[過去ログ] 偉大な政治家藤原不比等 (766レス)
1-

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536: 2007/01/20(土) 16:36:41 AAS
ho-
537: 2007/01/30(火) 23:44:23 AAS
日本の歴史を歪曲した人
538: 2007/01/31(水) 10:43:24 AAS
律令体制の確立に果たした藤原不比等の役割って何?
539: 418 ◆4yFf8OMaXk 2007/03/03(土) 12:24:21 AAS
ふっと気がついたら、約3ヵ月経っていたから、来たよ。

あれっ?このスレ、やっぱり過疎だったねえ。

>>534
d
540: 2007/03/17(土) 12:40:18 AAS
oyoyo
541
(1): 2007/03/29(木) 16:53:54 AAS
文武天皇の継承者問題について、
文武には藤原宮子を母とする首皇子(=聖武天皇)以外に
石川氏出生の男子が存在したが、不比等の陰謀で臣籍降下させられて
首皇子継承が確定した、との説がある。

これってホントかなって少し思う。
この説自体が諸史料を引っ付き合わせて作られた説なので、
その点からも疑問視する余地は十分あると思うが、
不比等の動機面から考察しても、そんなことやる価値あったのかね?って思う。
石川氏って、あの当時かなり後退気味だし。

石川氏は古代の名族として、なお十分警戒する余地があったと
考える人もいるかもしれないが、もしそうだとしたら、
今度は、なんでそんな名族を母に持つ男子を、不比等ごときが
そんな簡単に臣籍降下させられるんだ?と感じるのだが。

以上の見解について、意見求ム
542
(1): 2007/03/29(木) 18:01:39 AAS
>>541
首皇子出産後、文武夫人宮子の生殖能力は期待できないから
不比等の動機としてはまだ充分じゃない?

あと石川氏は没落したと言えども古代有力豪族で蘇我氏の流れの名家。
皇族、蘇我系、息長系以外からの「卑母」から大王になったのは大友皇子くらい。
まだ廟堂を独占できる時代ではなく朝廷は古代氏族の代表で占められているから
もしも不比等が藤原氏の権勢を求めたならば紀氏、石川氏を妃から廃したのは
分からんでもない。まあ不比等がどこまで考えていたのかは知らんが。
石上(物部)が再興したように地方に基盤のある古代名族が何らかのきっかけで
再興する可能性は、まだ否定できる時代じゃないわな。

後段の件について言えば太政官をリードできたのが律令国家の意思決定としては
大きいのでは?過渡期ゆえに血を流さずできた業だと思う。石川氏は当時太政官には
基盤がなかったからねえ。

首皇子即位の過程は元明女帝の吉備内親王系長屋王子女を皇孫待遇している件からも
考察は必要かもね。奈良初期の太政官と皇族、天皇、太上天皇の地位を含めて
まだまだ流動的な時代だったから後世のような単なる陰謀論だけで済ませていいのか分からん。
543
(3): 541だよん 2007/03/29(木) 18:55:12 AAS
>>542 レス、サンクスです。

>首皇子即位の過程は元明女帝の吉備内親王系長屋王子女を
>皇孫待遇している件からも考察は必要かもね。
>奈良初期の太政官と皇族、天皇、太上天皇の地位を含めて
>まだまだ流動的な時代だったから
>後世のような単なる陰謀論だけで済ませていいのか分からん。

ごめん。この部分の文章の含意がいまいちよくわかんない。
もう少し詳しく説明してくれるとうれしい。
544: 2007/03/29(木) 20:27:00 AAS
櫂欧甲斐って誰??
545
(1): 2007/03/30(金) 03:56:09 AAS
>>543
律令初期の流動的な時代において可能性は一つではなかった。
もちろん天武の「皇親政治」なんて概念は今日では否定的に見られるが
皇族が知太政官事であることが鈴鹿王の時代まで継続されたことは
逆に言えば(少なくとも長屋王事件までは)有力皇族や他の氏族に対して
藤原氏が太政官で優越はしていない、ということだろう。
更に藤原氏が文武・聖武二代にわたって閨閥を築いたものの
元明・元正太上天皇の政治的影響力から自由であったわけではない。
故に初期の藤原氏主導の他氏排斥のような動きは平安期のように
簡単には片付けられないのではないか?

