖である。
 
 しかし今日は別の取材相手の出待ち中で、タイミングが悪かった。
『なんでこんなタイミングでこんなチャンスが…』
 しかし、二兎を追う者一兎を得ず。ここは当面の取材を優先すべき。

 少し待ってと板倉記者が言いかけたその時だった。

「あれ? 冬馬かずささんじゃないですか?」
 そう言ってスタッフ出入り口のドアを開けて出てきたのは、板倉記者の本日の取材のターゲット。
 劇団コーネックス二百三十度の新人女優、瀬ノ内晶、本名和泉千晶であった。
261: 2015/10/31(土) 23:54:37.19 ID:JpeUwXpo0(12/15)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
262: 2015/10/31(土) 23:55:44.80 ID:JpeUwXpo0(13/15)調 AAS
5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
 フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
 
 かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
 奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
 
 ぱん、ぱん、ぱん…
 練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
 母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
 
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
 弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
 賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
 たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
 フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
 娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」

 やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
 オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
 フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
 まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」

 200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
 そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
 春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
 そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪

「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
 曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。

 残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
 春希ぃ…
 5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
 しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
 
 冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
 忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
 かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。

「やっぱり私、母親失格かも」
 曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」
263: 2015/10/31(土) 23:56:57.73 ID:JpeUwXpo0(14/15)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
264: 2015/10/31(土) 23:58:05.33 ID:JpeUwXpo0(15/15)調 AAS
 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
265: 2015/11/01(日) 00:20:46.73 ID:yCaFSXzP0(1/14)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
266: 2015/11/01(日) 00:22:54.68 ID:yCaFSXzP0(2/14)調 AAS
そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
267: 2015/11/01(日) 00:24:31.02 ID:yCaFSXzP0(3/14)調 AAS
5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
 フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
 
 かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
 奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
 
 ぱん、ぱん、ぱん…
 練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
 母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
 
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
 弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
 賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
 たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
 フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
 娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」

 やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
 オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
 フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
 まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」

 200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
 そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
 春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
 そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪

「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
 曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。

 残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
 春希ぃ…
 5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
 しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
 
 冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
 忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
 かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。

「やっぱり私、母親失格かも」
 曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」
268: 2015/11/01(日) 01:14:50.67 ID:Ft6xYBrZ0(1)調 AAS
>>254
乙です
やっと平和になる
269: 2015/11/01(日) 05:22:10.07 ID:VI7HGDuQ0(1/14)調 AAS
5/12(水)複合文化施設「Kaikomura」1階レストラン「コクーン」にて

 からり、から…  からり、から…
 
 コーヒーシュガーが空しい音を立て、黒褐色の液体の中に埋没していく。
 その数が5杯目にさしかかったが、同席している誰も彼女—売り出し中の若手女性ピアニスト、冬馬かずさ—の糖分過剰摂取に気付きすらしなかった。
 
 目の前では、彼女のマネージャーがクライアントとの打ち合わせのまとめにかかっている。かずさはそれを他人事のように眺めていた。
 
 同じ建物の3階にあるコンサートホールの下見が済んだ時点でかずさの本日の仕事は終わったようなものであった。
 あとのこまごまとした打ち合わせ事項はいつもどおり全てマネージャー任せであり、かずさ本人にはそういった仕事上のすり合わせを行う能力も意思も全くなかった。
 
 そんな事情を察するや、クライアントの男性もマネージャーとの用談に集中した。
 だから、下見後のフレンチレストランでの会食はかずさにとって、クライアントとマネージャーが話をまとめるまでの時間つぶしにすぎなかった。
 マネージャーが「では、そういうことでいいですね。かずささん」と確認を求めた際も、かずさはほとんど内容を理解することなく「うん、いいよ」と、答えた。
 かずさが理解していたのは「3階のホールで秋にピアノを弾く」、それだけであった。

 食事の間かずさが聞いていたのは打ち合わせの内容ではなく、レストランの外の喧噪の声であった。
 パリのカフェと同じようにポットで出されたコーヒーを砂糖で流し込み終わるころには外の喧噪も打ち合わせも止み、かずさは本日最後の仕事を実行することにした。
 何度も練習させられた、ぎこちない営業スマイルと共に
「では、本日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」
 これが、かずさの5月12日最後の仕事であった。

「では、かずささん。また明日お願いします」
「ああ・・・。いつもありがとう。美代子さん」
 レストランの外でかずさはマネージャーと別れた。
 
 マネージャーはこれから冬馬曜子—稀代の世界的ピアニストにしてかずさの母、そして、冬馬曜子オフィス社長—の所に報告に向かうことになっている。
 行先は峰城大学病院…公表はされていないが、曜子は白血病を患い定期的に検査入院を繰り返している。
 
 娘の売り出しのためには病床を抜け出し駆け回ることを厭わない曜子であったが、今日のような簡単な打ち合わせは報告受けで済ましている。
 だから、かずさは今日はひとりで帰ることになっていた。

 帰る、か…

 かずさの足取りは重たかった。今日は形ばかりの仕事であったが、それでも仕事のあるうちはそれで気を紛らすことができた。
 母親から押しつけられた忙しいスケジュールも却ってありがたかった。
 しかし、仕事が終わってひとりになった時に襲う寂寞感をやり過ごす術までは、まだかずさは見出せてはいなかった。

 そうしてふらふらと出口に向かうかずさの横をひとりの女性が通り過ぎた。

 ぴく…
 かずさは足を止める。
「?…誰だっけ…」

 振り返るが、後ろ姿ではわからない。最近会ったような気がしたが、どこで会ったかも思い出せない。

 しかし気になる。5年間ウィーンで暮らし5ヶ月前に帰国した彼女がこの国で「知り合い」と感じることのできる人は少ない。同年代くらいの女性だったが…

 かずさは追いかけて確かめることにした。たとえ人違いだったとしても気乗りのしない帰宅よりはマシと感じていたからだった。

 その女性はエスカレーターで2Fに上がり、「シアターモーラス」スタッフ出入り口の付近で立ち止まった。
270: 2015/11/01(日) 05:23:12.58 ID:VI7HGDuQ0(2/14)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
271: 2015/11/01(日) 05:28:19.58 ID:tu051UJD0(1)調 AAS
>>54

したらばに避難所立ってるので他の人もみんなこっちへ移動よろしく

誘導

【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 避難所
したらばスレ:game_59384
272: 2015/11/01(日) 05:53:24.29 ID:VI7HGDuQ0(3/14)調 AAS
・デュッセルドルフ、コンサート後の控え室

春希「お疲れ。かずさ。少し部屋から出ないか?」
かずさ「やめとく。今日の演奏の調子がどうだったかぐらいわかってる。評判が聞こえてくるのもイヤだからいつものように部屋に引きこもっているさ」
春希「(耳が良いのも考え物だな…)わかったよ。じゃあ、興行主さんの所に挨拶に行ってくる」

・興行主の部屋

興行主「お疲れ様。ミスター北原。かずさ嬢はお疲れだったのかな?」
春希「…先日、日本からウィーンに戻ったばかりですので少し旅疲れがあったかも知れませんが、次の公演にはちゃんと…」
興行主「いや、追加公演は不要だよ。しばらくは休んだ方がかずさ嬢にもいいのでは?」
春希「(あんな事があってからよく夜にうなされてるしな…)…ありがとうございます。お気遣い感謝します。では」
興行主「ミュンヘンやベルリンにも冬馬かずさの名は知れ渡ってしまっただろうから、ゆっくり休むといいさ」
春希「……」

・再び控え室

かずさ「どうだ? 興行主さん怒ってた?」
春希「いや。ただ、追加公演はないって」
かずさ「じゃあ、赤が出るか。ゴメンな、春希」
春希「いいさ。公演できるところをまた探せばいい」
かずさ「ああ。幸い母さんのおかげで世界中に助けてくれる人はいるし、食うには困らないさ。…なあ、春希」
春希「なんだ? かずさ?」
かずさ「オケとか探すか? 定期的に演奏入った方が春希も楽だろ」
春希「…いや。やめといたほうがいい」
かずさ「…わかった。じゃあ次の仕事また頼むよ。マネージャーさん」
春希「ああ」 

春希「(協調性のないかずさがオケなんかに入ったらつぶれかねない。それに、かずさを独占していたい…)」

・テッサロニキ、コンサート会場控え室

かずさ「おい」
春希「なんだ? かずさ」
かずさ「この控え室、壁が薄い。隣りの声が聞こえる」
春希「? 聞こえないよ。気のせいじゃないか?」

 どんっ

かずさ「あたしが聞こえるって言ったら聞こえるんだよ!」
春希「や、やめてくれ! かずさ! また控え室荒らして出入り禁止なんてもう勘弁だよ!」
かずさ「…もうたくさんだよ。なんでこんな…」
春希「人の評判なんて気にするなよ。あのジョバンニコンクールの事は覚えている人も多くて、一度演奏聴いてみたいという人は探せばいくらでもいるんだから」
春希「(また聴きたいって人はなかなか現れないけどな)」
かずさ「なあ、春希」
春希「なんだ?」
かずさ「あたしたちの国ってあるのかなあ? 日本には帰れないし、オーストリアには家はあるけど、自主公演もできないし…」
春希「…きっと、そのうち見つかるさ」
かずさ「…どこかに良い国があるといいな」
春希「ああ」

春希「(かずさ、お前は根無しの浮き草だよ。だからこそ、俺が水になってどこにでも流れていける…俺だけがお前を浮かべていられるんだ)」
273: 2015/11/01(日) 05:54:28.78 ID:VI7HGDuQ0(4/14)調 AAS
 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
274: 2015/11/01(日) 05:55:44.08 ID:VI7HGDuQ0(5/14)調 AAS
過去のSSで不満ならオリジナルを投稿してやんよ

◆◆

「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
275: 2015/11/01(日) 05:57:00.66 ID:VI7HGDuQ0(6/14)調 AAS
・病院

小男「倒れたって聞いたけど、大丈夫そうだね」
曜子「日本に来てたのね。よくもぬけぬけと私の前に顔が出せたモノね」
小男「ボク、何か悪いコトした?」
曜子「あなたがかずさにちょっとでも期待してるフリしてくれれば、あんな陰険なマネかます連中も出なかったでしょうよ」
小男「ボクはむしろキミこそ何やってんだと思ってたケドね」
曜子「何よ。こっちはこのとおり、仕方なかったのよ」
小男「そうかい? じゃあ聞くけど、キミは彼女たちにどうあって欲しいと願っていたんだい?」
曜子「どうって?」
小男「ボクがキミならドンとデカい公演や共演かまして、フランスのおばちゃんあたり師匠につけてメキメキ経験と力つけさせて世界に通用するコに育てるケドね」
曜子「あの子たちに好きにやらせたいだけよ」
小男「キミがそうして甘やかしてるから、あの子たちもあんなんなんだよ。きっと今回の件も『ほとぼり冷めるまでじっと休めばいいや』程度にしか考えてないでしょ。あの子たち」
曜子「調子出ないうちくらいスネかじりしてくれる方が親としてはありがたいけど」
小男「金コネ出して口出さない、期待のプレッシャーもかけず甘やかしてたら金の卵も腐るよ」
曜子「それはそれであの子たちの選択でしょ。結構な人生じゃないのよ」
小男「むしろあの子たち、日本に名前流れない方がいいとさえ思ってるよね。
 ボクが言うのも何だけど、何しにウィーンに来たのと聞きたくなるよ。ちょっとキミの言うこと聞かせて軽く育てればすぐ日本でも名前が響く子になれるのに、まるでそうなるのを避けているみたい。
 この狭いクラシックの世界で、ワザと名前が漢字にならないよう、日本人の誰かの目に入るのを避ける為にウィーンに逃げてきたみたい」
曜子「何よ。男女関係のトラブルってコトは知ってるくせに」
小男「相手の子の事なんて知らないケド、その子の前を横切り、名前が彼女の目に入るのを避けるために日本を離れウィーンに来としたら、なんて馬鹿げた話だろうと思うケドね。
 あの子ならマトモに活動するだけですぐ『日本人ピアニスト』として有名になっちゃうんだから。むしろ、そうなるのを避けるためにあの旦那さんと食っちゃ寝生活してるみたい」
曜子「まだ、マトモに活動初めて何年もしないじゃない。そのうち育ってくれればいいわよ」
小男「キミはいったい、彼女たちにどうあって欲しいんだい?
 狭い鳥の巣の中で、他のヒナが飛ぶためにエサの奪い合いしてる中、飛ぼうとせず巣の中で温まってるヒナなんて、遅かれ早かれ他のヒナにつつき殺されるよ。親鳥が見てたり、他のヒナと羽並べない限りね。
 昔はもっとひどかった。東洋人なんて頭の黒い音楽家はそれだけでつつかれた。キミもボクもそうだったように。だから、互いに羽並べ友誼むすんでいた」
曜子「だから?」
小男「ボクはキミにどうしたいと聞きに来たんだけどね。今回の件は流石にヤツらもやり過ぎだと思うし、日本人が悪し様に貶められるのも腹立つから、今回だけなら介入してもいいかなとは思ってるケド? その代わり、ボクの好きなように介入させてもらうケド」
曜子「あなたなんかの手を借りなくてもあの子たちは何とかするわよ。もともと世界に羽ばたくなんて大それた目的持ってるわけでもないし」
小男「もうわかったよ。それじゃ、父親の方の意見を聞きに行こう」
曜子「!! それは止めて!」
小男「キミの娘だけど、キミだけの娘じゃない。ジョバンニ4位なんて本当なら誰だって親代わりになって自分の手元で育てたいコなんだよ。あの旦那さんじゃなければね」
曜子「あの2人の仲を裂いたら八つ裂きにするわよ」
小男「それはしない。ただ、あの男の話を聞きに行くだけだよ」
曜子「やめて。まだ、あの人は知らないのよ!?」
小男「知らないってコトは本当に厄介だね。彼の意見がキミと同意見であるといいけどね。じゃあね」
曜子「二度と来るな!」

