[過去ログ] 偉大な政治家藤原不比等 (766レス)
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438(1): 2006/07/25(火) 00:34:27 AAS
超長文いくよ。
藤原不比等について仮説を一つ。
●天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足●
藤原不比等の出生については謎が多い。
しかし、私のこの仮説によって、その謎の解明がかなり出来ると思う。
それでは計9個の謎についてこれから一つ一つ解明していこう。
まず、基礎情報を述べよう。
藤原鎌足の妻
1.鏡王女。有名な額田王の姉。皇族の末端。鏡王の娘。
天智天皇の妻の一人だったけれど、天智天皇がなぜか?(←ここが謎)
鎌足にお古をくれた(でも本当は鎌足にとって迷惑だったと思われ)。
2.車持与志古娘。天智天皇の妻の一人だったけれど、鎌足の妻としてくれた。
鎌足と車持与志古娘の娘の氷上娘、五百重娘は天武の夫人となる。
氷上娘は但馬内親王、五百重娘は新田部親王を産む。五百重娘は天武の死後、
異母兄不比等の妾になって四男麻呂を産む。
3.美女で有名な采女の安見児を天智に貰う。鎌足大喜び。でも、天智天皇のお古。
藤原鎌足
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
> 正妻は鏡王女。長男は僧定恵、次男は不比等。
> 娘の氷上娘(ひかみのいらつめ)・五十重娘(いおえのいらつめ)は、
> いずれも天武天皇夫人。
藤原定恵
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 皇極天皇2年(643年) − 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))
439: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:36:23 AAS
>>438の続き
有間皇子
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 舒明天皇12年(640年)-斉明天皇4年11月11日(658年12月13日))
孝徳天皇
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 596年4月22日 - 白雉5年10月10日(654年11月24日)
孝徳天皇后妃
外部リンク[htm]:homepage2.nifty.com
> 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
> 妃:阿倍 小足媛【おたらしひめ】.. 生没年不詳
> .<男足媛>
> 父:左大臣 阿倍倉梯麻呂
> 640.. 有間皇子を生む
> 644.. 軽皇子(孝徳天皇)の宮に泊する中臣鎌子(鎌足)の世話を任せられる
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、妃となる(7月)
> 所生の皇子女
> 640〜658 .. 有間皇子
天智天皇
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月10日))
遠智娘
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。
> 建皇子(夭逝、生まれながらに口がきけなかったという)
440: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:37:21 AA×
![](/aas/history_1039141039_440_EFEFEF_000000_240.gif)
外部リンク:ja.wikipedia.org
441: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:38:00 AAS
謎3の真相についても、また後で詳説する。
■謎4:なぜ、鎌足の妻達は天智のお古ばっかりなのか。
しかも一人で十分なのに何人も、、、はっきり言って、おかしい。
鎌足は天皇のお古の女が好きで、「天智天皇、あなたのお古の妻をくれくれ」と
次々にねだる変わり者だったのか?
だとしてもそれを許して次々とお古の妻をあげる天智もおかしいんじゃないか?
また、天皇のお古が好きだったとしても、それ以外のところから
妻を一人も娶っていないのは不自然じゃないのか?
■謎5:ところで、なぜ鎌足は尊腹出の一粒種で、自分の跡継ぎたる長男定恵を
出家させたのか。
当時次男はまだ生まれていなかった。どう考えても不自然ではないか。
■謎4、謎5の真相:
簡単に言えば、鎌足は天智から、
「自分と妹間人との近親相姦で皇子が生まれたら、お前の子供として
育ててほしい、その子には「藤原」の姓を与えて天皇の密かな隠し子として
立身出世を約束する、どうかお願い」
と強く頼まれていたと考えられる
(この仮説を唱えるのは私が初めてかも。しかし、これによると多くの
謎が次々と解明されるので、今後主流になっていくかも、、、、)。
そのため、鎌足が中流や下流のつりあいの取れた家と勝手に婚姻を
結ぶことを許さなかった。もし本当の子が生まれたら、天智の子供よりも
実子に家を継がせたくなるから。。。
また、鎌足の家は天智天皇と間人皇女の禁忌の子が跡を継ぐことになって
いたので、一粒種で長男の定恵を鎌足家の跡継ぎにするわけにはいかず、
不自然でも出家させて、跡継ぎから外さざるを得なかった。
天智から「どうせお前の実子ではなく、孝徳天皇の子なんだろう、出家させても
かまわんだろう」と言われたかも。。。
442: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:44:04 AAS
また、そのため、天智のお古の中下流出身の妻ばかりを妻として押し付けられた。
天智と間人の禁忌の子が生まれたら、天智からもらった妻が天智の子を
身ごもったまま嫁してきて産んだのだという建前にして、禁忌の子を鎌足が
育てる計画が立てられた。
そういうわけで、もし天智からもらったお古妻が鎌足の息子を産んでしまった場合は
邪魔にならないように、定恵のように出家させるというお約束をさせておいた
だろう。もちろん、娘の場合は跡継ぎじゃないので許されただろうが。
だから、鎌足が天智のお古以外のところから妻を娶って
息子が出来たとしたら、妻の実家の意向もあるし、邪魔だからと言って
勝手に出家させるわけにはいかない。それなので、
天智のお古以外のところから妻を娶るのを天智から固く禁じられたと考えられる。
■謎6:なぜ天智天皇は長い間即位せず、間人皇女が死んだら即位したのか。
■謎6の真相:天智天皇と同母妹間人皇女は近親相姦の仲だった。
それを問題視されていた天智は長い間即位せず、間人皇女が
死んでから初めて即位した。
実際に、孝徳天皇は間人皇女と同母兄天智天皇の間に肉体関係があることを
うらむような歌を間人皇女に送っている。
「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか」。
443(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:45:27 AA×
![](/aas/history_1039141039_443_EFEFEF_000000_240.gif)
外部リンク:ja.wikipedia.org
444: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:46:01 AAS
再掲 孝徳天皇后妃
外部リンク[htm]:homepage2.nifty.com
> 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
> 641.. 父・舒明天皇没
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、皇后に冊立される(7月2日)
> 653.. 兄中大兄皇子・母皇極上皇・弟大海人皇子とともに飛鳥河辺の行宮に移る
> 654.. 孝徳天皇の病を見舞う(10月)、孝徳天皇(59才)没
> 655.. 孝徳天皇を大阪磯長陵に葬り、即日飛鳥に帰る
> 661.. 母・斉明天皇没
> 665.. 崩御〔2月25日〕
再掲 遠智娘
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。
> 建皇子(夭逝、生まれながらに口がきけなかったという)の2女1男を産む。
遠智娘は、天智天皇の妻達の中では、皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の妃だった。
倭姫王は子をなしてないので子をなした中では最高位。
禁忌の子が生まれた前後に丁度遠智娘が亡くなったので
間人皇女の生んだ兄妹間の息子を、死人に口なしということで、遠智娘が産んだ
ことにしてごまかした。
これで恋人である妹との子を身分の高い遠智娘腹出の皇子として、正式な跡継ぎ
にも出来る。
しかし、親子兄妹間の近親相姦の子は約半分の確率で身体的障害が発生する。
おし、めくら、足が立たない、などの症状が多い。
445: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:46:36 AAS
近親相姦で障害の出たと思われる例を出そう。
・鳥羽天皇と中宮璋子の子供たち
実は、鳥羽天皇は中宮璋子と従兄妹同士で、祖父・父・自分と、璋子の家を相手に
三代連続して、母の兄の娘と結婚という、従兄妹結婚を繰り返してきて
従兄妹だけど、血の繋がりが非常に濃い。
そのため、二人の間には沢山の皇子皇女が
生まれたが、美形の母に似て見目麗しいのに、その半数が、めくら、おし、
足が立たないなど、近親相姦特有の身体障害を持った子供達だった。
それなので第4皇子に過ぎない後白河天皇(健常)にまで皇位が回ってきた。
ちなみに鳥羽に「叔父子」と呼ばれた第一皇子(崇徳天皇)―中宮璋子と
白河法王(鳥羽の祖父)との不義の子供―は健常だった。
・尊属殺人違憲判決が下りた有名な、痛ましい事件
「尊属殺法定刑違憲事件」
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 1968年10月5日、被告人の女性(当時29歳)は実父(当時53歳)を絞殺した。
> 被告人は14歳の時から実父によって性的虐待を継続的に受けており、しかも
> 近親相姦を強いられた結果、親娘の間で5人の子(うち2人が夭折、他にも6人
> を妊娠中絶)を産む夫婦同様の生活を強いられていた。
↑この事件でも、近親相姦で生まれた5人中、2人が障害があったらしくて弱くて
夭折している。
このように、おしで夭折した建皇子も恐らく近親相姦で生まれた子だったのだろう。
446: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:47:13 AAS
> ■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
> 諸説あり。孝徳天皇の子、天智天皇の子の説あり。しかし、それ以外には
> 全くない。例えば、天武の子という噂は全くない。母も諸説あり。謎。
では、いよいよ、謎2で述べた各説を洗ってみよう。
・説A
長男定恵:
母は阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛。
本当の父は孝徳天皇。有間皇子の同父同母弟。定恵も兄同様、秀才の誉れが高い。
有間皇子の死後何年か後、やはり定恵も孝徳の血を引いていると
疑っている天智天皇の手の者によって暗殺されたそうだ。
次男不比等:
有間皇子、定恵らの同父同母の弟。
・説B
定恵、不比等の母はどちらも小足媛だが、
父は違う。定恵は孝徳天皇、不比等は鎌足。
・説C