他氏排斥という主目的で行動していけるほど、この時期の藤原氏は決して
強大ではなかったのではないのかなあ。後世から見れば同じに見えるけど。
546
(1): 541だよん 2007/03/30(金) 10:15:09 AAS
>>543

>他氏排斥という主目的で行動していけるほど、この時期の藤原氏は決して
>強大ではなかったのではないのかなあ。後世から見れば同じに見えるけど。

ということは、石川氏を廃した事件というのは、不比等の陰謀という以外の
何らかの別事情によって引き起こった、と見ているということでしょうか?
547: 2007/03/30(金) 12:23:32 AAS
>>543>>545に訂正です。
548: 2007/03/30(金) 13:27:07 AAS
>6
マジか?すごい名前だよな。
比べて等しいものはなしって
549
(1): 2007/03/31(土) 22:35:26 AAS
>>546
石川氏・紀氏の妃を廃したのは結果的に他氏排斥ではあり
皇室との閨閥を固める意味はあったという意味で不比等の陰謀だが
後世の陰謀と比較して同列視するのは前提条件に欠けるんじゃないか?
というくらいの意味ですわ。曖昧な表現で申し訳ない。

不比等時代の藤原氏はまだ他氏や皇族を圧倒するほど強大な氏族ではない。
ただ不比等は太政官の最重要ポストにあったことで、そして後宮の最重要ポストに
あった橘美千代を妻としたことでこの時代に大きな権勢を誇った
(この時期の女帝に彼が寵愛されたか否かはまだ諸説あるらしいから留保)。
それ故に不比等は大政治家であろうが藤原氏の権勢はまだ不比等時代には流動的で
太政官(および後宮)における地位を喪失すれば簡単に没落する可能性もあった。
これが不比等の藤原氏に関する自分の考えの基本ですわ。
結果として光明立后(という麦刈り)により不比等は見事に「種を蒔く人」となったわけだけど。
550: 541だよん 2007/04/01(日) 11:51:01 AAS
>>549
繰り返しお尋ねしたりして、申し訳なかったです。
参考になりました。
551: 2007/04/13(金) 17:05:29 AAS
>>277
こうだな
長女:宮子(文武天皇夫人・聖武天皇母)
次女:長娥子(?)(長屋王妃・黄文王、安宿王らの母)
三女:光明子(別名安宿媛)(聖武天皇皇后・孝謙/称徳天皇母)
四女:多比能(別名吉日?)(橘諸兄妻・橘奈良麻呂母)
五女:妹紅(大伴古慈悲妻)
552
(1): 2007/04/14(土) 00:26:09 AAS
>五女:妹紅(大伴古慈悲妻)

2ちゃんのお約束 ソースぷり〜ず
553: 2007/05/03(木) 23:34:05 AAS
俺的史上最強の2代目
不比等って名前がよい。実によい。
554: 2007/06/13(水) 17:19:52 AAS
不比等は当て字だからなあ。
この時代の人は、まだそれほど自分の名を書くことが頻繁になかったから、
史料によって、同じ名前に別の漢字を当てる例がよくある。
自分の名前はこう書く、ということが一定でなかったというか。
「フヒト」という名前に関して、不比等の字を当てたり、史の字を当てたり。
不比等の岳父(妻のひとりの父)、蘇我連子も、
「ムラジコ」という名に、連子の字を当てた例、武羅自子を当てた例などがある。
古い例では、日本書紀と古事記で当て字がまったく異なる例など、頻繁にある。
555
(1): 2007/08/08(水) 18:43:11 AAS
この藤原家と藤原道長って同一氏族なの?
つまり道長は鎌足の子孫でいいの?
藤原家は、源平以後はどうなった?
556: 2007/08/08(水) 22:05:55 AAS
>>555
つ 2chスレ:history
557: 2007/08/09(木) 08:23:00 AAS
孫の仲麻呂が著した大織冠伝、武智麻呂伝は残ってるのに
何で不比等の分はないの
もともと書かれなかったの?
558: 2007/08/09(木) 12:28:17 AAS
不比等伝はあったようだが、後に散逸。
詳しくは外部リンク:ja.wikipedia.org
559: 2007/08/10(金) 08:54:37 AAS
もこたんすれはここですか
560: 2007/10/07(日) 15:07:47 AAS
不比等最強あげ
561: 2007/10/08(月) 20:18:40 AAS
>>552
東方厨乙
562: 2007/10/17(水) 08:58:49 AAS
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
563: 2008/01/13(日) 20:18:51 AAS
あげとくか
564
(1): 2008/02/11(月) 18:37:46 AAS
参考までに
外部リンク:www.chunichi.co.jp
565: 2008/02/11(月) 23:05:04 AAS
>>564
not foundになる
566: 2008/02/12(火) 00:17:13 AAS
失礼。not foundになるね。なぜなんだろう。
中日新聞の社説欄にあたってください。
聖徳太子。。という記事(2月10日付け)があります。
567: 2008/02/12(火) 18:56:43 AAS
見た

大山誠一って私的にはオワットル学者なんだが・・・
そのうち朝鮮総連とかの御用学者になるのも時間の問題か?
事実その系統のブログやサイトではありがたられているようだし
568: 2008/02/13(水) 03:04:37 AAS
大山はどうでもいいです。
不比等が「日本」を立ち上げたというのが重要です。
これに現在の日本人が呪縛されているのはスゴイ。
ま、そんなこといいか。
569: 2008/02/13(水) 10:29:45 AAS
「日本」を立ち上げたのは天武天皇という説もある罠