曜子「かずさ。私は自分に歩めなかった道をあなたに歩ませたがっているだけかもしれないけど、でも、それでもあなたを愛しているのよ・・・」
276: 2015/11/01(日) 06:09:33.11 ID:VI7HGDuQ0(7/14)調 AAS
5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
 フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
 
 かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
 奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
 
 ぱん、ぱん、ぱん…
 練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
 母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
 
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
 弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
 賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
 たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
 フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
 娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」

 やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
 オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
 フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
 まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」

 200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
 そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
 春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
 そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪

「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
 曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。

 残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
 春希ぃ…
 5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
 しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
 
 冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
 忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
 かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。

「やっぱり私、母親失格かも」
 曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」
277: 2015/11/01(日) 06:16:33.88 ID:VI7HGDuQ0(8/14)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
278: 2015/11/01(日) 07:02:54.98 ID:VI7HGDuQ0(9/14)調 AAS
「パパっ!」

 俺とかずさの家が見えなくなって雪菜を振り切るように歩きかけたその時に、その声は聞こえた。

 同時に、胸元へとドンっとぶつかる音と衝撃。

「パパッ!」

 おいおい、俺がパパって。俺は、神様に親になる事が許されなかった人間だっていうのに。

 抱きしめ、涙すら流している目の前の少女。
 そこには、栗色と黒の中間という欧州では珍しい髪の色。
 目の前の少女には悪いけど、きちんと親の元に帰さないと。

 ぐいっと、引き離して女の子の顔を見る。
 顔立ちはやはりこちらでは珍しいアジア系の顔。それも、顔立ちと服装から日本人の子供。
 俺から離れるのがよほど嫌なのか、イヤイヤと首を振って力いっぱい近づいてくる女の子。
 顔立ちは、誰だろう。何故だか、嫌な予感が止まらない。あぁ、そうだ、そうだ。雪菜の家で見た、小さいころの雪菜に、よく…………似ている。

「私の、子供だよ」

 何時の間に泣き止んだのか。いつのまに降りてきたのか。後ろの方で赤い眼をしてそう断言する雪菜の顔がよく見えない。

 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!

「私と、春希君の子供、だよ」

 目の前の子供は十歳ぐらい。確かに、それなら辻褄が合う。かずさの手を取るまでは当たり前のように体を重ね合っていた。安全日も考えてはいたが、その日は付けていなかった。

「あ゛ぁあ゛あ」

 声が出ない。
 そうか。そうか、そうか。そうかっ! そういう事かよ、神様。俺とかずさの子が出来なかったのは、俺に、雪菜との子供がいるから!
279: 2015/11/01(日) 07:04:01.27 ID:VI7HGDuQ0(10/14)調 AA×

280: 2015/11/01(日) 08:09:45.56 ID:yCaFSXzP0(4/14)調 AAS
 日本を飛び出して、あの日から何も変わっていない。

11年前のあの日から変わらぬこの部屋。大きく変わる事のなかった部屋。変わる事の出来なかった部屋。
 そう、11年たって尚、俺達は二人だった。別に避妊をしていた訳じゃない。寧ろ、毎日のように何も考えずにお互いの体を求めあった。貪り合い愛し合った。
 だが、それでもかずさが妊娠した回数はたった3回。その全ても流産という最悪の結果で終わった。

 神に、咎人に祝福は与えないと頬を殴られたような気がした。罪人は罪人同士で、何も残せず死ねばいいと告げられた気がした。
 神を憎んだ事もある。恨んだこともある。だが、それに意味などないと何度も実感した。

流産の度に慟哭の声を上げるかずさ。かずさを抱きしめながらも俺もかずさに見られないように何度も涙を流した。

 そして、三度目の流産と同時に曜子さんの訃報が知らされた。懸命の治療に関わらず、帰らぬ人となった。
281: 2015/11/01(日) 08:57:55.65 ID:yCaFSXzP0(5/14)調 AAS
 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
282: 2015/11/01(日) 08:59:24.59 ID:yCaFSXzP0(6/14)調 AAS
330 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:29:32.10 ID:tFeStDMd0
コピペ野郎から必死に逃げようと無理に話題振ってお前らかなり痛いというかわざとらしいなw
その努力は感服ものだよ…
まあそろそろここで全ての思惑を伝えよう

331 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:38:26.28 ID:tFeStDMd0
SSをコピペしまくったのは俺だよでもそれはいつまでたっても糞SS野郎がSS投下を止めないから
このスレじゃなくて本スレや雪菜スレも荒らせば糞SS野郎もSSの投下を止めると思ったからだ
実際のところ糞SSの投下は無くなっただろ
ほかにも愉快犯がいたみたいだけど7割くらいは俺だよ
素直にかずさファンには謝罪をしておくよ悪かった

332 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:47:02.26 ID:tFeStDMd0
雪菜スレを荒らしたのはあちらの住民には悪いがSS投下を止めさせる意図もあった
でも純粋に雪菜が大嫌いなのもあったから
そうまさに一石二鳥作戦だったんだよ雪菜ファンには申し訳ないが人柱だな
俺もかずさファンだし糞SS野郎がいつまでも駄文を投下してスレ妨害するのが我慢ならなかった
283: 2015/11/01(日) 09:00:39.29 ID:yCaFSXzP0(7/14)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
284: 2015/11/01(日) 09:06:51.59 ID:yCaFSXzP0(8/14)調 AAS
>>1

『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子——今の春希の義母——は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
285: 2015/11/01(日) 09:21:33.46 ID:yCaFSXzP0(9/14)調 AAS
そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
286: 2015/11/01(日) 09:29:11.84 ID:yCaFSXzP0(10/14)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
287: 2015/11/01(日) 09:30:35.66 ID:yCaFSXzP0(11/14)調 AAS
 かずさは血色を失いつつも舞台を凝視し続ける。板倉が時折小声で心配そうに話しかけたが、全く反応しない。

 ピアノを捨てた榛名には、和希が側に残り、捨てなかった雪音には、歌だけが残される。

 そうして、第2幕が終わったが、かずさは手足が震えてもはや立ち上がることすら出来きなかった。ただ、張り付けられたように幕の閉じられた舞台を見つめ続けるのみであった。

 そして、最終幕。
 
 そんな嘘に塗り固められた日々に疲れた和希がふと、榛名のピアノを聞きたいと漏らしたところから話は終盤に向かう。
 ブランクとスランプに喘ぎ、自暴自棄になって和希まで拒絶して引きこもってしまった榛名。その危機を救う為に現れたのは他でもない、雪音であった。

「…何のために来た…? わたしを罵りに来たのか? それとも…憐れみに来てくれたとでも言うのか?」
 雪音を拒絶する榛名。しかし、雪音は引き下がらない。

「どうしてそんなこと…そんなこと、どうして言うの…全部あなたが臆病なのが悪いんじゃない!」
 ぱしっ。平手の音が響く。
「勝手な…ことを言うな…あいつの…想いも夢も、尊敬も、焦りも、嫉妬も、彼女の座もずっと独り占めしておいて…今さら被害者ですよってしゃしゃり出てくるなっ」
 ぱしんっ。榛名も負けじと返す。

 平手打ちとともにお互いの本音をぶつけ合い、いつしか和解する二人。
 
「おまじないだよ」
 別れ際に雪音が榛名に渡したのは、あのコンテストの控え室で和希から受け取り、以来片時も離すことがなかった、和希との絆のギターピックだった。

「おまじないだ」
 そして、和希からは、キスを

 舞台にあのコンテストの日の「届かない恋」が流れ、榛名はピアノを取り戻す。しかし、それは皮肉にもあの日の3人の思い出と和希と雪音の仲まで取り戻してしまった。

 二人の為に身を引く決意を固める榛名。榛名がピアノを取り戻したことを知った母親からの留学の薦めを承け、誰にも知らせずウィーンへ去ろうとする。
 飛行機が起つ直前でその事を知り、空港へと向かう和希と雪音。
 雪による遅延で奇跡的に3人は出会うことができた。

 再会を誓い、和希と雪音は榛名を見送る。しかし、榛名はもう二人の元に戻らないと心に決めていた。

「あれ?」
「何か…ポケットに…」
「これ…和希のギターピック…」

 その意味に愕然として飛行機に向かい榛名の名を叫ぶ雪音。その雪音に寄り添う和希。二人の姿を照らしていたスポットライトが徐々に絞られ、舞台は暗転し、最終幕は閉じられた。
 スポットライトが最後に照らしたのは二人の繋がれた手、それは二人の未来を暗示していた。

 拍手に包まれる劇場にかずさの慟哭が響き渡った。
288: 2015/11/01(日) 09:33:29.06 ID:yCaFSXzP0(12/14)調 AAS
・ワルシャワ

 〜♪〜♪〜

春希「ポップスかい? 聞いたことない曲だな。珍しいな。かずさがクラシック以外弾くなんて」
かずさ「春希は不勉強だな。こっちの国の歌手のだ。こういったレパートリー増やした方がウケがいいからな。
 牧師さんの紹介で別のチャペルからも仕事もらえるようになったし、幅を広げておかないとな」
春希「そうか。悪いな」
春希「(自主的になってくれるのはいいけど、結構先の週末まで埋められるから、コンサートの仕事が入れられないよ…)」
かずさ「あたしが結婚式ピアニストに成り下がったのが不満なようだな。春希」
春希「! いや、そんなことは…」
かずさ「顔に書いてある」
春希「……。仕事を取ってやれない俺が不甲斐ないだけだよ」
かずさ「なあ。春希。あたしは別に悪い事じゃないとは思うんだが。ダメか?」
春希「え?」
かずさ「人に感謝されて、週末だけの働きでそれなりの金はもらえる。なんだか、こんな生活も悪くない気がしてきた」
春希「そ、そうか(まいったな。コンサートの仕事が取れてない以上、何も言えない)」
かずさ「コンサートピアニストなんて削れる仕事、無理に固執することはないと思うんだ。それより、春希とこうして過ごす時間が欲しい」
春希「…それもいいけどな。曜子さんには悪いな」
かずさ「あの人だってあたしがスターピアニストでなきゃ絶対ダメだなんて思ってないさ。思ってたら最初からもっと口出しするし、こんな風になる前に師匠も他のスタッフも押し付けてくるだろ」
春希「(それはそうなんだよな。曜子さんもそれにこだわって重荷に思うなって言ってくれて)でも…」
かずさ「あたしは、何度でも、何百回でも何千回でも言うが、春希さえいてくれればいい。あたしと一緒に日本を捨てて、ウィーン、ワルシャワくんだりまで来てくれて、こうして暮らしてくれているんだから。不満なことは何もない」
春希「それはありがとう。すまないな」
かずさ「だから、『すまない』なんて思って欲しくないんだ。春希は本当によくやってくれて、あたしを満たしてくれている」
春希「…ありがとう」

・ウィーン

雪菜「はあ。せっかくクラシック担当、ヨーロッパ担当としてやっと認められて、こうしてウィーンにも仕事で来られるようになったけど。かずさや春希君がいないんじゃなあ…」
雪菜「いけない! 仕事仕事! 今日のアーティストさんは日本のピアニストのコだね。峰城附属の2年後輩になるんだ。さて、もうそろそろ来るはずなんだけど」
少女「小木曽雪菜先輩ですね? はじめまして! ジュリです。こんにちは。今日は宜しくお願いします!」
雪菜「あれ? わたしの事知ってる?」
少女「はい! かずさ先輩と附属祭のステージに立ったヴォーカルの方ですよね。覚えています」
雪菜「!」
289: 2015/11/01(日) 11:47:20.80 ID:+pbMhUZh0(1)調 AAS
・ウィーン

