[過去ログ]
【2021】東京五輪代表【U-24】part82 (897レス)
上
下
前
次
1-
新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
669
:
あ
(アメ MM50-3zmU)
2021/04/25(日) 22:23:15
ID:Rnv+052tM(9/10)
調
AA×
>>99
[240|
320
|
480
|
600
|
100%
|
JPG
|
べ
|
レス栞
|
レス消
]
669: あ (アメ MM50-3zmU) [sage] 2021/04/25(日) 22:23:15 ID:Rnv+052tM >>99 【川島家の黒歴史? 昭和二十年の鉱山職員名簿が発掘されていた】 ▽西伊豆町宇久須(宇久須鉱業、ミョウバン石採掘、200人のうち14人死亡、遺骨は生存者が持ち帰る) (杉本嘉助はここで「勤労課長」だったが、結婚時には一切公表されていなかった) ▽浜松市(旧龍山村の日本鉱業峰の沢鉱山、銅の採掘、200人のうち81人死亡、遺骨は53年送還) ▽富士市(熊谷組、富士川河川敷の陸軍用飛行場建設、500人のうち52人死亡、遺骨は仁科鉱山の殉難者と一緒に送還) ▽静岡市(清水港の荷役作業、200人のうち36人死亡、遺骨は生存者が持ち帰る) ▽県内総計1300人中の287人が死亡 1954(昭和29)年にまとめられた県中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の資料によれば、 仁科鉱山で亡くなった中国人は全員が河北省の出身で、年齢は18〜51歳。 死亡原因は栄養不良や大腸炎、強度の神経衰弱、心臓性水腫、脚部凍傷などと記されている。 1日に3人亡くなることも珍しくなかった。 東京華僑総会から○○さんが資料提供を受けた仁科鉱山連行者名簿には200人全員の名前、 年齢、出身地、生死などが明記されている。 20〜30代の若者が多く、労働力となり得る若い人を選んで連れて来たとみられる。 最も若い人は17歳だった。< 20171104伊豆新聞より一部引用 (つづく) 【川島家の黒歴史? ついに辿り着いた杉本嘉助の「戦時中」】 宇須久明礬鉱山社員名簿 「杉本嘉助」に注目 >「山本階関係資料」のなかに四枚の「附表」がある。 中国人の送還帰国に関する「事業場報告」の附表とみられる。 「附表」一は「事業場概要」、二は「関係者名簿」、三は「配置人員表」、 四は「個人別就労経過調査表」である。 社長 佐藤謙三 一九四五・一・三〇〜 五・一〇) 鉱山長 近藤次彦 一九四五・五・一〇〜 一一・三〇 採鉱課長 細谷政司 一九四五・一・三〇〜 三・三〇 勤労部長 實藤正城 一九四五・一・三〇〜〔二・一五〕 勤労次長 小西駒之助一九四五・一・三〇〜 二・一五 勤労課長 杉本嘉助 一九四五・五・一 〜 一一・三〇 → ここに嘉助の名前があった! 給与長 川上 良 一九四五・一・二〇〜 一一・三〇 勤労課員 荒澤信三郎一九四五・一・二〇〜 一一・三〇 < 【川島家の黒歴史? 宇須久明礬鉱山で起きていたこと】 >雑役の仕事は朝鮮人がおこなった。船が船着場に到着すると船からトロッコ用の線路や軍需省からの材木を降ろし運んだ。 請負制の方が仕事ははかどり請け負いのことを「コマリ」と呼んだ。 通常はトロッコの線路を二人で荷いだが、請け負いにするとかれらは三本をゆわえて一人で荷ぎ、 一時頃には仕事を終え飯場へ帰って休んでいた。 朝鮮人二〇〇人のうち一八〇人ほどが仕事に出てきた。 「稼ぎに日本へ来た」というが、さらってきたようなものであり、四〇歳位から一七〜八歳の青年がいた。 朝鮮人の飯場の構造はドアが人口にあり、中央にストーブ、電球は二本、隊長がドア近くに居住した。 中国人は採掘、道路建設に従事した。道路はトロッコ用と、山の事務所から下へ降りるための道路の二種類を建設した。 死亡した中国人の遺体は土葬にした。敗戦後、一体を班長の日本人が掘りおこし火葬した。 残りを中国人が掘りおこし火葬し本国へ送った。 宿舎から五〇メートルほどの所で火葬した。山田憲一さんの証言をまとめれば以上のようになる(賀茂村にて、一九九〇年談)。 大量に死者が出て、逃亡者を山狩りまでするような体制が強制でなくて何なのか? 今朝の新聞にも、借金払えない男を車で福島に連れてゆき、除染作業に従事させていた事案で 大量の逮捕者がでている事件があったけど、あれと本質は同じ 小室の親について、皇室と親戚関係になるに相応しくないと公然と言いまくっている現在 杉本嘉助問題と、どこがどう違うのか、しっかりとした説明を聞きたいところ さんざん人権を売りものにしてきた川島教授なはずが、小室の親の人権は無きに等しい攻撃ぶりで 一方自分の娘が皇室入りするときは、一切の身元調査を差別助長だと拒否しておきながら 孫の降嫁ではつべこべいうどころか、破談まで画策するのではダブスタの極みですわ ふゅうーん あああああああ おおおおおおおおおおおおお http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/eleven/1617187673/669