定恵、不比等は共に車持与志古娘と鎌足の子。
・説D
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は車持与志古娘と鎌足の子。
・説E
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は車持与志古娘と天智天皇の子。
447: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 00:53:41 AAS
・説F
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は鏡王女と天智天皇の子。
不比等は鎌足の正妻鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま
鎌足に嫁して生まれた。
女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、
と天智天皇から言われたらしい。
・説G
定恵は孝徳天皇と小足媛の子。
不比等は采女の安見児と天智天皇の子。
安見児が天智天皇の子を身籠ったまま
鎌足に嫁して生まれた。
さて、資料によると、有間皇子、定恵、不比等のうち、
有間皇子、定恵は3歳違いで年が近く、定恵と不比等は16歳違いで
離れているらしい。
しかし、定恵と不比等も4〜6歳と年が近いという説もある。
448(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 01:01:35 AAS
孝徳天皇妃 小足媛(内麻呂の娘)の年齢について。
孝徳天皇は49歳で即位。当時有間皇子5歳。定恵2歳。
しかし小足媛の妹の橘娘が孝徳天皇より30歳くらい下の
天智天皇の妃になって皇女を何人か産んでいる(若い)ので
小足媛も夫より30歳くらい下、夫即位時には22歳前後くらいで
若かったのではないかと思われる。
後述するように、若く美しくなければ、鎌足は喜ばないし、
接待にならない。
定恵と不比等の本当の年齢差は分からないが、年齢的に
小足媛が不比等を産んでも不思議はないと思われる。
資料によると、、、
中大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)の仲がぎくしゃくした。
↓
軽皇子の宮を中大兄皇子の寵臣中臣鎌足が訪ねる
↓
軽皇子、一粒種有間皇子の母であり、身分の高い、寵妃の小足媛を
貸し与えて接待する※
↓
中臣鎌足、大感激
↓
中臣鎌足、大奔走し、中大兄皇子を説き伏せる
↓
軽皇子、即位ウマー。孝徳天皇となる。
阿倍小足媛の父 阿倍内麻呂は左大臣に。
449(1): 2006/07/25(火) 06:27:10 AAS
>>443
中大兄も遠智娘とは遠縁だけど先祖が近親婚じゃなかったかな。
中大兄の父母が叔父姪で、父方の祖父祖母は異母兄妹。母方の祖父と祖母はいとこ半。
450: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 06:57:23 AAS
その一方で、※の続き
↓
寵妃の小足媛妊娠。どちらの子が分からない。
↓
生まれた子は中臣鎌足の子とされる。
中臣鎌足有り難く赤子を貰い受ける。それが定恵。
有間皇子同様、秀才の誉れ高い息子。
本当は孝徳天皇の子だという噂もされる。
阿倍小足媛
外部リンク[htm]:www5b.biglobe.ne.jp
このように、定恵の母は阿倍小足媛と考えられる。
一方、不比等の母は定恵よりももっと曖昧ではっきりしない。
しかし、車持与志古娘と鎌足の娘 五百重娘(天武天皇の夫人)(異母妹)を
天武天皇の死後、妾にして四男麻呂を産ませているので、不比等の母は
車持与志古娘でないことだけは確かだ(同母なら父にかかわらず
婚姻不可なので)。
> 説F
> 定恵は孝徳天皇、小足媛の子。
> 不比等は鏡王女と天智天皇の子。
> 不比等は鎌足の正妻鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま
> 鎌足に嫁して生まれた。
> 女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、
> と天智天皇から言われたらしい。
451: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 06:57:57 AAS
また、説Fもありえない。
なぜなら、天智天皇は身分の高い妻に皇子が生まれなくて困っていた。
低い身分の女腹の皇子は
自分の跡継ぎにできないからだ(群臣達が反対するので)。
鏡王女は皇族のはしくれなので、身分自体はそれほど高くなくても
その腹に皇子が出来た場合は、跡継ぎとして認められやすい。
せっかく皇族腹にできた待望の皇子を身分の低い鎌足にやるはずがない。
逆に皇女の方はいっぱい生まれすぎて過剰なくらいだ。
天智天皇+身分の低い妻→皇子 うだつがあがらない
天智天皇+身分の高い妻→皇子 帝位を継ぐのにふさわしい しかしなかなか
生まれない
452: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 06:58:42 AAS
仮に藤原不比等が「天智天皇+身分の低い妻→皇子→鎌足の子にする」だとしても出世は望めない。
また、藤原不比等が鎌足の子だとしても、中臣氏自体がしょぼすぎて
あまり出世は望めない。鎌足の孫である新田部親王でさえ、皇位継承の時
見事に無視されたぐらいだ。
■謎9:なら、なぜ不比等は父を大きくしのぐ出世が出来たのか。
■謎9の真相:天皇落胤説を大いに利用した。しかもありふれた賎腹出ではなく、
本来、天皇になるのがふさわしい尊腹出として。
つまり、兄定恵同様、「身分の高い阿倍小足媛と孝徳天皇の皇子である」、
あるいは、「天智天皇と間人皇女との間の近親相姦の皇子である」、
あるいは、(不比等は孝徳天皇の死後5年して生まれているとされているが、
実際はもっと早く生まれているとしたら)、「間人皇女の産んだ皇子ではあるが
夫 孝徳天皇の子か兄 天智の子か不明な子」ということで、本来なら天皇になれる
尊い出だという天皇落胤説を利用した。(有間皇子は母の身分も高く、有力な皇子
なので殺された)。
> ■謎3:もし、不比等が天智の子ならば、泣いて喜ぶのは変。姓を賜って立身出世と
> 引き立てを約束されても、天智の子だから予定通りなだけである。
> ではなぜ泣いて喜んだのか。
■謎3の真相:謎3でも述べたように、もし天智天皇の子なら、鎌足が天智天皇から
藤原姓を賜った時に、泣いて感激するはずがない。
だから天智天皇の子ではないと思われる。
天智天皇は、間人皇女との間の禁忌の子、尊腹出の天皇落胤の噂のある子を
鎌足に与えて、藤原の姓も賜り、最も愛しい禁忌の子を自分の跡継ぎの天皇には
できなくても、代わりに、名門の家を与えて隆盛させる予定だった。
しかし、結局、天智天皇、間人皇女の子は建皇子以降産まれなかったか
産まれてもすぐ死んだために、その計画は頓挫した。
そして、665年、天智天皇の最も愛した同母妹の間人皇女は崩御した。
453(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 06:59:35 AAS
天智天皇は有間皇子(鎌足が命乞いをしたが、聞き入れられなかった)も
その同母弟で鎌足の子(あるいは孝徳の子)定恵(鎌足が可愛がって
期待をかけていた長男)も殺した。
鎌足の自由な結婚も禁止して、お古の身分低めの妻達も押し付けておいたが、
結局、妹との間に子はなせなかった。
定恵を殺したり、自分のお古以外の妻を娶ることを禁止するなど、
鎌足にはかわいそうなことをしたので、自分と愛する間人皇女の子用の
プランー「藤原家」の創設と隆盛プランーを鎌足の次男の藤原不比等の上に
発動してあげることにした(自分の禁忌の子のための家の名前を「藤原」と
以前から鎌足との間で取り決めていたと思う。「藤原」を賜ると聞いて、
その意味を察した鎌足は大感激)。
だから鎌足は泣いてしまったと思われる。
そして、不比等は「天智天皇の落胤でしかも天智天皇が目をかけるようにと
遺言を残していった尊腹の子」として出世街道を驀進することになったと思われる。
> ■謎2:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
■謎2の真相:
長男 定恵ははっきりしている。
母は小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇であるが、可能性は本当に半々だろう。
それこそ定恵の顔がどちらに似ているかを見ないと分からないかも。
一方、次男 不比等の母も小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇であるが不比等の年齢
からいって鎌足の可能性の方がずっと高い
454: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 07:00:11 AAS
その理由をこれから説明する。
不比等の母は謎だが、定恵の同腹の弟とよく書かれているし
有間皇子や定恵と同様、秀才の誉れが高いので、同じ母から生まれたかもしれない。
もし母が小足媛なら、不比等の父も孝徳天皇か鎌足だが、不比等の年から判断すると
鎌足の可能性の方がずっと高いだろう。
また、絶対に天智天皇のはずはない。
もし母が小足媛なら、鎌足としては必死になって、孝徳天皇の子である
と天智天皇に疑われぬよう、不比等の母が誰であるかを内緒にするだろう。
孝徳天皇の死後、孝徳妃だった小足媛を天智天皇に内緒で自分の妻にした
可能性もあるかも知れない。その場合、ばれると大変なので
必死で内緒にしていただろう。
公式には、鎌足の妻は天智天皇から貰い受けたお古の妻たちだけということに
なっている。小足媛は表面に表れていない。
455: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 07:31:00 AAS
ところで、不比等の正室で長男〜三男を産んだのは蘇我臣連子
(蘇我倉山田石川麻呂の異母弟)の娘娼子である。
婚姻は昵懇の間柄や親戚筋とするものであるが、
父鎌足の中臣家や、その妻達(鏡王女、車持君与志古娘、采女の安見児)は
名門蘇我氏と縁組できるような間柄ではない。恐らくずっと下の家柄である。
蘇我氏と昵懇であり、蘇我氏に次ぐ名門の阿倍氏の小足媛のみ
息子の正室に蘇我氏の姫を迎え入れるような人脈を持っているといえる。
それを考えると、不比等の母は阿倍小足媛であると考えるのが自然である。
不比等11歳の時に死んだ父鎌足は蘇我氏と対立し蘇我本家の滅亡を画策した当事者。
蘇我氏との縁組をする人脈など鎌足本人にはないだろう。
また、定恵と不比等の年が離れすぎていることについてであるが、
孝徳天皇の子と思われないように、不比等の出生日を実際より遅くし、孝徳の
死の5年後ということにした可能性もある。
天智天皇にまた息子、今後は不比等を殺されるんじゃないかとびくびく
恐れていたにもかかわらず、
天智天皇と間人皇女に生まれるはずだった禁忌の子用のスーパー藤原氏プランを
不比等の上に実行してやると言われ、
今までの忠誠と苦しみが思いもよらずに過大に報いられたことに対し、
また、もう愛息を殺されずにすむとわかり、
感激の余り鎌足は号泣したのだろう。
皇后間人は奪うわ、有間皇子は殺すわなどしてきた天智天皇も年を取って、
孝徳天皇の祟りが怖くなってきて、
不比等の真の父が孝徳天皇なのか鎌足なのかはわからないが、
とにかく、自分が殺害した、不比等の同母兄の有間皇子、定恵らの供養も兼ねて、
不比等を天皇の落胤扱いで報いてやろうと思ったのだろう。
456(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 07:35:16 AAS
449 名前:418 ◆4yFf8OMaXk [sage] 投稿日:2006/07/23(日) 09:22:12 ID:???