少女「ありがとうございます。先輩。これからもお世話になります」
雪菜「こちらこそ。でも、峰城の後輩がウィーンで活躍してくれているなんて嬉しいな」
少女「あの…もし、ご存知ならでいいんですけど、小木曽先輩と昔バンドを組んでいらした冬馬かずさ先輩の話なんですけど。
 なんだか、トラブルでウィーンを出てしまったという事しか解らなくて。冬馬先輩が今どうしてらっしゃるか、ご存知ありませんか?」
雪菜「うーん。どっしよっかな。日本でもニュースになった話は知ってるんだよね?」
少女「はい。『海外で恥をさらす日本人たち』とかテレビや雑誌で叩かれてて…」
雪菜「まあ、それでちょっと表に出づらくなって、今はワルシャワにいるのよ。お母さんの曜子さんも心配しないでって言ってるんだけどね」
少女「そうなんですか…ワルシャワにもかずさ先輩は長い事いたはずですものね」
雪菜「そうなの?」
少女「ジョバンニコンクールがありますから。私も来年狙っているのでワルシャワに行きますよ。かずさ先輩に会えるといいなあ…かずさ先輩は今どなたに師事されてらっしゃるのですか?」
雪菜「ごめんなさい。その辺まではお母さんの曜子さんも教えてくれなくって」
少女「きっと頑張ってらっしゃるんでしょうね」
雪菜「そうだといいね。それじゃあ、これからもよろしくね。あと、先生にもね」
少女「はい」

・ワルシャワの小さな公園

春希「珍しいな。一人で散歩か?」
かずさ「いや、ちょっとな。静かにしろ」
春希「何だ?」
かずさ「耳をすませ」

 〜♪〜♪

春希「誰かがピアノを弾いているな」
かずさ「ああ。誰だか解らないが、まだ小さな子だな」
春希「どうしてわかるんだ?」
かずさ「手の大きさが足りないのを無理して弾いている。でも、中学生くらいの大きさがあれば足りるはずなんだ。
 …いつもこの辺でつまづくんだ。今日はどうだ?」

 〜♪…

かずさ「今日もだめか…」
春希「気になるのか?」
かずさ「ああ。どこの誰かも知らないが…あたしも小さな頃、同じ曲の同じところでつまづいた」
春希「……」
かずさ「今日はもうあの子もあきらめたみたいだな。あたしも帰るか。
 春希。一緒に帰るぞ」
春希「ああ」
290: 2015/11/01(日) 11:51:27.24 ID:5OpmD9ot0(1)調 AAS
…駄目だ、がらにもなく熱くなってるな。ちょっとクールダウンしないと。今の件も、ちゃんとフォローを…。…また「お母さん」に迷惑かけちゃうな。すいません、曜子さん。

色んな方面でどうリカバリーしようかを考えながら…

それとは別に、何かひっかかりを、感じる。

というか、その「ひっかかり」の正体は、わかっているような…。
わかっていて、脳が思い出すことを拒否しているような…。

とても重要な何かがあった、よな…。

—予定外のトラブルで、想定外に時間をとってしまっていた。
—とても重要な「約束」を、すっかり失念していた。
—時計を見るのが、ちょっと、いや、とても怖い。

…今、何時…

—時刻 20:04

…あ。…過ぎちゃってる。
…まずい。
…非常にまずい。

Brrrr Brrrr Brrrr

事態の深刻さに、一刻も早く連絡しようと携帯に手をかけたとき、その携帯に、着信が入った。
…今一番リカバリーしなきゃいけない人物からの着信であることは、あまりにも明白で。
…それにしても、弊社タレントは気が短すぎやしないだろうか。

なんだろうこの感じ…。電話を取りたいような、取りたくないような。声を聞きたいような、…声を、聞きたいような。

…Pi

春希  「…はい、もしm
かずさ 「おいっ!!何で帰ってこないんだ!!」

耳をつんざくかずさの怒声。…それはやっぱり、聞きたい声だった。

俺は、かずさの言動にではなく、自分の心の動きに一種の理不尽さを感じながら、平謝りする。
これこそが聞きたかった、って思うのは、…駄目すぎるよなあ。

春希  「悪かった!悪かったってば!」
かずさ 「謝って欲しいんじゃない!なんで帰ってこないのかって!ひとつの連絡もよこさないのかって聞いてるんだ!今どこにいるんだよ?!」
春希  「…事務所だよ。仕事してたの、頑張ってたんだよ、俺」
かずさ 「そんなの知るか!というか仕事なら持って帰ってすればいいだろ?なんでそんなとこにいなきゃいけないんだよ!」
春希  「想定外のトラブルがあったんだって。それd
かずさ 「それで、時間を忘れて、あたしとの約束を忘れて、仕事、してたって?何なんだよお前、ほんとに何なんだよ!」
291: 2015/11/01(日) 14:09:26.37 ID:aNacmzmq0(1)調 AAS
・意地の悪い指揮者と商談中

指揮者「ふむ。それはいいがミスター北原、私の問いには答えてくれていないようだが?」
春希「あ、はい。その件については…自分には少し専門的すぎてお答えしかねます」
指揮者「ほう。素晴らしい。私は冬馬かずさのマネージャーと話をする予定だったのだが、どうやら間違えてコメディアンと話し込んでしまったようだ。すまないがマネージャーを呼んできてくれるかい?」
春希「…フランツさん。私が冬馬かずさのマネージャーです」
指揮者「なんと!? いやはや。コメディアン呼ばわりしてすまなかったな。君はコメディアンよりずっと愉快だよ。
 しかし、冬馬曜子オフィスがうらやましいな。音楽家崩れの未成年も雇わず、君のような素晴らしくユーモア溢れる人材を抜擢する余裕があるなんてね」
春希「あの、フランツさん。仕事の話を進めませんか?」
指揮者「残念ながら君と話してるほど長い休暇は取れそうもない。冬馬かずさに来てもらえるかな?」
春希「残念ですが、かずさと直接の交渉はお断りしております。特にあなたのような方とはゴメンだと、かずさからも言われております」
指揮者「そうか。全く、冬馬かずさも幸運な女性だな」
春希「何か?」
指揮者「君という男を選んだばかりに母親のようなピアニストにならずに済んだのだからね」
春希「…それはどういう意味ですか!?」
指揮者「なに。親子で好みが違う事は珍しくない。冬馬曜子は自分を頂点に導く男を好むが、冬馬かずさはその性癖を受け継がなかっただけだろう」
春希「…あなたとはこれ以上話にならないようですね。失礼します」
指揮者「君は君の幸運さを知った方がいい。頂点に立ちたいと思わないピアニストにとって君は最適のパートナーだよ」
春希「くっ…」
292: 2015/11/01(日) 14:19:00.33 ID:jyeiQu2K0(1/9)調 AAS
過去のSSで不満ならオリジナルを投稿してやんよ

◆◆

「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
293: 2015/11/01(日) 14:20:40.26 ID:jyeiQu2K0(2/9)調 AAS
過去のSSで不満ならオリジナルを投稿してやんよ

◆◆

「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
294: 2015/11/01(日) 14:22:13.09 ID:jyeiQu2K0(3/9)調 AAS
>>1

『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
295: 2015/11/01(日) 14:28:17.79 ID:jyeiQu2K0(4/9)調 AAS
>>1

『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
296: 2015/11/01(日) 16:02:45.73 ID:VI7HGDuQ0(11/14)調 AAS
 日本を飛び出して、あの日から何も変わっていない。

11年前のあの日から変わらぬこの部屋。大きく変わる事のなかった部屋。変わる事の出来なかった部屋。
 そう、11年たって尚、俺達は二人だった。別に避妊をしていた訳じゃない。寧ろ、毎日のように何も考えずにお互いの体を求めあった。貪り合い愛し合った。
 だが、それでもかずさが妊娠した回数はたった3回。その全ても流産という最悪の結果で終わった。

 神に、咎人に祝福は与えないと頬を殴られたような気がした。罪人は罪人同士で、何も残せず死ねばいいと告げられた気がした。
 神を憎んだ事もある。恨んだこともある。だが、それに意味などないと何度も実感した。

流産の度に慟哭の声を上げるかずさ。かずさを抱きしめながらも俺もかずさに見られないように何度も涙を流した。

 そして、三度目の流産と同時に曜子さんの訃報が知らされた。懸命の治療に関わらず、帰らぬ人となった。
297: 2015/11/01(日) 16:04:27.97 ID:VI7HGDuQ0(12/14)調 AAS
・ブダペストのコンサート会場控え室

かずさ「テレビでもつけるか。(ぷち)あれ? 言葉がわからないな。そういや、今いる国はどこだったっけ?」
春希「ハンガリーだよ。なんで滞在中の国名を忘れるんだ?」
かずさ「春希についていってるだけだし、列車でいくつも国境またげば自分のいる国もわからなくなるさ」
春希「一つしか国境またいでないから。自分の住んでる国の隣国くらい覚えろ」
かずさ「ハンガリーってオーストリアの隣だったのか…」
春希「はぁ…。お客様がどこの国の人かぐらいわかっておいてほしかったな」
かずさ「関係ない。ハンガリー語で演奏する訳じゃない。ピアノは万国共通だ。それに、どうせ演奏して帰るだけなんだから、ハンガリーでもアメリカでも同じだ」
春希「……」
かずさ「なんだ? 旅行気分で来た方が良かったか?」
春希「いや。悪かったな。行きたい所にも連れて行ってやれず、窮屈な思いばかりさせて」
かずさ「何を今更…あたしは行きたい所なんてないから春希に言われるがままにどこにでも行くだけだ。
 春希こそ…」
春希「何だ?」
かずさ「春希こそ、日本に帰りたければ、ちょっとぐらい帰ってもいいんだぞ」
春希「なっ…!?」
かずさ「ちょっとぐらいの留守番は慣れてるさ。春希はあの人と打ち合わせするためとか、何とでも理由つけて行けない事はないだろう? あたしは雪菜たちとあんな事になって帰れないが、春希は雪菜とも一度話してるし、何より春希、一度日本に帰りたいんだろ?」
春希「な、何言ってるんだ、かずさ!? …結婚式であんな事になったのは曜子さん任せにしてた俺が悪いんだし、仕事の打ち合わせは電話で済んでいる。何より…」
かずさ「なあ、春希。あたしは春希に窮屈な思いさせていないか?」
春希「…もうよそう。この話は」
かずさ「…うん」
298: 2015/11/01(日) 16:07:19.71 ID:VI7HGDuQ0(13/14)調 AAS
・取材後

春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
 事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
 すぐに事の次第も明らかになった。
 大変だったよ。
 浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
 例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
 日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
 迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
 まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
 了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
 お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
 グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」
299: 2015/11/01(日) 16:14:18.29 ID:VI7HGDuQ0(14/14)調 AAS
・ワルシャワ近郊の列車内

春希「(ワルシャワでの仕事は取れなかったけど、次に期待できる返答はいただけたし。さて、かずさの待つウィーンまで帰ろう)」
春希「(音楽でも聴いて帰るか。少しでもクラシックを勉強しないとな)」
 〜♪〜♪〜
春希「(しかし、クラシックは眠くなるな)ふああ…」

 …ゴソゴソ

春希「…ん? 寝てたな。まあ、こんな長い列車移動だし…
 って、音楽プレーヤーがない! 鞄が開いてる…財布や携帯、パスポートまで! やられた!
 日本でもあるまいに、列車内で居眠りするなんて…しくじった…」

・大使館

春希「パスポート再発行まではしばらくかかるか…かずさも呆れてたな…」
大使館員「北原春希さん。あなたに面会したいというポーランド人の方が来てます」
春希「誰ですか? …あ、あなたは! ワルシャワに来られていたんですか」

・カフェ

中年男「この度は災難だったね。大恩ある曜子さんのためにも、できるだけのお手伝いはさせてもらうよ」
春希「ありがとうございます。クルクフでも色々口利きいただいた上に、こんな…。お借りしたお金はできるだけ早くお返しさせていただきます」
中年男「気にしなくていい。曜子さんとかずささんによろしく」
春希「すみません。クルクフでもかずさから挨拶なしで…」
中年男「仕方ないさ。私と曜子さんのかつての関係を考えれば、娘であるかずささんには蛇蝎のように嫌われても仕方ない」
春希「……」
中年男「曜子さんには色々教わった。説教もされたよ。
『ムッツリした顔で演奏だけして帰るなんて何様のつもり? 客席にいるのはあなたの腕自慢見にきた審査員でなく、クラシックを楽しみに生きた演奏家に会いに来てくれた人なのよ』なんてね。
 ああ、すまない。私の若い頃を思い出してね。君たちの事にまでどうこういうつもりはないんだが、ついついね」
春希「いえ…」
中年男「まだしばらくワルシャワにいるから、困ったことや悩んでいることがあったら連絡しなさい。遠慮することはない」
春希「すいません。ありがとうございます」