だから大山は梅原猛レベルの陰謀論にはまっていてアボガドバナナと(ry
それをマンセーするチウニチはもっとバカだがw
まあ、今時のデムパマスゴミは(-@∀@)も含めてこんなレベル。
国民を間違った方向に誘導する気まんまんだしなw

しかしそうでなくても古代史の学者は人材不足で先細りなのに
デムパに媚びるよう大山みたいなのが跋扈すること自体困ったことだ。
570
(2): 2008/02/13(水) 13:53:21 AAS
不比等が盟友の粟田真人を中国(当時は唐でなく周と号してた)に送って
これから「日本」でいきますてのが承認されたのが702年。
覇権国に「承認」されることは大事です。
現在の「台湾」はどこからも承認されてないですw
571: 2008/02/13(水) 14:18:47 AAS
なんで突然台湾の話になるのかワケワカメ
572
(1): 2008/02/13(水) 22:11:47 AAS
アタマわるそうなの多いねw
これでも読んでおくれ
外部リンク[xml]:www.telegraph.co.uk
573: [必死棚] 2008/02/13(水) 22:24:59 AAS
( ´,_ゝ`)                                          >>570=>>572
574: 2008/02/14(木) 03:15:14 AAS
これいいわ
外部リンク:uk.youtube.com
575: 2008/02/14(木) 13:33:15 AAS
>>570
「旧唐書」に「長安三年(703年)その大臣朝臣真人来たりて方物を貢す
真人好んで経史を読み文を属するを解し容止温雅なり
則天これを麟徳殿に宴し司膳卿を授け放ちて本国に還らしむ 」
とあるんだけどね。
司膳卿て地方長官みたいなもんだが、これで「日本」が承認されたと。
真人ほぼ2年滞在しての成果ではあった。
列島にも3世紀魏に承認された邪馬台国なるものがあるが
どう見ても「日本」とはカンケーねえw
576: 2008/02/14(木) 17:54:24 AAS
邪馬台国というより時代的には以前に漢の金印とかあるね
これを捏造とする説が江戸時代にあったりするんだが
いずれにせよ列島と大陸の交易は縄文時代からあったわけで
鉄という当時の最先端のコモデティを握れる勢力がのしたと
田畑の作付けや建築に鉄は必須だから、鉄を持たない縄文人は押されると
でまあ列島各地に鉄を握った勢力がのすと
しかし当時列島に鉄を産出する地域はほとんどない
半島の新羅は鉄を産出し列島の大王たちが買出ししたとな
のちに新羅が半島を統一できたのは鉄の力なんだろう
もっとも鉄は持ってても馬族に蹂躙されるんだがw
こんな理解でよろしいでしょうか?
577: 2008/02/17(日) 10:52:35 AAS
鉄は列島にないこともない。良質な鉄は赤城山にあった。
ただ鉄を探索できる技術をもった者が7世紀までいなかった。
こういう技術をもった者たちを不比等が糾合したのではなかろうか。
578: 2008/05/05(月) 21:00:36 AAS
藤原は糞
579: 2008/05/12(月) 01:12:07 AAS

580: 2008/05/12(月) 03:10:22 AAS
父上鎌足は日本の未来を占った占い師でした。
581: 2008/05/12(月) 03:53:37 AAS
こいつ実はヤリチンだよな。
582
(1): 2008/05/12(月) 09:37:06 AAS
こどもは4にん(藤原4家)。 子孫(女系)は近衛文麿(フーミン)
583: 2008/05/12(月) 10:03:35 AAS
>>582
不比等の子供は四男五女の9人だよ。
一夫多妻の時代に特に多いということもないが。
584: 2008/05/12(月) 16:54:12 AAS
絶世の美女、宮子は不比等の養女。
これが『海人と天皇』の主題だね。
585: 2008/05/12(月) 18:33:33 AAS
天皇の心をとろかすような美女を自分の娘にして入内させ、
天皇を思うがままに操ろうと美女を探し求める不比等・・・
宮子は海人の娘だったという伝承を基にしたんだっけ?
美女を自分の妻にして美少女を産ませたほうが早いだろうけどね。