■補足:名前に「間人」がつくことについて
「間人」とは、近親相姦や密通を意味するものらしい(間男など)。
特に、通じた上、「子供」まで儲けた場合に特につけるものかも知れない。
厩戸の母の穴穂部「間人」皇女は夫・用明天皇の死後、義理の息子の田目皇子と
再婚して子供まで「儲けた」ので、それまでは単なる「穴穂部皇女」と呼ばれて
いたのに「間人」をつけられてしまったらしい。
また、「有間皇子」の「有間」は、母の小足媛が鎌足と通じて鎌足の子を「産んだ」
ためつけられたらしい。
「間人皇女」は兄天智天皇と近親相姦関係で、更に
禁忌の子 唖(おし)で、夭折してしまった建皇子を「産んだ」から
「間人」と名づけられてしまったと考えられる。
「間人」という名は、子供まで生まれてしまったことをはっきり明言し、非難して
いるように思われる。
●仮説 終わり
453 名前:愛蔵版名無しさん[] 投稿日:2006/07/23(日) 12:15:05 ID:Jc/0gDEg
>>449
でも間人造とか間人宿禰とかいるよ。
有間皇子は有間に所領を持ってた事から来たらしい。
457(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 07:37:09 AAS
■補足2
>>453
> 有間皇子は有間に所領を持ってた事から来たらしい。
↓名前の由来はこっちの方がメジャーだし、こっちが本当だと思うけど。。
> 有間皇子の変
> 外部リンク[htm]:www.asuka-tobira.com
> 640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に
> 滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。
名前の由来からして、本当は「有馬皇子」なのに、小足媛が鎌足の子定恵を産んだので
嫌味で「有馬皇子」と書かれるようになってしまったのでは。。。
「蘇我蝦夷」も「毛人(えみし)」にわざと嫌な漢字を当てはめて書かれたと言うし、
「邪馬台国の卑弥呼」も「やまと国の姫子」にわざと卑しい字を当てはめて
書かれたという説がある。歴史の記録書の中で、政敵だった相手の名前に
嫌な漢字を当てはめることは多いみたいだ。
458(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 07:37:50 AAS
■補足3
>>448
> また、定恵と不比等の年が離れすぎていることについてであるが、
> 孝徳天皇の子と思われないように、不比等の出生日を実際より遅くし、孝徳の
> 死の5年後ということにした可能性もある。
これについては思慮が足りなかった。
16歳下だからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛だと考えられる。
私は、孝徳天皇が没して、小足媛はわりとすぐに鎌足の所へ行って再婚した
と考えていた。
だから孝徳天皇の死後5年して生まれているのはちょっと遅すぎるから
本当は死後2年くらいして生まれているのに、
3年遅くごまかしているのかも知れないと思った。
でも有間皇子の存在を忘れていた。やっぱり年のごまかしは多分、ない。
孝徳の死の2年くらい後なら、孝徳の子と疑われることはないから、ごまかす
必要ないからだ。。
小足媛は孝徳の死後は、息子 有間皇子(当時数え15歳。満14歳)の宮で
一緒に暮らしていたと思う。
でも孝徳の死の4年後に、「有間皇子の変」があって
有間は天智に殺されてしまった。
有間皇子
外部リンク[html]:www.asahi-net.or.jp
父帝が654(白雉5)年10月難波宮で崩御したとき、15歳(満14歳)。
有間皇子の変
外部リンク[htm]:www.asuka-tobira.com
658年11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。19歳(満18歳)。
459(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 07:38:29 AAS
その時、小足媛は鎌足に連絡を取って、有間の命を助けてくれるように頼み
鎌足も天智に必死に命乞いをしたけど、聞き入れられなかったのだろう
と思われる。。
。。そしてすぐに有間皇子殺害される。
その後、小足媛は皇子の宮から出て、阿倍の実家へ身を寄せる。
鎌足は小足媛を慰め、
「有間皇子は亡くなったが、まだあなたには私との子の定恵がいる!
唐に留学中だが。。」と言って
天智の目を恐れつつ密かに小足媛と結婚したと思われる。
その1年後の659年に不比等が生まれている。
妊娠期間(最後に生理があった日から分娩に至った日まで)はだいたい280±15日
なので、約9ヶ月と考えて、659年3月31日(有間の死から4ヶ月と20日後)
くらいまでに結婚してすぐ妊娠したとすれば、659年の年内に生まれる。
嘆き悲しむ小足媛→定恵のことを話す→私と一緒になろう→すぐ再婚
計算が合う。
16歳年が離れているからこそ、不比等は定恵と同母の小足媛が産んだと考えられる。
逆にもっと年が近かったら、小足媛じゃありえないと思う。
結構、不比等と定恵は年が離れているわりには「同母」「同母」とよく書かれているし
もし他のお古妻が長男、次男両方を産んだのであれば、結婚してからずっと
鎌足のもとにいるのに、長男と次男の年が16歳も離れてしまうという確率は
非常に低いだろう。
460(2): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 08:02:41 AAS
■補足4
天智天皇后妃
外部リンク[htm]:homepage2.nifty.com
> 嬪:蘇我 遠智娘【をちのいらつめ】.. ?〜651?
> 649. 父・石川麻呂、一族と共に没(3月)、間もなく、悲嘆により死去
> 651〜658.. 建皇子
遠智娘は649年3月、父一族が殺されて間もなく悲嘆により死去してる。
もし、亡くなったのが651年で、しかも、お産によって亡くなったのならば
遠智娘は「悲嘆のあまり亡くなった」のではなく、
「お産により亡くなった」と言われているはずだ。
それに、「2年」は「間もなく」とは言えない。
あくまで、「父を夫に殺された悲嘆のあまりまもなく死去」と言われている。
そして、2年後の651年に建皇子が生まれている。
やっぱり、うやむやにごまかしてあるけど、建皇子は遠智娘の死後に
生まれていると思う。
遠智娘が産んだはずない。
補足(>>456-460)の文中のアンカーの数字がおかしいけど、気にせずに。
「日出処21」スレに書きたかったんだけど、スレ違いということで
そこから引っ越したせいなので。ソマソ。
●仮説 終わり
461: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 08:44:46 AAS
■補足3についてだけど、
出生年の記録なんて1、2年の誤差があるかも知れないから
とにかく有間皇子の死後、再婚して不比等が生まれたと考えて
それほど無理はない、ということで。
462: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/25(火) 08:58:37 AAS
とは言うものの、どの資料も659年 不比等誕生となってるから
やっぱり誤差はないのかも。。
658年 有馬皇子が死んで、その翌年生まれているから印象的だ。
463: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/26(水) 22:54:06 AAS
こっちにも別のを貼った。興味あったら読んで。
天智天皇と天武天皇は兄弟じゃないらしい…
2chスレ:history
聖徳太子の子孫は全滅してないと思う。
●天武天皇=漢皇子 仮説●
464(3): 2006/07/27(木) 15:26:27 AAS
長々と妄想乙。
そもそも書紀は不比等ら藤原氏の命令で編纂されたものであって、
藤原氏の都合の悪い事は書かれるはずがないわな。
もっと言えば、藤原氏を正当化するために作られたと言っても
過言じゃない。
中臣氏→藤原氏の件も、藤原氏の栄華の始まりを
「身分の低い者が成り上がり簒奪して」では外聞が悪いから、
「鎌足という先祖が天皇に重用され、天皇の御声掛かりで
藤原氏が作られた」
と捏造粉飾しただけの話だろう。
465: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 16:42:14 AAS
>>464
お前のレスに有用性がないことについて反論できるか?
466(1): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 17:40:31 AAS
>>464
色々資料を探してきて自分の仮説との整合性を確認しているのに
「妄想乙」って、、、?
そもそもお前、妄想の意味を知らないだろ?
想像と妄想の違いわかってないだろ?
それに反論なら具体的な箇所を指摘してその根拠も書けよ。
お前が示す根拠の「信憑性が高い」ことも証明してソースも載せてくれ。
もしも仮説に致命的におかしい点があるのなら直さなきゃならないし。
でもお前の示す根拠が信憑性ないならもうこなくていいよ。
時間の無駄だから。
467: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 18:07:44 AA×
![](/aas/history_1039141039_467_EFEFEF_000000_240.gif)
外部リンク:ja.wikipedia.org
外部リンク:ja.wikipedia.org
外部リンク[html]:kenichsberg.hp.infoseek.co.jp
468: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 18:08:25 AAS
しかし、耳面刀自の生まれた年は不比等誕生より6年前なので、小足媛のはずはない。
(■補足3 参照)
「万葉余聞 六」
外部リンク[html]:www.kcc.zaq.ne.jp
> 天智天皇のあつい信任を受けていたとはいえ、あとにもさきにも妥女を賜る
> ということは記録にない。このとき鎌足は五十歳を過ぎていたと思われるが、
また、妥女 安見児は鎌足が晩年にもらったらしいので、遅すぎるから除外できる。
また、天智天皇が鎌足に車持君与志古娘を与えたのは、
資料によると斉明天皇五年。つまり659年(この年、不比等誕生)である。
やはり遅すぎるから、車持君与志古娘も除外できる。
よって、残る一人、つまり、上の4人の候補者の中では
正室鏡王女以外考えられない。
また、別の面からもこの仮説が正しいかどうか検討してみよう。
思い出してもらいたいが、建皇子は651年に生まれている。
この時は蘇我 遠智娘の子ということにしてごまかせたが、
今後生まれてくるかもしれない禁忌の子用に、天智天皇は
鎌足を用いることを考えた。
「鎌足に妊娠中の妻を与える。
→その妻が出産する。
→その子は本当は天智天皇の子である。
→その子を隠し子として出世させる。」
というプランだ。
469: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 18:09:10 AAS
出世させるためには、本来なら次期天皇になるに
ふさわしい尊腹の出でなければならない。
そこで白羽の矢を立てたのが
中流とはいえ、皇族の出身の鏡女王である。
天智天皇の子供で、母は皇族の鏡女王ならば、次期天皇と
なってもおかしくはない隠し子なので、出世も約束できる。
そういうわけで、天智は将来生まれるであろうかわいい
我が子のために、鏡女王を鎌足の正室として与えた。
それは恐らく、651年に建皇子が生まれてからすぐでは
ないかと考えられる。恐らく、651年か652年であろう。
そして藤原耳面刀自が生まれたのが653年である。