・再び大使館

春希「ふう。やっと再発行の日が来たか。
 すいません。北原春希です」
大使館員「北原さん。お待たせしました。こちらになります。どうぞ」
春希「あれ? これ、パスポートじゃないですよね?」
大使館員「そうですよ。あれ? 説明聞かれていませんでしたか? フライト便とか大丈夫でしたか?」
春希「『帰国のための渡航証明書』…」
300: 2015/11/01(日) 16:51:22.91 ID:jyeiQu2K0(5/9)調 AAS
>>1

『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
301: 2015/11/01(日) 16:53:12.27 ID:jyeiQu2K0(6/9)調 AAS
>>1

『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
302: 2015/11/01(日) 16:55:14.34 ID:jyeiQu2K0(7/9)調 AAS
330 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:29:32.10 ID:tFeStDMd0
コピペ野郎から必死に逃げようと無理に話題振ってお前らかなり痛いというかわざとらしいなw
その努力は感服ものだよ…
まあそろそろここで全ての思惑を伝えよう

331 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:38:26.28 ID:tFeStDMd0
SSをコピペしまくったのは俺だよでもそれはいつまでたっても糞SS野郎がSS投下を止めないから
このスレじゃなくて本スレや雪菜スレも荒らせば糞SS野郎もSSの投下を止めると思ったからだ
実際のところ糞SSの投下は無くなっただろ
ほかにも愉快犯がいたみたいだけど7割くらいは俺だよ
素直にかずさファンには謝罪をしておくよ悪かった

332 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:47:02.26 ID:tFeStDMd0
雪菜スレを荒らしたのはあちらの住民には悪いがSS投下を止めさせる意図もあった
でも純粋に雪菜が大嫌いなのもあったから
そうまさに一石二鳥作戦だったんだよ雪菜ファンには申し訳ないが人柱だな
俺もかずさファンだし糞SS野郎がいつまでも駄文を投下してスレ妨害するのが我慢ならなかった
303: 2015/11/01(日) 16:58:13.31 ID:jyeiQu2K0(8/9)調 AAS
330 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:29:32.10 ID:tFeStDMd0
コピペ野郎から必死に逃げようと無理に話題振ってお前らかなり痛いというかわざとらしいなw
その努力は感服ものだよ…
まあそろそろここで全ての思惑を伝えよう

331 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:38:26.28 ID:tFeStDMd0
SSをコピペしまくったのは俺だよでもそれはいつまでたっても糞SS野郎がSS投下を止めないから
このスレじゃなくて本スレや雪菜スレも荒らせば糞SS野郎もSSの投下を止めると思ったからだ
実際のところ糞SSの投下は無くなっただろ
ほかにも愉快犯がいたみたいだけど7割くらいは俺だよ
素直にかずさファンには謝罪をしておくよ悪かった

332 名無しさんだよもん sage 2015/07/29(水) 09:47:02.26 ID:tFeStDMd0
雪菜スレを荒らしたのはあちらの住民には悪いがSS投下を止めさせる意図もあった
でも純粋に雪菜が大嫌いなのもあったから
そうまさに一石二鳥作戦だったんだよ雪菜ファンには申し訳ないが人柱だな
俺もかずさファンだし糞SS野郎がいつまでも駄文を投下してスレ妨害するのが我慢ならなかった
304: 2015/11/01(日) 18:51:09.41 ID:jyeiQu2K0(9/9)調 AAS
過去のSSで不満ならオリジナルを投稿してやんよ

◆◆

「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。
305: 2015/11/01(日) 21:20:07.70 ID:yCaFSXzP0(13/14)調 AAS
『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
306: 2015/11/01(日) 21:21:11.14 ID:yCaFSXzP0(14/14)調 AAS
 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
307
(1): 2015/11/01(日) 22:24:02.62 ID:dLG8M3ON0(1)調 AAS
(´・ω・`)
308: 2015/11/01(日) 23:58:57.25 ID:dGrKVlH+0(1)調 AAS
>>307
何だ
309
(1): 2015/11/02(月) 00:15:17.42 ID:oA1bI7lQ0(1)調 AAS
(´・ω・`)俺の嫁
310
(1): 2015/11/02(月) 15:42:24.22 ID:LVpCKAdM0(1)調 AAS
お前にゃ無理だ
311: 2015/11/02(月) 16:08:51.62 ID:GYmargsO0(1)調 AAS
クーン
312: 2015/11/02(月) 22:28:57.19 ID:e9COhtqt0(1/6)調 AAS
・ワルシャワ近郊の列車内

春希「(ワルシャワでの仕事は取れなかったけど、次に期待できる返答はいただけたし。さて、かずさの待つウィーンまで帰ろう)」
春希「(音楽でも聴いて帰るか。少しでもクラシックを勉強しないとな)」
 〜♪〜♪〜
春希「(しかし、クラシックは眠くなるな)ふああ…」

 …ゴソゴソ

春希「…ん? 寝てたな。まあ、こんな長い列車移動だし…
 って、音楽プレーヤーがない! 鞄が開いてる…財布や携帯、パスポートまで! やられた!
 日本でもあるまいに、列車内で居眠りするなんて…しくじった…」

・大使館

春希「パスポート再発行まではしばらくかかるか…かずさも呆れてたな…」
大使館員「北原春希さん。あなたに面会したいというポーランド人の方が来てます」
春希「誰ですか? …あ、あなたは! ワルシャワに来られていたんですか」

・カフェ

中年男「この度は災難だったね。大恩ある曜子さんのためにも、できるだけのお手伝いはさせてもらうよ」
春希「ありがとうございます。クルクフでも色々口利きいただいた上に、こんな…。お借りしたお金はできるだけ早くお返しさせていただきます」
中年男「気にしなくていい。曜子さんとかずささんによろしく」
春希「すみません。クルクフでもかずさから挨拶なしで…」
中年男「仕方ないさ。私と曜子さんのかつての関係を考えれば、娘であるかずささんには蛇蝎のように嫌われても仕方ない」
春希「……」
中年男「曜子さんには色々教わった。説教もされたよ。
『ムッツリした顔で演奏だけして帰るなんて何様のつもり? 客席にいるのはあなたの腕自慢見にきた審査員でなく、クラシックを楽しみに生きた演奏家に会いに来てくれた人なのよ』なんてね。
 ああ、すまない。私の若い頃を思い出してね。君たちの事にまでどうこういうつもりはないんだが、ついついね」
春希「いえ…」
中年男「まだしばらくワルシャワにいるから、困ったことや悩んでいることがあったら連絡しなさい。遠慮することはない」
春希「すいません。ありがとうございます」

・再び大使館

春希「ふう。やっと再発行の日が来たか。
 すいません。北原春希です」
大使館員「北原さん。お待たせしました。こちらになります。どうぞ」
春希「あれ? これ、パスポートじゃないですよね?」
大使館員「そうですよ。あれ? 説明聞かれていませんでしたか? フライト便とか大丈夫でしたか?」
春希「『帰国のための渡航証明書』…」
313: 2015/11/02(月) 23:18:43.46 ID:e9COhtqt0(2/6)調 AAS
・病院

小男「倒れたって聞いたけど、大丈夫そうだね」
曜子「日本に来てたのね。よくもぬけぬけと私の前に顔が出せたモノね」
小男「ボク、何か悪いコトした?」
曜子「あなたがかずさにちょっとでも期待してるフリしてくれれば、あんな陰険なマネかます連中も出なかったでしょうよ」
小男「ボクはむしろキミこそ何やってんだと思ってたケドね」
曜子「何よ。こっちはこのとおり、仕方なかったのよ」
小男「そうかい? じゃあ聞くけど、キミは彼女たちにどうあって欲しいと願っていたんだい?」
曜子「どうって?」
小男「ボクがキミならドンとデカい公演や共演かまして、フランスのおばちゃんあたり師匠につけてメキメキ経験と力つけさせて世界に通用するコに育てるケドね」
曜子「あの子たちに好きにやらせたいだけよ」
小男「キミがそうして甘やかしてるから、あの子たちもあんなんなんだよ。きっと今回の件も『ほとぼり冷めるまでじっと休めばいいや』程度にしか考えてないでしょ。あの子たち」
曜子「調子出ないうちくらいスネかじりしてくれる方が親としてはありがたいけど」
小男「金コネ出して口出さない、期待のプレッシャーもかけず甘やかしてたら金の卵も腐るよ」
曜子「それはそれであの子たちの選択でしょ。結構な人生じゃないのよ」
小男「むしろあの子たち、日本に名前流れない方がいいとさえ思ってるよね。
 ボクが言うのも何だけど、何しにウィーンに来たのと聞きたくなるよ。ちょっとキミの言うこと聞かせて軽く育てればすぐ日本でも名前が響く子になれるのに、まるでそうなるのを避けているみたい。
 この狭いクラシックの世界で、ワザと名前が漢字にならないよう、日本人の誰かの目に入るのを避ける為にウィーンに逃げてきたみたい」
曜子「何よ。男女関係のトラブルってコトは知ってるくせに」
小男「相手の子の事なんて知らないケド、その子の前を横切り、名前が彼女の目に入るのを避けるために日本を離れウィーンに来としたら、なんて馬鹿げた話だろうと思うケドね。
 あの子ならマトモに活動するだけですぐ『日本人ピアニスト』として有名になっちゃうんだから。むしろ、そうなるのを避けるためにあの旦那さんと食っちゃ寝生活してるみたい」
曜子「まだ、マトモに活動初めて何年もしないじゃない。そのうち育ってくれればいいわよ」
小男「キミはいったい、彼女たちにどうあって欲しいんだい?
 狭い鳥の巣の中で、他のヒナが飛ぶためにエサの奪い合いしてる中、飛ぼうとせず巣の中で温まってるヒナなんて、遅かれ早かれ他のヒナにつつき殺されるよ。親鳥が見てたり、他のヒナと羽並べない限りね。
 昔はもっとひどかった。東洋人なんて頭の黒い音楽家はそれだけでつつかれた。キミもボクもそうだったように。だから、互いに羽並べ友誼むすんでいた」
曜子「だから?」
小男「ボクはキミにどうしたいと聞きに来たんだけどね。今回の件は流石にヤツらもやり過ぎだと思うし、日本人が悪し様に貶められるのも腹立つから、今回だけなら介入してもいいかなとは思ってるケド? その代わり、ボクの好きなように介入させてもらうケド」
曜子「あなたなんかの手を借りなくてもあの子たちは何とかするわよ。もともと世界に羽ばたくなんて大それた目的持ってるわけでもないし」
小男「もうわかったよ。それじゃ、父親の方の意見を聞きに行こう」
曜子「!! それは止めて!」
小男「キミの娘だけど、キミだけの娘じゃない。ジョバンニ4位なんて本当なら誰だって親代わりになって自分の手元で育てたいコなんだよ。あの旦那さんじゃなければね」
曜子「あの2人の仲を裂いたら八つ裂きにするわよ」
小男「それはしない。ただ、あの男の話を聞きに行くだけだよ」
曜子「やめて。まだ、あの人は知らないのよ!?」
小男「知らないってコトは本当に厄介だね。彼の意見がキミと同意見であるといいけどね。じゃあね」
曜子「二度と来るな!」

曜子「かずさ。私は自分に歩めなかった道をあなたに歩ませたがっているだけかもしれないけど、でも、それでもあなたを愛しているのよ・・・」
314: 2015/11/02(月) 23:19:57.34 ID:e9COhtqt0(3/6)調 AAS
・意地の悪い指揮者と商談中

指揮者「ふむ。それはいいがミスター北原、私の問いには答えてくれていないようだが?」
春希「あ、はい。その件については…自分には少し専門的すぎてお答えしかねます」
指揮者「ほう。素晴らしい。私は冬馬かずさのマネージャーと話をする予定だったのだが、どうやら間違えてコメディアンと話し込んでしまったようだ。すまないがマネージャーを呼んできてくれるかい?」
春希「…フランツさん。私が冬馬かずさのマネージャーです」
指揮者「なんと!? いやはや。コメディアン呼ばわりしてすまなかったな。君はコメディアンよりずっと愉快だよ。
 しかし、冬馬曜子オフィスがうらやましいな。音楽家崩れの未成年も雇わず、君のような素晴らしくユーモア溢れる人材を抜擢する余裕があるなんてね」
春希「あの、フランツさん。仕事の話を進めませんか?」
指揮者「残念ながら君と話してるほど長い休暇は取れそうもない。冬馬かずさに来てもらえるかな?」
春希「残念ですが、かずさと直接の交渉はお断りしております。特にあなたのような方とはゴメンだと、かずさからも言われております」
指揮者「そうか。全く、冬馬かずさも幸運な女性だな」
春希「何か?」
指揮者「君という男を選んだばかりに母親のようなピアニストにならずに済んだのだからね」
春希「…それはどういう意味ですか!?」
指揮者「なに。親子で好みが違う事は珍しくない。冬馬曜子は自分を頂点に導く男を好むが、冬馬かずさはその性癖を受け継がなかっただけだろう」
春希「…あなたとはこれ以上話にならないようですね。失礼します」
指揮者「君は君の幸運さを知った方がいい。頂点に立ちたいと思わないピアニストにとって君は最適のパートナーだよ」
春希「くっ…」
315: 2015/11/02(月) 23:21:46.35 ID:e9COhtqt0(4/6)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
316: 2015/11/02(月) 23:22:51.15 ID:e9COhtqt0(5/6)調 AAS
 かずさは血色を失いつつも舞台を凝視し続ける。板倉が時折小声で心配そうに話しかけたが、全く反応しない。