宮子は聖武天皇を産んだとき、産のあまりの辛さに以後深い憂愁に陥り、
病床にあって二度と文武天皇と寝所を共にしなかった(長生きはしてるんだけどね)。
不比等の実娘だからこそ許された我が儘のような気もするしね。
病弱な聖武天皇一人ではなく、本当は不比等は宮子に皇子を何人でも産ませたかったのだろうし。
586: 2008/05/13(火) 00:12:30 AAS
竹取の物語はこのころのモチーフでしょ、知らない人多いみたいだけど。
587
(1): にんとく 2008/06/06(金) 00:01:25 AAS
万葉集事典の系図を見ていて気づいたことであるが・・・
藤原鎌足は、娘を二人(氷上娘、五百重娘)天武天皇に、
娘を大友皇子に、嫁がせて(または入内させて)いる。
ところが天智天皇には(同書の系図を見る限り)一人も嫁がせていない。
淡海公(不比等)を天智の御子とする「帝王編年記」の説は謬説である
(=英雄神話に類する創作である)とされているが(「玉勝間」)、
天智でなくその子に娘を配した背後に、何かの事情がありそうに思う。
588: 2008/06/08(日) 17:26:30 AAS
50代後半といえば、若手でやり手な政治家がガンガン頭角を現す年齢だが、現在の日本ではこの世代にはまともな政治家どころか、まともな人間さえ払底している。
日本のこの世代は、全世界の同世代に較べると、悲惨の一語に尽きる。
例えば、地位のある立場に就いてもチンピラ根性が抜けないので、勝てる相手にはとにかく喧嘩を売り、勝てない相手には徹底的に卑屈。
昔のスペインの大貴族が、自分の失政のせいで困窮した庶民には帽子をとって頭を下げたが、政争で処刑されることになったとき、自分の頭が帽子に包まれたまま切り落とされることを要求した、みたいな伝説がある。
せめてそれくらい根拠のある誇りを持て、団塊。
あー、この話の大貴族の誇りは、団塊には理解できんか。
基礎教養がないのは困るな。
589
(1): 2008/07/14(月) 21:56:27 AAS
>>587
藤原鎌足は蘇我氏を討つに当たり、失敗した際に家族に類が及ぶのを恐れ、
すでに生まれていた幼い長男を出家させて唐へ留学させ、以後子供を作らなかった。
不比等は大化の改新後に生まれた子供で、不比等は鎌足45歳のときの子供。
天武妃となった鎌足の2人の娘は不比等の異母妹でさらにこの後に生まれている。
鎌足が没したときに不比等はまだ11歳、2人の異母妹はさらに幼かった。
鎌足が何をどう頑張っても幼女にすぎない娘を天智天皇の後宮にあげられなかったのが分かるだろう。
なお、鎌足の2人の娘が天武天皇の後宮に入ったのは鎌足の死後で、
兄不比等の策略によるところが大きかっただろう。
590: 2008/07/15(火) 14:19:18 AAS
史料もよく読まずに書いたデムパ禁止
591: 2008/10/03(金) 21:36:44 AAS
藤原不比等でググると他のキーワードがカオス
592: 2008/10/03(金) 22:11:50 AAS
他のキーワード: 藤原不比等
藤原不比等 妹紅 藤原不比等 wiki 藤原不比等 五女 藤原不比等 竹取物語 藤原不比等 墓
藤原不比等 日本書紀 藤原不比等 家系図 藤原不比等 天智天皇

なんじゃぁこりゃ
593: 2008/10/03(金) 23:13:50 AAS
そんなら父君の藤原鎌足でもgoogってみて
594: 2008/10/04(土) 11:25:22 AAS
妹紅って誰かと思って調べてみたら
東方のキャラだったのか
595: 2008/10/20(月) 14:47:58 AAS
妹紅は不比等の末娘がモデル
596: 2008/10/20(月) 22:54:18 AAS
いい奈良ねんぴょう見けたよ
王城年代記・平城京1:外部リンク[htm]:www.geocities.jp
597: 2008/10/25(土) 23:40:53 AAS
私見では藤原不比等は古代律令国家の完成者と言っていい程の大政治家なのに
はたまた自分の家を天皇家に次ぐ権門に押し上げた人物なのに
これだけ無名なのはどうしたことか?
598: 2008/10/26(日) 16:10:48 AAS
つ 教科書での扱いが悪いから
599: 2008/10/28(火) 20:34:13 AAS
藤原は糞
600: 2008/10/29(水) 23:58:47 AAS
 藤原鎌足公は日本最強豪族蘇我本家を倒し、藤原不比等公は日本全土に共通する法律体系を初めて創った日本最大の功労者たちです。
601
(1): 2008/10/31(金) 23:51:37 AAS
>>589
不比等の策略って・・不比等はまだ14・5才ですよ〜 無理だってw
天武は鎌足に恩義を感じていたから引き受けただけ。
中臣氏(藤原氏)の女が天皇のミメになったのはこれが最初
602
(1): 2008/11/01(土) 20:52:10 AAS
>>601
>なお、鎌足の2人の娘が天武天皇の後宮に入ったのは鎌足の死後で、
>兄不比等の策略によるところが大きかっただろう。