子供は結婚してから最も早くて9ヵ月後に生まれるが
普通、1、2年後に誕生することが最も多いようだ。
ということで、耳面刀自は鎌足と鏡女王との間に
生まれた第一子ではないかと考えられる。
しかし、ここで問題が発生する。
禁忌の子の母用として鏡女王は与えられた。
しかし、間人皇女が兄天智の禁忌の子を生む前に
鏡女王が鎌足の実子を出産してしまった。
禁忌の子は、あくまで天智の子を妊娠中の鏡女王が鎌足に嫁して
初めて生む子でなければならない。
第二子以下なら、鎌足の方の実子であるということになってしまう。
470: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 18:09:54 AA×
![](/aas/history_1039141039_470_EFEFEF_000000_240.gif)
471: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 18:16:40 AAS
大友皇子の第2妃となった耳面刀自であるが、高い扱いを受けている。
皇后となるべき第1妃十市皇女に次ぐ第2妃であるということは
非常に高い扱いである。
母が皇族出身の正室鏡女王だったせいではないかと考えられる。
身分の低い母を持つ異母妹五百娘、氷上娘は天武天皇の夫人に過ぎない。
妃腹の皇子は有力な皇位継承候補者となることができるが、
夫人腹の皇子は普通、有力な皇位継承候補者とはなれない。
また、皇后となるべき十市皇女の母は額田女王なので、耳面刀自は十市皇女とは
母同士が姉妹という従姉妹の間柄となる。
さて、このように、母が皇族出身の正室鏡女王ということで大友皇子妃になった
耳面刀自であるが、困ったことに矛盾が一つできてしまった。
それは、不比等の上に禁忌の子用のスーパープランを実行することにしたため
世間には、鏡女王が天智天皇の子・不比等を身籠ったまま鎌足に嫁して
二人の間の長子・不比等を産んだ、ということにしてあるからだ。
そのため、不比等よりも6歳上の耳面刀自が正室鏡女王の腹出であるとなると、
矛盾が生まれてしまう。よって鏡女王の娘だから天皇妃になったのに、
そのことをはっきり明記するわけにはいかなくなった。
そのため、苦肉の策として、「母未詳」と記述されるようになったと考えられる。
(謎10の真相 終わり)
472: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/27(木) 23:55:57 AA×
![](/aas/history_1039141039_472_EFEFEF_000000_240.gif)
473: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/28(金) 00:01:26 AAS
安見児については既に上で述べた通りである。
車持与志古娘についてだが、車持与志古娘が与えられた時期は
非常に印象的なことであるが、よりによって
有間皇子の殺害された翌年の659年である。
このタイミングには意味がある。天智天皇ははかりごとを
すばやく綿密に立て、すぐに実行に移す人間であるようだ。。
天智は658年、将来我が子の有力なライバルになりそうな有間皇子に
謀反の疑いをかけ、すぐに殺害した。早くて、有間皇子殺害を決心した時と
同時に、遅くても、有間皇子殺害を実行した直後に、天智は
有間と同父同母弟で孝徳の第二皇子かも知れないと多くの人達から
思われている定恵も念のために殺害しておこうと決心した。
定恵を我が子と思っている鎌足に自分の仕業だとばれないように暗殺しようと。。
定恵が唐に留学中の間は殺害することが出来ないが、自分の勢力下の
日本に帰国した時がチャンスと考えていたのかも知れない。
しかし、定恵が殺された時、寵臣鎌足が非常に嘆き悲しむだろうことは
火を見るよりも明らかである。
鎌足は定恵を非常にかわいがっている。鎌足は子供が極めて少なく(天智が
結婚や子作りを禁じているせいでもあるが)、定恵の他には、というか
実子だとはっきりしているのは耳面刀自一人しかいない。
474(2): 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/07/28(金) 00:03:03 AAS
鎌足にもっと実子を作らせてあげれば、鎌足の悲しみも
軽減されるだろう。その必要がある。。
(自分が将来寵臣鎌足に行うむごい仕打ちのことを考えるとさすがに心が痛み、
せめて実子くらいは沢山儲けさせてやらねばと思ったのだろう。
一応、寵臣に対する思いやりの心はあるようである。)
そう考えた天智は、早速、659年、お古妻の一人車持与志古娘をも鎌足に与えて、
「お前は私のせいで自由な結婚もすることができず、実子が耳面刀一人しかいない。
すまんことをした。鏡王女は禁忌の子の母の役目があるから、お前の子供を
自由に産ませるわけにはいかないが、ここにもう一人お古妻として
車持与志古娘を与える。お前の妾にするがよい。車持与志古娘の腹に
お前自身の実子を自由にいくらでも儲けるがよい。
ただし、男子が生まれたら妾腹の庶子として出家させること。。」と言ったの
だろうと考えられる。。
そして、車持与志古娘の腹から後に天武天皇の夫人となる鎌足の二人の
娘が生まれた。
そして、それから6年後の665年、定恵は23歳の若さで、日本帰国後たったの3ヶ月で
その才能をねたんだ百斉の士人によって毒殺された。
もちろんそんな理由で殺人する人間はいるはずないから、天智天皇の手の者に
よる暗殺と考えられる。。
定恵
外部リンク[html]:funabenkei.daa.jp
(謎11の真相 終わり)
475: 2006/07/29(土) 09:18:20 AAS
素晴らしい説だかトンデモだか読んでないから判らないが,
こんな投稿の仕方は甚だ迷惑。
自分のウェブサイトでも立ち上げてもらいたいね。
476: 2006/08/03(木) 01:53:36 AAS
>>474
天智の考えとか自説に良いように考え過ぎじゃないかな。
妃の遠智娘と姪娘の父で大化の改新で協力した臣下を自害に追い込み
既に出家してた異母兄を自害に追い込み
叔父帝を難波に置いてきぼりにし、
仮に近親相姦説が本当なら叔父帝の妻までも奪った天智が
そんな事で胸を痛める程優しい性格か疑問なんだけど。
それと妬みで毒殺する人間がいる筈が無いってのも言い過ぎかと。
犯人が余程嫉妬深い人間なら有り得ない事じゃないよ。
477: 2006/08/03(木) 03:10:04 AAS
まったくだ
糞レスのせいでこっちも過疎ってしまったじゃないか
天智天皇と天武天皇は兄弟じゃないらしい…
2chスレ:history
478(1): 2006/08/03(木) 03:27:45 AAS
近親相姦か、そういえば不比等も異母妹を嫁にしてたよな、たしか二人も
479: 2006/08/03(木) 11:45:31 AAS
>>466
>>来なくて良いよ
>>時間の無駄だから
あの…何様ですか?
ここは418 ◆4yFf8OMaXkのHPでは無いんだけど…。
480: 2006/08/03(木) 11:51:54 AAS
>>478
五百重娘は知ってるけど、もう1人は誰?
481: 2006/08/03(木) 12:14:45 AAS
>>460
>>間もなく、悲嘆により死去
>>「2年」は「間もなく」とは言えない。
『間もなく、悲嘆により死去』とは歴史資料に記されている事ですか?
単にそのHPの管理人の方が書いた事かも知れないのでは。
歴史資料に載っている事で無いなら根拠にはなりませんよ。
482: 2006/08/04(金) 22:40:42 AAS
>>464
不比等が天智の隠し子と言うのは昔からあった説だけど、
間人との近親相姦で出来た子が不比等については資料と言うより
主観と憶測のようなんだけど。
>>474
仮に暗殺だったとしても天智の暗殺だと考えるのも自分の説に合うように
考え過ぎじゃないかと。
483: 2006/08/08(火) 03:25:09 AAS
>>418 ◆4yFf8OMaXk
天智が結婚子作りを禁じているとか
天智が思った考えたとか
史実の論議と言うよりドラマのシナリオ見たいだ。
484(2): 2006/08/09(水) 17:35:08 AAS
そういえば大学で、中臣鎌足は実在しないって授業で聴いたな〜
鎌子って人は実在したみたいだけど、何をしたとか、経歴はほとんど残ってなかった気がする。
485: 2006/08/09(水) 23:12:50 AAS
>>484
鎌子が鎌足じゃないの?
486: 2006/08/09(水) 23:30:37 AA×
![](/aas/history_1039141039_486_EFEFEF_000000_240.gif)
外部リンク[html]:www1.ocn.ne.jp
2chスレ:history
487: 2006/08/10(木) 00:06:03 AAS
>>484
藤原性は一体誰に、不比等はどこから湧き出てきたんだという話になってくる。
488(4): 2006/08/10(木) 13:39:32 AAS
「不比等」という家臣にしては不遜な名前といい、
やっぱ天智の腹違いの息子だったって気がするんだけどな・・
平氏といい源氏といい、天皇家以外で権力握った一族はみんな天皇家の血筋だからこそじゃん
それが正統性を保証してたわけだし
藤原氏だけ特別扱いだったのがアヤシイ
489(1): 2006/08/10(木) 14:01:36 AAS
>>488
それはあなたの思いこみです。
って「不比等」って言う記述の初出知ってる?
490(1): 2006/08/10(木) 20:02:26 AAS
>>489
知らない
何なの?
491: 2006/08/10(木) 20:58:41 AA×
![](/aas/history_1039141039_491_EFEFEF_000000_240.gif)
外部リンク[html]:www1.ocn.ne.jp
2chスレ:history
492: 2006/08/12(土) 06:12:09 AAS
>>488
蘇我氏は?
493: 2006/08/12(土) 06:15:00 AAS
>>488
>>490
>>82
>>86
494: 2006/08/12(土) 08:16:34 AAS
フヒトって、もともと「史」って表記だろ。
田辺史のもとで養育されてたから、そう命名されたらしい。
495: 2006/08/18(金) 07:38:11 AAS
>>488
天智の腹違いの子って表現変じゃね?
天智の妾腹の子、とか持統の腹違いの兄弟、なら分かるけど。
496: 2006/09/03(日) 15:29:44 AAS
418 ◆4yFf8OMaXk のレス途絶えたね。
497(1): 2006/09/03(日) 16:34:57 AAS
つーか日本人じゃないしこの人
498: 2006/09/04(月) 05:32:40 AAS
>>497
そーなのか?
499: 2006/10/24(火) 19:24:01 AAS
チョンだよ
500: 2006/10/24(火) 21:20:45 AAS
こんなゴミスレにも半島の工作員が(呆
500ゲット
501: 2006/10/24(火) 23:11:11 AAS
関裕二ってヤツはなんであんなに藤原を叩くんだ?w
なんか個人的な恨みを感じるw
502: 2006/10/24(火) 23:15:53 AAS
関と藤原
胡散臭いとこは共通してるな
503: 2006/11/09(木) 14:24:14 AAS
それで済ませられるのかい
504: 2006/11/23(木) 16:44:02 AAS
unko
505(1): 2006/11/25(土) 11:17:22 AAS
基本的な質問だが本当は藤原史人だったが
最高実力者になったので不比等になったのではないの?
506: 2006/11/25(土) 12:12:30 AAS
>>505
>基本的な質問だが本当は藤原史人だったが
『日本書紀』では「藤原史」で登場
>最高実力者になったので不比等になったのではないの?