 ピアノを捨てた榛名には、和希が側に残り、捨てなかった雪音には、歌だけが残される。

 そうして、第2幕が終わったが、かずさは手足が震えてもはや立ち上がることすら出来きなかった。ただ、張り付けられたように幕の閉じられた舞台を見つめ続けるのみであった。

 そして、最終幕。
 
 そんな嘘に塗り固められた日々に疲れた和希がふと、榛名のピアノを聞きたいと漏らしたところから話は終盤に向かう。
 ブランクとスランプに喘ぎ、自暴自棄になって和希まで拒絶して引きこもってしまった榛名。その危機を救う為に現れたのは他でもない、雪音であった。

「…何のために来た…? わたしを罵りに来たのか? それとも…憐れみに来てくれたとでも言うのか?」
 雪音を拒絶する榛名。しかし、雪音は引き下がらない。

「どうしてそんなこと…そんなこと、どうして言うの…全部あなたが臆病なのが悪いんじゃない!」
 ぱしっ。平手の音が響く。
「勝手な…ことを言うな…あいつの…想いも夢も、尊敬も、焦りも、嫉妬も、彼女の座もずっと独り占めしておいて…今さら被害者ですよってしゃしゃり出てくるなっ」
 ぱしんっ。榛名も負けじと返す。

 平手打ちとともにお互いの本音をぶつけ合い、いつしか和解する二人。
 
「おまじないだよ」
 別れ際に雪音が榛名に渡したのは、あのコンテストの控え室で和希から受け取り、以来片時も離すことがなかった、和希との絆のギターピックだった。

「おまじないだ」
 そして、和希からは、キスを

 舞台にあのコンテストの日の「届かない恋」が流れ、榛名はピアノを取り戻す。しかし、それは皮肉にもあの日の3人の思い出と和希と雪音の仲まで取り戻してしまった。

 二人の為に身を引く決意を固める榛名。榛名がピアノを取り戻したことを知った母親からの留学の薦めを承け、誰にも知らせずウィーンへ去ろうとする。
 飛行機が起つ直前でその事を知り、空港へと向かう和希と雪音。
 雪による遅延で奇跡的に3人は出会うことができた。

 再会を誓い、和希と雪音は榛名を見送る。しかし、榛名はもう二人の元に戻らないと心に決めていた。

「あれ?」
「何か…ポケットに…」
「これ…和希のギターピック…」

 その意味に愕然として飛行機に向かい榛名の名を叫ぶ雪音。その雪音に寄り添う和希。二人の姿を照らしていたスポットライトが徐々に絞られ、舞台は暗転し、最終幕は閉じられた。
 スポットライトが最後に照らしたのは二人の繋がれた手、それは二人の未来を暗示していた。

 拍手に包まれる劇場にかずさの慟哭が響き渡った。
317: 2015/11/02(月) 23:25:03.23 ID:e9COhtqt0(6/6)調 AAS
『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
318: 2015/11/02(月) 23:46:48.09 ID:+UWlnlLP0(1)調 AAS
>>309-310
かずさを嫁にするには相当ハイスペックな能力が求められるからな
春希さん次元が違う
319: 2015/11/02(月) 23:54:22.93 ID:DK9aNXVy0(1)調 AAS
人生を犬に捧げられるトップブリーダーでなければ
かずさの旦那になれないからな
320: 2015/11/03(火) 00:14:04.44 ID:QYXyMkEJ0(1)調 AAS
身も蓋も無い事言えば1ピアニストの付け人なんかで人生終わっていいのかとも思う
そんなもんみよちゃんに任せておくナリよ
321: 2015/11/03(火) 00:27:52.80 ID:Yt9Rx0Bc0(1)調 AAS
プロモーターも兼任してるし、
将来は事務所の社長も望めるんだから悪い人生では無いだろう
322: 2015/11/03(火) 00:37:19.95 ID:gUiETWbB0(1)調 AAS
突き抜けた人間をサポートする仕事、そういう生き方も良いだろってかずさ相手についポロっと言っちゃったしな
323: 2015/11/03(火) 01:17:24.49 ID:pn4zEY9J0(1)調 AAS
こっちへ移動しようぜ

【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 避難所
したらばスレ:game_59384
324: 2015/11/03(火) 06:03:51.99 ID:OmJ2RY0N0(1/13)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
325: 2015/11/03(火) 06:04:59.81 ID:OmJ2RY0N0(2/13)調 AAS
・ブダペストのコンサート会場控え室

かずさ「テレビでもつけるか。(ぷち)あれ? 言葉がわからないな。そういや、今いる国はどこだったっけ?」
春希「ハンガリーだよ。なんで滞在中の国名を忘れるんだ?」
かずさ「春希についていってるだけだし、列車でいくつも国境またげば自分のいる国もわからなくなるさ」
春希「一つしか国境またいでないから。自分の住んでる国の隣国くらい覚えろ」
かずさ「ハンガリーってオーストリアの隣だったのか…」
春希「はぁ…。お客様がどこの国の人かぐらいわかっておいてほしかったな」
かずさ「関係ない。ハンガリー語で演奏する訳じゃない。ピアノは万国共通だ。それに、どうせ演奏して帰るだけなんだから、ハンガリーでもアメリカでも同じだ」
春希「……」
かずさ「なんだ? 旅行気分で来た方が良かったか?」
春希「いや。悪かったな。行きたい所にも連れて行ってやれず、窮屈な思いばかりさせて」
かずさ「何を今更…あたしは行きたい所なんてないから春希に言われるがままにどこにでも行くだけだ。
 春希こそ…」
春希「何だ?」
かずさ「春希こそ、日本に帰りたければ、ちょっとぐらい帰ってもいいんだぞ」
春希「なっ…!?」
かずさ「ちょっとぐらいの留守番は慣れてるさ。春希はあの人と打ち合わせするためとか、何とでも理由つけて行けない事はないだろう? あたしは雪菜たちとあんな事になって帰れないが、春希は雪菜とも一度話してるし、何より春希、一度日本に帰りたいんだろ?」
春希「な、何言ってるんだ、かずさ!? …結婚式であんな事になったのは曜子さん任せにしてた俺が悪いんだし、仕事の打ち合わせは電話で済んでいる。何より…」
かずさ「なあ、春希。あたしは春希に窮屈な思いさせていないか?」
春希「…もうよそう。この話は」
かずさ「…うん」
326: 2015/11/03(火) 06:07:07.17 ID:OmJ2RY0N0(3/13)調 AAS
5/12(水)複合文化施設「Kaikomura」1階レストラン「コクーン」にて

 からり、から…  からり、から…
 
 コーヒーシュガーが空しい音を立て、黒褐色の液体の中に埋没していく。
 その数が5杯目にさしかかったが、同席している誰も彼女—売り出し中の若手女性ピアニスト、冬馬かずさ—の糖分過剰摂取に気付きすらしなかった。
 
 目の前では、彼女のマネージャーがクライアントとの打ち合わせのまとめにかかっている。かずさはそれを他人事のように眺めていた。
 
 同じ建物の3階にあるコンサートホールの下見が済んだ時点でかずさの本日の仕事は終わったようなものであった。
 あとのこまごまとした打ち合わせ事項はいつもどおり全てマネージャー任せであり、かずさ本人にはそういった仕事上のすり合わせを行う能力も意思も全くなかった。
 
 そんな事情を察するや、クライアントの男性もマネージャーとの用談に集中した。
 だから、下見後のフレンチレストランでの会食はかずさにとって、クライアントとマネージャーが話をまとめるまでの時間つぶしにすぎなかった。
 マネージャーが「では、そういうことでいいですね。かずささん」と確認を求めた際も、かずさはほとんど内容を理解することなく「うん、いいよ」と、答えた。
 かずさが理解していたのは「3階のホールで秋にピアノを弾く」、それだけであった。

 食事の間かずさが聞いていたのは打ち合わせの内容ではなく、レストランの外の喧噪の声であった。
 パリのカフェと同じようにポットで出されたコーヒーを砂糖で流し込み終わるころには外の喧噪も打ち合わせも止み、かずさは本日最後の仕事を実行することにした。
 何度も練習させられた、ぎこちない営業スマイルと共に
「では、本日はどうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」
 これが、かずさの5月12日最後の仕事であった。

「では、かずささん。また明日お願いします」
「ああ・・・。いつもありがとう。美代子さん」
 レストランの外でかずさはマネージャーと別れた。
 
 マネージャーはこれから冬馬曜子—稀代の世界的ピアニストにしてかずさの母、そして、冬馬曜子オフィス社長—の所に報告に向かうことになっている。
 行先は峰城大学病院…公表はされていないが、曜子は白血病を患い定期的に検査入院を繰り返している。
 
 娘の売り出しのためには病床を抜け出し駆け回ることを厭わない曜子であったが、今日のような簡単な打ち合わせは報告受けで済ましている。
 だから、かずさは今日はひとりで帰ることになっていた。

 帰る、か…

 かずさの足取りは重たかった。今日は形ばかりの仕事であったが、それでも仕事のあるうちはそれで気を紛らすことができた。
 母親から押しつけられた忙しいスケジュールも却ってありがたかった。
 しかし、仕事が終わってひとりになった時に襲う寂寞感をやり過ごす術までは、まだかずさは見出せてはいなかった。

 そうしてふらふらと出口に向かうかずさの横をひとりの女性が通り過ぎた。

 ぴく…
 かずさは足を止める。
「?…誰だっけ…」

 振り返るが、後ろ姿ではわからない。最近会ったような気がしたが、どこで会ったかも思い出せない。

 しかし気になる。5年間ウィーンで暮らし5ヶ月前に帰国した彼女がこの国で「知り合い」と感じることのできる人は少ない。同年代くらいの女性だったが…

 かずさは追いかけて確かめることにした。たとえ人違いだったとしても気乗りのしない帰宅よりはマシと感じていたからだった。

 その女性はエスカレーターで2Fに上がり、「シアターモーラス」スタッフ出入り口の付近で立ち止まった。
327: 2015/11/03(火) 06:08:10.92 ID:OmJ2RY0N0(4/13)調 AAS
 日本を飛び出して、あの日から何も変わっていない。

11年前のあの日から変わらぬこの部屋。大きく変わる事のなかった部屋。変わる事の出来なかった部屋。
 そう、11年たって尚、俺達は二人だった。別に避妊をしていた訳じゃない。寧ろ、毎日のように何も考えずにお互いの体を求めあった。貪り合い愛し合った。
 だが、それでもかずさが妊娠した回数はたった3回。その全ても流産という最悪の結果で終わった。

 神に、咎人に祝福は与えないと頬を殴られたような気がした。罪人は罪人同士で、何も残せず死ねばいいと告げられた気がした。
 神を憎んだ事もある。恨んだこともある。だが、それに意味などないと何度も実感した。

流産の度に慟哭の声を上げるかずさ。かずさを抱きしめながらも俺もかずさに見られないように何度も涙を流した。

 そして、三度目の流産と同時に曜子さんの訃報が知らされた。懸命の治療に関わらず、帰らぬ人となった。
328: 2015/11/03(火) 06:09:23.55 ID:OmJ2RY0N0(5/13)調 AAS
「あ゛ぁ”あ゛」

 分かっている。そんな事分かりきっている。
 あぁ、そうだ。かずさは死んだんだ。

 曜子さんと同じ病。ただ、それと同時に風邪を患ってしまってそれが災いした。ただの風邪だったモノが数日もしない内に肺炎となり、そしてあっけなく命を奪ってしまった。
 たった数日前まで元気にピアノを弾いていたかずさ。こちらが呆れる程に俺に甘えてきたかずさ。窘めるぐらいに甘いモノを口に頬張っていたかずさ。

 だっていうのに、たった数日で帰らぬものとなってしまった。

 今でも、かずさが傍にいない事が信じられない。探せばどこかにいると思ってしまう俺がいる。
 だけど、葬儀の準備をしたのも、棺に納められ埋められたかずさの事も俺は覚えている。俺は、覚えているっ!
329: 2015/11/03(火) 06:39:14.12 ID:OmJ2RY0N0(6/13)調 AAS
「パパっ!」

 俺とかずさの家が見えなくなって雪菜を振り切るように歩きかけたその時に、その声は聞こえた。

 同時に、胸元へとドンっとぶつかる音と衝撃。

「パパッ!」

 おいおい、俺がパパって。俺は、神様に親になる事が許されなかった人間だっていうのに。

 抱きしめ、涙すら流している目の前の少女。
 そこには、栗色と黒の中間という欧州では珍しい髪の色。
 目の前の少女には悪いけど、きちんと親の元に帰さないと。

 ぐいっと、引き離して女の子の顔を見る。
 顔立ちはやはりこちらでは珍しいアジア系の顔。それも、顔立ちと服装から日本人の子供。
 俺から離れるのがよほど嫌なのか、イヤイヤと首を振って力いっぱい近づいてくる女の子。
 顔立ちは、誰だろう。何故だか、嫌な予感が止まらない。あぁ、そうだ、そうだ。雪菜の家で見た、小さいころの雪菜に、よく…………似ている。

「私の、子供だよ」

 何時の間に泣き止んだのか。いつのまに降りてきたのか。後ろの方で赤い眼をしてそう断言する雪菜の顔がよく見えない。

 馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!