どうよんだらそういう解釈になるんだ?
天武天皇と不比等の娘が結婚したのは鎌足の死後だろう?
鎌足が死んだ時には不比等の妹達はさらに幼かった。
お前は鎌足が死んだ時14〜15歳だった不比等が、
さらに幼い妹を入内させたと思っているのか?
603: 2008/11/01(土) 20:58:02 AAS
>>602
天武にしてみれば天智を支え、天智から厚遇を受け続けた鎌足は
どちらかといえばうざったい存在であっただろう。
天武は天智王権を滅ぼし、藤原氏を含めて豪族の力を抑えたし、
幼少の不比等は難を逃れたものの一族の長老中臣金は斬られている。

不比等の登用は天武皇后の意向だという説があるんじゃなかったか。
不比等の正室は蘇我氏で、持統天皇、元正天皇の母親と同族だった。
天武朝においては蘇我氏が逆賊だという意識も消えて
不比等の妻が姻戚の持統天皇や元正天皇と親交があったことから
夫の不比等も天武天皇の傍近くに召され妹を後宮にあげる機会もできた。
普通に考えれば、天智朝の終焉とともに日の目を見なくなった藤原氏が
ここまで出世できない。
604: 2008/11/01(土) 21:27:45 AAS
このスレの人は分かってる人が多いと思う

紀の鎌足像は肥大化の可能性は拭えない
紀、続紀の不比等像はかなり控えめ

但し不比等の事跡は明確に記述
605
(1): 2008/11/03(月) 16:22:27 AAS
中臣金は大友政権の中枢にいたので斬首を逃れられなかったんだよ
606: 2008/11/03(月) 17:18:02 AAS
>>605
中臣鎌足も天智政権の中枢にいた。
後を継いだであろう不比等も仮に元服をすませていれば斬首の可能性大。
607
(1): 2008/11/03(月) 17:42:04 AAS
三千代との出会いがなければここまではなかった。
女ながら、三千代は不比等に負けず劣らずだよ。
608
(1): 2008/11/03(月) 17:47:37 AAS
不敬があって天智天皇が大海人皇子を討とうとしたとき
鎌足が仲裁して事なきを得ているのに?
609: 2008/11/03(月) 17:58:52 AAS
>>608
不比等は日本書紀の編纂にも深くかかわっているから
鎌足の功績は少し割り引いたほうがいいだろう
610: 2008/11/03(月) 18:19:03 AAS
まあ、608の出来事は日本書紀には記載されていないがな。
611: 焼肉+ ◆JUU/.JUU/. 2008/11/03(月) 23:19:55 AAS
「みな、わが甥」
612
(1): 2008/11/04(火) 22:49:40 AAS
>>607
同意
不比等の台頭は持統、元明との結びつきを感じる(証拠はないが)
想像だが大津皇子の排除に大きな役割を果たしたのではないか?
後宮で三千代の果たした役割は表の不比等に匹敵する
史料、文献から明らかではないが流れをみればそう考える
613: 2008/11/06(木) 21:02:11 AAS
>>612
三千代は元明天皇から橘を浮かべた盃を賜り
それと同時に「橘」の姓を与えられたことが史料に出てくる
三千代が先夫との間に儲けた息子たちは
あえて父方を名乗らずのちに申し出て母方の「橘姓」を志願した
これを見ても三千代が元明女帝の相当なお気に入りだったことがわかる
不比等もそれを見て女傑三千代に近づいたんだと思われるが
614: 2008/11/07(金) 00:25:33 AAS
>想像だが大津皇子の排除に大きな役割を果たしたのではないか?
これについては後年不比等のブレーンのひとりと考えられる伊吉連博徳が
この事件に連座して小山下(天智朝の官位、天武14年の官位は持ってない?・大宝令の従七位ぐらいに相当)
として出てくる
斉明朝から名がでてるが天武朝では不遇だったとも推定できる
律令編纂者と登場した時は直広し(字がない・大宝令の従五位下)に昇進してる
前記事件の論功行賞(スパイ?)の結果だとしても不思議でない
615: 2008/11/09(日) 19:23:59 AAS
げんめー天皇は、不比等さまを左大臣にする予定(前大臣いそのかみ麻呂78才にて薨去の年)でしたが、次男ふささきを参議にする替わりにご辞退申し上げましたね。困られた女帝は、よく年
太政だいじんならいかがかと、詔勅を出されたものの、畏れ多くも重ね重ねご辞退なされましたね。
結局名誉肩書などに振り回されない立派な公家の祖になられました(増太政大臣)
616: 2008/11/14(金) 10:35:42 AAS
ふびと様ぁ
617: 2008/12/02(火) 04:34:43 AAS
藤原不比等…近衛家の先祖
618
(1): 2008/12/05(金) 20:07:55 AAS
 藤原不比等は藤原鎌足の子で、藤原鎌足は新羅に敗れて滅亡した百済の王子・豊璋)の子である
可能性が高いという説があります。日本の天皇を傀儡化して、日本を私物化した寄生虫のような
一族ですよ、藤原一族なんて。藤≠ニいう姓のとおり、寄生植物そいのもの
でしょうね。
619: 2008/12/05(金) 21:53:15 AAS
井沢かよw
620: 2008/12/05(金) 23:38:30 AAS
井沢の前に梅原氏も言ってましたよね、同じ事
逸話っぽいというかこじつけというか
621
(1): 2008/12/05(金) 23:58:01 AAS
>>618
不敬罪(63年前まで)