小説家がよく書いている理由だ罠
ホントの理由は謎
507: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 13:59:04 AAS
このスレすごい過疎スレだね。
上の方で書いた超長文>>438-474はごちゃごちゃで読みにくいから
もっと整理した。そうしたら、全部で20〜30レスくらいになった。
迷惑がられるかもしれないけど一応貼っておく。
せっかく整理したんだから貼っておいた方がすっきりするので。。。
508: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:04:16 AAS
藤原不比等の出生に強くまつわる仮説を一つ提示しよう。
仮説 ●天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足●
藤原不比等の出生については謎が多い。私は幾つかの謎について考えていく
うちに、ある一つの斬新な仮説を思いついた。それが上で述べた仮説である。
すると驚くべきことに、多くの謎がこのたった一つの仮説によって解明できて
しまった。私が思い当たった謎は全部で12個あるが、全てきれいに解明できた
のである。
それでは計12個の謎について、これから一つ一つ挙げながら、解明していこう。
まず、基礎情報を述べよう。
藤原鎌足の妻
1.鏡王女
有名な額田王の姉。皇族の末端。鏡王の娘。
天智天皇の妻の一人だったが、天智天皇がなぜか?(←ここが謎)鎌足の妻として
与えた(でも本当は鎌足にとって迷惑だったと思われる)。
2.車持与志古娘
天智天皇の妻の一人だったが、天智が鎌足の妻として与えた。
鎌足と車持与志古娘の娘の氷上娘、五百重娘は天武の夫人となる。
氷上娘は但馬内親王、五百重娘は新田部親王を産む。五百重娘は天武の死後、
異母兄不比等の妾になって四男麻呂を産む。
3.安見児
天智が美女で有名な采女の安見児を鎌足に妻として与えた。鎌足大喜び。でも
やはり天智天皇のお古。
509: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:05:45 AAS
関係人物について
[1]藤原鎌足
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
> 正妻は鏡王女。長男は僧定恵、次男は不比等。
> 娘の氷上娘(ひかみのいらつめ)・五十重娘(いおえのいらつめ)は、いずれも
> 天武天皇夫人。
[2]藤原定恵
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 皇極天皇2年(643年) − 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))
[3]藤原不比等
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月13日))
正室蘇我氏が長男〜三男を産む。長男〜三男の子孫はその後、繁栄したが、
五百重娘の産んだ四男の子孫はそれほど繁栄せずにすぐ消えた。
鎌足の娘の五百重娘の産んだ天武の皇子は皇位継承については無視された。
不比等の娘の産んだ皇子皇女が全員皇位を継いだのとは大違いである。
[4]孝徳天皇
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 596年4月22日 - 白雉5年10月10日(654年11月24日)
[5]間人皇女
孝徳天皇后妃
外部リンク[htm]:homepage2.nifty.com
> 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
510: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:06:30 AAS
[6]阿倍小足媛
上記と同じURL
> 妃:阿倍 小足媛【おたらしひめ】.. 生没年不詳
> .<男足媛>
> 父:左大臣 阿倍倉梯麻呂
> 640.. 有間皇子を生む
> 644.. 軽皇子(孝徳天皇)の宮に泊する中臣鎌子(鎌足)の世話を任せられる
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、妃となる(7月)
> 所生の皇子女
> 640〜658 .. 有間皇子
[7]有間皇子
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 舒明天皇12年(640年)-斉明天皇4年11月11日(658年12月13日))
[8]天智天皇
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月10日))
[9]遠智娘
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 生没年不詳。
511: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:09:48 AAS
次に、謎について述べていこう。
■ 謎1:鎌足の子孫は低く扱われ、不比等の子孫は栄えた。鎌足の娘の産んだ皇子は
天皇候補にさえなれず無視されたが、不比等の娘の産んだ子は皇子でも皇女でも天皇
になった。功のあったのは鎌足なのに、なぜその子に過ぎない不比等の方が栄えたのか。
■ 謎1の真相:
不比等は天皇の隠し子としての扱いを公式に受けたらしい。身分の低い鎌足とは扱いが
違う。鎌足がいくら個人的に天智天皇に信任された寵臣でも、身分は身分だから、鎌足の
娘の産んだ皇子は母の身分が低いので無視された。
(謎1の真相 終)
■謎2:なぜ、鎌足の妻達は天智のお古ばっかりなのか。しかも一人で十分なのに何人も…。
はっきり言って、おかしい。鎌足は天皇のお古の女が好きで、「天智天皇、あなたのお古の
妻をくれくれ」と次々にねだる変わり者だったのか? だとしてもそれを許して次々とお古の
妻をあげる天智もおかしいんじゃないか? また、天皇のお古が好きだったとしても、それ
以外のところから妻を一人も娶っていないのは不自然じゃないのか?
■謎3:ところで、なぜ鎌足は尊腹出の一粒種で、自分の跡継ぎたる長男定恵を出家させ
たのか。当時次男はまだ生まれていなかった。どう考えても不自然ではないか。
■謎2、謎3の真相:
簡単に言えば、鎌足は天智から、「自分と妹間人皇女との近親相姦で皇子が生まれたら、
お前の子供として育ててほしい、その子には『藤原』の姓を与えて天皇の密かな隠し子として
立身出世を約束する、どうかお願い」と強く頼まれていたと考えられる(これこそが、この論文
の主題「天智天皇と同母妹間人皇女の隠し子の引受け役としての藤原鎌足」となっている
仮説である。この仮説を唱えるのは恐らく私が初めてだろう。しかし、これによると多くの謎が
次々と解明されるので、今後主流になっていくかも知れない)。
512: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:19:41 AAS
そのため、鎌足が中流や下流のつりあいの取れた家と勝手に婚姻を結ぶことを許さ
なかった。もし本当の子が生まれたら、天智の子供よりも実子に家を継がせたくなる
から。。。
また、鎌足の家は天智天皇と間人皇女の禁忌の子が跡を継ぐことになっていたので、
一粒種で長男の定恵を鎌足家の跡継ぎにするわけにはいかず、不自然でも出家させて、
跡継ぎから外さざるを得なかった。天智から「どうせお前の実子ではなく、孝徳天皇の子
なんだろう、出家させてもかまわんだろう」と言われたかも。。。
また、そのため、天智のお古の中下流出身の妻ばかりを妻として押し付けられた。
天智と間人の禁忌の子が生まれたら、天智からもらった妻が天智の子を身籠ったまま
嫁してきて産んだのだということにして、禁忌の子を鎌足が育てる計画が立てられた。
そういうわけで、もし天智からもらったお古妻が鎌足の息子を産んでしまった場合は、
邪魔にならないように、定恵のように出家させるというお約束をさせておいたのだろう。
もちろん、娘の場合は跡継ぎじゃないので許されたのだろうが。。
だから、鎌足が天智のお古以外のところから妻を娶って息子が出来たとしたら、妻の
実家の意向もあるし、邪魔だからと言って勝手に出家させるわけにはいかない。
それなので、天智のお古以外のところから妻を娶るのを天智から固く禁じられたと
考えられる。
(謎2、謎3の真相 終)
513: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:20:22 AAS
■謎4:なぜ天智天皇は長い間即位せず、間人皇女が死んだら即位したのか。
■ 謎4の真相:
天智天皇と同母妹間人皇女は近親相姦の仲だった。それを問題視されていた天智は
長い間即位せず、間人皇女が死んでから初めて即位した。
実際に、孝徳天皇は間人皇女と同母兄天智天皇の間に肉体関係があることをうらむ
ような歌を間人皇女に送っている。
「鉗(かなき)着け吾が飼ふ駒は引き出せず 吾が飼ふ駒を人見つらむか」。
[8]より引用
> 天智天皇が長く即位しなかったことは、古代史における謎の一つであるが、
> このことについて興味深い説が3つ存在する。
> もう一つは、天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
> これは、万葉集に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に
> 当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。
> 当時の人々の恋愛事情(異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、
> 同母兄弟姉妹間でのそれは許されない)を考えれば、この説も理解できる。
(謎4の真相 終)
■謎5:天智と間人皇女の間に、近親相姦の子供は、実際にはできなかったのか。
■謎6:建皇子はおしだったが、おしは近親相姦でよく出る障害の一つだ。天智天皇は
蘇我氏の血をほんのわずかにしか引いてないのに、なぜ、蘇我遠智娘との間に近親相姦
でよくでる症状の障害の子が生まれたのか。
■ 謎5と謎6の真相:
近親相姦の子は多分出来たと考えられる。それは、実は、あの誰もが知る夭折した
おしの建皇子だったのではないかと考えられる。間人皇女との間の近親相姦の子を、
丁度その前後に若死にした蘇我遠智娘の産んだ子ということにしてうまくごまかした
のだ。
514: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:21:20 AAS
[5]より引用
> 皇后:間人皇女【はしひと】..? 〜665
> 641.. 父・舒明天皇没
> 645.. 大化の改新、孝徳天皇(49才)即位(6月)、皇后に冊立される(7月2日)
> 653.. 兄中大兄皇子・母皇極上皇・弟大海人皇子とともに飛鳥河辺の行宮に移る
> 654.. 孝徳天皇の病を見舞う(10月)、孝徳天皇(59才)没
> 655.. 孝徳天皇を大阪磯長陵に葬り、即日飛鳥に帰る
> 661.. 母・斉明天皇没
> 665.. 崩御〔2月25日〕
[9]より引用
遠智娘
> 生没年不詳。
> 享年は定かではないが、建皇子を産んで間もなく亡くなったとの説が多い。
> 建皇子(夭逝、生まれながらに口がきけなかったという)の2女1男を産む。
遠智娘は、天智天皇の妻達の中では、皇后である倭姫王に次ぐ高貴な血筋の妃だった。
倭姫王は子をなしてないので子をなした中では最高位だった。
天智天皇后妃
外部リンク[htm]:homepage2.nifty.com
> 嬪:蘇我 遠智娘【をちのいらつめ】.. ?〜651?