「私と、春希君の子供、だよ」

 目の前の子供は十歳ぐらい。確かに、それなら辻褄が合う。かずさの手を取るまでは当たり前のように体を重ね合っていた。安全日も考えてはいたが、その日は付けていなかった。

「あ゛ぁあ゛あ」

 声が出ない。
 そうか。そうか、そうか。そうかっ! そういう事かよ、神様。俺とかずさの子が出来なかったのは、俺に、雪菜との子供がいるから!
330: 2015/11/03(火) 06:40:33.33 ID:OmJ2RY0N0(7/13)調 AAS
 体から力が抜けて音を立てて、地面に膝がついた。

 俺は、俺には、かずさとの愛さえ貫けては、いけないというのかっ!

「あ゛ぁ”あ゛あああああああああああ—————————————————」

 雪は降り続けている。
 辛い事、哀しい事。そして、見たくもない真実を覆い隠してくれようとしている。

 ただ白く、綺麗なだけの世界を目の前に広げ、俺達をそこに置き去りにしようとしている。

 だけど、だけど、これは。

 雪よ、頼む。俺の罪を覆い隠さないでくれ。俺から罪を消さないでくれ。

 雪よ、雪よ、頼む。俺を優しく包み込まないでくれ。俺に温もりを与えないでくれ。

 雪よ、雪よ、これより溶ける事のない万年雪よ。どうかどうかすべてを覆い隠して冬すら感じさせないようにしないでくれ。俺から、かずさを奪わないでくれ。

 雪は降り積もる。二度と溶ける事のない雪が降りしきる。

 そう、哀しい事に、現実はいつだって————
331: 2015/11/03(火) 06:43:02.94 ID:OmJ2RY0N0(8/13)調 AAS
・取材後

春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
 事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
 すぐに事の次第も明らかになった。
 大変だったよ。
 浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
 例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
 日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
 迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
 まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
 了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
 お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
 グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」
332: 2015/11/03(火) 06:44:07.02 ID:OmJ2RY0N0(9/13)調 AA×

333: 2015/11/03(火) 06:45:16.11 ID:OmJ2RY0N0(10/13)調 AA×

334: 2015/11/03(火) 06:46:19.02 ID:OmJ2RY0N0(11/13)調 AAS
 そして当日、夜。世間的にはバレンタインで盛り上がっている頃、俺たちは誕生日で盛り上がっていた。

武也「いやー。もう何度でも言うぜ、俺。おめでとう、そしておめでとう!!
   なんつーかなぁ、こうして新婚一年目で無事雪菜ちゃんの誕生パーティもできて、ほんと……俺……っ」
春希「酒飲んで感極まってるとこ悪いけど、武也、お前の出番これで終了だから」
武也「はぁっ!? 出番ってなんだよ、俺とお前の漢坂はこれからだろうがよぉ!」
春希「いやほんといいんで。隅で衣緒と遊んでなさい」
武也「格は、格は足りてるはずなんだッ……!」

 宴もたけなわとでも言おうか。めんどくさい酔っ払いは置いといて、小木曽家リビングを見回す。
 雪菜の家族や麻理さん、杉浦たち四人に、和泉、柳原さん、武也、衣緒。そして雪菜とかずさ。
 身内だけの、ささやかだけど大切なパーティ。
 ささやか、なんて言いながら余裕で十人を越える『身内』はきっと、雪菜が勝ち取ったものなんだ。

朋「雪菜、今日は歌うって聞いたんだけど。『お客様』をこんなに待たせていいの?」
雪菜「分かってるよ、もう。ちょっとくらい待てないの?
   それにわたし、柳原さんは呼んでなかったのに……」
朋「はぁ!? さっすが小木曽雪菜、最大のライバルから逃げて結婚した挙句、
  ヌルいお友達と群れるしかできないのねぇ〜」
雪菜「北原雪菜」
朋「え?」
雪菜「だから、名前。き・た・は・ら、雪菜。間違えないでね、柳原朋さん」
朋「くっ……!」
衣緒「雪菜、後輩いじめなんかしてないで歌の準備してきな」
雪菜「うん、ケーキでも食べてちょっと待っててね。着替えてくるから」
朋「男がいるからって、男がいるからってこいつら……うぅー!」
小春「あ、あのっ、おぎそせん……北原先輩……だとどっちか分かんないし……」
雪菜「雪菜、って呼んで。杉浦さん」
小春「はいっ! 雪菜先輩、わたしたちも期待してます! と、冬馬先輩も頑張ってください!」
かずさ「ああ。ま、あいつの歌詞じゃ、あたしの曲も雪菜の声も形無しだけどな」
麻理「後で独占インタビュー、お願いしますね」
かずさ「…………」

 雪菜とかずさが二階へ向かう。俺は五分おいて雪菜の部屋へ。
 扉を開けると、そこには着替えを終えた雪菜とかずさがいた。
 衣装は学園祭の時のアレ。
 俺も当時のアレ—ーつまり制服に着替えると、キーボードとギターを持って二人に向き直った。

春希「かずさ、いけるな」
かずさ「こんな余興でいけるも何もない」
春希「雪菜、いこうか」
雪菜「うん」
かずさ「春希、いけそうにないな」
春希「うるさいよ!」

 三人で部屋を出てリビングへ。ささやかな歓声を受けつつセッティング。位置につき、ギターを構える。
 不意に雪菜が振り返る。何だと思う間もなく、俺は雪菜に抱き締められた。

雪菜「春希くん」
春希「どうした?」
雪菜「……だぁいすき、だよ」

 雪菜が中央に戻り、マイクのスイッチを入れる。かずさの前奏が心地良く耳朶を打つ。
 遅れてなるものかと俺も弦を押さえてかき鳴らす。
 そして。
 鈴のような雪菜の声が響く————。
335: 2015/11/03(火) 06:47:54.48 ID:OmJ2RY0N0(12/13)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
336: 2015/11/03(火) 07:01:35.55 ID:OmJ2RY0N0(13/13)調 AAS
「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。

 流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
 明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。

 玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
 脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。

 子供がいなくて良かったと心底思った。

 吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
 まずい
 だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。

 紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
 ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
 電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。

「何をしてるんだ? 早くしろよ」
 急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。

 居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
 もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。

 居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。
337: 2015/11/04(水) 22:42:11.05 ID:1mJ/Gskk0(1/4)調 AAS
「あ、瀬ノ内さん。今日は…」
 板倉記者が口を開いたところを、すかさず千晶は自分のセリフを重ねてつぶす。
 千晶はいつもこの手でこの小うるさい雑誌記者をはぐらかしていた。舞台の間の取り方を逆用したワザである。
「ああ、冬馬さん。わたし。クラス別だったけど学年同じだったよ。でも覚えてないよね。瀬能千晶っていうんだけど」

 突然見知らぬ学友に話しかけられ、今度は冬馬が泡を食う。
「え、ええ?」
 かまわず千晶は続ける。
「ひょっとして、今の舞台見ていた? ごめんごめん、全然気付かなかった」
 そういう千晶の顔は悪戯を見つけられた少年のものだった。だが、その目はひそかにかずさの反応を注意深く見ている。
「あ、いや、今日は別件で…」
 その答えを聞き、千晶は軽い舌うちとともにぼやいた。
「やっぱりか…、ちぇ。春希も雪菜もチケット渡したのに見に来なかったし…」
 そのつぶやきは誰にも聞きとれないほど小さかった。しかし、ピアニストであるかずさの耳にははっきりと聞こえた。

「…春希たちの知り合い?」
 かずさの声のトーンが微妙に変わったのを千晶は聞き逃さない。
「うん、春希とは何度か寝たよ」
「…っ!」
「わたしはベッドで春希は床で」
「………」
 からかわれたことに気付いたかずさは凶悪な目つきで千晶を睨む。しかし千晶は気押されることなく、飄逸な口調をやめない。
「ごめんごめん、ゆるしてちょんまげぇ〜…って」
 かずさから、けして許すまじとばかりの怒りのオーラが立ち上る。

 千晶はその様子をひととおり観察し終わるや、カバンから何かを取り出し、両手を前で組んで言った。
「まぁ、おわびといっちゃあなんだけど…『かずさぁ、明日ヒマ?』」

 その言葉に、かずさは不意をうたれる。
 急になれなれしく名前で呼ばれたことに対してではない。
 その声色、口調、しぐさがまるで…かずさの不倶戴天の親友のまさにそれであったから。

「???っ…あ、ああ…」
 かずさは思わず肯定の返事を返してしまった。
「『よかったぁ。じゃ、絶対絶対来てよね。…来てくれないとちょっとだけ傷ついちゃうかもなぁ…』」

 そう言って、千晶はかずさの手に強引にチケットを2枚握らせる。
 その際の演技も完璧に『小木曽雪菜』のそれであった。
 かずさは混乱のあまり何も反抗できずにチケットを受け取る。

「『じゃあ、見終わったらまたこの場所で会おうね』」
「…あ、うん…」
 かずさは呆気にとられ、こくりとうなずくばかりであった。

 その後の事はかずさはよく覚えていない。
 たしか、瀬能千晶と名乗るあの新人女優は板倉記者にもチケットを渡して去っていった。
 板倉記者からはいろいろと質問されたが、何も答えられなかった。
 ただ、一緒に翌日の舞台を見に行く約束だけして別れた。

 自分と峰城大付の同学年ということだが、もちろん覚えはない。
 『春希』と『雪菜』を名前で呼ぶあの人物は何者? ただの大学とかの同窓生?
 あの時見せた演技は何? ただのモノマネ上手?