梨本宮さま王女は何故韓国李王家に嫁いだの
622
(1): 2008/12/06(土) 08:34:38 AAS
>>621
 日本史のタブーとは、天皇出自をあからさまに論じることではなく、その裏に
隠れて暗躍した藤原一族の正体を暴くことだったとは、ある歴史作家が持論として
よく述べていることです。
 確かに、戦前までは不敬罪に当たる行為でしょう。しかし、なぜ藤原鎌足(百済
王族)の墓らしきものが発見されても深く踏み込んで調査できなかったのか? それは、
天皇という権威に自分の血を入れて、血統的にはほとんど天皇=藤原になってしまった
からです。庇を貸して母屋を取られる≠ニは正にこのことでしょう。
623
(1): 2008/12/06(土) 11:10:44 AAS
こじつけ説に釣られるチョンwww
624
(1): 2008/12/06(土) 12:13:33 AAS
>>623
 こじつけ説≠ニおっしゃいますが、『日本書紀』も見方によっては一部捏造とも
受け止められます。実際、大化の改新は日本のためでなく、結局、藤原一族の私腹を
肥やすためのものとなったことは紛れもない事実ですから・・・・・・。
 百済の亡霊が日本の大王(天皇)に乗り移り、ライバルの新羅に統一された朝鮮半島に
対して癒しがたい反感を持ち続ける原型となったわけです。
625: 2008/12/06(土) 17:05:08 AAS
亡霊説も出てきたか
チョソというより真性デムパのようだな

病院行くことをオヌヌメ
626
(1): 2008/12/07(日) 23:08:03 AAS
では何故ふしはら一族はチョーセンを支配出来なかったか
627
(2): 2008/12/08(月) 11:04:19 AAS
>>626
 中臣鎌足(滅亡した百済の王子・豊璋)は、朝鮮半島で巻き返しを図ろうとして、
西暦645年に「乙巳の変」で蘇我本宗家を滅ぼした直後に、中大兄皇子(後の天智
天皇)を駆り立てて朝鮮半島に出兵させています。いわゆる「白村江の戦い」です。
しかし、結果はご存知のとおりです。
628
(2): 2008/12/08(月) 13:53:11 AAS
なるほど。ひゃくさいはやがて滅亡し、王族貴族らは大量に日本に亡命帰化し、天皇後宮に入った女子も少なからず。
しかしほうしょうのくだら王家内での相対的位置付けは?また王子の陵墓は韓国には無い?百済王家墓所は保存されているようだが。
629: 2008/12/08(月) 14:55:27 AAS
>>627-628
半島からの自演乙
630
(1): 2008/12/08(月) 15:05:25 AAS
>>628
 『日本書記』によると、百済の王子・豊璋はその後、高句麗に逃れて行方不明になったと
言われています。しかし、本当は日本に戻って来て、再び藤原鎌足の仮面を被ったわけです。
したがって、豊璋の陵墓は朝鮮半島にあるはずはありません。

 昭和9年(1934年)、大阪府の高槻市で発見された阿武山古墳が、藤原鎌足の墓である
可能性が高いと言われています。そこ古墳は百済様式で、かつ、大織冠の金糸も埋葬されて
いたということです。あの当時、大織冠をもらったのは、この藤原鎌足と百済の王子・豊璋だけ
だということなので、ますます二人は同一人物である可能性が高いということです。
631: 2008/12/08(月) 21:17:47 AAS
しばらく少なくてもに文献に基づく話だったが・・・
>>622>>624>>627>>630のように
有って欲しい(=こう有るべき)人達登場w
主張はいいが少しは、断言の前に根拠らしきものでもいいから書いたら?
>昭和9(1934年)、大阪府の高槻市で発見された阿武山古墳が、藤原鎌足の墓である
>可能性が高いと言われています。そこ古墳は百済様式で、かつ、大織冠の金糸も埋葬されて
>いたということです。あの当時、大織冠をもらったのは、この藤原鎌足と百済の王子・豊璋だけ
>だということなので、ますます二人は同一人物である可能性が高いということです。
誰が言ってるの?
現代史家の古代珍説には有るが
632
(1): 2008/12/09(火) 01:24:02 AAS
年齢が違う、あと鎌子公の奥方は純然たる日本人でしょ。 蘇我や他の皇族系貴族たちからもクレームが無い→鎌子公は日本人(天小屋根みことの男系子孫)。
633: 2008/12/09(火) 03:08:26 AAS
■韓国では日本の藤原氏は百済人