> 649. 父・石川麻呂、一族と共に没(3月)、間もなく、悲嘆により死去
> 651〜658.. 建皇子
遠智娘は649年3月、父一族が殺されて間もなく悲嘆により死去している。もし、亡く
なったのが651年で、しかも、お産によって亡くなったのならば、遠智娘は「悲嘆の
あまり亡くなった」のではなく、「お産により亡くなった」と言われているはずだ。
それに、「2年」は「間もなく」とは言えない。やっぱり、うやむやにごまかしてある
けど、建皇子は遠智娘の死後に生まれていると思う。遠智娘が産んだはずはない。
515: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:22:00 AAS
禁忌の子を、死人に口なしということで、遠智娘が産んだことにした。これで恋人で
ある妹との子を、身分の高い遠智娘腹出の皇子として、正式な跡継ぎにも出来ることに
なる。
しかし、問題がある。建皇子はおしだった。親子兄妹間の近親相姦の子は約半分の確率
で身体的障害が発生する。おし、めくら、足が立たない、などの症状が多い。建皇子が
おしだったのは、近親相姦で生まれたせいであろう。そして建皇子はほどなく夭折して
しまうのである。
(謎5と謎6の真相 終)
謎1の真相で、不比等は天皇の隠し子としての扱いを受けたと述べた。このように、
不比等は本当は天皇の子だという説があるが、孝徳天皇の子だという説と、天智天皇の
子だという2つの説がある。しかし、それ以外には全くない。例えば、天武の子という
噂は全くない。また、定恵も本当は孝徳天皇の子だという説がある。また、この二人の
それぞれの母も諸説がある。ここで、長男定恵と次男不比等の父母について、どんな説
があるか挙げてみよう。
・説A
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
定恵の母は阿倍小足媛。本当の父は孝徳天皇。有間皇子の同父同母弟。定恵も兄同様、
秀才の誉れが高い。有間皇子の死の何年か後、やはり定恵も孝徳の血を引いていると
疑っている天智天皇の手の者によって暗殺されたそうだ。
・説B
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 藤原鎌足 母 阿倍小足媛
・説C
長男定恵: 父 藤原鎌足 母 車持与志古娘
次男不比等:父 藤原鎌足 母 車持与志古娘
516: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:28:22 AAS
・説D
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 藤原鎌足 母 車持与志古娘
・説E
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 天智天皇 母 車持与志古娘
・説F
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 天智天皇 母 鏡王女
不比等は鎌足の正室鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま鎌足に嫁して生まれた。女が
生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、と天智天皇から言われたらしい。
・説G
長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
次男不比等:父 天智天皇 母 采女の安見児
不比等は安見児が天智天皇の子を身籠ったまま鎌足に嫁して生まれた。
さて、資料によると、有間皇子、定恵、不比等のうち、有間皇子、定恵は3歳違いで
年が近く、定恵と不比等は16歳違いで離れているらしい。しかし、定恵と不比等も4〜6歳
違いで年が近いという説もある。
次に、孝徳天皇妃 阿倍小足媛の年齢について考えてみよう。孝徳天皇は645年に49歳で
即位。当時有間皇子5歳。定恵2歳。しかし小足媛の妹の橘娘が孝徳天皇より30歳下の
天智天皇の妃になって皇女を何人か産んでいる(若い)ので小足媛も夫より30歳くらい
下、夫即位時には22歳前後くらいで若かったのではないかと思われる。後述するように、
若く美しくなければ、鎌足は喜ばないし、接待にならない。定恵と不比等の年齢差が
たとえ16歳だったとしても、年齢的に小足媛が不比等を産んでも不思議はないと思われる。
517: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:29:30 AAS
年齢について、妹 橘娘をたどって、もう少し詳しく見てみよう。
[8]より引用
> 嬪:阿倍橘娘(たちばなのいらつめ、阿倍倉梯麻呂の女)
> 明日香皇女(あすかのひめみこ)
> 新田部皇女(にいたべのひめみこ) 天武天皇の妃、舎人親王の母
舎人親王
外部リンク:ja.wikipedia.org
> 天武天皇4年1月5日(676年1月28日) - 天平7年11月14日(735年12月6日))
橘娘の孫の舎人親王が676年生まれなので、橘娘はそれより40〜50年ほど早く生まれて
いるとすると、626〜636年生まれ。孝徳天皇の即位した645年には10〜20歳である。
この時、姉小足媛が22歳前後と考えることは十分現実的である。
なお、姉妹の父 阿倍倉梯麻呂は649年に亡くなっている。
阿倍内麻呂(倉梯麻呂)
外部リンク:ja.wikipedia.org
> ?-大化5年3月17日(649年))
518: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:30:04 AAS
ある資料によると、、、
中大兄皇子と軽皇子(孝徳天皇)の仲がぎくしゃくした。
↓
軽皇子の宮を中大兄皇子の寵臣中臣鎌足が訪ねる
↓
軽皇子、一粒種有間皇子の母であり、身分の高い、寵妃の小足媛を貸し与えて接待する※
↓
中臣鎌足、大感激
↓
中臣鎌足、大奔走し、中大兄皇子を説き伏せる
↓
軽皇子、即位。孝徳天皇となる。阿倍小足媛の父 阿倍内麻呂(倉梯麻呂)は左大臣に。
その一方で、※の続き
↓
寵妃の小足媛妊娠。どちらの子が分からない。
↓
生まれた子は中臣鎌足の子とされる。中臣鎌足、有り難く赤子を貰い受ける。それが
定恵。異父兄有間皇子同様、秀才の誉れが高い。本当は孝徳天皇の子だという噂もされる。
定恵の出生についてはこれが一番有名な説ではないだろうか。このように、定恵の母は
阿倍小足媛だと考えられる。
一方、不比等の母は定恵よりも曖昧ではっきりしない。しかし、車持与志古娘と鎌足
の娘 五百重娘(天武天皇の夫人)(異母妹)を天武天皇の死後、妾にして四男麻呂を
産ませている。同母なら婚姻不可能なので、不比等の母は車持与志古娘でないことだけ
は確かだ。
519: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:32:12 AAS
> ・説F
> 長男定恵: 父 孝徳天皇 母 阿倍小足媛
> 次男不比等:父 天智天皇 母 鏡王女
> 不比等は鎌足の正室鏡王女が天智天皇の子を身籠ったまま鎌足に嫁して生まれた。
> 女が生まれたら自分の子、男が生まれたら鎌足の子とせよ、と天智天皇から言われたらしい。
また、説Fもありえない。なぜなら、天智天皇は身分の高い妻に皇子が生まれなくて
困っていた。
低い身分の女腹の皇子は自分の跡継ぎにしても、群臣達に認められにくいからだ。
鏡王女は皇族のはしくれなので、身分自体はそれほど高くなくても、その腹に皇子が
出来た場合は、跡継ぎとして認められやすい。
せっかく皇族腹にできた待望の皇子を身分の低い鎌足にやるはずがない。逆に皇女の方
はいっぱい生まれすぎて過剰なくらいだ。
このように、天智天皇の皇子と正式に認められていても、母の身分が低ければ低く
扱われるので、仮に不比等が本当は天智天皇と身分の低い妻との間にできた子だったと
しても、母の身分の低さゆえ、あまり出世は望めないだろう。また、不比等が鎌足の子
だったとしても、中臣氏自体が有力な氏族ではないので、やはり、あまり出世は望めない
だろう。鎌足の孫である新田部親王でさえ、皇位継承の時には候補にさえ上らなかった
くらいだ。
520: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 14:44:19 AAS
■謎7:なら、なぜ不比等は父を大きくしのぐ出世が出来たのか。
■謎7の真相:天皇落胤説を大いに利用した。しかもありふれた賎腹出ではなく、
本来、天皇になるのがふさわしい尊腹出として。
つまり、兄定恵同様、「身分の高い阿倍小足媛と孝徳天皇の皇子である」、あるいは、
「天智天皇と間人皇女との間の近親相姦の皇子である」、あるいは、(不比等は孝徳
天皇の死後5年して生まれているとされているが、実際はもっと早く生まれていると
したら)「間人皇女の産んだ皇子ではあるが、夫 孝徳天皇の子か兄 天智の子か不明な子
」というように、本来なら天皇になれる尊い出だという天皇落胤説を利用した(有間皇子
は母の身分も高く、皇位継承の有力な皇子なので殺された)。
(謎7の真相 終)
■ 謎8:では、本当に不比等は天皇の子か。どの天皇の子か。母は誰か。
■謎9:鎌足が亡くなる直前、天智が枕元に来て、次男不比等とその子孫に藤原の姓を
賜ると言った時に、鎌足は泣いて喜んだという。もし、不比等が天智の子ならば、泣いて
喜ぶのは変である。姓を賜って藤原氏の立身出世と引き立てを約束されても、天智の子
だから予定通りなだけである。ではなぜ泣いて喜んだのか。
521: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:05:01 AAS
■ 謎8、謎9の真相:
謎8について。
長男定恵の父母については、はっきりしている。母は小足媛であり、父は鎌足か孝徳天皇
であるが、可能性は本当に半々だろう。それこそ定恵の顔がどちらに似ているかを
見ないと分からないかも。一方、次男 不比等の母も小足媛だが、父は孝徳天皇の可能性
はなく、鎌足だろう。
謎9について。
次男不比等の上に、(結局は生まれなかった)禁忌の子用のプランを実行してあげると
天智天皇に言われたから、感激のあまり泣いたのだろう。謎9でも述べたように、もし
天智天皇の子ならば、泣いて感激するはずがない。だから不比等は天智天皇の子では
ないと思われる。
以下に詳しく説明しよう。
まず、謎8について。
不比等の母は謎だが、定恵の同腹の弟とよく書かれているし、有間皇子や定恵と同様、
秀才の誉れが高いので、同じ母から生まれた可能性は高いだろう。もし母が小足媛なら、
不比等の父も孝徳天皇か鎌足だが、不比等は孝徳天皇の死から5年経って生まれている
ので、父は鎌足だろう。また、言うまでもないことだが、上で述べたように、天智天皇
のはずはない。
もし母が小足媛なら、鎌足としては必死になって、孝徳天皇の子であると天智天皇に
疑われぬよう、不比等の母が誰であるかを内緒にするだろう。孝徳天皇の死後、孝徳妃
だった小足媛を天智天皇に内緒で自分の妻にした可能性もあるかも知れない。その場合、
ばれると大変なので必死で内緒にしていただろう。公式には、鎌足の妻は天智天皇から
貰い受けたお古の妻たちだけということになっている。小足媛は表面に表れていない。
522: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:05:37 AAS
ところで、不比等の正室で長男〜三男を産んだのは蘇我臣連子(蘇我倉山田石川麻呂の
異母弟)の娘娼子である。婚姻は昵懇の間柄や親戚筋とするものであるが、父鎌足の
中臣家や、そのお古妻達(鏡王女、車持君与志古娘、采女の安見児)は、名門蘇我氏と
縁組できるような間柄ではない。中下流の家柄である。蘇我氏と昵懇であり、蘇我氏に
次ぐ名門の阿倍氏の小足媛のみ、息子の正室に蘇我氏の姫を迎え入れるような人脈を
持っているといえる。それを考えると、不比等の母は阿倍小足媛であると考えるのが
自然である。
不比等11歳の時に死んだ父鎌足は、蘇我本家の滅亡を画策した当事者であり、[1]にも
「大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部
倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。」と
あるので、蘇我氏との縁組をする人脈など鎌足本人にはないだろう。
また、同母であるにもかかわらず、定恵と不比等の年が離れすぎていることについては、
この後、謎10として述べることにする。
次に、謎9について。
天智天皇は、間人皇女との間の禁忌の子、尊腹出の天皇落胤の噂のある子を鎌足に
与えて、藤原の姓も賜り、最も愛しい禁忌の子を、自分の跡継ぎの天皇にはできなくて
も、代わりに名門の家を与えて隆盛させる予定だった。しかし、結局、天智天皇、間人
皇女の子は建皇子以降産まれなかったか、産まれてもすぐ死んだために、その計画は
頓挫した。そして、665年、天智天皇の最も愛した同母妹の間人皇女は崩御した。
天智天皇は有間皇子(鎌足が命乞いをしたが、聞き入れられなかった)も、その
同母弟で鎌足の子(あるいは孝徳の子)定恵(鎌足が可愛がって期待をかけていた長男)
も殺した。鎌足の自由な結婚も禁止して、お古の妻達も押し付けておいたが、結局、
妹との間に子はなせなかった。
523: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:06:11 AAS
天智天皇は669年、死の直前の鎌足のもとを訪れた。天智は、鎌足にはかわいそうな
ことをしたので、自分と愛する間人皇女の子用のプランー「藤原家」の創設と隆盛