川島家の黒歴史 昭和二十年の鉱山職員名簿が発掘されていた 西伊豆町宇久須宇久須鉱業ミョウバン石採掘200人のうち14人死亡遺骨は生存者が持ち帰る 杉本嘉助はここで勤労課長だったが結婚時には一切公表されていなかった 浜松市旧龍山村の日本鉱業峰の沢鉱山銅の採掘200人のうち81人死亡遺骨は53年送還 富士市熊谷組富士川河川敷の陸軍用飛行場建設500人のうち52人死亡遺骨は仁科鉱山の殉難者と一緒に送還 静岡市清水港の荷役作業200人のうち36人死亡遺骨は生存者が持ち帰る 県内総計1300人中の287人が死亡 1954昭和29年にまとめられた県中国人虜殉難者慰霊実行委員会の資料によれば 仁科鉱山で亡くなった中国人は全員が河北省の出身で年齢は1851歳 死亡原因は栄養不良や大腸炎強度の神経衰弱心臓性水腫脚部凍傷などと記されている 1日に3人亡くなることも珍しくなかった 東京華僑総会からさんが資料提供を受けた仁科鉱山連行者名簿には200人全員の名前 年齢出身地生死などが明記されている 2030代の若者が多く労働力となり得る若い人を選んで連れて来たとみられる 最も若い人は17歳だった 伊豆新聞より一部引用 つづく 川島家の黒歴史 ついに辿り着いた杉本嘉助の戦時中 宇須久明鉱山社員名簿 杉本嘉助に注目 山本階関係資料のなかに四枚の附表がある 中国人の送還帰国に関する事業場報告の附表とみられる 附表一は事業場概要二は関係者名簿三は配置人員表 四は個人別就労経過調査表である 社長 佐藤謙三 一九四五一三 五一 鉱山長 近藤次彦 一九四五五一 一一三 採鉱課長 細谷政司 一九四五一三 三三 勤労部長 藤正城 一九四五一三二一五 勤労次長 小西駒之助一九四五一三 二一五 勤労課長 杉本嘉助 一九四五五一 一一三 ここに嘉助の名前があった! 給与長 川上 良 一九四五一二 一一三 勤労課員 荒信三郎一九四五一二 一一三 川島家の黒歴史 宇須久明鉱山で起きていたこと 雑役の仕事は朝鮮人がおこなった船が船着場に到着すると船からトロッコ用の線路や軍需省からの材木を降ろし運んだ 請負制の方が仕事ははかどり請け負いのことをコマリと呼んだ 通常はトロッコの線路を二人で荷いだが請け負いにするとかれらは三本をゆわえて一人で荷ぎ 一時頃には仕事を終え飯場へ帰って休んでいた 朝鮮人二人のうち一八人ほどが仕事に出てきた 稼ぎに日本へ来たというがさらってきたようなものであり四歳位から一七八歳の青年がいた 朝鮮人の飯場の構造はドアが人口にあり中央にストーブ電球は二本隊長がドア近くに居住した 中国人は採掘道路建設に従事した道路はトロッコ用と山の事務所から下へ降りるための道路の二種類を建設した 死亡した中国人の遺体は土葬にした敗戦後一体を班長の日本人が掘りおこし火葬した 残りを中国人が掘りおこし火葬し本国へ送った 宿舎から五メートルほどの所で火葬した山田憲一さんの証言をまとめれば以上のようになる賀茂村にて一九九年談 大量に死者が出て逃亡者を山狩りまでするような体制が強制でなくて何なのか? 今朝の新聞にも借金払えない男を車で福島に連れてゆき除染作業に従事させていた事案で 大量の逮捕者がでている事件があったけどあれと本質は同じ 小室の親について皇室と親戚関係になるに相応しくないと公然と言いまくっている現在 杉本嘉助問題とどこがどう違うのかしっかりとした説明を聞きたいところ さんざん人権を売りものにしてきた川島教授なはずが小室の親の人権は無きに等しい攻撃ぶりで 一方自分の娘が皇室入りするときは一切の身元調査を差別助長だと拒否しておきながら 孫の降嫁ではつべこべいうどころか破談まで画策するのではダブスタの極みですわ ふゅうーん あああああああ おおおおおおおおおおおおお
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 228 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
ぬこの手
ぬこTOP
0.129s