 いろいろ考えたけど埒があくはずもない。
 かずさは考えるのをやめた。明日、あの瀬能千晶という女に直接聞けばわかることだ。
 
 寝床に転がりながら眺めた、シーリングライトに透けるそのチケットには「5/13(木) シアターモーラス 劇団コーネックス二百三十度『届かない恋』」と印刷されていた。
338: 2015/11/04(水) 22:45:45.63 ID:1mJ/Gskk0(2/4)調 AAS
5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
 フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
 
 かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
 奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
 
 ぱん、ぱん、ぱん…
 練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
 母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
 
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
 弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
 賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
 たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
 フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
 娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」

 やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
 オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
 フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
 まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」

 200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
 そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
 春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
 そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪

「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
 曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。

 残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
 春希ぃ…
 5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
 しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
 
 冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
 忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
 かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。

「やっぱり私、母親失格かも」
 曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」
339: 2015/11/04(水) 23:38:15.48 ID:1mJ/Gskk0(3/4)調 AA×

340: 2015/11/04(水) 23:58:26.55 ID:1mJ/Gskk0(4/4)調 AAS
・取材後

春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
 事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
 すぐに事の次第も明らかになった。
 大変だったよ。
 浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
 例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
 日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
 迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
 まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
 了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
 お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
 グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」
341: 2015/11/05(木) 02:39:16.67 ID:E+dhoLTA0(1)調 AAS
こんな俺でもLOVEでできてしまった
もうダメだ...orz マジで緩いよ
3Jの反響が凄まじかった

022it.■■t/d11/477star.jpg
■■をneに変更する
342: 2015/11/05(木) 22:26:49.36 ID:UzMJD95M0(1)調 AAS
ママンでもいいや(´・ω・`)
343: 2015/11/06(金) 22:32:32.83 ID:rOf08IVd0(1)調 AA×

344: 2015/11/07(土) 09:36:26.77 ID:aCcceyRF0(1)調 AAS
アクアプラス人気投票で圧倒的でワロタ
345: 2015/11/07(土) 14:36:42.21 ID:kKFJUMTL0(1)調 AAS
そんなのやってたんだな
不正とかでおかしな事にならないと良いけど
346: 2015/11/07(土) 15:08:36.69 ID:ksMM5f100(1)調 AAS
アクアプラスのHPにログインしなきゃ投票できないようだから大丈夫なんでね?
347: 2015/11/09(月) 00:27:40.28 ID:C+16u5oq0(1)調 AAS
フリアドでアカウントいくらでも作れるんだから
ログイン認証程度じゃ票をいくらでも入れられる
348: 2015/11/09(月) 06:52:36.91 ID:dpIp/ciA0(1)調 AAS
「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。

 流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
 明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。

 玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
 脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。

 子供がいなくて良かったと心底思った。

 吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
 まずい
 だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。

 紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
 ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
 電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。

「何をしてるんだ? 早くしろよ」
 急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。

 居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
 もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。

 居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。
349: 2015/11/09(月) 23:10:34.42 ID:jhKlI0nh0(1/3)調 AAS
・取材後

春希「……」
麻理「ふむ。まあ、固くなるな。もう上司でも部下でもないのだからな。
 事情は曜子社長から聞いた。私はお前が選んだ道を肯定したり否定するつもりはない」
春希「…ありがとうございます」
麻理「だが、お手並みは最悪だ」
春希「!?」
麻理「北原、お前は冬馬かずさを助けたいのか?」
春希「な!? 助けたいに決まっています」
麻理「助けたいがために開桜社にも何も語らなかった。そうか?」
春希「はい…」
麻理「全く、これほど先の見えてない男だとは思ってなかったな」
春希「!?」
麻理「確かに、一時のマスコミの興味本位の報道から免れることはできたな。そのために自らの退社理由を隠し、冬馬かずさが日本を去ることもひた隠しにし続けた」
春希「はい…」
麻理「どうなったと思う?」
春希「ご迷惑おかけしました…」
麻理「…全くわかってないようだから説明しておこう。お前たちの出国から一週間足らずで冬馬かずさがお前と共にウィーンにいることが知れた。
 すぐに事の次第も明らかになった。
 大変だったよ。
 浜田やアンサンブル編集長は矢面に立たされたし、冬馬曜子オフィスと我が社の関係は最悪になった」
春希「そ、それは…」
麻理「新人一人やめた程度と思ったか? 残念ながらお前はただの新人どころかかなりの有望株だった。だから期待もコストもかけていた。
 例えすただの新人でも取り引き相手からの無断引き抜きなんて言語道断の掟破りだ。
 日本から静かに去るために誤情報流すのもな。日本での活動を支援するために方々回っていたアンサンブル編集長がどんな目に遭ったか想像できるか?」
春希「す、すいません…」
麻理「日本から去るから開桜社にはいくら迷惑かけても良いとでも思ったか? 残念ながら、この狭い世界、ましてや狭すぎるクラシック界ではな、お前のやったことは恥知らずの所行にしか過ぎない」
春希「しかし、自分はかずさを…」
麻理「守りたかった。それはわかる。しかし、冬馬かずさをピアニストとして活動させる為には最悪だったと言わざるを得ない。
 迷惑は巡り巡って自分の所に降りかかるものだ。アンサンブルが社内から槍玉に挙げられ、これを機にと社内のメセナ活動でアンサンブルの持ってた枠を奪う動きが起きた。そんなドタバタは社外にも伝わった」
春希「……」
麻理「最初の一年半、全く仕事取れなかっただろ? お前の語学力とかの問題じゃないぞ。英語もできるんだし」
春希「な、何かあったんですか?」
麻理「冬馬曜子オフィスは味方も敵も多かった。そんな中、ウィーンで有力なある日本人が『冬馬かずさを使うのは避けたい』と言った。開桜社とのトラブルを避けたいがために。たったそれだけの事だ」
春希「え?」
麻理「企業同士のトラブルなんて『もう仲直りしましたよ』ということを知らしめるのが一番難しいんだぞ。
 まして、お前たちが日本の仕事避けまくってるから尚更だ」
春希「そ、そんな…」
麻理「あの狭い業界、仲違いしても結局すぐ仲直りしないといけないし、人と仲違いしたらそれ以外の人間から避けられまくるから気をつけろ」
春希「はい…」
麻理「ウィーンの件の人物も悪い人じゃない。甘いもの好きだから、金沢『やまむら』の甘納豆でも買って持って行け」
春希「何から何まで…ありがとうございます」
麻理「本来、新人が取り引き相手に引き抜かれたといっても、双方了解済みの話なら歓迎しても良いくらいの話なんだぞ。新たな方面へのパイプとして期待できるわけなんだからな。
 了解の有無で婿入りと駆け落ちくらいの雲泥の差がある」
春希「そ、そうは言われてましても…」
麻理「まあ、お前の場合はこれからだ。悪いが、期待かけていた分まで働いてもらう。ビジネス相手としてな。
 お前は私が育てあげた男だ。逃げられると思うなよ」
春希「…楽しそうですね。麻理さん」
麻理「当たり前だ。曜子社長の粘り強さのおかげでやっと社の関係も戻り、お前とこうして会えるようになったからな。
 グラフも『ブラックだから人が逃げた』とあらぬ誹りを受けている。しっかり拭ってもらわないとな」
春希「(十分ブラックですよ…)」
麻理「これからもよろしくな。北原」
350: 2015/11/09(月) 23:55:51.64 ID:jhKlI0nh0(2/3)調 AAS
『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
351: 2015/11/09(月) 23:57:20.48 ID:jhKlI0nh0(3/3)調 AAS
・ブダペストのコンサート会場控え室

かずさ「テレビでもつけるか。(ぷち)あれ? 言葉がわからないな。そういや、今いる国はどこだったっけ?」
春希「ハンガリーだよ。なんで滞在中の国名を忘れるんだ?」
かずさ「春希についていってるだけだし、列車でいくつも国境またげば自分のいる国もわからなくなるさ」
春希「一つしか国境またいでないから。自分の住んでる国の隣国くらい覚えろ」
かずさ「ハンガリーってオーストリアの隣だったのか…」
春希「はぁ…。お客様がどこの国の人かぐらいわかっておいてほしかったな」
かずさ「関係ない。ハンガリー語で演奏する訳じゃない。ピアノは万国共通だ。それに、どうせ演奏して帰るだけなんだから、ハンガリーでもアメリカでも同じだ」
春希「……」
かずさ「なんだ? 旅行気分で来た方が良かったか?」
春希「いや。悪かったな。行きたい所にも連れて行ってやれず、窮屈な思いばかりさせて」
かずさ「何を今更…あたしは行きたい所なんてないから春希に言われるがままにどこにでも行くだけだ。
 春希こそ…」
春希「何だ?」
かずさ「春希こそ、日本に帰りたければ、ちょっとぐらい帰ってもいいんだぞ」
春希「なっ…!?」
かずさ「ちょっとぐらいの留守番は慣れてるさ。春希はあの人と打ち合わせするためとか、何とでも理由つけて行けない事はないだろう? あたしは雪菜たちとあんな事になって帰れないが、春希は雪菜とも一度話してるし、何より春希、一度日本に帰りたいんだろ?」
春希「な、何言ってるんだ、かずさ!? …結婚式であんな事になったのは曜子さん任せにしてた俺が悪いんだし、仕事の打ち合わせは電話で済んでいる。何より…」
かずさ「なあ、春希。あたしは春希に窮屈な思いさせていないか?」
春希「…もうよそう。この話は」
かずさ「…うん」
352
(2): 2015/11/10(火) 05:07:15.95 ID:ZaUenwar0(1)調 AAS
次スレ

【WHITE ALBUM2】冬馬かずさスレ 砂糖59杯目 [転載禁止](c)bbspink.com
2chスレ:leaf
353: 2015/11/10(火) 05:34:39.49 ID:UBFxlrte0(1)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
354: 2015/11/10(火) 14:59:43.24 ID:hcXsb4to0(1)調 AAS
>>352

355: 2015/11/11(水) 06:24:06.19 ID:7Nw2rrlJO携(1)調 AAS
>>352
356: 2015/11/12(木) 01:33:17.10 ID:4zK2PvpE0(1)調 AAS
かずさ犬
357: 2015/11/12(木) 22:33:11.72 ID:cYVxjNhx0(1/2)調 AAS
おいおいw
10〜30スレ目までスレ立てしまくってたものだけどいつのまにかここssスレになってたのかよw
人気投票の話題してのかと思って久しぶりに来てみたのにw
358
(1): 2015/11/12(木) 22:55:52.54 ID:lqXAAx5N0(1/2)調 AAS
荒らしがSS投下して容量オーバーになるよう荒らしてんだよ
359: 2015/11/12(木) 23:03:04.76 ID:cYVxjNhx0(2/2)調 AAS
>>358
へー、不人気雪菜派の荒らしが頑張ってるのかw
いつまでもいつまでたっても不人気なのが証明されて涙を誘うけどそんなことしてたとはw
360: 2015/11/12(木) 23:26:37.64 ID:lqXAAx5N0(2/2)調 AAS
かずさは人気者だから荒らされるんだね
361: 2015/11/13(金) 00:00:25.61 ID:J9BhAm760(1)調 AAS
やめとけ
362: 2015/11/13(金) 05:20:54.63 ID:W1KktEZy0(1/5)調 AAS
春希 「驚いたなぁ。かずさにそんな人がいたなんて」
曜子 「…あまり動揺してくれないのね」
かずさ 「こういう男だ。春希は」
春希 「いやいや。驚いていますよ。あんなに曜子さんに仕事漬けにされていた上に、俺たちと会ったときもそんな浮いた様子一つもありませんでしたから」
かずさ 「そんなの隠していたに決まってるじゃないか」
春希 「そりゃ、自分みたいなマスコミの記者に話すなんて日本全国に広めてくださいって言っているみたいなものだしな。
   でも、祝福してくれる人もたくさんいると思うぞ。俺もそうだし」
かずさ 「そういう意味じゃない。ったく」
春希「?」
曜子 「…まあ、いいわ。ともかく、かずさが選んだ事だし。私みたいな趣味の悪い女がとやかく言える話じゃないわね」
春希 「それで、相手の人ってどんな人なんですか?」
かずさ 「橋本健二さん」
春希 「え、えと。どんな人かって質問なんだけど」
かずさ 「な!? お前はアホか?
   なんで今を時めく若手ナンバーワンピアニストの健二さんを知らないんだ? 仮にも記者のはしっくれだろ? お前は!」
春希 「え、えーと。かずさに比べて特徴ない人だから…」
曜子 「おやおや。女王杯始め数々の賞を取った身長2m弱の巨漢の化け物ピアニストが『特徴ない』なんて、まぁ。
   ま、胸の大きさなら私の娘も十分化け物級だけど」
かずさ 「健二さんを化け物呼ばわりするな。あの人はああ見えてそういうのすごく気にする人なんだ」
春希 「はは。無知ですいません」
曜子 「ま、ギター君はできないと自分で決めちゃった線からは本当に努力しないコだもんね。
   ギターの腕にせよ、クラシック知識にせよ」
春希 「…返す言葉もありません」
かずさ 「ふん」
曜子 「ま、人間手の届かない才能目差した努力はしない方がいいわよ。
   幸せにできるのはその手の届く人だけ。好きなだけ崇拝してるだけでは、2、3年は良くても結局5年10年はうまくいかないものよ」
かずさ 「ふん。とっかえひっかえした経験者の言葉かい?」
曜子 「ええ。だから、橋本さんとの縁は本当に歓迎しているわ。
   あなたのような、ピアノだけのちょっといびつに育ってしまった娘を、その才能を、崇拝でもなく知識としてでもなく、同じ才能を持ち共に歩んで行ける存在として受け止めてくれる人と出会えたんだから」
かずさ 「ふふん♪」
春希 「良かったですね」
曜子 「おや? あなたの『良かった』は『フった女が幸せに収まりそうで良かった』の意味じゃなくて?」
春希 「ぐ…」
かずさ 「ちょっと! 母さん! それはやめろよ!」
曜子 「あらあら。ギター君、わかりやすい表情。ひょっとしてかずさがこの先独身だったらどうしようとか気に病んでくれてた?」
春希「……」
かずさ 「フフン。残念だったな」
春希 「い、いえ。…そ、そういえば、お二人の馴れ初めなど聞かせていただけると…」
曜子 「かずさの方からよ。もう、猛烈アタック。そうしなきゃダメって経験が生きたわね」
かずさ 「(赤面)ちょっと! 母さん!」
春希 「はは…普段のかずささんからはなんだか想像できませんね」
曜子 「冬馬家の女の性欲なめんな。男ナシで20代の盛りを乗り切れるワケないでしょ」
春希 「……」
かずさ 「…あんたの血を受け継いでこれほど後悔した日はないな」
曜子 「ま、そういうワケで。明日の記者会見までは口外禁止でね」
春希 「いえいえ。ありがとうございました」
曜子 「じゃ、またね」
かずさ 「またな、春希。…あ、そうだ。もうひとつだけ教えてやる。耳を貸せ。春希」
春希 「なんだい? かずさ」
かずさ 「(ゴニョゴニョ)」
春希 「…(がくっ)…そりゃ、向こうは身長2mで…(ぶつぶつ)」
かずさ 「じゃあな。春希」