【噴水台】低姿勢
外部リンク[php]:japanese.joins.com§code=120

日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
学説が少なくない。 それなら、われわれの血筋にも奉仕の美学が残っているのは
明らかなのだが…。

>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
>日本の史学界では、百済(ぺクジェ)王族が渡っていって藤原家門を立てたという
634: 2008/12/09(火) 11:04:33 AAS
>>632
 『日本書紀』によると、西暦645年に「乙巳の変」で蘇我入鹿が殺されたとき、
その場面を目撃した古人大兄皇子が「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」と嘆いた
と言われています。ところが、その部分に「韓政に因りて誅せらるるを謂う」という
注釈が付記されています。
 これは、その当時、誰でも中臣鎌足が韓人(朝鮮半島から来た人)であることを
知っていたからに他なりません。いくら『日本書紀』が藤原不比等の指導の下に編集
されていても、一般に知れ渡っている事実を隠すわけには行かなかったのでしょう。
 それに、藤原氏独裁の世の中になったら、他の豪族が表立って藤原氏を批判すること
など出来なくなっていました。謀反の濡れ衣を着せられて抹殺されるからです。蘇我入鹿も
菅原道真もそのパターンですよね。『竹取物語』のような文学作品の中で藤原氏を暗に
批判しているというのは通説になっています。
635: 2008/12/10(水) 00:13:04 AAS
漢→韓 南蛮 西戎とは言えなかっただけ 韓半島びいきの人てこと
636
(1): 2008/12/12(金) 21:53:52 AAS
 関裕二さんの『日本を不幸にした藤原一族の謎』という本を読めば、文字どおり
「目から鱗がとれる」です。藤原かぶれの人も、ぜひ読んでいただきたい本です。
637
(1): 2008/12/13(土) 22:47:58 AAS
彼の説明は非学術的、歴史的根拠が網羅されていない、異端。ほとんど価値はないので歴史学会の方々は気にも留めないのでは? 要するにマクロ的視点がめちゃめちゃ的やねん
638: 2008/12/13(土) 23:24:04 AAS
>>636

> 「目から鱗がとれる」
639: 2008/12/14(日) 00:43:55 AAS
それを謂うなら「日本を不幸にした長編『源氏物語』を創った藤原北家の謎!!!」という本を描いてね!
640: 2008/12/14(日) 16:42:53 AAS
早くに主流からはずれた南家や京家や式家に罪はない!!!
641
(1): 2009/01/13(火) 01:19:38 AAS
藤原氏とチョンとでは顔がぜんぜん違う・・・

まあ、チョンのほうがイケメンだけどねw
642: 2009/02/01(日) 23:47:14 AAS

643
(1): 2009/02/02(月) 15:18:17 AAS
不比等の父親が本当に鎌足なのか?
って話もあったよな?

たしか天智の側室を鎌足が下腸されて、その子供が不比等だったはず。

不比等の父親天智説だったかな。
644
(1): 2009/02/02(月) 20:21:32 AAS
>>643
鏡王女という女性が天智天皇から藤原鎌足に下賜されたという話はある
このとき鏡王女は子を孕んでいて生まれた子が不比等だったと。

もっとも、史料では不比等の母は車持与志古。
また、卑母の大友皇子しか男子が育たず、苦境に立たされていた天智天皇が
なにがしかの王族の娘だったと思われる鏡王女に自分の男子を孕ませておいて
手放すということは尋常でないため、この可能性は低いと思われる。
645: 2009/02/02(月) 22:47:37 AAS
>>644
 『竹取物語』に出て来る5人の貴公子のひとり「くらもちの皇子」は、この「車持与志古」から
来ていたんですね。納得しました。
646: 2009/02/03(火) 18:05:20 AAS
平清盛も似たような話があるよね
647
(1): 2009/02/12(木) 11:53:41 AAS
>>637
 歴史学会の高名な学者さんは、『日本書紀』のような正史を忠実に解釈することに
拘っていると思います。関裕二さんが述べているように、一国の正史とはどこの国の
場合でも、勝者側のいわばサクセスストーリーなのです。敗者側の言い分は、と言う
より真実は、古い神社の伝承や『先代旧事本紀』のような敗れ去った者が著した古文書に
隠されているという視点は、非常に新鮮で血の通った歴史観だと思われます。
648: 2009/02/12(木) 12:47:16 AAS
変なもうけ話に引っかからないように気をつけてね >>647
649: 2009/04/19(日) 05:35:15 AAS
保守
650
(1): 2009/04/20(月) 18:45:13 AAS
関某のデンパ説なんてものは、ひところはやった万葉集を朝鮮語で読み解く
というのと同じ。
三韓起源説、由来説なんてのは資料がないのをいいことに、
妄想オンパレード。中学生でも発想できる。
それにもっともらしいこじつけを加えて料理すれば、
鎌足=誰それなんて簡単にできる。
651
(1): 2009/04/22(水) 22:56:48 AAS
>>650
 関裕二さんの歴史観で優れている点のひとつは、例えば持統天皇のことのように、歴史上の人物の行動を
愛の問題という観点からとらえていることです。もうひとつは、例えば正史『日本書紀』の記述のように、
一国の正史というものは、それが編纂された時点での為政者(勝者)側に都合の良い内容に作られたもので
あるという視点です。
652: 2009/04/22(水) 23:06:01 AAS
>>641
>藤原氏とチョンとでは顔がぜんぜん違う・・・