プランーを鎌足の次男の藤原不比等の上に発動してあげることにした(以前から鎌足
との間で、自分の禁忌の子のための家の名前を「藤原」とすることに取り決めていたと
思う。「藤原」を賜ると聞いて、その意味を察した鎌足は大感激)。
天智天皇にまた息子、今後は不比等を殺されるんじゃないかとびくびく恐れていた
にもかかわらず、今までの忠誠と苦しみが思いもよらずに過大に報いられたことに対し、
また、もう愛息を殺されずにすむとわかり、感激のあまり、鎌足は号泣したのだろう。
天智天皇にとっては、また、もう一つの意味合いもあると考えられる。孝徳天皇から
間人皇后は奪うわ、有間皇子は殺すわなどしてきたが、天智天皇も年を取って、孝徳
天皇の祟りが怖くなってきて、不比等の同母兄で、自分が殺害した有間皇子、定恵らの
供養も兼ねて、不比等を天皇の落胤扱いで報いてやろうと思ったのだろう。
そして、不比等は「天智天皇の落胤でしかも天智天皇が目をかけるようにと遺言を
残していった尊腹の子」として出世街道を驀進することになったと思われる。
(謎8、謎9の真相 終)
524: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:06:45 AAS
■ 謎10:なぜ定恵と不比等の年は16歳も離れているのか。同母なのに離れすぎでは
ないか。
■謎10の真相:
小足媛は孝徳の死後は、息子 有間皇子(当時数えで15歳。満14歳)の宮で一緒に
暮らしていたと思う。でも孝徳の死の4年後に、「有間皇子の変」があって有間は天智
に殺されてしまった。
有間皇子
外部リンク[html]:www.asahi-net.or.jp
父帝が654(白雉5)年10月難波宮で崩御したとき、15歳(満14歳)。
有間皇子の変
外部リンク[htm]:www.asuka-tobira.com
658年11月11日,有間皇子は藤白坂にて処刑された。19歳(満18歳)。
有間皇子が捕らわれた時、小足媛は鎌足に連絡を取って、有間の命を助けてくれる
ように頼み、鎌足も天智に必死に命乞いをしたけれど、聞き入れられなかったのだろう
と思われる。そしてすぐに有間皇子は殺害される。その後、小足媛は故皇子の宮から
出て、阿倍の実家へ身を寄せたのだろうと考えられる。鎌足は小足媛のもとを訪れて慰め、
「有間皇子は亡くなったが、まだあなたには私との息子、唐に留学中の定恵がいる!」
と言って、天智の目を恐れつつ、密かに小足媛と結婚したと思われる。
その1年後の659年に不比等が生まれている。
妊娠期間(最後に生理があった日から分娩に至った日まで)はだいたい280±15日
なので、約9ヶ月と考えて、659年3月31日(有間の死から4ヶ月と20日後)くらいまでに
結婚して、すぐ妊娠したとすれば、659年の年内に生まれる。計算が合う。
525: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:08:19 AA×
![](/aas/history_1039141039_525_EFEFEF_000000_240.gif)
外部リンク:ja.wikipedia.org
外部リンク[html]:kenichsberg.hp.infoseek.co.jp
526: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:20:11 AAS
しかし、上にあるように、耳面刀自の生まれた653年は不比等の生まれた年より6年も
前、孝徳天皇の亡くなる前年なので、小足媛のはずはない。(■謎10の真相 参照)
「万葉余聞 六」
外部リンク[html]:www.kcc.zaq.ne.jp
> 天智天皇のあつい信任を受けていたとはいえ、あとにもさきにも妥女を賜る
> ということは記録にない。このとき鎌足は五十歳を過ぎていたと思われるが、
また、妥女 安見児は56歳で没した鎌足が晩年にもらったらしいので、遅すぎるから
除外できる。
また、天智天皇が鎌足に車持君与志古娘を与えたのは、資料によると斉明天皇五年。
つまり659年(不比等の生まれた年)である。やはり遅すぎるから、車持君与志古娘も
除外できる。
よって、残る一人、つまり、上の4人の候補者の中では、正室鏡王女以外考えられない。
また、別の面からもこの仮説が正しいかどうか検討してみよう。
思い出してもらいたいが、建皇子は651年に生まれている。この時は蘇我 遠智娘の子
ということにしてごまかせたが、今後生まれてくるかもしれない禁忌の子用に、
天智天皇は鎌足を用いることを考えた。
「鎌足に妊娠中の妻を与える。→その妻が出産する。→その子は本当は天智天皇の子で
ある。→その子を隠し子として出世させる。」というプランだ。もちろん、世間に
対する表向きの話である。実際には天智天皇と間人皇女との禁忌の子だ。
出世させるためには、本来なら次期天皇になるにふさわしい尊腹の出でなければなら
ない。そこで白羽の矢を立てたのが、中流とはいえ、皇族の出身の鏡王女である。
天智天皇の子供で、母は皇族の鏡王女ならば、次期天皇となってもおかしくはない
隠し子なので、出世も約束できる。
527: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:20:54 AAS
そういうわけで、天智は将来生まれるであろうかわいい我が子のために、鏡王女を
鎌足の正室として与えた。それは恐らく、651年に建皇子が生まれてからすぐでは
ないかと考えられる。恐らく、651年か652年であろう。
そして藤原耳面刀自が生まれたのが653年である。子供は結婚してから最も早くて9ヵ月
後に生まれるが、普通、1、2年後に誕生することが最も多いようだ。ということで、
耳面刀自は鎌足と鏡王女との間に生まれた第一子ではないかと考えられる。
しかし、ここで問題が発生する。
禁忌の子の母用として鏡王女は与えられた。しかし、間人皇女が兄天智の禁忌の子を
生む前に鏡王女が鎌足の実子を出産してしまった。禁忌の子は、あくまで天智の子を
妊娠中の鏡王女が鎌足に嫁して初めて生む子でなければならない。第二子以下なら、
鎌足の方の実子であるということになってしまう。
天智天皇の元々の構想は、恐らく次の通りだったのだろう。
「鏡王女を鎌足に与える。→そのうちに、私と間人の間に禁忌の子がまた生まれる
だろう。→そうしたら、その禁忌の子を鎌足に預けて、鏡王女がその子の生まれる半年
くらい前に、身籠ったまま私のもとから鎌足に嫁してきてその子を産んだのだという
ことにして、ごまかそう。」
「しかしながら、鎌足と鏡王女の間に第一子が生まれてしまった。これでは禁忌の子を
彼らの第一子とすることができない。困った。。。。」
そこで、「その子を生んだのは別の女だということにしておけ」と天智は鎌足に
命じたのかもしれない。
そして、「禁忌の子を第一子とする予定なので、今後は、もう、子供が生まれない
ように気をつけよ」と命令しておいたのかもしれない。
528: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:21:28 AA×
![](/aas/history_1039141039_528_EFEFEF_000000_240.gif)
529: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:27:50 AAS
それは、不比等の上に禁忌の子用のスーパープランを実行することにしたため、世間に
は、鏡王女が天智天皇の子・不比等を身籠ったまま鎌足に嫁して、二人の間の
長子・不比等を産んだ、ということにしてあるからだ。そのため、不比等よりも6歳上の
耳面刀自が正室鏡王女の腹出であるとなると、矛盾が生まれてしまう。よって鏡王女の
娘だから天皇妃になったのに、そのことをはっきり明記するわけにはいかなくなった。
そのため、苦肉の策として、「母未詳」と記述されるようになったと考えられる。
(謎11の真相 終)
■謎12:なぜ、天智は複数、つまり、二人目、三人目のお古妻を鎌足に与えたのか。
鏡王女一人ではなぜいけなかったのか。また、なぜ、そのタイミングで与えたのか。
■ 謎12の真相:
安見児は鎌足の晩年に、単純に、その長年の功をねぎらう目的のために与えられた、
とっておきの美女であると考えられる。車持与志古娘は、正室・鏡王女に産ませるわけ
にはいかない鎌足の実子を儲けさせるために与えられたと考えられる。しかし、もう
一つの隠された目的として、将来的に愛息定恵を殺された時の寵臣鎌足の嘆き(当時、
鎌足は定恵と耳面刀自のたった二人しか子がいなかった)を多少なりとも軽減する
ために、もっと鎌足の実子を儲けさせておこうという天智天皇の計らいの下で与えられ
たと考えられる。鎌足が我が子として、かわいがっている定恵を将来的に自分が殺して
しまうことへの償いの意味もある。
以下に詳しく述べよう。
鎌足の妻は、鏡王女、車持与志古娘、安見児の三人のお古妻と、隠し妻の小足媛の
計四人がいる。なぜ鏡王女に加えて、車持与志古娘、安見児も与えられたのか。また、
なぜそのタイミングになったのか。
安見児については既に上で述べた通りである。
530: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:39:18 AAS
車持与志古娘についてだが、車持与志古娘が与えられた時期は、有間皇子の殺害された
翌年の659年である。大化の改新や遷都の件などを考えるにつけても、天智天皇は
はかりごとをすばやく綿密に立て、すぐに実行に移す人間であるようだ。従って、
このタイミングには意味があると考えられる。
天智は658年、将来我が子の有力なライバルになりそうな有間皇子に謀反の疑いを
かけ、すぐに殺害した。早くて、有間皇子殺害を決心した時と同時に、遅くても、
有間皇子殺害を実行した直後に、天智は有間と同父同母弟で孝徳の第二皇子かも知れ
ないと多くの人達から思われている定恵も念のために殺害しておこうと決心した。
定恵を我が子と思っている鎌足に自分の仕業だとばれないように暗殺しようと。。。
定恵が唐に留学中の間は殺害することが出来ないが、自分の勢力下の日本に帰国した
時がチャンスと考えていたのかも知れない。
しかし、定恵が殺された時、寵臣鎌足が非常に嘆き悲しむだろうことは、火を見る
よりも明らかである。鎌足は定恵を非常にかわいがっている。鎌足は子供が極めて
少なく(天智が結婚や子作りを禁じているせいでもあるが)、定恵の他には、というか、
実子だとはっきりしているのは耳面刀自一人しかいない。
鎌足にもっと実子を作らせてあげれば、鎌足の悲しみも軽減されるだろう。その必要
がある。。
(自分が将来寵臣鎌足に行うむごい仕打ちのことを考えるとさすがに心が痛み、せめて
実子くらいは沢山儲けさせてやらねばと思ったのだろう。一応、寵臣に対する思いやり
の心はあるようである。)
531: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:39:52 AAS
そう考えた天智は、早速、定恵殺害の決心を固めた翌年の659年、お古妻の一人
車持与志古娘をも鎌足に与えて、
「お前は私のせいで自由な結婚もすることができず、実子が耳面刀自一人しかいない。
すまんことをした。鏡王女は禁忌の子の母の役目があるから、お前の子供を自由に
産ませるわけにはいかないが、ここにもう一人お古妻として、車持与志古娘を与える。
お前の妾にするがよい。車持与志古娘の腹にお前自身の実子を自由にいくらでも儲ける
がよい。ただし、男子が生まれたら妾腹の庶子として出家させること。。」
と言ったのだろうと考えられる。。
車持与志古娘の腹からは、後に天武天皇の夫人となる鎌足の二人の娘が生まれた。
そして、それから6年後の665年、定恵は23歳の若さで、日本帰国後たったの3ヶ月で
その才能をねたんだ百斉の士人によって毒殺された。もちろんそんな不自然な理由で
殺人する人間はいるはずがないから、天智天皇の手の者による暗殺と考えられる。。
定恵
外部リンク[html]:funabenkei.daa.jp
(謎12の真相 終)
532: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:40:25 AAS
■ 補足:名前に「間人」がつくことについて
「間人」とは、近親相姦や密通を意味するものらしい(間男など)。特に、通じた上、
子供まで儲けた場合に特につけるものかも知れない。
聖徳太子の母の「穴穂部間人皇女」は夫・用明天皇の死後、義理の息子の田目皇子と
再婚して子供まで儲けたので、それまでは単なる「穴穂部皇女」と呼ばれていたのに、
名前に「間人」をつけられてしまったらしい。
> 有間皇子の変
> 外部リンク[htm]:www.asuka-tobira.com
> 640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に
> 滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。
「有間皇子」は、名前の由来からして、正しくは「有馬皇子」なのに、母の小足媛が
鎌足と通じて鎌足の子定恵を産んだので、嫌味で「有間皇子」と書かれるようになって
しまったのではないだろうか。
「間人皇女」は兄天智天皇と近親相姦関係で、更に禁忌の子 唖(おし)で、夭折して
しまった建皇子を産んだから「間人」と名づけられてしまったと考えられる。
■ 参考文献
「天皇家系譜総覧」別冊歴史読本 目で見る時代考証シリーズ9 新人物往来社
1986年10月10日発行
533: 418 ◆4yFf8OMaXk 2006/11/27(月) 15:55:15 AAS
以上。
以前書いたものよりも読みやすくなったでしょう?