曜子 「さっきギター君に何吹き込んだの? カレ、心へし折られたような表情してたわよ」
かずさ 「…いや、健二さんの方が大きくて固かったって」
曜子 「…えげつない子ね。さすが私の娘ね」
かずさ 「いや、自分でもえげつないと思うけど、あたしやっぱり母さんの娘だよ」
363: 2015/11/13(金) 05:22:01.10 ID:W1KktEZy0(2/5)調 AAS
『冬馬かずさ、急死

 2月14日、ピアニストの冬馬かずさ(28)が現在活動拠点としているウィーンの病院で亡くなった。
 1月末に行われた野外コンサート期間中に演奏を行ったことで体調を崩し、その後の活動の強行で肺炎を引き起こし、入院時には既に手術や投薬治療も間に合わない程弱っていたという。
 彼女の所属する冬馬曜子オフィスでは、故人の葬儀をウィーンで行った後、遺骨を日本に送り、社長である故人の母冬馬曜子が引き取る流れになっているという。
 冬馬かずさがウィーンでの活動を始めたのは……』

「申し訳ありません!」

 北原春希がソファーにも腰掛けず、床に這いつくばるようにして深々と土下座を繰り返した。そんな春希を工藤美代子は向かいのソファーの後ろでただオロオロと見詰めているだけだった。

「あなたの責任じゃないわよ……春希君」

 そしてその向かいのソファーに座っていた女性、冬馬曜子――今の春希の義母――は、思い掛けない形での五年ぶりの再会の場で、それこそ母親の眼差しと声で春希を優しく包み込んだ。

「でも、でも俺、あいつを、かずさを……」
「だからそれは、あなたの責任じゃない。あの子の自己責任よ」
「それだって、全部俺が背負うものだったのに。あいつの全てを守るはずだったのに」
「……そのことで、あの子はあなたに恨み言をぶつけた?」

 ハッとしたかのように春希は顔を上げた。曜子の顔は娘を失った母親とは思えない程に穏やかだった。

『かずさ、しっかりしろ!』
『春希……情けない顔、するな』
『でもお前、このままじゃあ』
『何を勘違いしてるかは……知らないが、あたしは……幸せだったよ』
『過去形かよ!俺たちまだこれからじゃないのかよ!?』
『春希……ありがとうな』
『止めろ!そんな言葉、お前から聞きたくない!』
『……』
『……かずさ?』
『……あ、あ……』
『かずさぁ!』

「あなたが何もかも捨てて自分の側にいてくれたんだもの。あの子は幸せだったと思うわ、きっと」
「でも、俺はかずさを守れなかった。あいつを今以上に幸せにできなかった。
 あいつが本当に幸せになる道を、永遠に閉ざしてしまった……」

 向かい合ったソファーの間に置かれたテーブルの上、かずさの死が掲載された新聞が開かれている。既に日本でもこのことは公にされているのかと、春希の心は更なる重しに圧し掛かられた。

「でもありがとう。わたしはもうこんな身体だから、あなたがかずさの遺骨や遺品を持って来てくれて、正直感謝してる」
「……本当に、ごめんなさい」
「いいのよ。あの子だってきっと後悔はしていない。
 むしろ、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」
364: 2015/11/13(金) 05:23:45.32 ID:W1KktEZy0(3/5)調 AAS
5/10(月)冬馬宅地下練習スタジオにて
 フランツ・リスト作曲、詩的で宗教的な調べより第10曲…Cantique d'amour『愛の賛歌』
 
 かずさはそれを奏でたつもりだった。しかし…
 奏で終わった途端に押しつぶされそうな罪悪感が彼女を襲った。罪悪感に重みがあったなら彼女の身体は鍵盤に叩きつけられて二度と起き上がることはなかっただろう。
 
 ぱん、ぱん、ぱん…
 練習スタジオ入口から曜子が拍手をしつつ入ってくる。その表情は笑顔に満ちていた。
「素晴らしい出来じゃない、かずさ。こんな演奏、わたしには逆立ちしてもできっこないわよ」
 母親の言葉には痛烈な皮肉が混じっていた。
 
「わかっているよ、母さん。今の演奏は…」
 弱々しい娘の口応えを遮るように曜子は追撃を続ける。
「ええ、出来は素晴らしいわよ。
 賛否両論あるだろうけど、今の演奏は全盛期のわたしでも敵いっこない。
 たぶん、ウィーンで値段をつけさせたら倍の値段がつくわよ。
 フランツ・リスト作曲ザイン・ヴィゲンシュタイン侯爵夫人に献呈された詩的で宗教的な調べより第10曲…」
「もうやめてくれ。母さん…」
 娘の懇願に耳を傾けることなく、母親はとどめの言葉を撃ちこむ。
「『愛の《怨嗟》』ってね」
「っ…!」

 やはり、母親には全部見抜かれていた。
「もぉ、すっごいわたし好み。
 オンナの秘めておきたい部分がもぉ『これでもかっ』ってぐらい伝わってきて、同じオンナに生まれてきたこと懺悔したくなるぐらい。
 フランツに聞かせたら墓から飛び出してきて、あなたの首を絞めにかかるか、頭を垂れるかのどちらかね。
 まぁ、カレも身に覚えが二つ三つあるコだから後者の方が若干確率高いかな」

 200年前の偉大な先人を元愛人の一人のように看做す発言の方こそ祟られても文句言えないほど不敬極まりない。しかし、かずさは罰を受ける罪人のようにうなだれて口をつぐむ。
 そう、被告人かずさが全く弁明できないほど、今の演奏はどす黒い感情に満ちていた。
 春希を奪った雪菜への嫉妬、自分を捨てて雪菜をとった春希への妄執
 そして…春希を振り向かせる事が出来なかった自分への自己嫌悪

「熱心なのは結構だけど、あまり入れ込みすぎるんじゃないわよ」
 曜子はそう言って練習スタジオから出て行った。

 残されたかずさの口から嘆息とともに男の名が漏れる。
 春希ぃ…
 5年間付き合ってきた慕情を振り切ろうと決意したのが2ヶ月前。
 しかし、心身の隅々まで根を張った感情から容易く免れることなどできるはずもなかった。
 
 冬の終わりにはかずさ、春希、雪菜の3人が心重ねた一瞬があったが、春が来て夏が近づくにつれ、かずさ心の隙間から抑えきれない感情が滲み出てきた。
 忘れるためにピアノを弾けば逆に、自分は今まで春希の事ばかり考えてピアノを弾いてきたのだと思い知らされた。
 かずさのピアノはあたかも鏡のように容赦なく彼女の内面を映し出していた。彼女自身でどうにもならないほどに。

「やっぱり私、母親失格かも」
 曜子は、閉じた練習スタジオのドアの向こうでため息交じりにつぶやいた。
「娘がつらい経験を重ねるたびにピアニストとしての艶を増していくのを見て…喜ばずにはいられないなんて」
365: 2015/11/13(金) 05:26:30.17 ID:W1KktEZy0(4/5)調 AAS
・ブダペストのコンサート会場控え室

かずさ「テレビでもつけるか。(ぷち)あれ? 言葉がわからないな。そういや、今いる国はどこだったっけ?」
春希「ハンガリーだよ。なんで滞在中の国名を忘れるんだ?」
かずさ「春希についていってるだけだし、列車でいくつも国境またげば自分のいる国もわからなくなるさ」
春希「一つしか国境またいでないから。自分の住んでる国の隣国くらい覚えろ」
かずさ「ハンガリーってオーストリアの隣だったのか…」
春希「はぁ…。お客様がどこの国の人かぐらいわかっておいてほしかったな」
かずさ「関係ない。ハンガリー語で演奏する訳じゃない。ピアノは万国共通だ。それに、どうせ演奏して帰るだけなんだから、ハンガリーでもアメリカでも同じだ」
春希「……」
かずさ「なんだ? 旅行気分で来た方が良かったか?」
春希「いや。悪かったな。行きたい所にも連れて行ってやれず、窮屈な思いばかりさせて」
かずさ「何を今更…あたしは行きたい所なんてないから春希に言われるがままにどこにでも行くだけだ。
 春希こそ…」
春希「何だ?」
かずさ「春希こそ、日本に帰りたければ、ちょっとぐらい帰ってもいいんだぞ」
春希「なっ…!?」
かずさ「ちょっとぐらいの留守番は慣れてるさ。春希はあの人と打ち合わせするためとか、何とでも理由つけて行けない事はないだろう? あたしは雪菜たちとあんな事になって帰れないが、春希は雪菜とも一度話してるし、何より春希、一度日本に帰りたいんだろ?」
春希「な、何言ってるんだ、かずさ!? …結婚式であんな事になったのは曜子さん任せにしてた俺が悪いんだし、仕事の打ち合わせは電話で済んでいる。何より…」
かずさ「なあ、春希。あたしは春希に窮屈な思いさせていないか?」
春希「…もうよそう。この話は」
かずさ「…うん」
366: 2015/11/13(金) 05:29:38.74 ID:W1KktEZy0(5/5)調 AAS
「脳のここの部分に腫瘍がありますね。最近、頭痛を感じた事は?」

「いいえ…」

 春希はそう答えた。しかし、実のところ慣れない異国での激務で身体に不調を感じることは頻繁であったので、最後に頭痛に襲われたのはいつかなど覚えてはいなかった。

「浸潤が激しく、悪性である疑いが高いです。摘出手術が困難な箇所ですが…化学療法や放射線治療もあります。希望を持って治療を続けて下さい…」

「はい…」

 誰にも相談できない。特にかずさには…

◆◆ 

「ただいま」

「遅いぞ、春希」
 玄関のドアが開き、片付けのできないかずさの待っていた家からはカビと生乾きの洗濯物の匂いがした。

「誰の尻拭いで遅くなったと思っているんだ?」
「あたしの尻を追っかけるしつこい記者を追い払うのも春希の仕事だろう?」

 気怠い身体を引きずって帰って来ても玄関で待つのは憎まれ口。そんな生活を今まで続けてきた。

 医者から言われた事が頭の中で泥色の渦をまく。何も考えたくない。休みたい。
「今日は疲れたよ。明日も早いしもう…」

 しかし、そんなささやかな望みさえ、我が侭放題に育てられた愚妻は許してくれない。
「3日も待ったんだぞ」

 かずさがナメクジのように腕をからめてくる。胃の底に生ぬるい鉛を流し込まれたような気分だ。

 眠い。この腕を払って眠ることができればどんなにか楽だろう。

 ベッドを一つにするんじゃなかった…
 逃げ道など最初からない。首筋に湿った唇が押しあてられる。
 鈍い悪寒が背筋をこわばらせた。

 流しには腐臭をまとわりつかせた食器が積み上がっていた。
 明日になればさらに耐えがたい臭いを放つだろう。

 玄関でしっかりと靴を拭わずに部屋に入ってくれるものだから部屋が砂ぼこりくさくなる。
 脱ぎ捨てられた服や空のワインボトルが床に散らばっているのなんてもうご愛嬌だ。

 子供がいなくて良かったと心底思った。

 吐き気をこらえつつ洗ってあるものと思しきグラスを一つ取り水でよくすすいだ上で、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り、注いで飲む。
 まずい
 だが、苦味すら感じるほどの硬度の水道水より遥かにマシだった。

 紅茶でも沸かそうかと電気ポットを見て舌打ちする。
 ものぐさなことに、電気ポットに直接紅茶の葉をぶち込んで、飲み終わってそのまま放置していたのだろう。
 電気ポットの中には2日前の紅茶の葉が黒っぽいカビと共に鎮座していた。

「何をしてるんだ? 早くしろよ」
 急かすかずさを無視してゴミバケツにカビだらけの紅茶の葉をぶち込んだ。

 居間のテーブルの上には固まった極彩色の脂を浮かべたカップラーメンの容器が整列している。
 もう嗅覚は麻痺していたが、まとわりつく不快感はどうにもならない。

 居間から逃げるように寝室に入り、こぼれたワインのシミのついたベッドに手をついた。
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スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ

ぬこの手 ぬこTOP 0.540s*