 どこの国の場合でも、支配階級(大陸では征服民族である場合が多い)と一般住民
(大陸では被征服民族である場合が多い)とは違うものです。朝鮮半島の王族は、古代
ユダヤ人の系統を引いていると言う説もありますね。
653
(1): 2009/05/02(土) 23:38:04 AAS
 結局、藤原不比等を含めて藤原鎌足から続く藤原氏は、天皇を傀儡として祭り上げ、
自分の血を天皇家に注ぎ込んで血統的には天皇を藤原氏そのものとし、その姓に含まれる
“藤”のとおり、寄生植物のようにヤマト(日本)を乗っ取った百済王族なのでは?
654: [age] 2009/05/04(月) 02:09:45 AAS
ここですか チョンの我田引水レスが溢れ返っているというのは
655: 2009/05/04(月) 02:19:56 AAS
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
656: 2009/05/04(月) 11:29:56 AAS
>>651
 蘇我氏や物部氏のように藤原氏の手で歴史的な真実を抹殺された豪族たちは、
関裕二さんに真実の歴史を語らせているのかもしれません。よくありますよね、
「先祖が私に書かせているようだった」とか感想を述べる人たちが。
657: 2009/05/12(火) 02:56:38 AAS
藤原一派、持統の伊勢襲撃により、
伊勢神宮内宮の正統なる元の祭神は亡き者にされ、
摩り替えられ
神官の渡会氏は内宮から追い出され
藤原の息のかかった者に変えられて現在に至っている。
元の祭神こそが、日本の正統なる皇統なのは
紛れもない事実。
658: 2009/05/12(火) 17:34:14 AAS
>>653
百済王族というのは、中国北方から南下してきた者どもで、
民族系統は、(北)扶余でないかな
それが日本列島に侵入したわけ。
こういう事実を一番知られたくないのは
皇室や取り巻き(天皇外戚の藤原氏やその関連で
支配層におさまってきた連中)だろうね
659
(1): 2009/05/17(日) 23:14:51 AAS
きちんと歴史を知っていれば、帰化人の力などは微弱なものだったのがよくわかる。
妄想をロマンだと考えたいデンパ系の人間がいて、
妄想説を楽しみたいのだろうが、
「万葉集」を朝鮮語では読み解けないのと同じように、
藤原家wp何とか系にしたところで、
妄想が膨らむだけ。
古代史に限って言うと、資料が少ないのをいいことに、
いまだにそんなご都合主義デンパ系の本が後を絶たない。
勉強不足ということだ。
勉強のかわりにタラレバの妄想にふけるのは怠け者のすること。
660: 2009/05/18(月) 11:04:48 AAS
>>659
>古代史に限って言うと、資料が少ないのをいいことに、

 言論の自由がない時代は、当時の為政者(藤原氏)に都合の悪いことを書いた文書は
処分されました。実際、『続日本紀』には、異端の書物を持って者はいついつまでに差し
出せば命は保障するとか役人が触れ回ったという記事があるそうです。あの時代に焚書が
あったという証拠です。
 したがって、『竹取物語』の登場人物にかこつけて暗に藤原不比等を批判したり、『先代
旧事本紀』のように偽書を装って真実を書いたりとかする他になかったのでしょう。
661
(1): 2009/05/18(月) 22:10:12 AAS
半島出身なのに、それをひたすら隠さなきゃならなかったということは、
それが相当不名誉なことであり、半島自体が見下され嫌われていたという証左に他なりませんな。
662: 2009/05/19(火) 09:06:06 AAS
>>661
 あなたがおっしゃっていることは、時間的な前後関係(因果関係)が逆なのでは?

 あの時代、朝鮮半島はヤマト(日本)に比べて先進地帯であり、藤原不比等の父・中臣鎌足が
朝鮮半島出身(百済王子・豊璋)であること自体は何ら不名誉なことではあなかったはずです。

 むしろ、百済がライバルの新羅・唐連合軍に滅ぼされ、新羅が朝鮮半島を統一したので、藤原氏が
実質的に支配した日本は、新羅が君臨する朝鮮半島に対して癒しがたい反感を持つようになったという
ところでしょう。それが今日まで亡霊のように付きまとっている朝鮮半島蔑視につながったのです。
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