このスレ過疎だから、また3ヵ月後位に見に来るかも知れない。
忘れていなければ。。。
それでは、それまで さようなら。
534(1): 2006/12/02(土) 14:20:49 AAS
乙
535: 2006/12/23(土) 14:02:50 AAS
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
2chスレ:kyoto
821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
2chスレ:history
186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822
神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
536: 2007/01/20(土) 16:36:41 AAS
ho-
537: 2007/01/30(火) 23:44:23 AAS
日本の歴史を歪曲した人
538: 2007/01/31(水) 10:43:24 AAS
律令体制の確立に果たした藤原不比等の役割って何?
539: 418 ◆4yFf8OMaXk 2007/03/03(土) 12:24:21 AAS
ふっと気がついたら、約3ヵ月経っていたから、来たよ。
あれっ?このスレ、やっぱり過疎だったねえ。
>>534
d
540: 2007/03/17(土) 12:40:18 AAS
oyoyo
541(1): 2007/03/29(木) 16:53:54 AAS
文武天皇の継承者問題について、
文武には藤原宮子を母とする首皇子(=聖武天皇)以外に
石川氏出生の男子が存在したが、不比等の陰謀で臣籍降下させられて
首皇子継承が確定した、との説がある。
これってホントかなって少し思う。
この説自体が諸史料を引っ付き合わせて作られた説なので、
その点からも疑問視する余地は十分あると思うが、
不比等の動機面から考察しても、そんなことやる価値あったのかね?って思う。
石川氏って、あの当時かなり後退気味だし。
石川氏は古代の名族として、なお十分警戒する余地があったと
考える人もいるかもしれないが、もしそうだとしたら、
今度は、なんでそんな名族を母に持つ男子を、不比等ごときが
そんな簡単に臣籍降下させられるんだ?と感じるのだが。
以上の見解について、意見求ム
542(1): 2007/03/29(木) 18:01:39 AAS
>>541
首皇子出産後、文武夫人宮子の生殖能力は期待できないから
不比等の動機としてはまだ充分じゃない?
あと石川氏は没落したと言えども古代有力豪族で蘇我氏の流れの名家。
皇族、蘇我系、息長系以外からの「卑母」から大王になったのは大友皇子くらい。
まだ廟堂を独占できる時代ではなく朝廷は古代氏族の代表で占められているから
もしも不比等が藤原氏の権勢を求めたならば紀氏、石川氏を妃から廃したのは
分からんでもない。まあ不比等がどこまで考えていたのかは知らんが。
石上(物部)が再興したように地方に基盤のある古代名族が何らかのきっかけで
再興する可能性は、まだ否定できる時代じゃないわな。
後段の件について言えば太政官をリードできたのが律令国家の意思決定としては
大きいのでは?過渡期ゆえに血を流さずできた業だと思う。石川氏は当時太政官には
基盤がなかったからねえ。
首皇子即位の過程は元明女帝の吉備内親王系長屋王子女を皇孫待遇している件からも
考察は必要かもね。奈良初期の太政官と皇族、天皇、太上天皇の地位を含めて
まだまだ流動的な時代だったから後世のような単なる陰謀論だけで済ませていいのか分からん。
543(3): 541だよん 2007/03/29(木) 18:55:12 AAS
>>542 レス、サンクスです。
>首皇子即位の過程は元明女帝の吉備内親王系長屋王子女を
>皇孫待遇している件からも考察は必要かもね。
>奈良初期の太政官と皇族、天皇、太上天皇の地位を含めて
>まだまだ流動的な時代だったから
>後世のような単なる陰謀論だけで済ませていいのか分からん。
ごめん。この部分の文章の含意がいまいちよくわかんない。
もう少し詳しく説明してくれるとうれしい。
544: 2007/03/29(木) 20:27:00 AAS
櫂欧甲斐って誰??
545(1): 2007/03/30(金) 03:56:09 AAS
>>543
律令初期の流動的な時代において可能性は一つではなかった。
もちろん天武の「皇親政治」なんて概念は今日では否定的に見られるが
皇族が知太政官事であることが鈴鹿王の時代まで継続されたことは
逆に言えば(少なくとも長屋王事件までは)有力皇族や他の氏族に対して
藤原氏が太政官で優越はしていない、ということだろう。
更に藤原氏が文武・聖武二代にわたって閨閥を築いたものの
元明・元正太上天皇の政治的影響力から自由であったわけではない。
故に初期の藤原氏主導の他氏排斥のような動きは平安期のように
簡単には片付けられないのではないか?
他氏排斥という主目的で行動していけるほど、この時期の藤原氏は決して
強大ではなかったのではないのかなあ。後世から見れば同じに見えるけど。
546(1): 541だよん 2007/03/30(金) 10:15:09 AAS
>>543
>他氏排斥という主目的で行動していけるほど、この時期の藤原氏は決して
>強大ではなかったのではないのかなあ。後世から見れば同じに見えるけど。
ということは、石川氏を廃した事件というのは、不比等の陰謀という以外の
何らかの別事情によって引き起こった、と見ているということでしょうか?
547: 2007/03/30(金) 12:23:32 AAS
↑>>543⇒>>545に訂正です。
548: 2007/03/30(金) 13:27:07 AAS
>6
マジか?すごい名前だよな。
比べて等しいものはなしって
549(1): 2007/03/31(土) 22:35:26 AAS
>>546
石川氏・紀氏の妃を廃したのは結果的に他氏排斥ではあり
皇室との閨閥を固める意味はあったという意味で不比等の陰謀だが
後世の陰謀と比較して同列視するのは前提条件に欠けるんじゃないか?
というくらいの意味ですわ。曖昧な表現で申し訳ない。
不比等時代の藤原氏はまだ他氏や皇族を圧倒するほど強大な氏族ではない。
ただ不比等は太政官の最重要ポストにあったことで、そして後宮の最重要ポストに
あった橘美千代を妻としたことでこの時代に大きな権勢を誇った
(この時期の女帝に彼が寵愛されたか否かはまだ諸説あるらしいから留保)。
それ故に不比等は大政治家であろうが藤原氏の権勢はまだ不比等時代には流動的で
太政官(および後宮)における地位を喪失すれば簡単に没落する可能性もあった。
これが不比等の藤原氏に関する自分の考えの基本ですわ。
結果として光明立后(という麦刈り)により不比等は見事に「種を蒔く人」となったわけだけど。
550: 541だよん 2007/04/01(日) 11:51:01 AAS
>>549
繰り返しお尋ねしたりして、申し訳なかったです。
参考になりました。
551: 2007/04/13(金) 17:05:29 AAS
>>277
こうだな
長女:宮子(文武天皇夫人・聖武天皇母)
次女:長娥子(?)(長屋王妃・黄文王、安宿王らの母)
三女:光明子(別名安宿媛)(聖武天皇皇后・孝謙/称徳天皇母)
四女:多比能(別名吉日?)(橘諸兄妻・橘奈良麻呂母)
五女:妹紅(大伴古慈悲妻)
552(1): 2007/04/14(土) 00:26:09 AAS
>五女:妹紅(大伴古慈悲妻)
2ちゃんのお約束 ソースぷり〜ず
553: 2007/05/03(木) 23:34:05 AAS
俺的史上最強の2代目
不比等って名前がよい。実によい。
554: 2007/06/13(水) 17:19:52 AAS
不比等は当て字だからなあ。
この時代の人は、まだそれほど自分の名を書くことが頻繁になかったから、
史料によって、同じ名前に別の漢字を当てる例がよくある。
自分の名前はこう書く、ということが一定でなかったというか。
「フヒト」という名前に関して、不比等の字を当てたり、史の字を当てたり。
不比等の岳父(妻のひとりの父)、蘇我連子も、
「ムラジコ」という名に、連子の字を当てた例、武羅自子を当てた例などがある。
古い例では、日本書紀と古事記で当て字がまったく異なる例など、頻繁にある。
555(1): 2007/08/08(水) 18:43:11 AAS
この藤原家と藤原道長って同一氏族なの?
つまり道長は鎌足の子孫でいいの?
藤原家は、源平以後はどうなった?
556: 2007/08/08(水) 22:05:55 AAS
>>555
つ 2chスレ:history
557: 2007/08/09(木) 08:23:00 AAS
孫の仲麻呂が著した大織冠伝、武智麻呂伝は残ってるのに
何で不比等の分はないの
もともと書かれなかったの?
558: 2007/08/09(木) 12:28:17 AAS
不比等伝はあったようだが、後に散逸。
詳しくは外部リンク:ja.wikipedia.org
559: 2007/08/10(金) 08:54:37 AAS
もこたんすれはここですか
560: 2007/10/07(日) 15:07:47 AAS
不比等最強あげ
561: 2007/10/08(月) 20:18:40 AAS
>>552
東方厨乙
562: 2007/10/17(水) 08:58:49 AAS
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
563: 2008/01/13(日) 20:18:51 AAS
あげとくか
564(1): 2008/02/11(月) 18:37:46 AAS
参考までに
外部リンク:www.chunichi.co.jp
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